近 況 心 境

岡  正 章
600 これぞ最もラディカルと言うべき
    「生長の家経済連盟」の提唱(2)


 今日(2021年5月30日)昼すぎに、NHK総合 「うたコン」 で、アーカイブス(1970年)から美空ひばり・天童よしみ共演の 「人生一路」 が放映されるのを見た。

「人生一路」  美空ひばり・天童よしみ >

 一度決めたら 二度とは変えぬ
 これが自分の 生きる道
 泣くな 迷うな 苦しみ抜いて
 人は 望みをはたすのさ

 雪の深さに 埋もれて耐えて
 麦は芽を出す 春を待つ
 生きる試練に 身をさらすとも
 意地をつらぬく 人になれ

 胸に根性の 炎を抱いて
 決めたこの道 まっしぐら
 明日にかけよう 人生一路
 花は苦労の風に咲け

   (詞:石本美由紀 曲:かとう哲也)

https://www.facebook.com/watch/?v=316288453205117

 ――僕はこれを見て、自分もこれだな、と思った。今の僕のために放映されていると思った。

 自分の生きる道は、生命の実相の道。

 そして、谷口雅春先生の道だ。

 僕は東大に入ったが、東大よりも 「生命の実相」 の道を魂が求めてやまなかった。だから学生時代は苦難の道だった。

 現象界の生長の家教団にも身を投じたが、僕の魂は現象界での栄達や安楽の道ではなく、ただひたすら生命の実相の道・谷口雅春先生の道を追求してやまない、ある意味苦しい道であった。現象界の生長の家教団が必ずしも生命の実相の道・谷口雅春先生の道に沿っていると思えないとき、泣きたくなるような苦しい道をあえて選ばざるを得なかった。いや、それは過去形だけでなく、今も進行中か。

 谷口雅春先生の歩まれた道は、歓喜の道であったが、半面苦難の道でもあった。強烈な光と影の交錯する道であったと言えよう。


          ○


 「経済」 という用語は、 本来中国の古典に登場する語で、「経世済民」
(けいせいさいみん)或いは 「経国済民」 すなわち 「世(国)を経(おさ)め、民を済(すく)う」 の意であった。それが幕末期になり、交流が始まったイギリスなどから古典派経済学の文献が輸入されるようになると、「経済」 の語は新たに “economy” の訳語として用いられるようになったのである。

 “economy” の訳語としての 「経済」 は、

 「人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれを通じて形成される人と人との社会関係の総体」 (広辞苑)

 ということになる。“economy” はまた、「節約」 の意で用いられることもある。“economy of labor” は 「労働の節約」 というように。


 しかし、僕が学生時代に感銘深く読んだ本の一つに、服部辨之助著 『二宮尊徳の哲学』 というのがある。それによると、

≪ 「世人皆、聖人は無欲と思へども然らず、其実は大欲にして、其大は正大なり、賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ。凡夫の如きは、小欲の尤も小なる物なり。夫れ学問は此の小欲を正大に導くの術を云ふ。大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身に大福を集めん事を欲するなり。

 其れ方(まさ)に、国を開き物を開き、国家を経綸(けいりん)し、衆庶を救済するにあり。故に聖人の道を推し窮むる時は、国家を経綸して社会の幸福を増進するにあり。」

 とは 『二宮翁夜話』 の一名言である。≫


 と。これぞ、「経済」 (経国済民) の成就せる理想のあり方であろう。それは、「節約」(しまつ、出し惜しみ) するところにはない。

 昭和7年、未曽有の世界大恐慌の時に谷口雅春先生が提唱された 「生長の家経済連盟」 の構想は、まさに 「経国済民」 により暴力革命なくして失業者を救済し、労働者も資本家もすべてを生かしつつ延いては全世界を恐慌から救おうというラディカルな提唱であった。


  <つづく>


  (2021.5.30)

599 これぞ最もラディカルと言うべき
    「生長の家経済連盟」の提唱(1)


 谷口雅春先生が 「今、起て!」 との神啓を受けられ直ちに 『生長の家』 創刊号発刊の準備を整えられた昭和4年は、10月24日のニューヨーク・ウォール街の株式市場で株価が大暴落したのを皮切りに世界大恐慌が起こり、暗雲立ちこめて、日本でも多くの会社が倒産し失業者が巷に溢れる時代であった。

 だが、『生長の家』 創刊号には、驚くべき自信と明るい夢と希望のことばが満ち溢れている。

 まず、表紙の裏(表2頁)には

≪ 『生長の家』 は読み捨てにするやうな雑誌ではありません。どんなに此が好い雑誌であるかは読んで御覧になれば判ります。読みガラを捨てないで常に座右に置いて下さい。そして心に暗い影がさして来たら本誌のどの一頁でも宜しいから、開いてお読み下さい。あなたの心がそれはそれは軽くなります。暗い人生観が明るい人生観にかはります。これを病人に贈れば実に好い慰めともなり見舞ひともなります。

 私の書いたものは唯読むだけでも元気が出て病気が軽減することが度々あるさうです。愛息や愛弟妹に読ませて頂けば、在来の消極的教育とはちがつた溌溂たる積極的精神が培はれます。『生長の家』 は一つの家庭に是非一冊はなくてならない雑誌です。日本国中の家庭が此の雑誌をとつて呉れれば日本国中の家庭が栄えます。争ひの絶えなかつた家庭が平和の家となり、何事も不如意であつた家が 『生長の家』 となります。

 私は日本国中の家庭を楽しい 『生長の家』 とするために全精力と全資金とを此の事業に献げます。日本を愛する人々よ、知人に此の雑誌を紹介して下さい。屹度その知人がお喜びになります。此の人なら読んで呉れそうなと思はれる知人があったら其の人の住所氏名を発行所まで御知らせ下さい。幾部でも見本誌をお送りします。≫


 とある。

 まだ海の物とも山の物とも判らぬ小さな雑誌の創刊号に、こんな、常識からみれば誇大妄想とも思われるような自信に満ちた創刊の辞を掲げている。このような雑誌は恐らく空前絶後であろう。

 49頁下段からは、「生長の家の歌」 として 「夢を描け」 の詩が載っている。

 57頁下段からは下記のような詩もある。

≪ 生長のお家は
   日當りが好い、
   お庭がひろくて藤の棚があります。

   生長のお家に
   ブランコが出來ました
   多勢の子供が來て
   さわいでよろこびます。

   大人も子供も
   生長のお家に來る人たちは
   みんな一しよに
   伸び伸びと生長します。

   生長のお家で
   私たちは生長の火をとぼします
   人類の魂を燃やす火です。

   私は自分の火が
   大きいか小さいか知リません。
   だけど小さな火でも
   大きな蝋燭
(ろうそく)に火を點(つ)けることが出來ます。

   私の生長の火よりも
   大きな蝋燭も集つて下さい
   何百何千の大廈高楼
(たいかこうろう)
   小さな燐寸
(マツチ)の火でやけるかも知れません。
   私はそれを期待してゐるのです。

   火がつかなければ
   何度でも燐寸を擦ります。
   燐寸がなくなるまで私は
   人間の魂に火をつけて見たいと思つてゐるのです。≫


 ――昭和初期、先の見えないトンネンルに入ったような人類の危機的状況の下で、このような常識はずれ、いや超常識の底抜けの明るさ、力強さは、一体どこから出て来たのであろうか。

 ――神から出て来たのである。「久遠の今」 から出て来たのである。

≪○ほかにない。底にある。底をぶち抜け。底! 底! 徹底とはこのことだった。

  ○気狂いの教えだ、死の教えだ、否々、死を超えた生の教えだ。死の底をブチ抜いた 「生」 だ。≫

   (『生命の實相』 第22巻 「智慧の言葉」 p.109 より)

 現象は過去の業の結果として如何に乱れて見えようとも、それはただ影であって、悪夢の如きもの。夢から覚めたら、それは 「無い」 のだ。神の創造し給いし実在の世界は、旧約聖書「創世記」第1章に 「神その造りたまいしすべてのものを視たまいけるに甚だ善かりき」 とある、完全な絶対善の世界。法華経の如来寿量品自我偈に 「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」 とある世界である。谷口雅春先生は、その 「久遠の今」 なる神の国、仏の浄土を全身全霊で覚り、証されたのである (『生命の實相』 第20巻自伝篇下 134~136頁参照)。

  ⇒ 「久遠の今」

 『生長の家』 誌創刊号には、「『生長の家』 出現の精神とその事業」 と題する、いわゆる 「発進宣言」 なるものが掲げられている。

≪ 自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。人類は今危機に頻してゐる。生活苦が色々の形で押し寄せて人類は將に波にさらはれて覆没しやうとしてゐる小舟の如き感はないか。…(中略)…

 自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照さすにはおかないだらう。此の火は天上から天降つた生長の火である。火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を點ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覺悟して起ち上つた。見よ! 自分の身體が燃え盡すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。

 自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。自分は此の火によつて人類が如何にせば幸福になり得るかを示さうとするのだ。如何にせば境遇の桎梏から脱け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば一切の病氣を征服し得るか、また、如何にせば貧困の眞因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか……等々。

 今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のやうに苦しみ踠がきあせつてゐる。あらゆる苦難を癒やす救ひと藥を求めてゐる。しかし彼らは悩みに眼がくらんでゐはしないか。方向を過つてゐはしないか。探しても見出されない方向に救ひを求めてゐはしないか。自分は今彼らの行手を照す火を有つて立つ。≫


 ――その結果、救いの火が全国に燃え広がって行った実証記録は、『生長の家五十年史』・『生命の實相』 頭注版第5巻などに、詳しく記されている。

 それらは個人の病気治癒、性格の改善、家庭調和等の奇蹟的な救いのひろがりが主であった。

 しかし、「生長の家」 が出現したのは、ただそのような個人レベルでの救いのためだけではなかった。

 当時昭和4年(1929)10月、アメリカで起った恐慌は、またたく間に全世界に拡大して行った。しかもこの恐慌は今までの例と違って景気下落の期間がきわめて長かった。アメリカで不況が底をついたのは1933-34年(昭和8~9年)のこと。従来の恐慌は長くても一、二年で景気が回復していたのに、今度のは異常な不況で、1920年代を通じて世界経済は底知れぬ不況の底にあった。

 マルクスがエンゲルスと共に唯物史観の 『共産党宣言』 を発刊したのは1848年。『資本論』 は第一部が1867年、第二部が1885、第三部が1894年である。

 昭和初期の世界恐慌は、資本主義経済の不安定性の増大に関するマルクスの予言と一致するように見えたから、共産主義者にとって、共産主義革命への希望が実現するかのように思われた。たしかにこの恐慌は、共産主義者にそのように観測させるだけの深刻さをもっていた。その時に 『生長の家』 創刊号が昭和5年(1930)3月1日付で発刊され、「人類光明化運動発進の宣言」 が発せられたのである。

 谷口先生は 「生長の家の経済観」 という論文を 『生長の家』 第四号
(昭和5年6月1日発行)に発表されている。
  (以下、『生長の家五十年史』より孫引き。原文は旧漢字・旧かな使用。ここでは新漢字・新かなにして引用)

《 マルクスは唯物史観を説きますが、「生長の家」 は唯心史観であります。近代の経済組織は節約しなければ万一の為に困ることが起ると云う人間の恐怖心が原動力となって築かれたと観るのであります。この恐怖心がもとになって富が一部に蓄積され、有無相通ずる流通が完全に行われないために貧富の懸隔が益々はげしくなり、資本家が無資産家を脅かすようになったのであります。

 だから不完全な経済組織を改造するには、何も制度そのものに斧鉞
(ふえつ)を加えるには及ばない、人間の心から此の恐怖心をとり去り、財を吾々は蓄積しないでも、吾々の生活になくてならぬものは必ず神が与え給う――換言すれば無尽蔵の大生命から与えられる――と云う大信念を人間に与えるようにすれば好いので、こうすれば財が或る一ヶ所に片寄って有ると云う奇形な状態はなくなって、全体の人間に平等に富が循環するようになると云うのであります。》

 そうして昭和7年、『生長の家』 第三輯第十号
(昭和7年10月1日発行)では、「生長の家経済連盟の提唱」 というのを発表される。そしてその檄文をさらにパンフレットにして誌友信徒を通じ或いは直接政府・実業家等に配布されるのである。

 僕は幸いにしてその論文の収録された 『生命の實相』 革表紙版「空」の巻のコピーを持っていた。同書 「第六章 唯心思想の経済的展開」 というのである。

 僕はこれを熟読し、この論文はまさに 「最もラディカル」 と言うにふさわしい論文であると思った。

 というのは、『人新世の「資本論」』 を書いた斎藤幸平氏が、同書の中で、

 「真にラディカルな対案」

 「ラディカルな潤沢さ」

 というように 「ラディカル」 という語を多用している。「ラディカル」 というのは 「急進的」 「過激な」 という意味で使われることが多いが、講談社の英和辞典を引いてみると、まず (1) は

「根本的な、基本的な; 徹底的な」

 という意味である。電子辞書の広辞苑で 「ラジカル-エコノミクス」 を引くと、

「1960年代半ばに登場した経済学の一潮流。公害、差別、分配の不公正など、現代資本主義の諸矛盾を批判的に研究した」 とある。

 英和の方で、近くに 「光り輝く」 という意味の “radiant” という語もある。語源的に何か共通するところがあるのだろうか――と思う。



 それはともかく、谷口雅春先生の 「生長の家経済連盟の提唱」 は、生命の本源に立ち還る哲学に根ざした、「根本的な、基本的な」 という意味で、最もラディカルな、そして 「過激」 と思えるほどの強い言葉で書かれた檄文であると感じた。

 そのことを次回から丁寧に詳述しよう。

  <つづく>


  (2021.5.28)

598 今こそ、『生命の實相』 !


 #594 で投げかけた 「今こそマルクス主義」 か?! というテーマについて、ずっと考えながら勉強してきた。

 『生命の實相』 第1巻、「七つの光明宣言」 には

「 ▽吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。

 ▽吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

 ▽吾等は人類が無限生長の真道
(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。」

 とあり、この第2項の解説に

≪ われわれがひたすらそれに従って生きてゆこうとする生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります。

 われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は 「生長」 することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。≫


 とある。これは生命・人生についての根本真理であると思う。

 生命であるわれわれは、生長しつつある時、生き甲斐と幸福を感じるのである。停滞または退歩している時、生き甲斐と幸福を感じることはできないのである。


 さて、僕は昭和30年(1955)初版発行の谷口雅春先生著 『解放への二つの道』 という本をぜひとも読み返したくなった。それは僕がまだ東大の学生で、周囲はマルクス主義に染まった、或いはシンパ的な教授や学生達に取り巻かれ、激しい学生運動もピークに向かっていた時代に出された本だ。それは、その後の僕を生長の家の学生運動、青年会運動に全心全霊をもって飛び込ませるよう方向付けた、強烈な影響力をもった本である。

 『解放への二つの道』 というのは、マルクス主義暴力革命への道か、すべてを生かす生長の家の道か、どちらを選ぶかという意味である。

 最近、斎藤幸平氏の 『人新世の「資本論」』 を読んで、「今こそマルクス」 か、「今こそ 『生命の實相』」 か、ということを考えた時に、どうしても読み返さなくてはならない本として、『解放への二つの道』 が思い浮かんだのだが、僕の書庫にどうしても見当たらない。消えてしまっている。

 数次の転勤による引っ越し、3回に及ぶ家の建て替えなどの間に紛失または処分してしまったらしい。ネット上で検索してみると、古書店に12万円で出ている。12万円は高すぎる。なんとか、持っている友人を探してコピーさせて貰おうかと、祈る気持ちで考えていたら、見つかった! 「メルカリ」に、5000円で出品している人が見つかったのである。すぐ購入した。

 恋人に出会ったように、僕は貪り読んだ。


          ◇


 ある青年が、無遠慮ぶしつけにも、気持のままに、次のような乱暴なお手紙を谷口雅春先生に出したのが収録されている。

≪  前略。貴下御執筆の “日本を救う道”(『限りなく日本を愛す』 第一章に収録) なる論文を拝見し、甚だ疑問を感じたので卑見を述べさせて戴く。(中略)

 ……肥料を与えなくとも農作物が出来、祈りによって病気がなおり、自動車にひかれても死なぬというのが宗教・特に新興宗教であるが、生長の家も同類である。病気がなおらないのは信心が足りないからだという実に巧妙な実に卑怯な逃げ道を前もって作ってあるのだ。

 神などは存在しないのだということは、貴下といえども考えておられるに違いないのだ。少し頭をひやして考えれば神など存在しないということはすぐ分るはずである。神は人間が作り出した創造物=観念物である。

 少し横道にそれたが要するに革命以外に一般大衆を守る道がないと分った時にはこれを行うべきである。腹のへった労働者に宗教と職業のいずれを選ぶかといえば、職業を選ぶに違いない。いくら祈っても腹はふくれないのだ。

 資本家に搾取され、せめて人間並の生活をしたいと思っても労働運動は弾圧され、赤い労働者は追放され、失職し、一家心中して行くのだ。そこに革命の必然性があるのだ。生長の家は資本家に味方し、精神面から大衆を軟化し不満をなくする為に活動しているとしか思えない。

 金もうけに目のくらんだ資本家にいくら生長の家で説いてみたところで何の効果もない。精神革命も結構だ。しかし出来もしないことをいくら唱えたって仕方がない。それで飯を食っているのが谷口氏貴方だ。

 棺に足を片方つっこんでいる老人に “永遠の生命” を説くのもよろしい。その限りで宗教は自由だ。しかし宗教を政治の面に持ち出し、あつかましくも日本を救おうなんて野心を持たれん方がよろしい。日本は一般大衆のものだ。民主的に自主的に運営すべきものだ。そのためにこそ労働者の代表を選ばねばならぬ。貴方も自由党や民主党に投票する位なら棄権した方がよろしい。

 本当に日本を救わんとするならば先ず目をあけて現実を見よ。現実を直視して如何に感ぜられたか又次の論文に期待する。生長の家の機関誌でも狂信者の他に俺のような者も見ていることをお忘れなく。ダマサレハシナイゾ。真に生長の家を信ずるならば貴下の私財はすべて貧困者に分け与えるべきだと思う。妄言多謝。

      大阪府茨木市 XYZ(21歳) 共産党ではない。≫



          ◇


 ――谷口雅春先生は説かれる(『解放への二つの道』 より)――


≪  第五章 宗教青年にマルキシストの情熱を望む
          ―或日の宗教青年会に於ける講話―



     宗教は個人個人の魂の救済であるか


 NHKのラジオの放送で、仏教では友松円諦さん、新興宗教では立正交成会の庭野日敬さん、それからキリスト教からマルキシズムに転向せられた柳田謙十郎さん、この三人が弁士になりまして、放送討論会が催されたことがあります。立正交成会の庭野日敬さんが、

 「宗教というものは個人の救の問題である。この社会というものも、人類というものも結局個人が集って出来ているのであるから、個人が悟を開いて良くなったら社会は良くなり、世界は良くなり、人類は良くなるのである。宗教というものはそういう立場を取るものである。」

 こういう風に言われました。


     宗教家は何故人類救済の実際行動を起さぬか


 そうしたらそれに対して柳田謙十郎さんが、

 「だから宗教を私はやめたのである。どうして宗教家は、単に魂の救であるとか、悟であるとか云うような問題ばかりを説いて、今現実に水爆が、死の灰が、我々の頭上に現に降って来ているのに、それをどうして救おうとしないのであるか。そういう本当の現実的な人類愛というものに乏しいような、そういう宗教というものには、私は飽き足らないのである。それで私は宗教をやめて、本当に現実的に今眼の前に迫っている所の人類の苦難を救うための運動に挺身しなければならんということを私は痛感して、宗教を去ってマルキシズムに転じたのである。」

 というようなことを言っておられたのであります。

 誠にこれは現代の宗教人に対する所の痛烈なる批判であると私は思うのであります。その批判は、多くの生長の家の信者も、私自身もこれは受けなければならんところの批判であると考えるのです。


     「個」 としての人間の発見と 「社会人」 の発見


 これにはいろいろの原因があります。私が考えますのに、宗教本来の建前が、個人が悟ったら救われる、悟らない奴は救われない。救われる救われんは魂の境地の問題であるから強制的にどうするわけにも行かない。魂の問題だから、人を強制的に引きずって来て、魂を改造すると云う訳にもいかんのだからどうにも仕方がないというように諦めてしまっておる。

 こんな訳で、自分の悟に熱心で、皆一人一人バラバラに修行している嫌がある。

 つまり、人間の発見が 「個」 としての人間の発見であって、「社会人」 としての人間の発見が乏しいのであります。こう云うところに 「個」 としての人間の救済のみを説く宗教には欠陥があるのです。


     「階級としての人間」を捉えたマルキシスト


 ところがマルキシズムでは 「社会人」 としての人間を発見している。

 マルキシズムの言うところによると、社会的な階級的な人間でないものは、単なる 「抽象的人間」 である。実際の人間というものは悉く社会的な存在である。「社会人」 以外に人間はない。そしてそれは又 「階級的な人間」 である。何かの階級に属さないところの人間は抽象人間であって、そんな人間は存在しないのである。

 それで彼らは出来るだけ大多数の人間が属しているところの階級の幸福を目指して運動を進める、そういうところに実に具体的人間の把握があって、それがこのマルキシズムの一つの魅力になり、原動力になっているということが発見されるのであります。

 わたし達の説く 「人間神の子」 と云う把握は、我々では是を 「抽象的人間」 とは思っていないで、これこそ実相人間である、そのほかには人間はない、実相以外に何もないんだからと考えるのですけれども、普通の人間にとっては実相人間などと言ってもそれは五官の感覚には見えないのですから、唯物論者には判らない。

 また一般普通の人にもなかなか判らない。それは坐禅や祈で魂を高めた、霊の進んだ人ならば以心伝心、一句を読み一言を聴くだけで了得出来るのですけれども、普通の人にとっては実相人間と云うような人間はわからない。具体的人間というのなら誰にでも判る。

 その具体的人間と云うのは階級に属する人間だとして、そして最も数の多いプロレタリア階級の人間を捉えて、この運動こそ、その人間を幸福にする運動であるという自覚を自らも持ち、そして現在苦しんでいる労働者階級に呼びかけて、吾々はその階級の具体的人間に具体的幸福を与える運動を実践するのであるという一つの運動形態として進んで来ているところに、マルキシズムの青年が(青年だけではないが)情熱を持って、人類救済の情熱を持ってそれに投ずる、ということになっているのであります。≫



≪     信仰を行動化せよ


 私はマルキシズムを排斥するのではない。私は諸君に二千六百年もかかって吾々の父祖が築いて来た日本の精神的伝承を軽々しく棄てることなく、祖国に属する 「日本民族としての具体的人間」 を把握して頂きたいのであります。

 マルキシズムはイズムである。イズムというのは一つの主義であり一つの信仰であり、一つの学説であり、思想である。生長の家は万教帰一でありますからそのイズムの神髄を持って来ると、矢張りそれは一つの真理に帰一するのであります。ですから、そのマルキシズムの運動形態に学ぶべき点があれば、それにならうことも大変よいと私は思うのであります。

 私達光明思想の運動を、ただ神想観をして神にまかせておったらいいというように誤解している人もありますけれども、行動を伴わないような信仰は空念仏であって本当の信仰ではないのであります。本当に信念が出来たら、信念の通りに動き出すという衝動が出来て来なければならない。そしてそれが行動化されなければならない。

 人間は神の子である。神は人類の親様であり、神に於いて人類は一つのいのちである、自他一体である。彼らの不幸は自分の不幸であると、その真理を学びながら 「彼らの不幸は彼らの彼ら自身の不幸である、私は宗教を信じてお祈をするから、運が良くて税金を沢山払わないでも済むように自然の廻り会わせが好いのである」 と時々そんな考え方をする人がありますが、こんな人は、本当に宗教的悟を得ているのではない。本当に宗教的な悟を得たならば、自他一体の真理を自覚して、「彼の苦しみは私の苦しみである」 と、相手の苦しみをじかに自分に摂取しなければならないのです。

 生長の家の教は人類全体を一掃的に救済する運動であると共に、祖国防衛のための思想体系であり、全人類を救済するための運動である。ただの悟り 「澄ます」 宗教ではなく人類を救済する運動である。吾々は運動体形に於いて生長の家を認識し直さなければならぬ。

 マルキシズムには実に深い理論体系がある。それに太刀打出来るのは生長の家の理論体系のみである、と言われる人もありましたけれども、……


     宗教はどう云う意味で阿片であるか


 宗教というものは、未来のあるか無いかわからぬ救済というものを説いて現実の苦痛を諦視することを忘れさせる。それが阿片的な働であると云うのです。その為に、現実の苦痛を嘗めているところの人類が沢山あるんだけれども、それを救済しようとするところの現実的な運動の努力を鈍らしてしまうことになる。あるかないか分らぬ幻想のような未来の救に、心を振向けて行って、心がその方へ逃避してしまうもんだから、その為、現実救済というところの運動精神を麻痺させてしまうことになるから阿片だと言うのであります。


     現世救済運動としての生長の家


 しかし、マルキシズムが敵とする宗教は昔の宗教のことであって、生長の家のことではないと私は思うのであります。生長の家は単なる宗教ではない、人類救済運動であり、根本的平和運動であります。マルキシズムが国際的には平和運動と称しながら、国内的には闘争運動をやっている似而非平和運動とは異るのであります。



  第六章 光明思想家とマルキシストとの対話


     弁証法と観念論



 <客> 生長の家は一種の観念論だと思いますが、神という絶対精神の主体と云うようなものを認め、実相という絶対実在というような永遠不動の世界などというものを認める。そんなものは私の考では、事物の本当のすがたをとらえていない。此の世界は弁証法的世界であり、永遠不動の世界などというものは結局存在しない。真に存在するものは唯物質として客観的に存在する世界だけである。

 そして、この物質として客観的に存在する世界は、決して永遠不動の世界ではない。すべての事物は発展変化の過程の中にある。これが真実の存在である。この事物を発展変化の過程に於いて観察し、それを捉えたのがマルクスの唯物弁証法である。私はこれが唯一の真理であると思っています。生長の家で説く 「実相」 というような、永遠不動の完全世界などは人間の唯の空想にすぎない。そんなものは存在の真実を捉えていないと思うのです。

 <主> あなたは自分の考だけで、なかなかハッキリ割切っておられますが、生長の家も「存在」を発展変化の過程として認めることは、マルキシズムと異らないのです。

 しかしその場合の 「存在」 と云う語の意味は五官の感覚に触れる 「現象的存在」 のことであります。「生長の家七つの光明宣言」 の第二条には、

  吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。

 というように、「発展変化の過程」 だということを 「生命顕現の法則は無限生長の道なり」 というふうに表現してあるのであります。つまり 「生長」 ということは、それ自身のうちにそれを否定して一層発展せるものを生ずる事であり、その発展せるものをも更に否定して、尚一層発展するものを生ずることでありまして、たしかに生長の家の哲学は弁証法的哲学であります。

 マルクスは人間の歴史さえも、経済制度の歴史さえも此の発展流動の中にあって、一時と雖も同一の所に止っていないものだと観る、そしてそれを 「存在」 のすべてであると観る。

 「現象存在のすべてを発展流動のもの」 として観る点は生長の家も全く同じであるが、マルキシズムはその 「流動せる無常なる現象存在」 だけを存在のすべてであるとして、その奥に 「生命」 とか 「精神」 とか 「心」 とかいうものを認めないが、生長の家はその 「流動発展の現象存在」 の奥に 「生命」 というものをみとめる。

 事物が 「流動発展」 するのは、その奥に 「無限に完全なる生命の実相」(ほんとのすがた) というものの内部的圧力があるからであり、事物の現在を否定する 「自己矛盾」 がうまれて来るのは、現象的事物はそれ自身で存在しているのではなく、その奥にある 「無限に完全なるもの」 (即ち生命の実相) の顕現であるから、現象的に一時的には完全と見える如何なる現象でも 「無限に完全なる実相」 の顕現としては不足しているから、中から現在の顕現を否定して、尚一層完全なる顕現を押し出そうとするのです。

 だからこの現象世界は永遠に発展流動の形をとるのであります。これを生長の家では 「吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ」 と言っているのであります。

 マルキシズムでは、生命とか精神とかいうものを単なる物質の作用として見て、事物の背後にある 「絶対存在」 として見ないから、何故、事物が発展流動の形式をとって顕現して来るかという其の 「何故」 が説明がつかない。

 すべての顕現としての存在が 「自己否定」 を含むのは 「無限に完全なる実相」 がその奥に存在するからだという根拠からのみそれを説明し得るのです。だからマルクスの唯物論に合理的の根拠を与え得るのは寧ろ生長の家だといわなければならないのです。

 <客> その 「無限に完全なる実相」 というのは 「神」 とでもいうものに当るのですか。

 <主> そうです。「神」 と言っても、「真如」 と言っても、法性と言っても実相と言っても好い。へーゲルにいわせれば 「絶対精神」 というような超越的な存在です。

 <客> そういうそれ自身 「物質」 でなくて、永遠に完全なるものが存在するというのが、それが観念論である。この観念論を打破ったのがフォイェルバッハである。

 <主> 打破ったと思ったのがフォイェルバッハであって、本当は打破られてやしない。

 <客> 兎も角、フォイエルバッハは1841年 『キリスト教本質論』 というのを発表して、神というものは結局人間の反映である。人間が自分が要求するものを自分を土台として造り出したものであって、人間から超越した神というものが存在するのではない。だから神は人間の反映である。

 神は人間以上のものではなくて、人間が造ったものが即ち神である。

 ということを主張して、へーゲルの説いた 「絶対精神」 を否定しようとしたのです。マルキシズムはこのフォィエルバッハの 「絶対精神の否定」 を採用したのです。

 マルクスの協力者であったエンゲルスは、このフォイェルバッハの論文を読んで狂喜した。そして、こう言っているのです。

 「総ての哲学特に近代哲学の根本的大問題は思惟と実在との関係如何の問題である。

 即ち精神と自然と何れが根本的な問題か、それに対する答弁が色々あるに従って哲学者達は二、三の陣営に分裂した。精神と自然の中、精神こそ根元的であると主張した人々、それらが観念論の陣営を形成した。

 他方、自然を以て根元的だと考えた哲学者達は唯物論の諸派に属する……」

 まあ、こんな風に説いているのですから、観念論と唯物論とは両立しない。

 神というものは、一つの 「精神」 的存在であるが、そんな 「精神」 というものが先ず初にあったのではなく、人間という自然界の物質的存在が先ず初にあって、その人間が神というものを脳髄のはたらきで考え出したのである。脳髄と云う自然的存在、物質的存在が先ずあって、それから精神が生じ、その精神が神をつくり出したのだと説くのです。

 <主> そう、そう。そのマルキシズムによると大体、精神というようなものは、それ自身では存在しない。精神というものは脳髄という物質から出て来たものである。

 こういうものの考え方をするのですね。大体、生長の家と逆であります。

 それで、精神というものは、大体脳髄から出て来るのじゃないか。その 「精神」 がもとになって、自然が生れるという筈がない。脳髄というものを叩き壊したら、えらそうに 「精神」 だなんて言っていても、もう精神は出なくなる、想念の力だなんて言ったって、麻酔剤を注射したら心の思が出て来なくなるじゃないか。だから、脳髄という物質がもとであって、そしてこういう想念というものが出て来るのである、とこういうように説明して、我々の説く非唯物論――唯物論でない所の哲学体系を攻撃しようとするのであります。

 私が非唯物論というのは、必ずしも観念論でも唯心論でもない、それらを包括しているところの唯物論でないところの哲学を引っくるめて謂うのですが、マルクス主義者はそういう唯心的傾向の哲学を攻撃しようとする。

 ここに彼らが大いなる誤謬をしているのは、唯心論とか観念論とかいう場合の 「心」 とか 「観念」 とかいうものを脳髄の所産としての精神として誤解していることです。彼らは脳髄所産の心が物質を創造することはできないと言うのです。吾々が唯心論を説くのは、そんな脳髄から出てくる心で自然界の万物がつくられるというのではない。そんな馬鹿なことは、反駁する必要もない自明の理である。

 唯心論という場合の 「心」 は脳髄から出て来る心ではなくて、脳髄をも造った 「心」 です。脳髄は 「つくられたもの」 であり、道具に過ぎない。脳髄そのものは考えない。

 脳髄が考えるんだったら、脳髄の故障が原因でなく他の病気で死んだのは、例えば心臓麻痺で死んだ人は、脳髄はちゃんと健康で残っているからそれが何か考えたり、言ったりしなくちゃならないのでありますが、脳髄に故障がなくとも、霊魂がその人間から去ったら、もうその脳髄は考えないのである。そうすると脳髄自身が考えるということは、間違である。

 脳髄は一個のラジオ・セットである、と生長の家で説いている。

 そして、我々の霊魂というものが、その背後に居るアナウンサーであって、そのラジオ・セットに吹き込む、或は放送すると、そこから、そのエネルギーの振動が無数の配線を伝わって、身体の各所にいろいろの働というものとなって、現れて来るのである。

 実に微妙な化学作用を起す電気的装置になっているものが肉体である。しかし其の電気装置は誰がつくったかというと、物質が自然にかたまってこのような複雑な装置が出来るということはとてもあり得ない。それを設計しつくる何者かがなければならない。物質それ自身にはそんな知性はないとすると、脳髄その他の肉体組織に先立って、それを作った 「心」 と云うものがなければならない。そこに唯心論の根拠がある。

 さて、「心」 が脳髄というラジオ・セットを作ったとしてもいくら其のラジオ・セットが立派でも、アナウンサーがおらなくなったら、もう何もものを言わんという事になるわけであります。だからそのアナウンサーが問題なのですよ。そのアナウンサーが吾々の 「霊魂」 である。霊魂が全然抜け出してしまったら、脳髄はものを言わんし、ものを考えないということになる。

 もっとも簡単な例を引くと、脳髄というものは、あのプリズム――三角ガラスみたいなものですね。それに太陽の光線が来ると、それから七色の虹が出て来て、そしていろいろ赤・橙・黄・緑・青・藍・紫というふうに七色に別れて来る。これは太陽の光線そのものではなく、太陽の光線の第二次的発現である。

 脳髄から出て来る所謂精神現象というものは、意識の第一次的発現ではなくて、脳髄というプリズムを通しての第二次的発現なのです。そんな第二次的精神現象が宇宙の本源である筈はない。

 マルキシズムでは精神そのものと精神現象とを混同して立論している。「心」 といっても、「心」 という用語には、いろいろの使い方がある。心というものは、脳髄から出て来たものであるから、万物は 「心」 によって発生したと説く 「唯心論」 は間違だなどと言ったら、これはもう無茶な話ですよ。

 我々が、唯心論なんていう場合には、そういう精神現象としての 「心」 を説いているのでもなければ、更に人間の霊魂というような 「個別的心」 を説いているのでもない、更にそれ以前の普遍的心ですよ。個別的な 「心」 よりももっと大きい大生命、普遍的な絶対精神というようなものがそれが具象化して、そしてすべてのものになって現れて来たというのですよ。……≫



  <つづく>


  (2021.5.7)

597 『老子』の「道」は「久遠の今」だ


 『老子』 第1章は、「道可道、非常道、名可名非常名。無名天地之始(道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。無名は天地の始なり。)」 から始まっており、これは諸橋徹次著 『老子の講義』 (1954年大修館書店版)では

≪ 老子の学の根本である道を説明したものである。故に河上公(かじょうこう)本では、この章を名付けて体道章といっておる。孔・孟などの道は、人間の日常実践の道を称しておるが、老子のいわゆる道は、宇宙の根本の道を指しておる。故にその道は、天地に先立って存在する絶対のものであり、万物の本源であると見るのである。又この道は、世間のいわゆる存在する 「有」 ではなくして、形体のないものであって、「無」 である。更に言を換えて言えば、有に対立する無という、相対の無ではなくして、絶対の無である。≫

 と書かれている。谷口雅春先生著 『老子を現代に生かす』 ではもっともっと詳細に書かれているが、要するに老子のいう 「道」 は、「天地に先だちて生」 じ存在するもの(第25章)で、谷口雅春先生が常に説かれた 「久遠の今」 である。と思う。

  ⇒ 「久遠の今」

 第8章は 「上善若水(上善は水のごとし)」。諸橋著では 「最上の善なるものは、水のようなものである。水はあらゆる万物に利沢を与えてこれを生育せしめておるが、水自身は少しも他と競争する考えがない。常に一般の人々の最も憎み嫌う低い土地におろうと努めておる。それ故に道に近い姿となるのである」 と解説されている。

 谷口雅春先生著 『老子を現代に生かす』 では、この 「上善若水」 について、次のように詳解されている。

≪[原文〈漢文〉]
 上善若水。水善利万物而不争。処衆人所悪。故幾於道。

[書き下し文]
 上善は水の若
(ごと)し。水は善く万物を利して、而も争わず、衆人の悪(にく)むところに処(お)る、故に道に幾(ちか)し。

[講義]
 普通の人は、表面に目立って人にヤンヤと喝采せられたいと思ったりして、兎角(とかく) 『出る杭(くい)は打たれる』 式に不幸を招くのである。

 深山(しんざん)に棲む雉(きじ)も啼(な)かなければ猟師に見つかることもなく、射たれて死ぬと云うことも要らぬのである。

 本当の最上の善と云うものは、外に顕れて事を成すのではなく、水のように地下に潜って善を成すのである。縁の下の力持こそ上善である。

 水は表面にあらわれていないで万物を生かしている。

 吾々の肉体でもその90パーセントは水分である。よくよく調べて見ると、人間が歩いていると云うのは蛋白質や脂肪が歩いているのではなく、水が歩いていると云って好い位である。而も誰も人が歩いているのを見て 『水』 が歩いていると思う者はない。その位に隠れているのが 『水』 である。

 水は決して他と争わない。四角になれと四角の容器に容(い)れられれば四角になっている。円いフラスコに容れれば円い形になっている。水は何処に容れられても透きとおっていて幸福そうに見える。

 水を自由に流せば下へ下へと付こうとする。衆人の好まないところの不浄(ふじょう)を洗って、黙って地下へもぐり込んで自分の功を誇らない。

 まことに水の生活の如きは 『道』 を行ずるものであると、老子は称(ほ)めたのである。≫



 さて、『老子』 下篇の最初、第38章は 「上徳不徳」。谷口雅春先生は次のように説かれる。

≪ [原文〈漢文〉]
上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無為、而無以為。下徳為之、而有以為。上仁為之、而無以為。上義為之、而有以為。上礼為之、而莫之応、則攘臂而拐之。

[書き下し文]
 上徳は徳ならず、是れを以て徳有り、下徳は徳を失わず、是れを以て徳なし。上徳は為すことなくして、而も以て為すことなし。下徳は之れを為して、而も以て為すことあり。上仁は之れを為して、而も以て為すことなし。上義は之れを為して、而も以て為すことあり。上礼は之れを為して、而も之に応ずるなければ、則ち臂(ひじ)を攘(かか)げて之れを拐(ひ)く。

[講義]
 老子では徳を道よりも一段低いものとし、道は形がないが、道がはからわれずしてその儘(まま)(ただ)ちに行(ぎょう)にあらわれたのを徳としている。

 上徳とは至上絶対の徳である。そう云う徳は如何にも私が徳行を行っていますと云うような形を示さないのである。

 『老子』 の第八節に 『上善は水の若(ごと)し』 と云う言葉があったが、それである。水はみずから工(たく)んで徳を為そうと構えることがない。それでいて上より下に流れ、船を泛(うか)べ、人を乗せ、雨を降らせて地を霑(うるお)し、飲料を人に与えて、地下水となり、噴水となり、やがて大海洋となる。その素晴しい徳がありながら、別に徳を為していると云うような力みがないのである。

 徳を行えばとて、『徳を行っています』 と云うような力みがあっては、それは却って徳を毀してしまうのである。『下徳は徳を失わず、是れを以て徳なし。』 とはよく云ったものである。

 或る所に有名な道徳家があったが、常に道徳道徳と云っていた。日常生活実に厳重であって、家長の定めた規則に従って一子を教育して行ったのである。あまりに厳重であるので、息子は父が自分に愛情をもっているとは思えなくなった。そして事毎に父に反抗するようになったのである。

 『うちの親父は、道徳の化物(ばけもの)だ』 と云って息子は人に云っていた。

 父が病気になって臥せっていて顔を見せないと、母に 『お父さんは如何(どう)なさいました?』 と訊く。『御気分が悪いのでお休みでございますよ』 と母が云えば、『修養でございますか。それはそれは』 と云う。父が常に 『修養修養』 と云うのを皮肉って云うのである。

 そして父の寝ているところへ往って 『唯今から修養させて頂きます』 と、まるで婚礼のときの挨拶をするように箒(ほうき)を廊下の上へ置いて、その前に両手をついてお辞儀をする。

 寝ている父も 『あんな面当(つらあて)がましい掃除はして貰いたくない』 とまことに胸糞(むなくそ)の悪い思いをする。それを荒立てては可(い)かぬと、じっと父は胸にその胸糞の悪い思いを溜(た)めているのである。その欝憂(うつゆう)の思いが胸に溜(たま)って愈(いよい)よ父の病気は重くなる。息子も次第に胸の病が悪くなった。

 ――こう云うのが下徳であって、徳を失わず、徳をつかまえ、道徳道徳と云っているが故に、却って徳を失うのである。

 『上徳は為すこと無くして、以て為すことなし』 とは、至上の善は人為がなくして、そのままに努力なしに動いている。大賢は大愚に似たような状態で、何も力んですることはない。それでいて、力みなしにスラスラと道徳が成就するから、道徳を為していると云うような意識もないのである。

 『下徳は之を為して、以て為すこと有り』 とは下級の道徳は、『道徳を行おう』 と力んでするが、そしてその結果は 『為すこと有り』 で、如何にも 『私はこんな善いことを致しました』 と云う意識があり、自然に高慢になり、人から嫌われたり、家族同士衝突するようなことにもなる。

 次に 『上仁は之れを為して而も為すことなし』 であるが、これを曩(さき)の 『上徳は為すことなくして、而も為すことなし』 と比較して見ると、上徳と上仁、従ってまた 『徳』 と 『仁』 との差別が判ると思う。

 老子はまた 『大道(だいどう)(すた)れて仁義あり』 とも云ったが、『徳』 は道のまま直心(じきしん)が行ぜられることであるから 『行人扁(ぎょうにんべん)』 に 『直心』 と書かれているのである。

 『仁』 は 『二人』 の 『人』 を扁(へん)に直して組立てた字であるから、『仁』 には 『仁』 を為す人があり対手(あいて)がある。相対的行為に堕している。

 『上徳は為すこと為くして以て為すこと無し』 であって、為す人もなく、為される人もなく、そのまま道が渾然(こんぜん)と成就しているのである。

 『わしがした』 の 『わし』 もなく、『わたしに為て貰った』 も無い。道が道を行い、道が道を成就している。為す者なく、為される者なく、為すこともなく、そのまま完全なのが 『上徳』 である。

 『仁』 は相対であるから、『為す人があり、為されれる人がある』 点に於いて、『徳』 に劣る。これを 『上仁は之れを為して……』 と云ったのである。

 しかし、仁でも 『上仁』 になると、その為し方が 『為すことなし』 であって、『こんなに仁を致しました』 と云うことがない。之れが 『為すこと無し』 である。

 更に仁よりも一段下って義となると、『上義は之を為して、以て為すこと有り』 となるのである。義は 『善』 と 『我』 との合字であるところから見ても、『我』 が、その動機の上にも、結果の上にもあるのである。

 『義を見てせざるは勇なきなり』 の語もあるように 『義』 は是を為さんと欲し、勇の力に鼓舞せられて為すのである。だから 『上義』 と雖も、為す者ありて為すのである。これを 『上義は之を為して以て為すこと有り』 と云うたのである。

 次に礼は義よりも一層堕(お)ちる。『上礼は之れを為して之れに応ずること無ければ、則ち臂(ひじ)を攘(かか)げて之れを拐(ひ)く』 とある。

 義も礼も宇宙のノリであるが、『義』は有心(うしん)であって、自発的に発動するものであるが、他に強いることはない。

 『礼』 になると、一層 『義』 よりも作為が多くなり、為(し)ているぞと云う構えが一層ハッキリしてくる。そして自分が斯く礼を守っているから、貴方も斯うして礼を守るのですよと、他のことまでオセツカイをするようになる。そして、其のオセッカイに応じなければ、『臂を攘(かか)げ』 即ち腕捲(まく)りをして、相手を拐(ひ)っぱり、斯(こ)うせよ、斯うせよと迫るようにもなる。

 所謂(いわゆる)インテリの礼儀正しい婦人が子供を教養する場合に、斯う云うような例が随分多いのである。礼儀、礼儀と云って、子供の心を縛りつけて伸びる力を失わしめ、活気も元気もない、『小さな大人』 を製造している良家の奥様などは、これに属する。……≫



 さて、「”新しい文明”の基礎を作るための生長の家ネットフォーラム」 というのが誰でも見られるようになっているというので、僕もところどころ視聴してみたが、魂の琴線に触れるところが全然なかった。

 上の 「礼儀、礼儀と云って、子供の心を縛りつけて伸びる力を失わしめ、活気も元気もない、『小さな大人』」 をつくるようなことを、今生長の家はやっているのではないか。それで 「新しい文明」 が生まれるだろうか?

 「久遠の今」 なる本源の 『生命の實相』 に立ち還った運動をしよう。今こそ老子、今こそ生命の実相! だ。


  (2021.4.20)

596 素晴らしきかな
     
『老子を現代に生かす』


 僕は、思わず魂が悦びに打ち顫
(ふる)えた。

 谷口雅宣・生長の家総裁が 2020年11月22日に Facebook で公開されている講話の動画を見たのである。動画は 「身近な自然と深く関わろう」 というタイトルだが、この日は谷口雅春先生の御誕生日。谷口雅春先生の御事績の一端に触れたいとて、雅春先生が大東亜戦争中の昭和17年に書かれた 『老子を現代に生かす』 という御著書を動画の中で紹介されている。

 「老子」 は、僕が学生時代、退学願を提出してベンチャー起業を試みたが挫折を重ね、「生死の教え」 の神示に胸打たれて神に無条件降伏の気持になったとき、諸橋徹次著 『老子の講義』 を読んで 「これだ!」 と飛び込む気持で耽読した、縁のある教えである。

 谷口雅春先生の 『老子を現代に生かす』 は今や古書としても入手困難な稀覯本となっているが、僕は、所持している友人から借りてコピーさせてもらった。

 この本、雅春先生の 「自序」 で、前半は書誌的なことを詳しく書かれているが、その後半結びのところを、動画でまず雅宣総裁は紹介される。

 この本は当然旧漢字・旧かな遣いで書かれているが、僕は 「現代に生かす」 ため、ここに新かな・新漢字にして謹写させて頂こう。「自序」 結びの部分から――


≪  『老子を現代に生かす』      谷口雅春

     自  序

 ……老子は無為
(むい)の生活を説く。無為とは、何もしないことではない。為(はから)わない生活である。無作(むさ)の作(さ)である。そのままの生活である。実相の生活である。

 世界が個々分立して互いに闘争しているのは、そのままの生活が喪
(うしな)われたからである。そのままの生活とは抛(な)げやりの生活のことではない。米英的な個人主義的自由主義のことではない。宇宙の 『一』 なる大生命に常に還元し、復元して、そこから汲んで来た生命で生きることである。

 老子は 『無』 に立脚しつつも、小乗仏教的な 『空』 思想に陥らないで本来の 『一』 を失わなかった。○
(ゼロ)の中に太陽の生命の赤が輝いている日章旗のように、『無』 即 『大生命』 の一元哲学を以て、処生の術、政治の要諦(ようたい)を説いたのである。

 それは日本惟神
(かんながら)の生き方に一致しているし、同時に支那民族の魂に永く刻み込まれたる道教の根本思想を物語るものである。

 どんな災害に逢っても、時間の流れが解決してくれると、悠々として大陸と倶
(とも)に生きて行くところの支那民族の魂の中には、道教の 『無為』 の思想が滲潤しているのである。従って支那民族を理解する上から謂(い)っても、『老子』 は看過(みの)がしてはならない文献である。

 況んや、その説く生活秘術が処世と政治との上に必勝的生き方を示しているに於てをやである。

 本書に於て私は老子の語録を出来るだけ最近の吾らの人生に連関させて説いたのである。

 特に何事かの問題に引っかかって心が悩んでいる場合、その悩みを捨てさせる一服の思想的清涼剤としては、老子に過ぐるものはないであろう。敢て読者に慫
(すす)める所以である。

     昭和十七年五月二十五日
                                著 者 ≫



 昭和17年といえば、前年の昭和16年12月8日に大東亜戦争が勃発した翌年で、まだ緒戦の戦勝気分に酔っているような国民が多かった時である。そして蒋介石の支那とも戦っていた時だが、上記道教の思想は支那民族の魂に刻み込まれている、それは日本惟神の道に一致し、支那民族を理解する上から言っても見逃してはならない文献だと、谷口雅春先生は言われている。

 雅宣総裁が動画で採り上げられたところからは外れるが、 「第13章 寵辱(ちょうじょく)」 のくだりには、 ≪寵(ちょう)は栄達である。辱(じょく)は屈辱である。世界各国興亡の歴史を顧るに、傲(おご)れる国の久しからず、驕(たかぶ)れる国の永続した例(ためし)がないのだ。だからして賢人は寵(ちょう)を得ることを恐るるが如くし、辱(じょく)を失うを恐るるが如くし、時の寵を得て勝てば勝つほど、勝って兜(かぶと)の緒をしめるのである。≫ とも説かれている。

 雅宣総裁は、上記同書の 「自序」 を紹介したあと、第12章 「五色(ごしき)」 のくだりを採り上げて講話している。


≪  第十二章 五 色

[原文〈漢文〉]
五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁田猟令人心発狂、難得之貨令人行妨。

[書き下し文]
 
五色(ごしき)は人の目を盲(もう)せしめ、五音(ごいん)は人の耳を聾(ろう)せしめ、五味(ごみ)は人の口を爽(たが)わしめ、馳騁田猟(ちへいでんりょう)は人の心をして狂を発せしめ、得難きの貨は人の行いを妨げしむ。

[講義]
 五色(ごしき)とは、青(しょう)、黄(こう)、赤(しゃく)、白(びゃく)、黒(こく)を云うのであるが、必ずしも此の五種類の色のみには限らない。種々の人目を惹きつける絢爛(けんらん)たる色彩美のことである。

 花街の装いは金銀青黄赤白黒の美 絢爛を極めているが、そのためにそれに魅せられて、本当の美、人間の道徳美の荘厳を見失ってしまって、ついに地獄に墜落した人がどんなにか多いであろう。

 また肉眼で見る美ばかりを見ていると、人の実相を見失うことがある。ユダヤ人はイエスを視て 『あれは大工ヨセフの子である。何ぞナザレより偉大なる者出でんや』 と云っている。

 イエスは之に対して、『もし盲目なりしならば、罪なかりしならん。然(さ)れど見ゆと云う汝らの罪は遺れり』 と云っている。五官の眼がむしろ盲目
(めしい)になった方が、本当のものが、見えるのだと云う意味である。

 五音
(ごいん)と云うのは支那では宮(クウン)、商(シャン)、角(チュエ)、徴(チヒ)、羽(ユウ)の五つの音楽の音であるそうであるが、支那の音楽は私は知らないから詳しいことは云えない。併し五音と云うのは必ずしも五種類の音階のことではないのである。

 言葉は却って実相を晦(くら)ますことがある。恋人の前でみたりに雄弁に口説く者は、本当にその人を恋していないで、相手を誘惑しようと云うような場合に多いのである。

 本当に恋しているならば、相手を肉眼で熟視することも出来得ないで、俯向
(うつむ)きがちで溜息(ためいき)ばかりを洩らしている。その溜息と溜息との間に、本当の恋人同士の魂の対話がある。これ即ち沈黙の雄弁である。

 音
(おん)や言葉は却って人の耳を聾(つんぼ)にする。心に何か企むところの悪念を持する場合には、耳を蔽うて滔々(とうとう)と他事を語ることもあり勝ちである。乃(すなわ)ち 『五音(ごいん)は人の耳を聾(ろう)せしめ』 である。

 五味(ごみ)と云うのは、鹹
(かん)、苦(く)、辛(しん)、甘(かん)、酸(さん)の五つと云うことだそうだが、これも必ずしも五つに限ったことではない。調味法の発達から来る無数の濃厚複雑なる味わいの交錯で、人間の味覚を誘惑することである。≫


 雅宣総裁講話の動画では、上記を引いて、「今人類は物質偏重の文明に振り回され破滅の方向に向かっている。その原因は、欲望の肥大化による自然破壊にある。どこまでも強い刺激・効率性・即効性を優先して追い求め、却って不幸を増大させている。自然と調和した文化的伝統を大切に、神の御心を優先すべきである」 と持論を展開し、生長の家の運動方針に協力するよう促している。

 このような人間観の根本的問題に立ち還って説かれることは、よいことだ。僕は、嬉しくなった。


 だが一方、「”新しい文明”の基礎を作るための生長の家ネットフォーラム」 というのが生長の家公式サイトで配信されていて、教団組織では、それを見るようにと促されている。それで僕も一部、本部講師の導入講話などを視聴してみたが、さっぱり魂の琴線に触れるところがない。

 人間とは際限のない欲望に振り回され自然を破壊してきた肉体だとして、 「人間至上主義ではいけない。地球社会の一員として、自然破壊をしない生き方をしよう」 という。

 それは、五官の世界、現象界をそのまま 「あり」 とする幼稚な素朴的唯物的西洋思想に毒された考え方であって、老子の 「道」 の思想とはかけ離れている。


  <つづく>

  (2021.4.16)

595 「今こそマルクス主義」か
    「今こそ生命の実相哲学」か



 ――「今こそマルクス」 「マルクス 『資本論』 が人類を救う」

 という斎藤幸平氏のベストセラー本 
『人新世(ひとしんせい)の 「資本論」』

 を一通り読み終えた。 そして思うこと――


≪ 150年ほど眠っていたマルクスの思想のまったく新しい面を 「発掘」 し、展開する。

 この 「人新世の 『資本論』」 は、気候危機の時代に、より良い社会を作り出すための想像力を解放してくれるだろう。≫



 と 本書の序文の終わりに、斎藤氏は書いているが、それはその通りだと思う。著者は35歳位の若さで立派なものだ。

 「世間一般でマルクス主義といえば、ソ連や中国の共産党による一党独裁とあらゆる生産手段の国有化というイメージが強い。そのため、時代遅れで、かつ危険なもの……」 (当該書140頁)

 というような一般常識的観念しか持っていなかった僕は目からウロコ、蒙を啓かれる思いがした。著者は、エンゲルスが編集した 『資本論』 だけでなくマルクスの晩年の書簡などの資料をすべて丹念に精査し、「人類が地球を破壊しつくす」 人新世
(ひとしんせい)と言われる今、「脱資本主義」 「脱成長経済」 が世界を救う、という。

 「新しい文明を築こう」 とか言っているような教団も、本書を無視するようだったら、そんな運動スローガンは寝言みたいなものと言わざるを得ないだろう――と、僕は思った。

 ところで――『生命の實相』 第11巻 「万教帰一篇」 第1章には、旧約聖書 『創世記』 の霊感的解釈として、次のように記されている。


          *


≪       資本主義の発展とその自壊の予言


 『創世記』 の第一章は神による実相世界および実相人間界の真創造が書いてある。

 第二章は、無明による物質世界および物質人間(アダム)の偽創造が書いてある。

 第三章はアダムすなわち物質人間が蛇の知恵にだまされて、自己の奥底にある実相人間がそのままで神の子であり、そのままで神そのものと等しく円満完全であるのに、外から何か物質の付けたしをしなければ完全になれない、物質の中に知恵や生命があると思って、知恵の樹の果を食べたために、本来無限なる神からの供給が有限なる形をもって顕われるようになった。迷いの発展の結果、経済組織に欠陥があらわれることがこの章以後に書いてあるのであります。

 「わがなんじに命じて食うべからずと言いたる樹の果を食いしによりて土はなんじのために詛
(のろ)わる。なんじは一生のあいだ労苦(くるし)みてそれより食を得ん。土は荊棘(いばら)と薊(あざみ)とをなんじのために生ずべし、なんじは野の草を食うべし。なんじは汗して食物を食いついに土に帰らん。そはその中よりなんじは取られたればなり。なんじは塵なれば塵に帰るべきなり」

 と神はいっていられるのであります。ここに生産の有限性がこの現実世界に不可避の事実となって現われてくる原因が造られたのでありまして、本来、「神の国」 すなわち実相の国土の生産は無限であり、その映象世界(現世)の生産も無限でなければならないのに、迷いによって有限の観を呈し、物質界を永遠の世界の影だと知らず、物質を単なる物質だと観じ、したがって物質は有限であると思うから、蓄積しておいて他へ渡しては損がゆくと思う。

 ここに蓄積経済の近代資本主義組織が組織せられ、一方に、操業を短縮し、従業員を馘首し減少しなければならぬほどに無限の大量生産がありながら、蓄積経済の当然の結果として生産流通の円滑を欠くことになり、貧しきものはいよいよ貧しくして苦しみ、富める者は富めるがままにその蓄積を失うまいとしていよいよ苦しみ、貧しきも富めるもともに苦しむという蓄積(ツミ―罪)経済の世界は現在のようにその頂点に達してきたのでありまして

 それは物質(有限物)をこの世界および人間の本質と観て、神なる無限供給に繋がっている人間の本性と見ないアダムの迷誤より出発してきた当然の結果であって、このことはすでに「土(実相の影)はなんじ(アダムすなわち迷いの人間)のために詛
(のろ)わる」という 『創世記』 第三章の神の言葉に予言せられているのであります。

 それで皆さんのうちには、この蓄積経済組織(ツミの経済組織)を是正する道は、唯物論から出発したマルクス主義によるほかはないと考えていられる方があるかもしれませんが、

 本来、蓄積経済というものはこの世界の本質を物質(有限性のもの)だと見る唯物論から始まって、有限のものを、豊富に利用するには積むほかはないというので始まったものでありますから、この資本主義経済組織を是正する根本原理はどうしても生長の家式の唯心論でなければならない。

 在来の生産流通不円滑の根因なる唯物論から一大飛躍をして、本来供給無限なるこの世界の霊的実相を悟る唯心論でなければ駄目なのであります。≫
(同書100~102頁より抜粋)


 さて、長くなりますが、もう少し抜粋転載(引用)させて頂きましょう。


≪ ○ アダム其の妻イブを知る。彼孕みてカインを生みて言いけるは我エホバによりて一個の人を得たり。彼また其の弟アベルを生めり。アベルは羊を牧(か)う者、カインは土を耕す者なりき。日を経て後カイン土より出ずる果を携え来りてエホバに供え物となせり。アベルもまた其の羊の初生と其の肥えたる者を携え来れり。エホバ、アベルと其の供え物を顧みたまいしかども、カインと其の供え物をば眷(かえり)みたまわざりしかばカイン甚だ怒り、且つ其の面をふせたり。(『創世記』第4章1~5)


 アダム――すなわち、土の塵にて造られた物質人間――は、イブ(Eve――夜)すなわち無明の 「暗」 によってカインという子を生んで、「われ、神によって一個の人を得た」 といっているのであります。カインは、後にアベルを殺している殺人者でありまして、「悪」 そのものを象徴化したものであります。イブすなわち 「無明」 はいう、「神はカイン(悪)をなぜこの世に造ったのであるか。カインもまた神から生まれたるものである」 と。

 こういって 「無明」 は間接に神の存在を否定しているのであります。ここにも 『創世記』 の原作者は、悪に対照して、善なる 「真理」 を描き出すことを忘れていないのであります。

 その善なる 「真理」 とは弟のアベルであります。聖書によれば 「アベルは羊を牧
(か)う者」 とあり、「カインは土を耕す者」 とあります。「羊を牧う者」 とは 「神の子を養うもの」 ということであって、「真理」 の象徴であります。キリスト教ではキリスト自身を 「神の子羊」 といったり、伝道者を 「牧師」 にたとえたりしているのであります。「真理」 の象徴たるアベルは、「羊の初生(ういご)」(すなわち、真理によって導いた最初の改宗者)を神の前に連れて来て供え物としている。すると神はこのアベルの供え物を非常に嘉(よみ)し給うていられるのであります。

 ところが物質人間(アダム)がイブ(無明)に捉われて出生した子なるカインは、土を耕すものであって、土を耕して得た結果を携えて来て、神への供え物としているのであります。ここにいう 「土を耕す」 とは、「土」 すなわち 「物質」 を実在であるとして、それから育てあげ生み出し作り出してきた哲学、学問、人生観、経済組織、実生活……等々であります。かくのごとき唯物論より生まれて来たものを神が善しと認め給うはずがない。それで神がカインの供え物を顧み給わなかったのもまた無理はないのであります。

 カインは土よりひき出した自分の供え物、すなわち唯物論が 「神の聖旨
(みこころ)にかなわない」 (すなわち真理にかなわない)といわれたので非常に腹を立てて、顔をふくらせてうつ向いていたのであります。


 ○ エホバ、カインに言い給いけるは、汝何ぞ怒るや、何ぞ面をふするや、汝もし善きを行わば、挙ぐることを得ざらんや。若し、善きを行わずば、罪 門戸
(かどぐち)に伏す。彼は汝を慕い、汝は彼を治めん。(『創世記』第4章6~7)


 そこで神がカインにいわれるのに、「なぜ、お前はそんなに憤慨して膨れ面をして、うつ向いているのであるか。お前がもし、真に善きことをしたのであればどうしてお前を賞揚してやらないことがあろうか。

 しかしお前はいっさいは 『物質』 から発生したのだという唯物論から出発しているから真理だという訳にはゆかないのである。

 お前の唯物論が善であるか、悪であるかの区別はどうして分かるかといえば、善というものからは善のほか生まれようがない、悪というものは一時は善のように見えていても結果が悪になってきて正体をあらわすのである。

 お前のように 『人間は物質でできている、この世界も物質でできている』 という唯物論は、これほど確かなものはないように見えていても、その結果はどうであるか。今の医学はどうであるか、物質的医術いよいよ盛んにして病人いよいよ増大するというような結果を来しているではないか。

 お前は唯物論でなければこの世は救うことはできないとか、マルクス主義でないとこの現実の経済問題を救うことはできないとかいうが、現代の資本主義組織そのものが唯物論すなわち 『与えれば物質は減る』 という観念から出発したための蓄積に原因するのではないか、

 唯物論が善き物であれば、善きものからは善き結果を生ずるほかはないのだ。善き樹からは善き果実を生ずるほかはないのだ。それだのに唯物論から資本主義経済組織のような悪い果実を生じたのは唯物論そのものが真理でない証拠ではないか。

 真に善でないものから出発したものは、始めは 『善』 の仮面をかぶって誘惑する。しかしそれを続けてゆくうちには 『悪』 の正体を暴露する。

 昔から美徳だと考えられていた節約ということでも、それが愛という神の働きを認めず唯物論から出発して、『与えれば自分のものが減る』 という理論に出発しているならば、蓄積蓄積をつづけてゆくうちに現代の資本主義経済組織となりその欠陥を暴露するにいたるのだ。

 マルクス主義でも初めは善き果
(み)を得るだろうと思って誘惑するが、唯物論から出たものは、最初どんなに善く見えても、やがてはその欠陥を暴露する。

 カインよ、なんじは唯物論であるから、罪(積み――蓄積――排他――流通不円満)は門戸(かどぐち)に伏すのだ、唯物論は蓄積経済の門戸であるから、平等に分配して見ても、また 『蓄積』 がなんじを慕い、ついに、結局は蓄積経済でこの世を治めるようになるのだ」 と、こう神はいわれたのであります。


○カイン其の弟アベルに物語りぬ。彼等野におりける時カイン其の弟アベルに起ちかかりて之を殺せり。(『創世記』 第4章8)


 この一節において、ついにカインすなわち唯物論はその欠陥を暴露し、その受くるところの大小によって嫉妬を生じ、兄弟を殺しているのであります。こうして唯物論が生命を生かすように見えても、ついにそれは愛を殺し、真理を殺し、生命を殺すに到ることが明らかにされているのであります。医学でも経済組織でも唯物論に立脚するものはこうして真理を殺し生命を殺すにいたるのであります。≫



 ――資本主義にせよ、マルクス主義にせよ、唯物論に立脚したものはいかに生命を生かすように見えていても、結局は愛を殺し、真理を殺し、生命を殺すに至るのだと、生命の実相哲学はいうのである。


  <つづく>

  (2021.3.30)

594 「SDGs は大衆のアヘン」「今こそマルクス主義」か?!


 『文藝春秋』 4月号を読む。いちばん僕の印象に残った、考えさせられた記事は

 「宗教は民衆のアヘンである」 というマルクスの言葉をもじった 「SDGsは大衆のアヘンである!」 という挑発的なフレーズが最初に出てくるという、斎藤幸平氏のベストセラー本

 
『人新世(ひとしんせい)の 「資本論」』

 のことである。

 『文藝春秋』 誌は2ヵ所でこの本のことを紹介している。1ヵ所目は著者斎藤幸平氏と池上彰氏の対談。2ヵ所目は佐藤優氏の 「ベストセラーで読む日本の近現代史」。

 「SDGs」 は 「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals の略)。

 以下、『文藝春秋』 4月号 斎藤幸平・池上彰 両氏の対談より。

          *

≪   冷戦後に危機を迎えた資本主義

 斎藤 第二次大戦以後の約30年間、資本主義は、好調に機能し、少なくとも先進国では、高度経済成長で国民全体の生活水準が底上げされ、中間層も順調に拡大しました。

 つまり、マルクスが警告していたような“資本主義の限界”は訪れず、むしろ 「ケインズの世紀」 と呼ぶべきような時代でした。

 それに対し、21世紀の現在はどうか。まず私たちは、「iPhone」 も 「自動車」 も、これ以上は必要としていません。

 池上 1950年代後半は 「白黒テレビ」 「洗濯機」 「冷蔵庫」 が “三種の神器” として、60年代半ば以降は 「カラーテレビ」 「クーラー」 「自動車」 が “新三種の神器” として “庶民の憧れ” となり、これらの商品が爆発的に売れることで経済成長が実現し、生活水準も向上しました。しかし、そうした “三種の神器” はもはや存在しない、ということですね。

 斎藤 そうです。そして格差だけが拡大して、「使い切れないくらいの膨大な富をもつ富裕層」 がいる一方で、先進国内でも 「日々の食糧に事欠く貧困層」 が増大し、地球環境への負荷は限界に達しています。まさに “資本主義の限界” を感じざるを得ないのが、いまの状況です。

 池上 その点、「人類が使用した化石燃料の約半分は、実は冷戦が終結した1989年以降のものだ」 と強調されているのが、とても印象的でした。“資本主義の勝利だった” はずの冷戦後にむしろ “資本主義は危機を迎えた” ということですね。

 斎藤 しかしだからこそ厄介なのは、冷戦後ゆえに、「資本主義に代わる世界」 を誰も思い描けなくなってしまったことで、「資本主義に限界があっても、資本主義以外に選択肢はない」 という知的な閉塞状況が続いてきました。

 ここでマルクスなどを持ち出せば、当然 「何をいまさら?」 となるわけですが、やはりマルクスほど 「資本主義の本質」 を体系的に突き詰め、「資本主義に代わる世界」 を思い描くためのヒントを与えてくれる思想家はいません。

 とくに今日、コロナ禍で多くの人が困窮しているのに日経平均株価が3万円を突破するといった “生活実態から乖離した資本主義の歪み” が露わになっています。こういう瞬間にこそ、マルクスは読み直すに値すると思います。≫


          *

 僕は、『人新世(ひとしんせい)の 「資本論」』 を取り寄せた。



 カバーに曰く。


≪人新世【ひと・しんせい】=人類が地球を破壊しつくす時代。≫


 そして、以下のような推薦の言葉が掲載されている。――


≪ 斎藤はピケティを超えた。これぞ、真の 「21世紀の 『資本論』」 である。
                         佐藤 優 氏

   「マルクスへ帰れ」 と人は言う。だがマルクスからどこへ行く?
   斎藤幸平は、その答えに誰よりも早くたどり着いた。
   理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。
                         白井 聡 氏

   気候、マルクス、人新世。
   これらを横断する経済思想が、ついに出現したね。
   日本は、そんな才能を待っていた!
                         松岡正剛氏

   気候危機をとめ、生活を豊かにし
   余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら。
                         坂本龍一氏

   資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。
   だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。
   常識を破る、衝撃の名著だ。
                         水野和夫氏

   経済力が振るう無慈悲な暴力に泣き寝入りをせず、
   未来を逞しく生きる知恵と力を養いたいのであれば、
   本書は間違いなく力強い支えとなる。
                       ヤマザキマリ氏 ≫



 本書の序文に曰く――


≪  はじめに――SDGsは 「大衆のアヘン」 である!

 温暖化対策として、あなたは、なにかしているだろうか。レジ袋削減のために、エコバッグを買った? ペットボトル入り飲料を買わないようにマイボトルを持ち歩いている? 車をハイブリッドカーにした?

 はっきり言おう。その善意だけなら無意味に終わる。それどころか、その善意は有害でさえある。

 なぜだろうか。温暖化対策をしていると思い込むことで、真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしまうからだ。良心の呵責から逃れ、現実の危機から目を背けることを許す 「免罪符」 として機能する消費行動は、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺くグリーン・ウォッシュにいとも簡単に取り込まれてしまう。

 では、国連が掲げ、各国政府も大企業も推進する 「SDGs(持続可能な開発目標)」 なら地球全体の環境を変えていくことができるだろうか。いや、それもやはりうまくいかない。政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。

 かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる 「宗教」 を 「大衆のアヘン」 だと批判した。SDGsはまさに現代版 「大衆のアヘン」 である。

 アヘンに逃げ込むことなく、直視しなくてはならない現実は、私たち人間が地球のあり方を取り返しのつかないほど大きく変えてしまっているということだ。

 人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを 「人新世」(anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。

 実際、ビル、工場、道路、農地、ダムなどが地表を埋めつくし、海洋にはマイクロ・プラスチックが大量に浮遊している。人工物が地球を大きく変えているのだ。とりわけそのなかでも、人類の活動によって飛躍的に増大しているのが、大気中の二酸化炭素である。

 ご存じのとおり、二酸化炭素は温室効果ガスのひとつだ。温室効果ガスが地表から放射された熱を吸収し、大気は暖まっていく。その温室効果のおかげで、地球は、人間が暮らしていける気温に保たれてきた。

 ところが、産業革命以降、人間は石炭や石油などの化石燃料を大量に使用し、膨大な二酸化炭素を排出するようになった。産業革命以前には280ppmであった大気中の二酸化炭素濃度が、ついに2016年には、南極でも400ppmを超えてしまった。これは400万年ぶりのことだという。そして、その値は、今この瞬間も増え続けている。

 400万年前の 「鮮新世」 の平均気温は現在よりも2~3℃高く、南極やグリーンランドの氷床は融解しており、海面は最低でも6m高かったという。なかには10~20mほど高かったとする研究もある。

 「人新世」 の気候変動も、当時と同じような状況に地球環境を近づけていくのだろうか。人類が築いてきた文明が、存続の危機に直面しているのは間違いない。

 近代化による経済成長は、豊かな生活を約束していたはずだった。ところが、「人新世」 の環境危機によって明らかになりつつあるのは、皮肉なことに、まさに経済成長が、人類の繁栄の基盤を切り崩しつつあるという事実である。

 気候変動が急激に進んでも、超富裕層は、これまでどおりの放埒な生活を続けることができるかもしれない。しかし、私たち庶民のほとんどは、これまでの暮らしを失い、どう生き延びるのかを必死で探ることになる。

 そのような事態を避けるためには、政治家や専門家だけに危機対応を任せていてはならない。「人任せ」 では、超富裕層が優遇されるだけだろう。だからより良い未来を選択するためには、市民の一人ひとりが当事者として立ち上がり、声を上げ、行動しなければならないのだ。そうはいっても、ただ闇雲に声を上げるだけでは貴重な時間を浪費してしまう。正しい方向を目指すのが肝腎となる。

 この正しい方向を突き止めるためには、気候危機の原因にまでさかのぼる必要がある。その原因の鍵を握るのが、資本主義にほかならない。なぜなら二酸化炭素の排出量が大きく増え始めたのは、産業革命以降、つまり資本主義が本格的に始動して以来のことだからだ。そして、その直後に、資本について考え抜いた思想家がいた。そう、カール・マルクスである。

 本書はそのマルクスの 『資本論』 を折々に参照しながら、「人新世」 における資本と社会と自然の絡み合いを分析していく。もちろん、これまでのマルクス主義の焼き直しをするつもりは毛頭ない。150年ほど眠っていたマルクスの思想のまったく新しい面を 「発掘」 し、展開するつもりだ。

 この 「人新世の 『資本論』」 は、気候危機の時代に、より良い社会を作り出すための想像力を解放してくれるだろう。≫



 ――「今こそマルクス」

 「マルクス 『資本論』 が人類を救う」

 という。

 僕は、

 「今こそ 『生命の實相』」 「『生命の實相』 が人類を救う」

 と思っているけれども、これから斎藤幸平氏の 『人新世の「資本論」』 をよく読み、学ぶべき所はしっかり学びながら、それを超える大真理を宣揚して行きたいと思う。


  (2021.3.11)

593 東京オリンピックは、素晴らしい


 東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗氏が不適切発言をしたということで糾弾され、IOC(国際オリンピック委員会)も当初は森氏の謝罪後に 「問題は終了」 としていたが、その後も批判が収まらない状況に 「森氏の発言は絶対に不適切だった」 と、“手のひら返し” の声明を発表。辞任への決定打となり、森氏は追い込まれて辞任することとなった。

 IOCの声明文を原文(英文)で見てみる。

《 …… Inclusion, diversity and gender equality are integral components of the work of the International Olympic Committee (IOC).

Over the past 25 years, the IOC has played an important role in promoting women in and through sport, and it will continue to do so by setting ambitious targets. In the challenging context we live in, now more than ever, diversity is a fundamental value that we need to respect and draw strength from.

The recent comments of Tokyo 2020 President Mori were absolutely inappropriate and contradiction to the IOC's commitments and the reforms of its Olympic Agenda 2020. He apologised and later made a number of subsequent comments.

Besides Mr. Mori's apology, the Tokyo 2020 Organizing Committee (OCOG) also considers his comment to be inappropriate and has reaffirmed its commitment to gender equality.

…… 》


 上記英文の3段目、日本語では概ね 「森氏の発言は完全に不適切だった」 と訳して報道されたが、原文は 「absolutely inappropriate」 で、“absolute” とは 「絶対」 ということだから、「絶対的に不適切」 ということである。

 ということは、IOCが目指してきた 「包容、多様性と男女平等」 こそが絶対的価値であり、これに反するものは絶対に許されない、ということだ。

 併し、この世に 「絶対」 というものがあるだろうか。

 IOCは、自分たちが目指した来たことにこそ絶対的価値があり、森氏は絶対に間違っているとして、長年東京オリンピック成功のために献身してきた森氏を排撃、排除している。それはつまり、上記英文の冒頭 “Inclusion”(包含、包容)というモットーに反する不寛容な、不適切な排除 ――“Exclusion” の行動――矛盾の行動をしているということである。

 そういう矛盾を感じるのは僕だけであろうか。

 この世に(現象世界に) 「絶対」 というものはないのである。現象世界はすべて 「相対」 の世界なのである。現象界の一つの主義を 「絶対」 として他を排撃することから今世界の分断対立抗争が巻き起こっている。オリンピックはそれを止揚して 「一つ」 の理想を実現しようとするのなら、IOCの声明は矛盾していると言わざるを得まい。

 そもそも、「性差なし」 「男女平等」 ということは、「人間は肉体ではなく、肉体を超えた霊的実在である」 という人間観に立たなければ成り立たないことなのである。肉体的には歴然と性差があるではないか。性差がないのなら、オリンピック競技はすべて男女別にせず一緒に行い、宿泊もトイレも一緒にすべしということになる。そうしないのは、肉体的には歴然と性差があるからではないか。

 肉体的に性差がありながら、「男女平等」 が叫ばれるのは、人間の本質が肉体を超えた霊的実在であるということを人類は暗黙のうちに知っているからである。霊的実在の世界において、人間は性差も人種の差も超えて、身体障害者も精神障害者も知的障害者も、みな平等に尊いのである。

 今こそ、「人間は肉体ではない。霊的実在である。肉体を超えて永遠に生きる神の子である、仏の子である」 という根本真理を人類が “reaffirm” 再確認し断言し、新しい価値観に立った人間教育の革命的転換をすべき時なのではないか。

 今回東京オリンピック 2020 は、新型コロナウイルス蔓延という不測の事態が起こり、数々のトラブルが続出し、挙げ句はこの森会長辞任だ。もう、形の上でのオリンピック・パラリンピック大成功はあり得ないだろう。

 『文藝春秋』 3月号でジャーナリストの後藤逸郎氏は 「東京オリンピックを中止すべき 『7つの理由』」 と題し、まず冒頭に次のように書いている。

≪ 国際オリンピック委員会(IOC)は1月27日の会見で、…バッハ会長は 「我々の役割はオリンピックを開催すること」 と言い切った。「平和の祭典」 を名乗ってきた主催者が、感染防止より大会を最優先する 「世界最大級のスポーツ興行主」 の本性をむき出しにした瞬間だった。

 ……内外で中止論が沸き起こる中、「大会は我々がまだいるトンネンルの先の光だ」 とした。日本政府と東京都、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会もそろってIOCと共に半年後のオリンピック開催を強調した。

 菅義偉首相が口にする 「人類がコロナに勝った証としてのオリンピック開催」 は、感染収束があって初めて成り立つものだ。…このまま開催に突き進むなら、東京オリンピックは人類史の汚点として記憶されるだろう。……≫


 として、中止すべき七つの主な理由というのを挙げている。

 これはまだ森会長辞任以前の段階のことである。

 ここに、森会長の “不適切発言” による辞任というハプニングが起こった。

 そして後継者選びの問題で、ああでもない、こうでもないと騒がれて、 なかなか前に進めない。

 
「人生は、学校だ。そして其処に於ける失敗は、成功よりも優れた教師なのだ」

 と、トルストイの 『人生読本』 にあった。

 今、人類はかけがえのない学習をしつつある。

 人類が霊的進化を遂げることにこそ価値があるとすれば、このオリンピック “大蹉跌” こそ、より大局的な意義において、“大成功” の機会を戴いているのではないかと、僕は考える。

 このオリンピック大蹉跌をきっかけとして、人類が 「人間とは哺乳動物の進化した高等動物である」 「人間は肉体である」 という常識的自覚から一転して、「人間は肉体ではない。肉体を使って神の理想を実現するために神から遣わされた神の子である」 という大自覚に転じ、やがて学校教育でもそれを教えるように変わっていく……という大転換の始まりになるとしたら、それは素晴らしいことではないか。

 #558#559 で書いたように、「アガシャの預言」 で

≪ まったく近いうちに、地上のすべての政治、経済体制は、ガラリと一新される。技術も、社会も、今とは比較にならないほど進歩する。理解がみなぎり、一体となった世界社会が実現する。

 最も変るのは教育である。その理論も実際も、根底から改革される。それは、人間観に一大変革が起こるからである。

 人間とは何か?

 現在では、環境にもみくだかれ、生活にこづき回され、機械や社会体制の部品となって、いつ廃物とされるかわからない、情けない、無力で不安定な存在にすぎない。人間とは本来、そういうものではなく、宇宙的にかかわりあっている、巨大な存在なのだ――と、アガシャは教える。

 それを自覚せねばならぬ時がまもなく訪れてくる。激しいショックを受け、大きな試練をのりこえて、いやでも人間は、本当の自分自身に目ざめ、偉大な自覚を抱くようになる。それがつまり地上の浄化だ。

 この上もなく平和な、輝かしい時代は、人類をゆり動かす大きなショックとともにやってくる。≫

≪2020年より後には 「地上天国があらわれ……神が凡ての神の子達のために計画し給うた生活」 が訪れるであろう。≫


 とあった。

 その時が今、来ているのだ。

 たとい形の上で大失敗しても、霊的進化の上で大成功すれば、それこそが、“東京オリンピック 2020” の歴史的な偉大なレガシー(遺産)となるのではないだろうか。そういう意味で

 
“東京オリンピックは、素晴らしい!”


  (2021.2.15)

592 禍福は糾(あざな)える縄の如く (2)
       ― 何が起きても 「私は運がいい ! 」 ―


 以下は、前回にひきつづき短歌会誌 『爽樹』 の2月号に寄稿発表した文章です。長文なので、お時間のあるとき、少しずつでもご覧いただけたらと思います。目次を掲げます。項目をクリックしていただくと、その部分が出て来ます。

 なお、前項 #591 にも目次を付けて形を整えました。どうぞご覧ください。


     目  次


1.あなたは運がいいですか?

2.敗戦で “どん底” に堕ちた父

3.僕の不思議体験

4.受験勉強の極楽から合格後地獄へ

5.東大で “どん底” 落第生に堕ちた僕

6.教育とは動物の調教なのか!

7.今も見る 「単位不足」 の悪夢


          ○


   1.あなたは運がいいですか?


 昭和の大経営者松下幸之助氏は、社員面接の最後に必ず 「あなたは運がいいですか?」 と質問した。「運が悪いです」 と答えた人は、どれだけ学歴や他の面接結果が良くても不採用にしたというエピソードが有名だ。

 自分のことを 「運がいい」 といえる人は、

・運命に謙虚なため、自分の力に酔うことはない

・恵まれているという自覚から感謝の気持ち、社会貢献の使命感をもてる

・運ということ
(禍福は糾える縄の如しだということ)を知っているので、失敗や成功に一喜一憂しない

 ――その結果、人と調和し、いい仕事ができて、信じた通り好運(幸運)の結果を招来するからだという。

 「自分は運が悪い」 と思っている人はその逆である。

 松下幸之助は、地主の家に生まれたが四歳の頃に没落して極貧の生活に陥り、小学校も満足に卒業できなかった。兄弟姉妹、父母も早くに亡くす。セメント会社で働いていた折、船から落ちてあわや溺れ死にしそうになる。自転車に乗っていたとき車に衝突して線路上に倒れ、電車にひかれそうになるなど、外から見ればまことに運が悪いというべきことを数々体験した。しかし――

 同じ出来事でも見方考え方によっては運が強いということになる。溺れそうになった松下は、それでも通りかかった船に助けられたのは運がよいからだと考える。自動車に衝突して電車のレールの上に投げ出された時も直前で電車が止まった、しかも傷一つない。なんと自分は運が強いのかとプラスに解釈する。そうして生かされ、人々に助けられて成功したのは、自分は運が強いからだ、自分は運が良いと信じた結果だという。人は信じた通りになるのだ。


    2.敗戦で “どん底” に堕
(お)ちた父


 さて、前にも書いたように私の父は軍人だった。陸軍大学には入らなかったが、最後は陸軍少将で旅団長。軍人は尊敬もされていたし、給与もよかったに違いない。私が小学1年から3年の1学期まで父は丹波篠山の連隊長をしていて、一家は篠山城址のお堀端の、元上級の武家屋敷だったような大きな家に住み、女中を3人も雇っていた。出勤時には当番兵が馬を連れて迎えに来る。その馬に乗って町の目抜き通りをパッカパッカと連隊本部へ行くのである。その時代を天国とするならば、敗戦後は地獄だった。

 父は自叙回顧録に 「荒々しいことを好まぬ性質であったので軍人は適当でなかったようだ。従って大いに成功もしなかった」 と書いているが、おかげで戦犯として処刑されるようなことなく、終戦時中支に出征していたが、敗戦の翌昭和21年4月には無事帰還することができた。

 しかし――明治以来日本では国家に対して生命を捧げた人々およびその遺族等に対して 「軍人恩給」 を支払うという国家補償制度があったが、占領軍総司令官マッカーサー元帥は昭和20年11月、日本政府に対して 「日本軍復員将兵の退職手当・恩給の支払い停止」 を命令した。

 占領軍の命令は、絶対的なものだった。それで退職手当も恩給もなし。父は無収入になったばかりか、翌昭和21年2月に幣原内閣が発表した 「新円切替」 により、現金および預貯金等の資産は凍結され、日本国債等の債権とともに紙屑同然、ほぼ無価値となった。インフレが進む中、引出し額は1世帯1ヵ月500円以内と制限されたから、一挙に貧乏のどん底に落とされたのである。

 それまで山口でも豪邸というに近い大きな屋敷に住んでいた一家は、乞食小屋かと見まがうような小さくて煤だらけの家に引っ越さなければならなかった。帰還した父は、「こんな家に入れと大家さんは言ったのか」 と絶句した。

 当時、父は53歳。まだまだ働ける年齢であるからと職を求めたら、当時山口に1店だけあった百貨店で採用してくれたので通勤が始まった。その百貨店では進駐米軍からケーキ作りを依頼されていたが、そこで出たケーキの屑をもらって持ち帰ることがあり、僕らはそれを食べて、「こんな美味しいものがこの世にあったのか」とビックリし、喜んで食べたことを思い出す。しかしそれは長くは続かず、若い女子の店員にバカにされたと怒って、1週間で辞めてしまう。

 しかし遊んでいるわけには行かないから、何か事業を始めようかと、材木の取引商を試みたりしたが、数十年間軍人を務めてきた父は、人に命令はできても頭を下げることができない。したがって商売のできない人間になっていた。ことごとに思うように行かず苦労した父は、敗北感で身も心も浮浪者のような雰囲気になり、不機嫌で子供を叱るから子供にも恐れられたり嫌われたりする。

 そうした時に、知人から勧められて 「生長の家」 という宗教団体の集まりに行くようになる。気がついてみたら、その創始者谷口雅春著 『生命の實相』 という本が、戦時中から家にあったのだった。それは胃腸が弱いという父に、部下の者が 「この本を読むといいようです」 と、持って来てくれたのだという。

 父は戦時中は読まなかったその本に引き付けられて真剣に読み、砂漠でオアシスに出会ったように、「生長の家」 でよみがえる。「生長の家」 の集まりに出かける父は、急に明るくなって、子供が遠足に行くのをはしゃいで喜んでいるような雰囲気だった。


    3.僕の不思議体験


 そうした父博明のことを、僕は 「武人らしからぬ武人であったと思う」 と書いた(前号)。

 では、その長男正章はどうか。

 これは、父親に輪をかけた全く無気力、軟弱な男だったのではないか(今は違うけれども……)。

 「今は違う」 というのは何故か。それは、高校2年から3年になる間の春休みに、不思議な体験をして、生まれかわったからである。

 その日のことを、僕が特に中学生・高校生向けに書いたりしゃべったりした記録があるので、それを引っぱってこよう。


《 私の祖母は熱心なクリスチャンでした。といっても私が四歳の時に亡くなっているので、自分の記憶はあまりないのですが、私は三人の姉のあとで生まれた長男なので、口ぐせのように 「長男正章、長男正章」 と、目の中に入れても痛くないほどかわいがってもらったようです。それで私はよその人から 「坊ちゃん、お名前なんていうの?」 ときかれたら、「岡チョウナンマチャアキ」 と答えたということです。

 そのころ一家は奈良にいましたので、祖母の葬送式は奈良のキリスト教会で、讃美歌とともに行なわれました。それからまもなく私はキリスト教の幼稚園に入り、そこでは子どもの讃美歌を歌う毎日でした。そんなわけで私は讃美歌が大好きです。讃美歌を聴いたり歌ったりすると、心の底からなつかしく思います。そして洗礼を受けたことはないけれど、折りにふれてイエス・キリストの言葉が魂の底からよみがえってくるのは、亡き祖母の導きでしょうか。

 私は小さいころ特に体が弱く、ひょろひょろで、よく学校を休みました。父が昔の陸軍軍人で、だいたい2年ごとに転勤があり、子供はそのたびに転校でした。私が小学校3年の時に山口県山口市の小学校に転校したときには、いじめにもあいました。表面はおとなしい、いい子で、成績はよい方だったけれども、自信がなく、積極性のかけらもないような私でした。

 私は肉体が自分だと思っていましたから、高校生になってからは特に劣等感のとりこになり、死にたいとすら思うほどになりました。

 そして高校2年の時、実際病気で死にかけたのです。

 しかし、父母の愛に満ちた祈りと看病によって、私は死にませんでした。父はその頃生長の家にふれて、熱心に 『生命の實相』 を読んでいました。

 病気がやっと快復してきたある日、突然私は

 「お前は生命(いのち)だよ! 生きているのだ! 生きている生命は使わなくてはだめだ! 生命は使って伸びることが、喜びなのだ! すべては喜びばかりなのだよ!」

 という声のない声が聞こえたような気がしました。私はその瞬間、いいようのない感動に全身がふるえました。

 すぐに私は裸足で外の畑へ飛び出して行きました。力いっぱい働きました。

 それは昭和26年、まだ戦後の、食糧が足りなくて飢えていたようなときです。うちは父がもと職業軍人で、終戦とともに失業し、多勢の子供をかかえ(兄弟7人です)苦労していました。それで、空地を耕して、ジャガイモを作ったり、カボチャを作ったりして腹の足しにしていたんです。けれども、私は、力を出せば出すだけエネルギーを消耗して、自分の身体が弱るんだと思っていましたから、たいへんな利己主義者で、なるべく働かないようにしていたわけです。

 ところがその日突然、私の世界が一変しました。それまでは、消極的で暗くて利己主義者で、畑仕事やってくれといわれても何だかだと文句をいってやらなかったのが、もう働きたくてしようがない。昨日までの私は、働いたらくたびれて死んでしまう、働いたら損だ――と思っていました。ちがった! 今、私は生きているのだ! 生命なのだ! 生命は、力は、出せば出すほど無限に湧いてくるのだ! 力は出さなければ損なのだ、と感じられるのでした。心臓が高鳴るほど、うれしくて、うれしくてたまりませんでした。

 一所懸命働いてひとくぎりしてから家に入って見ますと、いつも掲げられている祖母の写真が、ニッコリと私の方を見てほほえんでいるように思われました。

 「それ罪の払う値は死なり、されど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠
(とこしえ)の生命(いのち)なり」

 「人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ。……人もし汝に1里ゆくことを強
(し)いなば、共に2里ゆけ」 というようなイエス・キリストの言葉が浮かんできました。

 それまで私は、イエス・キリストは 「なんという無理な、馬鹿げたことをいう人なんだろう」 と思っていたけれど、それが 「何と素晴らしいことをいう偉い男なんだろう」 と思えるのでした。

 はじめて、私の中に無限の希望がわいてきました。それから私は勉強も、家のために働くのも、喜びばかりとなり、希望に燃えて何でも積極的に力いっぱいするようになりました。すべてが、喜びなのでした。

 そうしましたら、それまで何の希望も描けなかった、大学進学などということも考えたことのなかった自分でしたが、あらゆることに無限の可能性があるという、希望が湧いてきたんです。

 その頃、昭和26年ですが、山口高校に赴任して来られた山中鉄三という先生が、早稲田大学の文学部を出た方で、歌人で、新鮮な、哲学者のような魅力のある先生だったんですが、その先生が 「君達、東京へ行け、東京へ行け」 といわれた。山口というところは、県庁の所在地として、日本一静かな、あまり活気のないところでした。

 「若いうちは、一流のものに触れることが大事だよ。東京に行ってみろ」 といわれるので、

 「それじゃ、自分は東京に行こう。家は経済的にとてもきついから、金のかからない、国立の大学に行こう、それだったら東大にいこう。今まで、自分は勉強なんか特別したことがないのに、いつも学校の成績はよかった。俺は頭がいいのだ。勉強したらすごいことになるぞ。最高のところに行こう。自分にはこれから無限の前途がひらけている」

 そう思ったら、歌が出て来たんですよ。歌のように、希望のことばが湧いて来たんです。

  「東大だ! 東大だ! 

    そうだ、希望だ、東大だ!」

 という風にですね。それがリズムに乗って出てくるんです。それで毎日、朝晩、その文句をノートなどに書きつけていました。そうして1年間、希望にもえ、生まれて初めて一所懸命に勉強しました。

 その頃よく 「灰色の受験生活」 とか、「受験地獄」 という言葉を聞きました。が、私にとってはそんな言葉は全く無縁で、その受験勉強の1年間は、これ以上輝いたバラ色の日々はなかったというほど嬉しい輝かしい日々でした。

 そうして勉強中、山口高校3年の3学期に入り、1月下旬のことです。ある夜、けたたましい消防車のサイレンと鐘の音が聞こえ、外へ出てみると空が赤く輝いていました。母校が猛火に包まれ焼けているのでした。当時の校舎は木造でしたから、あっという間に全焼してしまいました。そして生徒の成績評価などを記録した書類も全て灰になってしまったのです。

 私はその前、成績のことを気にして心が引っかかっていました。それが火事になって全部焼けたとき、思いました。形あるものはみんな夢の如くはかないものだ。点数や他人の評価なんか問題ではない。問題は本当の中味だ。本当に、自分が永遠の魂の世界にどれだけ価値あるものを積んだかということだけが問題なのだ! と。

 「なんじら己
(おの)がために財宝(たから)を地に積むな、ここは虫と錆(さび)とが損ない、盗人(ぬすびと)うがちて盗むなり。なんじら己がために財宝(たから)を天に積め、かしこは虫と錆とが損なわず、盗人うがちて盗まぬなり」 という聖書の言葉が心に浮かんできました。

 校舎を失った3学期の残る期間、私は動揺することなく、学校を全くあてにせずに、自分のペースで必死に勉強しました。入学試験に受かっても、受からなくても、そんなことはどうでもよい。しかし、「今」 自分の命が伸びる喜びのために、「今」 力いっぱい勉強するのだ――と。

 そうして勉強しているうちに、好きな英語や物理、生物などは面白くて進んだけれども、数学などは不得意でまだ全然基礎勉強が足りないから、今年度の受験をやめようと思いました。1年浪人して猛勉し、来年度万善の準備を整えて受験しようと。

 しかし受験願書提出の期限が近づいた時、ふと思いました。今まで学校で実施してくれた入試の 「模擬試験」 で、自分は全校で2番とか、結構上位の成績で注目されたこともある。せっかくの機会だから、模擬試験のつもりで、願書を出して受けてみようか――と。

 それでやってみたら、〈幸か不幸か〉その “模擬試験” に合格してしまったのでした。

 それまでは新制になった山口高校から東大にストレートで合格したものは誰もいなかったんですが、私はその皮切りで、ストレートで東大に入っちやったんです。》



    4.受験勉強の極楽から合格後地獄へ


 俺は、東大に入ったんだぞ。天下の東大生になったんだぞ。ざまあ見やがれ!

     東大応援歌 「ただ一つ」 (一番は略す)

(二)ただ一つ 歌ごえ高し
   いまなりわたる 疾風
(はやて)の力
   双眼の 澄める子ら 友よ 友
   ここなる杜
(もり)に 東大の歌湧けり
    伝統の歌 東大の力
    たたえ たたえん たたえ たたえん

 ――とて、見事(?)東大に入った僕はホッケー部に勧誘され、駒場寮に入寮。夏には山中湖畔の森の中の山中寮グラウンドを駆け回り、右の歌を高唱したことを懐かしく思い出す。だが、それは大東亜戦争勃発時に 「起つや忽ち撃滅の……」 と歌った日本が、忽ち苦戦に陥ったのと同様、僕の東大生活も忽ち苦戦に入るのだが。

 苦戦の話に突入する前に、ちょっと苦い笑い話を一つ。

 山口中学同期生で住まいが隣近所だった引揚者の友人K君が、中学を卒業して直ぐ上京して働いていた。彼は僕の東大合格を聞き、合格祝いだとて、隅田川の水上バスに乗せてくれ、浅草六区でストリップショーを見物させてくれた。それはダンサーがラベル作曲ボレロの音楽に合わせて順々に衣裳を脱ぎ捨てて行くショーだった。僕はこの音楽を聴いたのは初めてだったので、これは 「ストリップの音楽」 として印象づけられ、その後ラベルのボレロを聴くたびに若き日のストリップ見学を思い出して困った。

 K君はその後発病して早世し、何も恩返しができないままだ。ご冥福を祈るばかりである。


    5.東大で “どん底” 落第生に堕ちた僕


 「東大だ! 東大だ! そうだ、希望だ、東大だ!」

 と毎朝夕心に唱え、それが叶って東大に入学した僕は、その先の具体的目標がなかった。ただ、あの高校2年から3年になる間の春休みのある日突然、私の世界が一変し、全身が歓喜にうちふるえた体験――あれは一体何だったのだろう――という思いがつのり、ただ何でも体験してやろうと思う。

 ところが僕は、全然まだ基礎学力が不足していた。東大駒場キャンパスで最初の2年間、教養学部の授業について行けない。理科2類という生物系コースに入ったのだが、特に数学がだめだった。あせった。精神的に不安定で耐えられないほど苦しい。神経症という状態になっていた。僕の人生で最も苦しかった時代である。

 しかし己の学力不足でついて行けないのを、ただ大学の教育環境が悪い、教員が悪い、学生が悪いと、他のせいに考えた。後に、ある雑誌に次のように書いている。

《 新制大学において、最初の2年ばかり、広く一般教養科目というのが授けられる。これは基礎を広くとって、将来大いに伸び得る弾力性をもった人間、複雑な社会の中において自主的判断のできる人間を作ることが目的で設けられたものだそうである。

 しかし、その目的のために最も重要であるべき人文科学・社会科学などの講義の多くは、数百人いっしょの大教室で、マイクを使ってのマス・プロ講義、学生はそれを、進学のための点かせぎに一生懸命筆記して詰め込むが、そのばかばかしく退屈なこと夥しい。

 各学科はすべてバラバラで、学生が 「人間」 として統一的世界観を形成するための教育などには程遠いといわねばならぬだろう。

 私は今でも、駒場の本館アーケードの掲示板に貼られた教務課の事務的な掲示や、角帽、詰襟の学生服、革のカバンに固い表情でぞろぞろと大教室へ講義を聴きに行く“俊秀”たちを思い浮かべると、戦慄する。

 優秀な学生なら、誰でもこのような学生生活には満足しまい。もしすべての、あるいは大部分の学生がこのような状態で満足しているような無気力なことだったら、日本の将来は危いといわねばならぬだろう。その意味で全学連の行動は、日本の学生の素質の優秀性を示すものとして喜ぶべきことであるかも知れないと思うが……》



 寮生活をしながら、哲学・宗教的なもの、クラシック音楽などにのめり込み、また各種のアルバイトを体験したが、大学での講義などはばかばかしく思われ、ほとんど授業に出ない。

 結果、高校ではトップクラスだった成績が、東大教養学部では “逆トツ” ――逆から数えてトップ、つまりビリのこと――というどん底の 「落第生」 の悲哀を味わう。

 駒場の生活に順応できずどん底に堕ちた僕は、トルストイの人生読本などを、溺れる者が藁を掴むように一所懸命読んでいた。渋谷の山手教会というところで賀川豊彦氏の熱弁を聴く。一灯園西田天香氏の 「懺悔の生活」 に傾倒したりもする。

 さらにまた高校時代に父が熱読していた 『生命の實相』 を自分も読んでみたいという気持ちが高まり、求めて夢中で読む。そして

 「万教帰一」(キリスト教も仏教も日本神道も宇宙の根本真理を説いており、本来同一真理である。神=仏は完全であり人間も本来神の子、仏の子であって完全円満、無病不死の生命である。これを自覚する時、一切の悩みは消える)

 と説く生長の家の教えを究めたいと決意し、生長の家青年会に入会して創始者谷口雅春師に直接指導を受ける。

 また夏目漱石の 『三四郎』 を読むと、「天才は何の目的もなくブラブラしていなくてはいけないのだそうだ」 というセリフにも影響を受けた。

 トルストイの人生読本には、次のように書かれている。

○学問において是非とも究め知る必要のある唯一の知識は、吾人が如何に生くべきかという事実に対する知識である。

○無益な学問をうんとこさ学び知るよりは人生の法則を少し知る方がましである。

 そして松下幸之助氏とか、トーマス・エジソン、ヘンリー・フォードなど、学歴がなくて事業で成功した人たちの伝記などを読み、社会で成功するには学歴なんか関係ない――と、大学に「退学願い」を提出する。

 「東大は自分の勉強の妨げになることを自覚しましたので」

 と書いて。

 そのとき高校時代に尊敬し傾倒していた山中鉄三先生から、東京へ行くから会おうとお声が掛かる。お目にかかると先生は、

 「どうだい、元気でやっているかい」

 僕は 「はい。東大は蹴っ飛ばすことにしました。退学願いを出しました」 と、意気揚々と答える。

 先生は 「ほう。退学してどうするんだ?」

 僕 「どうするって、具体的にはまだ決まっていませんが」

 先生 「それはだめだ。ぼくが取り返しに行ってやる」

 ――それで退学願いは結局撤回することになる。

 退学願いは撤回したが、準備が整えば退学して事業を始めようと、大学は休学にして、今で言えばベンチャー起業をしようと、夢中でいろいろ試みた。しかし世の中、そう甘くはなく、起業は全然軌道に乗らなかった。

 しかも駒場で留年・休学を繰り返し、本郷の専門学部へ進学するまでに通常2年で了えるところを6年かかったが、それでも数学が 「不可」 で取得単位が足りない。ここで進学できなかったら学則規程により除籍になる。数学の教授に 「何とかして下さい」 と頭を下げに行った。

 お情け点で辛うじて本郷の教育学部 「教育行政学科社会教育コース」(当時)に進学したのは昭和33年(1958)だった。そこではまた別の難題が待ち構えていた。


    6.教育とは動物の調教なのか!


 東大教育学部というのは戦後昭和24年(1949)、占領下でマッカーサーの占領政策に添って、“民主主義教育” 普及啓蒙のため、それまでの 「文学部教育学科」 を独立させて設置された学部であり、社会教育コースの主任は宮原誠一教授。

 戦後日本の新たな教育体制をいかにすべきか。宮原教授は、「人間は学校によって形成されるよりも、社会そのものによって形成される。いまや学校教育と社会教育とはその関係を根本的に再調整すべき時である」 として、「教育の社会計画」 構想を打ち出していた。

 その宮原教授は日教組(日本教職員組合)講師団の一員で、「教師の倫理綱領」 執筆主要メンバーの一人となっていた。「教師の倫理綱領」 は日教組の憲法とも言うべきもので十項目あり、それにまえがき・解説が付いている。それを読むとこれは 「共産革命の戦士を育てるのが教師の使命である」 とも解されるようなものだった。

 これは保守系の団体や学者たちから猛烈な批判を浴び、昭和35年荒木満寿夫氏が文部大臣になると日教組を激しく攻撃。こんな綱領を持つ日教組とは今後面会しないと言った。

 結果、昭和40年(1965)に日教組はこの倫理綱領のまえがきと説明部分を穏健な書き方に直すなどして、平成7年(1995)にやっと文部省と和解に至るものである。

 僕は前述のように、谷口雅春師創始の生命の実相哲学を究めてこれを生きようと決意していた。そこで思う――

 教育とは何か。教育の対象は人間である。「人間とは何か」 という哲学が確立されていない教育学は根無し草だ。

 人間とは哺乳動物の進化の頂点にある高等動物であって要するに動物の一種にすぎないのか。人間が肉体、動物であるとするなら、教育とは要するに動物の調教なのか。

 それとも肉体は地球上で生活するための宇宙服みたいなものであって、人間はそれを使って或る理想目的を達成しようとしている主人公、霊(たましい、生命)なのか。

 このことは教育学を打ち立てる根本基礎であって、それなしに何かを論じても、それは砂上の楼閣ではないのか。

 谷口雅春著 『生命の實相』 では、その根本が繰り返し繰り返し明確に説かれている。が、宮原誠一教授をはじめ、東大教育学部の講師陣の説く教育学には、その 「人間とは何か」 の根本哲学が欠けていると僕は思った。

 さらに当時、昭和32年に全貌社という出版社から 『進歩的文化人―学者先生戦前戦後言質集』 という本が出版されていた。「戦時中は 『戦争は人類進歩の原動力』 と極言して体制迎合し、戦後になると平和主義者・民主主義者に豹変した人」 という暴露本だ。そこに宮原教授は 《宮原誠一(東京大学教授)武士道教育論から日教組お抱え講師》 として挙げられていた。

 生長の家は、戦前も戦中も戦後も一貫して 「人間は神の子」 「万教帰一」 を説いてきた。そして

 「神の国は中心が一つで、『一切の生物その処を得て争うものなく相食むものなく病む者なく苦しむ者なく乏しきものなし』 という大調和の世界でなければならない。

  イエスが 『みこころの天に成るがごとく地にも成らせ給え』 と祈るように教えたその 『みこころの天に成る世界』、釈迦が金色
(こんじき)の蓮華(れんげ)の華(はな)を拈(ひね)って示した中心帰一の理想世界を、歴史上最もよく現してきたのは日本である。日本の理想 『八紘一宇(はつこういちう)』 とは世界が一つの家族のように仲よく平和に暮らせるようにしようという神の国の理想だ。それを象徴しているのが日の丸の国旗だ」

 そしてその理想は敗戦によっても滅びていない、と説いている。

 それで生長の家の谷口雅春師は日教組否定の急先鋒で、宮原誠一教授を含む “進歩的文化人” たちを鋭く攻撃しておられた。僕の置かれた環境はまたしても苦しい。

 宮原教授をはじめ教育学部の教授・助教授・講師・助手・学生・そして事務職員など、みんな熱心で、明るく、いい人たちだった。先輩四年生は、協力しチームワークでセツルメントという地域社会での実践活動を行っていた。

 だが僕は、みんないい人たちだからこそ、自分の思いを隠すわけにはいかない。すべてさらけ出す。生命の実相哲学に共鳴し、生長の家の運動に参じていることも公表した。

 当時助教授だった碓井
(うすい)正久氏は、『生命の實相』 を読んだことがあると言われた。しかし 「あれはまやかしだよ。」 と言いながら、持っていた鉛筆削りのカッターで自分の指を傷つけ、血を出してしまわれた。

 当時碓井氏は日本共産党系の民青(民主青年同盟)なども応援しておられたようだが、歌人斎藤茂吉の弟子で、歴史的仮名遣いを愛し、日本文化を敬してよく短歌を詠み歌集も出された。やがて東大評議員、教育学部長を務めたのち定年退職後は名誉教授となり、数年前に亡くなられた。

          ○

 さてそんな中で2年が経ち、卒業論文を書かなければならなくなった。直接の指導教官は碓井助教授だ。碓井氏は 「『生命の實相』 なんてまやかしだよ」 と言ったが、僕はそれを受け入れられない。といってそれを理路整然と論破できたわけでもない。またもや卒業できないだろうと思いながら、教官の意に反する短い論文を書いた。

 教育には、目指す理想、価値観がなければ成立しない。物質から理想が生まれるわけはないから、唯物論では教育学は成立しない、として、生命の実相哲学を基礎とした生命の教育実践こそ、これからの社会教育にもっとも価値あることだというようなことを書いたと思う。その頃の卒論は原稿用紙に手書きで、コピー機もまだなかったから、手許に写しはない。

 そんな論文をパスさせてくれるわけはないだろうと思っていたが、あに図らんや、宮原教授、碓井助教授、そしてもう一人裏田助教授という3人の教官が審査して、それを合格と認め、東大教育学部の卒業証書をもらった。それは、一番待ち望んでいてくれた山口の父のもとへ送った。昭和27年に入学してから8年目の昭和35年。安保改定の年であった。


    7.今も見る 「単位不足」 の悪夢


 僕は今でも時々学生時代の夢を見る。単位が足りないから卒業できない、というので冷汗かいてあせる夢である。

 東大にストレートで合格せず、一浪でもしてから入れば、入学後にそれほど苦労しなくてすんだのではないかと考えた事もある。しかし、そうでなく駒場で6年もかけて苦労したからこそ、得がたい体験ができ、今の自分がある。

 美術史家の辻惟夫氏が先月27日、日経新聞 「私の履歴書」 で書いておられた。

 「定年で再就職先を探したが、どこからも口がかからない。東大OBはプライドが高くて使いにくいとの風評があると教えてくれた人がいて、そうかもしれないなと納得した」

 と。僕も、順調に東大を卒業していたら、もっと傲慢になって嫌われる小さい人間になっていたのではないか。運よく逆トツの苦しい体験もできた。それは貴重な宝だったのだ。僕は全く運がいい、と考える。

 最近、短歌でない歌を作った。認定NPO法人 「ももの会」 の地域活動 「ももふらっと」 の歌である。


    ももふらっとのうた


一、もも もも もも

   やさしいもも

   うれしいもも

   たのしいもも

   心は太陽 さんさんさん

   わたしのもも

   あなたのもも

   みんなのもも

   ももふらっとは うれしいな

   ももふらっとは たのしいな

   ヤッホー! ヤッホー!

     ヤッホー!


二、もも もも もも

   あかるいもも

   げんきなもも

   ステキなもも

   心が歌う ランランラン

   わたしのもも

   あなたのもも

   みんなのもも

   みんなみんな 生きている

   生かされている このいのち

   ありがとう! ありがとう!

     ありがとう!


 「ももふらっと」 は、身心障害児なども神に生かされている神の子だとして尊敬し、その親子をみんなで励ましあい、交流しようというボランティア地域活動の場である。だれでもふらっと寄っていける 「こころのバリアフリー」 を目指そうと、原則として毎月一回、イベントを開催してきた。今も密集を避けオンラインでやっている。

 (僕は今年八十八歳の米寿を迎えるが)
 人生大学の卒論はまだ書けていない。これからまだあと十年以上かけて完成し、神から卒業証書を戴いて立派に卒業したいものだと願いつつ、精進を楽しむ毎日である。


  (2021.2.12)

591 禍福は糾(あざな)える縄の如く


 #586 で僕は、「コロナの禍を福に転じ、コロナ果をもたらそう」 と書いた。

 「禍
(わざわい)を転じて福と為す」 という故事ことわざがあるからである。

 ところで僕は、歌道(短歌、和歌の道)にも励んでいる。杉並区医師会会員の文化活動として始まった 「爽樹短歌会」 が、医師以外の一般人もひろく受け入れて研鑽しあっているので、これに縁あって入会させていただき、毎月10首以内の短歌を作って提出する。それが会誌 『爽樹』 に掲載されるほか、会員は輪番制で文章も投稿する。今回、1月号に僕が文章を投稿した。

 題して、

 「禍福は糾える縄の如く(1) ―父・母・先祖の歴史を顧みる―」

 というのです。

 それをここにご披露したいと思います。が、私的なこともいっぱい書いていて、かなり長文です。お時間のゆるすとき、少しずつでもお読みいただけるよう、まず目次を付します。目次の項目をクリックして頂くと、その項目の箇所にスキップして見られます。


       ■ 目  次 ■


1.『冬の夜』

2.「禍福はあざなえる縄の如し」

3.「いくさの手柄」 を書き残した祖父芳太郎

4.父 博明の回顧録より

5.ノモンハン事件

6.秋山好古の書、掛軸に

7.腕白坊主だった弟真之

8.「勝って兜の緒を締めよ」

9.母 お貞の死

10.歴史は糾える縄の如く変転する

11.新しい時代を切り拓く年の始まり


 なお、興味のあられる方は、PDFファイルでも見られるようにいたしますので、ダウンロードしてご覧ください。

 ⇒ 禍福はあざなえる縄の如く(1) <PDF>


          ○


《短歌会誌『爽樹』令和3年1月号寄稿原稿に若干加筆》

   禍福
(かふく)は糾(あざな)える縄の如く(1)
    ―父・母・先祖の歴史を顧みる―


   1.『冬の夜』


 昨年12月号 『爽樹』 「今月の歌」 で平川先生が、拙作

 「燈火
(ともしび)ちかく衣(きぬ)縫ふ母」 と歌ひたる昔なつかしかの冬憶(おも)

 を取り上げてくださり、

 「ここに挙げられた 『冬の夜』 のうたは私のようなオンチでもこころに滲みる。『かの冬憶ふ』 とあるので作者はこの歌の様な雰囲気の中で育たれたのだろう」

 と書いて下さったので、このことから思い浮かぶことを徒然
(つれづれ)なるままに記してみたいと思う。

 まず、その原歌 「冬の夜」 の歌詞は――
(旧かな)

     冬の夜
 (文部省唱歌)

 一.燈火ちかく 衣縫ふ母は
    春の遊びの 楽しさ語る
 (注。「春」とは正月を意味する)
    居並ぶ子どもは 指を折りつつ
    日数
(ひかず)かぞへて 喜び勇む
    囲炉裏火
(ゐろりび)は とろとろ
    外は吹雪

 二.囲炉裏の端
(はた)に 縄なふ父は
    過ぎしいくさの 手柄を語る
 (この1行は戦後「過ぎし昔の思ひ出語る」と変えて歌われた)
    居並ぶ子供は ねむさ忘れて
    耳を傾け こぶしを握る
    囲炉裏火は とろとろ
    外は吹雪

 というのである。

 わが家は農家ではなく父は職業軍人で、2年ごとに任地が移動しそのたびに引っ越しがあり、2歳の時満洲にも渡ったので、私の幼い頃は、必ずしもこの歌のように穏やかな環境ではなかったが、そのような情景が全くなかったわけでもない。

 一番の歌詞は、「もう幾つ寝るとお正月/お正月には凧揚げて/……」 と歌い語りながら、着るものを縫ったりほころびを繕ったりしている母、そして 「居並ぶ」 たくさんの子供たちの情景。

 わが家は7人兄弟姉妹だ。母は年を経て目が弱り針に糸を通すのが難しくなって、子供に 「この針に糸を通して頂戴」 と頼むようになったことを思い出す。

 満洲の冬は極寒で、暖房は囲炉裏ではなくペチカだ。しかし私は満洲では2、3歳くらいだったから、満洲の記憶はほとんどない。

 二番の歌詞に移ろう。「囲炉裏の端に縄なふ父は……」 とあるけれども、私の父は陸士(陸軍士官学校)を出た将校だったから、自分が 「縄をなう」 ことはしなかった。

 しかし私は、稲わらを材料に、両手両足を道具にして縄をない、わら草履を作ることが出来る。

 内地に戻って奈良から東大阪(当時布施市)に移り小学校2年生のときに「大東亜戦争」が勃発した。緒戦は 「起つや忽ち撃滅の/勝ちどきあがる太平洋……」 と破竹の勢いで連戦連勝、と思ったのも束の間。あっという間に連戦連敗、本土も激しい空襲に遭うようになった。

 その頃父は丹波篠山の連隊長から山口の連隊区司令官に異動。幸いに山口は空襲されなかったが、徳島にいた私と同い年の従兄弟は焼夷弾の直撃を受け火だるまになって焼け死んだと聞いた。

 食糧も物資も不足しいつも腹ぺこで、小学校は 「国民学校」 となり、学校の実習畠でサツマイモ作りに励んだ。縄をなうことや、わら草履を作ることも、「国民学校」 で教わったのである。


    2.「禍福はあざなえる縄の如し」


 「縄なふ父」 という歌詞が出て来たことから、上の諺が浮かんできた。

 禍
(わざわ)いと幸福は表裏一体で、まるで撚(よ)り合わせた縄のようにかわるがわるやってくるものだ。不幸だと思ったことが幸福に転じたり、幸福だと思っていたことが不幸に転じたりする。成功も失敗も縄のように表裏をなして、めまぐるしく変化するものだということのたとえで、出典は中国の古典 『史記』。

 「人間万事塞翁
(さいおう)が馬」 ともいう。昔、中国北方の塞(さい=とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が胡(こ)の地方に逃げた。人々が気の毒がると、老人は 「そのうちに福が来る」 と言った。やがて、その馬は胡の駿馬(しゆんめ=立派な馬)を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は 「これは不幸の元になるだろう」 と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子が落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は 「これが幸福の基になるだろう」 と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は兵役を免れたため、戦死しなくて済んだ――という故事から。人間は 「じんかん」 とも読み、「世間」 とか 「運命」 を意味するのだという。

 さて国書では、平安時代末期の1180年ごろ後白河法皇によって編まれた歌謡集 『梁塵秘抄
(りようじんひしよう)』 の中に、「吉凶は糾(あざな)へる縄の如し」 と出て来る。梁塵秘抄では、「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ」 という歌謡がよく知られている。

 ――人は遊びをしようと生まれてきた。戯れに興じようと生まれてきた。遊ぶ子どもの声を聞くと、大人の自分も声に合わせてつい体を揺すってしまうよ。(……はずなのに、大人になるとあくせく働き、人間関係に疲れ悲しみ、不運を嘆き……となっている人が多い!)ということ。

 さて、いま世界的に大変な 「コロナ禍」 が報ぜられているけれども、この 「禍」 を転じて 「コロナ果」 がもたらされることを信じ、恐れずに乗りこえて行くぞ、と思う。


   3.「いくさの手柄」 を書き残した祖父芳太郎


 さて、唱歌 「冬の夜」 二番の歌詞のつづき

 「過ぎしいくさの 手柄を語る」 に思う――。

 父・岡博明(1892~1968)は軍人だったが、家族に 「過ぎしいくさの手柄を語」 ったことは一度もない。語った、というか 「書き残した」 ものがあるのは、祖父だ。

 祖父・岡芳太郎(1864~1913)は、陸軍軍医だった。明治27年6月、日清戦争勃発の時、30歳で 「衛生隊付」 軍医として仁川から朝鮮半島に上陸し、大活躍した。

 岡家には 『岡氏略系』 という岡家の由緒歴史を記録した巻物があり、その中で第9代 芳太郎の項に、次のように記している――

 (文中 「繃帯処」 の 「繃帯」 は包帯で、負傷者の手当をする所。そこはまた戦死者の安置所にもなったようだ。)

《  (明治二十七年)七月二十九日決戦略況

 七月二十八日午後十二時、各隊露営地を発し、大部は成歓駅に、小部は安城渡に向て進軍す。我が衛生隊は安城渡附近に繃帯処を開くべき命を受け、工兵隊の後尾に接して進む。

 素沙壕を過ぎ、水田を貫く処の一路を南下する事若干時、俄然轟々として銃声起る。左顧すれば宿霧點怛の表一道 銃火閃々たり(午前三時頃)。頭上遽
(にわか)に笛声をなして二之弾丸飛ぶ。

 相語りて曰く、「成歓駅の開戦乎
(か)。弾力甚だ弱し」 語未だ了らず、忽ち弾丸雨注 為に耳聾す。馬を下て伏す。地物の弾丸を支ふべきなし。幾度か死を決す。

 衆動く。顧れば左右一人なし。暫くして命
(めい)あり、後方の一部落に退却すべしと。此の退却中医長一等軍医木下俊善昏倒す。之より予、医長となる。

 東巓
(とうてん)曙光を発し、衛生隊前進す。此時安城渡の敵潰走し、我兵追撃して成歓駅を攻む。

 衛生隊は安城渡の河中に繃帯処を開く。時に午前四時四十五分、死傷者続々来
(きた)る。

 成歓駅の戦は益々猛烈。我兵の勇往突進の状
(さま)、歴々指すべし。壮快言ふべからず。

 清兵遂に潰乱、牙山に向て走る。時に午前八時頃。此
(ここ)に於て繃帯処を成歓駅の松林中に移す。

 此役
(このえき)にて我兵(わがへい)即死七名、負傷四十四名、濠中に溺死せしもの二十三名。此日我兵は長駆(ちようく)牙山を略す。衛生隊は午後十二時平沢駅に到りて露営し、翌三十日牙山に入り、八月五日孔徳里に凱旋す。》


 ――右 「成歓牙山の役」 は、日清戦争の宣戦布告(8月1日)以前に中国軍が突如攻撃してきたので応戦して始まった戦いだった。

 この戦いの後、芳太郎は痔瘻症で手術を受けたが、手術後すぐに強
(し)いて退院し勤務に服した。それから脚気や赤痢に罹り、遂に11月広島陸軍予備病院へ還送されたという。

 その後心臓疾患も出て軍務には堪えられないと軍医を辞し、故郷愛媛県の宇和町で開業医となった。

 この日清戦役での功により芳太郎は同年30歳の時に 「勳六等単光旭日章」 を受章。明治37、38年戦役(日露戦争)の時は軍の将校・生徒・志願兵志願者等の身体検査医を務め、「明治三十九年勳五等双光旭日章を給ふ。

 同四十年東宇和郡医師会会長就任。大正二年九月、脂肪心にて没す。享年五十一歳。」 と 『岡氏略系』 にある。


       岡家先祖のことなど


 岡家先祖は元仙台の伊達公に仕えていた武士で、政宗の長子秀宗が分家し伊予宇和島藩主となった時、これについて来た。そのことも前述の 『岡氏略系』 に記されている。現在の岡家は宇和島岡家から分家し、吉田町で森一(1656~1739)が吉田岡氏初代となる。祖父芳太郎は第8代、父博明は第9代で、正章は10代目である。


    4.父 博明の回顧録より


 父博明は、祖父芳太郎の命令で陸軍軍人になったと、回顧録に書いている。以下、博明の回顧録より抜粋。

《 私は明治25年11月、香川県丸亀市で生まれた。当時父が丸亀第12連隊付の軍医中尉であったからだ。

 父は子供の時から秀才であった。郷里愛媛県の吉田町におったが、当時選抜試験で県下全部で僅か十数名の官費医学生の試験に合格し医者となり契約の通り軍医となった。

 祖父興成
(おきしげ)も医者で宇和町のすぐ南、皆田(かいだ)という所に開業しておった。その上の曾祖父太仲(たちゅう)も医者であった。その上5代までは、初代からずっと宇和島藩伊達候の祐筆(秘書のようなもの)で書が巧みであった。そして武士であったが5代森興の時であったか、悪い人の讒言によって武士をやめさせられ、平民となったのだそうだ。

 さて生まれた所丸亀については、何の記憶もない。ついで父は広島連隊へ転任になった。この時日清戦争が始まり父は第五師団に属して朝鮮に渡り激戦に参加した。朝鮮で赤痢のような病気のため内地に帰還し、それから官も退職。迎えられて宇和町久枝村へ村医も兼ねて来た。

 当時私は五、六歳になっていたので、ぼつぼつ記憶がある。父は馬が好きで又、田舎の事とて交通機関がないから馬を飼い往診に使っておった。父は外科を得意とし、大きな手術は大抵うちへ持って来た様で、其の大手術の時痛さの為、患者のわめく声を出すのをよく聞いたものである。

 母の事については大きくなってから兄弟によく話をしたが三十歳まで私は叱られた事より外にはあまり頭に残っておらぬ。母はこわい、叱ってばかりいた人で、ちっとも可愛がって貰った覚えが無いと話したのだが、妹等は全然違った感じを持って、愛の人、大いに可愛がって貰ったと言う。40、50になってよく考えて見ると成る程可愛がって貰っておった事がわかった。

 忘れもせぬのは広島幼年学校へ試験が通って、さて出発する朝、食事をする時に母はボトボトと涙を落とした。その涙は私の胸を打った。愛の涙は終生忘れる事はできぬ。

 子供6人が皆健全に且つ相当に成人したのは母のおかげである。母のした事は偉いものであると今更感謝讃嘆に堪えぬのである。

 小学校は尋常科と高等科とあって、私は尋常科4年を終え高等科に入り2年が済んで松山市の北豫中学校へ入った。それは当時父が日露戦争で召集を受けて、松山連隊付となっておった為である。北豫中学では成績は上の上で1、2番の所におったが、1年の終わり頃に、父が幼年学校に入って陸軍将校になれと半ば強制され、有無を言わさず試験を受けさせられ、成績は中の上で合格し、明治39年9月に広島幼年学校に入った。

 当時は日露戦争で大勝利を得、軍人は尊敬もされ、威張っておったから、又父は軍医であったから、自らの息子を本科の将校にしたい気持ちであったのであろう。子供の考え等はその当時は殆ど無視され、家長のワンマン時代であったから、子供の進路も半命令的であったのだ。

 私は体も小さく、荒々しいことを好まぬ性質であったので軍人は適当でなかったようだ。従って大いに成功もしなかった。人はその性格にあった職業を選ばねば大成はしない。自らの性質をよく内察し、適合した職業を選ぶべきである。人生の一大事であるから熱考深慮を要する。

 幼年学校には図書室があって種々の本が備えてあったが、私は英雄の伝記が好きで、殊にビスマルク、ナポレオン、シーザー等、毎日読み耽ったものだ。そして励まされ教えられた。青年の時代には偉人の伝記を読むことは大いに為になる。性欲的な本の氾濫しておる現時、大いに考うべきであると思ふ。又、図書室には、一台の古びた 「オルガン」 があって、私等は是を弾いて楽しんだものだ。

 遊戯班と云う編成があって、全校を4班に分け、各班に、1年生、2年生、3年生がおり、運動時間はその班毎に駈歩
(かけあし)をやらされた。意地の悪い上級生がおる班は下級生が難儀をした。

 上級生にも種々な人がおったが、意地悪く下級生をいじめたような者は大抵、将校になってよくない。病気になったり、早く辞めさせられたり、つまらぬ死に方をしたような者が多かった。人の良い人、下級生を可愛がったような人は、最後が良かった人が多い。妙なものである。因果応報と云うものか。

 生徒監と云う生徒監督指導の将校が各学年に一人づつあったが、その人等は流石(さすが)選抜せられた人だけあって皆良い人で、今でも懐かしく思い出す。60年経って思いだしてみると、確かに因果応報と云うことはあると思う。……》



 ――これを書いた父博明は、「大乘院芳勳武彰覺阿居士」 という法名(戒名)を戴いているが、実はあまり武人らしからぬ武人であったと思う。前述のように、家族に 「過ぎしいくさの手柄を語」 ったことなど一度もない。


    5.ノモンハン事件


 父の書棚には 『ノモンハン事件』 という書物が数冊並んでいたことを覚えている。ノモンハン事件とは、野中郁次郎編著 『失敗の本質』 で 「大東亜戦争敗戦の序曲」 として最初に挙げられている日本軍大敗の悲惨な事例である。

 私が生まれた昭和8年、11月に父は満州国独立守備隊付として渡満し、「匪賊
(ひぞく)討伐」 に当っている。「昭和10年3月に家族全員来満」 と 『岡氏略系』 にある。それまで単身赴任だったわけだ。11年8月に帰国、奈良聯隊付。12年7月支那事変起り動員発令、13年9月満洲出張あり。14年3月中支に出動し戦闘参加数十、信陽方面独立支隊の指揮等に当る。そうした時ノモンハン事件は起きた。

 昭和14年5月11日、満洲西北部蒙古との国境に近いノモンハンで約20~60名の外モンゴル軍と満州国軍との間で武力衝突が発生。これに対し日本の関東軍は直ちに出動し、外モンゴル軍は撤退したので帰還した。だがその後再びソ連軍と外モンゴル軍が進出してきたので関東軍はまた進撃を開始したが、圧倒的なソ連軍の砲撃を浴びて主力は動けず、先頭の捜索隊200名は孤立しソ連軍の砲撃と戦車により全滅。任に当っていた第23師団の小松原師団長は撤収命令を出し、第一次ノモンハン事件は終了した。

 ところがその後ソ連・外モンゴル軍陣地は次第に強化され兵力も増強されていると見られたので、小松原師団長はこのような状況を関東軍に報告し、第23師団はその防衛の責任上ただちにソ連・外モンゴル軍を攻撃すべきである、との意見具申を行なった。

 その意見は容れられて関東軍は大本営の明確な指示がないまま6月27日、外モンゴルの空軍撃滅をめざし越境爆撃を開始。大本営と関東軍の意思の齟齬があらわになったが、もはや勢いは止められず、攻撃を進めた。

 ところがソ連軍の注力は関東軍の予想をはるかに超えたものだった。日本軍の火砲・弾薬は圧倒的に劣っていて不足しており、敵情も正しく把握していなかった。7月、8月とソ連軍の大攻勢に日本軍は分断包囲され、第23師団は全滅の危機に瀕し、遂に8月29日、残存部隊に撤退命令を出すに至る。

 8月30日、作戦終結に関する大命が降ったが、表現が明確さを欠いていたので終息するには9月6六日までかかった。

 このノモンハン事件における日本軍の戦死者は7,696名、戦傷8,647名、生死不明1,021名、計17,364名。日本軍もよく戦ったのでソ連・外モンゴル軍も戦死・戦傷併せて18,800名の兵士を失った。

 この戦いで多数の日本軍第一線部隊の連隊長クラスが戦死し、あるいは戦闘の最終段階で自決した。また生き残った部隊長のある者は、独断で陣地を放棄して後退したとしてきびしく非難され、自決を強要された。日本軍は生き残ることを怯懦とみなし、高価な体験、失敗の教訓をその後に生かす道を自ら閉ざしてしまった。

 「人生は学校だ、そして失敗は成功よりも優れた教師なのだ」 とトルストイの 『人生読本』 にあるが、その優れた教師から学ぶことをしなかったのは勿体ないことである。

 父博明はノモンハン事件の戦闘に直接関わってはいなかったが、この事件の直前には満洲に派遣されており、事件の最中には中支に出征している。父は戦争のことを家族に一言も話さなかったが、ノモンハン事件が他人事でなかったことを、書棚の本は示していると思う。


    6.秋山好古の書、掛軸に


 さて、わが先祖の故郷愛媛県は司馬遼太郎の名著 『坂の上の雲』 のヒーロー秋山好古
(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟の出身地だ。わが家にはその秋山好古(1859~1930、「日本騎兵の父」と言われる)の書を掛軸に表装したものがある。下の写真は、その書と、父博明・母美和子が並び坐している。



 「傲不可長 欲不可縦 志不可満 楽不可極」と書かれている。「傲りは長ずべからず 欲は縦
(ほしいまま)にすべからず 志は満つるべからず 楽は極むべからず」 と読むのだろうか。そして、「傲り (慢心して慎みを忘れること) の心を伸ばしてはいけない。私利私欲を慎み、勝手放題にしてはいけない。己を律せよ。志は高く持ち、これでよいと満足慢心せず精進せよ。“歓楽極まって哀情多し” (楽しみ尽きて哀しみ来たる) を心せよ。」 ということだろうか。

 この好古の書は、どのような経路で岡の許に入ったのか不詳だが、8代芳太郎が好古の年代に近く (好古の方が五年先輩)、尊敬し見習うべきものと考え、9代博明にこれを継がせていたのではないかと思われる。

 『坂の上の雲』 によると、秋山家は貧しい最下級武士であったが、兄の好古は大変な弟思いで、真之が生まれた時、両親が生活苦から 「どこぞ、お寺にでも」 と相談しているのを聞き、「赤ん坊をお寺にやっちゃ嫌ぞな。うちが勉強してな、お金を拵えてあげるがな」 と抗議したという。

 好古は世界最弱と言われた陸軍騎兵隊に、世界で初めて機関銃を装備し鍛え上げ、日露戦争時、ロシアのコサック騎兵隊を打ち破った。だが好古は、日露戦争のことについて聞かれてもあまり語らず、「戦争はよう負けたよ」 と言って、功を誇るようなことは決してなかったという。

 『文藝春秋』 2017年4月号は 「『明治150年』 美しき日本人」 という特集を組んでおり、秋山好古は 「教育者となった 『日本騎兵の父』」 としてその1人に選ばれている。その記事の中で好古の孫である秋山哲児氏は、祖父好古のことについて次のように語っている。

 《 軍人としての好古には、多くの逸話が残っています。

 印象に残っているのは、日清戦争の旅順攻略を前にした敵情探索を行った際の話です。秋山支隊は土城子付近で、清国の騎兵・歩兵千数百と遭遇します。対するわが方は二百ほど。通常ならば退却するのでしょうが、好古は、「退却すると日本の騎兵は弱いというイメージを与えてしまう」と考え、攻撃をしかけます。

 しかし清国軍は次第に増援を進め、総勢二千以上に。秋山支隊も歩兵を含め四百ほどに増やしますが、結局、撤退を余儀なくされます。その時好古は足の遅い歩兵をまず先に逃がし、次に騎兵を逃がす。その間、清国軍からの攻撃から守るために、指揮官である好古自らが殿
(しんが)りをつとめたというのです。

 好古は、とにかく部下を大事にしていました。日清戦争から凱旋した時の逸話です。日清戦争が終わり帰国したとき、数ヶ月分の給料が手許に残っていました。普通ならば留守宅を預かった妻に渡すものでしょうが、そうせず、全額を副官に差し出し、労をねぎらったのです。

 好古はお金に頓着しませんでした。日清戦争後の1900年に起きた清国内の排外運動 「義和団の乱」 が、日本や欧州の連合国に鎮圧された後、好古は日本の駐屯軍守備隊司令官でした。居留日本人から好かれていたので、任務を終え帰国が決まると、盛大な送別会が開かれ、七百ドルもの餞別が集りました。日本の領事は、そのお金で高級時計を買って贈ろうとしたのですが、好古は現金にしてほしいと頼みます。好古はこう言いました。

 「何も誇らしい功績を残していないのに贈り物をいただくことは慚愧に堪えません。ついては、この現金はこのまま居留民の小学校に寄付して教育資金にしていただきたい」

 と。会場には拍手が響いたそうです。》
 

 のちに大将として定年で予備役になる前、元帥に推す声があったが固辞し、松山の北豫中学校長にと請われ喜んで引き受けた。中学では軍事教練の時間を増やすことを提案されたが反対し、

 「学生は兵隊じゃないよ」 と、逆に教練の時間を減らしてしっかり勉強させるように指示した。そして大正13年から昭和5年4月まで足かけ7年間、無遅刻無欠勤で北豫中学に通った。毎日決まった時刻に家を出たため、通りの人々は好古の姿を見て時計を合わせたというエピソードがあるという。

 こうして志高く勉学に励み、己を律し私利私欲を慎み、何よりも公に奉仕するという清々しい精神を貫いて生きた秋山好古の前掲 「傲りは長ずべからず」 の書には、千鈞の重みがあると思う。わが家の宝として子孫に残したい。


     7.腕白坊主だった弟真之


 好古の弟真之は幼い時腕白者で母お貞は手を焼き、「淳(真之の幼名)、お前もお死に。あしも死にます」 といって短刀をつきつけたこともある。が、長じて海軍兵学校を首席で通し、日本海海戦では連合艦隊作戦参謀を務め、世界最強といわれたバルチック艦隊を破り日露戦争の趨勢を決めた。東郷平八郎司令長官は 「智謀湧くが如し」 と評したという。

 ロシヤ艦隊の主力艦のことごとくは撃沈、自沈、捕獲されるという、当事者たちでさえ信じがたい奇蹟。一方 「わが方の損害は水雷艇3隻」 という、信じがたいほどの軽微さで、無傷というに近かった。日本海海戦が、人類がなしえたとも思えないほどの記録的勝利を日本があげたとき、ロシヤ側ははじめて戦争を継続する意志をうしなった。というより、戦うべき手段をうしなった。日本ももはや戦いを継続する余力を失っていた。

 このときロシヤに講和調停を働きかけたのは、米国大統領セオドル・ルーズベルトであった。

 英国のポーツマスで9月5日講和条約に調印、10月14日に批准された。東郷とその連合艦隊の大部分は凱旋の命令があるまで佐世保港内にとどまっていた。

 そういう待機期間中、珍事がおこった。旗艦 「三笠」 が自爆し、六尋の海底に沈没してしまったのである。9月11日午前1時すぎ。339人の戦友が、敵弾で斃れることなく戦勝後事故で一挙に死んだ。

 日本海海戦で日本側の戦死は百数十人にすぎなかった。戦闘で死んだよりもはるかに多数の人間が火薬庫爆発といういわば愚劣な事故で死んだことに、真之は天意のようなものを感じた。旗艦 「三笠」 の沈没は、日本に恩寵をあたえすぎた天が、その差引勘定をせまろうとする予兆のようにも思われたのである。

 「天佑ト神助ニ由リ、我カ聯合艦隊ハ五月二十七八日、敵ノ第二、第三聯合艦隊ト日本海ニ戦ヒテ、遂ニ殆ト
(ほとんど)之ヲ撃滅スルコトヲ得タリ」

 と、真之は報告文の冒頭に書いた。

 真之は文章家だった。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」 とZ旗を掲げ全軍の士気を鼓舞した名言も、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」 と大本営に打電した文章も、真之の起草した文章である。

 戦時編制である 「連合艦隊」 が解散をしたのは12月20日で、その解散式は翌日旗艦においておこなわれた。旗艦はこの時、「敷島」 から 「朝日」 になっていた。


    8.「勝って兜の緒を締めよ」


 解散式がはじまり、東郷司令長官は、「告別の辞」 とひくい声で言い、秋山真之が書いた有名な 「連合艦隊解散ノ辞」 を読み始めた。

 
「……百発百中の一砲、能く百発一中の敵砲百門に対抗しうるを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。……惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、事有れば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本分を尽さんのみ。これに参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福、比するにものなし……」

 そして最後は以下の一句でむすんでいる。

 
「神明は、ただ平素の鍛錬に力(つと)め戦はずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者よりただちにこれをうばふ。古人曰く、勝って兜(かぶと)の緒を締めよ、と。」

 この文章はさまざまの形式で各国語に翻訳されたが、とくに米国大統領のセオドル・ルーズベルトはこれに感動し、全文を翻訳させて自国の陸海軍に配布したという。


    9.母 お貞の死


 バルチック艦隊が5月27、28日の両日で全滅したにもかかわらず、満州の最前線にいる好古は6月15日豪雨を衝いて基地を出発し、ロシアの騎兵団と激烈な戦闘をまじえていた。その戦場で好古は母親のお貞が病没したというしらせを受けた。真之は佐世保で知った。

 ――淳、お前もお死に。あしも死にます。といって幼いころの真之の腕白に手をやいて本気で短刀をつきつけたこの母親の死の報に接し、真之は佐世保の旅館の一室で終夜号泣した。

 母のお貞が真之の腕白に手を焼いていたことも知っていたし、終生真之をもっとも愛していたことを知っていた好古は、一夜を真之に付き合って共に明かした。そして 「あの腕白小僧をなんとか成人させたことは無駄ではなかったということを、母は日本海の戦闘結果を知ってつくづく思ったことだろう」 と、友人に書き送っている。


    10.歴史は糾える縄の如く変転する


 さて昨2020年はコロナによって、コペルニクス的転回という表現が誇張でないくらい世の中が変わってきた。 敗戦の1945年を起点として75年目だった。

 1945年から75年さかのぼると1870年。黒船が来航し、明治維新で年号が明治に変わったのがその2年前の68年だった。くしくも戦後国家と戦前の明治国家は同じぐらいのときを経たことになる。

 コロナは黒船に相当し、今はやはり歴史の転機で、新しい時代ががここから始まろうとしているのか。

 明治日本は東洋の国の中で世界で初めて欧米の国々に肩を並べる文明国として認められるような奇蹟的、驚異的発展を遂げた。その中で、日露戦争勝利ということは特記すべきことだった。これは他のアジア諸国の若きリーダーたちを興奮させ、独立意識を目ざませた。これが種となって、やがて第二次世界大戦後に続々と独立する自信の種を植え付けたのである。

 しかしながら日本国民は、秋山好古が 「傲りは長ずべからず」 と言い、弟真之が 「勝って兜の緒を締めよ」 と言ったのと裏腹に、日露戦争の成功体験に酔いしれて己を見失い、大東亜戦争惨敗の道へと突き進んでしまった。

 しかしながら日本は、敗戦後も奇蹟的に不死鳥の如く甦り、三十数年にして自由経済世界で 「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」 といわれるような高度成長を遂げた。

 しかしながらまたもや日本はこの成功体験に固着し、「神明は一勝に満足して治平に安んずる者よりただちにこれをうばふ」 と真之が 「連合艦隊解散ノ辞」 に書いたように、「失われた平成の30年」 で大きく変化する世界の進歩から取り残されていた。そこにコロナウイルスが襲う。

 コロナ危機とは、まさに戦争状態だと言えよう。

 ここに 「しかしながら」 が三度重なった。

 国家の運命もまた、禍福は糾える縄の如しであった。


    11.新しい時代を切り拓く年の始まり


 「今の仕組みが根本的にダメなのだから、平成の失われた30年はこれからまだ20年つづくだろう。このままでは先がないと思った時に初めて構造転換がおこり社会が変わる。コロナは黒船だと思ったらよい」

 と、東大大学院情報学環の吉見俊哉教授は著書 『大予言』 で厳しい見方を示している。

 明治国家は大日本帝国憲法が公布されたのが1889年で、国のかたちが整うまで明治改元の1868年から20年かかった。それを思えば、今年は新しい時代を切り開くための20年の始まりかも知れない。成功体験の記憶から抜けきれない戦後システムを、いさぎよく変革して行かねばならない。大変な時代かも知れないが、

 「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ」

 と 『梁塵秘抄』 にあるように、明るく積極的に困難に戯れる気持で乗りこえて行きたいと思う。

  あざなへる縄のごとくに願はくは
   コロナ禍転じて福を連れ来よ


  (2021.1.30)

590 コロナウイルスは死に神。「桃の実三つ」で完全撃退できる


 古事記神話は面白い。現代のことを予言しているようでもある。

 イザナギ(男神)・イザナミ(女神)の二神はムスビによって大八洲
(おおやしま=日本)の国生みをなさり、その後も島々や山の神・海の神・風の神など35柱の神々を生み、最後に火の迦具土(かぐつち)の神をお生みになって、女陰を焼かれ死んでしまって、黄泉(よみ)の国へと旅立たれる。

 イザナギの命
(みこと)は、愛妻のイザナミの命にもう一度会いたいと、黄泉の国に妻を追っていらつしやった。「愛(いと)しい妻よ。あなたと一緒につくった国はまだ完成していない。どうか戻ってきてくれ」 と。

 イザナミの命は答えていわく。「残念ですわ。わたしはもう、黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、ここから出ることはできません。しかし、黄泉の国の神と交渉したいと思いますので、どうかわたしの姿を見ないでください。」

 こう言って御殿の中に帰っていったイザナミの命は、いつまでたっても出て来られない。イザナギの命は待ちかねて、髪に刺していた櫛の歯を一つ折り、火をともしてごらんになると――イザナミの命のお体にはウジャウジャ蛆
(うじ)がたかって、いたるところに様々な雷(いかずち)が出現している。

 これを見てイザナギの命は恐ろしくなり、逃げ帰ろうとしたが、イザナミの命は 「わたしに恥をかかせたわね。許しておけないわ」 と怒って、死の国の醜女
(しこめ)すなわち “死に神” の軍隊を遣わして、イザナギの命を追わせた。イザナギの命は身につけていた物を次々に投げつけながら逃げに逃げた。

 そうして 「よもつひらさか」 (夜の国〈死の国〉と昼の国〈生の国〉の境) に来たとき、そこにあった桃の実を三つとり、投げつけると、桃の霊力によって、死の国の “死に神” たちはみんな帰っていった。とうとうイザナミの命が自分で追い駆けて来られたので、イザナギの命は千人引きの大きな石を 「よもつひらさか」 に置き、その石を中にしてイザナミの命に、もうこれでお別れしましょうとおっしゃった。イザナミの命は 「愛しいあなたがそうなさるなら、わたしはあなたの国の人間を一日に千人絞め殺してしまいましょう」 と言った。イザナギの命は、「あなたがそんなことをするなら、わたしは一日に千五百人の子を生ませよう」 とおっしゃった。……

 ――という神話の物語があるのである。

 いま、世界中の人々を恐怖に陥れている新型コロナウイルスは、この神話の “死に神” にあたるものではないか。

 「イザナミ」 は物質文明の象徴であり、「イザナギ」 は霊的文化の象徴である。「桃の実」 は 「生命の実」 「生命の実相」 である、と谷口雅春先生は教え給う。何となれば、桃は女性の生殖器のかたちをしており、女性の生殖器は生命を生み出す器官であるから、桃は生命の象徴であると言える。だから桃の実は生命の実であり、その相
(すがた)は生命の実相なのである。生命の実相は霊であり、死を超えて永遠に生きるものであり、病菌やウイルスに冒されることはないのである。人間の本体は肉体ではなく、時空を超えた霊であり、病に罹ること能わず、死すること能わざるものである、完全なる神そのものであるとの自覚に目覚め、真の愛に生きることが、「桃の実を三つ(人間生命の実相・天皇の実相・日本国の実相)」 を “死に神” に投げつけることになるのである。そのとき初めて “死に神” なるコロナウイルスを完全に終息させることができるのであろう。

 どこから来たともわからぬ変異種の新型ウイルス感染者が至るところに現れたり、感染拡大を抑え込んだと思っていた中国でまた感染がひろがっていたり――というようなことが報ぜられている。まだまだ “死に神” は追いかけて来るであろう。

 上記のことは、谷口雅春先生著 『古事記と現代の預言』 に名文で詳説されているので、同書をお持ちでない人のために、一部PDFファイルでご覧頂けるようにさせて頂きます。

 ⇒ 『古事記と現代の預言』 より

          ○

 僕は今、地域で、あるボランティア活動のお手伝いに参加している。それは、身心障害児なども神に生かされている神の子だとして尊敬し、その親子をみんなで励ましあい、交流しようという活動だ。

 それは、杉並区の地域でみんなの 「こころのバリアフリー」 を目指そうと、桃井第三小学校の一部教室を借りて 「桃三ふれあいの家」 という拠点にし、「だれでもカフェ~ももふらっと」 と名づけたグループ活動で、一昨年(2019年)1月から原則として毎月1回、イベントを開催して来たが、今はコロナの感染拡大を防ぐため、ZOOMを使ってのオンラインイベントとしてやっている。

 この 「ももふらっと」 の歌をつくって、イベント開催の始めなどに歌うようにしたいという声が上がっていた。そこで僕は興の湧くままにちょっと作ってみた。


  ももふらっとのうた
       
岡 正章 作詞・作曲

一、もも もも もも

   やさしいもも
   うれしいもも
   たのしいもも

   心は太陽 さんさんさん
   わたしのもも
   あなたのもも
   みんなのもも

   ももふらっとは うれしいな
   ももふらっとは たのしいな
   ヤッホー! ヤッホー!
     ヤッホー!

二、もも もも もも

   あかるいもも
   げんきなもも
   ステキなもも

   心が歌う ランランラン
   わたしのもも
   あなたのもも
   みんなのもも

   みんなみんな 生きている
   生かされている このいのち
   ありがとう! ありがとう!
     ありがとう!

 というのである。

 桃井第三小学校には 「桃三の歌」 というのがあった。

 「桃の実かぞえていくつある
  ももたろう ももじろう ももさぶろう
  日本の道だ ぼくらのみちだ
  せまくても せまくても ぐんぐん歩こう
  さんさんさん 桃三 かがやく太陽
  きみの ひとみは 春風
  かがやく夢 わけあいながら ララーララ
  さんさんさん ももさん さわやか太陽
  光あふれる 世界だ
  ここは 知恵と力と 愛のいずみだ」

 というのである。僕は、この歌を一度だけ聞いたことがある。歌詞(を印刷したものなど)を見たことは一度も無かった。上記の歌詞は、浮かんできた 「ももふらっとのうた」 の歌詞を伝えたあとで知った。しかし、かつて子供たちがこの歌を元気に力いっぱい合唱している姿を見て深く感動したことが、潜在意識に植え付けられていて、それが心の底から浮かび上がり、似たような歌が出てきたのだろう。

 この 「桃三」 というのは、古事記神話の 「桃の実三つ」 だ! と僕は思った。

 「ももふらっと」 の協力者の方たちにこの歌詞・楽譜・ピアノでメロディーを弾いた mp3 ファイルをメールで送ったら、次のようなレスをいただいた。

≪岡 様

もう、びっくりの連続です!!
作詞作曲に、楽譜、音源と、素晴らしすぎて、ありがたくてもう感謝しかありません。
私は、楽譜読めないし、PCも苦手だから音源を再生するやり方がわからない・・・と思ってましたが、できましたよ! ピアノの曲も聞けました!

会えなくても、添付ファイルで楽譜も音源も皆さんに届けられるのですね!
勉強になります。教えていただきありがとうございます。

「人のつながりは宝」 ですね!!
2月の会に、リモートで 「ももふらっとの歌」 を歌ってみましょうか?
歌いやすい音域とメロディーで、楽譜が読めない私でも曲を覚えられそうです。

歌詞も、特に2番の最後、「生かされている このいのち」
こころに沁みました

コロナ禍にあって、去年の緊急事態宣言のころは、得体のしれない新コロの恐怖に、重度重複障害を持つ息子の 「いのち」 のことで、マジでおびえてました。

・指を口にいれる、マスクを取る(注意しても止めない)
・全介助必要なので、人との接触が必須。ショートステイも禁止に
 家族5人同居で、個室がない環境
・通所自粛で、身体機能低下、変形すすむ→ 嚥下機能落ちる
・自分で体調不良が言えない。← 親の見立てとカンに頼る(体温調節不可)
・感染したら、重度重複障害者の入院先は事実上ない できない

・・・と、まぁ負の要素ばかりです。

不安と恐怖に疲れ、最後は開き直りです。 この歌詞のように

今、この瞬間 「生かされている このいのち」 に感謝して 「ありがとう」 なんです。

何気ない日常、当たり前だった日常に気づかせてくれた、菌もウィルスもずっと前から共存していた、調和がとれていたこと。

人のからだも、常在菌が守ってくれていたこと。そのバランスが崩れている原因を、食や環境を見直してという警告かもしれません。

今は大変な時ですが、その先の明るい未来を信じて、ゆっくり進みましょう。≫



 ありがとうございます!


          ○


 前に僕が朗誦・朗読して YouTube にアップロードした 「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 を、毎日スマホで視聴しながら祈っていたのに、今年に入ってからは 「削除されている」 ということで見ることが出来ないが、どうしてかと問い合わせてこられた人があった。申し訳ありません。

 それは、元日の本欄 #588 でご報告している通り、新バージョンのものに入れ替えさせていただいたのです。新バージョンと言っても、内容が変わったわけではなく、朗誦のスピードが速く変わっただけですが。その新バージョンのものは、こちらで視聴出来ます。

 ⇒ 宇宙浄化・ウイルス完全終息の祈り


 なお、「桃の実三つ」 のことは、谷口雅春著 『古事記と現代の預言』 106頁に、次のように書かれている。

≪……この神話は一方では桃太郎の鬼ガ島征伐のお伽話(とぎばなし)となっております。

 ……桃の実の形は、あれはまだ陰毛に覆われない処女の生殖器を外から見た象
(かたち)をしております。「陰毛に覆われない」 というのは、黒い 「迷いの影」 にくらまされない生命そのままの、汚れない生命を生み出す器官を象徴するのに適切だというので、桃の実を 「生命の樹の実」 の象徴として出しているのであります。

 それで、その桃の果実は生命を生み出す器官だから、それを持って来て割ったら、その中から“オギャー”と出てきたのが、桃太郎即ち生命太郎であります。神の生命を内に宿した人間という意味であります。

 山に柴刈りに行って 「心の雑草」 を刈り取ってしまって、川に洗濯に行って 「心の汚れ」 を綺麗に洗いながして、そして生命の本当のスガタ(即ち 『生命の実相』)をあらわしたのです。そして、本当の“神の子”がそこに生まれてきたら、それが生長して鬼ガ島を征伐することができるのです。鬼ガ島とは、死の国の地獄の鬼を象徴しております。

 それでイザナギの神が、黄泉
(よもつ)国から追っかけてきたところの、死の使者(つかい)の鬼共を征伐するためにお使いになった桃の実――生命の実相――は三つあるというのです。

 その三つの桃の実(生命の実)は何と何とであるかと言いますと、その桃の実の一つは、「日本天皇の生命の実相」 もう一つは 「日本国の生命の実相」、それからさらにもう一つは 「人間の生命の実相」 であります。この三つの 「生命の実」 の相
(すがた)が本当に解ったら、死の国の地獄の鬼は逃げて行くのだということが、『古事記』 に示されているわけであります。≫


 ――この真理を、解りやすく熱烈にお説きくださっている谷口雅春先生の御講話 (YouTube 動画) を、ここでさらにもう一度拝聴し直しましょう。


 ⇒ 「人間は神の子」 って、どんなこと?
 谷口雅春先生が説かれる 「一即多(いちそくた)」 の真理


 ⇒ 「人間復興の原点」

 ⇒ 「久遠の尊師 谷口雅春先生 ・宇宙浄化コロナウイルス終息の祈り」


 ありがとうございます。合掌


  (2021.1.22)

589 2021年から始まる 新日本・新世界


 1月4日の日本経済新聞には読み応えのある論評が幾つも掲載されていた。

 その一つは、第7面 オピニオン 「核心」 ―― 『2021年から始まる日本』 (論説フェロー 芹川洋一氏筆)である。以下、ポイントを抜粋あるいは要約してみる。

≪ 2020年、コロナによってコペルニクス的転回といった表現が決して誇張ではないくらい世の中が変わった。

 敗戦の1945年を起点として75年たったのが昨年。
 1945年から75年さかのぼったところは1870年。五箇条の御誓文が発表され、年号が明治に変わったのがその2年前の68年――明治維新である。
 くしくも戦後国家と戦前の明治国家は同じぐらいのときを経たことになる。

 今はやはり歴史の転機なのだろう。国家として次なる段階がここから始まろうとしているのなら、局面を転換し飛躍に向け踏み出していけるかどうかがポイントになるが――

 「今の仕組みが根本的にダメなのだから平成の失われた30年はまだ20年つづく。このままでは先がないと思った時に初めて構造転換がおこり社会が変わる。コロナは黒船だと思ったらよい」
 と、東大大学院情報学環の吉見俊哉教授は著書 『大予言』 で厳しい見方を示している。

 明治国家は大日本帝国憲法が公布されたのが1889年で、国のかたちが整うまで明治改元の1868年から20年かかった。それを思えば、2021年は新しい時代を切り開いていくための20年の始まりと考えよう。

 成功体験の記憶から抜けきれない戦後システムを、こんどこそ本当に変革していくしかない。≫


 また、第24面 「経済教室」 の頁では、「危機克服への道筋」(1) として、岩井克人・国際基督教大学特別招聘教授が、

 『真の 「自由」 の意味 問い直せ』

 と題して次のように書いている(抜粋あるいは要約)。

≪ コロナ危機の中で、対立する米中2つの大国に対する人々の意識は大きく変化し、ともに 「ディストピア(反理想郷)」 とみられている。

 かつての米ソ2大国の対立では、米国もソ連も自らの政治経済体制を人類にとっての究極の形態として提示していた。米ソの対立は世界中の国が追い求めるべき 「ユートピア(理想郷)」 の争いだった。

 第2次大戦前から経済大国の米国は戦後、資本主義陣営の盟主として振る舞う。他方、1917年の革命を経て最初の社会主義国として誕生したソビエト連邦も戦後、社会主義陣営の盟主の地位を占めた。米ソの冷戦が始まり、2つの政治経済体制が優劣を競い合った。

 米国の主導下、80年代に加速した資本主義のグローバル化の中で、89年にベルリンの壁が崩壊し、91年にはソ連も解体する。壁崩壊の直前に発表された 「歴史の終わり」 で米政治哲学者フランシス・フクヤマ氏は、人類を支配したイデオロギーの争いの歴史は終わり、資本主義と民主主義を柱とする政治経済体制こそ究極の勝者だと宣言した。
 そして90年代を通して米国資本主義は未曽有の高成長を謳歌したのである。
 しかし、歴史は終わっていなかった。

 21世紀に入り、米国資本主義が変調をきたす。IT(情報技術)バブル崩壊に続き、08年にはリーマン・ショックを引き起こす。また80年代からの所得格差の拡大が加速し、上位1%の高所得層が全所得の20%を得る先進国の中でも突出した不平等な国になった。

 そこにウイルスが襲う。だがトランプ大統領は科学者の発言を嘲弄し、個人の行動の自由を強調し続ける。対策は混乱し、感染者も死者も世界最多となる米国は一転してディストピアとなった。

 中国も同様の運命をたどった。低賃金労働を武器に世界の工場となった中国は、10年に世界第2の経済大国となり、多くの途上国に経済の成長モデルを提供する希望の星となった。だが武漢で新型コロナが発生すると、当初その情報を隠蔽して世界に感染を拡散させてしまう。強権的手法で感染を抑え込むと、コロナ対策を名目として個人への監視を大幅に強化する。さらに混乱に乗じて香港の自治を弾圧するに及んで、中国もディストピアとみられるようになった。

 21世紀は、2つのディストピアが対立し合う世紀となった。

 「自ら定めた法に従うことこそ自由である」 とは社会契約論の創始者の一人、ジャン・ジャック・ルソーの言葉だ。だが自然状態の人間は他者の自由の侵害を禁じる法を自ら定めたとしても、自らの良心以外には法を強制するものはない。

 コロナ危機とはまさに戦争状態である。各人の自由な行動が互いの感染確率を高めてしまうからだ。米国の場合、トランプ大統領は個人がマスクをしない自由を擁護し、参加者が密集する支持者集会を開き続けた。主権者意識のみ強調され、法に従う国民としての義務が軽視される。その結果、爆発的な感染拡大が起き、人々の行動の自由が逆に大きく制限された。

 中国の場合、国家が定める法に従う義務のみが強調される。監視体制の強化はウイルスの再流行を抑えたが、法の決定に参加する主権者としての役割を個人からさらに奪った。

 20世紀の私たちは、米ソが標榜する2つのユートピアのどちらを選ぶかを迫られていた。21世紀の私たちは、2つのディストピアのいずれにも陥らないよう、2つの関係の間の均衡を探り続けていくしかない。

 日本のコロナ危機対応の基本は 「自粛」 である。政府が平身低頭して 「お願い」 し、人々は周囲に配慮しながら身勝手な行動を 「慎んで」 きた。それは社会契約の均衡からは程遠い。

 日本は人口当たりの感染者数や死者数は欧米より少ない。だが多くのアジア諸国も同様で、その中では日本の成績は悪い。日本はたまたま運の良い国の一つだったにすぎない。

 今回の危機が去っても、いつか世界は新たな危機に襲われる。そのとき、日本は運が良いとは限らない。今回のような 「自粛」 では、米中が具現したディストピアのいずれかに陥る真の危機を迎えるだろう。≫


          * * * * * * *

 西洋の国家観では、トマス・ホッブスが言ったように 「万人の万人に対する戦い」 の自然状態では人間の自己保存の権利が保障されないため、強力な主権者を必要とする、だから主権者に統治する権利を与える契約を結んでできたのが 「国家」 であるとする。それが 「社会契約論」 である。

 自由主義とか民主主義とか言っても、基本的に、唯物論的肉体人間観に立っているのである。

 それでは、完全な自由というものはあり得ない。だから、#586 にも引用した 「アガシャの予言」 でも、

≪ 人間とは何か?

 現在では、環境にもみくだかれ、生活にこづき回され、機械や社会体制の部品となって、いつ廃物とされるかわからない、情けない、無力で不安定な存在にすぎない。人間とは本来、そういうものではなく、宇宙的にかかわりあっている、巨大な存在なのだ――と、アガシャは教える。

 それを自覚せねばならぬ時がまもなく訪れてくる。激しいショックを受け、大きな試練をのりこえて、いやでも人間は、本当の自分自身に目ざめ、偉大な自覚を抱くようになる。それがつまり地上の浄化だ。≫


 と言っているのである。

 しかし、西洋人でも、中には東洋的な霊的人間観に立った社会・国家観を示している覚者もある。

 たとえば経営学の神様とも称されたピーター・ドラッカーというユダヤ系オーストリア人・経営学者(未来学者とも言われた。1909-2005)は、その著 『断絶の時代』 で

≪「われわれは、組織が一人ひとりの人間に対して位置と役割を与えることを当然のこととしなければならない。同時に、組織をもって自己実現と成長の機会とすることを当然のこととしなければならない」≫

 と言う。組織は、社会の道具であるとともに、個人にとっての存在意義を示す道具でもある。主人公は人間なのである。組織は人類が生み出した道具だから、道具が人間を駒のように使う状態は間違いである。また組織に属する人が、道具としての組織に使われていると考えるのも間違いである、とする。

 それゆえ経営者を含め、組織に属するすべての人は、組織という道具を使って世のため、人のために何をなすかという課題に真剣に向き合うことが求められ、同時に人間は組織という道具を用いて自己実現と自己成長を目指すべきだと言う。

≪利他主義は、最善の合理的利己主義である。≫

 と、ジャック・アタリ氏 (フランスの経済学者・思想家) も言っている。

 日本では、江戸時代に二宮尊徳は

≪世人皆聖人は無欲と思えども然らず、其の実は大欲にして其の大は正大なり。

 ――賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ。凡夫の如きは、小欲の尤も小なるものなり。夫れ学問は此の小欲を正大に導くの術を云う、大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身に大福を集めんことを欲するなり。≫


 と 『二宮翁夜話』 で述べているし、鈴木正三・石田梅岩らは 「和」 の精神による勤労観、「共生」 の思想を打ち立てた。

 これからの自由と平等については、日本の理想とする 「八紘一宇」 の新しい世界像を発信して行くべき時であろう。そのことについて、僕は #106 #107 #108 で、馬渕睦夫氏の著書 『いま本当に伝えたい 感動的な「日本」の力』 などを照会しながら書いている。

 『生命の實相』 万教帰一篇には、その根本哲学が詳説されているし、生活篇には具体的な実践の道が力強く説かれている。それについて僕は、

 #400 マルクスの 「疎外」 論は無効である

 などで詳しく述べてきた。

 国家は、人間を縛るものではなく、人間を解放し、真に生かすものなのである。

≪現代一般に、人間が国家と対立するものという考え方があるけれども、それは間違いであって、国家を離れた人間は、人間でなくて動物である。人間と国家とは対立する二者ではない。人間の外に国家はなく、人間を人間たらしめるものは国家である。≫

 (山口悌治著 『神・国家・人間』 より)

 真の人間は、肉体ではない。動物ではない。それは、肉体を超え、時空を超えた宇宙的・霊的存在である。もう一度、以下の YouTube 動画を見よう。

 ⇒ 「人間は神の子」 って、どんなこと?
 谷口雅春先生が説かれる 「一即多(いちそくた)」 の真理


 ⇒ 「人間復興の原点」(YouTube動画)

 そして、

 #148 日本民族最大の生きた創作芸術――それは “天皇国家”

 #149 “生命芸術” としての国体と宗教


 も、ご覧ください。

 ここに、「2021年から始まる 新日本・新世界」 を創造するヒントがあると信ずる。

 今こそ、この人間観の根本的な一大転換が行われて、新時代を切り拓くべき時である! と、僕は思う。


  (2021.1.6)

588 謹賀新年 宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈りを


 明けまして おめでとうございます。令和3年 新しき年の初めを寿ぎ、この年が地上人類すべてにとって素晴らしい新生出発の年となりますように祈ります。

 「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 新バージョンを YouTube にアップロードしました。


 ⇒ 宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り


 どうぞご一緒に祈ってくださいますようお願い申し上げ、ご一家皆々様のお幸せを祈り上げます。

 合掌 礼拝


  (2021.1.1)


<付記>

 ◆ 前項 #587 でご披露した拙作の短歌に

 「ユーチューブに去年
(こぞ)送りたるわが動画視聴回数一万二千とふ

  コロナ下にわれは好機とよろこびて命をそそぎ創りし画なり」

 とありました、そのユーチューブ動画のうち最も視聴回数の多かったのは、#564 でお伝えした

 ⇒ 「人間は神の子」 って、どんなこと?
 谷口雅春先生が説かれる 「一即多(いちそくた)」 の真理


 であり、2番目に多かったのは #565 でお伝えした

 ⇒ 「人間復興の原点」(YouTube動画)

 でした。3番目は #557 でお知らせした

 ⇒ 「久遠の尊師 谷口雅春先生 ・宇宙浄化コロナウイルス終息の祈り」
    https://www.youtube.com/watch?v=fPQNzxpD-Yc

 です。その他8タイトルについて、#555 でお伝えしています。ご覧ください。

 合掌 ありがとうございます。


  (1月3日 付記)



587 現象はない。コロナウイルスはない。今こそ新生の時である


 人間は本来神の子、神の世嗣としてすべてが自己の内に与えられており、不可能はない。しかし心の投影である現象を 「あり」 と思えばそれは自分を縛る綱となり、自由を失う。

 『生命の實相』 第2巻 p.71~72 には、「白墨の線も自分を縛る綱だと思えば動けなくなる」 と題して次のように書かれている。

≪ 鶏を静かに抱いて少しもその翼や足をバタバタすることができないように抱きすくめ、それを床の上に横に置いて、眼のところから床の上に白墨で一直線を引いて静かに手を離しますと、その鶏はもう起き上がることができないのであります。

 これはふつう、鶏に催眠術を施す方法だといわれておりますが、鶏が動けなくなったのは決して催眠術によって鶏本来の力が奪われたのではないのであります。鶏の力は外からは誰も奪っていない。鶏自身はチャンと元々どおりの力をもっている。しかしその鶏は、自身がいったん、ちっともバタつくことができないように抱かれて床の上に置かれ、あげくの果てに、目の前にありありと自分を縛りつける紐のような白線を見た、しかもその白線がジッと自分を縛りつけているらしく、なおも依然として目の前にある、そのために鶏は 「今自分は縛られている」 と信じ、その 「縛られている」 という迷いの考えに 「心」 がひっかかって、生まれつきの自由自在な活動ができないで起きる力を失ったのであります。

 鶏は白墨の線を見て、それが自分を縛る紐だと信じたがために、自由に起きて歩き廻ることができないのでありますが、われわれ人間はそんなバカなことにだまされはしないかというと、必ずしもそうではない。人間は複雑な知恵をもっておりますから複雑にだまされるのであります。≫


 人間は神の肖像
(すがた)に造られ、エデンの楽園にいたが、蛇に騙されて禁断の知恵の木の実を食ったために楽園から追放されたという神話(旧約聖書)がある。

 仏教では、

≪ 人は手に入れたものを、「これは私のものだから、決して手放さないぞ」 と思った瞬間から苦しみが始まる。なぜならいつまでも手の中にありつづけるものなど、この世には何一つないからである。執着の暮らしから脱出せよ。≫

 と説く (『般若心経』 より、仏教学者 佐々木閑氏解説)。

 現在猛威をふるっているように見えているコロナウイルスも、本来無きものである。しかし、人間の心の投影
(かげ)にすぎない現象をありとして執着し、人類は対立抗争と分断の世界を現出して苦しんでいる。その人類を救済するために、神が遣わし給うたメッセンジャーがコロナウイルスではないか。

 神は、人々に 「互いに相愛せよ」 と仰せられているのである。

 もう一度、谷口雅春著 『神 真理を告げ給う』 をひもといて見よう。(p. 17~18)

 次の文章の中で、“わたし” とあるのは、神である。

≪ すべての生き物を生かしているのは “わたし” である。どんな微生物でも、どんな巨大な動物でも、皆 “わたし” の生命が生かしているのである。それゆえに “わたし” は “生” と “死” との鍵をにぎっているのである。

          ○

 どんな微生物でも “わたし” が生かしているのである。あなたが病菌であるといっておそれている微生物も、本来 “病菌” ではない。それは “わたし” が生かしているのである。その病菌と見えている者が、実は、あなた達の間違った “心の思い” や “生き方” を警告して、それを是正させるために “わたし” が姿を病菌の如くあらわしていることがあるのである。

 “わたし” は、どんな消毒薬よりも強いのである。“わたし” はその人間の魂に警告を与えて、正しい生き方に還らせようとして病菌としてあらわれている場合には、その目的を達しない限り、どんな薬剤を与えても、その病菌は消えるものではない。しかしその目的を達して人間たちの心が正しくなったとき、わたしはその微生物を現象界から “生命の素材の世界” へ引き戻す。その時、あなた達の病気は癒えるのである。

          ○

 けれども、それを神が人間に罰を与えているのだと考えてはならないのである。“わたし” は愛であるから “罰” を与えたりはしない。“わたし” は人間の魂が墜落しようとするのを、ある方法で引き留めようとしているに過ぎない。病菌と見える者は、“わたし” が墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるためのメッセンジャーに過ぎないのだ。 それは神の罰でも神の鞭でもない。それは神の救けの綱であり、墜落を防いでやるためのガードレールのようなものである。≫



 真の人間は肉体ではなく、神の霊である。霊は、コロナウイルスに感染することはない。金剛不壊の実在なのである。それを人類がはっきりと自覚して新生する時が来たのである。


 「岡正章さんの2020年を振り返ってみましょう」 というメールが、YouTube Creators <no-reply@youtube.com> さんから届いていた。

≪ 誰も予想しなかったことが起きた 2020 年。こうした状況の中、236 分もの動画をアップロードしてくれました。ファンを魅了し続けた 2020 年を振り返ってみましょう。

……最初に動画をアップロードしてから今まで、ファンが高評価ボタンをクリックした回数は

375 回に上ります。

チャンネルを応援してくれる視聴者は増え続け、コメント投稿数は 16 件、
動画共有回数も 165 回に到達しました。

数字で見る 2020 年

あなたがこの1 年で新たに獲得したチャンネル登録者数は 219 人、
視聴回数は 12037 回です。

2020 年にあなたの動画が視聴された時間は 138200 分に上ります。

2020 年は 372 件もの高評価を獲得しました。

今年の締めくくりにふさわしい結果です 🎵≫



 ありがたいことです。

 この1年、生かされてきた 神の恩、皇恩、先祖の恩、衆生の恩に心から感謝を捧げます。

 この11月以降、つくった短歌をご披露します。


     * * * * * * *


    (令和2年11月)

コロナ禍といへど善きこと多々ありてわれはやすけしこころゆたかに

仏壇に林檎、栗、梨、あふれたり皆あたたかき贈り物なり

「花はいろ人はこころ」 とうたひたる堀口大学の詩はまことなり

台風一過東の空は輝けりうまし朝の気胸に吸ひ込む

世の中に悪しきものとて一つなしすべてはわが魂
(たま)生かす糧なり

トランプ氏コロナウイルスに感染し 「神の祝福受けたり」 といふ

われ信ず神のいのちの全
(また)きことアフターコロナは神の国なれ

秋の陽に輝るもみぢ葉の赤黄青 錦織りなす池のかがやき

濃いも薄いも数あるもみぢ輝きて秋ふかまりつ深空
(みそら)は澄めり

はらりはらり舞ひ降る落ち葉わが肩に触れつつ土にふり敷くを踏む

    (令和2年12月)

「燈火
(ともしび)ちかく衣(きぬ)縫ふ母」 と歌ひたる昔なつかしかの冬憶(おも)

「さんさんさん桃三かがやく太陽」 とうたふ子供らいのちかがやく

障害者も健常者もみな平等にこの指とまれと 「ももふらっと」 の集ひ

み手脚の萎えたる児らにもあたたかき冬贈らむと集ひて語る

三密を避けてソーシャルディスタンスされどこころはZOOM
(ズーム)で結び

ウイルスの恩賴
(おかげ)によりてオンラインみたまのふゆる冬を贈らむ

コロナ禍はあれど御霊
(みたま)のふゆること多く楽しきみ冬贈らむ

「パプリカ」 の楽しダンスは距
(へだ)て超えオンラインにて笑顔届けり

「ももふらっと」 の歌つくらむとわれ思
(も)へば 「ももさんさん」 の詞のわき出づる

人生百年もたまほしきはいつまでも胸の高鳴り心のときめき

    (令和3年1月)

ユーチューブに去年
(こぞ)送りたるわが動画視聴回数一万二千とふ

コロナ下にわれは好機とよろこびて命をそそぎ創りし画なり

品位ある結束へと宣
(の)るバイデン氏分断の世界は一つに成るか

艱難
(なやみ)超え歓喜の世界謳ひたるベートーヴェン生誕二百五十年

「抱き合はう全世界の兄弟よ」 とベートーヴェンの第九はうたふ

人はみな一ついのちの兄弟姉妹
(はらから)よ艱難(なやみ)のりこえ歓喜世界へ

コロナ 「禍」 を 「果」 報に変へて人々よ今ぞ一体
(ひとつ)の世界つくらむ


     * * * * * * *


 よい新年をお迎えください。



  (2020.12.31)

586 コロナの禍を福に転じ、「コロナ果」をもたらそう


 #558 で、「『2020年から新時代』 という予言」 と題し、引用文を入れて次のように書いている。

 以下は、1940年代に記録された予言である。

≪ まもなく世界全体が、新しく生まれ変わる。

 まったく近いうちに、地上のすべての政治、経済体制は、ガラリと一新される。技術も、社会も、今とは比較にならないほど進歩する。理解がみなぎり、一体となった世界社会が実現する。……

 最も変るのは教育である。その理論も実際も、根底から改革される。それは、人間観に一大変革が起こるからである。

 人間とは何か?

 現在では、環境にもみくだかれ、生活にこづき回され、機械や社会体制の部品となって、いつ廃物とされるかわからない、情けない、無力で不安定な存在にすぎない。人間とは本来、そういうものではなく、宇宙的にかかわりあっている、巨大な存在なのだ――と、アガシャは教える。

 それを自覚せねばならぬ時がまもなく訪れてくる。激しいショックを受け、大きな試練をのりこえて、いやでも人間は、本当の自分自身に目ざめ、偉大な自覚を抱くようになる。それがつまり地上の浄化だ。

 この上もなく平和な、輝かしい時代は、人類をゆり動かす大きなショックとともにやってくる。≫


 (米国 「アガシャ・テンプル」 で、霊媒リチャード・ゼナーが、今から70年近く前の1940年代に受けた霊示の記録より。原典の書名は不詳。学生時代、昭和30年ごろに図書館で見て、書きとめておいたものだが、書名は記していなかった)

 上記最後の行の 「人類を動かす大きなショック」 とは、このたびのコロナショックだと考えることができる。加えて、次は現存する書物からの引用である。

≪ アガシャは次のように予言する。

 2020年より後には 「地上天国があらわれ……神が凡ての神の子達のために計画し給うた生活」 が訪れるであろう。
  (J・クレンショー原著 谷口清超訳 『天と地とを結ぶ電話』 263頁より)

 と、引用文を入れて書いているのである。

 僕は、予言というようなものをあまり信用しないのだが、上記のことはあり得るし、これを信じて、そうあらせたいと思う。

 しかし、世界の現状は、まだまだそのような 「地上天国」 とはほど遠いようである。

 日本経済新聞は、第一面に 「パクスなき世界」 と題する連載特集記事を組んでいる。いわく――

≪ 「新型コロナウイルスの危機は世界の矛盾をあぶり出し、変化を加速した。古代ローマの平和と秩序の女神 「パクス」 は消え、価値観の再構築が問われている。「パクスなき世界」 では、どんな明日をつくるかを考えていく。≫

 と。

 12月20日からは 「大断層」 (1)、(2)、(3)……と続いているが、その記事から一部引用させて頂く。

≪   (1) 「富める者」 襲う恐怖

 新型コロナウイルスの危機は低成長や富の偏在といった矛盾を広げ、世界に埋めがたい深い断層を刻んだ。過去の発想で未来は描けない。

 「市民が互いに軽蔑すれば、米国は1つの国として生き残れない」。世界が米大統領選に注目した11月、米複合企業コーク・インダストリーズの総帥、チャールズ・コーク氏(85)は著書で、米社会の分断について 「我々が台無しにしたのか」 と後悔の念をつづった。

 保有資産450億ドル(約4兆6千億円)という米有数の富豪は自由経済を徹底して求める 「リバタリアン」 の代表格だ。保守派を資金面で支え、いわば党派対立をけん引してきた。その成果の1つが4年前のトランプ政権の誕生と共和党による上下両院の独占だった。

 勝利したはずなのに、この4年で逆に自由経済は遠のき、保護貿易や政府債務が拡大した。不公正や格差をめぐる暴力も米社会を覆う。今後、特定政党の支持から手を引くというコーク氏。自身の力がもたらした惨状におののく心情が透ける。

 米ウォルト・ディズニー共同創業者の孫、アビゲイル・ディズニー氏ら資産家約100人は 「私たちに増税を。すぐに大幅に恒久的に」 と公言する。コーク氏と表現は異なりながら、「富める者」 に通じるのは 「このままだといずれ自分たちはしっぺ返しに遭う」 という恐怖にも似た不安だ。

 不安の震源は 「1つの地球に2つの世界がある」 という現実にある。スイスのUBSなどによると、保有資産10億ドル以上の2千人余りの超富裕層はこの1年足らずで資産を200兆円増やした。

 同じ地球に食べ物にも事欠く人がコロナ前から6億9千万人いる。

 飢える人々はコロナでさらに1億3千万人増える恐れがある。

    (2) 若者の憤り――30歳未満、17%が仕事失う

 あなたは、自分の親よりも豊かになれる自信がありますか――。

 「高齢者のような貯蓄など私たちにはない」。英国のイングランド北西部に住むジュリア・フリーマンさん(29)はくじけそうだ。大卒でも定職はなく、幼い2人の子を抱える。新型コロナウイルスの流行に伴うロックダウン(都市封鎖)の影響で、夏に法律事務所を解雇された。やっと得た販売員の仕事も11月の初出勤の日に再び都市封鎖が決まり、失った。

 国際通貨基金(IMF)の報告書によると、世界で働く18~29歳の17.4%がコロナ禍で失業・休業し、42%の収入が減った。30~34歳も失業・休業は10%を超えた。米国で親と同居する若者は5割超と1930年代の大恐慌以来の高水準だ。

 コロナ禍は世界共通の時代体験として 「コロナ世代」 を生む断層を刻んだ。「#ブーマー・リムーバー」。高齢者ほど重症化や致死のリスクが高いコロナについて 「戦後生まれのベビーブーマー世代を取り除くウイルス」 と評する心ない造語がネット上で流行した。

 閉塞感をより深めているのは、20世紀後半の高度成長時代が遠ざかり、若者の憤りが時間とともに薄れると期待しにくくなっていることだ。すでに手にした富は高齢世代に偏る。米国で46~64年生まれの保有資産は約60兆ドル。65~80年生まれの2倍、81~96年生まれの10倍に上る。

 さらに、子が親より豊かになる階段も壊れた。経済協力開発機構(OECD)によると、米欧14カ国の43~64年生まれは20代で7割が中間層に属した。80年代から2000年代初めに生まれた世代だと6割に細る。ドイツ銀行のジム・リード氏は 「若者が怒りの矛先を誤って資本主義に向け、経済をさらに傷つけかねない」 と警戒する。

 米政治専門紙ヒルの8月の調査では社会主義に 「親しみがある」 と答えた米国民は50歳以上で3割前後。これに対し18~34歳は52%、35~49歳は59%に上る。この20年、世界金融危機やコロナ禍など相次ぐ激動にさらされ、このままでは報われないとの怒りを引きずる世代が拡張した。

    (3) 創造は教育から

 次期米大統領に就くジョー・バイデン氏の得票をみても、18~49歳の支持が現職のトランプ大統領を上回った。「現状変革を望む世代」 の広がりが新たなリーダーを選んだ。だが成長というパイの拡大がないまま再配分だけ求めても、経済社会が停滞した旧ソ連のような 「社会主義の失敗」 を繰り返しかねない。

 米哲学者エリック・ホッファーは成長を続ける創造的な人間を 「永遠の青年」 と呼んだ。旧弊を壊し、理想をめざすためには、新たな創造につながる教育という土台が要る。知識や技術、そして考える力。教育という社会全体の将来を支える投資を厚くしてこそ、「失われた世代」 の連鎖を食い止める道を描ける。

 閉塞への憤りをただ抑えれば社会不安を招く。1人ではできない変革への推進力へとどう変えていくか。危機は次の飛躍への起点にもなる。……≫



 ――ここで僕は、冒頭に掲げたアガシャの予言の言葉を考える。

 「まもなく世界全体が、新しく生まれ変わる。

 最も変るのは教育である。その理論も実際も、根底から改革される。それは、人間観に一大変革が起こるからである。

 人間とは何か?

 現在では、環境にもみくだかれ、生活にこづき回され、機械や社会体制の部品となって、いつ廃物とされるかわからない、情けない、無力で不安定な存在にすぎない。人間とは本来、そういうものではなく、宇宙的にかかわりあっている、巨大な存在なのだ」

 ――と、アガシャは教えているのだ。


≪     何故あなたの祈りはきかれないか

 神に祈ってもその祈りがきかれないのは何故であろうか。それよりも吾らは神が吾々のためにいのりたまう祈りを、吾々自身がきいてあげたことがあるかと云うことが問題なのである。

 神が 「汝ら互に相愛せよ」 と仰せられていても、本当に吾々は互に相愛しているかどうかと云うことが問題なのである。神がわが祈るものを与えたまわないのではない、既に与えていられるのである。それは恰もラジオの放送は既に与えられている、すでにそれは与えられていながら感覚に感じられるように実現しないのは、自分の心が神の放送の波長に合わないからである。聴取者は放送局の波長と合わさなければならない。それと同じように人間は神の心と波長を合わさなければならないのである。

      人間は神の自己完成である

 人間と神とは互に協同運動しなければならないのである。人間は神にとってなくてはならない高貴なる存在なのである。人間がなかったら、神はその 「人格的な愛情」 を表現することは出来ないのである。また人間がなかったら神は 「科学的な創造」 をつくることは出来なかったのである。人間がなかったら 「意識的な自然改造」 は出来なかった。神の潜在的な意識が、自覚的に現れたのが人間であるのである。人間は神の希望の実現であり、神の創造力の完成である。≫

  (『新版 真理』 第2巻 p.71~72 より)


 YouTube 「人間・神の子」 とは――一即多の真理(谷口雅春先生御講義)

 を聴き直そう。


  (2020.12.24)

585 総裁を礼拝せよ。総裁の奴隷となるな。


 人間は、神の子である。神の子は、宇宙の中心者であり、支配者である。

 神の子は主人公。奴隷であってはならない。

 なんでも総裁の言うことに無批判に従うのは奴隷である。

 しかし、「総裁が悪い」 とすべて他に責任を押しつける者もまた奴隷である。総裁に欠点が見えたら、それは自分の欠点であると己を省みて自己反省し、しかして神なる総裁の実相を礼拝し、神なる真の自己に立ち還る者こそ、まことに神の子であろう。

 神は、絶対者である。絶対者は、絶対のままでは表現が出来ない。時間・空間のスクリーンに表現をするには、相対の姿をとらねばならない。

 『生長の家』 の運動は神が始められた神の運動である。しかし、「運動」 として地上に神の国を実現しようとする時、それは有限の形をとり、闇を消すために光の進軍という相対的な戦いのすがたをとるのである。だから生長の家人類光明化運動はある意味戦いの歴史であったのである。

 戦うには剣
(つるぎ)を取らねばならない。その剣は言葉の剣である。剣は両刃(もろは)であって、自分が間違えば自分が斬られるのである。生長の家人類光明化運動も、「燃え上がる若葉のごとき」 奇蹟的な大伸展もあれば、現象的には失敗と見える蹉跌も体験しつつ、発展生長してきたのである。

 絶対者なる第一義の神は戦わない。それは常に身を隠してい給う。しかし、第二義の神として現れては地上(現象界)に、ときには奇跡と見える自在無礙の救いのすがたを現わし給う。

 私はいま同志と共に Zoom アプリを使って 『生命の實相』 頭注版をテキストとしてのリモート真理研鑽会を月に2回開いており、11月は第5巻、12月は第6巻を勉強研鑽している。今日(12月12日)もその開催日である。

 『生命の實相』 第6巻には、生長の家草創期にいかに多くの奇蹟的体験が続出したか、その記録がありのままに克明に記されている。

 たとえば、102頁以下、石川県七尾市で杉江重誠氏が指導し中耳炎で高熱を発した婦人を治癒させた体験。昭和9年4月22日、当時阪神間住吉の生長の家本部(谷口雅春先生宅)で行われた座談会の記録から。杉江氏は、七尾の方言まる出しで語る。「言葉の注射」 で病を癒すという。

≪……話しているうちに、主人と奥様とが互いに感情のもつれがあって、聖典を読むことを互いに押し付け合っていることがわかりましたがです。妻君は 「良人が読んでくれん」 というし、良人は 「読んでやっても聴かぬ」 という。こいつは一つ言葉の注射の必要があると思いましてな。

 「そんなに両方から自分は善いけれど、良人はいかん、家内がいかんというように互いに罪を押し付け合っていたら、病気なんぞ治るもんじゃないぞ。

 だいたい奥様がまちがっている。病気を権利のようにふるまって、わしは病気じゃぞ、わしは病気じゃぞと、自分が病気であることを手柄のようにして、その病気で主人を押え付けようとしている。そんなことでは病気は治らん。病気を自慢にしとっては病気は治らん。病気は自慢になるどころか、あなたはその病気でどのくらい家の者を苦しめておるか分らん。今まで家の者に迷惑をかけて、どうもすまなかったということに気がついて、もう権利のように病気を振り廻そうという気がなくなったら、もう病気を振り廻す必要がないから治ってしまうのじゃ。」

 こんな言葉を注射していますと、反応が顕われて来たとみえまして、ふとんの中へ頭をもぐり込ませてシクシク泣き始めました。こいつは注射が効き過ぎたかと思いまして、今度は良人の方へ向きなおり

 「あんたもあんたや、夫婦というものは互いに相手の気持ちになってやらなければいかん。病気している者の気持ちにもなってみられ。誰がわれから好き好んで病気になる者があるか。奥様が病気になるのは奥様の心も悪いが、その奥様をそういう心持ちにした主人の心も悪い。主人が 『生命の實相』 を読まぬようでは第一いかぬ。主人の心が一家の柱である。柱が傾いてきたら家はもたぬ」

 などと今度は良人の心へ言葉の注射をしていますと、泣いていた奥様の方は泣きやんで、かぶっていた蒲団からそっと眼だけのぞかせて、自分の良人は今どんな顔をして叱られているかといわんばかりの、コンナかっこうをして見ているがです。

 そこで今度は細君の方へ向きなおり、「今いわれているのは、あなたは主人のことだと思っているけれど、皆あんたのことですぞ」 と一本注射をまいりました。

 「病気というものは皆利己主義で起こるがで。自分が自分よかればかりを考えて、少しもほかの人よかれかしと思ってやらんから起こるがじゃ。主人がいわれておるいい気味じゃというふうに考えて、主人の身になってやるということがない。あなたが病気をしているがで、子供の世話でも、どのくらい主人の手を煩わすかしれない。ちっとは主人の身にもなってあげられ。

 子供さんでも、自分の母親が、そんなかっこうをして寝ていて、どんなに淋しい頼りない気がするかしれない。あなたが病気のかっこうをしているがで、家中が暗い気になっている。どうも家中を暗い気持ちにしてすまなかったという気持ちになって、これから、病気のかっこうをして家の中を暗くしますまいという気持ちになれば、すぐ今からでも病気は治るがじゃ。第一そんな氷嚢なんかとってしまわれ」

 と氷嚢をとらせてしまう。

 「先生この湿布もとりましょうか」 ときくから、湿布もとらせてしまう。湿布をとるとその下から何か、茶色の湿布薬が出てきた。それもいかにも病人らしくて見苦しいから拭かせてしまう。きれいに外から見ると病人らしくなくなってしまった。

 「先生、この耳の中の薬もとりましょうか」 と今度は向こうから進んでいう。「アアあなたがとりたければとられたらええぞ。」 耳の中の脱脂綿も引きずり出して、薬もきれいに拭いてしまった。

 いよいよ健康らしくなって熱もどうやら引いてしまったらしい。この分なら明日はもう床を上げて起きているだろうと思って、その翌日訪問してみますと、まだ寝ている。「こいつはいかん」 と思いましたな。「どうじゃ」 と訊いてみますと、熱も何もない。

 医者が来て診ていったが、自分が処置しておいたとおりになっていない。しかし別に医者をかえたようすもない。薬を拭きとってしまって、耳の中はもう治ったようにカラカラにかわいている。医者は変な顔をして 「ほかに何かよい方法があるようじゃで、病気は大変よいようじゃから、わたしはもう来ません」と半分嫌みのような、半分感心したようなことをいって帰ったというがです。

 それにやっぱりその奥様は寝床の中で寝ているがですから、やっぱり夫婦間に葛藤(こじれ)があるということが解る。それでわたしは 「大変よくなってそれは結構じゃった。今日は脊髄に手を当てて根本的に治してあげるから起きなさい」 と申しまして起きて坐らせて、背中に手を当てながら、きのうの言葉の注射はチッときつすぎたから、今日は優しいやんわりした言葉を注射してやろうと思いまして、側にいる主人などには聞こえないような小さな声で耳に口を寄せまして、

 「そんな蓬
(よもぎ)のような髪をして寝ていたら、今まであなたをどんな好きな人であっても嫌いになってしまう。女というものは身だしなみということが肝心やで。良人と仲よくしようと思ったら、キチンとした髪形をして、着物を着てチャンと身じまいをすることが肝心や。皆があなたをみて、病人じゃというようなかっこうをしとったら、皆から 『あなたは病人じゃ、病人じゃ』 という念を送られるから呪いを送られているのと同じじゃからよくなろうと思っても、よくなれせんぞ。もう、あなたの病気は治ってしまったがやから、寝床を上げて、着物を着て、髪を結われ。今すぐわたしのいる前ですぐそうせられ。」

 こうその奥様だけに聞こえるような小さな声で申しますと、急にその奥様は起き上がって寝床を上げて、髪をチャンと梳
(す)きつけて、着物を着ている。

 すると幼いお嬢さんが出て来て、「お母さん、どこへ行くの。もう病気は治ったがかい?」 といじらしい光景です。「アア治った。治った。お母さんは治ったんやで。」 それでわたしは申しました。

 「この幼いお嬢さんでさえ、今まではあなたを病人扱いしていた。今あなたが病気が治ったといったらこんなに喜ばれる。病気の治ったということはこんなにいいものじゃ。この気持ちを忘れずに、これから病気のかっこうをしようなどとは思いなさるな」

 こう申して帰りましたが、それきり、その奥様の中耳炎は手術も何もしないで治ってしまいました。≫


 ――次に佐瀬夫人がいう。東京に住む養母(はは)がよく自分を叱るのは養母が無理解だからと考えていたが、『生長の家』 を読み、「神は無理解な養母を造り給わないからそんな無理解な母は決して存在しない、それは自分の心が映ってそう見えるだけである。実相の養母は、理解ある知恵と愛とを円満具足した存在であると思った。すると養母が急に懐かしくなり、養母に会いたいと思う念が切々と動いてきた。すると不思議なもので、養母からぜひ会いたいから、十日間ほど来てくれというやさしい手紙が来た。それで喜んで行こうと思ったところへ――

 住んでいた家が隙間だらけの家なので、移転したいと考えて探してもいた、それにちょうどよい物件が見つかった。それで移転するなら早く移転したい。この家を契約しておいて移転しなければ、そちらの家賃とこちらの家賃と両方とられる。東京へ帰って養母に会うのは次の機会にしようという気になり、引っ越しにはアレをこうしてコレをこうしてと考えていたら、子供が膝の関節を脱臼して泣き出した。

 こんなことが起こるのはなにか自分の心に悪いことがあるに違いないと思い、子供の膝に手を当て、お詫びの心で念じていたら、すぐその膝関節の脱臼が治った。「アアありがたい」 と思い、また引っ越しの準備をいたしていたら、さっき膝関節の脱臼の治った子供が、もう完全に治ったつもりで高いところから跳んだら、再び脱臼した。

 それではじめて気づいた。養母がわたしに会いたいといっている。わたしも東京へ会いに行こうと決心していた、善いことに立ち上がろうとしていたのにその膝を中途で折った。それが悪かったのだ。わたしの心が子供に映って子供の膝が脱けたのである。これは悪かった。

 あの家を借りておいて、この家を引っ越さなければ、家賃を二重にとられるなどという考えは欲ばった心である。急にこの家を突然引っ越したら、アテにしていた家主も失望するだろう。家賃を二重に払ったら損だというような心を捨てよう、皆な負うべきものは自分が受けて、なすべき善きことはすべてをなそうという気持ちになり、心がすっかり落ち着いてきたら、それきり子供の膝関節の脱臼も治ってしまった。

 それで東京へ行き養母に会うと、ああわたしはこんな善い養母を今まで見たことはない。なんという優しい養母なのでしょう、今まで、無理解なところのある養母だと思っていたのは、わたしの心にまちがいがあり、それが映ってそう見えていたのでした――と語るのである。

          *

 僕はこれを読んで、ハッと悟った。自己反省したのである。

 今、コロナウイルス感染が拡大しているから外出を控えるようにと言われ、オンラインのイベントが増えている。そのため僕はあせって別のノートパソコンにも Zoom アプリソフトをダウンロードしようとしたが、そのとき 「無料ダウンロード」 という文字に目を引かれて、そこからダウンロードしようとしたら、つまづいて、幾度やっても上手くいかず、結局ずいぶん時間と料金をロスしてしまった。

 それは、恥ずかしながら僕が 「価を払わずに得られるものは得たい」 という卑怯な心を持っていたからである。「無料ダウンロード」 なんて書いてないところから無料でダウンロードできるのに、ケチな心で 「無料」 という文字に飛びついた、その 「奪う心」 の結果として、かえって奪われてしまったのであった。もう決して 「価を払わずに得よう」 などというケチな心を起こすまいと誓う。


  <つづく>


  (2020.12.12)

584 歴史とは何か。歴史から何を学ぶか。


 現象はない。時間も空間も本来無い。時空を超えた、時空未発の根源なる実相世界、神の国のみが実在である――というのが生命の実相哲学である。

 「現象はない」 ならば、生命の実相哲学から見た歴史とは何であるか。

≪ 歴史というものは一体何であるかといいますと、現象界に実相が如何に投影し表現されて来るかということの、その現れ方、即ち実相が現れる場合の作用、反作用という風なものを次第に追うて並べて行くことによって、その民族に如何様に実相が現れ、実相が現れんとするに当って如何に反作用を起し、自壊作用を起したかを知り、

それをずっと時間的に貫いて観てそこに実相が如何なる相
(すがた)を以って現れるかという事を知ることによって、大宇宙に於ける日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が国家構成の一員として及び個人として如何に生きて行くべきものであるか、将来この世界は如何に発展して行くべきものであるかということをはっきりさせるためのものが歴史の研究であります。

 ですから、歴史というものは単に過去の記録を書いたという風なものではないのであって、生命の生々流動の流れの相(すがた)、実相が現象界に貫いて響き出る時のその儘の相が書いてあるのであります。その相を見ることは自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相を見ることであり、宇宙が、自分が、今如何に生き抜いて、今後如何に発展すべきであるかということを知ることであります。≫

 (谷口雅春著 『古事記と日本国の世界的使命』〈原典は『生命の實相』神道篇〉より)


 生長の家元理事長・本部講師であった山口悌治氏の著書 『万葉の世界と精神』 前編17~18頁には、次のように書かれている(抜粋)。

≪  歴史を学ぶことは自己を学ぶこと

 谷口雅春先生は、「歴史なき国民は浮浪者に等しい」 と切言してをられるが、浮浪者に犯罪や叛逆が結びつきやすいのは当然だからである。

 われわれは皆、日本人として先祖代々この国の中に生活し、この国と運命を共にしてきた。先祖代々この国の中に生活し運命を共にしてきたといふことは、この国は自分といふ存在の外にある他者ではなくて、自分といふ存在の内部にわかち難く融合し、かつ自分を構成してゐる生命的一体者であるといふことなのである。

 国は自分の外にあるやうに見えて同時に自分の内部にあるのである。自分は国の外にあるやうに見えて、同時に国の内部にあつて一つのものとして生存を保つてゐるのである。われわれと国とは内外相即であつて、二つのものに切離すことはできない存在なのである。

 したがつて日本の歴史は自分の外にあるのではない。日本の歴史を明かにすることは、とりもなほさず自分自身を明かにすることなのである。歴史を学ぶとは、自己を学ぶことであり自分が自分に対面するといふことにほかならない。≫


 ――上記は国の歴史について述べられているのであるが、生長の家の歴史についても同様のことが言えると思う。

 そういう人生観・歴史観から、生長の家の歴史を大観してみたい。


 まず、生長の家とは何か。

≪ 『生長の家』 も久遠の昔からあり、『生命の実相』 も久遠の往昔からある。≫
 (「無限供給の神示」 より)

≪ 『生長の家』 に発表される思想のインスピレーションの根元が本当の生長の家本部であって、それは神界すなわち 「実相の世界」 にある。≫
 (『生命の實相』 初版のまえがき より)

 が、現象界に 『生長の家』 という名で出現したのは昭和5年(1930)である。

 それ以来90年を経た現象界の 「生長の家」 の運動の歴史は、「○○年史」 として

 『生長の家三十年史』 (昭和34<1959>年3月1日発行)
 『生長の家四十年史』 (昭和44<1969>年11月22日発行)
 『生長の家五十年史』 (昭和55<1980>年11月22日発行)

 の3冊が、生長の家本部編として発行されているが、その後は本部編纂の年史というのはできていない。

 谷口雅宣・生長の家現総裁が平成2年(1989)副総裁に就任してから13年目の平成15年(2003)7月16日、東京お台場のTFTホールで 「生長の家教修会」 というのが開催された。出席者は谷口雅宣生長の家副総裁・谷口純子白鳩会副総裁と、本部講師155名・本部講師補82名の合わせて237名(岡もその中の一員)。

 その記録が、谷口雅宣副総裁(当時。総裁代行)の監修で 『歴史から何を学ぶか 平成15年度生長の家教修会の記録』 という書籍として、翌2004年4月30日付で刊行されている。

 ここに表れた歴史観には納得できない点もあるが、ともかくこれは生長の家の運動が、3代目雅宣総裁の時代に大きく変わるための一つの区切りをつけるポイントとなったものであったと言えよう。

 この記録書(『歴史から何を学ぶか』)の第3章 「国際平和信仰運動の意義」 の 「まとめの講話」 で、雅宣氏は、次のように言っている(抜粋)。なかなかいいことを言われている。図入りである。

≪ ……「無相円相一切相の神示」 というのが出されております。……

  一つの形に執して、それのみを吾れであると思うものは、吾が真実を知らざるものである。

 これは要するに、神は多様性を求められるということです。もっと言えば、多様性の中に神はいるということです。



 この山の頂上に登るためにいろいろな登山道を開発してくださった人――つまり、それぞれの教えの教祖の方々、あるいは宗教運動の創始者の方々というのは、その意味においてとても尊い存在である。

 例えば、赤い登山道(右図の左側の直線)をつくった先生は、それは麓から頂上まで最短距離で行くと、そういう特徴と使命をもった運動を展開された人だとすると、それは頂上に全く行けなかった時代よりもはるかに素晴らしい功績を残された。

 また別の時代に黄色い道(右図の中央の縦の曲線)をつくられた人がいたとすると、それは、この図を見れば分かるように、赤い道よりも緩やかな道ですから、より多くの人々が頂上に登れるような、赤い道では厳しくて登りきれないような人たちも救い取れるような、そういう道をつくってくださった。その功績も賞賛すべきです。

 また別の時代になって、緑の道(右図を横断する形の曲線)を開発された先生がいたとしたら、それは確かに赤い道と比べればずいぶん時間がかかるかもしれないけれど、その代わりに別の特色がある。例えば、家族と一緒に仲良く、子どもも連れて歌でも歌いながら登山ができる、そういう別の登山道を開発されたとする。それはそれで有り難いお仕事と言わねばならない。

 生長の家は、この三つの登山道の中のどれかということを考えるためには、我々は、この山を上空から俯瞰する(左の図参照)。すると、それぞれの道を歩んで来た人たちが頂上付近で、つまり各宗教の神髄に近い部分で、お互いが共通した信仰であったということに気がついて平和共存ができる。そこが生長の家の最も得意とする 「万教帰一」 の考え方であるし、生長の家の存在意義があるところである――。

 我々の運動の歴史についても、これと同じことが言えると思う。例えば、「理想世界百万運動」 とか、戦後の 「愛国運動」 の中で左翼と闘いながら、これは文字通り肉体的に衝突することだってあった。そういう状況の中で闘ってきた人は、例えば黄色い道を上ってきた人と言えるでしょう。それぞれの道はあってよかったし、なければならなかった。しかし、「この道しかない」 と言えば誤りになります。運動の道も、その時代時代において最も必要とされるものが新たに作られる。そして、そういう様々な道から登ってきた人たちを全部包容できるような場所が、生長の家でなければいけない。

 そういう意味で、私たちは個人的にも、集団的にも様々な歴史を生きてきた人たちを皆迎え入れて、そして互いの道を批判せずに認め合うことが必要です。白い雪が積もっているこの頂上付近では、私たちは皆仲良く手を結べるんだから、そうしていくんです。それが教団の内部でできなくて、どうして世界に向かって 「万教帰一」 の運動ができるでしょうか? だから、「万教帰一」 の教えというのは、我々の運動の中の公案であると言ってもいい。……≫


 なかなかいいことを言われている。それを実現してほしいと思う。

 例えば、赤い登山道は谷口雅春先生が説かれた道。黄色の道は、いま生長の家社会事業団・谷口雅春先生を学ぶ会などが目指している道。緑色の道は谷口雅宣総裁が率いる生長の家教団がとっている道だと考えることもできる。それらの人たちが、

 「個人的にも、集団的にも様々な歴史を生きてきた人たちを皆迎え入れて、そして互いの道を批判せずに認め合うことが必要です。白い雪が積もっているこの頂上付近では、私たちは皆仲良く手を結べるんだから、そうしていくんです」

 と言われている、その通りを実行、実現するようにしていただきたいです。

 そのためには、たとえば日本学術会議の会員任命問題について、 「学問の世界では、右だろうが左だろうが優れた研究はあります。それを判断できるのは学者しかいないはずです」 と総裁はおっしゃるが、そう思わない人も結構います。多様性を重んじられるなら、反対の意見も尊重すべきでしょう。総裁が個人的に自民党を毛嫌いし立憲民主党に期待されるのはかまいませんが、「それが生長の家だ」 と言って多様性を認めないのでは、万教帰一の運動は不可能で、それでは 「国際平和信仰運動」 にもならないではありませんか。


  <つづく>


  (2020.12.2)

583 生長の家総裁にもの申す― 信徒の基本的人権は無視してもいいのですか―『サンデー毎日』(11.29日号)を読んで


 #582 の続きを書きかけていましたが、中断して、割り込みを入れます。

 「生長の家が朝日新聞へ意見広告したワケ」 というタイトルで、『サンデー毎日』 11月29日号に掲載された、谷口雅宣 生長の家総裁へのインタビュー記事を読みました。

 ちょっと黙っていられないので、書きます。

 よくまあ、こんな恥さらしなことをやってくれました。

 タイトルに 「宗教団体 谷口雅宣総裁が独白」 とありますが、まず、生長の家は宗教団体じゃなくて政治団体だったのか? と思わせられる出だしの言葉。

≪ 今年9月、任期を1年余り残して安倍晋三首相が退陣しました。7年9カ月という歴代最長の在任期間は驚くばかりですが、生長の家としましては2016年の参議院選挙の際に 「与党とその候補者を支持しない」 という声明を発表し、態度を明らかにしました。
 主な理由は、安倍さんが集団的自衛権を巡る法解釈の勝手な塗り替えを行ったからです。そして、11もの法案を通してしまったことに対し 「このままではいけない」 と強く考えたのです。……≫


 と言っている。その中に 「生長の家としましては……」 という文言があるが、生長の家が政治団体で、正当な手続きを経てそう決定したのなら、いいでしょう。しかし、そうではない。

 同インタビュー記事の中で、総裁は

≪ 自民党の人はよく 「法治国家」 と言います。しかし、彼らが言っている法治国家とは制定法(立法機関により一定の手続きを経て定められた法)のことだけなんです。国民の基本的人権の尊重は制定法ではなく、自然法(人間の自然の本性あるいは理性に基づき、あらゆる時代を通じて普遍的に守られるべき不変の法として、実定法を超越していると考えられる法)から発しているんです。この自然法は宗教ととても関係が深い。≫

 とも言っている。ならば、総裁は信徒の基本的人権を尊重しているか?

 総裁の顰
(ひそ)みに倣い法学的に言えば、制定法である 「日本国憲法」 には

 「第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」

 とあり、第97条にも

 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」 と念を押している。

 その 「基本的人権」 とは、ブリタニカ国際大百科事典では

 「人が生れながらにして,単に人間であるということに基づいて享有する普遍的権利をいう。人権思想は自然法思想に発し, まず (1) 自由権的基本権 (思想,良心,学問,表現の自由など) を確立し、(2) 政治的基本権 (選挙権, 請願権など) を保障し……」

 と解説している。宗教団体の信徒も、この 「思想、良心、表現の自由」、「政治的基本権」 が保障されているはずである(法学的に言えば自然法的にも、制定法的にも)。総裁は、それを尊重しているか?

 総裁自身 「思想、良心、表現の自由」、「政治的基本権」 を持っているから、何党を支持していようが自由である。しかし、それを信徒に押し付けることは、信徒の基本的人権を侵害することになるではないか。総裁が

≪生長の家としましては2016年の参議院選挙の際に 「与党とその候補者を支持しない」 という声明を発表し、態度を明らかにしました。≫

 と言うが、それでは、信徒は思想・良心の自由が制限され、総裁の言う通りにしなければならぬと思うのは必然的な結果である。それで信徒の基本的人権を尊重していると言えるか。

 去る10月、菅首相が、日本学術会識が推薦した新しい会員候補のうち6人の任命を見送ったことに関して、総裁は同インタビューで

≪……例えば 「左翼は入れない」 などという、とても国会では発言できない理由があるのだと思います。これは民主主義ではありません。自分たちにとって都合の悪い、異なる意見の存在を認める。それが民主主義の原点なのですから。

 異なる意見を排除する。これは学問の発展のためにはなりません。人文科学系の学問には、多様な考え方があります。それが 「違う意見はいけないこと」 となると、学問の発展はなくなります。右と左の意見があっていいけれど、「右でないといけない」 ということを政府がやりだしたら、これは戦前回帰以外の何ものでもありません。そうした事実が積み重ねられていく。恐ろしいことです。≫


 と言っている。

 ならば、民主主義を標榜する生長の家教団では、当然、民主主義の原点とされる 「異なる意見の存在」 を認め、尊重すべきでしょう。ならば、宗教団体の権力者である総裁が、偏った政治的意見を 「こうでなければならぬ」 と押しつけるような発言は慎むのが当然ではありませんか。

 このたび生長の家教団が朝日新聞等に 「生長の家」 として日本学術会議の問題で意見広告を出したことでも異議を唱えたら、ある教区では教化部長が激怒し叱られた信徒がいるという話も聞こえてくる。とても、信徒の基本的人権が尊重されているとは言えないと思うが如何に。

 日本国憲法第20条の第1項に 「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」 とある。

 総裁の個人的な政治上の意見を信徒に押しつけるのは、宗教団体が政治上の権力を行使することになり、憲法第20条にも抵触する、憲法違反ではないかとも思います。


 ところで顧みれば、生長の家が生政連(生長の家政治連合)という政治結社を結成して政治運動を展開していたのは、昭和39年(1964)~同58年(1983)のことであった(この時は、政治団体として届け出てやっていた。「もう政治運動はしない」 と言いながら詐欺のように強引に政治的発言をするのとはちがう)。

 なおこの 「生政連」 について、雅宣総裁は著書 『宗教はなぜ都会を離れるか』 の20頁に、

≪ 「大日本帝国憲法復元改正」 を最終的な目標として、生長の家政治連合(生政連)を結成(1964年)し、政治活動を展開した。≫

 と書いているが、それもちがうと思う。生長の家は現象世界の改造運動ではなく、現象以前、時間・空間発生以前の宇宙創造の理念なる宗教的理想――神の構図を、地上に実現すべく現れた。

 それは、キリスト教で言えば、みこころの天に成る 「神の国」 を地に現成するため。仏教的に言えば、釈尊が 「金波羅華」を拈って、実在の浄土は中心帰一の世界であることを示された、その万物調和の実相浄土を現象宇宙にもたらそうという仏の誓願、使命感からのことであった。

 「憲法復元改正」 というのも、その過程における手段であって、「最終的な目的」 などではなかった。

 生長の家は右でも左でもない。必ずしも自民党を支持してきたわけでもない。谷口雅春著 『我ら日本人として』 (昭和33年〈1958〉2月10日初版発行) の最初に 「生長の家と鳩山さんとの関係」 と題して次のように書かれている。この 「鳩山さん」、「鳩山首相」 とは鳩山一郎元総理大臣(鳩山由紀夫氏の祖父)のことである。

≪ おたずねのことお答え申上げようと思います。私は社会党にも自民党にも属しないものでありますし、生長の家そのものも自民党に応援するものではない。嘗て、鳩山首相と私とで共著 『危機に立つ日本』 を書いた事があったので生長の家が自民党であるかの如き感を与えているかも知れませんが、決して生長の家が自民党ヒイキという訳ではありません。

 鳩山首相が生長の家の教えに触れて 「もう一度人類のお役に立つなら、病気のそのままでもお役に立ちたい、生命は神より与えられたものであって、病気から与えられたのではないから、自分のいのちは神が返却せよといわれるまでは、病気から横取りされることはない」 との大信念をもって半身不随のまま立ち上られたのであり、その大信念をもって総理大臣在職中あの病気のままで、ソ連まで使いし、多忙な神経戦の多い政界の仕事を今日までやりつづけて来られたのは、生長の家のお蔭だと大いに感謝していられるだけのことであって、生長の家が自民党ではなく、鳩山首相が生長の家党だった訳であります。これを逆に考える人は、宗教が一党に偏するが如き誤った観念をつたえるのでありまして、それは大変危険なことであります。決して生長の家は自民党に偏向していない。併し日本の政党で天皇制を支持しているのが自民党だけなのです。≫


 (同書3頁)と。

 谷口雅春先生の心は、昭和38年(1973)2月28日に行なわれた国代表者会議での谷口雅春先生の結語に、端的に表れている。

≪ “人間神の子”を説く宗教は他にもある。“肉体も環境も心の影”と説く宗教もある。万教帰一だから根本は同じである。だがそれでは、とくになぜ生長の家が出現したのか。生長の家の神は住吉大神である。その住吉大神が、なぜ今ここに、日本の国土にこの時期に現われ給うたのか。そこが非常に大切なところである。

 『古事記』 に示されるごとく、住吉大神は天照大御神の御誕生の直前に現われられた。最後の宇宙浄化の働きとして、宇宙の大神が住吉大神と現われ給うたのである。天照大御神の御誕生とは、日本の実相の誕生ということである。日本なるものの魂が具体的に宇宙を照らす光となるということである。この直前に、最後の浄化の働きとして住吉大神が今ここに現われ給うたという、ここに生長の家出現の真意があるのである。

 ただ単に、人間は神の子であり、物質ではない。肉体はない。病気は治るという、それだけのことではないのであって、天照大御神の光が宇宙に天照らすべく、天皇陛下の御稜威を発現せしめて、日本の国を救い、世界を救うというところに、生長の家出現の本当の意義がある。

 したがって、たんに個人の救いにとどまらず、宗教的自覚をおしすすめて、国家の成仏、人類全体の成仏、宇宙の成仏というところまでゆかなければならないのであって、そのひとつが政治活動なのである。≫

 (『生長の家五十年史』 より)


 ――さて、谷口雅宣総裁ばかりを責めるようなことを書いてきましたが、「三界は唯心の所現」、環境はわが心の影である。総裁は信徒の心の影であり、私の心の影である。信徒の心、私の心のレベルに相応しい形で現れてくださっているのである。――


  <つづく>

  (2020.11.27)


582 「人生は学校だ、そして其処における失敗は、成功よりも優れた教師なのだ」


≪ “東大だ!! 東大だ!!
   そうだ、希望だ、東大だ!!” ≫

 と毎日朝な夕な書き付けて1年間勉強したら、それまで全然勉強なんかしたことがなかったのに、ストレートで東大入試に合格したことは、前項 #581 に書いた通りである。

 しかし、それは儚
(はかな)い一時(いっとき)の夢であった。僕の東大生活は、何とたちまち苦しさばかりの地獄の境に陥ったのであった。

 僕にとっては、「受験地獄」 というのはなかった。希望に燃えた 「受験極楽」 であった。ところが、入学したら 「合格極楽」 ではなくて、「合格地獄」 に堕ちたという状態になってしまったのだ。

 なぜか。

 かいつまんで言えば、まず僕の状態は (1)基礎学力が全然足りなくて、みんなについて行くのが困難だったこと。(2)入学したら何をしようという目標がなく、暗中模索だったこと。(3)東大駒場(最初の2年間を過ごす教養学部)に、魅力ある講義がなかったこと、などが原因と言えるだろう。加うるに、僕の個人的わがままな性格もあったと思う。

 僕は文科系のことには興味がなかった。物理など理系、特に電気に興味を持ち、中学・高校時代にもラジオの組立修理をしてみたり、廃棄された旧陸軍通信隊の無線ジャンクを仲間と一緒に拾ってきて電磁石やおもちゃのモーターなどにしてみたり……というようなことを趣味のようにしていたから、東大に入ったら電気工学にでも進むか、などと漠然と考えていた。しかし、数学は不得意で勉強する時間も不足して、大の苦手だった。

 だから、入試は理科1類(物理化学工学系)を第1志望とし、そのころは理科2類(生物医学系)を第2志望とすることができたからそうして入学試験を受け、理科1類は不合格で、2類に辛うじてパスしたのだった。数学の点数が悪かった。駒場に入っても、数学はついていけなかった。

 それよりも、僕の関心はもはや駒場(東大教養学部 )の授業から去ってしまっていた。高校2年の春に突然受けた霊的ショック(プラスのショックだが)のことが、どうしても僕の魂に大きな余韻を残していて、そのほかのことはどうでもよいような気持になって来るのである。

 読書の関心は、自然に哲学・宗教的なものに向いてくる。

 そのころ読んで惹きつけられ、深く魂に響き肺腑に突き刺さり、忘れられないものに、『トルストイ 人生読本』 (原久一郎訳・酣燈社学生文庫) というのがある。

 これは1年365日、1日1話の形で編集された金言集である。各話の中身には関連ある古今東西の聖賢哲人の金言が引用されていて、それぞれの始めと結びにトルストイの一言・まとめが記されているもの。

 その一部抜粋をここに再録させて頂こう。
 (原文は正漢字・旧仮名遣い使用であったが、新漢字・新カナに変えて表記させて頂く。)

          


≪  一月一日

 中途半端な事を夥しく知るよりも、真に優良な必要事を少し知る方がましである。

 (一)選び編まれた小さい文庫の中に、如何に大きな富があることだろう! 数十年の長きに渉って此の世のあらゆる文明国から選び上げられた最も聰明にして価値高き人々の集団が、其処に於て吾々に、自己の研究と叡智の所産を、最上の整頓裡に提供してくれたのである。それ等の人々自身は紙背に姿を隠していて、近付き難い。また、若しも吾々が彼等の幽棲の空寂を破り、彼等の仕事を妨害したならば、彼等は恐らくそれに耐え得なかったであろう。更にまた、いろいろの社会的条件が彼等との交際を不可能にしたかも知れない。併しながら、その最上の親友達にさえも彼等の公開しなかった思想が、異なる世紀の局外者の為に、明瞭な言葉でここに書き現されているのである。然り、まことに吾々は、吾々の生涯に於ける最も主要な霊的方面の恩恵を、書籍から蒙っているのである。(エマスン)

 (二)吾々は一種の反芻動物だ。従って、いろんな書籍をうんと詰め込むだけでは不十分である。若しも吾々が自分の丸呑にした凡ての事柄を、改めてよく噛みしめ味わい直さないならば、書籍は吾々に力と滋養を与えぬであろう。(ロック)

 (三)いろんな筆者のいろんな種類の書籍をあさり読む結果、読者の脳裡に溷濁
(こんだく)と不明瞭の醸し出される事を警戒するがいい。有益な何物かを得たいと思うなら、ただただ疑う余地なき価値を有する諸氏の著述によってのみ、自己の頭脳を養うべきである。書籍の過読乱読は、吾々の知能を迷誤錯乱に陥れる。だから、異論なしに良書と認定された書籍だけを読む事だ。若し違った種類の著作の耽読に暫時移って見たいという気持のあらわれるような事があったら、そういう場合には、絶対に再びもとの読書の世界へ立還れなくなるのだという事を忘れないがよい。(セネカ) 

 (四)良書は何をおいても読むことだ。それでないと、諸君は全然そうした書物に目を通す暇を持ち得ぬであろう。(トロー)

 (五)自己の思想の泉の涸渇した時にのみ、読書は行わるべきである。自己の思想の涸渇する事は、極めて聰明な人間にも往々ある事だ。併しながら、読書の為に、自分の未だ固まらない思想を追い払うという事は、―これ即ち、霊に対して罪を犯すに等しい。(ショーペンハウエル)

  一月二日

 最も野蛮な迷信の一つは、人間は信仰無しに生き得るものだという独断に対する、現代の所謂学者の大多数の迷信である。

 (一)常に、如何なる時代にも、世の人々は、自己の地上に於ける生存の始発若しくは究局の目的を知得せんと渇望した。或いは、少くともこれに対する何等かの理解を得たいと渇望した。で、人々の此の要求を満足せしめんが為、更にまた、共通な只一つの誕生の源を持ち、共通な只一つの人生の問題を持ち、共通な只一つの究局目的を持つ兄弟の如くに、凡ての人を結び付ける、その繋がりを照し出さんが為に、宗教は生れ出たのである。(ヨセフ・マッジニ)

 (二)真の宗教とは、吾人を囲繞する無限無窮の人生に対する吾人によって打ちたてられた一種の関係の謂いである。即ち、吾人の生活をこの無限無窮と結びつけ、吾人の行為を導く所の関係である。

 (三)あらゆる宗教の本体は、何の為に私は生きるか、自分を取り巻く無限無窮の世界に対する私の関係は如何なるものであるか、という疑問に対する解答の中にのみ存する。極めて高尚な宗教より最も野蛮な宗教に至るまで、およそ如何なる宗教と雖も、その根柢に於て、吾人を取り巻く無限界に対するそうした関係の樹立を保有せぬものは、一つもないのだ。

 信仰なき人間の生活は、取りも直さず野獣の生活である。≫


≪  一月二十五日

 各個人にとって是非とも必要な知識がある。是等の知識を自分のものにしない限り、爾余の凡ての知識はその人にとって有害となるであろう。

 (二)いろんな知識をかき集めている学者共は不憫なものだ。ひとりよがりの哲学者達、飽くことを知らぬ研究家等は不憫なものだ。是等のよくない富者等は、ラザロの徒が絶えず飢えに悩んでいるにも拘らず、毎日々々自分たちの知識上の饗宴で無為徒食しているのだ。是等の人々は皆無に等しい代物でお腹が一杯になっているのだ。何となれば、そうした空しい知識は、道徳的完成にも社会的完成にも力を致すところがないからである。(フェネロン)

 (四)それ自身の為にのみ従事され、哲学的指導精神なしに研究される場合の実験科学は、眼の無い顔に似ている。そういう場合の自然科学は中程度の、併しながら、こうした重箱の隅をほじくるようなこせこせした末梢的研究の妨げにしかならないとおぼしいより高き天分を欠如せる凡庸な才分にふさわしい仕事の一つを表示する。こうした中程度の才分しか持たない人々は、自分の全精力と全能力とを、限定されたたった一つの学問の分野に傾注する。従って、彼等はその分野に於て、可及的完全な知識を獲得し得る。がその代り、他の凡ての分野に於ける完全なる無知識が付帯条件となる。此の種の人々は、時計工場の職工と比較して可なりである。時計工場の職工の或る者は車輪ばかり製作するし、また他の或る者はゼンマイばかり製作するし、更に他の或る者は鎖ばかり製作するのである。(ショーペンハウエル)

 (五)無益な学問をうんとこさと学び知るよりは、人生の法則を少し知る方がましである。人生の法則は悪より汝を制しとめ、善に向わしめるであろう。が、これに引換え、無益な諸の学問上の知識は、傲慢心の誘惑に汝を導き、汝に必要な人生の法則を明確に知る事を、妨げるのみである。

 自己の無識を恐れず、虚偽の知識を恐れよ。真実でないものを真実と思惟するよりは、むしろ何にも知らない方が増しである。≫


≪  一月二十九日

 叡智はほんの特別な人々の特質のみを表示するものだなどと思ってはならない。叡智は凡ての人にとって必要欠くべからざるものだ。従って凡ての人の通有性である。即ち叡智は、自己の使命とその使命を完うすべき手段とを知ることに存するのだ。

 (三)人生は学校だ、そして其処に於ける失敗は、成功よりも優れた教師なのだ。(スレイマン・グラナツキイ)

 (六)個々人乃至国民の生活の長さが、蜉蝣
(かげろう)の一生のように詰らない瑣末なものに思われ、反対に、蜉蝣の一生が塵芥のように多数の人民を悉く包有する天体の生活の如く無限無窮に思われる時、吾々は吾々自身を極めて微小なものとも、また極めて偉大なものとも感ずる。そして吾々は無窮無限の天空の高みから、吾々自身の存在と、吾等のちっぽけなヨーロッパを動揺せしめている小旋風とを、観察することが出来るのだ。自由な思想はかくの如き働きを有するのである。(アミエル)

 (七)内部から、若しくは背後から、吾々を通して光りが輝く。――吾々は自分たちが皆無に等しい存在である事、この光りが凡てである事を知り得る。吾々が通常人間と呼んでいるところのもの――食ったり飲んだり坐ったり勘定をしたりする存在――は、真正の意味に於ける人間を吾等に表示しない。むしろそれとは正反対で、偽りの意味に於ける人間を表示するのみである。真正の人間――それは吾等の内部に宿り住んでいる霊である。人間が自己の内なる此の霊なるものを、実行によって発現しさえすれば、吾々はすぐその前に礼拝するに違いない。

 諺に言う。「神は呼鈴を鳴らさずにやって来る。」 つまりそれは、吾々と凡ての本源との間に障壁が無いという意味である。人間(結果)と神(原因)との間に、壁が無いという意味である。

 (八)霊はそれ自身既に自己の裁判官であり同時に自己の避難所である。自己の認識する霊を、――内的世界に於ける此の至高の裁判官を、――辱かしめてはならない。(エマスン)

 叡智が発現され得ないような、そんな境遇やそんな無意味な仕事は無い。≫



 ――この 『トルストイ 人生読本』 には大きな影響を受けた。僕は駒場での大学の講義にはほとんど惹きつけられるものがなく、ただ宗教書・哲学書などにばかり引きつけられて耽読し人生の行くべき道について思索しているのであった。そして谷口雅春著 『生命の實相』 を探し求めて読むようになる。高校時代、父が読んでいたのを盗み見て大いに引きつけられたのを思い出したからである。――


  <つづく>


  (2020.11.20)


581 「パプリカ」の歌詞の意味を考える(2)


 前項 #580 のつづきです。

 「パプリカ」 の歌詞のはじめの方を再度掲げますと――


    
曲がりくねり はしゃいだ道
    青葉の森で駆け回る
    遊びまわり 日差しの街
    誰かが呼んでいる

    夏が来る 影が立つ あなたに会いたい
    見つけたのはいちばん星
    明日も晴れるかな……



 で、最初の1行については前項 #580 で岡の解釈を書かせて頂きました。

 今日は2行目からですが、僕はこの歌を、生長の家教団の歩んできた道と、岡が歩んできた人生を歌ったものとして解釈してみたいと思います。


 
「青葉の森で 駆け回る」

 ――「青葉の森」 は、春に芽生えた新緑の若葉が、初夏に入って色濃い青葉となって繁ってきた森である。生長の家の草創期には、次々と奇蹟的な治病体験なども続出し、燃え上がる若葉の如くに伸展した。それは 『生命の實相』 第5巻 「聖霊篇上 燃えさかる聖霊の火」 に

    第一章 烈しき聖霊の炎
    第二章 聖火盛岡を過ぐ
    第三章 聖火帝都を過ぐ
    第四章 聖火北陸を過ぐ
    第五章 「ねばならぬ」 を解放する宗教
    第六章 聖火京都を過ぐ
    第七章 宗教を生活に生きる生長の家

 として記されている。

 「生長の家青年会の歌」 の三番の歌詞が

   
「燃えあがる 光の如く
    もえさかる 若葉の如く
    ひたぶるに わかき生命は
    神の子の 御智慧今うけ
    神の子の 力いまうけ
    風はらむ 帆舟のごとく
    国おこす いしずえとして
    今たちぬ 生長の家青年会」


 となっている。生長の家の草創期は、まさにこの歌詞のように 「燃えあがる光の如く もえさかる若葉の如く」 に立ち上がり駆け回っていたのである。


 岡 個人の人生においては――『光のある内に』 (日本教文社刊) で次のように語っている――


≪ ……ここでちょっと私自身の体験をお話ししましょう。私は小さい時から身体が弱くて、学校を休んでばかりいました。私は、肉体が自分であると思っていましたから、体の弱い自分は駄目だ、ダメだと思い、いわゆる思春期を迎えて高校2年の頃に、何にも希望がもてないというような状態だったんです。運動会ではかけっこはいつもビリだし、内気で対人関係が苦手で、対人恐怖症みたいでした。

 その頃、盲腸(虫垂炎)をやって入院したんですが、医者が “ちょっと手遅れだから切らない” と言った言葉を耳にして、自分はもう死ぬんだと思いました。自分は身体が弱いし、肉体なる自分は罪深い、けがらわしい人間で、“罪の価は死なり”、もう死ぬばかりなんだと思っていたんです。実際は、医者が “手遅れだ” と言った意味は、“もう死ぬばかりだ” という意味ではなくて、“腹の中で化膿している。切ればすぐ治るという時期を失した。体が弱ってるようだから、今は切らないで、ペニシリンを打って氷で冷やして、まず膿を散らそう” ということだったらしいのです。ともかく、死ぬと思っていたのが死ななくて、だんだん快復してきました。

 おや、ふしぎだな、と思いながら退院しまして、家で静養していたある日のことです。突然、私のいのちに革命が起ったのでございます。“自分は肉体ではなかった。汲めば汲むほど泉のように無限に湧き出るいのちだ!!” ということを魂の底から感じて、生れ変ったのでございます。それは、表現できないほどの感動で――お釈迦様が説法なさったときに 「大地が六種
(りくしゅ)に震動した」 ということがお経に書いてあるそうですけれども、まさにそんな、私にとって驚天動地の革命的変化が、突然に起ったのでした。世界が、一変してしまったんです。

 今まで、“自分はもうこの世には何の希望もない、死ぬばかりだ” と思っていたのが、光り輝く世界に一変したのです。ちょうど、高校2年から3年になる間の春休みでしたから、若葉の萌え出ずる季節です。本当に、空気が躍っている、すべての草や木が歌っている、というような感じを受けましてね。じっとしていられないような感動に打ちふるえたんです。

 なぜ、そんなことが起きたのか――。

 それは、今になって思えば、私の内なる住吉大神様が、私を目ざめさせて下さったということなのでしょうか。

 実はその頃、父が生長の家の教えに触れていて、仏前で聖経 『甘露の法雨』 を誦
(あ)げたり、私の枕許にやはり 『甘露の法雨』 を置いといてくれたりしていました。しかし私は、その意味がわからなくて、表面の心ではそれに反撥したり、そんな父をバカにしたりしていたんです。“信仰” なんていうのは、少し頭のヨワイ人間のやることだ、位に思っていたのです。

 表面の心ではそう思っていたにもかかわらず、ですね、いのちの奥底に、その真理がひびいていたのでしょうか。ある日突然に、いのちの底から、魂の底から私をゆさぶり、私に革命を起させてしまったものがあった――眼に見えない、耳にも聴こえないところの何かが、私の魂をゆさぶったんですねえ。父が仏前で聖経を誦げたりしていたその霊的波動に感応して、先祖の霊の導きなどもあったのでしょうか、ともかく目に見えないものの力で私は目覚めさせられたんです。

 その頃、私は、山口県の山口市にいまして、山口高校の3年生になる直前でした。それまでは、さっきもいいましたように、自分はだめだ、死ぬばかりだと思って、全然将来の夢や希望をもつようなことはできなかったんです。そのときに私は突然、“無限のいのち” というものを体感した。自分は肉体じゃないんだ、出せば出すほど、いくらでも泉のようにわき出てくる 「いのち」 なんだ!! ということですね。谷口雅春先生の 『光明の国』 という詩には、こう書かれています。

  生命の子供たちよ、
  自分自身を有限だと思うな。
  自分の力はこれ切りでお仕舞いだと思うな。
  自分の力を出し惜しみするな。
  節約という言葉は実に生命にとってはふさわしくない。
  答えよ
  生命の子供たち、
  貴方達は生命か物かどちらだ。
   (此時、生命の子供たちは起き上り一斉に手拍子とりつつ長老の周囲を歌いつつ舞う)

  わたし達は生命の子だ。
  太陽の子だ。
  光の子だ。
  雲が低く地を這
(は)うときも、
  雷霆
(らいてい)が暗黒(まっくろ)な地上を威嚇するときも、
  なおその上には、
  雷
(いかづち)の上には
  青空があろうように、
  わたし達はいつも曇りを知らぬ青空の子だ。
  歎きも、
  悲しみも、
  憂欝も、
  ただひと時の
  うわつらの雲のうごきだ。
  たとい
  雲があればとて
  地に陰
(かげ)が落ちようとも、
  雲の上には
  なお光が輝いていればこそ落ちる影だ。
  わたし達は物ではない、
  生命の子だ、
  光の子だ、
  いつまでも消えることを知らぬ太陽の子だ。
   (舞い終りて生命の子供達一同座につけば、生命の長老はいと満足げに言葉をつぐ)

  さて生命の子供達よ、
  生命の生長の秘訣は、
  生命を出し惜しみすることではなく使う事だ。
  生命を 『物』 だと思うな。
  使って耗
(へ)るのは 『物』 の世界のことだ。
  汝ら、生命を与え切れ、
  出し切れ、
  ささげ切れ。
  一粒の麦でさえ地に落ちてその全生命を捧げ切るとき
  幾百粒の麦の実となって生長するものだということを知る者は幸いだ。
  生命の世界では
  与えるということは
  生長するということだ。
  大きく与えれば与えるほど
  汝らの生長も大となるのだ。
  無限に与えたものは
  無限に生長する――
  その人は神だ仏だ。

 私はそのときまだ、谷口雅春先生のこの詩を知りませんでしたけれども、魂でこういうことを感じたんです。それまでは、自分は弱い肉体だと思っていましたから、なるべく安静にして、働かない方がいいんだと思っていました。

 それは昭和26年、まだ戦後の、食糧事情がよくなかったときです。うちは父がもと職業軍人で、終戦とともに失業し、多勢の子供をかかえ(兄弟7人です)苦労していました。それで、空地を耕して、ジャガイモを作ったり、カボチャを作ったりして食糧の足しにしていたんです。けれども、私は、力を出せば出すだけエネルギーを消耗して、自分の身体が弱るんだと思っていましたから、たいへんな利己主義者で、なるべく働かないようにしていたわけです。

 ところが、ある日、私の世界が一変しました。それまでは、消極的で暗くて利己主義者で、畑仕事やってくれといわれても何だかだと文句をいってやらなかったのが、もう動きたくてしようがない。いのちというものは動きたくてしようがないのが本性なんですね。自分のもっている能力をつかわないことの方が苦しいんです、本当はね。多くの人々に役立つくらいうれしいことはない。そういうことがわかったんです。それまではいわれてもやらなかった仕事を、言われなくても進んでやるようになった。今まで、いのちを使わない方がいいと思っていたのが違っていたということを自分で発見したわけです。やればやるだけ力も出てくるし、それだけ身体も丈夫になる。人間のいのち、生命力というものは無限なんだ!! ということがわかったんです。

 そうしましたら、それまで何の希望も描けなかった、大学進学などということも考えたことのなかった自分でしたが、あらゆることに無限の可能性があるという、希望が湧いてきたんです。

 その頃、昭和26年ですが、山ロ高校に赴任して来られた山中先生というのが、早稲田大学の文学部を出た方で、歌人で、新鮮な、哲学者のような魅力のある先生だったんですが、その先生が「君達、東京へ行け、東京へ行け」といわれた。山口というところは、県庁の所在地として、日本一静かな、あまり活気のないところです。

 「若いうちは、一流のものに触れることが大事だよ。東京に行ってみろ」 といわれるので、

 「それじゃ、自分は東京に行こう。家は経済的にとてもきついから、金のかからない、官立の学校に行こう、それだったら東大にいこう。最高のところに行こう。自分にはこれから、無限の前途がひらけている」

 そう思ったら、歌が出て来たんですよ。歌のように、希望のことばが湧いて来たんです。

 “東大だ!! 東大だ!! 
  そうだ、希望だ、東大だ!!”

 という風にですね。それがリズムに乗って出てくるんです。それで毎日、朝晩、その文句を書いていました。そうして一年間、希望にもえて一所けんめい勉強しました。そうしたら、それまでは山口高校から東大にストレートで入ったものは誰もいなかったんですが、私はそのいのちの歌の通りになって、見事ストレートで東大にはいっちゃったんです。……≫

 ⇒ 東大応援歌 「ただ一つ」



 そうして昭和27年に東大に入学し、ホッケー部という運動部(アイスホッケーではなくグラウンドホッケーです)に入り、夏休みに山中湖畔の森の中、東大山中寮で合宿をし、練習のため駆け回ったことを思い出します。


  <つづく>


  (2020.11.6)


580 「あなたに会いたい」
「パプリカ」の歌詞の意味を考える



   
パプリカ 花が咲いたら
   晴れた空に 種をまこう
   パプリカ 夢を描いたなら
   心遊ばせ あなたにとどけ

   会いに行くよ 並木を抜けて 歌を歌って
   手にはいっぱいの 花を抱えて らるらりら……



 という 米津玄師作詞・作曲の 「パプリカ」 の歌は、東京オリンピックのNHK公式テーマソングで、幼稚園などでもひろく流行っているのだそうですが……

 僕はその 「パプリカ」 という歌を知らなかったんです。テレビをあまり見ないもんですから。

 それを、なぜ知ったかというと、あるボランティア活動のお手伝いに参加したことからです。それは、身体障害児なども神に生かされている神の子だとして尊敬し、その親子を励ましあい交流しようという活動をしているグループ活動で、昨年1月から原則として毎月1回、イベントを開催して来たのですが、今はコロナの感染拡大を防ぐため、ZOOM を使ってのオンラインイベントとしてやっています。そこで 最近 「パプリカ」 を歌い、躍るというのもやったんです。僕も、踊りました。

 YouTube には、いろんな子供たちや大人たちの実演映像が公開されていますが、僕がいいなって思ったのをひとつ、ご覧ください。


 ⇒ 「平成横浜病院」 職員の方たち総出で 「パプリカ」 の踊り


 この歌の歌詞は――そのはじめの方の一部を掲げますと――


    
曲がりくねり はしゃいだ道
    青葉の森で駆け回る
    遊びまわり 日差しの街
    誰かが呼んでいる

    夏が来る 影が立つ あなたに会いたい
    見つけたのはいちばん星
    明日も晴れるかな……



 というような詞ですが、はじめこの歌詞は、あまりピンと来ませんでした。

 「あなたに会いたい」 というような恋人を求める年でもない――とも思いましたが――

 「あなた」 というのは、特定の彼女とかではなく、「わが内なる神さま」 とすれば、僕も思いが募ります。

 
「あなたに会いたい」 というのは、前項 #579 で書いた、谷口雅春先生・輝子先生が共にひたすら求めつづけて来られた、無条件にすべてをそのままで許し愛し包容してくれる神、決して裏切ることのない神に会いたい、ということなら、納得できる。

 それは岡正章にとっては、昭和26年春、高校2年生のときに突然、眠っていた僕の魂を揺さぶり目覚めさせてくれた、目に見えない何者かに会いたい! と僕は思う。

 そして、この歌全体が 「輝く人生の歌」 だと思えば、いろいろと解釈ができる。

 そう思って、「パプリカ 歌詞 意味」 でネット検索すると

 ⇒ 米津玄師 『パプリカ』 の本当の意味|アキヒト note

 というのに出会いました。

 アキヒト氏は、

≪ 僕が見つけたこの曲の裏ストーリーは、「少年が友達を亡くした悲しみと折り合いをつけ、未来へ向かって歩き出す歌」 です。≫

 と言い、歌詞を逐語解説しながら何故そうなるのかを具体的に詳説する。

 僕は、アキヒト氏よりもっと奥深く、「実相独在」 の光明思想的立場から、逐語的にこの歌詞の霊的解釈をしてみたいと思います。

 皆さんも、どうぞ考えてみてください。


          *


 (1) 「曲がりくねり」 …… 人生の旅は、決して一直線ではない。曲がりくねって、上り坂、下り坂、想定外の 「まさか」 という坂もある。だからこそ面白い。

 (2) はしゃいだ道 …… その曲がりくねった道を、はしゃいで行く。それは、「困難に戯れよう」 という、生長の家の道である。『生命の實相』 生活篇の巻頭にあるように、

≪ 兄弟よ、海の波が巌(いわお)にたわむれるように、困難にたわむれよう、猿が木の幹を攀(よ)じのぼるのをたのしむように困難を楽しんで攀じのぼろう。もし軽業師が綱の上を渡らないで、平坦な大道を歩くだけならば、誰も喝采する者はないであろう。梅の花は烈々たる寒風の中で開くので喜ばれるのだ。

 兄弟よ、わたしは苦しみに耐えよとは言わない。「生長の家」 では苦しみに戯れるのだ。いかなる苦しみをも戯れに化するとき人生は光明化する。

 盤根錯節
(ばんこんさくせつ)は 「生命」 がたわむれるための一つの運動具である。諸君はスキーを多難だと言うか。登山を不幸だと言うか。ゴルフを艱難だと言うか。競泳を悲惨だと言うか。いかなる苦しみも戯れに化するとき人生は光明化し、そこから剛健なる無限の生命力が湧いて来る。≫

 という気持で、はしゃいで戯れるようによろこんで進んだ道ということ。


  ⇒ 艱難を光明化せよ


  <つづく>


  (2020.10.27)


579 「悪い運命」は、ない。
この世に失敗の機会はない。



 「悪い運命」 というものは、ない。みんな 「よい運命」 ばかりである。

 「悪い運命」 があると思っている者は、我執・我欲にとらわれているからである。

 人生の目的は、神の生命を地上(現象世界)に現すことであり、地上人間の側からいえば、魂が経験を積んで向上することである。それを忘れなければ、すべての経験は魂の向上の糧であるから、悪いものは一つもない。「悪い運命」 があると思うのは、肉体人間の我執・我欲に立っている場合である。

 僕は最近、YouTube に公開された谷口輝子先生の昔の御講話を拝聴した。輝子先生の誕生・生い立ちのことから話されている。人生に於ける運命について考えさせられる興味深いお話である。


 ⇒ 谷口輝子先生 「わが歩みこし道」


 輝子先生は富山県の没落した元名家・江守家に生まれ、11人兄弟姉妹の10番目の子であった。明治31年輝子先生が数え年3歳、満で言えば1年と数ヵ月の時に、一番上の兄が21歳で亡くなり、つづいて同じ年に、最後に出来た弟も亡くなった。

 それまで父は落ちぶれた家を再興したいと念願していたところ、幸いに授かった長男が成績もよく立派に成人し、北海道との交易を考え希望に胸をふくらませていたので、父親は残っていた持山や田畑などをみな売って船を造り与え、何人かの船員を雇い準備万端整えた。それで希望を託された長男は地元の海産物などを満載し、帰りは北海道の農産物をいっぱい積んで戻るのだと、意気揚々船出をしたのであった。

 ところがある日、父は夢を見た。夜、寝ていたら何か気配がするのでふと目を覚ましたら、そこに北海道へ旅立ったはずの長男が立っている。それが全身びしょ濡れになって、しょぼしょぼと悲しい顔をしている。「修一(長男の名)、おまえはどうしてこんな所へ来たんだ」 と父が呼びかけると、長男は何も言わずにうなだれるだけで、まもなく消えてしまったという。

 それから1ヵ月ほどして、北海道から便りが来、船は台風に遭いオホーツクの海で難破したことを知る。乗組員は一人残らず船もろとも海の藻屑と化したのであった。当時は交通・通信の手段が発達していなかったから、通知が届くのに1ヵ月もかかったのである。

 くわしい情報がわかると、船の難破の時期は、父が夢を見た時とぴったり一致するのであった。

 そのようなことがあったので、江守家ではみんな霊魂の不滅を信じるようになったという。

          *

 上のような江守家の出来事は、まことに 「不運」 といえばその通りであろう。父母の落胆は甚だしく、母親は妊娠中だったが、長男の死を知ってから、まだあとに子供はたくさんいるのに、それは全然念頭から去り、長男のことのみ思いつづけて毎日毎日悲嘆に暮れ、お腹の子供を生むという希望を失っていた。それで生まれた子供は男の子だったが、母の乳を飲もうともせず日に日に細り、1ヵ月もたたずに死んでしまったのだという。

 輝子先生(当時江守輝子さん)は1ヵ月だけ弟を持つ姉さんだったが、また末っ子となり、乳をしゃぶる甘えっ子になった。

 ところが輝子さん数え年11歳のとき、ことのほか自分を可愛がってくれた父親が、胃ガンで死の宣告を受け、まもなく亡くなってしまった。

 世界中でいちばん尊敬し頼りにしていた父親を失った輝子さんは、死ぬことのない永遠の父親を求めて、神に心を向けるようになり、キリスト教会に通い転々とする。しかし神を把握することが出来ず、兄に誘われて大本教に足を運ぶ。

 父が理想としていた 「敬神・尊皇・愛国」 という旗印を大本教も掲げていたのでそれに惚れ込んで飛び込み、修行をつづけていたが、その 「尊皇」 という対象は天皇ではなく出口王仁三郎教主のことらしいとだんだんわかって来た。また、神罰を信ずる宗教であり、戦々恐々としていなければならなかった。父のように正しくてしかも愛深く、すべてをゆるして包容してくださる神をひたすらに求め、午前2時に起きて雪の中でも竹藪の奥の幽斎室(祈りの間)でひとり祈るような日々を送っておられたが、神のお応えはなかった。悲しくて泣けてくる毎日であった。

   おどろおどろ潮(うしお)高鳴る夜の海を見るにも堪えぬさすらいの旅

 というような淋しいさすらいの歌を詠んでおられた。

 そうした中で、運命の 「谷口雅春先生との出会い」 に到るのである。

 上記、谷口雅春先生と輝子先生(当時江守輝子さん)との出会いについては、『生命の實相』 第19巻自伝篇の p.152~166 に詳細が書かれていることである。

 谷口雅春先生もまた、ひたすら神罰のない無条件の愛をもって抱擁してくれる神をひたすらに求めつづけて来られたが叶わず、暗い淋しい歌ばかり詠んでおられた。

 淋しいどうしで共鳴するところがあって、結婚に踏み切られるのである。

 暗い心は暗い運命を招く。お二人は結婚されても、貧乏で病気がちな苦しい日々が続く。

 谷口雅春先生は、断食・水行・一日百回大祓祝詞の読誦などをしても、自分の罪は消えそうに思われなかった。

≪ 自分の力でどうすることもできないわが煩悩を見よ。これを救い出すものは無条件にわれらを赦してくれる他力の救いのみであった。最後の審判を前にして自力精進に騒ぎ立てている当時の大本教の信仰からしだいにわたしの心は離れて来ざるをえなかった。≫
  (『生命の實相』 第19巻 p.169~170)

 それで大本教をやめ、「無条件にわれらを赦してくれる絶対愛の神」 がいますことを信じ、「叩けよさらば開かれん」 と言ったイエスの言葉を信じて、後にバキュームオイルカンパニーに勤めるようになられて通勤の電車の中でも毎日その神に出会えることを念じておられた。そして、遂にその無条件の愛の神を発見され、生長の家が始まるのである。

 そうしてみると、江守家の大不幸は神に導かれた大幸運への扉を開くのに必須の出来事だったと言えるであろう。

 もしそれがなかったら、生長の家は出現しなかったであろう。

 「悪い運命」 というものは、なかったのである。絶対の愛なる神は、在
(ましま)したのである。


 「霊魂進化の神示」 は言う。


≪     霊魂進化の神示

 『神の子』 なる人間の実相を現象世界に実現するのが人生の目的である。
 現象世界とは現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である。

 人間の運命とは 『神の子』 なる人間の実相が現象界に投影する時、時間的空間的に展開するのに、おのずから一定の順序を追うて展開して行くように大体定められているのを言う。

 それは譬えば朝顔の種子
(たね)の中には既に 『花』 の因子(たね)が包蔵されているが、それが現象界に 『花』 となって完成するまでには、日光に逢い、湿気に遭い、芽を出し、蔓を出し、蕾を生じ、ついに花を開くと言うように、大体一定の時間を要し、植物が日光に逢い、雨露に遭うが如く、或は幸福に恵まれ、或は虐運(ぎゃくうん)と戦うことによって、ついに実相人間の現象界への投影を完成するのである。

 併し、その投影が完成するには、その投影は 『念波の集積』 で成立っているのであるし、人間は心の自由を有ち、自由に実相の悟りによって念波を浄め得もすれば、迷によって念波を一層汚すことも出来るのである。

 現象世界に実相人間を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることも出来るのである。霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。念の浄化には、実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉れざることが第二である。

 物質欲に捉れざるためには、『物質本来無し』 の真理を悟るが第一である。『物質本来無し』 の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉れざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉れざるに到るかの二途しかない。

 前者は自ら進んで嘗める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。その他に過去の悪業の自壊する過程として自己の霊的流動体に起る擾乱
(じょうらん)現象の苦痛もある。苦難がみだりに取去られず、多くの霊魂の霊界通信が苦行の価値を力説しているのも此の色々の理由によるのである。(昭和8年9月15日神示)≫


          *

 自動車王ヘンリー・フォード一世は、光明思想家でもあった。次の如く言っている。
   (戦前版の 『生命の實相』 第16巻 「経済生活篇」 より)


≪   地上は霊魂休養の場

 トライン――エマースンが、悪とは 「未だ創造されつつある善である」 と言いましたね。

 フォード――そこです。「間違い」 は経験の源であり、智慧の泉である経験の精髄なんです。

 トライン――おそらく人間がこの地上に生を享けたのは、ほとんど全く経験のためなんです。

 フォード――私はそれを確信しています。吾々はこの地球上の生活から得られるはずの全ての経験を得終わるまでは地上に生を亨けるのです。

 トライン――もう一つ吾々が地上に生を享けている目的があると思います。それはある友人が私に話してくれました。あなたもその説はご存じでよほどその方面には興味をお持ちのことだと思いますが、ほら地上は、若き霊魂たちが霊魂の休養のために新しい空気を吸いに来るところだということです。これは、彼ら霊魂の特定の時期に極めて重要なことだそうですねえ。

 フォード――若き霊魂たちはその仕事から大いに魂の休養を得るんですよ。

 トライン――若き霊魂たちがある種の 「魂の休養」 というか、「気晴らし」 というかを得なければならんのは当然ですが、その 「気晴らし」 が正しいものであれば結構ですが、悪い種類のものであればその結果苦しみを受ける……

 フォード――人間は自己の一切の行為から経験を積むのです。

 いくたび僕は失望落胆したことがあるとお思いです? 一度もありませんぜ。僕は、どんな時だって決して魂の細胞の一つすら失望したことはありません。

 僕は、此の世界は、魂が経験を得るために生まれてくる世界だと感じています。だから、いつも希望が持って居られるのです。魂の経験を得ることが地上の生活の目的なんですから、ほかのことは何だって構わない。……僕はこの世に失敗の機会なんかないと思っています。≫



 ――宜なるかな。こういう光明思想家だったからこそ、彼は自動車王として大成功したのである。


          *


 「悪い運命」 というものは、ないのである。すべては霊魂進化の糧なのである。

 善因善果、悪因悪果――善い種をまけばよい果
(み)を結び、悪い種をまけば悪い果を結ぶ――という。しかし、それに引っかかっている必要はないのである。業(ごう)というのは波紋である。生きているということは波動を起こすということであり、波動を起こせば波紋がひろがる。それを業というのである。しかし、波紋は必ず消えて行く。それに引っかかっていてはだめだ。

 僕は、『生命の實相』 第4巻を再読して、そのことを再確認したのである。

 『生命の實相』 第4巻には、次のように書かれている――

          *

≪(p.165~166)

谷口――
 ……波紋というものが拡がるのは必ず高い処と低い処とがあって、上部へ出たところの次には低い隠れたところができる。病気とか心の悩みでも表面へそれが出たかと思うとまたひっ込む。また時々出るというふうになっている。それは業というものは一つの波動でありますから、波形に展開してゆくのであります。一つの波紋を起こしたならば、その次にできる波動は必ずもっと低い波紋である。その次にできる波紋はいっそう低い波紋である。こういうようにだんだん低い波紋が周囲にひろがって、ついには感じられないほどの波紋になって消えてしまうのであります。

 波紋はこういうように起こるたびごとに小さくなって消えてゆくのがきまった運命である。それだのに波紋の真ん中にいる人間はこれは大変だと思ってもがくことになると、また新たなる波紋の業因ができる。そして人間の苦悩の波紋は永遠に消えてしまわないということになってしまうのであります。この業の波紋というものは悟ればすぐ消えるだろうと信じていますと、また苦痛や悩みがやって来ますと、自分はまだ悟っていないと思って悩みもがくことになりまして、新たなる波紋の業因を造ることになってきますから、悩みの波紋というものは、必ず消えつつあるものであって、必ずしも一度にすみやかに消えるとは決まっていないということを知ることが肝要であります。

 この心境におきましては病気も恐れなくなる。痛みも苦しみもわれわれの心を乱すことが無くなる。痛いは痛いままで苦しいは苦しいままでそのままに救われている自分があることがわかるのです。

(p.167~169)
 ……わたしはこのごろ、この世の中はすべて調和していると考えるようになっています。発熱もよい、疼痛もよい、蚊にさされるのもよい。盲人はその眼が盲目なことがその人の本当の救いになっている。今は関西学院の教授をしている岩橋武夫氏は盲目になったために心の眼が開いた。そうかといってわれわれは故意に盲目になる必要はない。盲目になることによって救われる人は大自然が彼を盲目にしてくれる。盲人は盲人で救われており眼あきは眼あきで救われている。

 蚊にさされるのもよいが、そうかといってわれわれは故意に竹籔の中へ裸ではいって蚊群に全身の血を吸わせる必要もない。蚊を払う働きも蚊を払う働きとしてそれ自身で調和したものである。蚊を払う働きがあり、蚊帳
(かや)を吊る働きがあるので、むやみに全身の血液を吸いとられないで、われわれは生活が安全にできるのであると同時に、時々その防禦線をくぐってわれわれの血を吸ってくれる蚊があるので、各人は各人にとってちょうど適当な分量だけ蚊に注射されていることになっている。強いて何をせねばならぬということはないのであって、何を食い何を飲まんと思い煩うことなかれ、何を注射し、何を灌腸しようと思い煩うことなかれです。

 宇宙全体が一つの調和した全体として本能的に動いている。さされる必要のない人はさされないでしょうし、さされる必要のある人はさされるでしょう。今さされないといわれる佐藤さんでも、今後またさされるのが好都合になってくれば、さされなさるでありましょう。何が起きてきても、こういうことだけはいえる――各人にとって救いとならないことは一つも起きない、つまずく人はつまずくことによって悟り、苦しむ人は苦しむことによって救われ、悩んでいる人はその悩んでいることが光明を拝する一過程になっているのです。

 みな神の子であって救われないものはない。あらゆる苦しみも、結局その人が神の子である実相を悟るために必要な与財でありますが、それには廻り道と近道とがある。近道とは真理を悟ること、廻り道とは迷うことであって、近道を行くほどその苦しみが少なくてすむので、『生長の家』 を読んで病気が治ったり、人生が楽になるのは、その人が神の子である実相を悟る近道を行くことになるからであります。≫



 谷口雅春著作集6 『霊性の目覚め』 p.125 以下、「神我一体の自覚による運命の改善」 というタイトルで、次のように書かれている(抜粋)。


≪   人間の運命がよくなるという本当の意味

 その “良くなる” という意味が、大抵の人は、健康になるとか、あるいは経済的に楽になるとか、金持になるとか、思うことがなんでも成就するようになるんだとか、まあそんな甘い “ものの考え方” をするんですね。

 しかし、“運命が善い方に回転する” とは決してそんなものじゃないんです。“運命が善い方に回転する” ということは、そんな利己的な物質的欲望が満足できるようになるということではなく、人間が地上に生れてきたところの使命は何であるかというその正しい方向に自分の生活が向きを変えて魂が向上して、そして最高の高い悟りの境涯に入れることであって、その間の修行というものが必要で、その修行の期間は物質的には窮屈になることもあり、肉体的には苦しいことが修行として出て来る、これらのものの受け方が大切なわけなのであります。

    人間の地上生活の意義

 人間の地上生活というものは、魂の勉強のための “人間地上生活学校” みたいなものでありましてね、しかもその生活学校へ入って、われわれは勉強中である。そしていろいろの問題を与えられて、それを解いて行く。問題が無いようになったら楽だから、神想観して、神様と一体であればもうどんな問題も出て来ないんだなんて、そんな甘いことを考えたら間違いであります。神はその人の魂に最も適切な教材を与えて霊的進歩に導き給うのであります。

    困難に面した時の考え方

 「わが内に神宿り給う。神の力にさからい得る力はどこにも無いのである。神は無限の権威であり、神のみが実在である。神が今わが内にここに居給うんだ」 と、こう自覚するんです。

 困難から逃げ出すんじゃないんですよ。神は善であるから、善のみが實在であり、今こういう困難が出て来たのは、これは悪だと思うからいけないんです。

 「困難は自分が高く跳躍するため出て来たのである。善しかないのである。この困難は、私の魂がもう一段飛躍するため、そのための自己鍛錬の運動具なのである。高跳びの道具なのである。」 こう思って善一元の世界観をもって、困難を克服していくのです。≫



 「すべてよし」 の世界である。安心して、使命と感ずるところに、よろこんでまっしぐらに前進すればよいのであった。


  (2020.10.23)



578 今此処天国、極楽浄土。


 「今此処天国 極楽浄土」 と生長の家は歌う(神と偕に生くる歌)。

 物質はない、肉体はない。現象はナイのである。

 現象を 「あり」 と見て揺れ動く心もナイのである。


 昨夕(10月18日)NHKの番組で、運転の上手い大型バスの慣れた運転手は、運転中の視線が遠くを見ていて、近くに動くものが視野に入ってもキョロキョロせず、安定している。したがってバスの走行も安定している。運転中に近くの動くものを見てキョロキョロと視線を動かすのは、運転の下手な素人だという番組があった。

 「人生」 の運転も同じだと、僕は思う。近くの動くもの(現象)に捉えられて心動揺する人は自分の運命の運転が下手な人。常識では 「遠く」 と思われる、現象を超えて変わらざる実相を今此処にありと観て、不動の心をもつ者が、人生運転のプロとなるのである。

 僕は常に、「久遠の今」 に立って人生のハンドルをさばく人生運転のプロでありたい。

 『生命の實相』 は、人生運転のプロへの道を説いている。これをしっかり読んで自家薬籠中のものとする者は幸いなるかな。その人は、人生運転のプロになるであろう。


          *


 『生命の實相』 第4巻には、次のように書かれている。


≪(152頁~)
谷口――病人はなにやかやと、発熱とか、疼痛
(とうつう)とか、喀痰(かくたん)とか、血痰とかをまるで悪魔の使いであるかのように小言をいいがちでありますけれども、本当はこの発熱とか疼痛とか喀痰とかいうものはわれわれを病気から救い出すための天の使いなんです。

(156頁~)
中島――わたしなども以前には病気の疼痛が激しくなってきますと、病気の疼痛に一緒になってもがき苦しんで夜も眠れないで衰弱したものでしたが、近ごろは痛みはやがて過ぎ行くものだということをわからせていただきましてから、疼痛は疼痛で痛ましめながら、安心して眠ってしまう。眠っていると痛みはない。だからたとい周期的に病気の発作が起こりましても、少しもやせも衰弱もしなくなりました。

(157~159頁)
谷口――今、中島さんのおっしゃった、痛みはやがて過ぎ行くものという悟りが肝心なのです。これが悟られれば痛みと一緒に苦しむ必要はない。

 数日前、上田から来られた蚕糸会社の社長さんのお話によりますと、その方が一年志願兵として軍隊に勤務していられた頃、ある日強行軍といいますか、一日中、十数時間を少しの休息もせずに六、七貫もある背嚢
(はいのう)を背負って行軍する演習をさせられたことがあった。その朝、その方は 「今日は一つ、自分の精神というものを一段高所にあげて、その高所から肉体を見ていよう」 というお気持になられた。肉体というものが苦しんでもその肉体というものと一緒になって苦しまないで、自分というものが別にあって、その肉体がどんなに耐えるか見ていようという心持ですなあ。随分長時間の行軍だったので、隊中で最も健脚家だと認められていたほどの剛の者でさえも、目的地の宿舎に着いたときには脚がフラフラになってしまって、一度坐り込んだら、再び起き上がる勇気が出ない。

 ところが、その方だけは、「自分」 というものが肉体よりも一段高所にあがって肉体を見おろしていて肉体と一緒に苦しまなかった。そのためにその方の 「自分」 というものがそれほど疲労していない。さすがに肉体の足は痛い、しかしその足が痛いということと「自分が疲れた」ということは分離していた。「肉体の奴め、少し痛がっているな」 と離れた気持で観ている。肉体の痛みの中へ 「自分」 というものを持って行って、「自分」 も一緒になって苦しむということがないから、痛いは痛いながら、その痛みから超越している。

 こんなわけで 「みんな弱っているな。俺はちっとも疲れないよ。銭湯まで駈歩
(かけあし)をしていって見せよう」 といってその方だけは銭湯へいきおいよく駈歩で行くことができたといっていられました。この痛んでいるままでくるしまない生き方というのが、「生長の家」 の生き方の全体をつらぬいています生活態度で、痛みが治ってはじめて苦しまないというのではない。痛んでいるままで苦しまない。その結果、痛みそのものもすみやかに過ぎ去ってしまうのです。

 「智慧の言葉」 には 「縛られていて自由自在」 と書いてある。人間は 「肉体」 ではない。人間は生命であって 「肉体」 は生命の痕跡である。痕跡を縛っても人間を縛ることができない、痕跡は生命を支配できない。だから 「肉体」 を縛っても人間は依然として自由自在である。肉体の右の頬を叩かれても、人間そのものはちっとも叩かれてはいない。人間というものは実にふしぎな存在である。だからキリストのように右の頬を叩かれてもさらに左の頬を差しのべうる余裕がある。終日の行軍に足が痛んでいても、痛みは痛みとしてさらに銭湯まで駈歩できる余裕がある。

 実に人間は縛られていても縛られていない、叩かれていても叩かれてはいない、痛んでいても痛まない不可思議な存在である。これがわかるとすべての束縛と苦痛とを乗り越えてしまうことができる。そして結局はその束縛そのもの、苦痛そのものも形の世界においても消えてしまう。

 束縛とか苦痛とかいっさいの存在は結局は実在ではないから、映り変わり過ぎ行き、やが消滅すべき運命をもっており、人間は本来神の子であるから、結局はその円満完全さが発揮されるほかに道はないのです。こうしてあらゆる人間は救われることになっているのです。

(159頁)
山口――たしかにあらゆる人間は救われることになっているのですか。

谷口――たしかにあらゆる人間は救われるのであり、あらゆる苦しみはすぎ行き消滅するほかはない。実在は顕われるほかはない。そして仮相は消え去るほかはないのです。≫



 ――僕は上記のご文章を読んで、改めて高校時代のことを思い出した。昭和26年(1951)高校2年から3年になろうとする春休みのある日、僕はそれまで自分は虚弱な肉体であると信じていた思いが一変し、「自分は肉体ではなく、生命だ! 肉体を高所から見ている霊だ、いのちだ! 出せば出すほど無限の力が湧いてくる!」 という思いにクラリと一転したのであった。

 その時のことは、本サイト 「疾風怒濤のわが青春記録」 の2

  
「いのちの讃美歌」 

 に一部書いているとおりである。
虚弱で病気がちで、競走ではいつもビリだった僕が、その年の冬のマラソン大会では、驚いたことに初めて上位一割以内に入ったのだった!

 僕はそれまで、自分は駄目人間だ、もう死にたい――自殺でもしたい、と思うことがあったが、変わった――

 どんなことがあっても、僕は絶対に自殺なんかしない! あらゆる体験が魂の生長の貴重な糧であり、人生は喜びしかないのだ! という思いに変わったのであった。

 それは、どんな苦しいことがあっても、今此処天国、極楽浄土だ! という思いであった!


  (2020.10.19)



577 実相からの出発(3)


 「生長の家は、どこにありますか?」

 と訊かれて、

 「はい、それは山梨県北杜市にあります」

 と答えるようでは、「実相からの出発」 になっていないのである。

 「はい、それは時間・空間を超えた、時間・空間がそこから生まれて来た元の世界にあります。

 それは、神界にあるということです。」

 と答えて初めて、「実相からの出発」 になるのである。

 山梨県北杜市にある生長の家国際本部などというものは、いつ地上から消えてもおかしくないのである。

 地上にあるが如く見えているものは悉く皆、時間・空間という本来なきところの幻の映画を投映するスクリーンに映し出された夢の如きものである。それは


≪是の身は霓(にじ)の如し、
  霓は久しく立つ能わず、
  須叟
(しゅゆ)にして消ゆ。

  是の身は泡の如し、
  泡は久しく立つ能わず、
  須叟にして消ゆ。

  是の身は幻の如し、
  幻は久しく立つ能わず、
  須叟にして消ゆ。

  是の身は響
(ひびき)の如し、
  響は久しく立つ能わず、
  須叟にして消ゆ。……≫



 と 「久遠いのちの歌」 にある通り、やがて霓の如く、泡の如く、幻の如く、響きの如く、消え行くものである。

 現に八ヶ岳山麓に本部を持つ生長の家は、衰退の一途を辿りつつある。

 しかし、そのことは悲しむには当たらない。

 時空を超えた実相界にある生長の家、

≪ 生長の家も久遠の昔からあり、生命の実相も久遠の往昔(むかし)からある。≫

  と 「無限供給の神示」 に記されている生長の家は、いま隆々と生長し、発展し、栄えているのである。


≪泡の如く、霓(にじ)の如く、
  幻の如く、響
(ひびき)の如く、
  過ぎ去るものは実在に非ず。

  汝ら実在に非ざるものを、
  『我』 なりと云うべからず、
  当
(まさ)にこれを 『我』 と云うべからず。

  空しきものは 『我』 に非ず、
  死するものは 『我』 に非ず、
  無常なるものは 『我』 に非ず。

  法身
(ほっしん)こそ応(まさ)に 『我』 なり。
  仏身こそ応に 『我』 なり。
  金剛身
(こんごうしん)こそ応に 『我』 なり。

  不壊
(ふえ)なるものこそ応に 『我』 なり。
  死せざるものこそ応に 『我』 なり。
  尽十方に満つるものこそ応に 『我』 なり。≫



 である。ああ、ありがたきかな。真の生長の家、実相の生長の家は久遠不滅である。

 久遠不滅の生長の家はわが内にあり。われは久遠実相の生長の家と共に久遠不滅の実在なのである。

 ああ、ありがたきかな。


          *


<参考―― 『秘められたる神示』 より>

≪  「 久遠天上理想国実現の神示

 『生長の家』 の因縁を書き置く。『生長の家』 とは人間が付けた名ではない。神がつけさせたのである。…… 」

 (谷口雅春先生御講義) ……この神示にあらわれているところの 『 』 で包んでいない生長の家と書かれているのは、教団の名称でもなければ、雑誌の名前でもないのであります。それは 「生」 と 「長」 と 「時間」 と 「空間」 とが縦横交叉した一点の、その一点もない 「中
(みなか)」 の世界 「未発の中」 の世界をあらわす抽象名詞なのであります。それは現象世界以前の世界――住吉世界であり極楽浄土であり、時間以前の世界なのでありますから年齢をとらない長生の家、無量寿の家――浦島太郎がそこに往っていた間はいつまでも若かった世界――すなわち“実相の世界”であります。雑誌の名前や教団の名称に 『生長の家』 とつけられているのは、その “実相の世界” なる生長の家を説くところの雑誌であり、団体であるからで、現象界の雑誌や団体そのものが無量寿の家そのものではないのであります。……図解を御覧下さい。≫ (p.164-165)



 ⇒ 久遠の今


  (2020.10.1)



576 実相からの出発(2)


 実相とは、「久遠の今」 なる神のコトバである。

 「実相からの出発」 とは、「久遠の今」 からの出発ということである。

 それは目に見える現象世界からの出発ではなく、時空を超えた、目には見えない 「霊」 の世界、永遠の生命からの出発ということである。

 「霊」 は、病いに罹ることはない。

 「霊」 は、死することはない。

 「霊」 は消耗せず、与えれば与えるほど殖えるものである。「霊」 はまた永遠の創造者であり、生長するばかりの実在生命である。

 「霊」 は、時空を超えているから、もちろんコロナウイルスに感染することもない。

 それが、人間の本体である。


 ――ここにいう 「霊」 とは、聖経 『甘露の法雨』 の 「霊」 の項にあるところの

≪霊姿に甲乙あり、
  病める霊あり、
  苦しめる霊あり、
  胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
  心臓も有たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、
  これすべて迷なり。≫


 という霊のことではない。それは、同じく 「人間」 の項にあるところの

≪人間は物質に非ず、
  肉体に非ず、
  脳髄細胞に非ず、
  神経細胞に非ず、
  血球に非ず、
  血清に非ず、
  筋肉細胞に非ず。
  それらすべてを組み合せたるものにも非ず。
  汝ら、よく人間の実相を悟るべし、
  人間は霊なり、
  生命なり、
  不死なり。
  神は人間の光源にして
  人間は神より出でたる光なり。


 という 「霊」 である。

 それは、一切万象発生の根源なる主体的心とも言うべきものである。それは全ての全てであり、完全円満なるものである。人間の本体は、その根源の 「一」 なる霊の個性的表現口である。


 このことを説いたのが釈迦であり、キリストであり、日本古道 『古事記』 神話にもあり、それらに共通する根本真理を、万教帰一の真理としてわかりやすく説いているのが 『生命の實相』 である。

 人間は神の肖像
(かたち)に創られたものであり、如来(にょらい)=仏そのものであり、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御いのちそのものなる日子(ひこ)・日女(ひめ)である。

 今ここ天国、極楽浄土である。今が天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時であり、ここが高天原(たかあまはら)である。恐るべきものは何もないのである。

 その自覚に還ることが、「生命の樹」 の実を食することであり、「生命の樹」 の実を食すれば、人類はエデンの楽園に復帰するのである。仏教的に言えば弥勒菩薩下生
(みろくぼさつげしょう)、神道的に言えば天孫降臨(てんそんこうりん)を迎えるのである。

 今こそ、エデンの楽園復帰のとき、弥勒菩薩下生のとき、天孫降臨のときなのである。

          *

 肉体は人間そのものにはあらず、人間の皮袋、衣服のようなものである。人間の本体は霊であって、病むことなく老いることなく死することなきものである。

 人間そのもの――霊なる人間の本体は決してコロナウイルスに感染して発症するようなことはない。それゆえコロナウイルスを恐れることはない。

 されば 聖経 『続々甘露の法雨』 に曰く 

≪汝らよ恐れずに人生の行路を進むべし。
  恐怖なき者には不幸は決して近づかず、
  全ての不幸と悲惨とは神の所造に非ざるなり。
  恐怖なく人生の行路を歩む者には
  不幸も俯垂
(うなだ)れて避けて通り、
  病気も帰順の意を表して
  その 「本来の無」 に還帰
(げんき)して消滅せん。
  ……
  「神の子・人間」 には病い無きなり。
  「神の子・人間」 の上には、
  神の法則のみ支配す。
  神は愛なるが故に
  神罰の法則は汝を支配すること能わず。
  神は生命なるが故に、
  死の法則は汝を支配すること能わず。
  ……
  汝は神の子なり、仏身なり、
  金剛身なり、不壊
(ふえ)身なり、
  無病身なり、常楽身なり。
  感覚主義、合理主義に陥りて
  金剛不壊の常楽身を見亡
(みうしな)うこと勿れ。
  今すべての病者は癒えて
  その病床より起ち上らん。

  天使斯く啓示したまうとき
  すべて人類の病患は忽ち消え
  盲人
(めしい)は眼(まなこ)ひらき、跛者(あしなえ)は起ち上り、
  歓喜し相擁して
  天日を仰ぎて舞踏するを見る。

  夢にあらず、実相なり。
  天童たち仰ぎ見て讃嘆し、
  敬礼し軈
(やが)て歌いて云う。
  「神はすべての渾て、神は我がみ親、わが光、
  我らを救い給えり」と。
  此のとき、大神の天の宮なる太陽は
  円舞するが如く照り輝き、
  神光
(みひかり)は花葩(はなびら)の如くさんさんと地に降り濺(そそ)ぎ、
  五彩の虹、雲の柱となりて空にかかり、
  実相の国そのままのみ栄えを実現したりき。≫


 と。

 イエスは

≪悔い改めよ、天国は近づけり。(Repent, for the Kingdom of Heaven is at hand.)≫

 と言った(マタイ伝第3章2節)。

 この 「悔い改め」 (Repent) とは、今まで人間を「肉体の人間」 「物質的存在の人間」 だと思っていた考えから、くるりと一転して 「霊的実在」 の方に心を向け、「霊なる人間」 を観るということである。

 そうするとたちまち上記聖経 『続々甘露の法雨』 の結びにあるような天国の状態が出現する。

 “Kingdom of Heaven” すなわち天国は “at hand” 掌中に、今此処にあるということになるのである。

 「コロナ禍」 と言われる現在の状況は、ワクチンによっては終熄できず、人間観の転回という大懺悔によってのみ現成するのではないか。

  (2020.9.17)


<< 追伸 >>

 今日 (9月22日) は秋のお彼岸の中日。

 「彼岸」 とは 「かの岸」 ――理想の極楽浄土、すなわちエデンの楽園であり高天原である。すなわち、時間・空間を超えた 「久遠の今」 なる実相世界である。それを今此処、此岸
(しがん)に持ち来す日だ。

 コロナ下のためお寺に信徒が密集しての彼岸供養会は行われなくとも、我らは般若心経を唱えて仏の供養をしよう。その経文――

 「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……」 というのは、

 観世音菩薩が深般若波羅蜜多
(じんはんにゃはらみた)の行 <最も深い智慧に到る行すなわち神想観> をしたとき、

 「五蘊皆空
(ごうんかいくう)」 すなわち眼、耳、鼻、舌、身(皮膚) とそれ(五官)によって認識されるすべてのものは皆波動であって本来無である、肉体もなければ、物質もない、心もない。従って老いることも死すこともない、悟りを開くということも迷うということもない、一切何もないのである

 と照見 <智慧の光で照らして見る> されたということ。

 一切何もないのである、と否定に否定を重ね、心に滞るところがなくなって心の目が覚めたら、実はすでに浄土に往っているのだ、というのが、 「陀羅尼
(だらに)」 と言われる最後の結句である。

 「羯諦
(ぎゃてい)羯諦 波羅(はら)羯諦」 と唱える、「羯諦」 というのは 「往く」 ということ。「波羅」 は 「高天原」 と同じ 「彼岸」 だから、「往き往きて彼岸に往きて」 ということになる。それは殊更に往かないでも、もう浄土にいるとわかるということ。

 つづく 「波羅僧羯諦
(はらそうぎゃてい)」 の 「僧」 というのは 「総」 と同じ、「すべて」 ということ。そこで 「波羅僧羯諦」 というのは 「すべての者彼岸に往きて」 すでに 「彼岸」 即ち実相の世界にいるということなのだ。

 それは、キリスト教的に言えば、「エデンの楽園」 復帰ということになる。

 そして 「菩提僧婆訶
(ぼぢそわか)」 で終わる、 「菩提」 はサトリ、「僧婆訶」 は讃嘆の言葉で 「さらば」 「あなかしこ」 とでもいうべき意味をもっている。

 そのままで、彼岸に既に到達しているというのは自分だけではない、すべてのものが彼岸に既に到達している、もうここが実相の世界である、光明遍照の世界であるということがわかるのだ――と説いている。これが 『般若心経』 である。

 谷口雅春著 『あなたは自分で治せる』 第13章 ( 『真仏教の把握』 の 「『般若心経』 講義」 も同じ) 参照。 ああ、ありがたきかな。

  (9月22日 追加)


575 実相からの出発


 神こそすべてのすべて。神の外にあるものなし。

《 ああ、この世界はみな、捧げ合いであった。生きとし生けるものは、みなお互い捧げ合い、つくし合い、お役に立ち合い、与え合い、拝み合っているのであった。

 なんと美しい愛の世界であろう。なんと美しい感動の世界であろう。なんと美しい讃嘆の世界であろう。山は川をほめ讃え、川は山を仰いで、よろこびの歌を歌っている。花は、見る人を讃えて咲き、人は花を見て花のいのちが神の愛で輝く姿を見る。人と人とは拝み合い、生きとし生けるものは生命(いのち)を捧げ合っているのであった。天空も、大地も、空気も火も水も草も木も、みな無限の智慧と愛と生命の神のよろこびの讃歌であった。》


 と、先達 別府正大 元本部講師の 「信仰随想」 に書かれている。

 これこそ、神の創造
(つく)り給うた 「実相」 (ほんとうのすがた) だ!

 つづいて別府講師の信仰随想 「実相からの出発」 には

《 毎日が実相からの出発である。始めに実相円満完全ありである。既に完成している実相から、一瞬一瞬、現象界に顕現する。御心(みこころ)の天に成る実相世界を地上に現わさんがためである。これが、神が私たちを地上に顕現せしめ給うた目的である。一瞬一瞬が実相から現象への只今誕生である。

 私は毎日毎日、一瞬一瞬、神の限りなき大愛にひたり、そこから神の子の日を出発する。神の限りなき大愛にふれたときから、私を通して神の愛があふれ出る。私は実相世界の無限軌道に乗る。神はみずからの生命を私たちに与え給うほど、私たちを愛して下さっていたのであった。》


 そして 「神様は神様のいのちを私に与え給うほど私を愛して下さっています。私のいのちは神のいのちであります」 となり、

「わたしのいのちは神様のいのち
 わたしのこころは神様のこころ
 わたしのからだは神様のからだ

 あなたのいのちは神様のいのち
 あなたのこころは神様のこころ
 あなたのからだは神様のからだ」


 という祈りの言葉となる。

 ここに夫婦大調和の極意もあり、ここに 「……ねばならぬ」 のない、「力み」 や 「頑張り」 を脱した、感謝に満ち法悦に満ちた実相顕現の道がある、と思う。これを実行しよう。

 「実行」 とは、「実」 相が 「行」 くことである。

          ○

 旧約聖書 『創世記』 は、

 
「はじめに神 天と地とを創造(つく)りたまえり。」

 
から始まっている。

 これについて、『生命の實相』 第11巻(万教帰一篇上)では次のように説かれる。

≪ 神――大生命――叡智――には 「はじめ」 というものはない。「はじめ」 があったら 「終わり」 があるかもしれませぬが、始めもないから終わりもないのであります。

 ここに始めというのは 「一」 のことであります。「一」 という字は日本でも 「はじめ」 一と読む。「一」 とは万物が展開する基礎になる数であります。二に対する一ではなく一切を綜合した円相の一であります。

 この一がなければこの世界に何物も成り立たない。はじめに一があって、次に二が成立する。渾一
(こんいつ)があって対偶(ついぐう)が出来上がる。絶対があって相対が出来上がる。

 この絶対の 「渾一
(ひとつ)」 がここにいう 「はじめ」 であります。すなわち、大実在、第一原理であって、この絶対の第一原理から万物は出発したのであります。

 もともと絶対であるから神も人も自も他も一切の被造物も一つである。別々に離れ離れのものであると思っているのはウソである。本来みんな一つにつながっている。

 だから、自他一体ということは 「真理」 そのものであって、この真理に従うときすなわち自他を絶したところに真に生かす力が湧いてくるのであります。ここまでが自分、ここから先は他人と区別しているようなことでは真に生かす力が湧いてこない。

 「生かす力」 というものは、「自分」 にもあり 「他」 にもありというふうなものではないのであって、自他が結び合ったところにある。差別を絶した働きになってくると今まで予想もしなかったような力が出てくるのであります。

 会社の仕事をするのでもこれは会社の仕事である、自分は金を貰うために自分の生命を八時間なら八時間だけ切り売りしているのである、こう考えると会社の仕事というものと自分の生命というものがただの対立になっている。そこに差別がある、差別があると心にスキができてくる。この仕事は自分のものではない、この仕事を熱心にやればやるだけ自分の精力が減り、殖えるのは会社の儲けである、いい加減に働いておかないと損だというふうになる。会社と自分というものが離れ離れになって、その間に隙ができているから、「生かす」 という働きが十分できてこない。

 (中略)

 われわれは時とすると働けば会社が儲けて自分は損だなどということを考えたがりますけれども、会社が儲けるのは金だけのことで、われわれ人間は仕事をすることによって金も幾らかはいただきますが、まだその上に結構な大きな儲けものがある。それは与えられた仕事によって自分の生命を鍛えることができるということであります。

 生命を鍛えるというのはなんであるかといいますと、自分という一見有限の小さな生命が、その本来の無尽蔵の生命からだんだん大きく生命を汲み出す方法をさとるということであります。

 われわれは与えられた仕事を仮に 「会社の仕事だ」 といいますけれども、それは自分の生命を鍛え太らす自分の仕事なのであります。どんな仕事でも、あらゆる仕事はみんな自分の生命を太らすために与えられているとの事実に目覚め、感謝して正面からその仕事を受けてそれに一心不乱になって誠をつくしますと、精神統一ができて、われならざる無限の力が発揮されてきて働いても働いても疲れないようになる。いろいろと仕事の上にも工夫ができて自分自身の知恵の上にも、愛の上にも、生命(健康)の上にも大いなる発達を得るのであります。

 この 「われならざる無限の力」 を汲むのはどうしたら一等よいかというと、自と他と無限とが一体だという本来の真理をサトルほかに道はない。

 この一体ということはただわれわれが主観的に心で、いい加減に自と他と無限とが一体だと思おうとするのではなく、本来一体であるものを一体だとサトルからこそ、実際の上にも効果があらわれてくるので、空想ではないのであります。

 これは会社対自分というような関係だけではなく家庭の中でも同じことで、家族同士でも自他の区別をハッキリさせてこれは自分の利益、これは彼の利益という区別の観念があるとかえって心を余計費しながら、しかも入る方では無限の生命の供給が這入ってこない。そういう家は乱れがちで生長しないのであります。

 自と他と無限とが三位一体になっていますと、どんな他人の仕事も自分の仕事であり、同時に無限者が自分の内に宿っていて、その無限力でしてくださる仕事となりますから、どんな困難な仕事でも苦労にならない、仕事が困難なほどそれを乗り超えるのに興味が湧いてくる、そこに自分の発達があるというふうになって来ます。つまりこれは、すべてのものは元は一つ、始めは一つ、この一つという真理に従うとき、真理は同時に愛であり生命であるから、そこに無限の生かす力が湧いてくるのであります。≫


――人間はその 「一」 なる霊なる神のいのちそのものである。それを自覚すれば、今此処が神の国であり、エデンの楽園なのである。今此処に神の第一創造に成れる大調和、無限供給、無限生長、無限歓喜の世界がある。

 しかしアダムとイブは神との約束を破り、蛇に騙されて知恵の木の実を食ったため楽園から追放された、と 『創世記』 第3章にある 〈第二創造の世界〉。

 土の塵、物質の土にへばりついて歩むのが蛇である。本来なき 「空(くう)」なる物質を 「あり」 として尊重し、これに依り頼るのは蛇の知恵である。

 現在の人類がこの 「蛇の知恵」 に騙されて知恵の木の実を食らい、エデンの楽園から追放された状態になっている。


 8月15日の日本経済新聞第1面トップの見出し

   「終戦75年 世界、迫る無秩序の影
     戦後民主主義の岐路」


 というのは、戦後民主主義の基礎は 「人間」 をバラバラな 「個人」 としてのみ捉え、個人を超えた、人と人との 「間」 にこそ生命が顕われるという 「霊なる実相人間」 に価値を置くことをして来なかったからだ。

 今、コロナ下で世界の人々がそのことに気づき始めていると、晴佐久神父は感じている。だからコロナウイルスは 「悪魔のウイルス」 ではなく、 「恩寵のウイルス」 と呼んでいるのだ。

 『創世記』 にあるように、アダムが蛇にだまされて知恵(知識)の樹の果を食い、科学的知識さえ発達したら人間が幸福になると思っているうちに、エデンの楽園から追放された――それが今やわれらの日常の現実となっているのである。

 分断と闘争に喘ぐ無秩序な現象世界は、神の第一創造に成る実在世界ではなく、人類の妄想の産物なのである。われらをエデンの楽園に復帰させるもの、それは 「生命の樹」 の実を食することである。すなわち、生命の実相に立ち還ることである。

 愛なる神は、“恩寵のウイルス” なるメッセンジャーを遣わして、人類に 「エデンの楽園」 復帰を促しておられるのである。

 コロナウイルス感染拡大を根本的に終息させるものは、ワクチンではなく、「生命の樹」 の実なる生命の実相への還帰であろう。

 谷口雅春先生は、『如意自在の生活365章』 の153頁に、次のように書かれていた。


≪     楽園追放と楽園帰還

 ところが、「蛇の知恵」 があらわれて人間の自覚を狂わせることになったのである。

 蛇とは“土の塵”の上を匍匐
(ほふく)して生活する生物である。“土の塵”は物質の象徴であり 「匍匐する」 は自己の全存在を“土の塵”すなわち“物質”に依存することの譬喩である。自己の全存在を物質であると見、生活を物質に依存する知恵とは、唯物論的世界観および唯物論的人間観なのである。

 これは実際生活の便宜上、感覚が人間の肉体面を見て、それを物質的固体として取り扱う、そこに錯誤を生じて、「肉体」 という固塊
(かたまり)を 「人間」 そのものと思い誤り、肉体を楽しますことを、「人間の悦び」 として錯覚する、その結果、人間は個人主義的、快楽主義的生活にふけって、エデンの楽園(実相常楽の霊的世界の譬喩)から追放されて、永遠の争闘と苦しみの世界に墜落するのである。これが現下の人間生活である。

 その墜落より浮かび上がって、再びエデンの楽園に帰還するには、唯物論的 「知識の樹の果」 を吐き出して、“生命の実相”がいかなるものなるかを知り(これを“生命の樹の実”を食するという)、人間の実相が“神の子”であることを知らなければならないのである。≫



  <つづく>


  (2020.9.4)

574 “恩寵のコロナウイルス”(2)


 さて前項では、コロナ下で北九州の牧師さんと東京の神父さんが、キリスト教の教派を超えた熱烈オンライン対談をして YouTube に公開されているのをご紹介した。

  ⇒ 宗教者から見たコロナ状況(YouTube)

 その対談は、口先だけではない、コロナのリスクを承知で命がけの愛行を実行し実体験しているお二人だから、言葉に底抜けの明るさと力がある。その中で、


(1) 「コロナ禍」 と言われる現在の状況下、われわれが忘れかけていた一番大事なもの、それは 「いのち」 だ。

(2) すべてのいのちには意味がある。 「役に立ついのち」 「役に立たないいのち」 というような選別をしてはならない。

(3) 「あなたと私のいのちの繋
(つな)がり」 にこそ、本当の 「いのち」 があらわれる。

(4) 「今」 を手段ではなく 「今が目的」 として、一緒に感謝してご飯をいただく、血縁を超えた 「福音家族」 をひろげよう。



 ――といった言葉に僕は特に共鳴した。そして、「ウィズ・コロナ」、「アフター・コロナ」 の神の国実現のヒントがここにあると感じて、採り上げさせて頂いたのである。

 それらの言葉は、生長の家の教えにも通ずるものであった。たとえば、3番目 の

 (3) 「あなたと私のいのちの繋(つな)がり」 にこそ、本当の 「いのち」 があらわれる。

 というのは、『生命の實相』 観行篇(頭注版第8巻)の 69~70頁に、「間
(あいだ)に生命が顕われる」 と題して、次のように記されている。

≪   「間」 に生命が顕われる

 本当の美は、個々にあるのではない。メーテルリンクの戯曲の科白
(せりふ)は言葉と言葉との間で魂を語らせたが、なにによらず本当の美は 「個」 それ自体にあるよりもいっそう多く個と個とを結び合わす 「間」 にあるのである。

 一個の音韻はそれほど美しいとは言えないが、それが他の音韻と結び合うとき、一個の音韻それ自身がもたない美が音韻と音韻との 「間」 にでき上がるのである。色彩でもそのとおりである。二つ以上の色彩が結び合うとき、一個の色彩ではもたない美しさが、色彩と色彩との間にでき上がるのである。音楽も 「間」 にあり、美術も 「間」 にあり、人間の生活も 「間」 にある。

 「人間」 とは誰が言い始めたのか知らないが、人間の生活は一個人にあるのではない。個と個とが結び合った 「間」 に人間の生活があるのである。眼に見え、感覚に映ずる肉体の人は皆はなればなれの存在であるが、これは朽ちゆく虚仮
(こけ)不実の存在であり、本当の人間ではない。実在である人間はこの感覚に見える現象存在の 「間」 にのみ顕われるのである。感覚的存在を通じて実相が見えるのではなく、感覚的存在と感覚的存在との 「合い間」 に実相人間があらわれるのである。この 「合い間」 を描くのが芸術であり、この合い間を生きるのが 「愛」 である。≫

 これはまた、『生命の實相』 第7巻 「生活篇」 にある

  ⇒ 「共通的生命の歓喜のために働け」
  https://www.youtube.com/watch?v=7-0wGAZzYSc

 に通ずるものでもあろう。


 ところで前項冒頭に掲げた、8月15日の日本経済新聞第1面トップの見出し

   「終戦75年 世界、迫る無秩序の影
     戦後民主主義の岐路」


 というのは、戦後民主主義では 「人間」 をバラバラな 「個人」 としてのみ捉え、個人を超えた、人と人との 「間」 にこそ生命が顕われるという 「実相人間」 に価値を置くことをして来なかったからだ。

 今、コロナ下で世界の人々がそのことに気づき始めていると、晴佐久神父は感じている。だからコロナウイルスは 「悪魔のウイルス」 ではなく、 「恩寵のウイルス」 と呼んでいるのだ。

 そして 4番目

(4) 「今」 を手段ではなく 「今が目的」 として、一緒に感謝してご飯をいただく、血縁を超えた 「福音家族」 をひろげよう。

 であるが、この 「一緒ごはん」 に関しては、「生長の家の食事」 の神示 に、

 
「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」

 とある。『理想世界』 誌昭和53年11月号には、「顕斎の時は今」 と題する座談会で、木間敬先達が次のように語っておられる。

≪   食事は人類共通の顕斎

 食事をいただくのも、これは 「大調和の神示」 以前に、「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」 という神示で教えられている通り、たいへんなお祭りですよ。日本古来の言葉でいえば、「贄
(にえ)の祭り」 または 「饗(あえ)の祭り」 と言いますが、食事が祭りだというのは日本だけのことじゃないんです。

 われわれ、人類光明化運動と言いますが、その人類共通の祭りは何かといったら、食事ですよ。それから音楽ですね。アイヌの熊祭りというのも、食事によって神と一体になる祭りだし、ヨーロッパでも、ゲルマンをはじめいろんな諸民族で、キリスト教のために自分の民族にうけつがれてきた祭りが抹殺されて今は稀薄になっているけれども、諸民族の祭りの根源をたどって行くと、全部神さまと一体になる、食事によって神さまのいのちをいただいて生れ変るというのが、全人類共通の祭り、全人類共通の顕斎なんですよ。

 その全人類共通の顕斎が、日本に、最も純粋に深く伝えられてきているんです。そのいちばんいいサンプルが、天皇さまのお祭り(大嘗祭・新嘗祭)なんです。そこに、日本の世界的使命というものが感じられるんです。

 だから、現在意識ではそのことをみんな忘れていても、日中条約を結ぶとかなんとか、しち面倒くさい外交交渉なんかの前には、必ず食事の宴がはられるでしょ。それは、全人類共通の顕斎は食事であるということが、深い潜在意識の底にあるからですよ。だからいっしょに一つのテーブルについて飲食を共にするという食事の席では、ケンカをしないでしょう。

 ヨーロッパ人などが未開民族のところへはいって行っても、まず、持っているものを交換したり、いっしょに食事をしたり、というところからやって行くと、警戒心を解いてしまう。
 全く言語も、歴史、伝統、風俗習慣もちがう者同士が会ってもね、一つテーブルについて飲食を共にする行事でもって、お互い一ついのちに生かされているんですよという、つながりを思い出させている……

  おもしろいですね。

  だから、世界の、コトバもちがい風俗習慣もちがういろんな諸民族が、長崎の住吉本宮に参拝に来ても、全然不自然なことはないんです。≫

   (#472 参照)

 そして、「今が目的」 「今を生きよ」 ということは、「生活篇」

   ⇒ 「『今』 を全力を出して戦いとれ」
    https://www.youtube.com/watch?v=qBSEQQdLgdo


 そしてまた

   ⇒ 「久遠の今」

 御講義の結びの部分で、その深遠なる哲学的意義が説かれているのであるが、これに通ずるものがあると僕は思った。


          *  *  *


 さて、前項の末尾で晴佐久神父は奥田牧師から問いかけられていた。

≪  「不要不急のことは自粛して下さい」 と言われた瞬間に、「では礼拝など宗教行事ををやめます」 という宗教者が多いことに対して、どう思いますか。≫

 と。すると晴佐久神父は、次のように言うのである。

≪[晴佐久] これまでの宗教っていうと、なにか教会でお祈りしている、そこに信者が通(かよ)っている、その形ですね。自粛っていうとそれの自粛です。

 しかし、宗教っていうのはもっと広く深く一人一人の生き方、関わり方にしみこんでいるものだし、教会というは本当は、別に建物の中ではなく、「炊き出し」 の現場であったり、「あの人を見舞いに行こう」 というような話であったり――それは例えば、今日もやった 「ウグイス食堂」 というホームレスの人たちとの 「一緒ごはん」 でも、「密」 になるから自粛して、止めた方がいいんじゃないかという声もある。しかし 「ウグイス食堂」 はやりましょうと――この場合、教会は礼拝を自粛していたとしても、「もう一つの教会」 は自粛しないでやっている。

 「自粛します」 といって何もしないようなな宗教は形だけのものも多い。組織があって、場所があって、ルールがあって、そこに名簿があってというような 「骨の宗教」 はしっかり自粛しなければならないとしても、本当の教会はそこにくっついた 「肉」 の方でしょう。

 信者たちが何人か集まって、「こんなときだからこうしましょう」 と相談したり、「今後コロナ禍の後でこんなことができたらいいね」 と話し合ったりしている、それも、まさに生きた教会だ。

 だから、自粛と言ったときに全部が自粛して動かなくなるようだったら、所詮そんな教会だったんだねっていう話じゃないですか。

 教会がいくら自粛すると言ったって、自粛できない 「肉の教会」 がちゃんとあれば、それはもう生き生きと様々な活動しているんじゃないですか。私なんかは小教区の責任者として、きっちり自粛もしているし、消毒とか何とか守っているけれども、同時に 「福音家族」 とは、まあ内緒でいろいろと関わったり、出かけて行ったりしている。この間にたった1人でも一番最寄のホームレスの方に、この期間は毎日関わるって決めて、“最寄りさん”って呼んでるんですけれども、教会の一番最寄のホームレスさんに毎日お弁当を届けるっていう、これはコロナになってから始めたことです。こんなのはリスクはあるんだけれども、自粛を超えた本当の生きた教会が今ここに生まれてるな、っていうような感覚がありました。

 お蔭でね、私は引きこもりを続けていた青年と、家を追い出されたような青年と、3人で3ヵ月間司祭館に閉じこもって、毎日ミサをし続けることができたんですよ。全世界と繋がってミサしているような実感があって、全世界でこれを乗り越えて、新しい世界に少しでも近づけるようにっていうことを、この3人で考えて行こうって言って、毎日30分説教し続けました。

[奥田] なるほど。その3人のそのミサっていうか、それが世界と繋がるという、それはすごくすてきな事ですよね。……≫



          *  *  *


 僕は #572 の最後に、次のように書いていた。

 「天地一切と和解する祈り」 (『真理の吟唱』) を熱祷し、神に全托しよう。

  ⇒ 「天地一切と和解する祈り」 (YouTube 動画)

 この祈りの中ほどから結句にかけて、次のような言葉がある。

≪ すべての人と事と物とは、今ここに渾然と調和しており、たがいに争い立つということはないのである。現象の世界に、如何なる対立の関係があろうとも、如何なる闘争の関係があろうとも、それは妄想の顕わすところであり、妄想はやがて消えるべき運命にあるのであるから、私はそれを恐れることもないし、それに愕(おどろ)くこともないのである。

 妖雲冪々
(よううんべきべき)と空を覆うことがあっても、その上には常に蒼空があるのと同じように、如何に暗澹たる状態が現象的にあらわれてこようとも、その状態に対して心を動ずることはないのである。心を動ずることがないから、何らの対策をも講じないのかというと、決してそうではないのである。心を動ずることがないから、最も適切なる智慧が泉の如く涌き出でて暗(やみ)を消してしまう処置ができるのである。

 光は進む、暗は消える。神はわれらに 「常に心を明るくもて」 と仰せられているのである。一時といえども私は心を曇らすことをしないのである。神は勇気の本源であり、神の子たる私は、勇気そのものである。神の智慧われに来りて、迅速果敢に適当なる決意と断行をなさしめ給うのである。

 ああ、感謝すべきかな、天地万物は、ことごとく神の子として兄弟姉妹であり、われを常に祝福し、われを常に援助し、わが希望を必ず成就せしめ給うのである。≫


 さて、私は今、具体的にどう行動すべきか。「最も適切なる智慧が泉の如く涌き出て暗を消してしまう処置ができるのである」 との祈りをしていたら、上記の奥田牧師と晴佐久神父のオンライン対談に出会った。これは私に刺戟と勇気とヒントを与えてくれた。

 さらに、私に大きな力を与えてくれる本に次々と出会う。

 小川仁志著 『公共性主義とは何か』 もその重要な一つである。ここから大きなヒントを頂き、神から適切な智慧と勇気と力を頂いて、明るく積極的に前進することを誓う。ありがとうございます。


  (2020.8.20)

573 “恩寵のコロナウイルス”(1)


「終戦75年 世界、迫る無秩序の影
  戦後民主主義の岐路」


 という大見出しのついた囲み記事で、今朝の日本経済新聞は第1面トップを飾っている。


 ところで今、全世界に猛威を振るっている新型コロナウイルスのことを、「恩寵のウイルス」 と呼んでいるカトリックの神父さんがあることを知った。

 北九州市のキリスト教会(プロテスタント)の牧師 奥田知志
(ともし)氏と、東京で上野・浅草の2つのカトリック教会の祭司を務める神父 晴佐久昌英(はれさく・まさひで)氏が、コロナ緊急事態宣言下にも、リスクを承知でそれぞれ地域のホームレスなど生活困窮者・孤独者の支援活動に挺身していた。その2人がキリスト教の教派を超え意気投合、6月27日に熱烈なオンライン対談をした録画が YouTube に公開されている(1時間を超える熱談)。


  ⇒ 宗教者から見たコロナ状況(YouTube)


     * * * * *

 奥田牧師は、1988年から32年にわたり、有志といっしょに路上生活者におにぎりと豚汁などを携えて訪ね歩き、自立を支援する活動を続けてきた。2000年、NPO法人を設立し 「抱樸
(ほうぼく)」 と名づける。山から伐りだした原木・荒木(樸)をそのまま抱きとめる意で、目指すのは 「抱樸する社会」。

 マタイ伝25:40に
 「兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」

 とある、それを実行するのがキリスト者だと、やりだしたらやめられなくて、今日まできた。

 コロナ感染拡大が起きても、ホームレスの人たちへの上記 「炊き出し」 を続け、4月からは特に困窮者救済のためクラウドファンディング
(インターネットを通して自分の活動や夢を発信し、応援したいと思ってくれる人から資金を募る)を開始。募金の目標額は1億円とした。

 上述のオンライン対談をした6月27日時点では約3ヵ月で 2,198人から献金があり、3,400万円集まったというが、目標の約3分の1である。しかし、奥田氏は

 
「クラウドファンディングで私たちは最終的にはお金を集めているわけですけれども、なによりも大事なのは、人の心がつながるということだと思っております。すでに2000人以上の方々がこのことに思いを馳せてくださった。私はとても素敵なことが起こりつつあるというふうに考えています。」

 という。それによって、コロナで仕事と住居を同時に失った人のために、抱樸が空き家を借り上げてリフォームし家財道具一式を備えて提供する活動などを展開している。

 その活動は天皇・皇后両陛下のお耳に達し、7月16日、奥田氏は両陛下から赤坂御所にお招きを受けた。両陛下は、晴佐久神父との対談 YouTube もご覧遊ばされたかと思われる。

 日本テレビ系(NNN)は次のように報じている。

≪ 天皇皇后両陛下は7月16日、ホームレスなどの生活困窮者を支援する活動を続けているNPO法人 「抱樸」 の奥田知志理事長らを赤坂御所に招き、新型コロナウイルスの影響と活動の現状について説明を受けられました。

 奥田理事長は、日本は以前からアメリカやイギリスに比べて社会的孤立が進んでいるというデータを示した上で、今後、仕事と同時に住居を失う人が増えると経済的困窮と社会的孤立がスパイラルになると説明すると、両陛下はメモをとりながら熱心に耳を傾けられたということです。

 天皇陛下は 「大変な現場でしょう」 と何度もねぎらいの言葉をかけ、皇后さまは孤立の問題に関心を寄せて 「子供の支援について聞きたいので、どうぞお話し下さい」 と予定の時間を超えて奥田理事長の話を聞かれたということです。≫


 ――さてこの情報を提供してくださった 江島靖喜氏は、次のように書いておられる。

≪天皇皇后両陛下がNPO法人「抱樸(ほうぼく)」の奥田知志理事長らから話を聴かれたそうです。奥田さんは基督教プロテスタントの牧師さん。

 この信仰をお持ちの方には珍しくないですが、ウィキペディアによると奥田さんはどうも 「国体」 即ち御皇室をいただく国柄について反感をお持ちのようです。SEALDs創設メンバーの奥田愛基さんという方は奥田牧師の御子息とのこと。

ウィキペディアより
 《週刊新潮によれば、即位の礼の反対学習会に参加し 「人間を超えた権威づくりによって、再び戦争の道を歩むことがないよう……」 と、靖国信仰について 「戦前の天皇への極端な信仰と同じ」 とそれぞれ発言したとされる。ほか、日本バプテスト連盟の牧師らと共同執筆した 『光は闇の中に輝いている』 では、「天皇が 『絶対的存在』 から 『象徴』 へと表現を変えたとしても、天皇制が依然として民衆統合機能そのものであることが問題なのである」 と批判したほか、2001年8月13日に小泉純一郎首相(当時)が靖国神社を参拝したことに対する全国集団訴訟では福岡山口原告団の一人に名を連ねたと書かれている。》

 これが本当だとすると、とても興味深いニュースではありませんか。

 このことは天皇という御存在がどのような御方なのかということを私たちに示してくれる事柄だと思われます。天皇陛下にとっては右とか左とか、どのような立場であれ、区別などされない。まさに 「一視同仁」。みんなを、すべてを、同じように慈しんで下さる。

 葦津珍彦先生が確か 「王者無敵」 と仰られていましたが、敵が存在しない。この日本の奥義の一端を知らしめてくれる報道と思いました。≫



 ――まさにその通りだと思います。

 さて 天皇陛下は、NPO法人「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク」 に5,000万円を寄付されており、厚生労働省も新型コロナウイルスの感染拡大による生活困窮者支援のためのプロジェクトチームを立ち上げ始動している。そうしたことに鑑み、抱樸のクラウドファンディングは7月末で一応終了を宣言している。しかし本格的な支援活動は、これからであろう。


     * * * * *


 一方、オンライン対談のゲストとして登場した晴佐久 昌英氏は、東京の上野・浅草で2つの教会の主任司祭を務めるカトリックの神父さんだけれども、

≪ 「あなたは必ず救われる」 「あなたはすでに救われている」。キリスト教は、すべての人にむかって、そう宣言する。

 もしもあなたが悩みを抱えて苦しんでいるなら、「その苦しみは生みの苦しみだ。あらゆる苦しみには意味があり、必ず喜びにかわる。信じてほしい」 と語りかける。

 意外に思われるかもしれない。一般にキリスト教は、信者だけを救う宗教だと思われているし、現にそのように教えている教会もあるからだ。しかし、本来のイエスの教えは、すべての人を分け隔てなく愛するあたたかい教えであるし、キリスト教の最も深いところには、そのような究極の普遍性が流れている。

 和をもって貴しとなし、狭い国土で助け合って生きてきたこの国の根底には、普遍性あふれる霊性がしなやかに流れているし、だれも排除せず、互いにもてなし合うような教えならば喜んで受け入れる、おおらかな国であることは、みんな直感しているはずだ。……

 神社にお参りし、お寺で手を合わせ、教会で神に祈る。それが大きな目で見れば実はひとつのことであり、自然界に宿るカミへの敬意であり、万人を救う弥陀の本願であり、神の愛を実現するキリストの道だといえるような超越的教義を見いだし、実践することこそは、この国で宗教を名乗るものの使命であろう。≫


 と説く。上記は、2014年3月15日・22日付け 東京新聞に「宗教の普遍性」と題し2回連載で寄稿された文章からの抜粋である。 カトリック界ではやや異端視されているらしいが、信念が強く、若々しく実行力のある、ひたむきな方。


 さて、対談の一部を振り返って記録しましょう。.


≪[奥田] 晴佐久さん、今のコロナの状況を、率直に、「宗教者として」 も含めて、どう見られてますか。

[晴佐久] あのう、「コロナ禍
(か)」 っていう言葉が使われてますね。まがまがしいと。じゃあコロナ禍の前は「禍」じゃなかったか。もう、じゅうぶん「禍」だったじゃないですか。ほんとに、弱い人は群衆の中に出られない。みんなバラバラになって、人間らしい暮らしもできず――それは新自由主義禍っていうか、不平等社会禍っていうか、格差社会禍っていうか、見事に禍々(まがまが)しかったわけでしょ。

 いまコロナを持ち出して「コロナ禍」って言うけれど、もっと大きな禍からだんだん私たちが成長し目覚めて、生まれかわる一つの生みの苦しみの時ではないのか。大きな目でとらえるならば、このコロナの状況を、ただ過ぎ去るのを待つ禍々しき日々であるととらえるのは、どうなのかな。この3ヵ月、ちょっと閉じこもり気味だったので、ずっとそのことを思ってました。

 いうならば、確かにリーマンショックのときもそうだった。3・11の時もそうだった。何か変わらなくちゃと言っていた。今回もコロナで変わっていくんじゃないかとか、変えなくちゃっていう。しかし 「言うだけでまた過ぎちゃうんじゃないの、元に戻るんじゃないの」 って言われているようだけれども、私は、今回はちょっと違うな、と思う。

 どこが今までと違うかっていうと、全世界が、全員で共通してこの苦しい体験をした。いっしょにこの試練の日々を体験し、遠く離れていても 「それ、わかるよ、いっしょに体験してることだから」 と。ほんの短い時間に、コロナを知らない人は全世界誰もいないというぐらいにみんなが体験して、ああそうか、何人
(なにじん)とか何教(なにきよう)とかいう以前に、同じ遺伝子を持った人類なんだと――そんな当たり前のことに、みんなが一緒に気づいたっていう、この出来事は、わりと 「恩寵」 なんじゃないか。そういう意味で、「恩寵のウイルス」 とまで呼んでいるんですよ。

 言い過ぎかもしれない。苦しんでる人には申しわけないかもしれないけども。神様から、「ちょっとみんな、考えようよ、どうなんだろう」 と――。

 神がウイルスを育てたわけじゃない。もともとウイルスも含め、すべて神がお造りになったものなんだけども、コロナウイルスがここまで流行
(はや)っちゃった、その背景にあるのは、ほぼ人災なわけだから。そういう意味では、「こういう機会を生かして、あなたたちはこれから、どんなふうに神の国に変えていくんですか」 という問いのように、今回このウイルスをいただいた――というような、なにかそういうイメージがあるんですね。

[奥田] そうですね。本当にいま何が一番大事か――聖書の言葉で言えば、イエスがマルタとマリアの家での話
〈注1〉で、「なくてならぬものは多くはない。いや、一つだ」 と言い切るところがありますけれども、私は今回、「なくてならぬもの」 を問われたと思うんですね。

 〈注1-編者〉 ルカ伝第10章38~42 マルタとマリア
 《一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 》


 私たち戦後70年、80年――80年はまだですけど――やってくる中で、何を結局作ってきたのか。例えば政治的なスローガンにしても、高度経済成長が止まって低成長が長く続いてる中で、まだ勢いのあったあの日に戻りたいとか、取り戻そうっていうんだけども、何を取り戻そうと言ってるのか、わからないんですね。何が 「なくてならぬもの」 だったのかということを、今立ちどまって考える時ではないのか。

 4月24日に流れたニュースで、東大寺にキリスト教や仏教の代表者が集まって皆さんで新型コロナの終息を願ってお祈りしたっていう記事、ニュースが流れた。その時に、その中に出ていたある宗教者がこう仰った。

 「新型コロナウイルスの終息が見えにくい状況であるが、宗教者として、行動を自粛することが周りの人々の命を守ることに繋がるということを肝に銘じ、共に祈りを続けたい」

 と。宗教者としての働きは、行動を自粛することだっていうコメントを流された。それは当然宗教施設で感染が広がることありうるわけだから、一理も二理もある。でも一方で私、結局宗教って何だったんだ? と思う。「不要不急」 って言われた瞬間に、宗教者自らが 「今は自粛です」 って言ってしまう。これ、晴佐久さん、どう思います? ≫




  <つづく>


  (2020.8.15)

572 完全なる神に全托します。




 僕の机上、パソコンのディスプレイの脇に、上記のモットーをプリントしたものを掲げて5年余りになる。

  ⇒ 「久遠の今」


 このウェブサイトは、5年余り前に開設した当初から

  「みすまる宣言」
に掲示しているように、


○ 天地一切のものは、すでに和解し調和している。

○ 生長の家とは、建物の名ではない。「和」 の名であり、「愛」 の名である。
   (『光明道中記』34頁より)


○ 分裂がない、対立がないのが生長の家であります。

○ だから、生長の家は永遠なのであります。

○ 『生命の實相』 は、ただただ天地一切のものがすでに大調和している生命のほんとの相
(すがた)を、讃えに讃えて書かれているのであります。


 と宣言し、その生長の家の實相を究め、顕現することをめざしている。


 最近読み返した新選谷口雅春選集13 『美しき生活』 にも、次のように書かれていた(42頁)。


≪不調和な状態では、たとい 「生長の家」 と書いた標札を出した家の中に住んでいてもその人は 「生長の家」 の人ではありません。「生長の家」 のことを、私は時々、仲好しの家であるというのでありますが、喧嘩していては 「生長の家」 ではないのであります。私は生長の家だと称して傲慢になって人を攻撃してみたり、「お前達は駄目だ、私は生長の家だから偉いんだ」 と互いに家族で喧嘩しているようでは生長の家ではないのであります。≫


  と。


 しかしながら地上(現象界)では今、分裂・分断、排除・排斥、闘争・抗争が激しくなっているようである。

 しかし、現象は真実在ではない。真実在は、「久遠の今」 なる、神の創造し給える完全円満なる無限生命の世界である。それは 「一」 なる世界であって、分裂抗争などはないのである。

 『生命の實相』 第3巻を再読していたら、次の文言が目にとまった。

≪生命を見る医者だけが、生命を生かし、病気を見る医者は病気を生かすことになるのであります。≫ (31頁)

 上記の 「生命」 を 「神の創造し給える完全円満なる世界」 と置き換え、「病気」 を「分裂抗争の激しい現象世界」 と置き換えても当てはまることではないかと思う。


   ・・・・・・・・・・・・・・


 神はすべての全てであり、全知全能で無限の愛にまします。

 その神が全てを造り給うて、「甚だ善し」 と仰せられたのである。

 それにもかかわらず、人間が嘆いたり憤慨したり騒ぎ立てたりするのは、神の子人間としての分を超えている。


 「天地一切と和解する祈り」 (『真理の吟唱』) を熱祷し、神に全托しよう。


  ⇒ 「天地一切と和解する祈り」 (YouTube 動画)


  (2020.8.1)

571 本尊は外にはあらず、内にあり。


 生長の家創始者谷口雅春先生は、

 一切の功徳の本源(祖仏、祖神)は


 ⇒ 「外にはない、内にある」 (YouTube動画)


 と力説されている。すなわち御著書 『叡智の断片』 をテキストとして


≪ 「悟りというものは、一切を外的原因だとして、責任を外に負わしていた者が、一転、一切の責任は自己にありと、脚下照顧、自己に反照して、一切万事吾より出でて吾に還ると知ることである。外に神を求め、社殿に廟宮に寺院に教会に跪(ひざまず)いて、此処に神仏があり自分を不幸にも幸福にもする力ありと思っていた迷信から一転して、汝の祖師、釈迦仏もキリストも汝の内にあり、功徳の本源は自己の内にありと自覚する事が真の宗教であるのである。」

 これが生長の家なんです。すばらしい宗教でしょう。いわゆるご利益信心みたいに、跪(ひざまず)いて、外に神を求め、社殿に、神社のやしろにあるいは廟宮に、どこかの寺院に、教会に、跪いて 「お蔭を下さい」 というような、そんなのは迷っている心であって、「自分の内に一切のものがあるんだ」 と、「念々の馳求
(ちぐ)の心」、外へ求めて走りまわって得たいと欲(おも)う心を歇得(かつとく)せば、便(すなわ)ち祖仏と別(こと)ならず、祖神様なる仏さまと同じなんであると。

 「功徳の本源は自己の内にありと自覚する事が真の宗教であるのである。引用せる臨済録の 『馳求
(ちぐ)の心』 とは外に求める心であって、『外に求めていた心を歇(や)めてしまったら、汝は、便(すなわ)ち、今直(す)ぐ仏と同体だ。汝、仏が何処にあるかを知りたいと思うか。では教えてやろう。此の眼の前で仏法を聴いている其奴(そいつ)が仏その者じゃ』」 と、そういう意味がこれであると言って、説明が書いてあるわけなんであります。まことに素晴らしいことでしょう……≫


 と、熱弁をもって説かれているのである。

 生長の家の本尊は、外に求めるのではない、わが内にありと自覚すること。

 「實相礼拝」 とは、「自己礼拝」 なのである。


 しかし、現象界の日本の宗教団体は 「宗教法人法」 に則り所轄庁に届け出をする必要があり、生長の家各県教化部は

≪ この法人は、…生長の家の本尊たる「實相」(唯一の真理)を礼拝の対象として、教規で定められた礼拝及び神想観等の儀式行事を行い…≫ 
  (教規の「生長の家教化部規則」第三条)

 というのを所轄庁(都道府県庁)に提出して、宗教法人の認証を受けている。

 ここには 「實相」 が生長の家の本尊であり礼拝の対象であると書かれている。

 しかし、「實相」 礼拝は、偶像崇拝ではない。規則の 「實相」 の後には (唯一の真理) と記されている。真理は無形のものであって、偶像ではない。同じく 「實相」 の意味するものは時間・空間を超越した、目には見えないものであって、偶像ではないのである。聖経 『甘露の法雨』 に


≪ キリストは

  『神の国は汝らの内にあり』 と云い給えり。

  誠に誠にわれ汝らに告げん。

  『汝らの内』 とは汝ら 『人間の自性』 なり、『真の人間』 なり。

  『汝らの内』 即ち 『自性』 は神人なるが故に

  『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

  外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして

  永遠に神の国を得る事能わず。

  物質に神の国を追い求むる者は

  夢を追うて走る者にして

  永遠に神の国を建つる事能わず。≫



 と記されている、その 「神の国」 が 「實相」 なのである。

 それは 「外にはない、内にある」 と 『甘露の法雨』 にも書かれてあるのである。

 現象界での礼拝の対象物として 「實相」 の書を本尊として配置したとしても、実は内なる目に見えない本尊實相、内なる神を礼拝する。現象の御額を覆い隠したり傷つけたりしたとしても、それを認めなければ実相の實相は絶対に覆い隠されたり傷つくということはあり得ず、取り替えるということもできないのである。

 生長の家の本尊は永遠に不変不滅である。


  (2020.7.18)

570 [4.7本部通達]は、無効である。


 地上(現象界)の生長の家は、法治国家日本の中にあって、日本国憲法および宗教法人法をはじめとする諸法律に則って活動を行うことになる。

 生長の家の各都道府県教化部は、それぞれ個別の宗教法人であって、その所轄庁は都道府県知事である(宗教法人法第五条)。

 宗教法人生長の家が包括法人、各県教化部は被包括法人という関係で、包括法人生長の家の所轄庁は文部科学大臣である(同第五条の2)。

 宗教法人法第十八条に、

 
≪宗教法人には、三人以上の責任役員を置き、そのうち一人を代表役員とする≫

 とある。包括法人生長の家の代表役員は総裁であり、被包括法人(各県教化部)の代表役員は教化部長である。

 同じく第十八条の5に

 
≪ 代表役員及び責任役員は、常に法令、規則及び当該宗教法人を包括する宗教団体が当該宗教法人と協議して定めた規程がある場合にはその規程に従い、更にこれらの法令、規則又は規程に違反しない限り、宗教上の規約、規律、慣習及び伝統を十分に考慮して、当該宗教法人の業務及び事業の適切な運営をはかり、その保護管理する財産については、いやしくもこれを他の目的に使用し、又は濫用しないようにしなければならない。≫

 とある。


 さて、包括法人生長の家(生長の家教団本部)は、2020年4月7日付で被包括法人生長の家各県教化部に、次のような通達を出したという。

 
〈七重塔と“造化の三神”の祭祀等の参議会決定事項の周知について〉

 〈去る2020年1月22日の参議会において、七重塔の設置基準の改定をはじめ、教化部の主となる道場(拝殿)の實相額の前に、七重塔の縮小模型、並びに“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を設置して祭祀することなど、宗教上および運動についての重要な決定がなされました。〉


 という書き出しで始まるこの 「通達」 は、「参考資料」 等を含め、A4サイズで22頁にも及んでいるという。これを、略称 [4.7本部通達] と呼ぼう。

 この通達は、前項 #569 で触れた HN「護法の天使」 様のネット掲示板投稿文や 「宗教法人法」 をよく読むと、結論から言えば、法的に 「無効である」 ということになると、僕は思う。

 宗教法人法第二十三条に

≪ 宗教法人(宗教団体を包括する宗教法人を除く。)は、左に掲げる行為をしようとするときは、規則で定めるところによる外、その行為の少くとも一月前に、信者その他の利害関係人に対し、その行為の要旨を示してその旨を公告しなければならない。(中略)

一 不動産又は財産目録に掲げる宝物を処分し、又は担保に供すること。≫


 とある。宗教法人法において 「宝物
(ほうもつ)」 とは 「礼拝の対象である本尊または神体等」 を指し、 「処分」 とは、最高裁の判例等によれば民法よりも極めて範囲が広く、著しい現状変更など、事実上その価値を損ねる行為が含まれているという。

 全国の各教化部は、宗教法人法に基づき、所轄庁(都道府県知事)に対して宗教法人設立の認証を申請するに際しては、儀式行事を行う場合の 「礼拝の対象(本尊)」 が 「實相」 であることを宗教法人規則に次のとおり明記し、実際に谷口雅春先生御揮毫の 「實相」 の書を礼拝の対象として儀式行事を行っている写真を所轄庁に提出して、宗教法人の認証を受けている。

≪ この法人は、…生長の家の本尊たる「實相」(唯一の真理)を礼拝の対象として、教規で定められた礼拝及び神想観等の儀式行事を行い…≫ (生長の家教化部規則第三条)

 ――故に、「實相」 本尊は、宗教法人である生長の家教化部の 「宝物」 である。

 [4.7本部通達] は、生長の家教化部の宝物 「實相」 本尊の 「現状を著しく変更しその価値を損ねる行為」 を強いるものである。これは、宗教法人法第二十三条に違反する行為である。

 つづく宗教法人法第二十四条には、

 ≪ 宗教法人の境内建物若しくは境内地である不動産又は財産目録に掲げる宝物について、前条の規定に違反してした行為は、無効とする。≫

 とある。故に、同法第二十三条の規定に違反する 「宝物を処分」 する行為、即ち 「實相」 本尊に著しい現状変更をする行為は、法的に無効である。

          *

 宗教法人法第十八条の5は上に掲げたが、再録して6を加えると

≪ 5 代表役員及び責任役員は、常に法令、規則及び当該宗教法人を包括する宗教団体が当該宗教法人と協議して定めた規程がある場合にはその規程に従い、更にこれらの法令、規則又は規程に違反しない限り、宗教上の規約、規律、慣習及び伝統を十分に考慮して、当該宗教法人の業務及び事業の適切な運営をはかり、その保護管理する財産については、いやしくもこれを他の目的に使用し、又は濫用しないようにしなければならない。

6  代表役員及び責任役員の宗教法人の事務に関する権限は、当該役員の宗教上の機能に対するいかなる支配権その他の権限も含むものではない。≫


 とある。

 生長の家という宗教団体では 「生長の家教規」 という規程が定められており、これはその代表役員(総裁)及び責任役員が従うべき最高規範、最高規定である。国家における憲法にも当たるものであろう。時の総裁の恣意的な指示命令が最高規範ではない筈だ。

 以下、HN 「護法の天使」 様のネット掲示板投稿文による(要約)。

≪ 「生長の家教規」 第6条には、「本尊」 の規定ががある。すなわち

 <この宗教には社殿、仏殿等を設けず、あらゆる宗教の本尊の奥にある 「實相」 (唯一の真理)を礼拝の対象とするため 『實相』 の書を掲げるものとする。>

 と明記されている。

 教団通達が今後の礼拝の言葉として命令した 「…造化の三神と、…七重塔を通して、宇宙の大生命に礼拝いたします。」 は、この教規の明文に違反する。

 さらに、この通達では、「参議会」の決定により通達する旨が述べられているが、これも生長の家教規違反。「参議会」は、生長の家教規第17条第1項に基づき設置されている、総裁の諮問機関的な機関で、その権限は限定されている。

 生長の家教規第17条第1項第1号⑧では、次のように明記されている。

 「その他宗教法人法第18条第6項に規定する宗教上の機能 (この教規に基づき、教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成すること) に係る事項のうち被包括宗教団体に対して拘束力を有しないもの」

 と、「参議会」 の決定は被包括宗教団体(各教化部や道場)を拘束できないことが、生長の家教規に定められているのである。≫


 したがって、[4.7本部通達] は [生長の家教規] に違反しているから法的に無効、ということになろう。

 生長の家の憲法ともいうべき 「教規」 には

≪ 第6条 この宗教の本尊は生長の家の大神と仮に称するも、その教義にては生長の家とは 「大宇宙」 の別名なれば、大宇宙の本体者の応現又は化現とみとめられる。正しき宗教の救いの本尊たるものは如何なる名称の神仏もわが宗教の本尊として礼拝するのである。但しこの宗教には社殿、仏殿等を設けず、あらゆる宗教の本尊の奥にある 「實相」 の書を掲げるものとする。≫

 とあるのである。この 「教規」 は、今も健在である。生長の家は、死んでいない。

 [4.7本部通達] は無効であることを、穏やかに真心こめて教化部長などに申し上げ、本部通達は所轄庁である文部科学省の指導もあって速やかに撤回されることを信じ祈りつつ、みこころのまにまに行動しよう。


 『無門關』 第五則 「香厳上樹」 の公案において、無門和尚は、「これは一遍生まれかわって出て来なければ駄目だ。弥勒
(みろく)出生の時には一切の迷いが消えて浄土がこの世に出現するというから、そのとき弥勒に聞け」 と言い、 「頌(じゅ)」 に 「どこにも進退両難などないではないか。まったく馬鹿馬鹿しい」 と言う。

 谷口雅春先生曰く、《何故この公案がそんなにも馬鹿馬鹿しいものであるかというと、机上の閑空想の葛藤であるからである。葛藤本来なく、進退両難本来なしであるのに、わざとわが心で葛藤を作り、進退両難をつくっているからである。何処にも事実上進退両難はないのである》 と。

 「進退両難」 というのは空想であった。心の目を覚まして実相を観れば、大調和・自他一体の世界しかないのだった。そうだ! 「神の国は汝の内にあり」 だ!

         *

 谷口雅春先生御講義

 ⇒ 「人間は神の子」 って、どんなこと?
 谷口雅春先生が説かれる 「一即多(いちそくた)」 の真理


 の中で、先生は 「明日の人間関係」 という本を引用して、

≪ 怒声は愛の囁きよりも大きく、恐怖は理解よりも声をきしませてキイキイ言わせる。人生は沈黙しているよりは音を立てた方がさらに衝撃的であるとは言えないし、また平和であるよりは闘争が行われている方が面白いというものでもない。人は議論すると声が高くなり、行為が、怒声が転じて腹立ちまぎれの殴り合いに発展するかも知れない。だがこの二人が、腹の立つ議論の土壇場まで行き着いたとき、ふと気を変えて坐り込み、とっくりと話し合い、やがて一人が起ち上がり、しばらくの間あちらこちらと歩き回りやがて立ち止まって相手を見下ろしながら、『そうだ、君のいう事もわかるような気がする』と静かに言ったとしたら、そこでは先に述べた殴り合い以上の事が行われたのである。そこでは、より以上の人間の力が働いたのである。≫

 と言われている。また、

 ⇒ 「人間復興の原点」(YouTube動画)

 の御講話では、

≪ 「原点」 という言葉は最近流行(はや)っておりますけれども、本当に人間のいのちがどこから出てきたかというのは、そんな 「点」 じゃないんです。もっと広大な広がりがある世界です。「広がり」というと、何か空間的な寸法を考えたり距離を考えたりするけれども、それは現象界の広がりです。我々が生まれて来た生命の本もとの、その源というのはね、点ではないし、現象界で見るところの無限につながる空間でもないのである。それは何かというと、霊であるわけです。そこから出て来たんです。

 われわれの生命の生まれて来た源は、「實相」 なんです。實相。

 そこへ還ることが、人間復興だ。そこへ還らないで、現象世界の時間・空間の間
(あいだ)に出て来たいろいろの葛藤やら、争いやら、憎しみやら恨みやら、そんなものの中でウロチョロしておると、人間の実相――「原点」 を超えて奥へ入った龍宮の、無限に美しい世界、無限に豊かなる世界――その世界がわからないということになる。

 皆さんはね、人間の生命の実相がどんなに尊いものであるか、生命の生まれる源泉がどんなに厳かなものであるかということを、その栄光を見なければならない。

 「言
(ことば)は肉体となりて、我らのうちに宿り給えり」――コトバとは、アイディアです。聖なる最高の神様のアイディアが、皆さんの個性を作って、それを生み出されたわけなんです。それは、霊の世界から、現実の霊が発達するために必要な、生命の生活学校ともいうべき地球へ出て来て、そこで訓練するための制服――生命の生活学校の制服ですね、それがこの肉体なんです。肉体も神聖なんです。汚いものは一つもない。

 みんな神聖なる神の構図の中にあるものがここに出て来たんだというね、それを皆さん、知ることが必要です。そうしてその栄光を見る時に、自分自身をも拝めるし、すべての人間も、あの人は神の子である、霊的実在である、荘厳なる神の生命が宿っている、光明燦然と輝いているその命、拝まずにおれない――というように、拝めるようになる。

 そこに初めて、世界平和の根本源泉になる思想、または哲学が、そこにあるということになるわけであります。≫


 と、全心全霊をこめて熱っぽく説かれている。この教えを受けた生長の家信徒同士が、本当に谷口雅春先生のお志を継ぐ気なら、争いあっている時ではない。

 「一即多」 の 「一」 に還るべき時である。

 「宗教法人法」 の第三十二条に、

≪ 二以上の宗教法人は、合併して一の宗教法人となることができる。≫

 とあり、(合併の手続) はこうすればよいと、第三十三条以下にちゃんと書かれてありました。

 僕は、いつの日か、宗教法人生長の家(現生長の家教団)と、宗教法人生長の家谷口雅春先生を学ぶ会が、元の 「一」 に還り、合併する日が来ることを信じる。

 その種は既に谷口雅春先生が播いてくださっているのである。種が芽を出すときには、まず根を張るのである。僕はその根っことなりたい。

 『にんげんだもの』 の作品で広く知られる書家・詩人 相田みつを氏の作品に、

 
≪花を支える枝
   枝を支える幹
   幹を支える根
   根はみえねんだなあ≫


 というのがある。僕は、その 「根っこ」 になれれば本望である。

 あるいは一粒の麦が地に落ちて死に、やがて多くの実を結ぶようになれば、無上の光栄であり、ありがたいことである。感謝感謝で自我を死に切り、喜んでよろこんで生きたい、生かされて行きたいと思う。


  (2020.7.11)

569 生長の家は「一」であり、永遠である。


 宗教法人 生長の家 の憲法ともいうべき 「教規」 に

≪ 第6条 この宗教の本尊は生長の家の大神と仮に称するも、その教義にては生長の家とは 「大宇宙」 の別名なれば、大宇宙の本体者の応現又は化現とみとめられる。正しき宗教の救いの本尊たるものは如何なる名称の神仏もわが宗教の本尊として礼拝するのである。但しこの宗教には社殿、仏殿等を設けず、あらゆる宗教の本尊の奥にある 「實相」 の書を掲げるものとする。≫

 とある。

 その 「實相」 とは、本来、時間・空間という五官の認識の形式を超えた、時間・空間をも生み出した元の世界の理念である。「久遠の今」 なる大宇宙のコトバである。これは、時間・空間を超えているが故に、滅するということがない。それを 「永遠である」 と言ったのである。

 本項のタイトル 「生長の家は、永遠である」 というのも、地上(時間・空間の上に投影された現象界)の生長の家教団のことではない。

≪“久遠実相の生長の家”というのは宗教団体の生長の家ではなく、「みこころの天に成れる世界」であります。教団名としての 『生長の家』 は、その久遠実相の生長の家を説くために生れたのであります。

 “久遠”というのは“不滅”を意味し、“始めなき初め”から“終りなき終り”に至るまで常住している実在を表現することばであり、“不滅の精神的原型(理念)”として生長の家なるものが実在するのであります。≫


 と 『秘められたる神示』 の 176頁、「久遠天上理想国実現の神示」 のご講義の中に書かれている。

 その久遠の実在なる生長の家は、時空を超え生滅を超越しているから、「『一』 であり、永遠である」 と言ったのである。

 地上(現象界)の生長の家教団は、久遠実相の生長の家を説くために生まれたのである。それを説かなくなったら、「色はにほへど散りぬるを わが世たれぞ常ならむ」 で、分裂崩壊して死んだようになることもあり得る。しかし、大宇宙が存する限り、久遠実相の生長の家が滅びることはないのである。久遠実相の生長の家が不滅ならば、その投影としての現象界の生長の家教団も、一時光を失ったかの如く見えることがあっても必ず元の 「一」 に還り、復興再生して、その使命を果たすこと必定だ。――と、僕は信じている。


          ○


 さて、僕は前項 #568 で、

≪さながら 「香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)」 の公案を突きつけられている気持で、祈りつつ思索しつつ、この数週間を過ごしてきた。そのことは、次項で詳しく述べたいと思う。≫

 と書いていた。

 香厳上樹の公案とは、『無門關』 の第五則に書かれている、香厳
(きょうげん)和尚が提出した公案である。公案とは、禅宗で参禅者に言葉で与える課題。とらわれの世界から悟りの世界へ入らせることを目的とする、試験問題である。

 「香厳上樹の公案」 は――

 「口に樹の枝をくわえてぶら下がっている人がある。手は枝をさわってはならないし、脚で樹を踏んでもならない。その時に人が来て、達磨大師が西方の天竺から来たのは何のためか、返答せられたい。返事をしなければ問答に負けたのだからお前の首を貰い受けるぞ。返事をしようと口を開けば、樹から落ちるぞ。下は奈落の底で、身体は骨灰微塵
(こっぱみじん)となって命を失うぞ。さあどうじゃ答えて見い!」

 というのである。たとい懸河の弁をもっていても、答えれば千仞の谷底に落ちて死んでしまう。答えなければ、問答に負けたものとして首をとられてしまう。こういう進退両難の場面にぶっつかったらお前はどうするか。「さあ答えて見よ」 というのである。

 僕の置かれている状況が、なぜ香厳上樹に比せられると思ったのか。それは――

≪「無にして絶対」 なる 「天之御中主神」 を神札にして祀らせるなどは、宗教争いのもととなる偶像崇拝を強いるもの――生長の家倫理学からして最も重き罪であり、断じて許されないことである≫

 と僕は書いている。

 義を見て為さざるは勇なきなり。行動を伴わない信仰は、カラ念仏。と言われている。

 行動しないことは、「義」 の死である。

 では、如何なる行動をするか。

 生長の家総裁および教団を、教規に違反しているとして断罪し告訴する行動を起こすか。

 それは、「物質は実在に非ず。罪は実在にあらず」 「三界は唯心の所現である」 という生長の家の説く真理から外れているのではないか。

≪「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」 と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」 と 「生長の家倫理学」 は答えるのであります。≫

 と 『生命の實相』 倫理篇に書かれているけれども、その 「罪」 とは実在する積極的存在ではなく、実在の実相を包み隠す、非実在のものに過ぎないのである。物質はない。現象はナイ。完全円満なる実相のみ実在であって、「罪」 というのは 「無」 の別名なのである。

 にも拘わらず、あたかもそれが実在であるかの如く拘泥して、反対行動を起こすというのも、これまた 「偶像崇拝という罪」 を犯すことになるのではないか――。

 そうすると、行動しなければ 「義」 の死となり、行動すれば 「偶像崇拝という罪」 を冒すことになって、「罪の価は死なり」 だから、これは進退両難の局面ではないか。とも思われたのである。

 『無門關』 第五則において、無門和尚は、「これは一遍生まれかわって出て来なければ駄目だ。弥勒
(みろく)出生の時には一切の迷いが消えて浄土がこの世に出現するというから、そのとき弥勒に聞け。」 そして 「頌(じゅ)」 に曰く、「どこにも進退両難などないではないか。まったく馬鹿馬鹿しい」 と。

 谷口雅春先生曰く、《何故この公案がそんなにも馬鹿馬鹿しいものであるかというと、机上の閑空想の葛藤であるからである。葛藤本来なく、進退両難本来なしであるのに、わざとわが心で葛藤を作り、進退両難を為
(つく)っているからである。「口に樹枝を啣(ふく)み、手に枝を攀(よ)ぢず、脚に樹をふまず、樹下に人あって西来意を問わんに……」 というのが、何故に進退両難であるか。手が枝に触れなかったら、みずから能動的に手を動かして枝を握ればよいではないか。枝を握って口を離して、さてそれから祖師西来意に就いて応答すれば好い。何処にも事実上進退両難はないのである》 と。

   (以上は谷口雅春著 『無門關解釋』 より)

 これを一所懸命読んでいた僕は、ふっと、そうだ! とわかった。「進退両難」 というのは空想であった。心の目を覚まして実相を観れば、大調和・自他一体の世界しかないのだった。そうだ! 「神の国は汝の内にあり」 だ!

 そう思ってから何となく web掲示板などを見たら、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2985

 というのにヒットした。

≪ 谷口雅春先生ご揮毫の「實相」本尊を隠蔽し、別宗教の本尊ともいうべき「七重塔」などへの礼拝を強要する現教団通達が明白に宗教法人法に違反している3つの理由!! (12204)
日時:2020年06月17日 (水) 07時17分
名前:護法の天使

 千葉県、東京都など、全国各地で次々と決起されている信徒の皆様に心から敬意を表します。
 この大きなうねりは、全国に波及するのは必至と思います。
 私も県庁に電話してみよう! と決意された皆様のために、重要な情報をお知らせします。

 すなわち、谷口雅春先生ご揮毫の「實相」本尊を隠蔽し、別宗教の本尊ともいうべき「七重塔」などへの礼拝を強要する現教団の通達が明白に宗教法人法に違反している理由を説明しますので、県庁へのお問い合わせの際に、ご参考にしてください。

1.「認証を受けた宗教法人規則に従う義務」に違反している!

2.「信者に予め周知する義務」に違反している!

3.「宗教上の規約、規律、慣習及び伝統の尊重義務」に違反している!

 以上は、宗教法人法にそれぞれ明文の根拠規定がありますので、その詳しい内容等について、この後、稿を改めて順次ご説明いたします。 (以下略) ≫


 というのである。これは、よく調べて書かれていると思う。

 それから僕も自分で 「宗教法人法」 の全貌を確かめたくなり、その全文をダウンロードして、ざっと通読した。


 <つづく>


  (2020.7.10)

568 宇宙浄化の時は今。


 僕は今朝も、「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 をした。

 コロナは撲滅すべき敵ではなく、人間の魂が墜落するのを防いでくれる神の愛のメッセンジャーであり、人類の進化を助けてくれる味方だったと知った。だから新型コロナウイルスに感謝しつつ、わが魂が完全に浄化されて、アガシが予言するところの 「地上天国」、「神が凡ての神の子達のために計画し給うた生活」 が実現することを念じて祈ったのである。

  ⇒「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」


 その 「地上天国」 「神が凡ての神の子たちのために計画し給うた生活」 は、#560 で書いたように


≪ 一切の生物処を得て争うものなく、
   相食むものなく、
   病むものなく、
   苦しむものなく、
   乏しきものなし。≫



 という世界であり、


≪    入龍宮不可思議境涯の祈り

 ああ美しきかな、この朝よ。もろもろの花は地にあらわれ、もろもろの鳥のさえずる時すでに至れり。わが愛する者どもは目覚めて、神の御前に集まりて、神を讃美す。よろこびは悦びを呼び、愛は愛を呼ぶ。わが愛する者に幸いは集まり来たり。すこやかに子供は伸びて、楽しさにさんざめく。

 ああ幸いなるかなこの朝よ。家族たちの悦びの声は宇宙にこだまする音楽の如く、その声の底には極楽の響きを湛
(たた)うる泉あり。その泉より噴(ふ)き出ずる悦びの声は、龍宮の輝きを帯び、神の光に照されて、五彩七彩の虹を放つ。

 今、われら家族、極楽の園に遊び、龍宮海に入る。もろもろの宝は我らの掌
(たなぞこ)に満てり。黄玉(おうぎよく)、紅玉(こうぎよく)、青玉(せいぎよく)等その数を知らず。わが子供たちは、黄玉を連ねて頸輪(くびわ)となし、紅玉を結びて腕輪となし、青玉を点綴(てんてつ)して髪飾りとなす。衣裳には虹のごとき輝きあり、日光を受くるに従いて、その色を変化して美しきこと限りなし。ああわれらここ実相龍宮海の美しさをはじめて知る。

 ああ祝福されたるこの朝よ。われら言葉の力にて現世
(このよ)に龍宮城の美しさ、麗しさ、ゆたかさを引出し来れり。見よ、愛する者ここにあり、見よ彼らはわが肩に攀(よ)じ、膝に来り、わが前に立ち、後に倚(よ)る。その語る声は美しくして極楽鳥のごとし。後にある我が愛する者よ、汝の顔を見せよ。なんじの声を聴かせよ。なんじの声は竪琴の奏でらるるが如く、七絃琴の奏楽の如し。語るに随って、美しきもろもろの花咲き出でてその周囲を飾る。幸福なること限りなし。

 ああ悦びに満たされたるこの朝よ、わが愛する者は、すべて悦びに満たされ、神を讃う。神は讃うべきかな。われらの悦びの源、われらの幸いの泉。

 神の恵みきたるとき、一切の争いは止み、すべての戦いは停止し、いにし時の敵と味方とは、手を挙げて平和を喚
(よ)び交(かわ)し、兄弟の如く睦び合い、愛情の祝盃を交して、神の平和を称(ほ)め讃う。将兵たちみな剣(つるぎ)を収め、銃を棄てて、愛をもて娘たちが織りし美しき衣をまとう。すべての人々の頭(かしら)に “平和の冠” あり、黄金の七つの星をもてその冠を飾り、荘厳なること限りなし。

 ああこの朝、平和なるかな。山々に平和の雲漂い、朝日の昇るにしたがいて五彩にその色を変じ、われらの祝福の宴
(うたげ)に霞の幔幕をもて飾る。もろもろの花咲き出で、もろもろの鳥謳(うた)う。その声、神を讃え、われらを祝う。まことに実相浄土の厳浄(ごんじょう)を地上に実現したる朝なるかな。神に感謝し奉る。≫

  (聖経 『真理の吟唱』 より)

 という世界でなければならない。


 生長の家は、現在のコロナ禍を契機として、

≪2020年以後、地上天国があらわれる≫

 と予言されている、実相世界に既にあるところの天国を、地上に実現する鍵を握っているのである。すでにその種は播かれてあった。


 その生長の家が、分裂して排除し合っていては駄目である。「一」 なる元に還り、上記

≪……すべての戦いは停止し、いにし時の敵と味方とは、手を挙げて平和を喚(よ)び交(かわ)し、兄弟の如く睦び合い、愛情の祝盃を交して、神の平和を称(ほ)め讃う。……≫


 を実現しなければならない。それは、「久遠の今」 においてすでに実現しているのである。

 その 「今」 に還るのが 「宇宙浄化」 である。

 その時は、 「今」 である。「久遠の今」 である、と思う。


          ○


 ところで、僕は #561 で、

≪「天之御中主神」とは、「久遠の今」、無にして絶対なる神。 偶像崇拝は最も重い罪である≫

 と題し、ある方の質問メール

≪ 造化三神、ことには天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は根源神、第一義の神であられ、お宮に勧請してご鎮座されるご存在ではない、というのがみ教えではないでしょうか。

 したがいまして、彼らは、お宮に勧請されていない、祀られていない神様を祀られている、祀っていると勝手に思い込んでいる、信じている、言っているにすぎないと思います。

 「あらざるものをありと想像する」 ことは無明
(まよい)であります。…(後略)…≫

 に対して、「その通りだと思います」 とお答えしている。⇒#561

 これは、

 「教化部の主となる道場(拝殿)の實相額の前に、七重塔の縮小模型、並びに“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を設置して祭祀すること」

 という本部からの通達が全国の各教化部に出され、「七重塔の縮小模型および“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社」 が送付された、という情報をふまえてのやりとりであった。

 『生命の實相』 第13巻 「倫理篇 上」 82~83頁に、

≪ すべての争いの第一の萌芽は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるのであります。すなわち

 「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」 と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」 と 「生長の家倫理学」 は答えるのであります。≫


 とあることを挙げて、

≪「無にして絶対」 なる 「天之御中主神」 を神札にして祀らせるなどは、宗教争いのもととなる偶像崇拝を強いるもの――生長の家倫理学からして最も重き罪であり、断じて許されないことである≫

 と僕は書いている。


          ○


 上記の本部の動きは、教団の憲法ともいうべき 「生長の家教規」 の

≪ 第6条 この宗教の本尊は生長の家の大神と仮に称するも、その教義にては生長の家とは 「大宇宙」 の別名なれば、大宇宙の本体者の応現又は化現とみとめられる。正しき宗教の救いの本尊たるものは如何なる名称の神仏もわが宗教の本尊として礼拝するのである。但しこの宗教には社殿、仏殿等を設けず、あらゆる宗教の本尊の奥にある 「實相」 の書を掲げるものとする。≫

 に抵触するのではないか。本尊を変えるような重大なことを、代表者が責任役員会などに諮ることもなく突然に変えてもよいものでしょうかと、都庁の宗教法人担当部署や文化庁に問合せ訴える動きがあると知る。

 それで、東京第一教化部や本部にも、それぞれ所轄庁から問合せや実地調査があるのは時間の問題のようだという。

 それは、ありがたいことだ。と思う。


 このような時、今、岡正章はどう考え、どう行動するか。


 僕は、さながら 「香厳上樹
(きょうげんじょうじゅ)」 の公案を突きつけられている気持で、祈りつつ思索しつつ、この数週間を過ごしてきた。そのことは、次項で詳しく述べたいと思う。


 そうした中で、教団本部では

≪ 2020年7月7日(火)に 「万教包容の御祭」 をインターネットにてライブ配信(一般公開)する予定でしたが、6月26日に山梨県内で新型コロナウイルスの新規感染者が発生したことを受け、同ライブ配信を中止することを決定いたしました≫

 という発表があった。それは、もしかしたら宗教法人所轄庁からの働きかけがあって、その影響もあるのかも知れない、と思う。


 <つづく>


  (2020.7.7)

567 今こそ、新時代の夜明けの時。


 「コロナとの戦い」 は、これからまだ数年にわたるだろうとも言われている。

 しかし、

≪ まもなく世界全体が、新しく生まれ変わる。

 まったく近いうちに、地上のすべての政治、経済体制は、ガラリと一新される。技術も、社会も、今とは比較にならないほど進歩する。理解がみなぎり、一体となった世界社会が実現する。

 最も変るのは教育である。その理論も実際も、根底から改革される。それは、人間観に一大変革が起こるからである。

 人間とは何か?

 現在では、環境にもみくだかれ、生活にこづき回され、機械や社会体制の部品となって、いつ廃物とされるかわからない、情けない、無力で不安定な存在にすぎない。人間とは本来、そういうものではなく、宇宙的にかかわりあっている、巨大な存在なのだ――と、アガシャは教える。

 それを自覚せねばならぬ時がまもなく訪れてくる。激しいショックを受け、大きな試練をのりこえて、いやでも人間は、本当の自分自身に目ざめ、偉大な自覚を抱くようになる。それがつまり地上の浄化だ。

 この上もなく平和な、輝かしい時代は、人類をゆり動かす大きなショックとともにやってくる。≫


≪2020年より後には 「地上天国があらわれ……神が凡ての神の子達のために計画し給うた生活」 が訪れるであろう。≫

 とアガシャの予言する新時代が今、訪れようとしている。われわれは、それを実現させねばならぬ。

 その地上天国の種は、既に播かれていた。

 それが、#564 でリンクした、谷口雅春先生御講義 YouTube 動画

 ⇒ 「人間は神の子」 って、どんなこと?
 谷口雅春先生が説かれる 「一即多(いちそくた)」 の真理


 および同じく #565 でリンクした

 ⇒ 「人間復興の原点」

 に、現れていると、僕は思う。谷口雅春先生が80歳台でも若々しく力強く、渾身の生命をかけ情熱を傾けて語りかけられる響きは、神韻縹渺
(しんいんひょうびょう)として私たちの魂に深く訴えられるものがある。と僕は思いますが、いかがでしょうか。

 そして、新型コロナウイルスは撲滅すべき敵ではない。サムシング・グレートすなわち神からの愛のメッセンジャーであって、人類の魂を墜落から防ぎ、進化を助けてくれる味方であった。それは、谷口雅春先生が 『神 真理を告げ給う』 で教えて下さっているだけではない。生命科学研究者の村上和雄氏なども、それと全く符節を合するようなことを、専門家の立場から詳しく言われている。それを、前項 #566 でご紹介した。

 前に #557 「ウイルスは人類の味方である。撲滅できない」 でご紹介した福岡伸一教授の説もあった。

 われわれは、天地一切のものと和解し、天地一切のものに感謝して、「今」 を生きる。コロナウイルスにも感謝して、その愛のメッセージは何であるかを考え、実践しよう。

 僕は短歌の道に入門して四年目。今年詠んだ歌をふりかえってみると、次のような歌を詠んでいた。

          ○

      光

  <令和二年三月>

 「福は内、鬼はなし」 とぞ宣り唱ふ言霊の力信ずるわれは

 「鬼は外」 と好まぬ者を排除して分断の世を作
(な)すはよからず

 「福は内、鬼も内」 とて生かし合ふ和みの世こそあらまほしけれ

 われ往かむ光の道をひとすぢに闇は消えなむ光さすところ

 新型肺炎ウイルスもわが敵にあらず光の前に闇はなきなり

  <令和二年四月>

 季節
(とき)は春うららかに空ひろがれど人の心は恐怖に震ふ

 目に見えぬウイルスの猛威にひとびとは恐れをののき街しづかなり

 ウイルスに戦
(をのの)きイベント・スポーツもみな凍りつく白銀世界

 株暴落世界の流通遮断され経済界も凍りつきたり

 われ祈るただひたすらに神の世の光満ちたる極楽世界

  <令和二年五月>

 幾日ぶりかわが家の外に出でみれば桜は八重に衣替へせり

 桜散り久留米つつじは鮮やかにいのち耀
(かがや)き咲き誇りたり

 みづみづし緑の中に鮮やかに黄にかがやくは山吹の花

 自然界の生きものたちはコロナ禍も関はりなくていのち萌えたり

 ウイルスに恐れ縮むは人間のみ大自然はいま命燃えさかる

 天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時は今なるぞ心は常に出発(たびだち)の時

 天地の初発の時にウイルスはあらはるるなし元に還れよ

 吾が内にすべてはありて調へり今ぞ新たな出発の時

 コロナウイルス敵にはあらず味方なりヒト遺伝子の進化たすくる

 コロナ避け家に居べしと人言へど感謝と希望にゐるこそよけれ

 コロナ禍にしづまりて今かへりみる佳き出遭ひ多きわが生
(よ)の幸を

  <令和二年六月>

 抜けるごと澄みわたりたる空のありコロナウイルスの贈り物かも

 ひさびさに善福寺池訪ひたれば緑まぶしく陽はかがやけり

 なつかしき我が愛
(いと)しの樹変りなく亭々と立ち梢は眩し

 樹の肌に手を当て耳を当てみれば樹の声かすかに聞こゆるごとし

 陽の光さざ波に照り揺れ反射
(かへ)し水面(みのも)に垂るる木の葉に写る

 水はいのち空気もいのち風薫るすべてはいのちかがやきて生く


 <つづく>


  (2020.6.23)

566 コロナ禍は「サムシング・グレート」からのメッセージ?


 すべてのものには存在の原因、存在の意味がある。「偶然」 というものはない。物質には物質の法則があり、生命体には生命体の法則がある。

 生命体はすべて根本的に同じ設計でできている。ということは、設計者が同一であるということだ。しかしながら、完全に同じものは一つもない。木の葉一つをとってみても、根本構図は同じでありながら、全く同一なものはひとつもなく、常に新たなものが作り出されている。

 まさに 「一即多」 「多即一」 の世界であり、「一」 は 「多(他)」 のために奉仕することによって「他(多)」から生かされる。そうして 「一切の生物処を得て争うものなく相食むものなく病む者なく苦しむ者なく乏しきものなし」 の世界が本来の世界なのである。

 ウイルスというのは生物と無生物の中間の生命体であり、本来生物の進化を助けてきた利他的存在なのである。

 遺伝子工学の第一人者、筑波大学名誉教授の村上和雄氏は、月刊誌 『致知』 の2020年7月号に、「新型コロナウイルスの出現は、サムシング・グレートからのメッセージ」 と題して、次のように書いていらっしゃる(抜粋要約)。谷口雅春先生の説かれた真理を、生命科学研究者として実証されていると思える。


          *


≪   人間業でない 遺伝子の働き


 ヒトゲノムの遺伝子暗号の全解読は、20世紀の末にほぼ完了しました。40年以上、私は遺伝子研究の現場にいます。私は解読された遺伝子暗号を眺めながら、この膨大な情報が極微の空間にどのようにして書き込まれたのであろうか、という不思議な感慨にとらわれていたのです。
(ゲノムとはDNAのすべての遺伝情報)

 遺伝子は世代を超えて情報を伝えるだけでなく、いますべての細胞の中で一刻の休みもなく見事に働いています。この働きは私どもの意思や力だけでは到底不可能であり人間業ではありません。この偉大な働きを私は 「サムシング・グレート」 と呼んでいます。私が神や仏と呼ばずに 「サムシング・グレート」 と呼ぶのは、神や仏もあるものかと思っている人々でも、神業としか言えない 「サムシング・グレート」 の働きによって生かされているからです。

 生きているということは、普通考えているよりも遥かに驚異的なことです。例えば、私ども科学の分野では大腸菌が大活躍しています。大腸菌のおかげでノーベル賞学者が何人出たか分かりません。これを使って何百人もの博士が生まれたのです。

 しかし、世界の学者の全知識を結集しても、世界の富を集めて研究しても大腸菌一つ元からつくることはできません。コピーならいくらでも可能です。現代の科学ではヒトのインシュリンを大腸菌でつくることは可能ですが、元の材料からはつくれないのです。なぜつくれないのでしょうか。それは大腸菌が生きている基本的な仕組みについて、現代の生命科学はまだ手も足も出ないからです。

 最新科学から見て、たとえ細胞一個でも 「生きている」 ということはすごいことです。ましてや人間が生きていることは、ただごとではないといえます。というのは、一個でもすごいその細胞が何十兆も集まって私たちの身体ができているからです。

 一つひとつの細胞にはすべて命があります。この集合体が毎日喧嘩もせずに見事に生きているというのは奇跡的なことだと言えます。それに比べ人間は地球上に77億人くらいしかいないのに、有史以来いつもどこかで戦争をしています。たとえ戦争をしなくても、喧嘩をしたりいじめ合ったりしているのです。なぜ細胞はその数千倍もの数が集まっているのに、争いもせず見事に働いているのか。細胞は自分自身を生かしながら臓器のために働き、臓器は個体のために働いています。見事に助け合っているのです。

 このようなことがデタラメにできるわけがありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったい誰がどのようにして書いたのでしょうか。人間業を遥かに超えていて、まさに奇跡と言わざるを得ません。この大自然の偉大な力 「サムシング・グレート」 によって私たちは生かされているのです。

 さらに驚くべきことは、遺伝子の構造と原理はすべての生物に共通しているということです。現在地球上には2千万種以上の生物がいるといわれていますが、カビなどの微生物から人間まで生きとし生けるものは、すべて同じ原理で生きています。ということは、あらゆる生物が同じ起源を持つことを示していると考えられます。興味深いことには、原理は同じなのに同じ種の中でもその組み合わせによって二つと同じものがありません。

 多くの生き物をはじめ、太陽のエネルギー、水、空気、地球などのおかげで私たちは生かされています。自分の力だけで生きている人など誰一人いないのです。科学技術に偏り、弱肉強食、優勝劣敗の考え方だけではやがて滅びるに違いありません。これからの時代は、いのちの親である 「サムシング・グレート」 に感謝して生きるという考えが世界中で必要になってくるでしょう。


    新型ウイルスとヒトの免疫機能


 なぜ大流行が起こるのでしょうか。端的に言えば、世界中の人間が新型ウイルスに対する 「抗体」 を持っていないからです。つまり、外部から侵入するウイルスへの備えがないために、体内の防御機能がうまく働かないのです。

 人間の身体には、外から侵入してきた細菌やウイルス(抗原)に対して抗体と呼ばれる物質をつくり出し、それを血液中に分泌して防御する働きがあります。抗体は外部からの侵入者が身体の中で勝手に振る舞わないよう、捕らえて排除する役目を担っています。

 自然界には抗原となる物質(タンパク質、多糖類、核酸などの高分子物質等)が数多く存在しており、その種類は百万、あるいはそれ以上といわれています。驚くべきことに、私たちの身体はすべての侵入者(抗原)を見極め、それに見合った抗体を産生する能力を持っているのです。

 ヒトの遺伝子は全部で約2万個あります。これで百万種類もの抗原となる物質に応じて抗体をつくるには、どう見積もっても抗体の設計図となる遺伝子の数が足りません。ところが、ヒトの身体はどんな抗原にも適合する抗体をつくり出すことができるのです。これは免疫系の大きな謎の一つでした。

 この謎を解いたのは、ノーベル賞を受けた利根川進博士らです。ヒトの体内では抗体をつくる遺伝情報が部品ごとに備えられており、未知の菌やウイルスが侵入してくると、その抗原に適合する部品を素早く組み立てることで、約2千万種類もの抗体をつくる能力を有していることを発見したのです。

 実に用意周到な防御システムであり、そのおかげで私たち人間はいかなる菌やウイルスが侵入しても生きていけるのです。まさに神業としか言いようがありません。


   人類はウイルスと共生し進化してきた


 感染症の原因が細菌であるということを発見できたのは僅か150年ほど前のことです。近代細菌学の父ロベルト・コッホの炭疽菌、コレラ菌、結核菌などの発見が発端でした。当時消毒法の一環として細菌を取り除く濾過器を使用していましたが、約100年前、そのフィルターを通過する濾過性病原体としてウイルスは発見されました。

 その後、ウイルスは結晶化することから生物学的化合物とされ、今日では生物と無生物の境界領域に存在するものと考えられています。ウイルスは単独では自己複製できませんが、生きている細胞の中では複製できます。

 ウイルスというと、インフルエンザウイルスやエボラウイルス等、病原体のイメージが強いのですが、ウイルスの中には宿主(ウイルスが寄生する相手の生物)に寄生し共生しているものも存在し、宿主を死亡させてしまうと自らも死滅してしまいます。したがって、宿主となるべく平和共存することがウイルスの存続に必要です。

 1993年に提唱されたエマージングウイルス(新たに出現して社会的に大きな影響を与える感染症を引き起こすウイルス。地球規模での監視が必要)の多くは、この種のものです。それがたまたま、ヒトに感染するとキラーウイルスに変身するのです。このように、ウイルスが本来の宿主から別の動物に感染すると、致死的感染を起こすことは珍しくありません。

 私たちのゲノムの中にはウイルスやその関連因子に由来する配列が多数存在しており、それらを利用して、私たちはヒトへと進化したことが分かってきました。

 2000年、科学雑誌 『ネイチャー』 に驚くべき研究が掲載されました。胎盤形成に必須なシンシチンというタンパクが、ヒトのゲノムに潜むウイルスの遺伝子に由来することが発表されたのです。胎盤の形成やその機能の発現にはこの内在性ウイルス遺伝子の発現が必須であり、その機能の一つが母体の免疫による攻撃から胎盤内の胎児を保護する免疫抑制機能なのです。

 哺乳類はこのウイルスの遺伝子を自身のゲノムに取り込むことにより、子孫を母親の胎内で育てることが可能になったのです。つまり、私たちのゲノムが進化のために突然変異したのではなく、ウイルスと共生することで進化したと考えられるのです。

 その中にはヒトの脳の神経細胞の形成に必要なゲノムや、遺伝子のオン・オフに必要なゲノムもあります。ヒトのゲノムの中の1.5%程度が遺伝子であり、その他の非コード領域の45%ほどがウイルス由来のゲノムだというのは驚きではありませんか。

 つまり、私たちはゲノムの中にウイルスを取り込んで共存することにより、現在のヒトとして進化したと言えるのです。生物進化の過程でミトコンドリアや葉緑体が細胞内で共生を始めたように、複数の生物が 「合体」 する現象が見られることも分かっています。

 そして、これらのことを地球レベルで考えると、全く別々の存在であったヒトの祖先と、ミトコンドリアやウイルスが出会った時、生き残る戦略として共生する道を選んだと言えないでしょうか。


   新型コロナウイルスの “戦略”


 新型コロナウイルスは同じコロナウイルスのSARSやMERSと違い、感染した100%の人間が発症するのではなく、感染しているけれど発症しないヒトが存在し、より多くのヒトに感染を広げる戦略をとっている厄介な賢いウイルスです。ウイルスが100%宿主を死亡させてしまうような戦略をとれば、自らも存続できないのですから。

 厄介なのはそれだけではありません。新型コロナウイルスはRNAウイルスで、DNAウイルスよりはるかに分裂が速く、安定性が弱く変異も起こしやすいのです。つまり、新たな宿主に感染するたびに変異する可能性が高いといえます。

 現在、武漢で発症したウイルスとヨーロッパで発症しているウイルスはゲノムの変異が起こっていることが証明されています。

 より多くのヒトに感染が起これば起こるほど変異は増えます。その変異が弱毒化の方向か、強毒化の方向なのか、ウイルスの戦略は不明のままです。

 一方、このウイルスは肺の肺胞細胞に感染します。肺は呼吸という生命活動には欠かせない臓器です。肺胞細胞はタバコや環境汚染物質によってもじわじわと壊されてしまいます。死んだ肺胞は復活しません。私たちは自らこの肺に負担をかけるべく地球や身体を汚してきてはいないでしょうか。

 感染症対策として、私たち人類は盾(ワクチン)と矛(抗生剤・抗ウイルス剤)で闘ってきました。もちろん重症化しやすいご高齢者や基礎疾患がある方にはワクチンが必要ですし、重症化した患者には抗ウイルス剤が必要です。

 しかし、考えてみませんか。私たち人間がこの地球で存続するために、地球環境を綺麗にすることで肺を守ること(肺胞細胞が生きやすくなること)、免疫力を強化し、自ら治癒できる可能性を広げることを。もしかしたら、生物学的にもこの新型コロナウイルスと人類は新たな進化のステージを迎えているのかもしれません。


   利他主義がもたらす人類の進化


 こうした世界的危機に、いったいどのようなサムシング・グレートの思し召しがあるのか私には分かりません。ただ、私なりに思うことはあります。それは未知の感染症の伝播という万が一の事態は、国や民族を超えた人類全体の “大節” であり、地球規模の協力体制が整わなければ対応できないということです。

 第一に国際的な協力体制を構築することです。情報の収集と分析、その成果を各国へ提供することはもちろん、医療資源を必要なところに届けること、ワクチン生産設備の整備、抗ウイルス薬の開発と流通ルートの確保などです。これを実現するには、グローバルな連携が不可欠となります。

 だから、地球規模で互いに助け合うことこそ、サムシング・グレートが人類に促していることかもしれません。 20世紀最大の知識人といわれ現在も活躍する仏経済学者のジャック・アタリ氏は今回の危機を受け、改めて利他主義への転換を広く呼び掛けています。

 彼は 「深刻な危機に直面したいまこそ 『他者のために生きる』 という人間の本質に立ち返らねばならない。協力は競争よりも価値があり、人類は一つであることを理解すべきだ。利他主義という理想への転換こそが人類サバイバルのカギである」 といいます。そして、この危機は新しい世界がつくられていく変革のチャンスであるというのです。まことに私もそのように感じています。

 「ピンチはチャンスだ」 と何十年も言い続けてきましたが、人類が進化するためにこのピンチは最大のチャンスであると思います。それは何よりも一人ひとりの意識を変えることによって可能になると強く信じています。

 かつてアタリ氏はその著書の中で、混乱した世の中に 「トランスヒューマン」 というべき人類全体のことを考えられる超エリートが出てくることを期待していました。しかし、いま私は一人のスーパーマンが出てきて世界を救ってくれることに期待していません。そうではなくて、人類一人ひとりの意識が変わり、それが大きなうねりのようになった時に、世界が変わるのではないかと思うのです。

 では、私たちの意識をどのように変えればいいのでしょうか。アタリ氏は、共感や利他主義が人類を救うカギになると言います。

 「利他主義は合理的利己主義にほかなりません。自らが感染の脅威にさらされないためには他人の感染を確実に防ぐ必要があります。利他的であることは、ひいては自分の利益となるのです。また、他の国々が感染していないことも自国の利益になります」

 と述べています。

 アタリ氏は、「利他主義とは最も合理的で自己中心的な行動である」というのです。かつてダライ・ラマ法王も、「他の人を思いやるということが自分の幸せをももたらすと理解して自分のことをケアしていくというのが、賢い者の利己主義」 だと言いました。

 現在は各国政府が自国への対応に手いっぱいの感があります。しかし、国家やイデオロギーを超えてすべての国が協力し合うことができれば、必ずこの危機を乗り越えられるのは間違いないのです。そして私は、人類は必ず互いに助け合う道を選ぶと信じています。

 だが、人類が新型コロナウイルス禍を何とか克服したとしても、いままでの私たちのあり方を180度変えない限りこれで終わりということにはならない、と思えるのです。再び未知なる脅威が人類にメッセージを届けてくるでしょう。

 いま私たちにできることは、まずは自分自身の免疫力を上げることです。そのためにも心配や恐怖という感情に支配されてしまわないことが大切です。ネガティブな感情は私たちの免疫力を著しく損ないます。これは科学的な証拠があります。そして周りの人々と励まし合い一番困っている人たちを支援することです。

 情けは人のためならず、という言葉があります。人を助けて我が身助かる、という意味です。この世の生きとし生けるものは、命の連鎖という守護のもとに生かされています。そのひと繋がりの輪の中に人間もいるのです。いま人類はかつてない変革の時にあるといえます。この時代に命を得て生かされている私たちは幸いであることを忘れないようにしたいと思うのです。≫



          *


 ――以上は 『致知』 誌7月号に書かれた村上和雄氏の寄稿文からの抜粋でした。

 上記論文に出て来たジャック・アタリ氏の発言は、6月11日付日本経済新聞にも“グローバル・オピニオン”として掲載されていました。「生き残りを望むなら、利己主義ではなく、利他主義が自身の利益になることを意識すべきだろう。現在と未来の人々を含めた、生きとし生けるものへの利他主義を実践すれば、人類は感動に満ちた冒険を堪能できるはずだ」 と。

 また、時を同じくして 『文藝春秋』 7月号には、脚本家の倉本聰氏が、ユニークな一文を寄稿されている(以下、抜粋)。


          *


≪   コロナ大戦・考    倉本 聰


 これは明らかに戦争である。
 ならば戦争の仕方を学ばねばならぬ。
 敵は新型コロナウイルス。
 予告も布告もなくいきなり襲ってきた。

 何が原因で戦争を仕掛けたのか 恐らく彼らの云い分があるのだろうが その云い分がさっぱり判らない。

 こっちには全く向うが見えない。科学者が顕微鏡で敵の姿を捕え、あれが敵だと思い込んでいるが、もしかしたらあれは人類を欺くあくまで仮りの姿であって実体は別にあるのかもしれない。

 ともかく彼らの戦法を見ていると人の英知をはるかに超えたしたたかな生物であるような気がする。

 群を成す生物にはミツバチを見てもオオカミを見てもどこかに群の頭がいる筈で、抜きん出た頭脳を持つこの頭の下で頭の指揮のもとに一糸乱れぬ軍事行動をとっているのではないか。

 だとすればその頭――敬意を表して 「総統」 と呼ぼう。その総統の所在を探り出し、しっかりその相手と腹を割って話す――。


   「孫子の兵法」を読み返す


 さて、これが明らかな戦争であるとするなら、戦争の仕方を考え起こさねばならぬ。
 百八十度思考を転換して人類を攻めるなら、今どうすべきか。総統の立場に一度身を置いてその戦略を考えてみよう。

 「孫子の兵法」 という古典的戦法をどうも総統は読んでいる気がする。そこで 「孫子の兵法」 に記されているいくつかの名言を読み返してみよう。

『百戦百勝は善の善なるものに非ず』
 孫子の兵法第三章“謀攻篇”に出てくる一節。
 百回戦って百回勝つのが最善ではない。戦わずして勝つのが最善であるの意。
 今正に人類は戦わずして敗けかけている。

『彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず』
 敵の実情を知り、己の実情を知っていれば百回戦っても敗れることがない。
 総統はヒトを知りつくしている。なのにこっちには敵がよく見えない。敵のことが判らない。余りにも知らない。


   自分を見失った人類


 経済社会と一口に云う。

 だが今我々がひたっているのは、果たして真の経済社会なのだろうか。

 広辞苑をひもとくと、経済とは経国済民。国を治め人民を救うこと、とあり、人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれを通じて形成される人と人との社会関係の総体。転じて、金銭のやりくり。とある。サービス、遊興も無論その一つだろう。

 しかし今回最も直接的被害を受けた、居酒屋、飲食店、接客業、カラオケ、そしてパチンコ屋。休業や営業時間の短縮などの要請を受けたこれらの商売の数の多さを見て、更めて僕は愕然とした。僕自身東京に行った折にはそういう店にしばしば世話になる。ただし、パチンコ屋とカラオケには行かない。別にさしたる哲学があるわけではなく、趣味ではないから行かない。それだけである。

 しかしそれにしても、近くのパチンコ屋が休業したからといって、他県にまで出かけてもどうしてもやるというその執念に僕は一驚する。これはもう立派な中毒患者である。古い言葉でいうのなら遊興の民である。毎晩ネオンの下に出て酒にひたるのも遊興の徒である。そういう人間が当り前のように増えて、エネルギーを使って不夜城をつくり、それもまた立派に今の日本の経済社会を廻しているというなら、これは明らかにやり過ぎではないか。

 戦後七十五年。あの敗戦の瓦礫の中から立上った我々が目指したものは、果して今のこの豊饒だったのだろうか。

 際限ない欲望の潮流に流され、ブレーキもバックギアもついていないスーパーカーに乗って、ゴールを切ったら次のゴール、それを切ったら又次のゴール。ゴールのないマラソンを走りつづけて、経済社会はどこへ行くのだろう。

 そう思うと今回のコロナ騒ぎは、自分を見失った我々人類への、サムシンググレートの怒りである気がしてくる。

 神はコロナの総統に命じて我々に鉄槌を下されたのではないのか。

 このコロナ戦争の収束したとき、我々はどのように変るのだろう。

 自粛のあの日々をふり返って、少しは何かを考えるのだろうか。それとも停滞した経済をとり戻そうと、前にも増して又ガムシャラに進むのだろうか。恐らくためらいもなく後者の道を選ぶにちがいない。そのことを考えると暗澹たる気持になる。


   抜けるような本物の空の蒼


 連休の初め。
 僕はフラッと富良野に拡がる東大演習林の原生林に入った。この時期演習林のカツラの谷にエゾエンゴサクが咲き乱れるからである。

 数日前から訪れた寒気で、エンゴサクはチラホラとしか咲いていなかった。ただ、それ以上の空の蒼を見た。

 全く、何年ぶり、何十年ぶりに再会したような、抜けるような本物の空の蒼だった。僕は呆けたようにその空の蒼を見て立ちつくした。

 経済活動の止った空は、久方ぶりのなつかしい空の色だった。≫



          *


 谷口雅春先生は、#550 で引用させて頂いたように、その著 『神 真理を告げ給う』 の中で、神の言葉として次のように記されている(“わたし” とあるのは、神である)。


 どんな微生物でも “わたし” が生かしているのである。あなたが病菌であるといっておそれている微生物も、本来 “病菌” ではない。それは “わたし” が生かしているのである。その病菌と見えている者が、実は、あなた達の間違った “心の思い” や “生き方” を警告して、それを是正させるために “わたし” が姿を病菌の如くあらわしていることがあるのである。

 “わたし” は、どんな消毒薬よりも強いのである。“わたし” はその人間の魂に警告を与えて、正しい生き方に還らせようとして病菌としてあらわれている場合には、その目的を達しない限り、どんな薬剤を与えても、その病菌は消えるものではない。しかしその目的を達して人間たちの心が正しくなったとき、わたしはその微生物を現象界から “生命の素材の世界” へ引き戻す。その時、あなた達の病気は癒えるのである。


 けれども、それを神が人間に罰を与えているのだと考えてはならないのである。“わたし” は愛であるから “罰” を与えたりはしない。“わたし” は人間の魂が墜落しようとするのを、ある方法で引き留めようとしているに過ぎない。
病菌と見える者は、“わたし” が墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるためのメッセンジャーに過ぎないのだ。

 それは神の罰でも神の鞭でもない。それは神の救けの綱であり、墜落を防いでやるためのガードレールのようなものである。≫



  (2020.6.19)

565 生き甲斐はどこから来るか。
すべての人間は「神聖受胎」せる者である



 谷口雅春先生御講義 「神の子とは」 シリーズ第2弾

 「人間復興の原点」 (昭和53年5月3日、生長の家青年会全国大会での御講話)

 素晴らしい感動的な御講話です。お時間のあるとき、じっくりご視聴ください。


《↓ 6月4日補訂版です(3日にアップしたのは一部抜け落ちがありました)。

 約42分になりました》


 ⇒ 「人間復興の原点」(YouTube動画)


  (2020.6.3)

564 「人間は神の子」って、どんなこと?


 『智慧の言葉』 (『生命の實相』 第22巻 「聖語篇」) に、

≪○ 真理への道はただ一つ――人間は神の子だ――ということである。≫

 とある。

 「神の子」 は神の個性的表現口、神のいのちの噴出口であり、神そのものである。

 聖経 『甘露の法雨』 「神」 の項に、

≪聖

  至上

  無限≫


 と記されている、「至上」 なるものである。

 断じて、「地球のガン」 などではない。

 そのことを谷口雅春先生が、青年向けに具体的にわかりやすく説かれている、『一即多の真理』 と題する御講義テープがある。今から70年近く前の1950年代、昭和30年(1955)ごろの御講義だと思われる。

 これは、たいへんわかりやすく説かれた貴重な御講義だと思われるので、僕はテープ起こしして、御講義の音声に文字映像を載せ、「久遠の今」 の御講義の一部なども入れて編集した約42分の動画作品を、ユーチューブにアップロード、公開させていただいた。

 ここには、「コロナ後」 の新時代の新しい文明の基礎ともなるであろう根本真理が、わかりやすく説かれていると思う。そして、これを多くの人が100回でも200回でも繰り返し拝聴することによって人間観の革命が進めば、現在分裂状態になって互いに批難し排除し合っている教団と 「生長の家谷口雅春先生を学ぶ会」 なども、やがておのずから拝み合い、手を結んで協力し合う状態が生まれてくるのではないかと、僕は信ずる。

 まずは、以下の谷口雅春先生御講義をご視聴いただきたい。

 (約43分ありますから、お時間のあるとき、じっくりとご覧ください。)

 ⇒ 「人間は神の子」 って、どんなこと?
 谷口雅春先生が説かれる 「一即多(いちそくた)」 の真理



  (2020.5.28)

563 わが情熱の火は尽きることなし(2)


 「炎のマエストロ」 と呼ばれる世界的指揮者の小林研一郎氏(コバケン)は、10歳のときラジオ放送でベートーヴェンの第9交響曲に打たれて指揮者となり、80歳の今も、ベートーヴェンの交響曲1番から9番まで連続演奏の指揮をして鼻血は出ても息切れはせず、自分の体を誰かが動かしてくれているかのような感覚で指揮をしているという。

 龍村仁氏も同じ80歳。その畢生の作(映画) 『地球交響曲
(ガイアシンフォニー)』 は、「地球はそれ自体がひとつの生命体である」 という 「ガイア理論」 に基づき、美しい映像と音楽、珠玉のことばの数々によって織り成されるドキュメンタリー映画。1992年公開の 「第1番」 から2015年公開の 「第8番」 まで、草の根の自主上映を中心とした上映活動だけで延べ240万人に上る観客を動員。人々に感動とよろこびを与えつづけ、いまその第9番を、コバケンが指揮するベートーヴェン第9交響曲の心に重ねて完成すべく、情熱の火を燃やしている。

 → 地球交響曲 龍村仁
 → 『致知』 2020年6月号

 岡正章も18歳のときベートーヴェンに打たれて、いま87歳になるが、それは同時に 『生命の實相』 の哲学、「生長の家」 の真理に生きることと一つであった。
 ベートーヴェン第九の合唱に参加すること二度。一度は1971年、山口貴指揮フィルハーモニー合唱団、東響との共演、東京文化会館で。もう一度は1999年、会津若松市の風雅堂で演じた 「虹の譜
(うた)」 という市民劇で、大正の初め第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵に扮して(これは本邦初演の第九であった。ドイツ兵たちの俘虜収容所長であった松江豊寿(とよひさ)が会津人であったことから、松江豊寿を讃える市民劇を会津で行ったのに参加。原作は中村彰彦著、直木賞受賞作 『二つの山河』。後に 『バルトの楽園(がくえん)』 という映画になる)。

 映画 『地球交響曲』 も1番から8番まで全部見ていて、自分でも 『万教一つに合奏す』 という映画を作りたい、という夢を描いている。

 → 『光のある内に』 「よろこびの歌をうたおう」


 生長の家では何を礼拝するか。自己生命を礼拝する。「實相額(または御軸)を通して宇宙の大生命を礼拝します」 というが、それは自己生命を神の無限生命として礼拝することである。


 谷口雅春先生は、御講話テープ 「一即多の真理」 の中で、聖典 『叡智の断片』 をテキストにして、仏教の教えとしては 『臨済録』 を引用し、「祖師 釈迦仏もキリストも汝の内にあり」 外に神仏を求める心をやめたら汝が祖仏、キリストそのものじゃ」 と説かれている。

 先生の御講話音声に文字映像を付けた動画を作成し、ユーチューブにアップロードさせて頂いた。ご視聴ください。

 
↓新規修訂版をアップしました。(5月22日)

  ⇒ 谷口雅春先生御講義
    「功徳の本源は、外にはない、内にある
     ――自性円満の自覚」
(←クリック)


 『臨済録』 引用箇所の原文は

≪汝 若(も)し能(よ)く念々の馳求(ちぐ)の心を歇得(かつとく)せば便(すなわ)ち祖仏と別(こと)ならず。汝 祖仏を識(し)ることを得んと欲するや。汝、面前、聴法底(ちょうほうてい)是なり。≫
 
(「馳求」 は外に走り求める、「歇得」 はやめること)

 ――で、その註釈としてテキスト 『叡智の断片』 には、こう書かれている。


≪ 外に神を求め、社殿に廟宮
(びょうぐう)に寺院に教会に跪(ひざまず)いて、此処に神仏があり自分を不幸にも幸福にもする力ありと思っていた迷信から一転して、汝の祖師、釈迦仏もキリストも汝の内にあり、功徳の本源は自己の内にありと自覚する事が真の宗教であるのである。

 ……汝、仏が何処
(いずこ)にあるか知りたいと思うか。では教えてやろう。此の眼の前で仏法を聴いている其奴(そいつ)が仏(ほとけ)其の者じゃ」 と一喝したのである。
 
(『叡智の断片』 旧版39頁、新版では49頁 より)

 「祖仏」 とは、神道で言えば 「天之御中主神」 にあたるであろう。

          ○

 「声字
(しょうじ)即実相の神示」 には、

 
≪ 吾れに神殿は不要であると嘗て示したことがあろう。吾れは道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。吾が道を載せた 『生命の實相』 こそ吾が神殿である≫

 とあり、『生命の實相』 第13巻 「倫理篇」 には

≪    宗教争いは偶像崇拝より起こる

 物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分でないというような争いができてくるのであります。……つまり、すべての争いの第一の萌芽は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるのであります。すなわち

 「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」 と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」 と 「生長の家倫理学」 は答えるのであります。≫


 とあった。そして、上記 『叡智の断片』 にも

≪ 外に神を求め、社殿に廟宮(びょうぐう)に寺院に教会に跪(ひざまず)いて、此処に神仏があり自分を不幸にも幸福にもする力ありと思っていた迷信……他に求むる心は争いの因也。≫

 とあるのである。

 『臨済録』 の主人公 臨済義玄については、ウィキペディアに適切によく書かれていると思う。

  → 臨済義玄

 臨済は、「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ」 と言った元祖のようである。

 その言葉は、『無門關』 の第一則にも出て来る。

 榎本恵吾師は、それに関連して、次のように言っている。
  (『神癒の展開としての人類光明化運動』 より)

≪ 『無門関』 の第一則の 「趙州狗子」 の公案の中に、「仏に逢いては仏を殺し、師に逢いては師を殺し……」 という一節が出てまいりますが、ある時の神想観の中にニコヤカに観じられた尊師谷口雅春先生は、

 「あのね。生長の家では仏に逢いては仏を殺し、師に逢いては師を殺す、などという血生臭いことはしないんだよ。私は無いんだよ」

 と師みずから消えておられたのであります。≫


 榎本恵吾師の 『無神』 論が実に素晴らしい。「榎本恵吾記念館」 サイトにテキストファイルが公開されていますが、それをA5判本文32頁の冊子にプリントできるPDFファイルをここに公開させて頂きます。

  → 榎本恵吾著 『無神』

 ありがとうございます。


  <つづく>


  (2020.5.17)

562 わが情熱の火は尽きることなし !


 僕は、『致知』 という雑誌の年極め購読者でもある。6月号が届いた。

 その記事の始めは 「鞠躬
(きっきゅう)尽力」 という題の特集。
  
(「鞠躬」 の 「鞠」 は毬(まり)で、体を毬のようにちぢめて全力を尽くす。
    それを死ぬまで続けてやまない意)

 で、そのトップに

≪ 「炎のマエストロ」 と呼ばれる世界的指揮者の小林研一郎氏と
  新作 『地球交響曲第9番』 に挑む映画監督の龍村仁氏は、
  共に1940年4月生まれの80歳。

  分野こそ異なるものの、いまなお新しい何かを創造しようと
  情熱を燃やし続けている。お二人はいま何を求め、
  どのような思いで目の前の仕事に打ち込んでいるのか。

  映画制作を通して再び出会ったお二人が語り合う
  人生と仕事の要訣。≫


 というリード文で始まる、

 「我が情熱の火は 消えることなし」 という題のついた対談記事が載っている。

 僕はこれを読んで、何度も涙が溢れ出てしまった。お二人の生き様に大きく共感する。

 僕は1933年6月生まれ、誕生日が来れば87歳だからお二人より7歳古いが、まだそれに負けない位の情熱を持っているつもり。

          ○

 小林研一郎 略して愛称コバケンは、10歳の時、ラジオから流れてくるベートーヴェンの第九を聴いて衝撃を感じた。その時の鮮烈さ、喜びは到底忘れ難いもので、その翌日からは大変。母親に 「五線紙をつくってください」 とお願いして、母がガリ版印刷してくれた手書きの五線紙で何も分からないのに作曲の練習を始めた。

 夜中に家を抜け出し、小学校の講堂に忍び込んで、ピアノを弾くようになる。辺りは真っ暗だから、楽譜は見えない。即興でベートーヴェンの曲を弾いてみて、「いや、こんな音じゃない」。――そうやって弾けた、弾けないを何度も繰り返す。夜中の講堂でよく 『月光』 を弾いた。最初の音が出せた時には涙が溢れ、二番目の音が出るとその涙がポロポロとこぼれ落ちる。一小節弾けるようになったら、水たまりができるのではないかと思うほどだったという。

 そうしてコバケンは独学で音楽の基礎を勉強し習得したのである。

 コバケンはそれ以来70年間、一貫してベートーヴェンを追い続ける。指揮者となって500回も第九の指揮をしているが、いまでも 「第九」 の楽譜を見るといろいろな発見があり、「ベートーヴェンってこんなことまで書いていたんだよ」 と、まるで宝物を見つけたみたいに興奮しながら奥さんに話すことがあるという。

 そのようになる過程には、大きな障碍があった。まず、父親だ。

 父親は運動が得意で中学校の体育の教師をしていた。息子の研一郎も運動神経がよくて、父親の勧めで初めて三段跳びの競技に出場したら、一週間ほど練習しただけで福島県の中学生の記録を塗り替えたほどだ
(コバケンは福島県いわき市小名浜の出身)

 その父親は音楽書やクラシックのレコードも多く所蔵していたが、レコードを聴くことも許さず、コバケンが音楽に興味を持ち始めた小学四年生の頃、隠れて音楽をやっていることを知った父親は 「音楽なんかやめろ」 と言って、足を持って井戸に宙づりにされた。「この恐怖は経験した人でないと分からないでしょうね」 とコバケンはいう。

 以下、少し 『致知』 誌の対談記録をそのまま引用させて頂く。

 小林 その頃は、何かにつけて父に抵抗ばかりしていました。朝は4時頃に起きて街灯の明かりで楽譜を読みました。それから蓄音機で音楽を聴くのですが、そのままだと音が洩れて父親に気づかれてしまうので、蓋を開かずに機械にじっと耳を近づけるんです。

 僕の人生にとって大きな転機となったのは中学2年生の時、NHKの作曲コンクールに応募した作品がラジオで放送されたことです。僕の作品を福島放送局が合唱やピアノ伴奏で録音して、それを流してくれました。その時、評論家の方が 「このような作品が書ける子を見たことがない。ご両親はぜひその才能を育ててほしい」 とコメントをくださいました。

 これは嬉しかったですね。自分で言うのもおこがましいのですが、その曲は転調の仕方といい、完璧な大人の作品でした。

 父親の態度が少しずつ変わり始めたのはそのラジオ放送を聴いてからです。やがてピアノを買ってくれたばかりでなく、東京のピアノの先生にも習わせてくれるようになったんです。≫


 ――こうして結局、コバケンは東京芸術大学の、まずは作曲科に入るのだが、なぜ、父親は音楽好きだったのに、そこまで反対し続けていたのか。それをコバケンは、父親の葬儀の時に初めて知る。彼は言う。

≪……父の弔辞を述べてくださった方が 「小林正毅君(父の名)、君は音楽家を志していて……」 とおっしゃった時、僕は本当にビックリしたんです。父は生前、自分が若い頃に音楽家を志していたなどと話したことは一度もありませんでした。

 父は音楽家を志したものの、家が経済的に恵まれなかったので、旧制中学卒業後、家族6人を支えていくために血の滲む努力をして体育の教師の免許を取るんですね。手荒なやり方で僕が音楽をやることに反対したのは、半端な覚悟では音楽の道はやっていけないということを教えようとしたのだと思います。

 いま思うと、僕が音楽家としてここまで歩んでこられたのは、そんな父のおかげでもあるんです。≫



          ○


 ここで僕は、谷口雅宣 生長の家総裁のことを考える。

 雅宣総裁は、なぜ 「生長の家が大好き、『生命の實相』 が飯より好き、谷口雅春先生のために、そして日本国家のために命を投げ出したい」 と不惜身命の活動を続けてきた熱心な信徒に対し、“井戸に逆さにして宙づり” するような、ひどいことをなさって来たんだろう」 と考える。

 「雅宣総裁は、谷口雅春先生が大嫌いで、生長の家が大嫌いで、生長の家をつぶしてしまおうとしているんだ」 と言う人もある。

 今までやってこられたことを形だけ見ると、そのようにすら思える。

 しかし、そんなことがあり得るだろうか?

 もしかしたら、コバケンのお父さんのように、雅宣総裁も本当は生長の家が大好き、谷口雅春先生が大好きなのだが、「生長の家は半端な覚悟ではやっていけないよ」 ということを、ご自分の体験から、手荒なやり方で信徒に伝えようとしておられるのではないだろうか?


  <つづく>


  (2020.5.11)

561 「天之御中主神」とは、「久遠の今」、無にして絶対なる神。偶像崇拝は最も重い罪である


 
日本古典 『古事記』 の冒頭は

 
「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。この三柱の神は並(みな)独神(ひとりがみ)成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまひき。」

 から始まっている。

 「天地のはじめ」 と言えば、現象界の宇宙物理学では約138億年前に起こったと推定される 「ビッグバン」 の時ということになるかも知れない。しかし時間・空間は本来なく、生命が表現の舞台として仮につくりだしたものであり、時間・空間がそこから発した、時空以前の元の根源世界――

 「久遠の今」
(←クリック) こそが、真の 「天地のはじめ」 であり、

 「天之御中主神」 とは 「久遠の今」 なる絶対神、すなわち無にして絶対なる神である。

 時間・空間上に展開された現象世界(霊界を含む)には、無限に多様な神々・人間や生きものが相対的に現れているけれども、根源は 「一
(ひとつ)」、対立を超絶しているという意味での 「絶対」 なる 「天之御中(あめのみなか)」 である (それを 「天之御中主神」 と表現したが、それは個別神の固有名詞ではない)。

 そこから陽(タカミ)・陰(カミ)、すなわち男性原理・女性原理の両極に分かれた生命が、再びムスビ(結び)合って新しい生命を生み出す。その原理を 「高御産巣日神・神産巣日神」 と表現したが、これも天之御中主神の御働きであり、“造化の三神”と言われる上記の三神は一体で、現象宇宙創造の根本設計、根本構図をあらわしている。

 それは 主・客 「相対」 以前の 「絶対生命、唯一絶対神」 であることを、「独神
(ひとりがみ)成りまして身を隠したまひき」 と古事記の文言は述べあらわしているのである。

 ある方 (HN 「下総の野人」 様) が、僕に質問のメールを寄越された。

≪ 造化三神、ことには天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は根源神、第一義の神であられ、お宮に勧請してご鎮座されるご存在ではない、というのがみ教えではないでしょうか。

 したがいまして、彼らは、お宮に勧請されていない、祀られていない神様を祀られている、祀っていると勝手に思い込んでいる、信じている、言っているにすぎないと思います。

 「あらざるものをありと想像する」 ことは無明
(まよい)であります。

 無明を擬神化していると言えるのではないでしょうか。

 なお、明治以後、天之御中主神をご祭神とする神社はありますが、その大方は江戸時代まで妙見菩薩(北極星、北斗七星の神格化)として祀られていたものが、神仏習合の解消、分離によって御名を変えられたものとのことです。これは歴史的には意味のあることですが、また別種の話であります。

 ともかくあり得ない話であります。

 龍宮住吉本宮は依然として住吉大神のみをお祀りするお宮であります。

 ―― この私の見立てを、先生はどのように思われるでしょうか?≫


 こういうメールを寄越されたのは、聞くところによると、

 「教化部の主となる道場(拝殿)の實相額の前に、七重塔の縮小模型、並びに“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を設置して祭祀すること」

 という生長の家教団本部参議会の決定があって、全国の各教化部にその通達が出された、ということを聞いてのことだったようです。

 僕は、次のようにお返事しました。

< 「龍宮住吉本宮は依然として住吉大神のみをお祀りするお宮であります。」

 というのは、僕もそう思います。

 天之御中主神は、八百万の神々(第二義・第三義の神々)とは別格の絶対界の本源神でありますから、相対の世界で祀ることは、絶対界から相対界に引きずり下ろすことになり、それはあり得ないことです。

 僕は、断じてそのようなことはしません。

 『菩薩は何を為すべきか』 の32~33頁に、


≪ 「人類光明化運動指針」 第五条 ……日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)として把握し、その 「中
(みなか)」 への帰一とその 「中」 の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、……(略)……

 ――爰
(ここ)に書かれておりますように、「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)として把握」 したのであります。

 日本民族はみずからを 「命
(みこと)」 と呼び、日子(ひこ)、日女(ひめ)と称するけれども、決して一人の有限な肉体を持った神様から誕生したと云う意味での 「神の子」 ではない。日本書紀或は古事記の神話にあるところの天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の 「中(みなか)」 の本源より発したる基本生命の自覚である。天之御中主神とは、一個人の人格神の固有名詞ではないのであって、「天」 の次に 「之」 という接続の詞(ことば)がついて居る所に注目しなければならないのであって、これが固有名詞ではない証拠であります。

 「之」 がついているのは、固有名詞ではなく、説明のための接続詞としてついているのであります。何を説明しようとしているかと云いますと、「天」 即ち 「天球」 即ち 「大宇宙」 の 「中(みなか)」 にして主なるところの神様と云う意味を説明していたのであります。

 私たちはその 「中(みなか)」 の 「主」 なるところの神様から生まれて来たのであって、その中(みなか)のいのちより出でて中(みなか)に帰る、吾々は中(みなか)に帰一しなければならない。

 「神の子」 とは天之御中主神の生命が此処に出現して、「中(みなか)」 の理念を実現する為に此処に生きて居るということであります。≫


 
と書かれている。天之御中主神は、現象界で 「前」 に祀るのではなく、「背後」 にありとしてその御命を具体的に現す生き方をすべきものでしょう。僕は、そう信じています。

 無明は、無いものであるから、いずれは消える。

 「龍宮住吉本宮は依然として住吉大神のみをお祀りするお宮であります。」

 僕も、そう信じています。>


 と。

 常に今・此処が 「天地のはじめ」 であり、宇宙の中心である。その 「今・此処」 を古神道は 「中今
(なかいま)」 と言い(続日本紀)、「常今(つねいま)」 と呼んだ。

 されば 『日々読誦三十章経』 の 「一日の経言
(のりごと)」 では次の如く言う。

≪ 天地(てんち)のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり。今吾等は新生したのである。今より自分は自己の生活を自分自身で支配する。自分は自分の生活の主人公なのである。

 吾れはいま力と勇気とをもって新生し新しき日の仕事と生活とに向うのである。吾れは今わが仕事に溢るる熱誠をもって赴く。吾れは歓びに満たされて進み行く。そは吾れいま吾が求むるものは凡て神より与え給うと信ずるからである。

 吾れは今吾がうちに神が宿り給うことを知る。吾れは決して此の感じを失わないのである。吾れは今日も終日
(ひねもす)吾れを支えたまえる無限全能の力をわがうちに感ずるのである。

 何が吾れに起って来ようとも、其れに対する準備が与えられていないと云う事はあり得ない。吾れに智慧が必要ならば其の智慧は既に与えられているのである。吾れに愛が必要ならば其の愛は既に与えられているのである。吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。吾れに力が必要ならば其の力は既に与えられているのである。

 吾が内なる生命は、神と融け合って一つとなっているのである。吾が内より生命の清水は無限に泉み出るのである。真理なる神は吾れに凡てを教えたまい、真理の道にわれを導き給うのである。吾れは全能の力によって守護されているのである。吾れは無限の力の泉を自己の衷
(うち)に有する。不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。

 今日われに接する人々は、わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであろう。吾れは此の魔力の如き力が、吾が内に宿れる 『無限なる者』 の力であることを知るのである。吾れ此の 『無限なる者』 に感謝し奉る。≫


          ○

 『生命の實相』 第十三巻 「倫理篇 上」 82頁以下に、次のように書かれている。


≪    宗教争いは偶像崇拝より起こる

 物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分でないというような争いができてくるのであります。…(中略)…

 つまり、すべての争いの第一の萌芽は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるのであります。すなわち

 「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」 と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」 と 「生長の家倫理学」 は答えるのであります。

 キリストでもこれを肉体イエスという 「物質的形体」 に見いださず、「アブラハムの生まれぬ前よりわれは在り」 といわれた 「永遠神性」 にこれを見いだし、仏でもこれを肉体釈迦に見いださず、「過去の諸仏は皆わが弟子なり」 と阿難に答えた 「久遠の釈迦」 に見いだし、「生長の家」 でもこれを肉体谷口の家に見いださず 「すべての教えわれに流れ入りて生命を得ん」 と示された 「久遠実在の生長の家」 に見いだすとき、すべての教えは、ここからあすこまでは自分の領分だなどという縄張り争いをする必要がなくなるのであります。

     人間の不自由の萌芽

 ところが、これに反して、少しでも物質的形体に捉われはじめますと、人間は本来の 「自由」 をわれとわが念で固定して 「不自由」 ならしめるのであります。「争い」 というのも 「不自由」 の一面のすがたであります。すなわち本来の全体としての自由を失っているから 「争い」 が起こるのであります。

 時計の歯車でも全体としての自由が失われていなければ、どの歯車も不自由にカチ合い争うなどということはないのでありますが、全体としての自由が失われると、歯車と歯車とが互いに調和して運行しないで、カチ合って時計が止ってしまうのであります。この全体としての自由を失った 「カチ合い」 が、「争い」 なのであります。

 宗派争いをして仏教を罵ったり、キリスト教を排斥したりして、和協合同しえないのは、この 「カチ合い」 でありまして、人類の和協合同を説くべき宗教みずからが、和協合同を失っているという矛盾を演じているのでありまして、これというのも礼拝の本尊をば、「永遠の神性」 とか 「久遠本仏」 とかに見いださず、物質的形体のイエスに見いだしたり、肉体釈迦に見いだしたりして、「第一の神牲隠蔽」 に捉われているからであります。

 宗教でさえも礼拝の本尊を 「物質的形体」 においたならば、このように争いが起こるのでありますが、個人の生命を 「久遠の生命」 の流れの中に見いださず、それを 「肉体」 という物質的形体の中に見いだそうとするときは、「物」 をもって 「生命」 に置き換えた原罪(第一の神性隠蔽)から出発して諸々の罪悪が発生するのであります。≫



 「無にして絶対」 なる 「天之御中主神」 を神札にして祀らせるなどは、宗教争いのもととなる偶像崇拝を強いるもの――生長の家倫理学からして最も重き罪であり、断じて許されないことである。


          ○

 禅語に、「説似一物即不中
(せつじいちもつそくふちゅう」 というのがある。現象界(相対界)の一物あるいは一語を、「これだ、これでなければならぬ」 と掴んで何と説いても、それはニセモノ(偽物=似せもの)であって、本当の処には的中しません、ということらしい。

 現象界には、「絶対」 なるものはない。現象界(相対界)の一物をもって 「絶対」 なるものとするのは迷信であり、争いの因となる。それでは 「万教帰一」 は成り立たず、究極の世界平和は実現できない。それでは生長の家出現の意義はなくなってしまう。

 だから、現象界の一物を礼拝の対象とする 「偶像崇拝」 はダメ。

 「天之御中主神」 をはじめとする 「造化の三神」 のお札を作って礼拝するというのも、その 「偶像崇拝」 になるからダメ、ということになるのである。

          ○

 生長の家倫理学と言えば、第十四巻 「倫理篇 下」 の第四章 「和解の倫理」 には、次のように書かれている。

≪ 「生長の家」 倫理学の中心思想は、「人と神と一体であり、万ずのもの皆神より出でたるものであるから、なんじを害するものは一つもないのであるから、天地一切のものと和解せよ」 ということであります。そこで天地一切のものと和解するには、天地一切のもの、すなわち異端邪説とでも和解したらよいかどうかが問題になるのであります。……

     仮相は本来 「無」 と知るのが実相への和解

 真に和解するとは、「ものそのもの」 の完全なる実相を認めその実相と和解することであります。「家ダニ」 を見たならば、吸血鬼であるその仮相を見ず、互いに調和した場所において相侵し相傷つけないように造られている 「完全なる家ダニ」 と和解することであります。結局 「和解する」 とは、その 「実相」 を見て、その実相において完全を観ることであります。

 対人関係、対物関係の和解は、そういうように物そのもの、人そのものの実相を見て、それと実相において和解してしまいますと、相手の調和した実相があらわれて相手が自分に逆らいまたは害しなくなるのでありますが、「迷い」 に対したり 「誤れる見解」 に対しては、われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。

 「迷い」 に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」 に対して和解したら実相がくらまされてしまうのであります。だからわれわれは、決して 「誤れる見解」 に和解してはならないのであります。「誤れる見解」 をわれわれは 「虚説」 と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。「誤れる見解」 は実相の世界にはない。それは 「虚説」 すなわち 「無い説」 でありますからわれわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧
(くら)まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。

     虚説に和解してはならぬ

 虚説の中でも、最大の虚説は 「物質はある」 という見解であります。『生長の家』 誌友の中で近ごろ脱線して 「物質もある、心もある」 という二元論に誘惑されたり、「現象も真我のあらわれである」 という説に惑わされたりした人がありました。その理由は、われわれは天地一切のものと和解しなければならないから、「物質はある」 という説とも和解したとき、本当の真理がかえってわかるのだという理論から、虚説に対しても一応は耳を傾けなければならないというわけだったのであります。

 われわれは天地一切の実在と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。「人は二人の主に事
(つか)えることはできない」 という諺があります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませばみずから迷うことになるのであります。迷えば迷いの影を現象界にうつして、現象界がままならぬ相(すがた)にあらわれてくるのであります。≫


  <つづく>


  (2020.5.5)

560 「今此処」すでに天国であった!


 前項で、

≪2020年より後には 「地上天国があらわれ……神が凡ての神の子達のために計画し給うた生活」 が訪れるであろう≫

 という 「アガシャの預言」 のことを書いたが、天国は外に来るのではなかった。

≪ 天国は、ここに見よ、かしこに見よというがごとく、われらの外に来るのではなかったのである。われらが艱難(かんなん)の意義を知り、苦しみの功徳を知り、この世界の何物も、自分の生命の自由さを実現する資料とならないものはないということを知るとき、そこにこのままに、天国が地上に実現するのである。≫

 というのが、「今」 を生きる根本の大真理でありました。

 ⇒ 「艱難を光明化せよ」
 https://www.youtube.com/watch?v=c4mpNDltGQU


≪ 「艱難(かんなん)を光明化せよ」 

        (『生命の實相』頭注版第7巻「生活篇」 p.183~ より)


 すべてのものには光明輝く方面がある。暗い方面は決して見ないで光明輝く方面をのみ見るのが「生長の家」の生き方であるのである。

 世界の事物は万事万物、観ようによっては明るく喜ばしくも見え、また観ようによっては暗く悲しくも見えるであろう。なぜなら、人生は光明が暗黒の中を勇ましく進軍して行く行程であるからである。

 その道程には光と暗
(やみ)がまじる。照らす側は明るくまだ照らさない側は暗いのである。だが暗は決して光を征服するために積極的に進軍しては来ないのである。光の進んで行くところ必ず暗は消滅する。勝利は必ず光にあるのに、暗がはかなくひろがっているのを見て後退(しりご)みする光があるか!

 諸君よ、神は光源であって、われらはすべて「光」である。そして積極的に存在を主張しうる力は「光」にのみあるのである。「光」はただ進めばよいのである。

 茫漠
(ぼうばく)と広がる暗黒を前にして恐れて立ちすくんでいる限り、いかなる「光」も暗を征服する力はないのである。
 諸君は暗を広く深しと言う。しかし暗は広く深いのではない。それはただ光がまだ進んでいないことを意味するにすぎないのだ。

 諸君よ、ただ進め、勇気を鼓して起ち上がれ、恐れずに突き進め、恐れずに自己の生きる力を肯定せよ。そこにこそ、暗は消え、活路はひらけ、死は破れ、光明輝く自由自在な生命こそわがものであることが体得できるのである。

 そうだ、神は生命の源であってわれらは皆、生命なのだ、生命の本来の面目は自由自在なところにある。しかし自由が自由とわかるのは、自由がただ障害を破ったときにおいてのみである。剣の名手は、敵者
(あいて)があらわれてはじめて自分の自由を現実にすることができるのだ。水は平地にたたえられている時は、まだその自由は潜んでいるにすぎないのである。それが逆境の上に置かれるとき何物をも押し流す自由を得るのだ。

 「光」であり「生命」であるわれわれ人間にとっては本当の暗黒もなく、本当の障害というものもないのである。暗黒は光が進んで行くとき、その光の眩
(まぶ)しさを引き立たすために役立つにすぎないのである。障害は潜(かく)れている生命の自由さを引き立たす役でしかない。電流の通路に抵抗があるので電流は光となり熱となるのである。抵抗のない電流と、落差のない水とは、それが逆境におかれていないためにかえって本当に自由ではないのである。

 おお、逆境こそはわれらの生命にいっそうの自由を与えるものではないか。空気の抵抗があるので飛行機は空を飛ぶことができるのではないか。タイヤに摩擦があるので自動車は地を走ることができるのではないか。どこにも障害のない世界、抵抗のない世界、摩擦のない世界は、本当は自由のようでも、その自由は永遠に発揮されないで「可能」の形の世界ではないか。

 だから、障害こそはわれらの生命に光明を放たしむる要素なのだ。抵抗こそはわれらの生命を飛躍せしめて、いと高き世界へと高揚さすための要素なのだ。艱難こそはわれらの生命の自由さを現実にする要素なのだ。

 されば、どんな艱難に面しても、われらはその暗い側を見ることは要らないのである。いかなる艱難
(なやみ)も、われらの生命のどの部分かを引き立たすために存在するのである。艱難(なやみ)の来るたびごとに初めてわれらの生命は潜んでいた力を実現し、潜んでいた自由を形にかえることができるのである。

 天国は、ここに見よ、かしこに見よというがごとく、われらの外に来るのではなかったのである。われらが艱難の意義を知り、苦しみの功徳を知り、この世界の何物も、自分の生命の自由さを実現する資料とならないものはないということを知るとき、そこにこのままに、天国が地上に実現するのである。

 不幸さえも本当は幸福の源である。この世界の幸福に眼を閉じるな。天国はすでにこの世に来ているのである。キリストはすでに再臨してい給うのである。弥勒菩薩はすでに下生してい給うのである。これを見ないものはただ魂の扉を閉じたもののみである。魂の扉を閉じて天国を見まいとするものに天国が見えなくとも、それは決して天国の罪ではないのである。彼らは、「迷い」で心の扉をし、わざと魂に光明のはいらないようにして、その心の部屋の中で、恐怖や、取り越し苦労や、嫉妬や、憎みや、復讐のバイ菌を醞醸
(うんじよう)させているのである。こうしておいてこの世界が光明のない世界だ、生活に喜びのない世界だ、生命に自由のない世界だと呟(つぶや)くのは、呟く方がまちがっているのである。生活の喜びと人生の光明と、生命の自由とは、人生の艱難を刻々征服するわれらの生命の戦いの一歩一歩のうちにこそ実現するのである。

 では、われらは魂の扉をひらいて暗黒の中にも必ず在る光を見つけよう。どこにでも光を見ないでやまないのが「生長の家」の生き方である。この生き方にもまして、われらを人生の戦いに力づけ励ましてくれるものはないのである。この生き方こそ悩める者にとっての最も不思議な魔術的医者である。それは斃
(たお)れんとする病者を蘇生(よみがえ)らし、すべての病を癒し、悲しみの心の傷に新しい肉を盛ってくれ、人生の敗残者を勝利者に変えてくれるのである。
(後略)

   
<付。以下、「生活篇」巻頭の言葉より>

 兄弟よ、海の波が巌(いわお)にたわむれるように、困難にたわむれよう、猿が木の幹を攀(よ)じのぼるのをたのしむように困難を楽しんで攀じのぼろう。もし軽業師が綱の上を渡らないで、平坦な大道を歩くだけならば、誰も喝采(かっさい)する者はないであろう。梅の花は烈々たる寒風の中で開くので喜ばれるのだ。

 兄弟よ、わたしは苦しみに耐えよとは言わない。「生長の家」では苦しみに戯れるのだ。いかなる苦しみをも戯れに化するとき人生は光明化する。

 盤根錯節
(ばんこんさくせつ)は「生命」がたわむれるための一つの運動具である。諸君はスキーを多難だと言うか。登山を不幸だと言うか。ゴルフを艱難だと言うか。競泳を悲惨だと言うか。いかなる苦しみも戯れに化するとき人生は光明化し、そこから剛健なる無限の生命力が湧いて来る。≫


  ――この生き方に立ち還ったとき、「今此処」 がすでに天国なのであった。

 その 「天国」 は、

≪ 一切の生物処を得て争うものなく、
   相食むものなく、
   病むものなく、
   苦しむものなく、
   乏しきものなし。≫


 という世界であり、

≪    入龍宮不可思議境涯の祈り

 ああ美しきかな、この朝よ。もろもろの花は地にあらわれ、もろもろの鳥のさえずる時すでに至れり。わが愛する者どもは目覚めて、神の御前に集まりて、神を讃美す。よろこびは悦びを呼び、愛は愛を呼ぶ。わが愛する者に幸いは集まり来たり。すこやかに子供は伸びて、楽しさにさんざめく。

 ああ幸いなるかなこの朝よ。家族たちの悦びの声は宇宙にこだまする音楽の如く、その声の底には極楽の響きを湛
(たた)うる泉あり。その泉より噴(ふ)き出ずる悦びの声は、龍宮の輝きを帯び、神の光に照されて、五彩七彩の虹を放つ。

 今、われら家族、極楽の園に遊び、龍宮海に入る。もろもろの宝は我らの掌
(たなぞこ)に満てり。黄玉(おうぎよく)、紅玉(こうぎよく)、青玉(せいぎよく)等その数を知らず。わが子供たちは、黄玉を連ねて頸輪(くびわ)となし、紅玉を結びて腕輪となし、青玉を点綴(てんてつ)して髪飾りとなす。衣裳には虹のごとき輝きあり、日光を受くるに従いて、その色を変化して美しきこと限りなし。ああわれらここ実相龍宮海の美しさをはじめて知る。

 ああ祝福されたるこの朝よ。われら言葉の力にて現世
(このよ)に龍宮城の美しさ、麗しさ、ゆたかさを引出し来れり。見よ、愛する者ここにあり、見よ彼らはわが肩に攀(よ)じ、膝に来り、わが前に立ち、後に倚(よ)る。その語る声は美しくして極楽鳥のごとし。後にある我が愛する者よ、汝の顔を見せよ。なんじの声を聴かせよ。なんじの声は竪琴の奏でらるるが如く、七絃琴の奏楽の如し。語るに随って、美しきもろもろの花咲き出でてその周囲を飾る。幸福なること限りなし。

 ああ悦びに満たされたるこの朝よ、わが愛する者は、すべて悦びに満たされ、神を讃う。神は讃うべきかな。われらの悦びの源、われらの幸いの泉。

 神の恵みきたるとき、一切の争いは止み、すべての戦いは停止し、いにし時の敵と味方とは、手を挙げて平和を喚
(よ)び交(かわ)し、兄弟の如く睦び合い、愛情の祝盃を交して、神の平和を称(ほ)め讃う。将兵たちみな剣(つるぎ)を収め、銃を棄てて、愛をもて娘たちが織りし美しき衣をまとう。すべての人々の頭(かしら)に “平和の冠” あり、黄金の七つの星をもてその冠を飾り、荘厳なること限りなし。

 ああこの朝、平和なるかな。山々に平和の雲漂い、朝日の昇るにしたがいて五彩にその色を変じ、われらの祝福の宴
(うたげ)に霞の幔幕をもて飾る。もろもろの花咲き出で、もろもろの鳥謳(うた)う。その声、神を讃え、われらを祝う。まことに実相浄土の厳浄(ごんじょう)を地上に実現したる朝なるかな。神に感謝し奉る。≫

 (聖経 『真理の吟唱』 より) という世界であった。

 生長の家は、現在のコロナ禍を契機として、

≪2020年以後、地上天国があらわれる≫

 と予言されている、実相世界に既にあるところの天国を、地上に実現する鍵を握っているのである。

 その生長の家が、先ず、分裂して排除し合っている状態から、「一」 なる元に還り、上記

≪……すべての戦いは停止し、いにし時の敵と味方とは、手を挙げて平和を喚(よ)び交(かわ)し、兄弟の如く睦び合い、愛情の祝盃を交して、神の平和を称(ほ)め讃う。……≫


 を実現しなければならない。それがすでに実現しているのであるという祈りに徹して行きたい。

 その時、

≪ われらにとっては成功はもはや未来に遠く約束されている希望ではないのである。境遇のいかんにかかわらず、環境のいかんにかかわらず、刻々瞬々が生長であり、成功である。今、何人(なんぴと)も生長しうるように決定されているのである。今、何人も成功しうるように決定されているのである。なんたる幸福ぞ!≫

 ということになるのだ。

 その 「今」 は、「久遠の今」 でなくてはならない。

 ⇒ 「『今』 を全力を出して戦いとれ」
 https://www.youtube.com/watch?v=qBSEQQdLgdo


  <つづく>


  (2020.5.3)

559 「2020年から新時代」という予言(2)


 僕は思う。

 「人間」 は、宇宙の中に生まれたのではなく、
 「人間」 が、宇宙を生んだ。宇宙は、「人間」 から生まれたのである。
 「人間」 は、宇宙の創造主
(つくりぬし)である。


 ――その 「人間」 とは、もちろん肉体人間のことではない。

 「神の子」 なる人間、「真の人間」 のことである。


 ……アガシャは次のように予言する。

 2020年より後には 「地上天国があらわれ……神が凡ての神の子達のために計画し給うた生活」 が訪れるであろう。

   (J・クレンショー原著 谷口清超訳 『天と地とを結ぶ電話』 263頁より)

 という 「アガシャの預言」 があることを前項で確認したのである。しかしながら、その前に、人類をゆり動かす大きなショックが起こるという。

≪ ……最も変るのは教育である。その理論も実際も、根底から改革される。それは、人間観に一大変革が起こるからである。

 人間とは何か?

 現在では、環境にもみくだかれ、生活にこづき回され、機械や社会体制の部品となって、いつ廃物とされるかわからない、情けない、無力で不安定な存在にすぎない。人間とは本来、そういうものではなく、宇宙的にかかわりあっている、巨大な存在なのだ――と、アガシャは教える。

 それを自覚せねばならぬ時がまもなく訪れてくる。激しいショックを受け、大きな試練をのりこえて、いやでも人間は、本当の自分自身に目ざめ、偉大な自覚を抱くようになる。それがつまり地上の浄化だ。

 この上もなく平和な、輝かしい時代は、人類をゆり動かす大きなショックとともにやってくる。≫


 とゼナー(アガシャ)は言っているのである。

 このたびのコロナショックは、その地上天国ともいうべき輝かしい新時代をもたらすために必要な大ショックなのではないかと、僕は思う。

 2020年、つまり今年から後に 「地上天国」 が開かれるという預言であるが、それは他動的にやって来るのではない。天国の扉をひらく鍵を握っているのは、われわれ自身である。

 聖経 『甘露の法雨』 「人間」 の項には、次のように書かれている。

≪ ……地上の人間よ
  心を尽して自己の霊なる本体を求めよ、
  これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに求むること勿れ。

  キリストは
  『神の国は汝らの内にあり』 と云い給えり。

  誠に誠にわれ汝らに告げん。
  『汝らの内』 とは汝ら 『人間の自性』 なり、『真の人間』 なり。
  『汝らの内』 即ち 『自性』 は神人なるが故に
  『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

  外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして
  永遠に神の国を得る事能わず。
  物質に神の国を追い求むる者は
  夢を追うて走る者にして
  永遠に神の国を建つる事能わず。

  キリストは又云い給えり、
  『吾が国は此の世の国にあらず』 と。
  此の世の国は唯影にすぎざるなり。

  常楽の国土は内にのみあり、
  内に常楽の国土を自覚してのみ
  外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。≫


 と。

 「人間」 が変わらないままで、他動的に天国が外からやって来ることはあり得ないのである。

       *  *  *  *  *

 今朝(2020年4月30日)の日本経済新聞第5面「グローバル・オピニオン」欄に、「危機でも変わらない世界」 と題して、米ハーバード大教授 ダニ・ロドリック氏の寄稿が掲載されている。

≪ 危機には2つのタイプがある。誰も予測していなかったため備えられなかった危機と、実は予想されていて備えておくべきだった危機だ。

 トランプ米大統領が責任を逃れるために何と言おうが、新型コロナウイルスの感染拡大は後者の部類に入るだろう。こうしたパンデミック(世界的流行)が起こる可能性が高いことは、専門家の間ではよく知られていた。

 重症急性呼吸器症候群(SARS)や「H1N1型インフルエンザ」、中東呼吸器症候群(MERS)といった感染症の流行は、十分な警告だった。

 世界保健機関(WHO)は2005年、03年のSARSの流行などを踏まえ、感染症対策の国際ルールの改正を決議した。米当局は19年末に中国湖北省武漢市で新型コロナの感染が確認されるより前、約100年前に多数の死者を出した「スペインかぜ」に匹敵する拡大の可能性を、ホワイトハウスへ報告していたとの一部報道もあるほどだ。

 気候変動問題と同様、起こるべくして起きた危機だった。米国の対応は特にお粗末といえる。トランプ氏はしばらくの間、危機の重大さを軽視した。感染者や入院患者が急増し始めたころには、人工呼吸器などの医療物資が深刻なほど不足する事態となった。州当局や医療機関が医療物資の争奪戦を繰り広げる結果を招いた。

 検査やロックダウン(都市封鎖)が遅れた代償は欧州でも高くつき、イタリアやスペイン、フランスなどは犠牲を払っている。一方、韓国や台湾といったアジアの一部の国・地域は検査と感染経路の追跡などにより、感染拡大を克服しようとしている。

 大半の場合、危機は、各国の既存の統治スタイルから予想できる通りの展開となっている。自身を過大評価するトランプ氏の危機管理の手法が、多大な被害を及ぼしかねないのは想像できた。トランプ氏同様、虚栄心が強く気まぐれにみえるブラジルのボルソナロ大統領も案の定、リスクを軽視し続けた。

 中国の対応は、いかにも中国らしかった。ウイルスのまん延についての情報を隠蔽しようとしたようだが、いったん脅威が明らかになると資源を総動員した。

 ハンガリー議会は、強権を振るうオルバン首相の権限を、期限を定めずに大幅に拡大する法案を可決した。オルバン氏はコロナ危機に乗じ、権限強化に乗り出している。

 コロナ危機は、それぞれの国の政治の主な特徴を一段と際立たせているともいえる。各国は、本来の姿をデフォルメした状態になっている。こうした状況は、今回の危機が世界の政治経済の転換点にならない可能性を示す。世界の軌道が変わるどころか、既存の潮流が強まり、固定化することになりそうだ。

 重大な事態が起きると、自らに都合の良い情報を集めがちな 「確証バイアス」 が生じやすい。政府の権限強化を求める人々も、政府の役割に懐疑的な人々も、自分たちの見方が裏付けられたと感じるだろう。国際統治の強化を求める層なら、もっと強力な国際衛生の体制があれば、パンデミックを軽減できたと主張するはずだ。強力な国家を求める層であれば、WHOが対応を誤ったようにみえる点を指摘する。

 コロナ危機は、以前から明らかだった傾向を覆すどころか、変えることさえないだろう。ポピュリズム(大衆迎合主義)は、さらに独裁主義の色合いを帯びる。グローバリゼーションは、国家主義に対し守勢に立たされる。米中の衝突は続く。国家主義的な国では少数の支配層、権威好きのポピュリスト、国際派の対立が激化する。左派は左派で、多くの有権者にアピールする策を編み出そうと必死にもがくだろう。≫


 という。悲観的な見方である。

 これについて、日経紙の編集委員 小竹洋之氏のコメントとして

≪ 人類と新型コロナとの戦いは 「コロナ世界大戦(World War C)」 と呼ばれる。開戦を境とする 「ビフォー・コロナ(BC)」 と 「アフター・コロナ(AC)」 で、世界のありようも劇的に変わりつつある。未知の疫病が各国の政治や経済、社会に与えた衝撃の大きさを、決して過小評価することはできない。

 もっとも、グローバル化や民主主義の後退は 「BC」 の時代に始まっていた。強権的で排斥的な指導者の台頭と、彼らに共鳴する民意の高まりが連動した結果だ。こうした世界の病状が 「AC」 の時代に悪化し、手の施しようがなくなるのではないか。ロドリック氏が懸念するのも無理はない。

 いまは、強力な感染防止策や迅速な経済支援策をとりやすい権威主義国家が優位にみられがちだ。安全保障の観点から自給自足経済への回帰を説く者さえいる。私たちは疫病を封じ込めるだけでなく、グローバル化や民主主義の脆弱性も克服したい。コロナ大戦は人命を救う戦いであると同時に、大事な秩序や価値を守る戦いでもあるのだ。≫


 というコメントも載せられている。

 小竹氏の言われる

 「私たちは疫病を封じ込めるだけでなく、グローバル化や民主主義の脆弱性も克服したい」

 というコメントは、重要な問題提起であると思う。

 それには、根本的な人間観の転換が必要である。ここに、生長の家出現の使命がある。

 「民主主義」 が、肉体人間を人間として見る唯物的人間観や、中途半端な二元論に立っている限り、脆弱性は克服できない。

 生長の家の教えは、「現象なし」 「実相・神の子 独在」 の教えである。それは、「至上者の自覚の神示」 に明示されている。

≪ 人即ち神であると言う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』 が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。

 自己が神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、自己の本性が神だと悟った者を謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。斯くの如き想像をする者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるのである。キリストが弟子の足を洗うことが出来たのも、自己が神だと悟っていたからである。

 本当の謙遜は 『神の自覚』 から来る。神を自己の本性
(うち)に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈にすぎない。卑屈と謙遜とを思い誤るな。本当の謙遜とは 『自己は神より出でた神の子である、従って神そのもののほか何者でもない』 と言う真理を何らの抗(さか)らいもなしに承認することである。此の真理を承認するものを謙遜と言い柔和と言う。此の真理に逆う者を傲慢と言うのである。すべての傲慢と意地張りとは 『吾れ神なり』 の真理を承認しないところの根本傲慢より分化し来(きた)るのである。≫

 ――生長の家の根本は、「神の子・人間至上主義」 なのでした。

 コロナ、コロナと大騒ぎし、自粛、ジシュクと萎縮して、「生々化育」 を止めてるのは、「生命の法則」 に適わないのでは。

 4月25日の日本経済新聞 勇敢、じゃなくて夕刊、「あすへの話題」 欄に、作家の嵐山光三郎さんが、「今が一番いい」 と書いてました。いや、「昔はよくなかった」 という変なタイトルだったんですが、僕は勝手に、「今が一番いい」 ということだと受け取りました。

 嵐山さんのエッセイの要点を抜粋すると、こういうことです。

《老人には思い出しか残っていないので、「昔はよかった」 と思いがちですが、ひとりとして昔に戻れるわけではありません。かりに昔に戻れたとしても 「じつはよくなかった昔」 (戦争と敗戦後の飢餓。失意の日々)がある。一番いいのは 「今」 です。風邪をひいても、お金がなくても 「今が一番」。》

 そう、「今が一番いい」 と 「今」 に感謝して、「今」 を生かすのが生長の家の生き方でした。

 僕は、コロナ禍を好機として、「勇気が湧き出る珠玉のご文章」 (谷口雅春先生著 『生命の實相』 より) を心を込めて朗読した6タイトルの動画を新たに編集制作し、YouTube に公開することもできました。→ #555

 「勇気が湧き出る 珠玉の言葉」 は、僕が青年時代に(今でも気持は青年ですが)、『生命の實相』 頭注版第7巻 「生活篇」 から6タイトルを選んでベートーヴェンの力強い音楽などを背景に朗読し、録音していたテープを元に、文字映像を入れた動画にして、ユーチューブに公開しているものです。「聖詩篇」 から 「生きた生命」 と 「夢を描け」 の朗読も、同様に公開しています。ご視聴くだされば、きっと力が湧いてくるでしょう。

 人間は、

 「久遠の今」 なる永遠不滅の生命である。この根本に立ち還って、

 「生きた生命」

 「艱難を光明化せよ」

 「今」 を全力を出して戦いとれ

 と、伝道への決意を新たに立ち上がりましょう。


  <つづく>


  (2020.4.30)

558 「2020年から新時代」という予言


≪ まもなく世界全体が、新しく生まれ変わる。

 まったく近いうちに、地上のすべての政治、経済体制は、ガラリと一新される。技術も、社会も、今とは比較にならないほど進歩する。理解がみなぎり、一体となった世界社会が実現する。

 原子力は、生活の便利のために利用できるようになる。政治面で婦人の役割は、さらに重要になる。指導的立場に立つ婦人がふえてくる。古くから残っていた階級は消滅する。

 最も変るのは教育である。その理論も実際も、根底から改革される。それは、人間観に一大変革が起こるからである。

 人間とは何か?

 現在では、環境にもみくだかれ、生活にこづき回され、機械や社会体制の部品となって、いつ廃物とされるかわからない、情けない、無力で不安定な存在にすぎない。人間とは本来、そういうものではなく、宇宙的にかかわりあっている、巨大な存在なのだ――と、アガシャは教える。

 それを自覚せねばならぬ時がまもなく訪れてくる。激しいショックを受け、大きな試練をのりこえて、いやでも人間は、本当の自分自身に目ざめ、偉大な自覚を抱くようになる。それがつまり地上の浄化だ。

 この上もなく平和な、輝かしい時代は、人類をゆり動かす大きなショックとともにやってくる。≫



 ――リチャード・ゼナーというアメリカの霊媒的預言者が、第2次世界大戦直後の1947年(昭和22年) に、こう書いていました。

 これを読み返して、これは今のことではないか――と、僕は思いました。

 アガシャというのは7千年前エジプトに生まれた宗教政治家、霊人で、その霊示を受けてゼナーが上記の言葉を書いたというのを図書館で見つけ、書きとめておいたのを思い出した僕は、

 『天と地とを結ぶ電話』 という本があったのを思い出しました。J・クレンショーというアメリカの新聞記者がこのアガシャの予言のことを書いて本にしたのを谷口清超先生が翻訳し日本教文社から出版されている本です。それを読み返してみたら、次のようにありました!(抜粋)。



≪   暗黒の日々と明るき未来

 吾々は今迄あまりにも屢々
(しばしば)混乱と妄想との暗黒の罠に陥いれられたものであるから、曙の直前には常に最も暗黒な夜が訪れるという昔からの諺を思い出すことが出来なかったらしいのである。アガシャ系の指導霊達は長年の間、地獄のような暗黒の時期とその後に必ずあらわれる黄金時代との両方を約束しているのである。

 彼らはこう言っている、暗黒の日々、即ち黒い悪の波の時代は数千年来地上の歴史はじまって以来最大の試煉の時期であるだろう、しかしそれにたえて生き残った人々は必ず輝かしい進歩の時代に直面するであろうと。

 凡ゆる生命、凡ゆる行動には目的があるとアガシャは言っている。目的のないもの、意味のないものは何一つないのである。それ故この偉大な試煉の時代は、過去幾世紀もの間繰返し人間に教えようとした内容を人間の心に納得させるための業の一部のあらわれと見倣さるべきであると言うのである。

 この時代こそ人間が学習能力を示す時期なのである。これこそ大きな試験の時代であり、愛と協力との意味を謙虚に考えてみる機会であるのである。彼の苦境を解決するのは彼自身の処置如何によるのであり、彼が平和と富との時代を迎える用意を如何にととのえているかによるのである。

 僅かに地球の光明化された片隅の少数の者によってではなく、凡ゆる国の強力な多数の人々によって、この偉大なテストをパスしその教えを学びとるべき時が来たのである。その時にこそ世界の大不死鳥は神に供えた自分の焼けた灰をはらいおとし、天国そのままを反映する新しい栄光につつまれて出現出来るであろう。人間は遂に、自分自身の本当の姿を発見し自分自身を救うために、無我の祭壇へ自分を捧げたのであるという事を悟るであろう。その時にこそ、昔から約束されていた 「世界の光」 が現実にあらわれて来るのである。

 破壊されることのない霊界にいる大指導霊達は吾々に、悲劇や不幸は物質と精神との到達しうる信じられぬ位最高の黄金時代に到る単なる夜明け前の前奏曲にすぎないのだと証言したのである。

 彼らはこう言った、世界は非常に今と異って来る。つまりこれは光明化された心によって結合され、物質的進歩によってしっかりと結ばれた 「新世界」 と見做すことが出来るのである。それは生れ替る前の時代の荒れ狂う苦悶の様相と比較すれば、文字通り 「地上天国」 であると彼らは言うのであった。

 アガシャは次のように予言する。

 2020年より後には 「地上天国があらわれ……神が凡ての神の子達のために計画し給うた生活」 が訪れるであろう。

   (J・クレンショー原著 谷口清超訳 『天と地とを結ぶ電話』 263頁より)


 ありがとうございます!


  <つづく>


  (2020.4.25)

557 「ウイルスは人類の味方である。撲滅できない」


 「ウイルスは撲滅できない」 と、分子生物学者・青山学院大学教授の福岡伸一さんがおっしゃっている。その著書 『生物と無生物のあいだ』 (講談社現代新書、サントリー学芸賞・中央公論新書大賞) は70万部を超えるベストセラーになっている。


≪   「ウイルスは撲滅できない」

             福岡伸一さんが語る動的平衡


 ウイルスとは電子顕微鏡でしか見ることのできない極小の粒子であり、生物と無生物のあいだに漂う奇妙な存在だ。生命を 「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」 と利己的遺伝子論的に定義すれば、自らのコピーを増やし続けるウイルスは、とりもなおさず生命体と呼べるだろう。

 しかし生命をもうひとつ別の視点から定義すれば、そう簡単な話にはならない。それは生命を、絶えず自らを壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである、と定義する見方――つまり、動的平衡の生命観に立てば――、代謝も呼吸も自己破壊もないウイルスは生物とは呼べないことになる。

 しかしウイルスは単なる無生物でもない。ウイルスの振る舞いをよく見ると、ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。

 今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。

 まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。これは偶然にも思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質とにはもともと友だち関係があったとも解釈できる。

 それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。

 これはいったいどういうことだろうか。問いはウイルスの起源について思いをはせると自ずと解けてくる。

 ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。

 なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。

 それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。おそらく宿主に全く気づかれることなく、行き来を繰り返し、さまようウイルスは数多く存在していることだろう。

 その運動はときに宿主に病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報の交換と包摂に役立っていった。

 いや、ときにウイルスが病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない。病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。

 かくしてウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。≫


 という(朝日新聞デジタルより)。

 <「動的平衡」 とは――生物のあらゆる組織や細胞は日々新たにつくられ更新され続けている。常に変わりつつ一定のバランス状態を保っている。こうした生命のあり方を1937年にシェーンハイマーという学者が 「動的平衡」 と名づけた。>

 福岡さんの説明は、谷口雅春先生が啓示を受けられた 「(ウイルスは)人類の魂を堕落から防止してくれる神からのメッセンジャー」 (『神 真理を告げ給う』) ということを、科学的に実証しつつあるかも知れない。

 今日、家族と一緒に読んだ 『新版 真理』 第3巻の294頁以下には、次のように書かれていた。


≪    自分の心の足音に驚くな

 ある喩え話を申しましょう。

 ある人が山の中の真暗な道を、夜おそく歩いておったら、後ろから大入道が追っかけて来た、その足音がだんだん近づいて来た、さあ敵
(かな)わぬと思って一所懸命速歩(はやあし)で歩くと、後ろから追っかけて来る足音もだんだん速歩で近づいて来るのであります。

 「さあ大変」と云うので走り出したら、向こうも走ってくるらしく、あわただしくパタパタと足音が急速に追っかけて来る。一所懸命逃げたのでありますが、やがて、もう行こうにも向こうが行詰りになっていてそれ以上行くことが出来ない。

 逃げようにも逃げる道を失ってしまって、さあ今にも後ろから追っかけて来た奴に取っ捉まって、其の化物
(ばけもの)にひと呑みに噛みつかれるかと思って、絶体絶命、ハッと後ろを振り向いたら、誰もいない。

 「怪しいな」 と思って、自分で足踏みして見ると、自分の冷飯草履の足踏みする音が、追っかけて来ていた人の足音と同じであった。

 自分を苦しめる別の存在が客観世界に別にあるのかと思うと、それは実は自分の心の影なのです。……この後ろから追っかけて来る者を 「死」 とか 「病」 とか 「老衰」 とか 「貧乏」 とかに考えて見ましょう。

 何も後ろから追っかけて来るものは一つもないのに、何か追っかけて来ていると思って、それを恐れて逃げている人が多いのであります。これが即ち対立の世界観をもっておる人にあらわれる 「世界」 なのであります。

 つまり、「ペタペタと云う足音の世界」 と云うものと 「自分」 と云うものと別のもので相対立しておって、「彼」 は 「敵」 であると見ておった。ところが、豈図らんやそんなものは自分と対立している敵ではなくして、自分自身の足音で現わしている世界だったのです。

 これと同じように環境として現れている 「世界」 は、みんな自分自身の心の波の足音で現わしている世界なのであります。だから、自分自身さえ変ったら周囲が忽ち変ってしまうのであります。こうなると、自分自身を害する物は自分の他
(ほか)に何もない。……


 ――今、世界中がコロナウイルスの猛威に恐れ戦
(おのの)いているけれども、その大入道のような化け物と思って逃げていた相手は、実は自分の足音のようなものであり、福岡伸一さんがおっしゃる、「人類が動的平衡を保ち進化するための味方」 だったのではないか。ならば、コロナを撲滅する戦争なんかせずに、これを好機として人類が霊的に進化すればよいのだ。

 今日読誦した聖経 『続々甘露の法雨』 には、次のように書かれていた。


≪ 真の人間は 「神の子・人間」 なり、
   真清浄、真円満なる 「神の子・人間」 なり。
   汝ら驀
(まっしぐ)らに 「神の子・人間」 を自覚せよ。
   「神の子・人間」 を自覚して
   罪と迷いと死の夢を消し去るとき、
   汝の恐怖滅し、
   汝の病気も完全に滅し去らん。

   天使
(てんのつかい)また説きたまう。――
   肉体は 「汝」 に非ず、
   肉体のことに就いて思い煩うこと勿れ。
   思い煩えば恐怖生じ、
   恐怖生ずれば恐怖の反影として
   肉体の不調和は持続せん。
   汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ。
   「一層高きもの」 こそ真の 「汝」 なり。
   若し汝の心にて恐怖を滅せんと努力して、
   而も恐怖を滅することを得ざるときには、
   恐怖を捨てんとする努力をさえ止め、
   唯そのままであれ、
   ただ実相
(そのまま)であれ。

   如何なる恐怖も
   「生命」 の実相
(そのまま)の中には存在せざるなり。
   無き恐怖を滅せんとする必要も亦あらざるなり。
   汝は汝の 「生命」 の実相
(そのまま)で宜しきなり。
   恐怖しながら、そのまま恐怖本来無きなり。
   そのままに真に委せ切るとき、
   実相なる神は一切の恐怖を拭い去り給わん。

   神の法則のみ真に一切を支配す。
   物質の法則は汝を支配すること能わず、
   罪の法則は汝を支配すること能わず、
   迷いの法則は亦汝を支配すること能わず。

   されば汝らは金剛不壊の実相身にして、
   物質的寒冷も、暑熱も、気候風土も、黴菌も、
   汝を害すること能わず。
   かかる物質が汝を冒したりなどと考うることを止めよ。
   かかる罪が自分に報いられたりと思うことを止めよ。
   かかる迷いがこの病いの原因なりと考うることを止めよ。
   病い本来無ければ、
   病いの原因も本来無し。
   病いも無く、罪も無く、迷いも無く、死も亦無しと知れば
   何れの処にか恐怖存在せん。≫


 ありがとうございます!

 久遠の尊師 谷口雅春先生の、「永遠不滅の生命」 ご講話から、ご事績、「久遠の今」 ご講義、そして 「宇宙浄化・コロナウイルス終息の祈り」 までを連続的に編集し1時間12分にまとめたものを YouTube にアップロード、公開しました。お時間のあられる方は、ご覧ください。いっそう勇気が得られることでしょう。

 ⇒ 「久遠の尊師 谷口雅春先生 ・宇宙浄化コロナウイルス終息の祈り」
    https://www.youtube.com/watch?v=fPQNzxpD-Yc

ありがとうございます!


  (2020.4.22)

556 今日も元気で !


 僕は今朝、変な夢を見た。朝方、目が覚めかかってウトウトしている時である。

 古い友人が、にこやかな光り輝く顔で夢に現れて、

 「ぼくは懲役2年の実刑判決を受け、刑に服して出て来たところだけど、おかげでぼくはいい体験をして生まれかわった。ありがたい2年間だった」

 と言うのである。それが、実ににこやかな光り輝く顔なのだ。

 なんで懲役なのか、理由はわからない。しかし、「それが有り難かった」 と言って、光り輝く顔で出て来たのは事実である。「事実」 というのは語弊があろう。「事実」 ではないかもしれない。しかし、僕の夢に現れたというのは、僕にとっては事実なのだ。はっきりとその姿が思い出せるのだから。

 で、目が覚めてから思うこと――

 「人間は罪人
(つみびと)だ」 というのは、夢なのだ。

 本当は、光り輝く神の子しかないのだ。

 コロナウイルス蔓延というのも、夢なのだ。人類共通の夢、幻にすぎないのではないか。人類共通に、同じ夢を見ているのかも。本当は、そんなのないんだ。

 「夢から覚めよ」 という夢だったのではないか――と。

          ○

 #550 でも書いたように、谷口雅春著 『神 真理を告げ給う』 の中で、神はこうおっしゃっている。“わたし” は神である。

≪すべての生き物を生かしているのは “わたし” である。どんな微生物でも、どんな巨大な動物でも、皆 “わたし” の生命が生かしているのである。それゆえに “わたし” は “生” と “死” との鍵をにぎっているのである。

 どんな微生物でも “わたし” が生かしているのである。あなたが病菌であるといっておそれている微生物も、本来 “病菌” ではない。それは “わたし” が生かしているのである。その病菌と見えている者が、実は、あなた達の間違った “心の思い” や “生き方” を警告して、それを是正させるために “わたし” が姿を病菌の如くあらわしていることがあるのである。

 “わたし” は、どんな消毒薬よりも強いのである。“わたし” はその人間の魂に警告を与えて、正しい生き方に還らせようとして病菌としてあらわれている場合には、その目的を達しない限り、どんな薬剤を与えても、その病菌は消えるものではない。しかしその目的を達して人間たちの心が正しくなったとき、わたしはその微生物を現象界から “生命の素材の世界” へ引き戻す。その時、あなた達の病気は癒えるのである。

 けれども、それを神が人間に罰を与えているのだと考えてはならないのである。“わたし” は愛であるから “罰” を与えたりはしない。“わたし” は人間の魂が墜落しようとするのを、ある方法で引き留めようとしているに過ぎない。
病菌と見える者は、“わたし” が墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるためのメッセンジャーに過ぎないのだ。

 それは神の罰でも神の鞭でもない。それは神の救けの綱であり、墜落を防いでやるためのガードレールのようなものである。≫


 ――と。

 とすると、コロナウイルスも、これを人類の 「敵」 として戦うのは間違っている。人類の魂を堕落から防止してくれる神からのメッセンジャーなのかも知れない。だとすると、コロナウイルスに感謝して、自己反省し、行動を改めなければいけないのかも知れない。

 僕は毎日、家族と一緒に仏前で聖経を読誦し、聖典の一節を拝読することにしていて、今は 『新版 真理』 の第3巻を読んでいる。今日はその291頁からのところを読んだ。「谷口哲学と西田哲学」 という項の次、「人間に壁があると思ってはならぬ」 という小見出しのところである。こう書いてある――


≪     人間に壁があると思ってはならぬ

 そこに 「壁」 があると思うからもう行きあたって行くことが出来ない。「壁なし」 と分かったら自由に行けるのですけれども、「世界」 と云うものを、人間に対立する一つの壁であると見て、そして、その壁の外へ自由に行こうとするのでは、その壁を突切って進むことが出来ない、進む力は出て来ないのです。

 自分の心をはなれて、自分と対立する 「世界」 と云うものはない。人間は 「世界」 の中に生れたのではない。「世界」 は自分の外にはないのであって、「世界」 は吾々のいのちが拵えたのである。肉眼で見れば、自分の外に存在する世界があるようだけれども、決してそうではない。それは自分の心の相
(すがた)が客観化されてうつし出されているのである。

 西田哲学のように 「自分」 と 「世界」 とが対立しておるなら、「自分」 と 「世界」 とが対立して相撲とることになるから、時には 「世界」 に 「自分」 が負けたり勝ったりして常には自由自在に勝利を博することが出来ない。

 ところが世界と云うものは、本当はいのちの 「動きの波動」 (心) が周囲に展開したところの映象
(えいしょう)の世界である。外界は、実は外界ではないのであって、自分のいのちの延長であります。いのちだけがあっていのちがその想念感情(こころのおもい)によって現わしている世界が 「外界」 と見える世界であります。≫


 ――では、コロナウイルスも自分の外にあって自分と対立するものではなく、吾々のいのちが拵えたものであるということか。

 今朝(4月21日)の日経紙第1面 「コロナと世界」 欄に、永守重信・日本電産会長兼CEOの意見を聞いてまとめた記事が、『「利益至上」見直す契機』 と題して掲載されている。

 これを読んで僕が思い考えたことを、書かせて頂こう。(記事は一部省略)

          ○

 日経新聞の記者(担当:藤野逸郎氏)が 「新型コロナウイルスの感染拡大はリーマン・ショックなど過去の経済危機と全く異なります」 と言葉を向けると、永守氏は言う。

(1) 「どんなに経済が落ち込んでも、リーマンの際は 『会社のために働こう』 と言い続けた。だが今回は自分と家族を守り、それから会社だと。従業員は12万人以上いる。人命についてこれほど真剣に考えたことはない。」

 ――「新型コロナの猛威に多くの企業は立ちすくんでいます」

(2) 「今は見えない敵と戦う第3次世界大戦だ。当社は40カ国以上に工場があり様々な情報が錯綜(さくそう)する。指揮官の私が全貌を把握し、すべて決める体制にした。」

 ――「国境をまたいだ企業のサプライチェーン(供給網)が分断され、グローバル化の限界が指摘されます」

(3) 「逆だ。(グローバル化は)もっともっと進む。自国にサプライチェーンを全部戻すのはリスクを増すだけだ。(日本電産は)40カ国以上に工場を持ち、リスクを分散したと思っていたが、部品のサプライチェーンまで思いが完全には至っていなかった。猛省している。もう一回コロナ感染が広がったらどうするのかを考え、数年かけて作り替える。」

 「新型コロナで自国優先主義は揺らぎ、改善に向かうと期待している。コロナウイルスの予防・治療薬の開発にも国際協調が必要だ。各国の首脳の発言を聞くと、少し反省していると感じる。」


 ――「緊急事態宣言に伴い、テレワークが急速に普及しています」

(4) 「コロナ終息後は全く違った景色になる。テレワークをどんどん取り入れる劇的な変化が起きる。東京都内の会社に勤める人が山梨県に仕事部屋のある広い家を建てるようなケースが増えるだろう。企業は通勤手当をなくす代わりに給与を上げるほか、サテライトオフィスを作るなど抜本的に環境を改善すべきだ。」

 ――「経営者がコロナ終息後を見据えて備えるべきことは」

(5) 「利益を追求するだけでなく、自然と共存する考え方に変えるべきだ。地球温暖化がウイルス感染に影響を及ぼすとの説もある。自然に逆らう経営はいけない。今回は戒めになったはずだ。」

 「50年、自分の手法がすべて正しいと思って経営してきた。だが今回、それは間違っていた。テレワークも信用してなかった。収益が一時的に落ちても、社員が幸せを感じる働きやすい会社にする。そのために50くらい変えるべき項目を考えた。反省する時間をもらっていると思い、日本の経営者も自身の手法を考えてほしい。」


          ○

 以上を読んで、僕の思ったこと。

(1) 「まず自分」 ということ。結局、一人一人の人間は皆それぞれの運命の主人公なのである。自己の生命の問題――生き方、幸・不幸の運命――は一人一人の自己選択に関わっており、それは自己責任だということになる。そして 「命あっての物種」 だからまず 「自分の命を大切に」 というのは当然であろう。

 一方、社員の幸福と会社の繁栄は 「車の両輪のごとく」 であるのが理想だ。

(2) 「戦争」 という言葉はマクロンやトランプも使い、『文藝春秋』 5月号は 「コロナ戦争」 と題した特集をしている。しかし僕は、「戦争」 と言っても、「外なる敵」 との戦争ではなく、「内なる敵」 と戦うべき時ではないかと思う。

 人間は神の子であり、霊であり、一切者である。「天地一切のものと和解すれば天地一切のものはわが味方」 であって、対立する敵はないのである。

 「内なる敵」 とは、その根本真理を忘れ自己を肉体的存在と錯覚して起こす対立心、敵対心、恐怖心、嫉妬・憎悪・憤怒・貪欲などの醜い心である。コロナウイルスなど、人間を害するものも本来ないものであって、人間の心の反映であり、神の愛のメッセンジャーであるから、人間が正しい愛と感謝の心に立ち還れば消えてしまうのである。

(3) 「自給自足」 よりも 「自給他足・他給自足」、 「補足の原理」 で与え合って行くのが繁栄と幸福増大の道であろう。

(4) コロナ禍を福に変え、多様な働き方が出来ることもよい。でも、直接顔を合わせてコミュニケーションを交わせられるありがたさに気づいて、もっと信頼し合い生かし合い協力し合いの働き方ができるようになることも大きなプレゼントではないか。

(5) 反省の時間を持ち、自らを向上させ、大調和の世界が実現できれば、こんな有難い嬉しいことはないであろう。

          ○

 また、同日経紙の 「春秋」 というコラムには、次のように書かれていた。

≪ 江戸時代の歳末のすす払いは、新年の年神を迎える儀礼だった。その慣行は現在も、過去の災厄を拭い去って福が来ることを願う年末の大掃除として受け継がれている。花王と国立歴史民俗博物館が進めてきた、「きれいにする行為」 についての共同研究成果の一端だ。

▼外国の要人が江戸にやって来る際は、町人が道を清める習慣もあった。そうした人々の意識は、来客に備え玄関前を掃除する 「門掃
(かどは)き」 に継承されている。昔から清潔にするという行為には、状況をリセットするはたらきがあるようだ。「新たな未来を迎えるきっかけになると信じられてきた」 と、共同研究は言っている。

▼新型コロナウイルス対策で医師らが呼びかけている手洗いの徹底にも、感染拡大への不安が広がる重苦しさを切り替える意味があろう。地味な方法ではあるが、一人ひとりが励行する効果は大きいに違いない。衛生的にすることは、苦境に区切りをつけて再スタートを切るための日本人の知恵でもある。今が実践のときだ。

▼より専門的にいえば、清潔にする行為は 「ケガレを祓
(はら)う」 意識の表れだという。不浄で災難をもたらすケガレは強い伝染力があるとされてきた。退散させる 「祓い」 という儀礼が定着したのは、社会の安定が損なわれることへの恐れからだろう。新型コロナも感染力が強い。危機感をしっかり持てと、民俗学は教えている。≫

 ――「ケガレ」 とは 「気枯れ」 であり、生気、元気がなくなることである。

 「気枯れ」 を払って(祓って)浄める、浄化するには、元に還ることである。

 「元」 とは 「天地の初発
(あめつちのはじめ)」 すなわち時空未発の 「久遠の今」 である。

 「久遠の今」 こそ、元気の元素。

 「元気」 は、「元」 すなわち創造の根源世界の 「気」 です。そこから汲む者は、勝つ者です。今日も元気で、

 「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 を全世界に放送しましょう。

 久遠の尊師 谷口雅春先生の

 「永遠不滅の生命」 ご講話から、ご事績、「久遠の今」 ご講義、そして 「宇宙浄化・コロナウイルス終息の祈り」 までを連続的に編集し1時間12分にまとめたものを YouTube にアップロード、公開しました。お時間のあられる方は、ご覧ください。いっそう勇気が得られることでしょう。

 ⇒ 「久遠の尊師 谷口雅春先生 ・宇宙浄化コロナウイルス終息の祈り」
    https://www.youtube.com/watch?v=fPQNzxpD-Yc

ありがとうございます!


  (2020.4.21)

555 コロナ禍を好機として、元気を充電しよう!


 コロナウイルスの蔓延拡大は続き、遂に 「緊急事態宣言」 が全国を対象に発せられ、人の移動を8割自粛せよという。

 それは、できるだけ自宅から一歩も出るなということである。

 家に閉じこもりが続けば、老人はますます運動機能が衰えて 「寝たきり」 になる人が増え、認知機能も低下して 「ボケ」 がすすむ。認知症の人が増える、といわれている。

 若いスポーツ選手、アスリートたちも体がなまって運動能力が衰えるだろう。

 感染拡大を恐れる恐怖心によって 「自粛」 が続くと、ストレスが増え、体の免疫力が低下する。病気に罹りやすくなるということである。

 だが、

 
「いま私たちが最も恐れるべきは恐怖それ自体です」。

 (4月7日、安倍晋三首相が緊急事態宣言発令の時に語った言葉。
  英訳は 「the greatest thing we should fear is fear itself」 だ。)

 そうだ、と僕は思う。

 僕は、2月までは土日毎にほとんど必ず各種の集まり・勉強会などに出かけていたが、3月に入ってからこの方、緊急事態宣言の出る前からすべて中止になり、出かけることが少なくなっていた。僕はこれを好機として、家でいろいろやりたい仕事や勉強ができた。コロナ様々である。

 17世紀、ペストの感染拡大で英国のケンブリッジ大学が休校に追い込まれたとき、アイザック・ニュートンは故郷に帰り思索にふけっているうちに、「万有引力の法則」 や 「微分積分」 の考え方を編み出したという。

 僕も災い転じて福となし、深く勉強ができて充実した日々を送り、元気が出て、ここにも頻繁に書き込みができるようになった。ありがたいことである。

 「勇気が湧き出る珠玉のご文章」 (谷口雅春先生著 『生命の實相』 より) を心を込めて朗読した6タイトルの動画を新たに編集制作し、YouTube に公開することもできた。

 先にここで紹介した

 1.「艱難を光明化せよ」
 https://www.youtube.com/watch?v=c4mpNDltGQU

 2.「『今』 を全力を出して戦いとれ」
 https://www.youtube.com/watch?v=qBSEQQdLgdo


 のほか、次の4タイトルの作品である。

 3.「共通的生命の歓喜のために働け」
 https://www.youtube.com/watch?v=7-0wGAZzYSc

 4.「思い切りよく、押し強く、勇敢に断行せよ」
 https://www.youtube.com/watch?v=bFmTKdtpK3g

 5.「断じて失敗を予想せざる者は遂に勝つ」
 https://www.youtube.com/watch?v=cRFXyVHdZWI&t

 6.「背水の陣を布け」

 https://www.youtube.com/watch?v=wPSZhKaIG3g&t

 ――以上の6タイトルだ。

 以上はいずれも、『生命の實相』 第7巻 「生活篇」 のご文章を、僕が50年以上前の青年時代に朗読して、ベートーヴェンなどの力強い音楽をバックに録音したものを音源とし、これに朗読原稿の文字映像を合わせ動画としたものである。

 そのほか、もっと前から公開しているものに、

 1.「生きた生命」
 https://www.youtube.com/watch?v=Qesfyp4Ho68

 2.「夢を描け」

 https://www.youtube.com/watch?v=r3eKYJ3s8K0

 というのがある。これは、『生命の實相』 第20巻 「聖詩篇」 に収載されている谷口雅春先生作の同名の詩を、同様に朗読したものである。

 これを聴くと――視聴すると、元気が出て、免疫力が向上したと感じる。薬を飲むよりも効くのではなかろうか。


 今朝(4月9日)の日本経済新聞は第1面に、「コロナと世界」 というタイトルで、ミッテラン大統領の特別顧問、欧州復興開発銀行の初代総裁を務めた仏経済学者 ジャック・アタリ氏(著書に「21世紀の歴史」など)に聞く―― という記事が掲載されていた。曰く――


≪ 世界経済を立て直すのに必要なことは。――「誰も第1の優先事項とは考えていないようだが、ワクチンと治療薬に極めて多額の資金を充てることだ。」

 日本はどう危機から脱するでしょうか。――「日本は危機対応に必要な要素、すなわち国の結束、知力、技術力、慎重さを全て持った国だ。島国で出入国を管理しやすく、対応も他国に比べると容易だ。危機が終わったとき日本は国力を高めているだろう」



 という。「危機が終わったとき日本は国力を高めているだろう」――そうあってほしい。いや、われらの力を合わせてそうあらせねばならぬ、と思う。


 
「いま私たちが最も恐れるべきは恐怖それ自体です」。


 僕は昨日(4月8日)に前項 #554 で、


≪情報パンデミック(1) コロナの情報拡散力、SARSの68倍

 感染拡大が続く新型コロナウイルスは 「データの世紀」 に入った人類が初めて経験するパンデミック(世界的流行)だ。直接の感染被害だけではない。デマ拡散による差別や買い占め、人工知能(AI)の誤作動が生む株価の乱高下など、データが2次被害を増幅する。世界は 「情報パンデミック」 に翻弄される。≫



 と日経紙が報じているのを引用したが、今日(4月9日)の同紙ではその(2)として、次のような記事を掲載している。薬の開発にAI(人工知能)を活用する事への疑義である。


≪ AIを駆使した投資で知られる米国のダリオ氏は、かつてリーマン・ショックの荒波を乗り切った投資家だが、新型コロナウイルスの前に完敗した。新型コロナウイルスの影響を読み違え、顧客に謝罪したという。
 
 資産規模は約17兆円で、リスクを巧みに分散する手法で知られ、2008年のリーマン・ショックでもプラスを維持して名を上げた。人工知能(AI)を駆使した経済指標の分析で投資成績を高めたが、今回はそのAIも景気後退のサインを示さず、市場は予想と正反対に振れた。コロナショックによる株価暴落は統計学的に 「1600億年に1度の発生確率」 とされ、参考データが乏しい苦手分野だった。

 “投資の帝王” と呼ばれたダリオ氏は 「システムを信じたが……」 と悔やんだ。「前例のない事案だと分析データが少ない分、結論も信ぴょう性が低くみられがちだ。外出制限など痛みを伴う決定には使われづらい」 と話す。

 コロナ危機からの脱出に新薬開発を探る希望としても、AIの活用が期待されているが、AIは万能ではなく、依存しすぎれば危険を伴う。情報パンデミックの危機は、人類にAIとの適切な向き合い方という課題を突きつける。≫



 と (抜粋、要約)。現象界はいつ何が起きるか、AIや人間知で予想不能な、想定外のことが想定外の時に起きるのが現象界である。


 同紙の 「こころの健康学」 というコラムを週1回連載中の大野裕・認知行動療法研修開発センター理事長(精神科医)が、雑誌 『こころの元気+』 2020年4月号に、「時薬
(ときぐすり)と人薬(ひとぐすり)の効果」 と題したエッセイを書いていらっしゃる。


≪ 認知行動療法の研究チームは、エイズウイルスに感染した人が、その事実にきちんと向き合えれば、不必要に強い不安を感じなくなり、適切な行動をとれるようになるだろうと考えて研究を開始しました。そして、そのように手助けすることで、たしかに感染した人達のストレスは軽くなり、行動も修正されることがわかりました。


   時薬と人薬


 もうひとつ、その研究から、今回の特集のテーマの時薬
(ときぐすり)の効果もわかってきました。

 実は、エイズウイルスに感染したとわかって動揺した人達の気持ちは、半年ほど経つうちに、次第におさまってきたのです。

 私達の心は、気持ちが瞬間的に大きく揺れたとしても、次第に落ち着くようにできています。

 よくないことが起きて落ちこんだり、先が見えず不安になったり、ひどいことをされて腹が立ったりしたときには大きく気持ちが揺れても、しばらく経つうちにもとの状態に戻ってきます。

 もちろん、そうした体験が心の傷として残ることもありますが、それでも最初の頃ほどの強烈さは薄れてきます。

 ですから、気持ちが動揺したときには、すぐに行動しようとしないで、ひと息入れて自分を取り戻し(時薬(ときぐすり))、そのうえで問題に対処すると、自分の力をうまく引き出せます。

 こうしたことを考えると、高額の宝くじにあたるよりも、毎日の生活の中で信頼できる人と交流するといった小さい喜びをシャワーのように体験すること(人薬(ひとぐすり))のほうが、心を元気にするということがわかります。

 これこそ、毎日の人薬
(ひとぐすり)の効用といえるでしょう。≫


 ――その、「時薬」 の最高のものは、現象界の時を超えた永遠の時、

 「久遠の今」 という時薬でしょう。

 そして、それをベースにした、前記 YouTube に公開した 「勇気が湧き出る言葉」 の力を活用する事が、ワクチンと治療薬の開発にお金をかけるよりも即効のある特効薬になるのでは――と僕は思っているのです。

 「元気」 は、「元」 すなわち創造の根源世界の 「気」 です。そこから汲む者は、勝つ者です。今日も元気で、

 「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 を全世界に放送しましょう。

ありがとうございます!


  (2020.4.9)

554 「今」を全力を出して戦いとれ。


 昨日(4月6日)の日本経済新聞(朝刊)は、第1面トップで 「コロナの情報拡散力、SARSの68倍」 という見出しが目に入り、これはてっきりコロナウイルスの伝染拡散力がSARSの68倍ということかと思ったが、それは早とちりであった。コロナウイルスに関する情報の拡散力ということなのであった。

情報パンデミック(1) 善意の投稿、人類翻弄
コロナの情報拡散力、SARSの68倍


 感染拡大が続く新型コロナウイルスは 「データの世紀」 に入った人類が初めて経験するパンデミック(世界的流行)だ。直接の感染被害だけではない。デマ拡散による差別や買い占め、人工知能(AI)の誤作動が生む株価の乱高下など、データが2次被害を増幅する。世界は 「情報パンデミック」 に翻弄される。≫


 という。トイレットペーパー買い占めなどの騒動に、「落ち着いて」 と偽情報を打ち消す善意の “デマ退治” 投稿が次々と広がり、ツイッターの話題上位に入る。すると、その善意の投稿が逆に品不足を連想させ、情報の氾濫が人々を不安にさせたのだという。

 所詮、現象界(五官で認識する世界)の情報は、真実実在の情報ではなく、心の影の情報であり、すべてフェイクニュース(ニセ情報)だと言ってもよい。

 同紙の第11面 「こころの健康学」 (月曜日連載) 欄には、認知行動療法研修開発センターの大野裕氏が、次のように書いておられた。

≪ できること知り不安軽く

 コロナウイルス感染症が広がり、多くの人が不安になっている。……私たちは、不安になると、できるだけ多くの情報を集めようとして、ネットや新聞、雑誌などいろいろな情報源に当たろうとする。情報が集まれば、それだけ的確な判断ができるようになるだろうと考えるからだ。しかし、すでに気づいているように、コロナウイルス感染症に関しては誇張されたり、矛盾したりする情報も流されている。

 誰かを非難する内容も多い。不安なときには、他の人の責任を追及する方が気持ちが楽になるからだ。しかし、人を非難しても問題は解決しない。人まかせになるので不安が続く。自分にできることを具体的に意識できると不安が和らぎ、自分を守るための行動ができるようになってくる。≫


 と。

 真実実在の世界の情報は、神の創造の本源世界である 時空を超えた

 「久遠の今」 にある。

 その 「今」 の大地にしっかと立って、「今」 を生かそう。

 『生命の實相』 第7巻 「生活篇」 第6章 「『今』 を全力を出して戦いとれ」 の迫力ある珠玉のご文章から、僕が青年時代に録音編集していた音源に文字情報をつけ動画にしたものを、YouTube に公開しました。

 ⇒ 「『今』 を全力を出して戦いとれ」
 https://www.youtube.com/watch?v=qBSEQQdLgdo


 5日に公開した 「艱難を光明化せよ」
 に続くものである。

 乞うご視聴。

 そして、これをどんどん拡散させて頂くと、人々の不安が解消され、ワクチン開発よりも免疫力増大の根本的な治療法ともなり、コロナウイルスの拡散終息の力となるのではないかと思うのですが、如何でしょうか。

  コロナウイルス君たちの大活躍で、クラスター(集団)感染の拡大も報じられ、今日は、安倍総理が緊急事態宣言を発令するらしい。

 コロナウイルスは私たちに、「なぜ俺たちに負けないような光のクラスター拡大をしないのか」 と言っているようだ。 コロナ以上の光のクラスターを爆発させて行きたい。


 私は今、「久遠の今」 に立ち、勇気に満ちて神想観をし、

 「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 を全世界に放送するのである。


  (2020.4.7 朝)

553 「暗」・「闇」は「明」よりも明るい。艱難を光明化せよ!


 「明」 という字は、日(太陽)と月が並んで輝いているので、「明るい」 という意味を表す。

 しかし、「暗」 という字には日が二つ並び立っているから、日と月の 「明」 よりも、もっと明るい。

 さらに、「闇」 という字は、「門」 (もんがまえ) に 「音」 となっている。「門」 に 「日」 が二つあって、その中にいるものが 「音」 である。「音」 は 「立った日」 で、合わせて三つの 「日」 が集まった字だから、これまた明るい限りの字である。

 ――と言ったのは、榎本恵吾師であった。

 いま、騒ぎになっているコロナウイルスも、光に変えよう。憎むべき敵ではなく、有り難き観世音菩薩様として拝もう。観世音菩薩は三十三身に身を変じて衆生を済度し給うのである。


 谷口雅春先生は、『生命の實相』 頭注版第7巻 「生活篇」 に、「艱難を光明化せよ」 と書かれている。

 ⇒ #236 艱難を光明化せよ

 僕は若き青年時代にこれを朗読してベートーヴェンの音楽をバックに録音したものを作り、#236 にアップロードしていた。(最初は50年以上前、オープンリールのテープに録音し、カセットテープが出来てからはカセットにそれをコピーし、次にCDが出来たらCDにしていたものである)


 このたび、これを文言入りの動画にして、YouTube に公開した。

 コロナウイルスの大活躍に対して、われわれは恐れることなく、憎むことなく、勇気をもって光の前進をしたい。そのために力になると信じたからである。

 乞う、ご視聴。

 ⇒ 「艱難を光明化せよ」
 https://www.youtube.com/watch?v=c4mpNDltGQU


 コロナウイルス君たちの大活躍で、クラスター(集団)感染の拡大が報じられているが、それは私たちに、「なぜ俺たちに負けないような光のクラスター拡大をしないのか」 と言っているようだ。

 コロナ以上の光のクラスターを爆発させて行こう。


 私は今、感謝と歓喜に満ちて、神の創造の本源世界である 時空を超えた

 「久遠の今」 に入る神想観をし、「久遠の今」 に立って、

 「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 を全世界に放送するのである。



  (2020.4.5)

552 雅宣総裁は、ユダか、キリストか?


  『神癒への道』 (新選谷口雅春選集<3>) の 173~174頁に、次のようなご文章があった。

≪ 私の戯曲 「耶蘇(ヤソ)伝」 の(第四幕)第二場に書いた場面は聖書そのものにはないのですけれども、舞台の上で、斯ういう点景を入れた方がユダの人格を現す上に適当なので、そこへ持って来たのであります。耶蘇伝の立役者はユダとキリストであります。その前提としてユダという人格はこう云うものだ、ユダの中に 「悪魔の魂が忍び込んで、神様と競争している。」 悪魔は智慧のあるものであって神様と同じようなことを云う。同じことを云いながら人間を堕落の底に引きずって旨く行くのであります。…神様の仮面を被って、実に寸分違わぬ神様の声の如く実に立派なことを言うのです。云う所は真理です。…悪魔も言うところは実に立派です……≫

 「耶蘇伝」 の 「耶蘇」 というのはイエス・キリストのことで、これは 『生命の實相』 頭注版第31巻 [宗教戯曲篇 上] に収載されている。かつて私がまだ学生時代の昭和29年、原宿に生長の家本部会館が落慶した年、11月22日谷口雅春先生御誕生日を祝う 「東京青年会文化祭」 で、この戯曲を 「イエスは十字架にかからず」 という題で演じたのを思い出す。


 さて、去る3月1日 「立教91年生長の家春季記念日・生長の家法燈継承記念式典」 での雅宣総裁の 「お言葉」 という講話、およびその後のブログ 「唐松模様」 に書かれた2回のメッセージ (タイトルは 『「生命の法則に随順する」 とは?』 ・ 『コロナウイルスは何を教える』 ) について、僕の思いを申し述べましょう。#548 「光を復活せよ! 『生長の家90年史』!」 につづくものであります。


          ○


 3月1日、生長の家立教91年記念式典で、総裁は 「私が18年前に出した本」 として、『今こそ自然から学ぼう』 という著書をテキストにした講話を始める。

≪ 人類は 「生命顕現の法則」 に則って生きているだろうか? ということです。≫

 と。

 『今こそ自然から学ぼう』 の 「はじめに」 に、総裁はこう書いている。


≪ 谷口雅春先生の言葉を引用させていただけば、「宇宙全体が神の自己実現であるのである。それ故に、宇宙全体に神の生命と愛と智慧とが行き亙っているのである。それゆえ宇宙にある一切の存在にはすべて神の生命と愛と智慧とが宿っており、その不思議なる力が脈々として一切のものの内に搏動しているのである」 (『真理の吟唱』 「天下無敵となる祈り」)。

 この 「宇宙」 とはもちろん 「人間」 だけの棲家
(すみか)ではない。それを忘れて、人間だけの “天国” や “浄土” をつくることはできない。そのような人間至上主義は、個々の肉体としての人間を至高のものとする 「肉体人間至上主義」 である。生長の家は 「人間は神の子」 と教えるが、それは 「肉体に執着した現象人間」 が尊いという意味ではなく、宇宙の一切の存在を神の自己実現として観ずることのできる “本来の人間” (仏) が至高だという意味である。

 人類の多くがそのような自覚に達するには、まだ時間がかかる。それまでは、自然はその自覚を促す “警鐘” を我々の内外に鳴らし続けるだろう。我々はその意味を正しく理解し、間違いを正していかねばならない。自然を拷問にかけることで、我々自身を拷問にかけることは避けねばならない。≫



 以上、一読してまことに反論しがたい、立派なことを言われている。

 ≪ 悪魔は智慧のあるものであって神様と同じようなことを云う。同じことを云いながら人間を堕落の底に引きずって旨く行くのであります≫ ではないか。

 「人間」 とは、何か。
≪生長の家は 「人間は神の子」 と教えるが、それは 「肉体に執着した現象人間」 が尊いという意味ではなく、宇宙の一切の存在を神の自己実現として観ずることのできる “本来の人間” (仏) が至高だという意味である。≫――まことにその通りである。

 ……しかし、ここに大きな落とし穴が潜んでいる、と僕は思う。

 現実の人間は、「肉体に執着した現象人間」 つまり神の子ではなく罪の子であって、これこそが実在なのである――と発声音や文書では言わないが、そういう前提に立った 「人間至上主義は間違っている」 という主張を声高に叫んでいるのである。それが生長の家の教えか?

 総裁は3月1日の式典で、約45分間にわたって講話しているが、そのうち約15分をかけ、コロナウイルスについて科学雑誌などから受け売りの知識を、パワーポイントのプレゼンを使って大学の講義のごとく得々として語る。新型コロナウイルス感染源として有力な説の一つであるセンザンコウは、ワシントン条約で取引が禁止されている希少動物であるにもかかわらず、アジアで大量に違法取引がなされている。センザンコウの肉は珍味とされ、うろこは伝統薬の材料に使われるなど需要が多い上、中国が象牙の取引を禁止したため違法業者がセンザンコウの取引をメインにするようになった。人間が、自然の一部であることを忘れ、そのような自分勝手なことをしてきたから、センザンコウを通じて、自然から逆襲されているのだ、という。

 結局、人類は 「人間至上主義」 で他の生物を駆逐して人類だけが繁栄していく方向に進んできた悪者だった。センザンコウも生命であり、それを礼拝するということは人間の用途に供して後は放棄したり、絶滅を顧みないということではない。よくよく反省せよ。人間至上主義は、間違っている。人類は、生命の法則に則って生きてこず、自然を拷問にかけるような生き方をしてきたから、いま自然から拷問にかけられるようなコロナウイルスの反逆を招いているのだ。生命の法則とは、人間至上主義ではない、と強調して講話を結んでいる。

 だからこうして行こう、という具体的な前向きな話は何もなかった。

 生長の家は 「肉体人間至上主義」 ではない、というのはわかる。しかし、それは 「肉体人間」 のことである。「人間」 は、肉体ではない、というのが生長の家の教えではなかったのか。いつの間にか、「人間」 は肉体であって、それは 「罪の子」 である、とすり替えられている。そして、だから 「人間至上主義」 は間違いであって、「生命の法則」 にかなわない、と言っているのである。ここに重大な過ちが生じている、と僕は思う。


 テキストに使われた 『今こそ自然から学ぼう』 の第1章には、総裁の講習会受講者からのメールが紹介されている。「そのメールとは、次のようなものである(一部を引用):」 として掲載されているのを転載させて頂く。


≪ 合掌 ご講習会の期日が近づいてまいりましたが、講話の内容は 「神の子人間」 についての根本的な且つ判りやすいお話をお願い致します。

 以前、数人の友人を誘って参加したのですが、その後、講習会に誘っても二度と来てくれようとはしません。縁が無かったと言えばそれまでですが、多少でも宗教心がある者は子孫のこと社会のことを考えて、環境問題、遺伝子問題は言われるまでも無く、常識で判断します。

 それをことさら主張する必要があるのは、一般マスコミに対してであり、信徒には敢えて云々する必要の無いことです。言われなくとも判っていると思います。また講習会に来るような人は初心者でも常識で理解しています。所詮現象世界のことです。それを専門家の受け売りで言われるより、「人間とは」 「神とは」 等々宗教的な根本問題の話をしていただきたいのです。信徒は真理を求めているのです。

 「樹の良し悪しは、その果実を見れば判る」 といわれますが、講習会でも人間神の子を自覚した円滑体験が続出する様でありたいものです。現に各地の練成会では、「生命の実相」 に基づいた話を聴き、素晴らしい体験が顕れつづけています。また、心の法則による好転化現象は他の宗教でも、心理学の応用でも顕れています。生長の家でなければ聴けない話をお願い致します。≫



 これは、まことに切実な、信徒の魂の叫びだと、僕は思う。

 「信徒は 『真理』 を求めているのです」 と、メールの主は叫ぶ。

 「真理」 とは、何か。

 『新版 栄える生活365章』 60頁に、次のように書かれている。

≪ 「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」 とキリストは訓(おし)えているのである。「真理」 とは、別の語でいうならば存在の 「実相」 である。「人間は “神の子” であり、一切の存在は神より出でたるものであるから完全円満であって悪はない」 ということである。肉眼で見える現象世界が如何に自分に不利な状況をあらわしていても、この真理をしっかり自覚すれば、その自覚する程度に従って現象界の如何なる困難なる状態も克服してしまうことができるのである。

 吾々を苦しめる如きすべての困難な状態は、神の創造し給える 「実在の世界」 には真には存在しないのであって、それは吾らの 「迷いの心」 の反映でしかないのである。私たちは困難や行き詰りの状態に面したならば、「神のみが創造主
(つくりぬし)であり、神は善であり、愛であるから、悪しき状態や、人を苦しめる如き状態は単に自分の顛倒妄想(まよいのこころ)の反映である」 ということを繰り返し念じて、その顛倒妄想を消し去るときその困難な状態も自然に克服され消滅するのである。≫

 信徒は、その 「真理」 を求めているのである。

 しかし、その信徒の魂の叫びは、総裁の魂には届いていないようだ。

 総裁の回答は、論理的にはまことにごもっともな、立派すぎるくらい立派な回答かも知れない。しかし、そこに、≪講話の内容は 「神の子人間」 についての根本的な且つ判りやすいお話をお願い致します≫ という信徒の魂の要請に応える 「真理」 は見当たらない。頭脳知による反論ばかりが強く感じられ、「お前はこのままではダメだぞ」 と叱られているようで、読むのに疲れてしまう。「この話を聴いてよかった。救われた」 と感じさせるものがないのである。

 結果、この本 (『今こそ自然から学ぼう』) はいま、amazon で1円で売られている。僕は、前にも読んだ記憶があるので本棚を探したが見当たらず、amazon で検索したら1円(送料・手数料が350円?)で買えると知ったので、再度購入したのである。もはや1円の価値しか認められないものになっているのである。そして、総裁の講習会は年々参加者が減少の一途を辿っている。「救い」 がないからである。

 生長の家の教えは、「すべての人間は神の子で、既に救われている」 という教えであった筈なのに、いつの間にか 「人間はそのままではみんな罪の子で、よほど努力しなければ救われない。神の子にはなれないぞ」 という教えにすり替わってしまっているのである。結果、

≪ われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は 「生長」 することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、「生命の法則」 にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。

 進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象
(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの 「生命」 は宣告されているのであります。≫

 と 『生命の實相』 第1巻に書かれている、「生命の世界において落後することになっている」 のではないか。「生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの 『生命』 は宣告されているのであります。」 とある通り、生命の法則にかなっていないから信徒は離れて行き、教勢は衰退の一途をたどっているのではないか。

≪ 人類は 「生命顕現の法則」 に則って生きているだろうか? ということです。≫

 と信徒に訴える前に、その問いかけを、「自分は……」 とご自身に向けられるべきではないでしょうか。


 道に迷ったときには、元に戻って出直せばよいのである。


 『新版 真理』 第十巻 [実相篇] 325~327頁には、次のようにありました。


≪     御心の天に成れる世界


 既に 「現象以前の世界」 には 「完全な世界」 が出来上っているのです。この 「完全な世界」 を 「実相世界」 と称するのです。それは既に電波として放送されている番組の世界のようなものであって、既にあるのですけれども、波長を合わすまでは現象的には見えて来ないのです。

 テレビ・セットに現象的にあらわれるまでは見えないでも、既に放送番組は存在するのと同じように、実相の 「完全世界」 は存在するのです。それをキリストは 「御心の既に天に成れる世界」 と云うように仰せられました。略して 「天国」 又は 「神の国」 と称するのです。

 「神の国」 は既にあり今此処にテレビの放送電波のようにあるのですが、人類の “心” と云う “テレビ・セット”が其の 「神の国」 に波長を合わさないのでシューシューと云う争いの雑音のみが聴えているのです。


     “現象悪” を実在だと思ってはならない


 「完全な信仰」 をもつと云うことは、「神の国」 に 「脳髄」 と謂うテレビ・セットの波長を合わすことになるのです。「完全な信仰」 とは 「神」 が完全であり、神がそのコトバ (生命の霊的波動) にて創造
(つく)り給うた世界 (実相世界のことである――現象世界に対しては放送番組に当る) も完全であると云う堅き信仰を言うのです。

 其の 「完全なる信仰」 によって 「神の国」 の放送された波長に同調して、現実界に完全な 「神の構図」 が実現することになるのです。

 神の創造り給うた世界が完全であると云うことを信ずるためには、現象界に如何なる “現象悪” があらわれていようとも、“そんなものは実在ではない” と知らなければならないのです。“悪” と見えるものを “実在” すると信ずるならば、“悪の存在感” に圧倒せられて、吾々の “心のラジオ” が、宇宙に浮遊する “悪念波” の波長に合うことになって、現象界は何時までも良くならないのです。


     「悪」 を分析しても 「善」 は顕れて来ない


 「現象悪」 を実在すると観て、それを観察し、分析し、「悪」 の要素を排撃しようとして 「悪」 と戦う心を称して 「知恵の樹の果」 を食べた心と称するのです。併し 「悪」 と戦う心を起しても、決して 「悪」 は減じないのです。それは 「水爆」 と戦う心を起せば起すほど、水爆の実験の回数はふえ、地球を取巻く空気は愈々益々ストロンチューム90の放射能で汚染せられる度合が増加するようなものです。

 若し各国が、相互の相手国の 「悪」 を見ず、ただ 「善」 と 「愛」 のみを見て親愛の情を深めて行きさえするならば、水爆と云う “悪” は自然に消えて、其処には唯、「原子力の平和利用」 と言う “善” のみが実現する世界が出て来るのであります。≫


≪   人類無罪宣言



 谷口が 「神の子」 でなければ、誰の子でありますか? 神以外に創造主
(つくりぬし)なきがゆえにすべての人間は皆 「神の子」 なのであります。「イエスだけが神の子であって、人間はイエスを通さなければ神の子になれない」 と言う一派のキリスト教思想がありますが、笑うに耐えた邪見であります。

 「イエスを通さなければ神の子になれない」 ような人間は誰の子でありますか。神以外に創造主
(つくりぬし)があり、神以外に天父(てんぷ)があり、そこから生まれた子をイエスを通して 「貰い子」 としてもらわなければ神の子になれないなどとはなんという矛盾に充ちた思想でしょう。

 わたしはわたしの神性のゆえに、わが父 「神」 を証
(あかし)し、すべての人類がまたわが兄弟 「神の子」 たることを証(あかし)する。人間はすべて神の子であって 「貰い子」 も「継子(ままこ)」もない、みんな神の子なのであります。わが証を真(まこと)とするものはわれに従え。神を 「神罰を下す継父(けいふ)なり」 と誣(し)いる者よ、去れ。

 キリストが 「われは道なり、真理なり、生命
(いのち)なり、我に由らでは誰にても父の御許(みもと)にいたる者なし」 (「ヨハネ伝」第十四章六節) と言い給いし言葉から、キリストを通さねば人間は 「神の子」 にしてもらえないという普通クリスチャンの一般観念が生まれて出るのでありますが、ここにキリストが 「我」 と言い給いしは肉体キリストではないのであります。

 「道」 であり 「真理」 であり 「生命」 であるキリスト、「アブラハムの生まれぬ前
(さき)より我はあるなり」 と言われたキリスト、すなわち肉体キリストにあらず、「真理なるもの」 「生命なるもの」 「実相なるもの」 を通さなければ、本当の父なる 「神」 の御許へ行くことができないと言われたのであります。

 なぜならわれらが 「本当の父なる神」 すなわち 「創世記」 の第一章において、われらを創造り給うたとある正しき 「父」 の子となるには、「ニセ物の父」 なるエホバ神、怒りの神、嫉
(ねた)みの神、復讐の神、神罰の神の手を免れて、「真理」 を通して、どれが本当の父であるかを見分けねばならないからであります。だからキリストは、「我は真理である。真理を通さねば、本当の父の許へ行かれない」 と言われたのであります。

 それは肉体キリストではない、真理キリストであります。アブラハム以前より存在し、二千年前にはキリストの肉体に宿り、今またわが肉体に宿りて、「本当の父」 (完全なる神、神罰なき神、罪も病も創造
(つく)らざる神) を証(あかし)するところの真理キリストであります。真理によらざれば本当の父を見分けることができない。「われに由らで誰にても父の御許に至るものなし」 とはこういう意味だったのであります。

 されば、われらは誰によらずとも真理によれば 「父の御許に至る」 ことができるのであります。真理によらざれば、いわゆるキリスト教を信ずるとも、邪信迷信に陥れば 「父のみ許に至る」 ことはできないのであります。

 「父のみ許に至る」 というのはどういう意味であるかと申しますと、それは 「創世記」 の第一章にある神の実子として、神の像
(すがた)に完全につくられている霊的実在としての本当の自分を発見することであります。土の塵にて造られたる物質人間アダムの子としての自分でなく、「エロヒム神」 の子として、無病、無罪、不悩、不苦にして、自由自在に創られたる自分を発見することであります。

 本当に救われるということは、神罰に威嚇されていやいやながら善をするのでもなく、神罰を赦しでもらうことでもなく、罪があるのに、依怙贔屓
(えこひいき)で特赦してもらうことでもなかったのであります。真理により実相により、本来の自由自在な人間を発見することが本当に救われるという意味なのであります。

 「実相
(われ)に依らで父の御許に至るものなし。」 実にそうです。「実相」 を知らないでは、継親(ままおや)を本親(ほんおや)だと見違えるほかはないのであります。だからわれわれは常に 「実相」 を呼び出すことが必要なのであります。

 ところが、この実相というものはどこにあるかというと、遠いところにない。自分のうちにあるのであります。

 だからある禅宗の偉い坊さんは 「主人公、主人公」 と毎日自分を呼んでまた自分で 「ハイ、ハイ」 と答えていたそうであります。生長の家では 「神の子、神の子」 と呼んで、「ハイ、ハイ」 と答えるのであります。

 道を歩いている時にも 「今、神の子が道を歩いている」 と思うのであります。また神想観といって自分が神の子である実相を観ずる修行をするのであります。

 そして心の底から自分が土の塵にて造られたアダムの子であるという潜在意識が消え、すべての罪の意識が消えたときに、われらは完全に救われたということになり、すべての自由な完全な状態が、実相そのままの現われとして自分自身に実現するのであります。

 キリストが 「汝の罪赦されたり、起ちて歩め」 と言って病者を癒やされたごとく、わたしもまた同じように言って病者を癒やすことができるのは、自分自身の罪の観念で自縄自縛された結果、病気をあらわしている者が、罪の観念を解除された結果、自然に治るのであります。

 生長の家が出現して以来、多くの信徒たちがただ、『生命の實相』 の聖典を読むだけで、その 『生命の實相』 の内容を語り伝えるだけで多くの病気を癒やしえた体験を発表していられるのも、神の創造
(つく)り給える世界には本来罪も無く神罰もないからであります。

  ( 『生命の實相』 第23巻 81~84頁 より ) 



 私は今、感謝と歓喜に満ちて、神の創造の本源世界である 時空を超えた

 「久遠の今」 に入る神想観をし、「久遠の今」 に立って、

 「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 を全世界に放送するのである。


  <つづく>


  (2020.4.3)

551 コロナウイルスは、“敵”ではない(2)。禍を転じて福となせ


 新型コロナウイルスの感染拡大は、発生源の中国ではピークを越えたと言っているが、中国以外の欧米をはじめ177カ国・地域に広がっている。3月に入ってから加速度的に急拡大を続け、累計の感染者数は米国が14万人超と中国やイタリアを上回り、世界最多。

 世界全体の感染者は70万人を超え、死者は3.3万人を上回って、季節は春だのに、世界の国々は動きを止め恐怖して凍りついているようだ(2020/3/30)。

 「目に見えない敵と戦っている。この戦争に勝たないといけない」。「私は戦時の大統領も同然だ」 とトランプ氏は言い、各国の首脳たちも同様のことを言い始めて身構えている。

 だが、危機はチャンスでもある。

 著書 「サピエンス全史」 で人類の発展の歴史をひもといたイスラエルの歴史学者、ユヴァル・ハラリ氏が日本経済新聞に寄稿し、新型コロナウイルスの脅威に直面する世界に今後の指針を示した。その一部を抜粋引用させて頂く。


≪ 人類はいま、世界的な危機に直面している。おそらく私たちの世代で最大の危機だ。私たちや各国政府が今後数週間でどんな判断を下すかが、今後数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化をも変えていくことになるということだ。

■新型コロナ危機後は違う世界になる

 私たちは速やかに断固たる行動をとらなくてはならない。選択を下す際には、目の前の脅威をどう乗り越えるかだけでなく、この嵐が去ればどんな世界に住むことになるかも自問すべきだ。新型コロナの嵐はやがて去り、人類は存続し、私たちの大部分もなお生きているだろう。だが、私たちはこれまでとは違う世界に暮らすことになる。

 今回とった多くの短期的な緊急措置は、嵐が去った後も消えることはないだろう。緊急事態とはそういうものだ。緊急時には歴史的な決断でもあっという間に決まる。平時には何年もかけて検討するような決断がほんの数時間で下される。

 多くの国で、国全体が大規模な社会実験のモルモットになるということだ。全ての人が在宅で勤務し、互いに離れた距離からしかコミュニケーションをとらないようになるとどうなるのか。学校や大学が全てをオンライン化したらどうなるのか。いかなる政府も企業も教育委員会も、平時にこうした実験には決して同意しないだろう。だが、今は平時ではない。

 (中略)

 すべての危機はチャンスでもある。新型コロナの流行が、グローバルな分裂が重大な危険をもたらすと人類が理解する機会になることを願う。

 我々は目の前には、自国を優先し各国との協力を拒む道を歩むのか、グローバルに結束していくのかという2つの選択肢がある。前者を選べば危機は長期化し、将来さらに恐ろしい悲劇が待つことになるだろう。後者を選べば新型コロナに勝利するだけでなく、21世紀に人類を襲うであろう様々な病気の大流行や危機にも勝利することができる。…(後略)…≫



 前項(#550)で、『神 真理を告げ給う』 (谷口雅春著) に、「病菌と見える者も」 ―
(ということは今、世界で猛威を振るい人々を脅かしていると見えるコロナウイルスも) 人類の敵ではなく、

 「墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるための、(神からの)メッセンジャー」

 と書かれていることを紹介させて頂いた。

 コロナウイルスによる危機的状態は、人類の魂が墜落しかけた業
(ごう)が浄められるための自壊作用であろう。自壊作用は、浄化作用なのである。聖経 『続々「甘露の法雨」』 にあるように、

≪ 高く建ちたる建物の壊(くだ)くるときには
   轟然たる響
(ひびき)を発せん。
   その轟然たる響にも似たる病変は
   高く建ちたる汝の過去の迷いの消ゆる響なり。
   迷いの建物低ければ激動少し、
   迷いの建物高ければ激動多し。
   されど此らの病変を恐るること勿れ。
   壊くるものは汝自身に非ずして 「迷い」 なり。
   「迷い」 壊くるとも本当の汝は壊けず、
   「迷い」 苦しむとも本当の汝は苦しまざるなり。……≫


 という状態が現前するための浄化作用が、今起きているのである。恐れることなく、ただ感謝して、神に打ち任せればよいのである。されば聖経 『続々「甘露の法雨」』 は謳う――

≪ 神は善なるが故に、
   すべては 「一」 の展開なるが故に、
   一切のところに遍く調和は行きわたり、
   不調和はありと見ゆれども
   真に不調和は存在せざるなり。
   真に不調和は存在せざれども、
   不調和を心に描きて見詰むれば
   不調和は心の投影
(かげ)として顕現せん。

   病気の伝染を聴きて恐るれば
   恐怖の心境
(こころ)の影としてその病気はあらわれん。
   ……

   生命の実相より観ずれば
   病気はただ覚むべき一場の悪夢に過ぎざるなり。
   病いを癒やさんとする者は
   「人間神の子、病気は非実在なり」 と知らざるべからず。

   病気を癒やすとは、
   畢竟、本来完全なる 「神の子・人間」 を顕現することに他ならず。
   汝ら 「人間・神の子」 の自覚より
   更に進んで 「神の子・人間」 の自覚に入るべし。
   「神の子・人間」 には病い無きなり。
   「神の子・人間」の上には、
   神の法則のみ支 配す。
   神は愛なるが故に
   神罰の法則は汝を支配すること能わず。

   神は生命なるが故に、
   死の法則は汝を支配すること能わず。
   神は智慧なるが故に、
   智慧は処を得て一切処に満つる秩序なるが故に
   「神の子・人間」 には如何なる不調和も存在し得べからず。
   不調和なければ病いなし。
   「神の子・人間」 よ、
   汝ら病気の症状を恐るることなかれ。
   病気の症状はただ恐怖心の具象化に過ぎず、
   恐怖滅するとき症状もまた滅するなり。
   「この病気は、この心の迷いの影」 などと
   「迷い」 をいちいち詮索すること勿れ。
   「迷い」 本来無ければ
   「迷いの影」 も本来無し。
   「この病気は何の罪の結果ならんか」 と
   罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
   罪本来無ければ、
   罪の種類も本来存在せざるなり。
   汝ら存在せざるものを追うこと勿れ。

   汝の生命の実相は
   久遠の神なり、
   金剛身なり、
   不壊身なり、
   本来円満完全なる仏身なり。
   何処にか迷いあらんや、
   何処にか罪あらんや、
   また何処にか瀆
(けが)れあらんや。

   「色々と悟らせて頂きました」 などと
   種々の罪や迷いに心執わるるは
   却って悟りに遠きこと
   暗に執われて光を忘じたるが如し。
   罪も、迷いも、病いも、
   畢竟、「無」 なるものの一場の夢に過ぎず。
   「因果はめぐる」 の法則も
   南柯の一夢に過ぎざるなり。

   因果を超え、
   業苦を超えたる
   真清浄、真無垢なるものこそ
   汝の生命の円満完全なる実相なり。

   罪を右顧左眄
(うこさべん)すること勿れ。
   迷いを右顧左眄すること勿れ。
   病いを右顧左眄すること勿れ。
   汝ら百尺竿頭より一歩跳ぶべし。
   更に空中に遊歩すべし。
   空中遊歩の神人とは
   汝らの 「生命」 の実相なり。
   実相のほかに真の汝なし。
   肉体ありと見ゆれども
   そはただ心の波動の投影に過ぎず、

   真の人間は 「神の子・人間」 なり、
   真清浄、真円満なる 「神の子・人間」 なり。
   汝ら驀
(まっしぐ)らに 「神の子・人間」 を自覚せよ。
   「神の子・人間」 を自覚して
   罪と迷いと死の夢を消し去るとき、
   汝の恐怖滅し、
   汝の病気も完全に滅し去らん。

   天使
(てんのつかい)また説きたまう。――
   肉体は 「汝」 に非ず、
   肉体のことに就いて思い煩うこと勿れ。
   思い煩えば恐怖生じ、
   恐怖生ずれば恐怖の反影として
   肉体の不調和は持続せん。
   汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ。
   「一層高きもの」 こそ真の 「汝」 なり。
   若し汝の心にて恐怖を滅せんと努力して、
   而も恐怖を滅することを得ざるときには、
   恐怖を捨てんとする努力をさえ止め、
   唯そのままであれ、
   ただ実相
(そのまま)であれ。

   如何なる恐怖も
   「生命」 の実相
(そのまま)の中には存在せざるなり。
   無き恐怖を滅せんとする必要も亦あらざるなり。
   汝は汝の 「生命」 の実相
(そのまま)で宜しきなり。
   恐怖しながら、そのまま恐怖本来無きなり。
   そのままに真に委せ切るとき、
   実相なる神は一切の恐怖を拭い去り給わん。

   神の法則のみ真に一切を支配す。
   物質の法則は汝を支配すること能わず、
   罪の法則は汝を支配すること能わず、
   迷いの法則は亦汝を支配すること能わず。

   されば汝らは金剛不壊の実相身にして、
   物質的寒冷も、暑熱も、気候風土も、黴菌も、
   汝を害すること能わず。
   かかる物質が汝を冒したりなどと考うることを止めよ。
   かかる罪が自分に報いられたりと思うことを止めよ。
   かかる迷いがこの病いの原因なりと考うることを止めよ。
   病い本来無ければ、
   病いの原因も本来無し。
   病いも無く、罪も無く、迷いも無く、死も亦無しと知れば
   何れの処にか恐怖存在せん。

   天使つづいて説きたまう。
   家庭の争い、
   嫉妬、
   憎悪、
   復讐、
   憤怒の念――
   全ての悪念は健康の恢復を妨ぐるなり。
   若しかかる悪感情起らば
   速かに 「神の子・人間」 に本来かかる悪感情無しと観じて、
   かかる悪感情を断ち切るべし。

   悪感情ありと思うが故に
   悪感情は捨て難きなり。
   生命の実相に於いては
   本来悪感情無きが故に悪感情を捨て得るなり。

   汝の心に常に 「実相」 の愛と平和と智慧と調和のみを満たせば、
   生命の円満なる実相は形の上にも露呈せん。
   ……

   ただ神に委ねよ
   全き愛なる神に信頼して、
   「神よ」 と呼ぶべし。
   神は常に汝に調和と平和とを与え給うべし。
   神の中に汝の 「心」 を投げ入れよ。

   「神よ、神よ」 と称えつつ
   汝の全存在を神にまで委せ切るべし。
   神こそすべての渾て、
   神はすべてにましますが故に
   神のほかに何ものも存在せず。
   神は善にましますが故に
   善のほかに如何なる 「悪」 も存在せず。
   神は完全にましますが故に
   不完全なる病いの存在することなし。
   神は生命にましますが故に
   生命のほかに 「死」 の存在することなし。
   「悪」 と 「病い」 と「死」とは
   唯汝の心に描かれたる顛倒妄想
(まよいのかげ)に過ぎず。
   本来 「無きもの」 を 「有り」 と描きて恐怖するもの
   これ汝の病いなり。
   苦しみは是れ汝の心の中にあり、
   痛みは是れ汝の心の中にあり。
   心に恐怖を去り、
   苦しみを去り、
   痛みを去れば、
   何
(いずれ)の処にか病患(やまい)あらんや。……

   汝は神の子なり、仏身なり、
   金剛身なり、不壊身なり、
   無病身なり、常楽身なり。
   感覚主義、合理主義に陥りて
   金剛不壊の常楽身を見亡
(うしな)うこと勿れ。
   今すべての病者は癒えて
   その病床より起ち上らん。

   天使
(てんのつかい)斯く啓示したまうとき
   すべて人類の病患は忽ち消え
   盲人
(めしい)は眼(まなこ)ひらき、跛者(あしなえ)は起ち上り、
   歓喜し相擁して
   天日を仰ぎて舞踏するを見る。

   夢にあらず、実相なり。
   天童たち仰ぎ見て讃嘆し、
   敬礼し軈
(やが)て歌いて云う。
   「神はすべての渾て、神は我がみ親、わが光、
   我らを救い給えり」と。
   此のとき、大神の天の宮なる太陽は
   円舞するが如く照り輝き、
   神光
(みひかり)は花葩(はなびら)の如くさんさんと地に降り濺(そそ)ぎ、
   五彩の虹、雲の柱となりて空にかかり、
   実相の国そのままのみ栄えを実現したりき。 (聖経終)

      成願文

   願わくは此の聖経の功徳により一切衆生の迷い消え、
   病い消え、悩み消え、地上に天国浄土の実現せんことを。≫


 と。

 されば私は今、この神の創造の本源世界である 時空を超えた

 「久遠の今」 に入る神想観をし、「久遠の今」 に立って、

 「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 を全世界に放送するのである。


  <つづく>


  (2020.3.30)

550 コロナウイルスは、“敵”ではない。


 コロナウイルスは、神の創造し給うたものであるか。


 『神 真理を告げ給う』 (谷口雅春著) には、次のように書かれている。(p.15~20)

 この中で、“わたし” とあるのは、神である。


     * * * * *


≪ “わたし” は実相である。“わたし” はあなたの実相である。“わたし” は永遠に存在する実在である。“あなた” の実相は “わたし” であるから永遠に存在するものであって金剛不壊の存在なのである。本当のあなたは不滅の存在なのである。

          ○

 “わたし” は久遠永劫の存在である。“わたし” は時間空間を超えている。時間の流れの中にないから “わたし” は不滅である。“わたし” は “生まれた” という時はないのである。従って、“死ぬ” という時もないのである。

 “わたし” はあなたの “実相” としてあなたの内に宿っている。そしてあなたの肉体を生かしている。肉体は自分で生きているように思っているけれども、“わたし” があなたの肉体から去ったら、肉体は死んでしまう。あなたの肉体に生気を与えているのは “わたし” である。そしてあなたの “本当の自分” は此の “わたし” 即ち “神” なのである。

          ○

 あなたが 『生命の實相』 を読むとき、あなたの内にあって眠っていた “わたし” の分身が、実相を語るコトバの力によって目覚めしめられる。その程度は人によって異るのであるけれども、その目覚めの程度にしたがって、或いは病気が消えたり、その人の経営する事業が、実相円満の展開として、繁栄して来るなどの体験があらわれて来る。人々によって、そのお蔭の種類や程度が異るのは、過去の善行の蓄積の相異や、精進努力の程度の相違によるのであって止むを得ないことである。

          ○

 あなたの肉体を、生きている姿で動かしているのは “わたし” である。“わたし” はあなたの心臓を鼓動させ、あなたの肺臓を呼吸させる。“わたし” があなたの肉体から去れば、どんなに肉体の機構が同じように健全な、故障のない相
(すがた)であっても、あなたの心臓の鼓動はとまり、あなたの肺臓の呼吸は止まる。

 あなただけではない、すべての生き物を生かしているのは “わたし” である。どんな微生物でも、どんな巨大な動物でも、皆 “わたし” の生命が生かしているのである。それゆえに “わたし” は “生” と “死” との鍵をにぎっているのである。

          ○

 どんな微生物でも “わたし” が生かしているのである。あなたが病菌であるといっておそれている微生物も、本来 “病菌” ではない。それは “わたし” が生かしているのである。その病菌と見えている者が、実は、あなた達の間違った “心の思い” や “生き方” を警告して、それを是正させるために “わたし” が姿を病菌の如くあらわしていることがあるのである。

 “わたし” は、どんな消毒薬よりも強いのである。“わたし” はその人間の魂に警告を与えて、正しい生き方に還らせようとして病菌としてあらわれている場合には、その目的を達しない限り、どんな薬剤を与えても、その病菌は消えるものではない。しかしその目的を達して人間たちの心が正しくなったとき、わたしはその微生物を現象界から “生命の素材の世界” へ引き戻す。その時、あなた達の病気は癒えるのである。

          ○

 けれども、それを神が人間に罰を与えているのだと考えてはならないのである。“わたし” は愛であるから “罰” を与えたりはしない。“わたし” は人間の魂が墜落しようとするのを、ある方法で引き留めようとしているに過ぎない。
病菌と見える者は、“わたし” が墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるためのメッセンジャーに過ぎないのだ。

 それは神の罰でも神の鞭でもない。それは神の救けの綱であり、墜落を防いでやるためのガードレールのようなものである。

          ○

 “わたし” は “愛” であるが、同時に智慧であり、また生命である。それは物質の世界に於ては熱とあらわれ、光とあらわれ、エネルギーとしてあらわれている。“愛” が先でもなければ、智慧が先でもなければ、生命が先でもない。光と熱とエネルギーとが相互に一体であり、どの相にも交互にあらわれ得るように、“わたし” は愛ともあらわれ、智慧ともあらわれ、生命ともあらわれる。愛と智慧と生命との三つが同時に一体となって万物を生かしているのである。

          ○

 “わたし” は一切の現象の中に “わたし” の智慧と愛と生命とを顕現している。“わたし” を見たければ森羅万象を見ればよいのである。しかし肉眼でそれを見るならば、必ずしも “わたし” の創造した万象の “真実の姿” を見ることはできない。何故なら、肉眼で見る人は、自分の先入観念や迷いの念で “雲” をつくって “真実の姿” を覆い隠しているからだ。だから神想観の時には肉眼を瞑じて、心の眼をひらいて実相を直視せよというのである。≫



     * * * * *


 今、世界で猛威を振るい、人々を脅かしていると見えるコロナウイルスも、人類の敵ではなく、「(人々が)墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるための、(神からの)メッセンジャー」 なのであった。

 私は今、この神の創造の本源世界である 時空を超えた

 「久遠の今」 に入る神想観をし、「久遠の今」 に立って、

 「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 を全世界に放送するのである。


  <つづく>


  (2020.3.29)

549 真の正しい信仰とは何か。


 真の正しい信仰とは何だろうか。

 それは、イエスが 「みこころの天に成るが如く地にも成らせ給え」 と祈るように教えた、その 「みこころの天に成る世界」 ――すべてが処を得、大調和して、争う者なく、相食む者なく、病む者なく、乏しき者なき、ただ善のみ喜びのみ満つる世界の実在を信じ、今自分がその世界にいて、神なる大生命に生かされてあることを信じ、そのままに感謝に生きる(生かされる)ことであると、僕は信ずる。

 僕は此の一週間、谷口雅春先生著 『神癒への道』 を再読、精読、霊読して、深い法悦に満たされている。我を忘れ没入してその全文 (原典は旧かな、旧漢字、総ルビ
<ふりがな>付きである) を新かな、新漢字、パラルビ<特に必要なところだけふりがなをつける>にしてパソコンに打ち込み、その242頁にわたる全文をデジタル化、テキストファイルにして入力を終えた。

 本書は “神癒への道” と、平易なイメージのタイトルがつけられているけれども、内容は易しいハウツーものではなく、高度な哲学書とも言えるものだ。「神癒成就の根本原理 その哲学的根拠と実証」 とか、後に別の本につく 「奇蹟を生ずる実相哲学」 というタイトルでもピッタリ来る内容だと、僕は思う。

 今、現象界では新型コロナウイルスが猛威を振るい、その脅威に世界中が恐れおののき人々の活動を抑制して縮こまっている。


≪世界で新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。米ジョンズ・ホプキンス大学の集計によると、米国の感染者数は27日時点で10万人の大台を突破した。全世界の17%に相当する規模だ。世界全体の感染者数も59万人を超え、死者数は2万7000人に迫っている。多くの国は感染拡大の抑制へ総力戦体制で臨んでいるが、患者の増加に医療が追いつかない厳しい状況が続いている。≫


 と、今日(3月28日)の日経紙は報じている。

 だが、それは 「実在の世界」 ではないのである。神の創造し給える実在の世界は常に、すべてが処を得て争いなく不調和はなく、相食む者なく病む者なき、善のみ喜びのみ満つる世界である。

 今こそ、その目に見える現象世界の根源、「久遠の今」 に立ち還って、積極的祈りをすべき時だ。

 『神癒への道』 (谷口雅春先生著) は、『新型コロナを超克する道 ここにあり』 と題してもいいと思う。その 「序篇 何故神癒は成立するか」 から、少し転載させて頂こう。

 その中に、「メタフィジカル・ヒーリング」 という語が出て来るが、これについては 『生命の實相』 第1巻 「總説篇」 の最初に、次のように解説されている。

≪ 生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。メタ(meta)とは 「超越」 するという意味でありましてフィジカル(physical)とは 「物質的」 という意味であります。そしてヒーリング(healing)という言葉は癒(いや)すこと治(なお)すことを意味しております。つまりメタフィジカル・―ヒーリングと申しますのは、物質的方法によらずに実相円満の自覚によって、大生命のお力をよび起こしてわれわれの不幸を癒していただく方法であります。≫

 と。

 では、以下、新選谷口雅春選集<3> 『神癒への道』 4~16頁からです。読みやすくするため、改行を増やして表示します。


          ○


≪    序篇 何故神癒は成立するか


一、創造の本源に就いて

 「太初
(はじめ)に神天地を造りたまえり。」 この言葉の中にメタフィジカル・ヒーリングの根本的原理が既に明らかにされているのであります。宇宙の一切のものの本質は如何なるものであるか、それはその最始源をたずぬれば明らかにされるのであります。

 「太初(はじめ)」――そこには何ら目に見える宇宙はなかったのであります。如何なる恒星も存在しなかったし、太陽系統も存在しなかったのです。ただあるものは何であるか。それは形なきものであったのです。

 それは感覚に触れ難きものである、しかしその感覚に触れ難き、一見 「無」 と見ゆるものから、星雲が出現し、太陽系が現われ、地球が生み出され、その上に人間が発生したのであります。

 しかし一見 「無」 と見ゆる所のものが、真に 「無」 であるならば、何ものもそこから発生することはできなかった筈でありますが、そこから、斯くも無数の太陽系統が生み出され、諸々のものが発生してきたということを考えれば、その 「無」 と見ゆる所のものは、実は単なる 「無」 に非ずしてその内に 「無尽蔵」 を含む所の 「無」 であったと云わなければならないのであります。その 「内に無尽蔵を含む所の無」 ―― 「無にして無尽蔵なるもの」 が即ち 「創造の本源者」 であって、それを吾々は 「神」 又は 「大生命」 と呼ぶのであります。

 かくの如き目に見えざる神秘なる 「創造原理」 が動き出して一切の形あるものが発生したのであります。然らばその創造は如何にして行われたのでありましょうか。その創造の構造の原型となるべき 「設計」 はどこから得たものでありましょうか。その設計に従って、事物を生み出すための 「資材」 はどこから来たのでありましょうか。その設計に従って工作を継続する所の力はどこからきたのであろうか。何を、如何に、誰が、等の問題は如何にして解決することができるであろうか。

 吾々が宇宙の最始原に不可視の 「大生命」 のほか何ものもなかったということを知るならば、現在あるが如き宇宙構造を設計した所の 「智能」 も、その設計に従って工作される 「資材」 も、それを工作する所の 「動力」 その他の働きも悉く 「大生命」 からきたものだといわければならないのであります。

 されば、大生命こそは一切の存在をして斯く存在せしめている所の 「第一原理」 であり、すべての 「原因者」 であり、すべての設計、構造、図案、原型は無論のこと、その資材も、それを工作する力も、すべて 「大生命」 自らの中より出でたものであるということができるのであります。

 即ち宇宙の一切のものは、神御自身の中にその本源をもち、神御自身の上に働きかけて神御自身を通して出現したのだという事が出来るのであります。その力は明らかに或る 「意識」 であり、或る 「知性」 であり、自ら何を造りつつあるかを 「知る力」 であり、自ら 「設計工作する力」 であるのであります。


二、創造の過程を回顧すれば

 凡そ生きているものは、「吾あり」 の自覚によって始まるのであります。丁度それは吾々が眠りよりさめた時の感覚に似たものであります。生きている自覚、「ここに自分がある」 という自覚が漠然として目覚め、そして 「吾あるが故に」 動き出すのであります。ここに宇宙にみつる 「大生命」 の 「動き出し」 即ち 「波動」 が起るのであります。

 その 「波動」 を称して吾々は言葉というのである。

 「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」(ヨハネ伝第一章)であります。

 神は波動をおこさなければ、現象的に現われて来ないところの、「無」 なる実質の中に、コトバ即ち波動を起して、それの現象化の第一歩が始められたのであります。その波動は一定の律呂
(リズム)ある波動であって、その最初の波動の渦巻が電子又はそれに類する微粒子の根源となったのであります。

 斯くて神の言葉は即ち 「法則」 となったのであります。法則によって万物は形をあらわす、換言すれば大生命の波動は一定の律(法則)を以て動くことになったのであります。それの動きが支離滅裂な出鱈目なものでなく、秩序整然たる物理化学的又は音楽的法則によって動いている点にも、その 「大生命」 の本性が極めて高度の知性をもったエネルギーだということができるのであります。

 そこでこういうことがわかるのです。――神、即ち大生命は、一切のものの本源であり、「無」 にして 「無尽蔵」 であり、常にそれは生命波動(言葉)を発して、それ自身を資材として、それ自身の言葉の力によって、律動する所の極めて高度の 「知性ある者」 だということであります。

 だから神の言葉が彼の内に於て発せられる時神御自身が資材となって、それに創造が行われるのであります。コトバがその生命波動の形を決定するのである。いいかえると言葉が原型となって一切の形あるものが出現するのであります。その 「コトバ」 が吾々の内に宿って吾々の 「生命」 となっているのであって、吾々の言葉もものを造る所の 「原型」 となり、同時に 「資材」 となり、「造る力」 となるものでありますから、吾々が如何なる言葉を使うかと云うことは非常に大切なことであります。

 大生命の生命波動として発せられたるコトバはそれは 「永遠の法則」 となるのである。法則とは、「ノリ」 であって、神の言葉が 「宣
(の)り」 だされたものであり、その言葉によって、宣りだされたる肉眼にはまだ見えぬ所の 「原型」 を称して 「理念」 というのであります。その理念に従って目に見える具体的な現象は姿を現わすのであります。

 肉眼に見える現象は常に移り変るが、理念は永遠に変ることなき実体なのであります。「理念」 は譬えば種の中にすでに含まれている所の 「やがて出てくる所のその植物特有の葉、茎、花等の原型」 の如きものであります。それは尚肉眼に見えないが、また顕微鏡を通しても見えないが、それはその植物の (原型)「理念」 として存在するものであって、現象界の生滅にかかわらず永遠不滅の存在として三次限空間以外の世界に存在するのであります。

 斯くして神はまず無機物的宇宙を造り、その上に地球その他の遊星を造り、その上に鉱物、植物、動物をば自己の言葉の力によって自己自身を資材として造り出したのである。中身も外形も悉く神自身からそれは出たものであるから、神の自己顕現だと云わなければならないのでありますが、しかし、「無」 にして而も 「無尽蔵」 なる神御自身の自己顕現としてはこの程度のものでは甚だもの足りないのであって、ここに神は自己自からを最高完全に顕現した所の人間を創造したのであります。

 神御自身が夫
(それ)に対して呼びかけ、人間自身も神に対して祈れば答える所の人格として、神そのものの如く、無にして無尽蔵なる働きができる所の人間を創造することになったのであります。

 神は 「人間」 の中
(うち)に自分と全く等しき所の十全の神性をつぎこんだのであります。これが即ち人間であって、人間が 「神の肖像(にすがた)に造られたり」 といわれている所以なのであります。以上が、神が人間を造った所の目的であり、人間が地球に出現した使命なのであります。


三、人間は神の最高実現者である

 だから人間は神自身の最高顕現として、神の如く完全であるのが人間自身の実相であるのであります。人間は神の如く自由自在であり、「無」 よりして 「一切のもの」 を創造する力があるのであります。又人間は神の如く完全であるのが人間自身の実相であるのであります。人間は神の如く自由自在であり、「無」 よりして 「一切のもの」 を創造する力があるのであります。

 又人間は神の如く自己選択の自由意志をもつのであって何ものにも縛られるということはないのであります。神の如く人間は一切の環境を自分自身で支配し、自己の自由で創造せるが故に、自分自身が一切の環境の支配者であるのであります。

 人間以外の動植物及び鉱物は、より低位なる神の自己顕現であるが故に、かくの如きもの (天変地異とか黴菌の侵入の如きもの) によって人間が縛られたり害を受けたりすることはない筈であって、すべてのものを人間は支配する力をもっているのである。

 だから人間は病むということもなく、外界から強制されて不幸になることもない、貧乏になることもない、完全なる存在であるのであります。それが天変地異の災害や黴菌の侵入によって害されるのは神の自己実現である人間自身が、その至上権の自己放棄によって、みずからを 「物質に支配されるもの」 と自己欺瞞することによってであります。


四、神は無限の叡智者である

 神が斯くの如くしてこの広大無辺にして同時に精緻微妙なる宇宙を創造したことから考えればそれは無限の叡智をもちたまうものであるということがわかるのであります。

 その叡智は分子の構造や電子の運動や更に人間の脳髄におこる所の極めて精妙なる智慧の働きを観察するならば、如何におどろくべき力が神の創造力の中
(うち)に宿っているかということがわかるのであります。斯くの如き叡智ある被造物を叡智なき者が造り得る筈がないからであります。

 その神の叡智は極微の電子の中にさえも満ちています。神の叡智の存在しない所はないのであります。吾々は神の叡智の中に住んでいるということができるのであります。

 叡智(智慧の優れたもの)は意識的存在であって、それ故に吾々は大生命の中に生きているのだということがわかるのである。そして吾々自身も自己の自覚体験によって、自ら知っているように意識的存在であるから、大生命と意識的感応又は交流が常に行われているものであるということがわかるのであります。

 創造とは不可視の霊なる実質に対して或る形を与えるということであります。

 まず形は意識に思い浮べられて現われるのであって、それは発明家がものをこしらえるのも同じことであります。そこで吾々が何事かを現象界に造ろうと思うならば、まず意識の世界に、その欲する所の 「何ものか」 をはっきりと心に具体的に思い浮べることが必要なのであります。この思い浮べが、「生命の波」 即ちコトバであって、大宇宙の大生命の波に感応交流して、大生命を動かして一切のものを造りださせる働きをするのであります。

 メタフィジカル・ヒーリングによって人生を支配せんと欲するものは、この真理を、単に表面の意識でのみならず、潜在意識の底の底までにも貫徹せしめねばならない。そのために諸君は先ず神想観中に次のような言葉を繰返し念ぜられるが好いのであります。

 (神想観とは精神を統一して神と自己との関係を瞑想する方法である。)


五、神想観中に念ずる言葉

 吾々は神がすべての本源であることを今悟ったのである。神のみがすべての本源であるからすべてのものは一つでなければならないのである。

 神は大生命である。大生命が吾々に於いて自己顕現して人間となっているのである。だから吾々人間は互いに一体であって、ただ一つの大生命の生命を分ち有
(も)つのである。

 だからすべての存在は互に相連関をもっており個立したものは一つもないのである。吾呼べば天地は応えるのである。吾れ動けば宇宙は動くのである。

 互いに肉体は分かれていると見える所のものも、実は離れていないのであって互いに 「一つ の生命」 なのである。吾が環境は、吾が宇宙の実質に対して印象した所の自分の心の原型の通りのものなのである。

 自分は神の自己実現として一切のものを自己の想念のままに支配する力をもっているのである。すべての存在は大生命に於いて自分の兄弟であるが故に、吾々はすべてのものと和解し調和しているのである。だから自分の周囲にあるすべての人間もあらゆる環境も自分に対して和解し調和しているのである。

 自分は神の子であるから、善のほか何事をも想念しないのである。だから自分の周囲にはただ善きことのみが現われてくるのである。自分は幸福であり、愉快であり、すこやかであり豊かである。神なる大生命に感謝致します。


六、神は生命であり創造力である

 神は生きているから動かずにいられないのであります。動くとうことは生命の波をおこすということであり、生命の波をおこすということは、「無」 が形を現わして 「有
(う)」 となることであります。

 換言すればそれは 「創造する」 ということであります。神は創造せずにいられないのです。神は創造をやめることはできない。時々刻々何らかの創造が行われているのであり、しかもその創造は、法則に従って自働的に行われているのであります。

 その点に於いてはその創造は機械的に進行しているように見えます。ただ人間のみが、神の創造の有意志的な指導的な役割を与えられているのであって、吾々は神の創化作用の方向を自己の自由意志でリードし得べき偉大なる力を与えられているのであります。

 吾々を中心として神はその創造を意識的に形の世界に完成し給いつつあるのであります。だから人間は神の創造の意識的中心をなすものであって 「吾れ動けば天地動く」 ということはこういう意味からもいうことが出来るのであります。


七、神の自己表現としての人間

 メタフィジカル・ムーヴメントの所依するところの根本的信念は、人間は神の最高の自己実現であり、他の被造物は、より低位なる被造物であるから、かくの如きものによって人間が侵されると云うことはない。人間が万物の支配者であると云うことであります。

 ところが一方に 「進化論」 と云うものがある。人間が現在あるような姿に現われたのは、たしかに進化の結果であると云うのである。そこで人間が神の理念の最高自己表現であるということをいえば、生長の家は.進化論に反対するかの如き感じをうける人があるかもしれないが決してそうではないのであります。

 進化ということは、神の心の中に既に内在する所の志美至善の 「理念」 が、形ある世界に徐々に展開して尚一そう完全に自己表現を遂げることであって、無限に完全なる 「神の肖像
(にすがた)」 なる理念が人間であるから、その理念は一度に表現されるのではなくして次第を追って徐々に時間的過程を通して表現されつつあるのであります。

 人間は知性的存在であるから、その完全なる姿が発現する所の 「根源」 となるべきものは、知性的原因即ち 「理念」 でなければならないのであります。

 人間は神の自己表現として、「自由人格」 を有するのであるから、自己の生活を自己の意志によって自由選択し得る所の自由を有するのであります。

 吾々は自由意志を賦与せられ、自分で何事でも発現し得る所の力と自由とを与えられたのでありますから、吾々は自分で何事でも発見し、創造し、最後の完成を自分に適するように行わなければならないのであります。

 吾々人間は他の動物のごとく本能と云う機械的作用によって支配されているのではないのであります。たとえば獣は生れつき毛皮の着物を着ていてとりかえる必要がないのに、人間は生れつき裸であってそれをとりかえなければならないのは、人間は自ら発見し自ら選択し、自ら意識的に作る力を与えられているからであります。

 宇宙に存在する所のすべての鉱物、植物、動物は最後に神の最高顕現として創造せられたる人間によって発見され利用さるべき素材であるのであるが、もし吾々人間が自分自らそれを選択し利用しなかったならば、人間は自分に与えられたる天賦の権利を自分自ら放棄しているのであって、地下に幾何の貴金属が埋蔵されていても、それを人間自身が発掘し利用しなければ何の役にも立たないでありましょう。即ち吾々は与えられたるものを放棄する所の自由をも有するのであります。

 電気はモーゼの時代にも、コロンブスの時代にも、源頼朝の時代にも、徳川家康の時代にも、神は既にそれを創造して置いたのであるが、人間がそれを発見し、それを利用するまでは人間にとって何らの効果ある存在ではなかったのであります。電気のみならず、宇宙の凡ゆる存在は、その存在を見出し、それを支配する所の法則を発見するまでは人間の生活に於ける道具とはならないのであります。

 人間は地上に生れて、石器時代から銅器時代等々……を経て、現代に達したのであるが、最初は何れも、「物質」 と、「物質を支配する所の法則」 とを発見して利用していたのであって、人間が 「自分自身」 を発見し、「自分自身を支配する法則」 を発見したのは、人類始まって以来、極く最近のことなのであります。

 これによって、人類は自分自身を理解し、自分自身を支配する所の法則又は原理を発見し、それによって自分の健康を支配し、自分の環境境遇を支配し得るようになったのであり、これは極々最近のことであり、メタフィジカル・ムーヴメントは其の最尖端を行くものであります。

 すべて 「法則」 とか 「原理」 とか生命とかいうものは、目に見えないものであります。誰も 「神」 を見たものもなければ、「生命」 を見たものもないのであります。吾々が五官によって見るものは、「神」 そのものではなく、「神の表現」 であり、「生命」 そのものではなく、「生命の表現」 であります。

 吾々は自己に宿る所の 「生命」 の姿を見ることはできないのであります。「生命」 は唯内的にそれを体験し得るにすぎないのであります。吾々は原因結果の 「法則」 を見ることはできないのであります。吾々はただその 「法則」 がはたらいた結果のみを見るのであって、その原因である所の無形の 「法則」 なる心的存在は見ることはできないのであります。

 吾々には 「美」 そのものを見ることはできないのであって、美が現われている所の 「形」 を見るだけであります。その 「形」 を通してその奥にあるところの 「美」 を直観するだけであります。しかし本当の実在は形ではなくしてその奥にある所の理念的存在たる生命、智慧、美、愛等の如きものであります。≫



 私は今、この神の創造の本源世界である 時空を超えた

「久遠の今」 に入る神想観をし、「久遠の今」 に立って、

「宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り」 を全世界に放送するのである。


 <つづく>


(2020.3.28)

548 光を復活せよ! 『生長の家90年史』!


 谷口雅宣 生長の家総裁は、3月1日 「立教91年生長の家春季記念日・生長の家法燈継承記念式典」 の挨拶で、今年は立教90周年という切りのよい年だから、信徒必携の 「生長の家史」 を制作し、しっかりと歴史を踏まえた運動をすべく広報・クロスメディア部で編纂中だと語った。

 今は、殆んど光を失っている状態の生長の家教団が、その光を復活できるかどうかの瀬戸際と言える重大局面だ。この 「生長の家史」 の編纂姿勢次第で、もはや当分光の復活は困難となるような危機に立っており、同時にそれはまた本来の生長の家、神の光が復活する一つの好機ともなり得ると、僕は思う。だから、黙ってはいられない。

 生長の家の 「年史」 は、昭和34年(1959)に 『生長の家三拾年史』、同44年(1969)に 『生長の家四拾年史』、そして同55年(1980)に 『生長の家五十年史』 が刊行されて以来40年間、刊行されていない。

 その間、平成16年(2004)に 『歴史から何を学ぶか――平成15年度生長の家教修会の記録』 というのが刊行されている。これは谷口雅宣・当時生長の家副総裁が監修して編纂され、それまでの生長の家の運動を振り返り、『三拾年史』・『四拾年史』・『五十年史』 を否定するような内容のものであった。今回の歴史編纂というのも、これを引き継ぐものになる可能性が高い――ということは、谷口雅春先生が神の啓示を受けて始められた真性の生長の家はくらまされ、人類の霊的進化を滞らせてしまう内容のものになる可能性が高い――と思われるのである。


 さて、3月1日 式典での総裁の「お言葉」という講話を振り返る。

 総裁は、今回の式典が当初予定されていた長崎の総本山から山梨の北杜市本部に変更して小規模で行うことになったのは、コロナウイルスによる新型肺炎の蔓延拡大防止のため大きなイベントを中止するよう政府が要請したことに協力するためだと言った後、『生長の家』 創刊号と 『生命の實相』 第1巻をテキストに使用した。立教の精神を確認する意味で、このことはよかったと思う。

 総裁は、まず創刊号の裏表紙(表4)に記されている 「生長の家の宣言」 (「生長の家七つの光明宣言」の原型となったもの) の1から3項目を朗読。

≪ ▽吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
   ▽吾等は生命の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。
   ▽吾等は人類が無限生長の真道
(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究す。≫

 そして、ここに出てくる 「生命の法則」 というのに注目してよく考えましょう、と呼びかけ、その解説が 『生命の實相』 第1巻「總説篇」に書かれているとして、それを読む。

≪……われわれが生命を礼拝し、こうした 「生命」 の法則にしたがって生活することを目標においていますのは、われわれがこの世界に 「生命」 を享けてきた事実から出発するのでありまして事実ほど力強いものはないのであります。

 ……われわれが 「生命」 を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い 「生命」 であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。……≫


 第2項目の解説として――

≪ ……それならば、われわれがひたすらそれに従って生きてゆこうとする生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります。

 これも、われわれ、「生命」 として顕現
(うま)れて来たという否定できない事実から出発するのでありまして理屈ではないのであります。われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は 「生長」 することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、「生命の法則」 にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。

 進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象
(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの 「生命」 は宣告されているのであります。

 
……競争者や苦痛や不幸は、その人の 「生命(たましい)」 の生長にはぜひなくてはならぬ迷妄(まよい)の自壊過程であります。この刺激や反省資料があるためにわれわれの 「生命(たましい)」 は反省の機会を与えられ、浄化(きよめ)の機会を与えられ、いろいろの経験を積んで生長することができるのであります。≫

 ――と、総裁は一部省略引用して朗読。そして、

≪ 上のご文章は、生存競争を肯定しているかのように聞こえるんですけれども、第1項目の説明のところには、

 “われわれが 「生命」 を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い 「生命」 であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。自分自身が尊い 「生命」 であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることができるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの 「生命」 の大元
(もと)の 「大生命」 をも尊び礼拝したくなるのであります。”

 とある。これを読み飛ばして、「生長の家は生存競争肯定論である」 と誤解されるんですが、その前提としての第一項目には、私たちは 「神の子」 としての本質を持っていて、それは他人も同じように尊い存在であるということが書いてある。それを前提として、

 < 生命の法則は 「生長」 することにあるので退歩することではない。
  退歩する者は生命の法則にかなわず、生命の世界では落後する。>

 というのを読まなくてはならない。生長の家の教えの基本には、「人間は神の子である」 という教えがあるけれども、それは、現象のことではない。現象は、今日の社会を見れば、「神の子」 らしい人もいれば、そうでない人もいる。どっちが多いかと言ったら、神の子らしくない人の方が多そうである。

 そういうわけで、生長の家は、自分が仏であり神の子であるということを知っているだけで何も努力をしないのではいけません。――そういう教えですね。……

 努力して、内なる神の子の本性を出さないといけない、表現しなさい、ということ。それを 「生命顕現の法則」 といわれている。神の子の本性が顕現して行くためには努力が必要ですから、それをやって行きましょうという運動である。それを確認して、皆さんに伝えて頂きたい、というのが今日のメッセージです。≫


 ――と力説した。

 僕はここに、紙一重の差かも知れないが、総裁が生長の家の説く本来の教えから外れて行く第一歩があらわれていると思う。

 つまり、「人間は神の子」 というのは実相のことであって、現象は神の子ではなく、「罪の子」 である。「神の子」 になるには、努力が必要である。だから、それをよくよく自覚して、「人間至上主義」 にならず、「倫理的生活」 を送るように努力しなければならない――となって行くのである。つまり、「現象」 に重点をおき、「実相」 を覆い隠した出発になっているのである。

 「現象」 は影であり、闇である。光は 「実相」 にあるのに、「現象」 つまり闇に立脚して教えを説いているのである。

 本来の、真の生長の家の教えは、「現象なし」 「実相・神の子 独在」 の教えである。それは、「至上者の自覚の神示」 に明示されている。

≪ 人即ち神であると言う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』 が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。

 自己が神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、自己の本性が神だと悟った者を謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。斯くの如き想像をする者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるのである。キリストが弟子の足を洗うことが出来たのも、自己が神だと悟っていたからである。

 本当の謙遜は 『神の自覚』 から来る。神を自己の本性
(うち)に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈にすぎない。卑屈と謙遜とを思い誤るな。本当の謙遜とは 『自己は神より出でた神の子である、従って神そのもののほか何者でもない』 と言う真理を何らの抗(さか)らいもなしに承認することである。此の真理を承認するものを謙遜と言い柔和と言う。此の真理に逆う者を傲慢と言うのである。すべての傲慢と意地張りとは 『吾れ神なり』 の真理を承認しないところの根本傲慢より分化し来(きた)るのである。≫

 ――生長の家の根本は、「神の子・人間至上主義」 なのである。


 さて、それから総裁は 「私が18年前に出した本」 として、『今こそ自然から学ぼう』 という著書をテキストにした講話を始める。

≪ 人類は 「生命顕現の法則」 に則って生きているだろうか? ということです。≫

 と。


 <つづく>


(2020.3.17)

547 希望の光を失ったか? 生長の家教団


 僕は、高校2年生まではただボーッと生きていたが、高2から高3になる間の春休みに突然不思議な体験をして、人生に希望の光を見出した。そのとき父が 『生命の實相』 を読んで生長の家の教えに触れていたのである。

 突然人生に希望の光を見出した僕は、「東大だ! 東大だ! そうだ、希望だ、東大だ!」 と猛勉を始め、ストレートで東大に入った。しかし、そこで大きな挫折を味わう。

 僕は、退学願を出すに到るまで追い詰められた。

 そのとき僕は、『生命の實相』 を読み、「ここに最高の哲学、最高の人生の道がある」 と感じて、谷口雅春先生にお目にかかることができた。昭和28年の秋だったと思う。それ以来この道ひとすじに生かされて、生きがいある約70年を送ることができ、元気で87歳となる今日に至っている。

 しかし今、生長の家教団は、希望の光を殆んど失ってしまったと感じる。

 僕は、このことに責任がある。このような状態をそのまま遺して人生を終るわけにはいかない。

          ○

 去る3月1日、「立教91年生長の家春季記念日・生長の家法燈継承記念式典」 というのが、山梨県北杜市の生長の家国際本部で行われ、その実況がウェブサイトでライブ配信された。これは後で見ることは出来ないと予告されていたので、注目していた僕はPCの画面の前にビデオカメラを設置し録画、録音した。それに基づいてこの時の記録を分析し感想・意見を述べたいと思う。

 概略を一言でいえば、上述のように、「生長の家教団は、希望の光を失ってしまったか」 と感じさせる、がっかりさせるものだった。

 光明面もなかったわけではない。まず、「生長の家の歌」 を歌ったのは嬉しかった。この歌は、「生長の家の歌」 と題しながら、「生長の家」 という詞は一度も出て来ない。1番が 「基教讃歌」、2番が 「仏教讃歌」、3番が 「古事記讃歌」、4番が 「万教帰一讃歌」。「久遠の今」 が生長の家であり、「久遠の今」 において万教は一つであるという大真理を謳い上げているのだ。


     
生長の家の歌

    一 基教讃歌

  あまつくに いまここにあり
  我ちちの みもとにゆけば
  なんぢらの うちにきたると
  十字架に かかりしイエスは のたまひぬ
  あはれ世のひと 十字架は
  にくたいなしの しるしなり
  この肉体を クロスして
  我れ神の子と さとりなば
  久遠
(くおん)にいのちかがやかん
  久遠にいのちかがやかん

    二 仏教讃歌

  衆生
(しゅじょう)(こう)つきてこの世の
  焼くときも 天人みつる
  我が浄土 安穏なりと
  釈迦牟尼
(しゃかむに)の 宣(の)りたまひしは 現象の
  この世かはるも 実相の
  浄土はつねに 今ここに
  久遠ほろびず 燦々
(さんさん)
  まんだらげ降り 童子舞ふ
  光輝く世界なり
  光輝く世界なり

    三 古事記讃歌

  天津日子
(あまつひこ) 火遠理(ほおり)の命(みこと)
  現象の わなにかかりて
  海幸
(うみさち)を 我(が)の力にて 釣りたまふ
  されどつりばり 失ひて
  まがれる鉤
(はり)に まよふとき
  しほづちの神 あらはれて
  めなしかつまの み船にて
  龍宮城に 導きぬ
  龍宮城はいま此処ぞ
  龍宮城はいま此処ぞ

    四 万教帰一讃歌

  しほづちの うみのそここそ
  創造の 本源世界
  汝らの 内にありとて
  キリストが のりたまひたる 神の国
  この世焼くるも 亡
(ほろ)びずと
  法華経の説く 実相の
  浄土何
(いず)れも ひとつなり
  十字まんじと 異なれど
  汝
(な)のうちにある天国ぞ
  汝のうちにある天国ぞ



 次に、『生長の家』 創刊号に掲載されている 「生長の家出現の精神とその事業」 と題したいわゆる“生長の家発進宣言”と云われている文章を、谷口純子白鳩会総裁が朗読されたのもプログラムとしてはよいと思った。しかし、それを朗読する純子さんの、以前に感じられた輝くようなオーラが消えていて、やつれたような表情で原稿に目をおとしたまま一度も顔を上げることなく朗読されたのにはちょっと驚き、哀れにさえ思えた。

 この、「蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する」 という“発進宣言”は若干悲壮感も感じられる文章だけれども、創刊号全体には極めて明るい自信と希望、勇気に充ちた言葉が満載されている。

 表紙裏(表2)には

 
「『生長の家』 は読み捨てにするやうな雑誌ではありません。どんなに此が好い雑誌であるかは読んで御覧になれば判ります。読みガラを捨てないで常に座右に置いて下さい。そして心に暗い影がさして来たら本誌のどの1頁でも宜しいから、開いてお読み下さい。あなたの心がそれはそれは軽くなります。暗い人生観が明るい人生観にかはります。これを病人に贈れば実に好い慰めともなり見舞ひともなります。私の書いたものは唯読むだけでも元気が出て病気が軽減することが度々あるさうです。……『生長の家』 は一つの家庭に是非一冊はなくてならない雑誌です。日本国中の家庭が此の雑誌をとつて呉れれば日本国中の家庭が栄えます。……私は日本国中の家庭を楽しい 『生長の家』 とするために全精力と全資金とを此の事業に献げます。……」

 と、自信に満ちた言葉が書かれているし、「生長の家の生き方」 として 「朗らかに笑って生きる」 というのもあり、「夢を描け」 という詩も掲載されている。こんな詩もある――

     
*****

  生長のお家は
  日當りが好い、
  お庭がひろくて藤の棚があります。

  生長のお家に
  ブランコが出來ました
  多勢の子供が來て
  さわいでよろこびます。

  大人も子供も
  生長のお家に來る人たちは
  みんな一しよに
  伸び伸びと生長します。

  生長のお家で
  私たちは生長の火をとぼします
  人類の魂を燃やす火です。

  私は自分の火が
  大きいか小さいか知リません。
  だけど小さな火でも
  大きな蝋燭
(ろうそく)に火を點(つ)けることが出來ます。

  私の生長の火よりも
  大きな蝋燭も集つて下さい
  何百何千の大廈高楼
(たいかこうろう)
  小さな燐寸
(マツチ)の火でやけるかも知れません。
  私はそれを期待してゐるのです。

  火がつかなければ
  何度でも燐寸を擦ります。
  燐寸がなくなるまで私は
  人間の魂に火をつけて見たいと思つてゐるのです。

     *****


 ――それなのに、純子先生の表情からはそのような明るさ、前向きな輝きが消えてしまったのは、どういうわけだろうか。


 <つづく>


(2020.3.14)

546 光の前に闇は消える!
   コロナウイルスに負けるな。



≪ 新型コロナの感染、10万人超 3カ月で世界的流行に

 世界の新型コロナウイルスの感染者数が6日、10万人を超えた。2019年12月に中国湖北省武漢市で初の患者が出てから約3カ月間で、他のアジアや欧米にも急速に広がった。現在も感染拡大が収束する見通しはたたず、渡航制限や大規模イベントの中止などが相次ぐ。ウイルスの脅威が暮らしや企業活動に大きな影を落としている。

 感染者数は2002~03年に流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)や、12年に発生した中東呼吸器症候群(MERS)を大きく上回り、世界的な流行となった。≫



 と、昨日(3月7日)の日本経済新聞は伝えている。また同日NHKは


≪ WHO 新型ウイルス 「夏場に消えるというのは誤った期待」

WHO=世界保健機関で危機対応を統括するライアン氏は6日、スイスのジュネーブにある本部で開いた記者会見で「ウイルスが異なる気候状況でどのように変化するかまだ分かっていない。インフルエンザのように夏場は消えるというのは誤った期待だ」と述べました。

そのうえで「ウイルスが消えるのを待つのではなく、いまこそ闘う必要がある」と述べ、各国は自然に終息するのを待つのではなく、いま取り得る対策に全力を尽くす必要があると強調しました。≫



 と報じた。

 このままでは、東京オリンピックの無事開催も危ぶまれる。

 しかし、「光の前に闇は消える」 のである。コロナウイルスに負けてはならない。

 「生長の家発進宣言」 とも言われている 『生長の家』 創刊号所載の 「生長の家出現の精神とその事業」 には、次のように記されている。


   『生長の家』 出現の精神とその事業

 
自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。人類は今危機に頻してゐる。

 ……自分の有
(も)つてゐる限りの火で人類を救はねばならない。自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照さすにはおかないだらう。此の火は天上から天降つた生長の火である。火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を點ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覺悟して起ち上つた。見よ! 自分の身體(からだ)が燃え盡すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。

 ……今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のやうに苦しみ踠
(も)がきあせつてゐる。あらゆる苦難を癒やす救ひと藥を求めてゐる。しかし彼らは悩みに眼がくらんでゐはしないか。方向を過つてゐはしないか。探しても見出されない方向に救ひを求めてゐはしないか。自分は今彼らの行手を照す火を有つて立つ。≫



 『生活の智慧365章』 には (69頁)――


≪     受働を主働に変える

 困難に面したとき困難を如何に解決すべきかを考えるのはよい。それは受働を主働に変ずることによって、困難は自分を征服するところの力を失うのである。日本武尊
(やまとたけるのみこと)が賊軍と焼津(やいづ)の萱原(かやはら)に於て戦ったとき、賊軍は風上に陣しており、尊(みこと)は風下に陣していたが、賊は萱原に火をつけて来た、朦々と火焔は尊の軍勢に向って襲いかかって来たのである。このままでは尊は受身であった。困難に面して唯受身であるばかりでは困難に征服されてしまう。尊の運命は進退ここに谷(きわ)まった状態に陥ったのである。

 そのとき日本武尊は、受働を変じて自分の背後の萱原に主働的に火をつけたのである。風は猛烈に吹いて来るので、尊の背後の萱は、後へ後へと燃えて往って、そこは空地
(あきち)となり、尊の前の萱も燃えつきて、もう焔は尊を害することはできなくなった。その時、急に風向きが変化して、賊軍の群がる萱原に焔がひろがって行き、賊はついに大火傷を負うて全軍潰滅するに到ったのである。受働を主働に変ずることによって、人生はこのように勝敗が逆転するのである。≫


 とある。

 では――具体的に、どうするか。

 生長の家信徒たるもの、今こそコロナウイルス終息のために、次の祈りをしようではないか。

 (クリックしてください

 
⇒ 宇宙浄化・龍宮無量寿国に入る祈り(音声)


 
⇒ 宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り(YouTube動画)
https://www.youtube.com/watch?v=Ndk_od-lj_U&t


≪   宇宙浄化・コロナウイルス完全終息の祈り


住吉大神
(すみのえのおおかみ)出でまして宇宙を浄め給う

 アー オー ウー エー イー

住吉大神わが日の本を浄め給う

 アー オー ウー エー イー

住吉大神 全地上を浄め給いて

本来なきところの新型コロナウイルス感染拡大を完全に終息せしめ給う

 アー オー ウー エー イー

  イユーッ (気合)


   
 龍宮無量寿国(りゆうぐうむりようじゆこく)
に入る祈り
         
(聖経 『続 真理の吟唱』 より)


 われ今、住吉大神の威神力に乗托
(じょうたく)して龍宮海を渡り、龍宮城の“神癒の社(やしろ)”に入り、住吉大神の神前に坐するのである。超高圧の龍宮無量寿のいのち神癒の社に満つ。住吉大神、龍宮無量寿のいのちの泉を汲み給いてわれに灌(そそ)ぎ給うのである。

 いのちの泉、五彩七彩の色を放ちてわれに灌
(そそ)がれ、滔々乎(とうとうこ)として光の波となって、わが全身に流れ亘り、わが全身ことごとく潔められて、すべての汚(けが)れと濁りとは完全に洗い流され、全身の細胞ことごとく龍宮無量寿のいのちに満たされ賦活(ふかつ)せられ、若返り、ひとつひとつの細胞ことごとく最高のダイヤモンドの輝きに優りて、無量寿の生命の光輝を放つ。

 その光荘厳を極めて、如何なる悪しき微生物も病菌もヴィールスも近付くこと能わず、もし近づけば、光に近づく暗の如く消えてしまうのである。

 かくて住吉大神、更に滔々乎として龍宮無量寿のいのちをわれに灌ぎ入れ給うにより、わが全身ますます霊化せられて清浄無垢
(むく)無量寿の霊光を放つのである。

 大神さらにいのちを注ぎ入れ給い、われに於いて無量寿のいのちを増幅強化したまいて、わが全心身を人類光明化の光の波の増幅および放送アンテナとなし給いて、無量寿のいのちを全人類に放送し給うのである。

 われに頼る者、神縁ある者、仏縁ある者、人縁ある者、すべて龍宮無量寿のいのちの放送を受信し得、それを受像し得て、まことに“神の子”にふさわしき燦然たる霊光を全心身より放つのである。

 この霊光を受くる者、次第に数を増して全人類に及び、今より後、病いあることなく、悲しみあることなく、憂えあることなく、苦しみあることなく、人類ぜんたいは光明化せられて地上の生活そのままが天国となるのである。

 大自然も霊化されたる人心の輝きを反映して、み空には常に朝の太陽さし昇り紫雲かがやき、美しき鳥、翼をひろげて舞い遊び、天国の讃歌を唱う。その妙
(たえ)なる声音、天地に満ち、虚空にひろがり、楽音そのままが光の波となりて、あるいは紫の光を放ち、あるいは緑の光を放ち、あるいは微妙に変化するエメラルドの光となり、サファイアの光となり、あるいは黄金色の荘厳なる輝きを帯び、すべての妙なる光、たがいに交錯して、波の揺れるが如く、光の揺れるに従って、微妙に変化する光の音譜を奏でるのである。

 その美しきこと、その麗わしきこと、その妙なること言語に絶す。まことに今、此処、住吉大神の無量寿のいのちと、無限の叡智と、無限の聖愛との展開せる実相浄土、“住吉の世界”そのものであるのである。

 われら今此処、まことの極楽世界の厳浄
(ごんじよう)をわが心身をもちて直下(じきげ)に体験せしめ給いし事に深く篤く感謝し奉る。ありがとうございます。


 住吉大神全宇宙を浄め終りて
 天照大御神顕
(あ)れましぬ。

 天照す御親の神の大調和
(みすまる)
 生命
(いのち)射照し宇宙(くに)静かなり (二回)≫



(2020.3.8)

545 新型ウイルス、恐るに足らず。
   今こそ、光明伝道のチャンスだ



 わが生長の家東京第一教区が東京第二教区と協力して推進中であった講習会が中止になったという報告を受けた。国際本部から次のように通達があったという。


≪ 3月15日(日)開催予定の「生長の家講習会」を中止します。

 宗教法人「生長の家」は、現在国を挙げて進めている新型コロナウイルスの感染拡大防止対策に協力するため、3月15日(日)に東京都内の8会場で開催を予定していた「生長の家講習会」を中止することを決定しました。参加を予定されていた皆さまには大変ご迷惑をおかけいたしますが、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

 これは、東京都が2月22日~3月15日を「感染拡大防止の重要な期間」と位置づけて、期間中、都が主催する大規模な屋内イベントなどの原則延期、または中止の決定を重視し、本期間の最終日にあたる大規模行事をやむなく中止するものです。私たちは、この感染拡大防止への協力により、今回の感染症の拡大ができるだけ早期に終息し、日本社会全体がすみやかに正常化することを心から祈念いたします。≫



 ――このままでは、新型コロナウイルスの脅威の前に屈服し、神の無限力を信じない証になる。

 『生命の實相』 第7巻 生活篇の 「十、わが心の王国を支配せよ」 というところに、次のように書かれている。(頭注版 p.110~111)


≪ 「心の平和」 が生命を生かす力は、大ナポレオンの軍隊が東部戦線にあったときにも、現われている。悪疫がその戦線一帯にわたって猖獗(しょうけつ)して大ナポレオンの軍隊もそれに襲われた。戦いには敗けない彼の部下の将卒も、悪疫にはかなわないで、続々それに感染して、野戦病院は病人で一ぱいになり、とても収容しきれないで、テントの外の地上にまで罹病者を横たえなければならぬような始末となった。全軍はただ恐怖にとらわれて生きたる心地もないのである。毎日そのために斃(たお)れる将卒は数を知らない。

 ところがさすがに 「自分の辞書には不可能はない」 と言った大ナポレオンである。扈従
(こしよう=付き従うこと) の将官たちが 「そんな悪疫患者に近づいたら危険です」 と言って切に押しとどめるにもかかわらず、彼は野戦病院をみずから見舞うと言ってきかなかった。

 ところが見よ、大ナポレオンの落ち着いた動じない温顔が皆の病人の前に挨拶して、この偉大な皇帝の手が病人の額に触れたり、平和な恐怖のない語調で慰め深い言葉が発せられたとき、野戦病院に寝ていた病人の顔色が急に晴々しくなって、あちらからもこちらからも 「皇帝万歳!」 の声が雨のように降り注いだ。病床から這い出し起ち上がって歓呼して踊る兵士さえできた。

 その瞬間から悪疫の進行はパッタリ止
(や)んで、誰一人新たにその悪疫に罹る者なく、今まで罹っていた病人もたちまち回復してしまったと西洋史は記している。

 諸君よ、この大ナポレオンのように絶対に恐れない、絶対に自分の幸運を信じきっている人となれ。≫



 さて 日経Gooday の “Dr.今村の 「感染症ココがポイント!」” で、がん・感染症センター東京都立駒込病院感染症科部長の今村顕史さんに聞いたレポートが公開されている。それによると――

 「今村先生は第1種感染症指定医療機関の一つとなっている東京都立駒込病院で、新型コロナウイルス感染者への対応を最前線で行っていますが、現状をどう捉えていらっしゃいますか。……連日のように感染者の増加が伝えられる中で、いたずらに不安にならないために、私たちが知っておくべきことはどんなことでしょうか。」

 という質問に対して、今村医師は、「多くは軽症で回復、致死率は2%程」 と、次のように言っている。

≪ 重要なのは、新型コロナウイルスに感染しても、その多くは軽症で回復していくということです。中国の感染者4万4000人以上のデータを分析した結果を世界保健機関(WHO)が報告していますが、それによると80%以上は軽症で、致死率は2%程度となっています。診断されていない軽症例や無症状の例も考慮すると、致死率はさらに低いかもしれません。≫

 ――それにもかかわらず、テレビ・新聞などのメディアは連日 「猛威を振るう新型コロナウイルス感染症」 と朝から晩まで言い続けて人々の恐怖心をかき立てているように思える。「猛威を振るっている」 のは、ウイルスそのものではなく、マスメディアの言葉ではないか。


 『生命の實相』 第2巻には、次のように書かれている(抜粋)。


≪ 人間の念(こころ)が治って病気が治らないということは決してありえない。(p.14)

 病気は仮相的存在でたとえば白昼に悪夢を見ているようなものだと申しますと、どうも君のいうことはわからない、じっさい解剖してみても物質的病的変化のある病気を、病気は無いのだの夢だのといわれて、あまりに高遠すぎて解らない、も少し解るように説明して欲しいといわれる方もあります。けれども実相
(ほんとのもの)を見る目から見て病気は無いのだから、無いと説明するより説明のしかたがない。そして「神想観」によつてしだいに実相(ほんとのすがた)を見る力を養うよりしかたがないのであります。(p.42)

   直接体験に立脚した自分の生きる力に委せきれ

 それだのに病人に限って病気を崇拝している。そういう人は目に見えない神を信仰する人を指して迷信扱いしがちでありますが、じっさいちょっとしたサトリで消えてしまうようなはかない存在力しかない病気をあたかも無限の力をもっている神のように崇拝し、その前にひざまずき、薬代だの、注射料だの診察費だのと、やたらに多額のお賽銭を捧げている人こそ迷信家ではありませんか。

 「生長の家」 はこういう病気迷信を撲滅し、真の正しい信仰――自分が生きているという否定しえざる直接体験に立脚し、この自分を生かしている無限の生命力を礼し、敬し、この無限の生命力にまかせきって生きる道を指導するので、それは実に生命の直接体験に立脚しているのであって、頼りない感覚や、その感覚の眼鏡を通して見たらこう見えたというような不確かなものを根拠としているのではありませんから、決して迷信的分子はないのであります。(p.44)

 黴菌の恐るべきことや、人間が少しでも不注意であれば病気に冒されることなどを説いて恐怖心をそそることは感心しないのであります。それは人々を病気の想念の中におくことになりますし、病気の想念により喚起された恐怖心によって、生理作用が攪乱され、病気に対する抵抗力が鈍ってしまいかえって病気になってしまうのであります。(p.54)

   病気の真の感染原因

 病気は物質的感染によっても起こる場合もありますが、その根本原因は、物質的感染を容易ならしめる薄弱な抵抗力と、その病気の忌わしい症状を心に描く連想作用とが、病気感染の有力なる精神的土台を作るのであります。(p.55)

 衛生学や予防医学は知っておかねばなりませんが、それはただ参考にしておくくらいで、「人間は神の子であるから、かかる学説を自分の道具として使用することはできるが、かかる学説に支配され奴隷となるものではない。『神の子』 たる人間の権威を自覚した者はいっさいの主人公であって、決して物質の法則には害されるものではない」 と常に確乎とした信念をもっておりましたら、通常なら人類の通念に抵触して病気にかかるはずのときでも、病気にならないですむのであります。(p.57)

 いかに病理学者が病菌というものの存在を顕微鏡的に立証しましょうとも、われらの肉体に病菌があらわれているということはわれらの 「迷いの心」 が客観化
(かたちにか)したのであります。

 われわれは真理を知らねばなりません。われわれの肉体とはただの物質ではないのであります。肉体のさまざまの状態は心の念
(おも)いが客観化したものであって、心に病念(恐怖・憤怒・執着・貪欲・悲哀・嫉妬・憂欝等)がなければ黴菌というものはわれわれの肉体のうちにおりましても病菌となることができないのであります。

 微生物も神の生命の顕現でありますから、われわれ人間の生命とは互いに兄弟でありますから、たといわれわれの体内にいましても、互いに相互扶助しているだけで決して害を与えないのであります。(p.66)

 病菌というものは、いつも同じ性質ではなく、突発変異を起こして、有用の菌が有毒菌に変わったのであります。本来、病菌でなかったものだから、こちらの心の反応で無毒菌に還元するのです。
 ……この世界は前にも申しましたように 「迷い」 の宣伝力のもとにあるので、日常のわれわれの読物はもちろん、路傍のはり紙にも黴菌を恐怖さすことが書いてある。それを読むたびごとに病気の心的種子を心のうちにまかれ黴菌に対して攻撃的精神を起こしているのであります。すると黴菌の方もその精神的影響を受けて攻撃的になるのであります。われわれは病気にかかるまいと思ったら黴菌を恐れてはならない。(p.68)

 われわれは心のリズムを浄め上げ、高め上げ、高き霊界のリズムと調子を合わすことによってのみ、いっそう偉大に進歩せる霊界、天界、さらに進んでは実相世界のリズムを感受し、それによって人間界に偉大な芸術や、偉大な発明や、偉大な思想を生み出すことができるのであります。

 われわれが神に近づこうとするには、神と調子を合わすということよりも必要なことはないのであります。われわれの心のリズムが低卑であれば、低卑なカミ(すなわち第三種類に属する霊魂神のうちでもいっそう低い階級のまだ悟りを開かない人間の亡霊や、他愛もない動物の霊魂)とリズムが感合しまして、実際生活上実につまらない誘惑を受け、肉欲や、物質欲などの虜になってしまうのであります。

 だから自分の奥底の魂のリズムを高潔にすることほどわれわれにとって必要なことはないのであります。

 で、この奥底の魂のリズムを清く高くするために、われわれは 「神想観」 のごとき精神統一の修行を行い、せめて、ある時間に限っていっさいの低い地的な心の思い煩いを去り、一心不乱に心を至上神
(いとたかきもの)にのみ注いで、魂の奥底のリズムを高めかつ清めるようにおすすめしているのであります。

 こうして魂の奥底のリズムを高めておきますと、芸術家は芸術家として、いっそう高き霊界の大芸術のリズムを感受し、思想家は思想家として、これまたいっそう高き霊界の大思想のリズムに触れることができ、その人おのおのの天分の種類に応じての最高のものをこの現実世界に生み出すことができるのであります。(p.165~166)≫



 聖経 『続 真理の吟唱』 に、次の祈りが掲載されている。今こそ、この祈りを全信徒こぞって熱祷し、光明の伝道に起ち上がるべき時ではないか。


≪  龍宮無量寿国(りゆうぐうむりようじゆこく)に入る祈り

 われ今、住吉大神の威神力に乗托
(じょうたく)して龍宮海を渡り、龍宮城の“神癒の社(やしろ)”に入り、住吉大神の神前に坐するのである。超高圧の龍宮無量寿のいのち神癒の社に満つ。住吉大神、龍宮無量寿のいのちの泉を汲み給いてわれに灌(そそ)ぎ給うのである。いのちの泉、五彩七彩の色を放ちてわれに灌(そそ)がれ、滔々乎(とうとうこ)として光の波となって、わが全身に流れ亘り、わが全身ことごとく潔められて、すべての汚(けが)れと濁りとは完全に洗い流され、全身の細胞ことごとく龍宮無量寿のいのちに満たされ賦活(ふかつ)せられ、若返り、ひとつひとつの細胞ことごとく最高のダイヤモンドの輝きに優りて、無量寿の生命の光輝を放つ。

 その光荘厳を極めて、如何なる悪しき微生物も病菌もヴィールスも近付くこと能わず、もし近づけば、光に近づく暗の如く消えてしまうのである。

 かくて住吉大神、更に滔々乎として龍宮無量寿のいのちをわれに灌ぎ入れ給うにより、わが全身ますます霊化せられて清浄無垢
(むく)無量寿の霊光を放つのである。

 大神さらにいのちを注ぎ入れ給い、われに於いて無量寿のいのちを増幅強化したまいて、わが全心身を人類光明化の光の波の増幅および放送アンテナとなし給いて、無量寿のいのちを全人類に放送し給うのである。われに頼る者、神縁ある者、仏縁ある者、人縁ある者、すべて龍宮無量寿のいのちの放送を受信し得、それを受像し得て、まことに“神の子”にふさわしき燦然たる霊光を全心身より放つのである。

 この霊光を受くる者、次第に数を増して全人類に及び、今より後、病いあることなく、悲しみあることなく、憂えあることなく、苦しみあることなく、人類ぜんたいは光明化せられて地上の生活そのままが天国となるのである。

 大自然も霊化されたる人心の輝きを反映して、み空には常に朝の太陽さし昇り紫雲かがやき、美しき鳥、翼をひろげて舞い遊び、天国の讃歌を唱う。その妙
(たえ)なる声音、天地に満ち、虚空にひろがり、楽音そのままが光の波となりて、あるいは紫の光を放ち、あるいは緑の光を放ち、あるいは微妙に変化するエメラルドの光となり、サファイアの光となり、あるいは黄金色の荘厳なる輝きを帯び、すべての妙なる光、たがいに交錯して、波の揺れるが如く、光の揺れるに従って、微妙に変化する光の音譜を奏でるのである。

 その美しきこと、その麗わしきこと、その妙なること言語に絶す。まことに今、此処、住吉大神の無量寿のいのちと、無限の叡智と、無限の聖愛との展開せる実相浄土、“住吉の世界”そのものであるのである。

 われら今此処、まことの極楽世界の厳浄
(ごんじよう)をわが心身をもちて直下(じきげ)に体験せしめ給いし事に深く篤く感謝し奉る。ありがとうございます。 ≫


 「龍宮」 とは、「久遠の今」 にある実相世界である。

 ここにこそ、「天地一切のものを霊的に支配する」 道(前項参照)があると思うのである。


    令和2年2月24日



544 「人間は罪の子」と説く総裁に
 “No”と我れは宣言すなり


 2月3日、節分の日に詠んだ歌。

 
 「福は内、鬼はなし」 とぞ宣(の)り唱(とな)
    言霊
(ことだま)の力信ずるわれは


 僕は上の句のように唱えて炒り豆を食った。「鬼は外」 と撒くことはしなかった。なぜなら、神の創造し給うた世界に悪は無い、悪鬼は存在しないと信ずるからである。

 しかし、また

  「人間は罪の子」 と説く総裁に
    “No” と我れは宣言すなり


 とも詠んだ。それは――

 生長の家組織会員に購読が義務づけられている 『生長の家』 誌の2月号が届いた。

 これを読んで、また黙っていられなくなったのである。それで、エネルギー問題を書く前に、まずはこれについて反応したい。

          ○

 「“他を害する心” を捨てよう」 と題した、昨年11月22日に総本山で行われた 「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」 での谷口雅宣総裁の言葉というのが掲載されている。

 その中に、『真理の吟唱』 から転載した谷口雅春先生の 「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」 ――

≪すべての生きとし生けるもの、在りとしあらゆる物ことごとくに“神の生命”が宿っており、そのすべてが私たちの生命と一体であるから、天地一切のものは、私たちの心の響きに感応して、或る結果をもたらすのである。それゆえに、物質と見えているものでも、私たちがそれに感謝し、それに宿る神の生命を直視して祝福するならば、その祝福に感応するのである。

神は人間を万物の霊長として、天地一切のものを
霊的に支配する権能を与え給うたのである。それゆえに、如何なる物も、人間が義しき心をもって生活し、他を害する心を起さない限り、自分が害されるということはあり得ないのである。≫

 ――を引用して、次のように述べられている。

≪ ここで重要なのは、人間が他の生物など“天地一切のもの”を「霊的に支配する」と書かれていることです。「物質的に支配する」とは書かれていません。この違いは何でしょうか? 

 私たちが現在、動植物に対してどのように対処しているかを思い出してみてください(図5)。


    
霊的な支配?
  家畜の殺処分
  遺伝子組み換え
  ダム建設、護岸工事
    (図5)
(パワーポイントを使用し大きな文字で投影されたと思われる図)

 今、私が住んでいる山梨県では、韮崎市で豚コレラという病気が発生したため、発病したブタのいる農場のブタ890頭が、17日までに、健康なブタも含めてすべて殺処分されました。感染を防ぐためです。今回はまだ千頭未満の犠牲でしたが、かつて宮崎県で口蹄疫が発生した時は、何十万頭もの家畜が殺されたことがありました。これは 「霊的な支配」 でしょうか、それとも 「物質的な支配」 でしょうか? 答えは、明らかに後者ですね。

 では、生物の細胞内にあるDNAを組み換えて、人間に都合のよい形質をもたせることは 「霊的な支配」 でしょうか、「物質的な支配」 でしょうか? DNAはデオキシリボ核酸という物質ですから、これを人工的に組み換えるのはもちろん 「物質的支配」 です。

 それでは、山の中にダムを建設したり、コンクリートで川岸を固めることは 「霊的支配」 でしょうか、それとも 「物質的支配」 でしょうか? この答えも、明白ですね。

 このように考えてくると、私たち人類がこれまで進んできた道は、他の生物や自然環境を物質的に支配しようとした歴史であることが分かります。

 では、その物資的支配の 「動機」 は何だったでしょうか? それらの科学技術を開発するに当たり、「義しき心」 をもってそれをなし、「他を害する心」 を起こさなかったでしょうか? 決してそうではありませんでした。

 私たちが科学技術を開発してきた最大の動機は、経済発展――つまり、人間本位の他の動植物の利用であり、物資的繁栄ではなかったでしょうか? 

 核エネルギーの利用技術の開発などは、敵国を破壊する――つまり 「他を害する心」 そのものが最初の動機でした。

 「他を害する心」 は、核エネルギー以外にも多くの技術の元になっていることがあります。

 例えば、「農薬」などはどうですか? また、樹木を育てるときに勇定というのをやりますが、これをやりすぎると、樹木は枯れてしまいます。では、電線の邪魔にならないように、街路樹をボコボコに短く伐ることはどうでしょうか? 効率よく食肉を生産するために、本来、動き回ることが好きな動物や魚類を、狭い囲いの中に詰め込んで飼うことは、どうでしょうか?

 これらは、「他を害する心をもって動植物を物質的に支配」 してきたこと(図6)を示していないでしょうか? 私は、その通りだと思います。


  私たちは、他を害する心
  をもって動植物を物質的に
  支配してきた。(図6)

 (中略)

 「人間が邪な心をもって生活し、他を害する心を起して、霊的にではなく、物質的に自然界を支配しようとしてきた」 ことが、現代社会の様々な問題の背景にはあるということです。

 (以下略) ≫



          ○


 ――以上、谷口雅宣生長の家総裁の言は

 「人間は、邪な心をもって生活し、他を害する心を起こして、霊的にではなく、物質的に自然界を支配しようとしてきた」

 端的に言えば、「人間は、罪の子だぞ」 ということである。

 それは、「人間は神の子、罪なき者である。神の子人間に罪はない」 という生長の家の教えとは全然違う!

 物質に手を加えることはすべて、霊的支配でなく物質的支配だから悪である、とするならば、「何もするな」 「空気も吸うな」 ということになる。ならば、「生まれて来なければよかった」 というだ。それが、「生命を礼拝する」 という生長の家の教えか? そんな馬鹿なことはない。


          ○


 「天地一切のものを
霊的に支配する」 とは、どういうことであろうか。

 何も示されていない。僕の考えを言おう。

 それは――


 「人間は、『久遠の今』 なる神の光である。

 今ここに、神が生きてまします。

 時間も、空間も、わが内に、わが掌中にあり。

 時間・空間の中に展開された一切のものは、わが心の影である。それは光があってこその影である。

 時空の中に展開された一切のものは、わが有
(もの)である。

 自分の中にすべてがある。すべてが自分であり、天上天下唯我独尊である。

 私の中にあなたがいる。あなたの中に私がいる。

 あなたが私であり、私があなたである。神において自他一体、すべては一体である。

 私が神の光であり、あなたも神の光である。すべてが神の光である。」



 ――との自覚に立ち、すべて (自分をも含む) を礼拝し、喜んで、感謝して、すべてを生かす働きをすることだと思う。


 では具体的に、どうするか。谷口雅春先生著 『栄える生活365章』 を精読・霊読し、ここぞと思ったポイントを謹掲させて頂こう。

          ○

  人間を “罪の子” と観ることを止めましょう (p.8)

 「みこころの天に成るが如く地にも成らしめ給え」 と祈りながら、「人間は罪の子」 であるとクリスチャンは念じつづけて来たのである。今までの多くの人間は自分を “罪の子” として神罰を恐れながら、罪の意識をわすれないようにつとめて来たのである。これは何という矛盾であろう。

 「罪の子」 「罪の子」 と念ずる事は、“罪” に対して心の波長を合わす事であって、「罪なき世界」 であるところの “神の国”(又は天国) に心の波長を合わす事ではないのである。“神の国” に心の波長を合わす事をしないでいて、“神の国” 即ち “みくに” を来らしめ給えと祈ったとて、テレビの波長を合わすことなしに放送番組をこのセットに来らしめ給えと祈っているのと同じことである。人間はもっと聡明にならなければならないのである。

 「罪の子」 と念ずることは “罪” に波長を合わすことであり、愈々益々罪ある状態が地上にあらわれて来ることになるのである。吾々は地上に天国を実現するために、人間を “罪の子” だと思うことを止
(や)めましょう。

          *

  神想観の妙境を味わいましょう (p.27)

 朝、太陽に向って瞑目合掌して神を念ずれば、さわやかな微風と共に魂の悦びが全身を黄金の光となって流れるのである。恍
(こう)たり惚(こつ)たり、天国が現前するのである。

 一切の悩み其処に無く、一切の苦しみ其処になく、ただ法悦のみ、楽想のみが充ち満ちているのである。そして 「神の国は自己の内にある」 ことが如実にわかるのである。環境は自分の心の影である――「環境」 と仮に称すれども、それは自心の展開であるのである。観に徹すればそのことが如実にわかる。主観客観全一して差別なく、絶対者今ここに現前する。自己が絶対者であるのである。

          *

  “ノー” と言うべき時は勇敢に (p.54)

 “ノー” と言うべき時には勇敢に “ノー” と言い得る者が勇者であり、己れに克ち、他からの誘惑に克つことのできる者である。イエスは無抵抗の徳を説いたが、“ノー” と言うべき時には常に敢然として “ノー” といっているのである。「天地一切のものと和解せよ」 とは決して、自己の明確な判断と決意とを不明瞭にして他に妥協することではないのである。「和して同ぜず」 ということが大切である。

          *

  “心の世界” に悪と困難とを抹殺せよ (p.60)

 「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」 とキリストは訓
(おし)えているのである。「真理」 とは、別の語でいうならば存在の 「実相」 である。

 「人間は “神の子” であり、一切の存在は神より出でたるものであるから完全円満であって悪はない」

 ということである。肉眼で見える現象世界が如何に自分に不利な状況をあらわしていても、この真理をしっかり自覚すれば、その自覚する程度に従って現象界の如何なる困難なる状態も克服してしまうことができるのである。


  (岡注。その 「実相」 は、「久遠の今」 にあるのだ。)

          *

  映像の世界に踠
(もが)く人たち (p.192)

 常識の世界は、五官の感覚によって築かれているのであるから、物質は存在し、物質に力があり、物質に権威があるという信念の下に、普通の人間は育てられて来たのである。だから習慣的に人類の大多数は物質を尊重し、物質に価値をみとめ、物質を得る手段としての金銭を崇拝し、その金銭を得るために狂奔しつつあるのが現状である。斯くして労働争議は起り、国際戦争は起るのである。

 彼らは、物質界の富というものは、「心の世界」 という映画フィルムの映像でしかないことを悟ることができない。そして豊かに富を得たならば安心感が得られるというような妄想にとりつかれる。併し、如何に物質的富や物質的領土を豊かに所有することが出来たにしてもそれは映像に過ぎないから、その奥にある 「心のフィルム」 を把え得ないために、持てば持つほど何時失われるかわからぬという不安と恐怖で慴
(おび)えたり争ったりするのである。

          *

  “ノアの方舟
(はこぶね)” に乗る (p.200)

 “理念人間” こそ本当の人間であり、「実相の人間」 であり、それが 『創世記』 に録
(しる)されたる 「神の像(かたち)の如く人をつくり」 とあるところの完全人間であるのである。その “完全人間” は神の心の中にあるのに、外界を見る五官による感覚によって、人間はその存在をみとめようとするために 「真の完全人間」 を発見することができないで、バラバラの不完全な肉体を見て、それを “人間” であると観るから、人間像が歪められて不完全な状態にあらわれて、病気不幸等ありとするようになるのである。

 吾々は時々、五官の眼を瞑
(と)じて、神の心の中にある 「理念人間」 (実相の人間) を見るようにしなければならない。これが神想観であり、「No(ノ=無相)A(ア=実相)の方舟(はこぶね)」に乗ることであり、目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)に乗って龍宮海に渡ることであり、釈尊の 「実相無相の微妙の法門」 に乗托することである。イエスは五官の眼で現象を観る人のことを非難して、「汝は “視ゆ” という罪は残れり」 といって、むしろ肉体が盲目の少年を賞讃していられるのである。

          *

  実相世界の完全さを念ずる (p.209)

 静かに眼を現象界より瞑じて、実相世界の完全なる相
(すがた)を想念せよ。

 「神のみ満ちている。神のみ満ちている。善のみ満ちている。善のみ満ちている。調和のみ満ちている。調和のみ満ちている。美のみ満ちている。美のみ満ちている。愛のみ満ちている。愛のみ満ちている。健康のみ満ちている。健康のみ満ちている。裕かさのみ満ちている。裕かさのみ満ちている。善きアイディアのみ満ちている。善きアイディアのみ満ちている。すべての国、すべての人間ことごとく調和して睦み合っている。今此処が天国である。今此処が天国である……」

 このようにあなたが念ずるならば、その通り、今あなたは天国に住むのである。何故なら、想念こそ唯一の実在する力であり、物質の世界はその模倣に過ぎないからである。そしてその模倣に過ぎない世界も、その想念の具象化力によって、善き方に、美しき方に、健全なる方に、裕かなる方に、調和せる方に変貌し始めるであろう。


          ○


  <つづく>


    令和2年2月7日



543 エネルギー政策 ドイツの大失敗。
    日本は真似をしてはならない



 生長の家教団の“普及誌”と称する、教化宣伝のための月刊誌 『いのちの環』 No.118 (2020年1月号)は 「特集1 脱原発は可能だ!」 という特集記事を組み、環境活動家の大島堅一氏(龍谷大学政策学部教授・原子力市民委員会座長)へのインタビュー記事を載せている。

 
「これは、失礼ながら、まことにお粗末な特集だと言わねばならない。国を滅ぼし人々を不幸にする誤った扇動記事ではないかと、僕は思う。」

 と、前項(#542)に書いた。

 上記のインタビュー記事の中で、大島氏は

≪ 原発の四つの神話―― ① 「安全である」、② 「コストが安い」、③ 「環境にやさしい」、④ 「準国産エネルギーである」 ――はすべて破綻しています。

 ドイツでは福島第一原発の事故後すぐ、政権内部で脱原発の議論を開始し、2011年6月、「2022年までに国内の全ての原発を廃止する」 という政策を閣議決定しました。まして被災国である日本は、国民世論を受け止め、ドイツと同様、できるだけ早く脱原発へと足を踏み出すべきです。≫
 (要約)

 と言っている。そして逆に、

 再エネ (太陽光・風力などの“再生可能エネルギー”) こそ ① 「安全である」、 ② 「コストが安い」、 ③ 「環境にやさしい」、 ④ 「準国産エネルギーである」 という “新しい四つの神話” をつくっているようだ。

 「神話」 というのは、本来は、現象を映画とすればそのフィルムにあたる、現象投影の理念を物語の形に表現したものであるが、いまは、「根拠もないのに、絶対的なものと信じられている事柄」 (広辞苑) の意で使われている。

 前者(古事記神話など)と後者(再エネ安心神話など)を混同しないために、後者の 「神話」 というのは、「迷信」 と言い換えた方がよい。「再エネは安心、安全で持続可能」 というのは、迷信なのである。

 だが大島氏はさすがに学者だから 「これこそ “絶対的に” 正しい」 とまでは言っていない。

 質問者が、

≪――最後に、これからのエネルギーを考える時、私たちはどのようにしていけばいいのか、教えていただければと思います。≫

 と問うたのに答えて、次のように言っているのである。

≪ 大島 ……人生がそれぞれであるように、その答えは一つではないでしょう。
 しかし私はこう思っています。

 「私たちは何をどのようにしていけばよいのでしょうか」 と問うことは、私たちの子どもや孫たちから、「あの時、あなたは何をしたのか」 と問われていることと同じだと。

 そう考えれば、将来世代に、放射性廃棄物と事故のリスクという巨大な “負の遺産” を残すのか、安心・安全な再生可能エネルギーに移行し、持続可能な社会を残すのか、答えは自ずと出るはずです。

 これからは、皆さん一人ひとりにどうすればいいかを考えていただき、未来に向け 「責任ある関与」 をしていただきたいと思います。それこそが、最悪の原発事故を経験した私たちの責務ではないかと思うのです。原発事故が起こった事実を変えることはできませんが、将来は、私たちの手に委ねられているからです。≫


 と。

 大島氏は、「将来世代に、放射性廃棄物と事故のリスクという巨大な “負の遺産” を残すのか、安心・安全な再生可能エネルギーに移行し、持続可能な社会を残すのか、答えは自ずと出るはず」 と言っているが、「再エネは安心・安全」 というのは全く根拠のない大ウソだということが、すでに明らかになっている。そのことから目を背けてはならない。

 ――このインタビュー記事のタイトルは、

 「安心・安全で持続可能な
 社会づくりが、
 私たちに課せられた責務」


 というのである。 『いのちの環』 No.118 (2020年1月号) の記事もしっかり読みながら、それを鵜呑みにするのではなく、根本に還って幅広く情報を正しく知り、少しでも 「安心・安全で持続可能な社会づくり」 をするためにはどうしたらよいか、本当にしっかりと考え、実行して行きたいと考える。

 その時に、上掲 『いのちの環』 誌の編集態度は、読者に物を考えさせず、一方的に 「この道以外に選択肢はない」 と押しつけ、「この道を行かない者は非国民だ」 と戦争への道を突き進ませた時代の再来かと思わせるような扱い方をしている(ように思われる)。僕は、それに抗して、本当に良心的に何をして行ったらよいか、「一切者」 の自覚で、根本的に考えて行きたいと思う。

          ○

 現象世界は映画のように映し出された映像の世界であり、影である。影は、本来ない。現象世界に見えるものはすべて結果であって、そこに根本原因はない。

 時間・空間は、現象という映画を映すスクリーンである。その映画を映す元のフィルムにあたる根本因は、時空を超えた心の世界にある。

 その根本因、根本実在なる 「実相」 は、 「久遠の今」 にあるのである。そこは、一切大調和の世界であり、無限供給の世界、絶対善の世界、悪のない世界である。
 その根本真理の自覚に導き、大安心を与え、そこから自由自在な現象処理の智慧も湧き出てくることを教えることこそ、真の宗教の役割であろう。

 『栄える生活365章』 は、全体をよく読めば、そのことが卵の黄身のように中核をなす真理だということが書かれているとわかる。

 問題にぶっつかったら、その 「元」 に還って出直せばよいのである。

          ○

 「汝ら、天地一切のものと和解せよ」 という 「大調和の神示」 は、谷口雅宣生長の家総裁が 『いのちの環』 No.118 でも強調されているように、生長の家の教義の中でも特別第一番に置かれている重要な神示である。そこには、「天地一切のものと和解せよ」 とあるのである。「天地一切のもの」 とは、すべてのすべてである。原発とも和解しなければならないのである。和解とは、適切にあるべき位置にあらしめて浄化することである。絶対悪なる敵として憎み排除するだけでは、「和解」 にはならない。

 「天地一切のものとの和解」 が出来ないと、生長の家教団は真理から外れるので坂道を転げ落ちるように衰退のすがたを現象にあらわしてもおかしくない。

          ○

 2011年3月11日の東日本大震災で津波によって福島の原発は冷却用の外部電源が使えなくなり、水素爆発を起こした結果、炉心溶融という最悪の事態に至った。結果、放射能・放射線が飛び散り、周辺の住民は避難を余儀なくされた。それは、神の国にはない悪夢であった。

 悪夢は夢である。失敗の悪夢に口実をつくって責任逃れをすることなく、悪夢の教訓をちゃんと受け止め、それを超克し、禍を転じて福となすようにしなければならぬ。

 それは、「再エネは安心・安全」 という神話が既に破綻しているということについても、同様である。

 「問題にぶっつかったら、元に還って出直せばよい」 のである。「元に還る」 というのは、恐怖心や、人間知の過信からの出発ではなく、「実相」 完全円満なる神からの出発、正しい使命感からの出発でなければならぬ。

 『いのちの環』 No.118 に一部収載されている谷口雅春先生著 『栄える生活365章』 を、僕はその 「はしがき」 から最後まで丁寧に精読しなおした。よかった。「われ神なり。神の自己実現なり」 であった。恐怖すべきものは何も無い。感謝、感謝。感謝あるのみであった。

          ○

 福島第一原発の事故を受けて、ドイツは直ちに 「脱原発」 を掲げて歩み出した。その前後の事情は、『ドイツの脱原発がよくわかる本 日本が見習ってはいけない理由』 (川口マーン恵美著) に詳しい。ドイツの脱原発が、必ずしも神意に叶ったものとは言えないことが、よくわかる。


 「エネルギー」 とは何か。

 「原子力エネルギー」 とは、どういうものか。

 「放射能」・「放射線」 とは、どういうものか。

 「再生可能エネルギー」 (略して 「再エネ」) と言われている 「太陽光発電」、「風力発電」 とは、どういうものか。

 電力の需要と供給・送電を適切にコントロールするためには、何が必要か。

 エネルギー問題を論ずるには、まずそうした基本知識をしっかり持たねばならぬ。


 ドイツは、再エネの世界最先進国である。

 1998年、16年間続いたコール政権が終わりを告げ、SPD(社会民主党)と環境派政党・緑の党の連立政権が誕生した。そして、2000年には再生可能エネルギー法ができ、再エネで発電された電気は、必ず全量、決まった値段で送電事業者が買い取ることになった(固定価格買取制度、FIT)。つまり、持ち家の屋根や空き地に太陽光パネルを付けると、日が照れば必ず儲かる。こんな確実な投資はないから、設置された太陽光発電の容量は、その後の16年間で400倍となった。風力発電も同様で、現在、ドイツに立っている風力タービンは3万基近い。

 これら再エネ設備の発電する電気が2018年は全発電量の37.8%に達し2019年には40%を超えそう。「今やドイツは電気の輸出国である!」 と、おそらくこれまでなら、環境派の書くリポートは、ここで 「めでたし、めでたし」 で終わったことだろう。しかし、今ではそうはいかない。めでたくないことが、山ほどあることがわかってきたからだ。

 送電線に電気が入りすぎると系統が故障し、下手をすると、大停電になりかねない。それでもドイツでは、買取制度のせいで、再エネ事業者は需要が無くても発電するから、送電線はしょっちゅうパンクしかけている。輸出はたいてい、余分な電気をどうにかして外に逃がすためのやむなき措置だ。時には隣国にお金をつけて引き取ってもらうことさえあるのだから、輸出したからといっても威張れない。そのうえ、電気代はどんどん上がるし、CO2も減らない。

 ドイツには、再エネのおかげで大金持ちになった人がたくさんいる。一方、太陽光パネルなどを付けるお金も家もない人たちも含めた国民全員が、再エネ業者の莫大な儲けを 「再エネ賦課金」 という名で負担するため、ドイツの電気料金は世界一高い。

 メルケル首相の党であるCDU(キリスト教民主同盟)の急降下が止まらず、2018年秋の総選挙でCDUの惨状が露呈したあとは、党首の座をクランプ=カレンバウアー氏に譲った。しかし、彼女の治世下でドイツは経済的に強くなったばかりか、難民を受け入れる人道の国としての信望が厚くなったのだから、いまさらその御本尊にケチがついてはドイツの国益に障る。ということで、「悪辣な世界での良心の象徴」 として祭りあげられているだけである。

 最近のドイツでは、エネルギー転換の話が、とんとニュースに出てこなくなった。あちこちで行われる州議会選挙の争点にも入っていない。ドイツ人が世界のお手本だとあれほど自負していた 「脱原発」 も、皆、忘れてしまったかのようだ。

 ドイツはいま、大変な苦境――社会の分断・混乱に陥っているのである。

 (以上は、主として川口マーン恵美さんの著述から学びました)

 日本はその後追いをしてはならない。ドイツの失敗の教訓をしっかりと学び、日本は日本としての正しい道、すべてを生かす適切な道を切り拓いて行かねばねばならないのである。

 さらに深く学び、考えて行きたい。これから数回にわたって、このエネルギー問題について書いて行こうと思う。


  <つづく>


    令和2年2月1日



542 生長の家教団は、死んだのか。(2)


 生長の家教団は、5年あまり前の2014年11月22日付で 『宗教はなぜ都会を離れるか?』 という谷口雅宣総裁の著書を発行した。

 僕は、それに対する疑問を、2015年3月20日付けで、『何処へ行く? 「生長の家」 ――わが魂の記録と、谷口雅宣総裁への公開質問――』 と題する、A5判250頁の書籍にして、総裁をはじめ生長の家参議、理事、各教区教化部長……等々の幹部、知人らに送った。それは、前項 #541 にアップした通りである。

 それ以来、はや5年ちかくになるが、それに対して何の返答もなく、このたびまた同じことを、教団の “普及誌” と称する月刊雑誌 『いのちの環』 新年号(No.118 2020年1月号)のトップに掲載しているのである。

 生長の家教団は、死んだのか。活きた宗教団体とは言えないのではなかろうか。


 さて、上掲 『いのちの環』 No.118 は 「特集1 脱原発は可能だ!」 という特集記事を組んでいる。が、これは、失礼ながら、まことにお粗末な特集だと言わねばならない。国を滅ぼし人々を不幸にする誤った扇動記事ではないかと、僕は思う。


         * * * * * * *



 まず、この特集の扉のページ。

≪特集1
脱原発は可能だ!

放射性廃棄物という“負の遺産”を後世に先送りするばかりか、福島第一原発の被災で巨大事故への危険性が露見した原発なのか、それとも、安心・安全で尽きることがなく、未来世代にツケを回さない再生可能エネルギーなのか、どちらを選ぶべきかは明らかです。

脱原発をどのようにして実現したらいいのか、原子力市民委員会の座長にインタビューしました。≫


 とある。これはヒドイ押しつけではないか。原発か、“再生可能エネルギー” (略して「再エネ」)と言われている太陽光・風力などか、どちらを選ぶべきか、全然明らかではない。再エネは “安心・安全で尽きることがなく、未来世代にツケを回さない” というのが大ウソだからである。

 もちろん、“原発は絶対安全” などと言ったのも、大ウソであった。

 現象界に、“絶対安心・安全” などというものは、あり得ないのである。

 現象界は、「一寸先は闇」 と言われる。この道を選べば絶対安心、などという道はないのである。どの道を選んでも、リスクは常にある。

 家に閉じこもって寝ていたって、いつ大地震で家がつぶれるかわからない。いつ宇宙から隕石が降ってくるかもわからない。常にリスクがいっぱいあり、多様な選択肢がある中で、各自が各自の運命の主人公として、自己責任で自由な生き方ができる。それでこそ真に倫理的な生き方ができるのではないか。

 現象界の現実をそのまま 「あり」 として、時流に乗って特定のリスクに対する恐怖心だけをあおり、「この道しかない」 と信徒を縛って“思考停止”にさせるのは、カルト宗教ならいざ知らず、正しい宗教のすることではあるまい。

 (上掲 『いのちの環』 No.118 は p.34 に、「他に選択肢はない! 巨大台風が教えること」 と題するコラムを三好雅則生長の家本部講師が書いている)

 現象界に、安心立命の場所があるか。――ない、と言ってよいであろう。「現象本来無し。時間も空間も本来無し。それは心の影に過ぎず」 と知り、人間の本体、生命(たましい)は時間・空間を超越した 「久遠の今」 なるところにあり、人間は死なないものだと真に自覚できた時にこそ、何が起こっても魂の生長の糧として感謝して受けることができる。そして現象界に処する適切な智慧も、そこからこそ、湧き上がって来るのである。

 同誌(『いのちの環』 No.118)は p.28~29 に谷口雅春著 『栄える生活365章』 からの抜粋文を掲載している。「口実をつくって責任のがれしないこと」 というタイトルである。まず、次のご文章。

≪ 失敗に口実をつくって責任を逃れようとしてはならない。それよりも正直にその失敗の原因が、自分自身が 「真理」 より後退し、「実相」 を充分顕現しなかったからであることを認め、あらためて、「実相」 が完全に実現するよう努力すべきである。正直に自分の失敗に直面し、それを懺悔し、あらためて“新しき人”となり、“神の子”の自覚をもって生活を仕直すとき、あなたは浄まって、神と再び波長が合うことになるのである。

 何が正しいか、何が愛にかなう道であるか、何が人々を生かす道であるかを充分に考え、正しいこと、愛にかなうこと、人々を生かす事について、神に祈りながら実践して行くとき、その人の心は神に通い、よきアイディアを神から受け、他を生かしながら、人々のためになりながら、自分が栄えて行くことになるのである。内に宿る神に信頼し、内からの催しの“声”を聴き、それを勇敢に実践して行くとき、嶮
(けわ)しきは平かにせられ、苦痛はやわらげられ、悦びは湧き起らん。

(谷口雅春著 『新版 栄える生活365章』 122~123頁、日本教文社刊)≫


 ――これはまことに、時宜に適したよきご教示を引用してくれたと思う。

 上掲書を、僕はもう一度全文精読しなおしている。その中に、次のご文章がある。

≪ “心の世界”に悪と困難とを抹殺せよ (p.60)

 「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」 とキリストは訓
(おし)えているのである。「真理」 とは、別の語でいうならば存在の 「実相」 である。「人間は“神の子”であり、一切の存在は神より出でたるものであるから完全円満であって悪はない」 ということである。肉眼で見える現象世界が如何に自分に不利な状況をあらわしていても、この真理をしっかり自覚すれば、その自覚する程度に従って現象界の如何なる困難なる状態も克服してしまうことができるのである。

 吾々を苦しめる如きすべての困難な状態は、神の創造し給える 「実在の世界」 には真には存在しないのであって、それは吾らの 「迷いの心」 の反映でしかないのである。私たちは困難や行き詰りの状態に面したならば、「神のみが創造主
(つくりぬし)であり、神は善であり、愛であるから、悪しき状態や、人を苦しめる如き状態は単に自分の顛倒妄想(まよいのこころ)の反映である」 ということを繰り返し念じて、その顛倒妄想を消し去るときその困難な状態も自然に克服され消滅するのである。≫


 現象世界は映画のように映し出した映像の世界であり、影である。現象世界に見えるものはすべて結果であって、そこに根本原因はない。

 時間・空間は、現象という映画を映すスクリーンである。その映画を映す元のフィルムにあたる根本因は、時空を超えた心の世界にある。

 その根本因、根本実在なる 「実相」 は、 「久遠の今」 にあるのである。そこは、『法華経』 の如来寿量品 自我偈に、

 「 衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も
  我が此土
(このど)は安穏にして天人常に充満せり
  園林
(おんりん)(もろもろ)の堂閣、種々の宝もて荘厳(しょうごん)せり
  宝樹華果多くして、衆生の遊楽する所なり
  諸天、天鼓を撃ちて、常に衆
(もろもろ)の伎楽(ぎがく)を作(な)
  曼陀羅華
(まんだらげ)を雨ふらして、仏及び大衆に散ず……」

とある世界である。

 その根本真理の自覚に導き、大安心を与え、そこから自由自在な現象処理の智慧も湧き出てくることを教えることこそ、真の宗教の役割ではないか。


          ○


 さて、『ドイツの脱原発がよくわかる本 日本が見習ってはいけない理由』 (川口マーン恵美著・2014年4月初版、草思社) という本がある。これは、そのタイトルの通り、まさにドイツの脱原発がよくわかる本であり、日本が見習ってはいけない理由もよくわかる、著者渾身の力作。素人にもわかるように丁寧に書かれた、日本人必読の書であると僕は思う。

 著者の川口マーン恵美さんは大阪生まれ。日大芸術学部卒業後、1985年ドイツのシュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科を修了した音楽家・作家。ドイツで家庭を持ってシュトゥットガルト在住35年。ドイツの事情にとても詳しい。著書に上掲書のほか 『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』 (講談社+α新書でベストセラー)、『復興の日本人論~誰も書かなかった福島~』 (グッドブックス 2017年初版、第38回エネルギーフォーラム賞特別賞を受賞)、『そしてドイツは理想を見失った』(角川新書) ほか多数。雑誌 『WiLL』 2020年1月号に、「エネルギー政策 ドイツの大失敗」 という文も書いている。

 彼女は本来音楽家で、エネルギーや電気、原発などの専門家ではない。その素人が、疑問に思うところを専門家に聞いて学びながら、素人にわかるように丁寧に書いているからわかりやすく、実地に検証しながら足で書いているので、説得力がある。

 この、川口マーン恵美さんの 『ドイツの脱原発がよくわかる本 日本が見習ってはいけない理由』 から学ぼう。


 まず、「まえがき」 で、「リスクマネージメントとは何か?」 と書いている。


≪リスクマネージメントとは、リスクをゼロにすることではないのだ。リスクがあるということを前提に、ありとあらゆるリスクに対して、事前に対策を立てることだ。

 もちろん、リスクを限りなく少なくするための努力はする。しかし、出発点はあくまでも、どんなに努力をしても、リスクはゼロにはできないという認識だ。

 日本人は、リスクというとまず自然災害が頭に浮かぶ。地震のリスクをゼロにすることは不可能だ。だから、それに対しての対策を考える。ここのところまでは、リスクマネージメントの手法に適っている。

 ところが、人為的なミスに関しては、ゼロにできるような思い込みが強い。だから、医者が、「感染症が起こったときのために、片目ずつ手術をします」 といえば、心底からは承服できない。感染症など起こさないようにするのが医者の務めだと考える。やる前から失敗の可能性を話すような医者はけしからんと思う。

 しかし、それはリスクマネージメントではない。感染症のリスクをゼロにしなくてはいけないなら、手術はできない。手術をしなければ、感染症は防げるが、患者は失明するかもしれない。何かをする限り、リスクはゼロにはできないのである。

 翻って、反原発の人々が求めているのが、リスクゼロだ。しかし、日本は津波と地震の国なので、1000年活動をやめていた火山が突然爆発するかもしれない。巨大な隕石も落ちるかもしれない。つまり、リスクゼロを求めている限り原発は動かせない。原発を動かさないことが目的である人にとっては、喜ばしい状況だ。

 しかし、原発を動かさないというのは、本当に良いことなのだろうか? 電気は技術の進歩と産業の発展と、そして、豊かな市民生活の源だ。だからこそ、先人たちは安価で質の良い電気の供給を目指して、血の滲むような努力をしてきた。貧資源国ドイツと日本が、1970年代のオイルショックのあとに原発を促進し、健全なエネルギーミックスに向かって尽力し始めたのは偶然ではない。おかげでこの両国は、産業と技術を存分に発展させることができた。

 自然界にリスクが存在するのと同じように、すべての技術にはリスクが存在する。リスクをゼロにすれば、飛行機は飛ばせないし、医学は進歩しない。

 もちろん、原発にもリスクはある。しかし、今、行われている原発の安全議論はおかしなことばかりだ。そもそも、東日本大震災の1000年に一度といわれた大地震のとき、原発はすべて停止したのだ。福島第一は津波に対する対策が不完全だったため、大事故を引き起こした。しかし、その違いは曖昧にされたまま、今、ありえないリスクゼロを求めて不毛な議論が続く。それは、再びありえない安全神話につながっていく道ではないだろうか。

 あのような事故を二度と起こさないために必要なのは、恐怖心をあおることではなく、冷静なリスクマネージメントだ。≫



  <つづく>


    令和2年1月28日



541 生長の家教団は、死んだのか。(1)


 さて、前項 #540

 「 歴史から何を学ぶか――生長の家は 「久遠の今」 にあり
  戦前も戦後も、一貫して不変である


 のつづきは一旦お預けにして、生長の家教団の普及誌 『いのちの環』 No.118(2020年1月号)を読んで、黙っていられなくなったことを書きたいと思う。

 1月19日、僕は地元の誌友会に出席した。出席者は講師と小生も含めて4人のささやかな誌友会である。派遣されてきた講師は、普及誌 『いのちの環』 No.118 をテキストにし、まず 「神・自然・人間の大調和に向けて」 という谷口雅宣総裁の文章を朗読。

 それをまず、ここに全文そのまま転載させていただく。(読みやすくするため、改行を増やして収載します)


         
* * * * * * *


≪ 原子力発電について、私が生長の家講習会で受けた質問に対する回答を次に掲げよう。

 私は、講習会では午後の講話の時間の最初の三十分を使って、参加者からの質問に答えることにしているが、以下の文章は、二〇一二年十二月二日に徳島県の生長の家講習会で行われた質疑応答の記録に若干の加筆修正をしたものである。

   地球と人間が共存するために

Q 総裁先生は、原子爆弾は“絶対悪”のように仰いましたが、これまでの長年の成果として原子力をようやく平和利用できるようになったことで、原子力発電があると思います。現在の技術として、廃棄物の処理等が不可能で完全に管理できないことは確かであり、教団が脱原発を選んだことは賛成しますが、未来的に考えて放射能と廃棄物の完全な管理と安全な利用ができれば、原子力発電を使ってもよいと思われるのですが……。あるいは、人類はそれを目指すべきではないでしょうか? (五十歳・会社員)

A 原発関連の質問です。最初に 「総裁先生は、原子爆弾は“絶対悪”のように仰いましたが、これまでの長年の成果として原子力をようやく平和利用できるようになったことで、原子力発電があると思います」 とあります。この方の認識はこういうものですが、私は必ずしも賛成しない。また、「未来的に考えて放射能と廃棄物の完全な管理と安全な利用ができれば、原子力発電を使ってもよい」 とおっしゃり、さらに 「人類はそれを目指すべきではないか?」 と書かれています。

 なぜですか? 私は、「なぜ原子力でなければいけないか?」 と聞きたいです。また、ほかにもエネルギー源は多くあるのに、なぜ原子力か? と問いたいです。原子力発電と他のエネルギー利用が違う最大の点は、原子力が生物一般に共通して有害であるということつまり、生物の組織の基本設計を定めた 「遺伝子」 を破壊するという点です。原子力利用は、この一点で、他のエネルギー利用技術と根本的に違うと私は思います。

 私は、「大自然讃歌」 にも 「観世音菩薩讃歌」 にも書きましたが、人間は自然界の一部であり、他の生物と大調和しなければならないのです。

 たぶん、皆さんが最もよくご存じである生長の家の文書の中に 「大調和の神示」 があります。その末尾には 「昭和六年九月二十七日夜神示」 とありますが、この時に谷口雅春先生に下された神示であって、発祥当初のものです。このほかに、谷口雅春先生は合計で三十三の神示を受けられている。

 この 「三十三」 という数は示唆的ですが、生長の家では、これらすべてが等しく取り扱われているかといったら、決してそうではありません。そうですね? 皆さんも内容を知らない神示、あるいは思い出せない神示はいっぱいあると思います。でも、この 「大調和の神示」 だけは、よくご存じではないでしょうか? それはなぜでしょうか? 理由は、聖経 『甘露の法雨』 の経本に収められ、経文より前に掲げられているからです。だから、このお経を読誦しようと思ったら、「大調和の神示」 を読まざるを得ない。そういう編集がなされているのです。つまり、谷口雅春先生は多くの神示の中から、この神示を“いの一番”に選んで、聖経の冒頭に置かれました。この聖経の編集方針は、最初のものが出た昭和十年(一九三五年)以来、変わることなく続いているのです。

 聖経 『甘露の法雨』 だけではありません。『生命の實相』 全四十巻(頭注版)の中でも、この神示は特別の位置を占めています。第一巻の冒頭には聖書の 『ヨハネの黙示録』 第一章の一部分が引用されていますが、その後に続く雅春先生のこ文章の最初を飾るのが、「大調和の神示」 なのです。ですから、明らかに雅春先生は、この神示が最も大切であると考えられている。

 さらにもう一点重要なことは、皆さんの目にはあまり触れることはないと思いますが、宗教団体としての規則を記した 「生長の家教規」 という文書があります。これは文化庁に届け出ている公式文書です。その規則で 「教義」 を定めている箇所に何が書いてあるかということです。つまり、生長の家はどんな教義を説く宗教であるかを公に宣言しているところですが、そこに何が書かれているかというと、「大調和の神示」 の全文がスポッと引用してあるのです。それ以外のことはほとんど書いてない。

 これらのことから考えれば、「大調和の神示」 に示された教えは、私たちの信仰の中では基本中の基本であって、これを除いてしまったら生長の家ではないと言えるほど重要である、ということであります。

 このことを確認してから、皆さんに次の質問をします。では、「大調和の神示」 には何が書かれているのでしょう? 暗誦をしている人も多いと思いますから、最初の数行を思い出してください。それをここにも掲げます――

 「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。……」

 このあとの言葉も暗誦している方もいると思いますが、長くなるのでやめます。

 それで、ここには何と和解せよと書いてあるでしょうか? 「すべての人々と和解せよ」 とか 「人間と和解せよ」 とは書いてないのです。和解する相手は 「人間」 に限定されていない。「天地一切のものと和解せよ」 と書いてある。それも一度だけでなく、わずか数行の短い文の中に五回も、「天地一切のもの」 とか 「天地の万物」 に和解せよと書いてある。だから、これが生長の家の教えの“根本”だと言えるのです。

 それでは皆さん、「天地一切のもの」 とは何のことですか? それは文字どおりの意味です。「自然界を含めた一切の存在」 と和解するのが、我々の信仰の基本中の基本だということです。だから、生物がもつDNAを破壊するようなものを、「人間だけのため」 に利用する――言い換えれば、放射性廃棄物を永続的に生産し、自然界に放出し続けるという技術や生活は、私たちの選択肢の中にはないはずです。そうでしょう? 人間は自然界と共存しなければいけない、ともに繁栄しなければいけない――それが 「大調和の神示」 の教えであります。

 だから、私は“脱原発”を言っているのです。「反自然」 的な技術を、人間が大規模かつ継続的に利用する――そういう生き方から脱すべきだというのです。このことを、皆さんにはぜひ理解していただきたいのであります。

 (『宗教はなぜ都会から離れるか?――世界平和のために』 97~103ページ、生長の家刊、2014年)≫


         * * * * * * *



 ――これを講師が朗読し終えたとき、座の四人の中の一人である僕は、黙っていられなくなって、発言した。

 「これは、全く間違っていると思います」 と。


 僕は、約5年前の平成27年(2015年)3月20日付けで、『何処へ行く? 「生長の家」 ――わが魂の記録と、谷口雅宣総裁への公開質問――』 と題する、A5判250頁の書籍を作り、総裁をはじめ生長の家参議、理事、各教区教化部長……等々の幹部、知人らに送った と #539 に書いたが、その中の 「質問三」 として、僕の疑問、反論を書いていた。

 それを、ここに再録させていただこうと思う。


         * * * * * * *



≪ 【質問三】 原発は、絶対悪でしょうか?

 神様は、悪いもの、無駄なものをお造りになったのでしょうか?


 ご著書 『宗教はなぜ都会を離れるか?』 に、次のような問答が掲載されています。


   地球と人間が共存するために

Q 総裁先生は、原子爆弾は“絶対悪”のように仰いましたが、これまでの長年の成果として原子力をようやく平和利用できるようになったことで、原子力発電があると思います。現在の技術として、廃棄物の処理等が不可能で完全に管理できないことは確かであり、教団が脱原発を選んだことは賛成しますが、未来的に考えて放射能と廃棄物の完全な管理と安全な利用ができれば、原子力発電を使ってもよいと思われるのですが……。あるいは、人類はそれを目指すべきではないでしょうか?(50歳・会社員)

A (上掲の通りなので、略させて頂きます)


 ――私は、質問者とほぼ同意見で、総裁のお答えを伺っても納得し切れません。

 総裁は、
〈なぜですか? 私は、「なぜ原子力でなければいけないか?」 と聞きたいです。ほかにもエネルギー源は多くあるのに、なぜ原子力か? と問いたいです〉
 とおっしゃっています。(前掲書98頁)


 それは、

 「① 原発のエネルギー効率の高さが桁違いに抜群であり、

  ② 火力・水力や、風力・太陽光などの “自然エネルギー” などよりもはるかに安全である。しかも放射線は必ずしも生物にとって有害ではなく、線量が低ければ却って有益な効果をもたらすので “絶対悪” ではなく、神の愛の賜だと思われるから」

 と言えましょう。それについて具体的なことは後述しますが――まず、総裁が

〈原子力発電と他のエネルギー利用が違う最大の点は、原子力が生物一般に共通して有害であるということ、つまり、生物の組織の基本設計を定めた 「遺伝子」 を破壊するという点です。原子力利用は、この一点で、他のエネルギー利用技術と根本的に違うと私は思います〉

 とおっしゃっていることへの疑問があります。“原子力が生物一般に共通して有害であるということ、つまり、生物の組織の基本設計を定めた 「遺伝子」 を破壊する”というのが、まちがっているのではないかということです。


 原子力(放射線)が遺伝子を破壊する、と最初に説いたのは、昭和2年(1927)アメリカのマラーという遺伝子学者です。ショウジョウバエのオスに放射線を浴びせたら大量の奇形が生まれたということが発表されました。

 しかし、1950年代にDNAの二重らせん構造が発見された後に、ショウジョウバエの特徴が明らかになった。人間のDNAは、放射線や活性酸素などで障害を受けても、「修復酵素」 によって修復されることがわかった。ショウジョウバエの雄の精子は 「修復酵素」 がない例外的なものだということがわかったんです。

 いま世間に罷り通っている放射線の常識は、線量の多少にかかわらず放射線はすべて生物学的に有害であるという 「LNT(Linear Non-Threshold)仮説」 (しきい値無し直線仮説)の“迷信”に基づいてさまざまなことが行われ、さまざまな事態が起こっている。脱原発の叫び声が高まり、ついに日本の原発発電量はゼロとなったり、電力危機が目前に迫っている。除染などという愚行が行われ、人々は苦しい避難生活をはじめ生活の根本を揺さぶられ、特に女性や子供の不安感、恐怖感は強い。国を損ない、社会を害し、個人を苦しめているこの放射線の常識が間違っていたら、どういうことになるのか。

 その実証データの端的な一例――原爆が爆発した広島・長崎では、生き残った人も多く、その後に多くの人に子供が生まれた。放射線を浴びると遺伝子が傷つき、奇形が発生するとされているが、広島・長崎に奇形が多く発生したか。そんな事実はまったくない。さまざまな調査がなされ、データが蓄積されているが、奇形の発生率が高まったという有意性のある数字はどこにも見当たらない。広島・長崎には奇形が多いという風評さえ聞かれない。理由は簡単。そういう事実がまったくないからである。

 広島、長崎の放射線量率は福島の約一千八百「万」倍だった。しかし、広島や長崎の人のほうが健康状態が良かったのは、低い線量の放射線はむしろ体にいいから。医学には 「ホルミシス効果」 というものがあって、有害物質でも少量の場合には刺激作用を起こして体に好影響を与えることがある。ラジウム温泉に行って体を癒す人たちがいるのは、放射線を浴びるために温泉に行っているんです。

 低線量の放射線はまったく困らない、むしろ体にいいのに、除染、除染と騒いでいる。科学的根拠もなく国民の不安をあおっている人たちがいる。放射能というのは、その実際の危険性よりも、まさに天文学的な倍率で誇張されているようです。あれだけの報道にもかかわらず、放射線による死者はひとりも出ていないどころか、福島第一原発の現場作業員で、急性放射線障害になった人もまだひとりもいないのです。

 総裁の 『次世代への決断 宗教者が“脱原発”を決めた理由』 も読ませて頂きましたが、残念ながら、やはりマスメディアの 「放射線は人体に危険以外の何物でもなく、原発は絶対悪」 とする論調に大きく影響され、全相を踏まえないで感情が先に立った論のように思えます。

 それは例えば、「自然界を汚染し続ける放射線」(『次世代への決断』24頁)という小見出しのところにも端的に表れています。

 しかし――「熱」 だって危険なものです。100度の熱では生物は死滅しますし、1000度にもなれば住宅も皆焼けて殆どガスになってしまうでしょう。しかし、適度の温熱は健康で快適な生活に必要です。医学上の「ホルミシス効果」というのも、そういうものであるようです。


   「無駄なものは何もない」


 総裁のご著書 『日々の祈り』 の中の 『「無駄なものは何もない」と知る祈り』 には

 『「無駄はない」 とは、すべての存在が神の愛、仏の慈悲の表れであると観じるときに理解される。(中略)あらゆる存在が 「神の愛」 「仏の慈悲」 の一部を表現していると知ることにより、あらゆる存在の意義を認め、それらの背後にある 「愛」 や 「慈悲」 の働きを引き出す努力につながるのである。』(166~167頁)

 と書かれています。原子力エネルギーも、「ホルミシス効果」 により低線量の放射線は人体に却って好影響があると知れば、「放射線も神の愛、仏の慈悲の表れである」 ということになります。


 チベット仏教のダライ・ラマ法王は

 「常に物事は全体を見るべきです。原子力が兵器として使われるのであれば決して望ましくありませんが、平和目的であれば別問題です」

 と言い、自然エネルギーは高価で、世界の多くの貧しい人たちが利用することができない。「先進国にとってだけではなく、これから発展を遂げる国にとっても十分でなければ、貧富の差が広がってしまいます」 と。


 総裁がご著書 『“森の中”へ行く』 で紹介され 『次世代への決断』 の序章(8~9頁)でも引用されている地球環境保護運動のリーダー、ガイア理論で有名な地球物理学者のジェームズ・ラブロックも、原子力を強力に推進しています。化石燃料から排出されるCO2による地球温暖化・気候変動のリスクを非常に深刻に受け止めていて、大量のエネルギーの消費なしで生きていくこともできない人口をすでに地球は抱えている。化石燃料によるエネルギーがなくなれば世界の人口の何割かがすぐに死滅するような問題だ。その中で唯一、気候変動リスクを低減させながら、エネルギーを供給できるのが原子力だと、ラブロックは考えているのです。

 反原発団体が、よく高レベル放射性廃棄物を理由に原子力を批判していますが、ラブロックは 「世界中の高レベル放射性廃棄物を自分の私有地に引き受けてもいい」 と宣言しました。彼はイギリスの田舎の、小川が流れ森が茂る広大な土地を購入してそこで暮らしていますから、世界中の高レベル放射性廃棄物を自宅に受け入れることは可能なのだということです。


 さて、私には幸いなことに、原子力問題専門家のよき友人がいます。大学時代の同期生で二年間寮生活を共にしながらグラウンドホッケーに明け暮れた、石川迪夫
(みちお)君です。彼は昨年、『考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』 というA5判360頁の大著を公刊しました。その冒頭に元東大総長で文部大臣・科学技術庁長官も務めた有馬朗人氏が次のような推薦文を書いています。

 「本書の著者、石川迪夫氏は、我が国が誇る原子力安全工学の第一人者である。旧日本原子力研究所で世界に貢献する安全研究の成果を上げ、北海道大学の教授として若手を育成、国際原子力機関(IAEA)の国際安全基準作成活動に日本代表として参加、そして日本原子力技術協会の初代理事長など、その名は広く世界の原子力関係者に知られている。

 ……中略……

 石川氏が福島第一原子力発電所事故の複雑な様相の謎を解く著作を執筆中と聞き、原稿を拝見させて頂いたところ、難解と言われる原子炉内部で起きた事故現象が明快に解明されており、目から鱗が落ちる思いをした。全世界に知らしめるべき大変な分析、考証がなされており、是非ともその出版に当たっては推薦の辞を書かせていただきたいと考えたのである。

 ……中略……原子炉事故に関する石川氏の博学は群を抜いている。……中略……

 石川氏は、津波来襲前に地震で1号機の配管が破断していたとする国会事故調の軽率な見解を大きな誤りと指摘している。また、福島事故を受けて設置された原子力規制委員会が策定した新規制基準は、全世界の原子炉安全工学者が深い洞察と長年にわたる慎重な検討で完成した安全設計の基本を無視し、ただ世界一厳しければ良いとの思い込みから全体の最適を図らず、例えば、異様に高い防波堤は一度越流すれば内側に貯えられた水の排水に時間を要し有害なものとなり得ること、福島事故の分析からフィルターベントの設置の必要性がないことなどを鋭く指摘している。安全設計強化の要求がバランスを欠き、実体としては安全性の低下をきたしていないか懸念を感ずるとしている。

 ……中略……

 海外の専門家も、福島事故についてこの種の貢献が日本からあることを心待ちにしていたはず。日本の辛い体験を世界に説明し、原子力の安全性向上に役立てるべきであり、そのためには本書が大いに活用できる。きっと、本書による福島事故の解明は、世界中の専門家を驚かすことであろう。」

 と。


 ――この本を読んだノンフィクション作家の立花隆氏は 「文春図書館 私の読書日記 2014・5・29」 に、次のように書いています。


< 石川迪夫 『考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』 (日本電気協会新聞部)を読んではじめて、あの事故の真相にかなり接近したと思った。

 著者は、原子力安全工学の第一人者。日本原子力技術協会の初代理事長、国際原子力機関(IAEA)の日本代表などを歴任。今回の専故でも米国科学アカデミー調査団とのハイレベルの会合に出席して、事実調査と原因究明にあたった。御年80歳だから 「事故解明は若い者の仕事と思い、手を付けずに」いた。「これはいかんぞ」と思ってこの本に手を付けたのは、2012年。何が 「いかんぞ」 なのか。NHKが何度も放送したパネルの事故説明がまちがっていたから。大方の読者が頭に描いている説明も、原子力関係者が頭に描いているストーリーも同じようにまちがっている。

 「炉心溶融と水素爆発」 があの事故の核心部分。それがどのようになぜ起きたのか、そこがわからないため 「いまだに福島の事故についての明快な説明がなされていない」。あらゆるデータを再解析した上で、福島事故の全貌を書いたのが本書。素人には読みにくいが、実証的論理展開に迫力がある。福島事故の推移があますところなく描かれる(なぜ各原子炉のメルトダウン時間がずれたか。4号機はなぜ爆発したか)。なるほど本当の専門家はここまで解明できるのかと驚く。

 これまで日本のジャーナリズムに氾濫していたエセ専門家たち(特に原発反対派)の妄言(「現代の迷信」)にあきれる。軽水炉の意外に強固な安全性が、スリーマイル島事故の精密解析とその後の十年間に及ぶ日米独原子炉暴走臨界実験から導かれる。暴走させても 「燃料棒がドロドロに溶けて……」 という映画 「チャイナ・シンドローム」 のようにはならないのだ。ところがNHKは、そのような事故が起きたと図解した。

 事実は、燃料棒の 「被覆管ジルコニウム酸化被膜が融点が高く強靱」 なため、あのタイプのメルトダウンは起りえないし、事実起らなかった。燃料棒破損による放射能漏出はきわめて少く、放射能による直接死者はゼロのレベルにとどまった。福島事故は原子炉の意外な安全性の証明になったが、日本の政治指導者のダメさかげんもあらわにした。

 菅首相が現地の視祭飛行などに血道をあげず、「落ち着いて後方支援に取り組んでいれば、2・3号機は助かった、というのが私の結論」。あの時、官邸に集合していた政府首脳たちは 「何ひとつ役に立たなかった」。> と。


 ダライ・ラマ法王が 「常に物事は全体を見るべきです」 と言われるように、いたずらに恐怖をあおるようなマスメディア報道に惑わされず、冷静にエネルギー問題、原発問題の全体を見てまいりましょう。

 そのときに、藤沢数希著 『「反原発」の不都合な真実』 (新潮新書) は、必読の参考書だと思います。(石川迪夫氏の著書は専門的で素人には難しいかと思いますが)藤沢数希氏はエネルギー産業と直接の利害関係がなく、科学者でありまた経済学やリスク分析の専門家で、大局的立場からエネルギー問題の全貌をわかりやすく説いています。

 本冊子43頁に、私が

 「① 原発のエネルギー効率の高さが桁違いに抜群であり、② 火力・水力や、風力・太陽光などの “自然エネルギー” などよりもはるかに安全である」 と書きましたのは、同書によるところが大きいのです。そのポイントを以下に列挙させて頂きます。


        
*   *   *


  エネルギーなしでは生きられない


 現代社会の人々はエネルギーなしでは数日の間で生存できなくなってしまいます。水も食料も運べませんし、都市ではエネルギーがなければ人間の排泄物の処理さえできないからです。そういう意味では豊富なエネルギーが人間の命をまさに守っている、といえます。

 お金持ちの国ほど国民は健康で、長生きします。同じ国の中でも、金持ちの方がそうでない人よりも健康で長生きなことは、膨大な医学研究で次々と証明されています。

 3・11の原発事故のあと、原発は経済か命かのトレードオフなどといわれましたが、これは二重、三重に間違っており、経済が強い国だけが、国民の命を守ることができ、国民に安全を提供できる。人類がこれだけ長生きし、これだけ繁栄できたのは、化石燃料による大量エネルギー消費が可能になったからであり、そしてこの50年の間に、地球環境問題を引き起こす化石燃料を少しずつ原子力が代替するようになった。化石燃料と原子力なしに、現代社会は回らないのです。


 原発のエネルギー効率の高さは抜群。自然エネルギーは総エネルギー消費のわずか1%。日本最大のメガソーラーの年間発電量は、原発一基の一日発電量に負ける。


 原発では、「e=mc2」 で、核分裂により質量が減った分厖大なエネルギーとなるから、それは火力発電や、太陽光・風力等によるエネルギーなどとは比べ物にならない。太陽光の年間発電量は原発の一日発電量に負けます。しかも太陽光パネルは製造過程で多量の二酸化炭素を排出しており、今後廃棄処分する時にはまた有害物質を出すので、「自然にやさしいエネルギー」 ということには疑問が生じています。

 メディアは世界の自然エネルギーへの取り組みなどを紹介し、あたかも世界のエネルギー供給源のひとつになりつつあるかのように報道しています。特に太陽光発電は人気があるようで、原発をソーラーで置き換えるべきと主張する政治家も出てきました。

 しかし、世界の総エネルギー消費のうち、自然エネルギーの占める割合は現在1.3%ほどです。その自然エネルギーの内訳は、風力が一番多くて、全体の0.7%ほどです。エタノールなどのバイオ燃料は半分近くの約0.5%を占め、ソーラーはエネルギー消費全体の約0.1%ほどになっています。

 資源エネルギー庁の資料によれば、日本では太陽光発電、太陽熱利用、バイオマス直接利用、風力発電、地熱発電など全てを足しても、これら自然エネルギーは日本のエネルギー消費全体の0.3%ほどにしかなりません。自然エネルギーは将来にわたって、中心エネルギーになることはほとんど期待できず、しかもコストが高い。


 原発は火力発電より桁違いに安全。自然エネルギーよりも遙かに安全である。


 ソーラーパネルと原子力発電所の危険性をどうやって比べたらいいか。エネルギーの危険性を比べるには、同じ土俵の上に乗せてあげないといけない。つまり単位エネルギー当たりの事故や公害による犠牲者の数を比べるのです。この場合、リスク管理の専門家は1TWh(テラ・ワット・アワー〈1時間あたりの発電量、テラは兆〉)当たりの犠牲者数を比較します。

 結論をいうと、1TWhの電気エネルギーを生み出すのに、人命という観点からいえば、原子力による発電は、石炭や石油のような化石燃料による発電より1000倍程度安全だとされています。つまり化石燃料を燃やしてエネルギーを得るのに、1000人の人間の命を犠牲にしなければいけないところを、原子力ならたった1人の犠牲でいいというのです。これはチェルノブイリ原発事故のような、あらゆる原子力事故を計算に入れた結果です。さらに驚くことですが、実は原子力は、風力発電や太陽光発電よりも犠牲者の数が少ないという研究結果があります。

 化石燃料のもたらす被害はCO2放出など多々あるが、WHO(世界保健機構)報告によると大気汚染で年間115万人が死亡するという。日本でもWHOの推計によると、毎年3万3000人~5万2000人程度の人が、大気汚染が原因の病気で死亡しています。交通事故の犠牲者数を上回る数です。大気汚染濃度の違う地域を比較したり、同じ地域で時々刻々と変化する大気汚染濃度と死亡率の関係を慎重に研究することにより、大気汚染による犠牲者の数が統計的に推計できる。

 直接 「大気汚染で死ぬ」 人はいないけれど、大気汚染は何らかの病気の原因になるわけです。そのうち半分程度は自動車の排ガスが原因で、火力発電所からの大気汚染物質によるものは約3割の30万人ほどになるが、原発では多めに見積もって50年間で4000人ほど。1TWh当たりの死者数は、火力発電は21人なのに対し原発は0.03人、つまり700分の1です。

 因みに太陽光発電はどうかというとゼロではなく、0.44人、すなわち原発の15倍であるという。自然エネルギーは安全と漠然と考えるのは間違いなのです。

 大気汚染で人が死ぬというと、「そんな大げさな」 と思われるかも知れないけれども、これはWHOが言っていることで、この見解は膨大な疫学調査にもとづく多数の医学者のコンセンサスとなっている。それは注意深く各種の大気汚染物質の濃度と様々な病気の発生確率の変化を調査し、その結果、日本では何人ぐらいの人々が大気汚染を原因とした病気で死んでいるという科学的に信頼できる結論が導かれているわけです。


 太陽光や風力でも犠牲者は出る


 オークリッジ国立研究所のインハーバーは、1980年頃までは、まったくもって安全だと思われていた太陽光発電や風力発電でも、ある程度の人命の犠牲が不可避であるということを示しました。これはどういうことかというと、

 たとえば原子力発電所1基分の発電量を産み出すのに、太陽光発電では山手線の内側ほどの面積が必要になります。そのため火力発電所や原子力発電所ではほとんど無視できた、発電施設を作るのに必要なコンクリートや鉄のような材料の生産に伴う犠牲者や、建設工事の事故による犠牲者などが無視できなくなってしまうからです。

 太陽光発電や風力発電では、エネルギー密度(同じ土地面積や同じ重量や体積の燃量から取り出せるエネルギー量)が非常に小さい自然のエネルギーを利用しないといけないので、原子力発電と同じだけのエネルギーをかき集めるために圧倒的に多くの建設資材と工事作業が必要になってしまいます。

 スイスのポール・シェーラー研究所が、1969年~2000年の間に世界で起こった膨大な数のプラント事故を調査したところ、プラント事故により直ちに死亡した犠牲者だけで、化石燃料はやはり原子力の数百倍の死亡者が出てしまうことを証明しました。化石燃料は非常に危険なのです。

 その他にも、エネルギーの安全性に関する様々な論文が発表されていますが、どれも化石燃料は、原子力より圧倒的に犠牲者が多いことが示されています。


 自然エネルギーも環境破壊する


 自然エネルギーは環境にやさしい、と思われがちですが、いくつかの環境破壊を引き起こしてしまうのも事実です。風力発電では、低周波による騒音や、風車が周期的に太陽光を遮るストロボ効果による周辺住民への健康被害、野鳥を風車が撲ねてしまうバードストライクなどがよく知られています。

 太陽光発電も環境破壊とは無縁ではありません。有毒物質を多数含む蓄電池を、管理の行き届かない一般家庭に取り付けるというのは、電池の寿命や、故障したときの産業廃棄物処理の観点からいえば、非常にやっかいな問題になるでしょう。

 ソーラーパネル自体は、現在、シリコン系とカドミウム・テルル系の2種類が主流ですが、いずれにしても寿命が来れば大量の産業廃棄物を生み出します。特にカドミウムは、日本の四大公害のひとつであるイタイイタイ病の原因物質であり、強い毒性があります。


 脱原発で多くの人が犠牲に


 原子力は化石燃料に比べて圧倒的に犠牲者数が少ないし、太陽光や風力と比べても少ない。

 これらの考察から判断すると、脱原発は、どうしても犠牲になってしまう人命が圧倒的に増えてしまうことになるでしょう。現在、日本では脱原発が盛んに議論されていますが、急進的な原発廃止が進み、日本の老朽化した火力発電所がフル稼働して、原発の電力不足分を補う場合、どれぐらいの人が犠牲になってしまうのでしょうか。

 日本は年間1100 TWh程度の電力を生み出します。これの3割が原子力によるものだったので、原子力の発電量は330 TWh程度です。これを火力発電に置き換えた場合、先ほどの数字、1TWhあたりの犠牲者数21人を使うと、約6,900人の人が毎年亡くなる(21×330=6,930人)。一方で原子力の方は、330 TWhでは10人ほどの死者が見込まれます(0.03×330=9.9人)。6,900人の増加に対して、原発を止めることにより潜在的に10人の犠牲者を減らせます。10人は誤差の範囲なので、日本で急進的な脱原発が進んだ場合、年間に6,900人も死者が増えてしまう可能性があるのです。


 原発ゼロによる大気汚染


 世界の電力の7割弱は火力発電所で作られています。化石燃料の問題点はCO2の排出による地球温暖化と、さまざまな大気汚染を引き起こすことです。世界的に見れば、過去のあらゆる核災害よりも、自動車の排ガスや火力発電所の煤煙による大気汚染の方が、圧倒的に多くの人を犠牲にしています。原爆の犠牲者は広島と長崎を合わせて約40万人ですが、毎年100万人の桁で死んでいる大気汚染に比べたら、はるかに少ないといえます。

 反原発運動家は、ことさらに放射線による健康被害の悲惨さを強調しますが、致死的な呼吸器系の病気は、ひどい喘息や肺癌など、大変な苦痛を伴う悲惨な死に方です。そして、その数は放射線に関連する癌患者よりも圧倒的に多いのです。

 多くの人は、原発をなくせば日本はもっと安全になる、と考えているようですが、このように健康被害を冷静に考えると、原発をなくすことで増すリスクも存在します。そしてそのリスクは、原発のリスクよりもはるかに大きいようです。


 電気自動車は原発なしには普及しない


 電気自動車が最近注目されているのは、もちろん世界的に地球温暖化問題への関心が高まっているからです。CO2削減のための主役が原発と電気自動車なのです。なぜならば火力発電所とガソリン自動車がいうまでもなくCO2の最大の排出源だからです。

 しかしここで日本がもし原発を減らすということになると、電気自動車の魅力はほとんどなくなってしまいます。というのも電気自動車のエネルギー源の電気が、化石燃料を燃やす火力発電所で作られることになってしまうからです。

 この場合、まず火力発電所で大量のCO2を排出しながら作られた電気が、電力をロスしながら送電線を通って、電気自動車までやってきて蓄電池に充電されることになります。火力発電所では化石燃料を燃やし、タービンを高速回転させ発電するわけですが、そこでも当然ロスが出ます。発電ロス、送電ロスをして、蓄電池を充電するときにもまた電力をロスして、最後にモーターを回して電気自動車が動くわけです。これでは直接ガソリンを燃やす自動車と比べてCO2の削減効果はなくなってしまいます。

 原子力発電は出力の調整がむずかしいので、夜間などは電気が余りがちになり、電気代を安くすることが可能です。電気自動車は、この安い夜間の電気を使い、人々が寝ている間に充電し、CO2も大気汚染物質も出さない未来のモータリゼーション・テクノロジーなのです。原子力というのは未来の交通網において、大変重要なエネルギー供給の基軸なのです。


 脱原発のコストは燃料費だけで年間4兆円


 火力発電のコストの内、燃料費は7~8割程度です。つまり火力発電のコストはほとんど化石燃料代なのです。

 一方で、原子力発電では、ウラン核燃料費が発電コストに占める割合はたったの1割程度です。しかも原発を止めても、核崩壊により燃料は劣化していくので、ほとんどコストのセーブはできません。つまり耐用年数に達していない原発を止めるのは、丸損なのです。

 菅直人前首相の浜岡原発停止要請から始まった、日本中の原発が再稼働できないという状況は、ローンで買った自宅を空き家にして、賃貸マンションに家賃を丸々払って住んでいるようなものなのです。

 原発を停止させれば安全性が高まるというのも誤解です。福島第一原発の4号機は定期点検中で原子炉の中は空であったにもかかわらず水素爆発を起こし、放射能漏れ事故を起こしていることからわかるように、原発を止めても必ずしも安全性が上がるとはいえないのです。

 政治家やマスコミの反原発パフォーマンスで費やされるかもしれない年間4兆円の請求書は、福島第一原発事故の総賠償金額、日本の総防衛費に匹敵し、日本の生活保護費、民主党の子ども手当て支給額を大きく上回ります。しかも生活保護費や子ども手当ては、国内の富の移転ですが、化石燃料代は中東などにただ富が流出していくだけなのです。

 これらのコストは電気代などに転嫁され、国民が負担することになります。急進的な脱原発は、年間4兆円もの負担が生じ、さらに電力不安で企業の生産が抑制されてしまい、多くの企業の海外流出を推し進めるでしょう。


 エネルギーの未来のために


 日本のように土地が狭く地価が高い国で、莫大な土地を無駄に占有する自然エネルギーを多額の税金を投入して無理して利用しなくてもいいのです。サンシャイン計画など、日本で30年前に失敗し、この10年ほど欧州でも失敗した自然エネルギーに、またこれから多額の税金を投入することは賢明な政策とはいえません。

 マイクロソフトの創業者で世界一の金持ちであるビル・ゲイツは様々な慈善事業に莫大な私財を投じています。世界のエネルギー問題、そして環境問題に、彼は大きな関心を寄せています。実際に莫大な金額を投じて、新しいタイプの原子炉の開発に関わっていますし、大規模なメガソーラー発電施設などにも投資しています。しかし、ビル・ゲイツは太陽光などの自然エネルギーは世界のエネルギー問題の解決策にはならない、という意見を述べています。コストが高すぎて、世界の貧しい層の人たちにはとても手が出せないからです。途上国の国民は安価なエネルギーを切望しているのです。

 しかし化石燃料にこれ以上依存することは、地球温暖化などの環境問題から避けなければいけません。結局、原子力しか残されていないのです。ソーラーや風力はキュートなテクノロジーであり、豊かな先進国が遊び心で実験的な発電所を作るのはいいのですが、国民生活を支える基幹エネルギーにはなりえないでしょう。ましてや急速に経済成長を続けている途上国が利用することは経済的に困難です。

 原子力はこれからも大きなイノベーションが起こる可能性があります。現在の軽水炉は、核エネルギーの持つ潜在的な力のほんのわずかしか引き出せていないからです。第3世代軽水炉・高速増殖炉・トリウム原子炉・核融合炉など、まだまだイノベーションの余地が多く残されているといえるでしょう。


 日本は福島の原発事故の経験を生かせ


 福島で起こってしまった原発事故と、その被害を軽視することはできません。それ自体は大変悲しむべきことです。避けなければいけなかったし、技術的に避けることができた、というのは事実です。

 しかし福島第一原子力発電所では、いつメルトダウンして致死量を上回る被曝をしてもおかしくないという状況の中、現場の所長や作業員は粛々と自らが行うべき仕事をやり遂げようと作業しました。彼らは世界的にも大変評価され、たとえば、ヨーロッパで最も栄誉ある賞のひとつとして知られる 「スペイン皇太子賞」 が贈られています。

 その後は、数千人規模の作業員が被曝量を各自コントロールしながら、懸命に作業に当たっています。そして少なくとも現在までに、放射能による犠牲者をひとりも出していないし、急性放射線障害の患者すらひとりも出していません。このことは大変誇らしいことだと思います。

 事故現場では、何らかの拍子に致死量を超える放射線を浴びてしまう可能性はいつでもあります。だからこそ、現場で日夜作業をしている人たちに、私たちは敬意を払わないといけないでしょう。

 放射性物質を含む冷却水の処理や、致死量を上回る放射線量が測定された原子炉建屋内の調査など、次から次に難題にぶつかっては、東京電力や、東芝、日立、三菱重工のような原発関連メーカーが必死で解決策を見つけ出そうとしています。そして、

 当初はチェルノブイリのようにコンクリートで埋め固めるというような、粗雑な事故処理をするだろうと思われたものが、現在では水素爆発でボロボロになった原子炉へ冷却水の循環を確立し、ロボット技術などを駆使して内部の核燃料を取り出し、福島第一原子力発電所の1号機から4号機を正常に廃炉にしようという目処が立ちつつあります。日本では全く報道されていませんが、これには世界の原子力関係者が驚いています。

 日本のマスコミはいったん叩いてもいい存在だと認識すると、いつものように全社横並びでいっせいに日本の原子力産業にかかわる組織や人たちのバッシングをはじめました。しかし、そのような中でも見ている人はしっかりと見ているものです。現場ではこのような危機的な状況でも、誰ひとり逃げ出すことなく、それぞれの叡智を振り絞って粛々と事故処理を続けています。

 こういった放射能漏れ事故を処理する技術や除染作業のノウハウの蓄積は、日本の原子力産業の将来にとって大きな強みになるでしょう。

 日本と同じく地震があるトルコなどは、菅直人前首相が人気取りで将来的な輸出見直しを示唆してからも、日本のメーカーから原発を買いたいと言いました。冷静に考えれば、事故により日本のメーカーにさらに貴重なノウハウが蓄積されているからです。

 この事故は日本にとってピンチでしたが、逆に、日本の技術の高さ、現場のエンジニアや作業員のモラルの高さや有能さを世界に示せるチャンスでもあったのです。

 2011年12月現在、世界で500基弱の原発が稼働していますが、中国だけで60基の原発が建設中、または計画中です。中国は今後、年間6基程度のペースで原発を新規に建設していきます。大気汚染のひどい中国で、石炭依存の脱却が進むことは、人々の健康にとっては好ましいことでしょう。

 日本で脱原発が進むにせよ、進まないにせよ、今後は中国やインドなどの新興国を中心に原発の新規建設は進んでいきます。その際に、高度な原子力技術を有し、事故の教訓も得た日本は、世界の原子力政策に貢献すべきではないでしょうか。

 安全性の上に安全性を追求しても、自動車事故で毎年約五千人が死にます。飛行機事故が起これば百人単位で死にます。だが、自動車をやめる、飛行機をやめる、とはなりません。より高い安全性を追求して努力していくのみです。

 原発も同じだと思います。日本の耐震技術は世界一です。そのことは今回のマグニチュード9.0の激震でも女川原発や福島第二原発はきちんと冷温停止したことで証明されました。

 それでも津波によって福島第一原発の事故は起こりました。何がいけなくて、何が足りなくて、何が欠けていたのか。設計をはじめとする技術の問題はもちろん、安全対策のあり方、そのための人的訓練、そして何よりも原発の建設、運用における体制、組織、システムなどに徹底的にメスを入れ、改善を図れば、安全性が飛躍的に向上することは確かです。技術に完全な安全はないが、完全な安全に無限に近づくことはできるはずです。

 日本は世界唯一の原爆被爆国であり、また原発事故もありました。世界は、原発廃炉への処理技術や、今後の技術革新による原発の安全な平和利用について、かたずをのんで日本を見守っています。

 「無駄なものは何もない」。原子力エネルギーも、放射線も神の愛、仏の慈悲の表れであると信じます。福島の事故は、原発の安全性をより高めるための教訓の宝庫です。それを生かすところに日本の使命があり、「失敗したから廃止」 では、智慧もないし使命も果たせないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。≫


        
*   *   *


 以上は、約5年前に、平成27年(2015年)3月20日付けで、『何処へ行く? 「生長の家」 ――わが魂の記録と、谷口雅宣総裁への公開質問――』 と題する、A5判250頁の書籍を作り、総裁をはじめ生長の家参議、理事、各教区教化部長……等々の幹部、知人らに送った中の 「質問三」 として、僕の疑問、反証を書いていたものです。


  <つづく>


    令和2年1月21日


540 生長の家は「久遠の今」にあり
  戦前も戦後も、一貫して不変である



      歴史から何を学ぶか


 僕らは、平成28年8月から約3年半、有志相集い、谷口雅春先生の説かれた生長の家の神示講義三部作(『神ひとに語り給ふ』・『到彼岸の神示』・『秘められたる神示』)を深く丁寧に学び研鑽し合う勉強会を、毎月1回休みなく開催し、ひととおり学び終えたのである。

 そこで去る12月に今までの勉強を振り返り、まとめの研鑽会をした。

 岡の結論から先に言おう。それは、上のタイトルに表したとおりである。それは、

  生長の家は 「久遠の今」 にあり
  戦前も戦後も、一貫して不変である


 ということを、さらに深く確認した、ということである。


 さて、『歴史から何を学ぶか―平成十五年度 生長の家教修会の記録』(谷口雅宣監修)という書籍がある。その(監修の辞に替えて)という谷口雅宣・当時生長の家副総裁の序文を、まずは見てみよう。


≪   歴史から何を学ぶか(監修の辞に替えて)
               生長の家副総裁 谷口雅宣

 本書は、平成十五年七月十六日に東京都江東区・お台場のTFTホールで行われた「生長の家教修会」の内容をまとめたものである。

 本書のタイトルを 「歴史から何を学ぶか」 とした理由は、宗教運動の中に 「歴史」 の視点を取り入れる意義を強調したかったからである。歴史とは、「人間社会の変遷・発展の経過」 であり、また 「ある事物が現在まで経過して来た変化の跡」 (いずれも 『新潮国語辞典』 の定義) である。つまり、「宗教運動も変化する」 という事実を読者にはっきりと認識してもらいたかったのである。

 宗教上の教えは 「大真理」 とか 「大法」 などと呼ばれることもあり、時間の経過や歴史の流れに影響されることなく、「普遍」 であり 「不変」 だとされることが多い。例えば、『生命の實相』 の初版の序文には 「『生長の家』 の生きる道は私が肇
(はじ)めた道ではない。凡そ、宇宙に生命が発現する限り、そこに道があり、法則がある。この道こそ 『生長の家』 の生きる道である」 とあり、生命発祥の昔から 「道」 や 「法則」 は変わらないと述べている。また、聖経 『甘露の法雨』 には、「汝ら 『実在』 は永遠にして滅ぶることなし」 とあり、また 「人間真性(そのもの)はこれ神人、永遠不壊(ふえ)不滅の霊体にして」 とあり、神の創造になる実在と、その実在界にある真性の人間は時間を超えていると説いている。

 「時間を超えている」 ということは、「時間の移り変わりや時代の変遷に影響されない」 という意味である。

 「真理」や「実在」はもちろんその通りである。しかし、それを説き、表現しようとする活動――つまり、宗教運動はどうだろうか? 宗教家や伝道者が教えを伝える方法、儀式のやり方、伝道者や一般信者の組織化の方法、活動資金を得る方法、宗教組織内の種々の制度等は、宗教の開祖の時代のものから変化するのだろうか、しないのだろうか? この質問の答えは、仏教やキリスト教、イスラームの例を見れば明らかである。宗教活動のやり方は、時代の変化とともに変わらざるを得ないのである。それが時代に即応した伝道であり、教化活動である。それができない宗教は時代から取り残され、やがて消滅する。…(以下略)…≫



 以上、『歴史から何を学ぶか』 の序文には至極もっともなことが書かれている。しかして、その≪時間の経過や歴史の流れに影響されることなく、「普遍」 であり 「不変」 だとされる≫大真理は何なのか、それには触れられていない。そのことは本書全体を通じて言えることで、谷口雅春先生の教えは戦前・戦中・戦後でこのように変化した、という表面的なお言葉の変遷だけが強調され、その中に一貫している不変なる教えの中心が何なのかを明らかにしようという姿勢が示されていないと感ずる。

 私は、生長の家の運動は戦前・戦中・戦後で変化があったけれども、一貫して流れている教えの中心真理は、時間・空間を超えた 「久遠の今」 の真理であって、微動だもせず、変わっていない、ということを思いつづけてきた。その私の思いは、このたび神示講義 『神ひとに語り給ふ』 『到彼岸の神示』 『秘められたる神示』 を深く学び直して、いよいよ確信となってきた感がある。それを、具体的に記述してみたいと思う。


                ○


 生長の家の 「神示」 は全部で三十三あると言われている。「神示」 には教義の中でも別格の根本教義が説かれているとする人もあるが、生長の家はその三十三の神示が天降ってから始まったわけではない。『生命の實相』 の自伝篇 (頭注版では第20巻の134~136頁) には、次のように書かれている。


≪ ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の 「色即是空」 という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。

 「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。

 と、突然その大濤のような声が答えた。「無より一切を生ず。一切現象は念の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無より一切を生ず。……」

 ……「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である! 今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」

 わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦燗と満ち漂った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに見出したのであった。……≫
 


 ――と書かれているその大濤
(おおなみ)のような声は、やはり 「神示」 であったと言えるのではなかろうか。いや、これこそ後に啓示された三十三の神示の基(ベース)となった別格の神示だとすら思える。

 「久遠の今」 こそ、生長の家の出発点アルファであり、目的地オメガである。それ故に、私たちの勉強会では、毎回開会前に谷口雅春先生の 「久遠の今」 の御講義を拝聴して来たのである。「久遠の今」 に、すべてがある。

 「神示」 といえば、『生命の實相』 第一巻の14頁 〈「生長の家」とわたし〉 という小見出しの後には、

≪ひとたび『生長の家』を書こうとしてわたしがペンをもって机に向かうとき、わたしはもうふだんのわたしではないのである。霊きたりてわたしを導く。弱い性質のわたしにはとても書けない強い言葉が流れるように湧いて来る。……わたしが専念、教えのことを書いているのをかたわらで見ていた霊視能力者の加藤氏は、わたしと別な霊人が筆をとっている姿を見たといっていた。……≫

 として、埼玉県の笠原政好という青年が霊眼によって、先生が 『生長の家』 の原稿を書いている現場を透視した報告の手紙(昭和六年一月一日付け)を掲載されている。それは――

≪……ちょっと弱そうな容貌、しかしその熱烈さ。『道』 に奉ずるのご決心は一目瞭然である。生き生きしたペンはソロリソロリ走り出した。まだなん行とも書かぬうちに先生は無我のうちにおかれ、またたくまにペンのスピードは前とはまるで変わってくる。走る走るあらっと思う間もなくぜんぜん先生とは異(ちが)った人になっている。口元の締った、あご髯の胸まで垂れ下った、見るだに気高き霊人だ。あれ先生はどこにと、見詰めた。ああ先生は霊人の内に融け込んでいるのだ。霊人は全支配権を握り、わき目もふらず書を進めてゆく。あれなんという、推敲もせずそしてペンの早さは目も及ばぬほどだ。まあ不思議なこと一体どこから来た方だろう。霊人の神々しい霊光が放たれ付近は光明浄土と化した。静寂また静寂、付近はまだ霊人の占領地となっている。やがてペンははたと止み、霊人はどこかに姿を消してしまった。目的の文ができあがったらしい。後は先生の独坐と変わった。……≫

 というのである。先生は、

 「一切現象は念の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無より一切を生ず。……イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である! 今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」

 という最初の神示をお受けになって以来、己を無にして高級霊=神の導きのまにまに 『生長の家』 誌に執筆され、『生命の實相』 に収載されたご文章は、すべてほぼ 「神示」 と言ってもよいものではないだろうか。


  <つづく>


    令和2年1月15日


539 それは、信徒われらの責任である。


 前項で私は、

 「生長の家はいつの間にか、白身ばかりで黄身の無い卵になっている、と感じる。
 黄身の無い卵からヒヨコが孵ることは無いのは当然である。たとえ黄身があっても、無精卵ではヒヨコは生まれない。つまり、後継者が出来ないのは当然、ということである。」

 と書いた。

 それは、単に総裁の責任ではない。それは、信徒一人一人の責任、私の責任なのである。

 谷口雅春先生は、

 
「自分ひとりが浄まったなら、世界は浄まるのである。自分の心がきよまらざる故に世界はきよまらないのだ。自分の心をきよめることによって、全世界を浄めることが出来るのである。」
 (『叡智の断片』 p.127)

 と教えられているのである。


          
* * * * * * *


 僕は、5年前の平成27年(2015年)3月20日付けで、『何処へ行く? 「生長の家」 ――わが魂の記録と、谷口雅宣総裁への公開質問――』 と題する、A5判250頁の書籍を作り、総裁をはじめ生長の家参議、理事、各教区教化部長……等々の幹部、知人らに送ったのであった。



 その 「はじめに」 というところに、次のように書いていた。


≪      は じ め に

 「生長の家は何処にあるか」 と問われたら、私は 「生長の家は今、ここにあります。私が生長の家です。生長の家は、わたしの生命(いのち)です」 と答えたいと思います。

 今が天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時であり、此処が生長の家(たかあまはら)(高天原)である。わが生命(いのち)は天之御中(あめのみなか)の御生命(おんいのち)が鳴りひびいているのである。谷口雅春先生が、「本当の生長の家本部は神界にある」 とおっしゃった、神界とは遠くにあるのではなく、「神の国は今此処わが内にあり」 ということであると信じます。

 生長の家とは、時間・空間未だ発せざる中
(みなか)、一切万象発生の枢機を握る 「久遠の今」 なる本源世界、大宇宙(たかあまはら)である。そして――

 
全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を 「生長の家」 と言う。理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇の御天職である。此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。全世界は天皇に於て一宇である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。(谷口雅春先生 『光明道中記』 31頁より)

 これが、生長の家の教義の中心部分であり、生長の家出現の目的、使命である。これをなくせば塩に塩気がなくなったと同様、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」(マタイ伝第5章13節)になってしまうのではないか、と私は思います。

 本書に 『何処へ行く? 「生長の家」』 と題を付けたのは、「生長の家は東京原宿から “森の中” へ行く」 というような、外形の問題ではありません。魂の問題です。今の生長の家は、

 「われ今実相の世界を去って五官の世界に入る」

 となっているのではないか、ということです。

 谷口雅宣・生長の家総裁が昨年11月に公刊された 『宗教はなぜ都会を離れるか?』 の 「はしがき」 に、「宗教の教祖も、その人が生きた環境と時代から完全に自由になることはない」 とあり、同年11月22日 総本山に於ける式典での総裁ご挨拶原稿〈「唐松模様」 所載〉には

 
「『宗教運動は時代の制約下にある』 ということを、皆さんはぜひ理解していただきたいのです。……私たちは今日、地球温暖化問題を深刻に捉え、その抑制に向かって真剣に取り組んでいます。生長の家が国際本部を東京から八ヶ岳の南麓に移転したのも、それが最大の理由である……つまり、宗教は時代と環境の要請から生まれるから、その時代と環境が変化すれば、宗教自体も変化を要求されるのである。だから、戦前・戦後に説かれた教えは戦後に修正されることもあるし、冷戦時代の宗教運動の目標や方法が、冷戦後には採用されないこともあるのである。この時代応現の変化の意味が分からないと、宗教は社会に有害な影響をもたらすことになる」

 と書かれていますが、本当の宗教は 「時代と環境の要請から生まれ、時代と共に変化する」 ものではなく、時代を超越した永遠の真理を説くべきものであると私は信じます。

 生長の家は今、「正念場」 を迎えているという気がします。教化部長がいくら頑張ってみても、講習会受講者数も聖使命会員数も減り続け、教勢の下降に歯止めがかかりません。このまま行けば、教団は、つぶれはしなくとも、存続の意味がほとんどないほどになって行くのではないかと思われます。それは、真理がくらまされているからではないのか。「正念場」 とは、「正念」 すなわち 「神は完全であって、神の造り給うた世界には、不調和や不完全はナイ」 と実相を観ずる 「正念」 をもって、適切な処置行動をしなければならないギリギリの時だということでしょう。

 それで、今年(2015年)新年の総裁のご挨拶文や、新刊書 『宗教はなぜ都会を離れるか』 を拝読して疑問に思うことなどを率直に申し上げ、「私の考えはまちがっていますでしょうか?」 というのが、本書 「第一部・総裁への公開質問」 でございます。総裁が現象面のことを根拠に説かれるのに対しては、現象面の歴史的事実などから出発して申し上げております。憚りながら、245頁以下に採録させていただきました 「張玄素のようでありたい」 というような思いをもって、書かせて頂きました。私も八十歳を超え、今年6月で82歳となる今、今生での残る時間は限られています。そこで、「これを言わなければ死ねない。」 このままでは、生長の家は消えてしまい、日本の危機、世界の危機は救われない。今起たずして何時起つべきか――という思いなのです。

 「第二部」 資料編 「疾風怒濤のわが青春記録より」 は、わが魂の足跡ともいうべきもの。私は昭和26年(1951)、高校生時代に 『生命の實相』 の御光
(みひかり)によって新生し、激動の時代に 「自分はこの御教えに人生を賭ける」 と決めました。それから60年以上たった今、これまで私が青年時代から書いて生長の家の月刊誌、機関紙誌その他の雑誌、単行本等に掲載された論文・対話録などから、選んで編集したものを、資料として採録させていただきました。これらは前の 「第一部」 公開質問編の基盤となっております。

 この冊子は、私の 「内なる神へのレポート」 と言ってもよいものだと感じております。

 はなはだ恐縮ながら、ご一読くださいまして、総裁先生には質問へのご回答を、それ以外の諸先生皆様にも、ご意見・ご感想ないしご指導を賜れれば、まことに有り難き幸せに存じます。

 平成18年(1996)生長の家本部を退職し地方講師とならせていただいてから今まで約9年間に、私は幾たびか総裁に直接お手紙を差し上げました。しかし、何のお返事もいただけませんでしたので、今回は、失礼ながら公開質問の形をとらせていただきます。

 なにとぞよろしくお願い申し上げます。

      平成27年3月吉日

                           岡  正 章 ≫

          
* * * * * * *

 そして本文第一部で、次のような4項目の公開質問を発していた:――



 上記は4項目の質問のタイトルだけを示したものであって、【質問一】 の詳細内容についてはp.14~28 の14頁分、【質問二】 【質問三】 【質問四】 についてはそれぞれ10頁分・22頁分・5頁分の合わせて51頁分を費やし詳しく質問を投じている。

 それから間もなく5年を経過しようとしているが、何のご返答もいただいていない。


          
* * * * * * *


 今日は、私の所属する短歌会誌 『爽樹』 2月号の歌稿締切日。それで作った歌をご披露します。

               ○


 もう五年経ったんだねとつぶやけりあっといふ間の五年過ぎたり


 世界はいま目まぐるしくも変転す安らぎのくにいづこにありや


 移りゆくこの世のすがた見つめつつわが求むるは永遠
(とは)の安らぎ


 やすらぎの郷
(さと)は今ここ内にありわが内にこそ安らぎはあれ


 わが内に永遠
(とは)なる神はましませりすべての全てわが内にあり


 トランプも習近平も金正恩もみなわが内に生きてあるなり


 カルロスゴーン逃亡したりと見ゆれども釈迦仏の掌
(て)の上にありしぞ


 夢の如く映画の如く人類の壮大なるドラマ今展開す



  <つづく>


    令和2年1月10日


538 黄身のない卵か?! 生長の家教団は


 「久遠の今」 なる生命の実相哲学、「万教帰一」 の真理を説いて日本の運命に大きな好い影響を及ぼしてきたと思う生長の家教団は、いま、谷口雅宣 現総裁が教団を実質支配するようになってからおよそ30年、総裁に就任してからも22年を超え、今年12月に古希70歳の誕生日を迎えるはずである。しかし、いまだに後継者が定まらない。

 3年前、小学館の雑誌 『SAPIO』 2017年3月号に、「日本を騒がす 『宗教家7人』 の秘密」 というタイトルの特集記事があり、谷口雅宣・生長の家総裁は、ジャーナリスト小川寛大氏の質問――「総裁が誰であるかは教団の方針に大きな影響を与える。“次世代” をどう考えるのか」――に答えて、次のように述べているということが載せられていた。

≪谷口 後継者については毎日考えています。世襲にこだわるつもりもありません。ただ、現代史をきちんと勉強した人間に継いでほしい。学校で教えないのも悪いのですが、今の若い人は現代史に弱いから、自分の都合のよいように歴史解釈をする人が出てくる。それが現代社会に混迷をもたらしている一因だと思います。≫

 と。それについて岡は

≪ 私も、「現代史をきちんと勉強した人に、次の総裁になってほしい」 と、切に思います。……≫

 と書いていた(「近況心境」 #336)。

 心底、言いたかったのは、戦勝者の一方的な “東京裁判史観” という色眼鏡を外し、素通しの公平な 「久遠の今」 に立って、現代史をしっかり、きちんと勉強した人に次の総裁になってほしいということです。


 なぜ、生長の家の後継者が決まらないのか。

 それは――僕は、思う。――

 総裁は、よく 「宗教目玉焼き論」 ということをおっしゃる。卵の目玉焼きに白身と黄身があるように、宗教にも “黄身” にあたる 「中心部分」 と、“白身” に当たる 「周縁部分」 とがある。真理の核心に触れる部分―“黄身” の部分―は 「実相」 や 「真理」 に該当する。これらは、言葉を尽くしてもすべてを説明しきれないもの。儀式や様式などは目玉焼きの “白身” に当たる 「周縁部分」 ということになる、と述べ、
「宗教は時代と環境の要請から生まれるから、その時代と環境が変化すれば、宗教自体も変化を要求されるのである」(『宗教はなぜ都会を離れるのか』 はしがき)と言われる。

 しかし、総裁が強調されるのは変化する “白身” の部分ばかりで、 “黄身” にあたる 「中心部分」 すなわち現象を超えた実相の真理について、魂に響くような説法をされるのを僕は聞いたことがない。読んだこともない。

 つまり、生長の家はいつの間にか、白身ばかりで黄身の無い卵になっている、と感じる。

 黄身の無い卵からヒヨコが孵ることは無いのは当然である。たとえ黄身があっても、無精卵ではヒヨコは生まれない。つまり、後継者が出来ないのは当然、ということである。


  <つづく>


    令和2年1月8日


537 今こそ、「神癒の展開」 としての人類光明化運動を


 新年、明けましておめでとうございます。


 谷口雅春先生著 『生活の智慧365章』 p.168~171 に、次のように書かれていました。


≪      生きているから変化する


 行き詰ったときに道が開かれる。行き詰りに恐怖することはないのである。人知の行き詰りに神智がひらかれるのである。八方ふさがりの時に、人は、ふさがっていない青空を見るのである。

 変化を無常と見たのは、暗黒にとらわれた小乗仏教者のことである。大乗の仏教者はもっと明るくなければならない。

 変化があるので生長があるのである。生命が生きているから変化を生ずるのである。銅像や乾物やミイラはあまり変化しないが、それは生命が生きていないからである。変化を通して 「無限」 が表現されつつあるのである。

 それゆえに、無常と見ゆる一点一画の生命の動きの中にも久遠の生命を直観することができるのである。“無常” の中に “常恒” があり、一瞬の中に永遠を孕んでおり、「今」 即 「久遠」 の生命を生きているのである。

 その理由を日々の一瞬一瞬の生活にも忘れないで生きるとき、一瞬一瞬が祝福されたるものとなり意義深きものとなるのである。


      祝福すべきかな変化無常


 この世は無常の世界であり、変化の世界である。その変化無常を、好転の方へ変化せしめるか、凶転の方に変化せしめるかのカギを握っているのはあなた自身なのである。

 若
(も)し変化無常の世界でなかったならば、吾々は日本の景色に春夏秋冬の異る美を楽しむことができなかったであろうし、幼児から少年少女への生長の悦び、そして青年期の元気溌刺とした活動と伸展の悦び、そして家庭をつくって家族相和す悦び、老いて孫をいだく歓びなど色々異る悦びなどの境涯を体験することができなかったに相違ないのである。

 朝を迎えて東天に太陽はさし昇る、そして落日は黄金色に西海に沈むのだ。何という荘厳! 何という変化の美ぞ。落日の反映を受けて、刻々、紫から淡紅に、淡紅から淡紫に変化し行く富士の嶺。そして虹のような
(くま)をもつ雲海によってその麓をかこまれている富士の嶺。

 私は、刻々その位置を変化する飛行機上からこの秀麗きわまりなき富士の山容を見て感嘆した。若し富士にこの変化がなかったらそれは唯、死灰
(しかい)の堆積。

 ああ、変化無常こそ神の生きた芸術である!


      人間は進歩と向上あるのみ


 変化を悦びと見ないで、過去の栄えと今の衰退とを比較して嘆く者は憐れなるかな。また過去にありし労苦を反芻
(はんすう)して、持越苦労をつづける者も愚かなるかな。植物に春夏秋冬の変化があるが如く、人生にも春夏秋冬があるのである。

 冬が来て外に目立って伸びない時に植物は年輪の間隔をせばめて堅緻
(けんち)な材質をつくるが如く、人間も艱難で鍛えられて堅実なる人格と不撓(ふとう)の意志とが養成せられるのである。

 未来の変化を想像して取越苦労をする者は、神の此の世を “変化の芸術” とした摂理と慈悲とを知らないものである。未来は悉く現在よりも、内容的に豊かにして富める者となることは間違いないのである。

 年老いれば、外から見れば、形容枯槁
(ここう)し、その姿に老醜をあらわすと雖も、それは蚕が脱皮するに先立ちて、その皮膚の色変化し醜くなるのと同じことであって、も早や役に立たぬ外皮を脱ぐ準備をしつつあるに過ぎない。

 吾れら更に脱皮して霊界に天翔
(あまかけ)らん。人間の生命には、ただ進歩あるのみ、向上あるのみである。≫


 と。上記のうち、真ん中の 「祝福すべきかな変化無常」 の部分は、機関誌 『生長の家』 2020年1月号の冒頭にも収載されていた。

 榎本恵吾師がやはり、「諸行は無常にあらず、諸行は実在にして常恒である」 と 『神癒の展開としての人類光明化運動』 に書かれていることは、#521 に引用掲載させて頂いた通りである。


 『生命の實相』 第1巻 總説篇 本論の冒頭に、


≪ 生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。≫


 と、高らかにうたい上げられている。

 そして、『神癒への道』 95~96頁には、次のように書かれている。


≪ メタフィジカル・ヒーリングに於いては、ヒーリングの祈りを行う人は、癒さるべき人を、患者として観ないで、彼を、神の心の中にある 「完全人間」 の理念の顕現と観るのである。

 神想観中に彼は自分の心の中に相手の何処にもどんな病気も欠陥もない 「完全人間」 の理想を描き、それを 『信じ』 且つ 『観る』 のである。そして自己が心に描くとおりに、(神が「法則」の形に於いて)その無限絶大の創化力によって、それを現象界に具象化することを信ずるのである。

 自分の念力が相手を治療するのであると考えて、圧倒的な思念力を送り出そうなどと力む心をもってはならないのである。唯 『信じ』 『観る』 のである。み業は神が為したまうのである。

 自分の思念力で癒そうと思ってはならない。もしそうすれば著しく念力の消耗を来して疲労するのである。吾々のなすべきことは、一切の 『力み』 を捨て去り、自己の欲する姿を今既にありと心に描いて神に提供する以外のことは一切せず、完全に神に全托することである。

 すべての憎み(病気・不幸等)は実に 「自分の心」 がそれを あり と見る念の反映であると知って、「既に完全である彼」 を (自己治療の際には 「既に完全である自分」 を) 心に 『信じ』 且つ 『観じ』 あとは神の無限絶大の創化力に打ちまかすことである。≫



 ――それは、個人の病いのことだけではない。組織の病い、社会の病い、国家の病い、そして世界人類の国際関係の病い(争い)に至るまで、メタフィジカル・ヒーリングによって癒やされないものはないのである。なぜなら、神は宇宙の創造者であり、全知全能であるからである。


          
* * * * * * *


 かく言えばとて、現象世界から目を背けて 「実相円満完全」 と念じているだけでよいということではない。しかし、現象は 「結果」 なのである。「結果」 の状態に心を動揺させていては、根本的解決はできないということである。

 人類は今、急速な進化を遂げるために、激しく変化し動揺を続けているのである。


≪ ……米軍がイラン革命防衛隊の精鋭組織 「コッズ部隊」 のソレイマニ司令官をイラクで殺害したことを受け、イランは報復措置の検討に入った。イランのメディアは4日、革命防衛隊幹部のアブハムゼ氏が中東地域にある35の米関連施設や対立するイスラエルの都市テルアビブ、ホルムズ海峡を航行する船舶などが攻撃目標の候補になると述べたと報じた。

 イランのラバンチ国連大使は4日、米CNNのインタビューで 「軍事行動には軍事行動で対応する。司令官の暗殺はイランへの宣戦布告に等しい」 と述べた。

 トランプ米大統領は4日、イランが米国人や米国の施設などを攻撃した場合に 「イラン関連の52カ所を標的にとても迅速かつ激しく攻撃する」 とツイッターに書き込んだ。「米国は2兆ドル(約216兆円)を軍の装備に支出し、世界最大だ」 とも警告した。

 中国とロシアはイランを支持する姿勢を打ち出した。ロシアのラブロフ外相とイランのザリフ外相は3日の電話協議で 「米国の行動は国際法の規範に反している」 との認識で一致した。中国の王毅外相も4日、ザリフ氏と電話し 「米国に武力行使の乱用をしないように求める」 と非難した。

 イランは中ロとともに米国への対決姿勢を強める可能性が高い。米イランの敵対を前提にかろうじて保たれていた中東の均衡が崩れる恐れがある。米国はオバマ前政権が中東への関与を後退させ、トランプ氏も米軍の展開に消極姿勢だったが、今回の司令官殺害は中東の緊張を一挙に高めた。……≫


   (日本経済新聞記事より)


  <つづく>


    令和2年1月5日


536 物は物にあらず、コトバなり (2)


 前項 #535 のつづきです。


《短歌会誌 『爽樹』 2019年12月号への寄稿文です。》



 
物は物にあらず、コトバなり (2)

     ――短歌の誕生と未来を考える


   一大詩劇・古事記の物語と歌謡 (つづき)


 アマテラス様(天照大神
〈あまてらすおおみかみ〉)は、スサノオノ命(ミコト)のあまりにひどい乱暴狼藉(ろうぜき)にびっくりして、天(あま)の岩屋戸(いわやど)に入り、岩戸をぴったり閉めて籠(こも)ってしまわれた。

 天照大神は世を照らす太陽のような神様だから、アマテラス様が隠れてしまわれると高天原(天上)も地上も、すべてまっ暗闇になり、「万
(よろず)の妖(わざわい)(ことごと)に発(おこ)りき」 ―ありとあらゆるわざわいがわき起こって来た。

 これは大変だというので、八百万
(やおよろず)の(多くの)神々が天(あま)の安の河原に集まり、知恵者の思金神(おもいかねのかみ)に考えさせていろいろと対策の手を打つのである。


   一即多、一神即多神ということ


 日本の神道には八百万
(やおよろず)の神々が登場するので多神教と言われている。

 しかし、古事記の冒頭は

 「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)……独神(ひとりがみ)成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまひき。」

 から始まっている。独神
(ひとりがみ)は、相対を超えた絶対の神という意味で、本来一(いつ)なる 「天之御中主神」 一神からすべては発しており、一即多(いちそくた)、一神即多神であって、「御中(みなか)」 なる一神の千変万化のあらわれが多神と考えるのが本当だと思う。


   
天之岩戸(あまのいわと)を開くには


 さて八百万の神々は、アマテラス様の岩戸隠れ対策として、思金神の知恵で何をなさったかというと、それぞれが仕事を分担して、もろもろの準備をなさった。イシコリドノメノ命
(ミコト)は鏡を作る、タマノヤノ命はみすまるの珠(たま)を作る、そのほか常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集める、など。そして、

 ① 常世の長鳴鳥を鳴かせる。「常世」 は永遠に明るい光の世界。ココケッコー(此処結構
(ここけっこう))! 夜明けの時だぞ、ココケッコー! と、高らかに鳴く。

 ② 祈りの行事をする。賢木
(さかき)(栄(さか)木)の枝に御(み)すまるの珠飾りや鏡をつけ、供え物を取り持って祝詞(のりと)を申し上げる。珠飾りや鏡の意味は――

■珠飾りは珠の中心に紐を通し結びつけたもの。珠は魂の象徴である。皆の魂
(たま)は本来 「一つ」、一体の 「ワンチーム」 の自覚を意味する。

■鏡は、自分の姿をそのまま写して見せる。外界は内界の写しである、相手の姿は自分の姿の写しである、環境は自分の心の展開であるとして、自分を省み自己反省の糧とする道具が、「鏡」 である。神社のご神体は鏡であることが多い。鏡には自分の姿が写るから、自分を神として拝むことになる。カガミのガを取ればカミとなる。わしが、わしがという 「我
(が)」 を取り去れば神となる。そうして心をきよめて祈れば、うれしい、ありがたい世界が展開するのである。


   
笑う門(かど)に福来たる


 ③ そこでアメノウズメノ命
(ミコト)が岩戸の前に桶をふせて踏みとどろかし、乳房を出し紐を陰部に垂れただけの姿で無我夢中になって裸踊りをされる。高天原(たかあまはら)(天上の神の国)がどよめき八百万(やおよろず)の神々がみんな一斉に大笑いをした。

 「わらう」 には 「咲」 という字が使われて 「咲
(わら)う」 と書かれている。花が咲くように顔がほころびて笑うのだ。

 アメノウズメノ命が裸になって踊られたということは、生まれたままの飾らない、隠しだてしない、そのまま無我の心、裸の心になって踊られたということだ。


 日本経済新聞で毎週月曜日 「こころの健康学」 というコラムに、認知行動療法研修開発センター・精神科医師の大野裕氏が書いていらっしゃるが、今年9月23日には 「笑顔は強力な武器」 と題して次のように書かれていた。

 《先月、全英女子オープンで渋野日向子選手が優勝したときに、「スマイルシンデレラ」 と表現された試合中の笑顔の爽やかさが話題になった。……一人が笑顔になると、まわりにいる人の表情は自然に和らぐ。全英女子オープンで聴衆が盛んに笑顔で渋野選手を応援するようになったのは、渋野選手の笑顔が聴衆に伝染していったからだろう。その聴衆の笑顔が渋野選手に伝わって、それがまた力になったように思う。「笑う門には福来る」 現象が起きていたのだと感じた。》

 また、同欄の12月2日付けでは、「ラグビーに見る情緒の力」 と題して次のように書かれている。

 《この秋に日本で開催されたラグビーのワールドカップの余韻がまだ残っている。ニュージーランド代表チーム、オールブラックスの選手が試合前に踊る 「ハカ」 も興味深かった。手を叩き足を踏みならして踊るハカは、マオリ族の戦士が戦いの前に自分の力を示し相手を威嚇する民族舞踊で、今では様々な場面で披露されるという。その戦いの要素を取り込んで試合前に踊ることで、ニュージーランド代表選手の気持ちは自然に高ぶり、試合に向けてのこころの準備ができる。

 私たちの気持ちは表情や姿勢でずいぶん変化する。「笑う門には福来る」 といわれるように、笑顔になれば自然と気持ちが明るくなってくる。背筋を伸ばせば気持ちにハリが出てくる。効果は科学的にも実証されているが、知見が生活の知恵として受け継がれてきた伝統のひとつがハカなのだと思う。

 一方、今回のワールドカップでは、ハカが始まったときに対戦相手のイングランド代表がセンターサークル付近でV字の陣形を築いたことも話題になった。そのとき、イングランドの主将は笑みを浮かべていた。

 これもまた、表情や態度で気持ちを整える作戦で、その効果もあってかイングランドが勝利した。イングランド選手の奇襲にニュージーランド選手は動揺したのかもしれない。体力と知力、そしてチーム力、それに加えて、こうした情緒の力までも駆使して戦うところにもラグビーの魅力を感じた。》 と。 

 天の岩戸開きの時にも、「咲
(わら)う」 武器が功を奏した。

 アマテラス様は、岩戸の外が騒がしいのを怪
(あや)しいと思われて、岩戸を細めに開いて内からおっしゃった。

 「わたしが隠れたのでみんなまっ暗になったと思っていたが、どうしてアメノウズメは楽しそうに踊り、みんなは大声をあげて笑っているのか」

 と。アメノウズメノ命は

 「あなた以上の尊い神がいらっしゃいますので、私たちはみな喜んで踊り、笑っているのです」

 と答える。

 そこでアメノコヤネノ命
(ミコト)とフトタマノ命が鏡をさし出したら、アマテラス様の輝く姿がその鏡に映った。


   時機を逃さず決断と実行


 ④ アマテラス様はいよいよ不思議に思い、ちょっと顔を出してのぞかれたところ、岩戸のそばに隠れてスタンバイしていた力持ちの天手力男命
(あめのたぢからおのみこと)がすかさず、「エイヤーッ」 と岩戸を引き開け、アマテラス様の手をとって引き出した。

 ここぞというときには、決断と実力行使が必要だということである。

 そしてすぐにフトタマノ命が注連縄
(しめなわ)を後ろに張って、「もう岩戸へ帰ることはできません」 と申し上げた。

 そこで自然に、天も地も元のように明るくなった。


 今も、お正月に、神社や、成田山
(なりたさん)などお寺や、家々でも、注連縄を張る――それは、明るく輝く内なるアマテラス様が岩戸に戻ってしまう事がないように、不退転の縄をみんなの心の内に張るためである。


   
スサノオノ命と八俣(やまた)の大蛇(おろち)退治


 そこで、八百万の神たちは相談してスサノオノ命
(ミコト)に罰を科し、永遠の追放を決めて高天原から追放してしまう。

 追放されたスサノオノ命は、出雲の国の斐伊川
(ひのかわ)の上流にある鳥髪(とりかみ)というところに降(くだ)った。

 そのとき、箸が川を流れ下って来たので、川上に人が住んでいると思い、それをたずねて上って行ったところ、老夫婦がいて、少女を中にして泣いていた。

 スサノオノ命が 「あなたたちは誰だ」 と尋ねると、老夫は 「わたしはアシナヅチ、妻はテナヅチといい、娘はクシナダヒメといいます」 と答えた。スサノオノ命が 「あたたたちは何故泣いているのだ」 と尋ねると、「わたしの娘は以前は八人いたのですが、八俣
(やまた)の大蛇(おろち)というのが毎年やって来て、とって食べてしまいました。いままた、八俣の大蛇がやって来るときなので泣いているのです」 と答える。

 「その八俣の大蛇というのはどんな形をしているか」と尋ねると、「目は赤いほおずきのようで、一つの胴体に八つの頭、八つの尾があります。身に苔と檜
(ひのき)と杉が生えていてその長さは八つの谷、八つの峰にも渡るほどで、腹はいつも血でただれているのです」 と答えた。

 スサノオノ命は、「あなたの娘をわたしにもらえないか」 と老夫に言った。老夫 「あなたのお名前をまだうかがっておりません」 スサノオ 「わたしは天照大御神の弟である。いま高天原から降
(くだ)って来たのだ。」 アシナヅチとテナヅチは、「それは畏れ多いことです。娘をさし上げましょう」 と言った。

 そこでスサノオノ命は神聖な櫛にその娘を変身させて自分の髪に刺し、アシナヅチとテナヅチに、「あなたたちは強い酒をつくり、垣根をつくり巡らして八つの門をつけ、その門ごとに酒を入れる船を置いて強い酒を一杯にして待っておれ」 と言い渡した。

 アシナヅチとテナヅチは、スサノオノ命の指示通りに準備して待っていると、八俣の大蛇
(おろち)がやって来た。そして船に自分の頭をさし入れ、酒をガブガブ飲み、酔っ払ってそのまま横になって寝てしまった。

 それを見てスサノオノ命は剣
(つるぎ)を抜き、大蛇(おろち)をばらばらに切ってしまった。斐伊川(ひのかわ)は血の川になって流れた。

 ところが中の尾を切ったときに、スサノオノ命の持っていた剣の刃が折れた。怪
(あや)しいと思い刃の先で大蛇(おろち)の尾を割ってみると、都牟刈(つむがり)の大刀(たち)(偉大な力をもった大刀)があった。そこでスサノオノ命はその大刀を取り出して、不思議なことだと思い、天照大御神に献上した。これがいまの草薙(くさなぎ)の剣、三種の神器の一つとなるのである。


   八雲立つ 出雲八重垣


 こうしてスサノオノ命は、新居の宮をつくるところを出雲の国にお探しになった。そこで須賀
(すが)というところにいらっしゃって 「ああ、わたしはここに来てやっと心がすがすがしくなった」 とおっしゃった。それでそこは須賀というのである。

 スサノオノ命が初めて須賀の宮をつくられたとき、その地から雲が湧き起こってくるのを御覧になって、いのちの底から湧き上がる喜びの思いを歌に詠まれた。それが

  八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに
   八重垣つくる その八重垣を


〔多くの雲が立っている。その雲が多くの垣根のように、わたしの新居の宮を取り巻いている。その中に、わたしは妻を取り籠める。ああ、雲が垣根をつくっている。多くの多くの垣根をつくっている〕

 ――「八重垣」 という言葉が三度び繰り返されて、その感動と喜びが表されている。それが現在記録に残る 「日本最古の短歌」 とされているが、ここに表現されたスサノオノ命の爆発的な喜びの気持は、ここに至るまでの波瀾万丈の物語を読んではじめて、よくよく伝わるのであった。


   物は物にあらず、コトバなり


 八重垣も、単なる物ではない。それは、コトバを発している。

 日経紙夕刊のコラム 「あすへの話題」 で12月3日、芸術文明史家 鶴岡真弓氏が “「金銀銅」のルーツ” と題して次のように書いておられた。

 《現代人がオリンピック、パラリンピックで表彰に用いるメダルの 「金銀銅」。その重要な 「序列」 もギリシャ神話にルーツをもっている。それは単に金属=モノの物理的性質の順位ではなく、意味深い 「人類の歩み」 を表す 「象徴」 であったものだ。

 かつて人類は神々の傍で 「黄金時代」 を過ごした。しかし黄金の状態から遠のき自立して 「銀時代」 へ。そして 「銅時代」 には抗争が起きた。今日使われる理想のステイタス 「ゴールデン・エイジ」 や 「ゴールデン・アワー」 という観念のルーツもここにある。

 しかしこの神話は人類の下降を語っているだけではなかった。人類は神々の傍にいられた 「黄金時代」 に後戻りはできない。しかし意志と希望を抱き、そこへと 「上昇すること」 はできる。その意志をプラトンたち古代ギリシャ人は理想とした。

 今日オリンピック、パラリンピックで授けられる 「金銀銅メダル」 も、この教えを気高く受け継いでいる。表彰台に昇るアスリートは、メダルに籠められた 「深い思慮(コトバ)」 を受け取る 「人類の」 代表である。

 だから物理的に 「噛んで確かめ」 なくても大丈夫。人類が手にしてきたモノが単なるモノであったことは一度もない。モノは常に 「精神」 にして 「魂」。古代ギリシャでも現代でも変わらない真実なのである。》

 と。

 よい歌を作るには、だから、モノが発するコトバをしっかとわが内に受け取って表現することが必要であろう。


   「もののあはれ」 とは何か


 本居宣長
(もとおりのりなが)は 「大方歌の道は 『あはれ』 の一言に帰す。さればこの道の極意を尋ぬるにまた 『あはれ』 の一言よりほかになし」 「よきことにまれ、あしきことにまれ、心の動きて 『あゝはれ』 と思はるることがもののあはれ」 と説いた。また 「ことしあればうれしたのしと時々に動くこころぞ人のまごころ」(『玉鉾百首』)と詠んだ。

 「あはれ」 は感動を表し、「あゝ」 と 「はれ」 が結合した言葉。「あゝ」 も 「はれ」 も感嘆した時に自然に発する言葉である。

 「もののあはれ」 は、のちにわが国の伝統的な美感覚となった。「もの」 は、外界の事物。「あはれ」 は、自分の感情。悲しみの情感を表白するのみではない。悲哀に限らず嬉しいこと・楽しいことなど物事に感動した時に発する言葉が 「あはれ」 である。

 『古語拾遺
(こごしゅうい)』 に、天の岩戸開きのとき神々は 「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ!」 と喜びの声をあげたと記されている。「あはれ」 は 「あっぱれ」、「あな」 は 「ああ」 という感嘆詞、「おけ」 は囃子詞(はやしことば)(アメノウズメノ命が桶の上に乗って踊られたからか)。


   よい歌とは何か


 正岡子規は短歌・俳句の写生論を唱え、写生とは 「理性に訴えるのでなく感情に訴える」 ことを目ざす、と言った。

 斎藤茂吉はさらにその写生論を深め、「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である」 と言った。それは具体的にどういう意味であろうか。

 ニューウェーブ短歌運動を推進する現代歌人の一人、穂村弘氏は、著書 『短歌という爆弾』 で次のようにいう。

《 斎藤茂吉の写生理念を示すキーワードは〈実相観入〉であるが、『大辞泉』 の 「表面的な写生にとどまらず、対象に自己を投入して、自己と対象が一つになった世界を具象的に写そうとすること」 という記述からもうかがえるように、「見る」 には五感のすべてを使って対象を捉えるという意味が込められている。具体例を見てみよう。

  ガレージヘトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり  斎藤茂吉

  街上に礫
(ひ)かれし猫はぼろ切(きれ)か何かのごとく平たくなりぬ   同

 一首めでは、「トラック」 そのものが生物
(いきもの)であるかのような 「少しためらひ」 という把握、およびそれを中心とした奇妙に丁寧な文体に味わいがある。二首めでは、一首めとは逆に生物である 「猫」 の屍を 「ぼろ切か何かのごとく」 と徹底的にモノ化した存在として捉えている。その視線の非情さが見所である。参考のために佐藤佐太郎の 『茂吉秀歌』 からそれぞれの評釈の一部を引用してみる。

 街の運送屋のようなところのガレージにトラックが入って行くところで、せまいところへ入るのだからトラックは一息に進行するのではなく、ハンドルを操作しながら逡巡するように入る。感情のない機械であるトラックの動きの中に、たとえば人間の恥じらいのようなものを認めたのである。山川草木鳥獣以外の近代的無生物を対象に感情を移入したのが特殊でもあり新しくもある。

 ……単に街上で猫が死んでいるというのでなく、「平たくなりぬ」 といったところに作者の詠嘆がある。どう平たいか、「ぼろ切か何かのごとく」 なっている。これは比喩とか形容とかいうものではない。状態そのものである。死骸は動物の死骸というよりももうぼろ切のようになってしまった。いわれればそれにちがいないが、自分の眼でこのように見、自分の言葉でこのようにいうのは誰にでもできるものではない。それを 「ぼろ切か何かのごとく」 と、ほとんど俗語そのままのようにいって、言葉のひびきは波動的で、そこから永遠に通う嘆声がきこえて来る。……》

        ○

 同書の終章 「爆弾のゆくえ」 の中で、インタビューに応え、穂村氏は次のように語っている。

 《穂村 ……馬場あき子さんなんかに、あなた今どきの歌で100年も残るような歌を一首でもあげてごらんよ、と言われると、「うーん……」 って(笑)。

  廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て   東 直子

 これは新聞の上で桃を剥
(む)いているんだよね。故郷の村は滅んでしまった。それを伝える活字そのものも滲(にじ)んで読めなくなる。剥いた桃もすぐに食べなければたちまち腐ってしまう。すべての存在はこのままではいられないっていう感覚ですよね。そこに一字空きで、衝撃的な 「来て」 の二文字が来る。目の前のあなたよ、この私をたった今ここで、なんだろう、愛して、とも、抱きしめてとも、違う 「来て」 だよね。凄い二文字。これはやはり短歌を知らない人にもそう言えば十分通じる傑作だと思います。》


 私は思う。誰に 「来て」 というのか。それは恋人とか、他人
(ひと)ではなく、「本当の自分」、自分の 「内なる神」 とでもいうようなものに、ではないか。なぜなら、他人はすぐに変心して裏切るかも知れないから。決して裏切らないものに、「来て」 と呼んでいるのではないか――と思う。

 人間は、宇宙である。自分の内にすべてがある。花が咲いているのを見て、「自分のいのちが咲いている」 と観る。――それが 「実相観入」 になるのではないだろうか。

         ○

 窪田空穂
(くぼたうつぼ)著 『短歌に入る道』 に、こう書かれていた――

 《第一にいい歌とは、自分の心を十分にあらわしえたものです。苟
(いやし)くも一たびそう感じたことは、単に我れ一人の心ではなく万人の心だ、又は天地の心だとまで信じて、心の方は動揺させず、一意表現をするということです。

 第二は、心の生地
(きじ)を出そうと思うことです。生地とは心の心で、殻を破り去った本当の心ということです。

 第三は、暴力を振うような心をもって表現することです。それほどの心にならなければ、表現というものはちょうどに出来るものではありません。

 以上の事は、言いかえると、生きた歌を詠む心懸けです。歌は生きていないと面白くはありません。整った綺麗な歌で死んでいる歌は限りなくあります。

 表現はいつも、一首一首、「自然」 に立ち帰るほどの心をもってするべきです。》

 と。

        ○

 私の高校時代からの友人で、物書きをしている奴なのに、これからはもう短歌は廃
(すた)れていくだろう、などと言っている奴がいる。そんなことはありえない、日本のすばらしい伝統文化である短歌創作の道を、国民のみんなが楽しんで発展させ、平和で心豊かな社会を創って行くようにしたい。

 
「花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。……力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男(をとこ)(をみな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武夫(もののふ)の心をも、慰むるは歌なり。……」(『古今集』 紀貫之(きのつらゆき)の序文)

 と、私も精進させていただきたいと願っています。


     
* * * * * * *


 さて、はや令和元年も残すところ僅かとなりました。

 岡正章のウェブサイト 「みすまるの珠」 を読んで下さっています 魂の深いご縁に結ばれた皆さまに、心からの感謝を捧げます。

 悲喜こもごもの一年でした。詳細は省きますが、私は喪中につき、年賀状は控えさせて頂きます。


   
木枯らしに散り敷く落ち葉掃くわれは 汝(な)に生かされし感謝捧げつ


 と一首詠みました。落ち葉はCO2を取り込んで酸素を発出し、環境を浄めて私たちを生かしてくれた木の葉の亡骸
(なきがら)であると、感謝の思念を送りつつ……。


 去りゆく年は、「令和」 の新時代を迎え、悦び事も多々ありました。そして世界で最も古く尊い皇室を戴く日本に生かされてあることは、無上の悦びです。


 来たる年が皆々様の上にお幸せが満ち溢れるよい年でありますように、心から祈念申し上げ、大きくは 世界の平和と安寧、弥栄
(みさかえ)を祈念いたします。


 
「神の無限の愛、われらに流れ入り給いて、われらに於いて愛の霊光燦然と輝き給う。その光、いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人類に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給うのである。」


    令和元年12月29日              岡 正章 合掌


535 物は物にあらず、コトバなり (1)


 僕は、縁あって3年前の平成28年(2017年)から爽樹短歌会というのに入れてもらい、短歌の道にも励んでいる。その会誌 『爽樹』 11月号・12月号に自由寄稿文を書いてくれと依頼されて書いた拙文を、ここにアップさせて頂きたいと思います。

     
* * * * * * *

《短歌会誌 『爽樹』 2019年11月号への寄稿文です。一部加筆しました。》



 
物は物にあらず、コトバなり (1)

     ――短歌の誕生と未来を考える


   物質には寿命がある

 物質は永遠に存在し続けるのか、それともいつかはバラバラに壊れてしまうのか。旧物理学では、質量保存の法則、「物質不滅の法則」 が存在すると言われてきた。首里城が焼け消滅したと見えても、灰や炭酸ガスなどを閉じ込めて質量を測定合算すれば変化はなく、物質は不滅なのだと。

 しかし最新の物理学大統一理論では、その物質不滅が否定され、「物質には寿命がある」 と予言されているという。物質にも生命があり寿命があるのか。

 物質を構成している原子には中心に陽子をもつ原子核があり、原子はやがて――といっても現在の宇宙の年齢とされている約138億年よりはるかに長いが、どれほどなのかはまだ分かっていない――がやがて陽子は崩壊し、バラバラになって消えてしまうと予言されているのである。

 来年2020年にも岐阜県で建設が始まる素粒子観測施設 「ハイパーカミオカンデ」 で、その答えが出るのではないかと期待されている。ハイパーカミオカンデは日本に2度のノーベル物理学賞受賞をもたらした 「カミオカンデ」 と 「スーパーカミオカンデ」 に続く3代目の研究施設だ――と、日本経済新聞が10月27日に報じている。

          ○

 仏教の開祖釈迦は直感によって物質不滅を否定し、
「諸行無常(しょぎょうむじょう) と説いた。般若心経(はんにゃしんぎょう)には 「色即是空(しきそくぜくう) すなわち物質は空無であると書かれている。

 イエスキリストは、

 
「天地は過ぎ往かん、されどわがコトバは過ぎ往くことなし」

 と言った。ヨハネ伝冒頭には、

 
「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。……万(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」

 と書かれている。


   コトバは神であり、神はコトバである

 その言
(ことば)とは、宇宙誕生以前のことだから発声音や文字で書かれた言葉ではない。宇宙根源の大生命がデザインした理念(アイディア、設計)を 「コトバ」 としたのではないか。今地上に見られるもろもろの美しい花も、鳥も、魚も、宇宙大生命=神の描いたデザインによって出現した。無論われわれ人間も、である。

 
「神その像(かたち)の如くに人を創造(つく)りたまへり 即ち神の像(かたち)の如くに之(これ)を創造(つく)り之を男と女に創造(つく)りたまへり」

 と創世記に記されているから、人間は神の像
(すがた)に肖(に)せてつくられたということであるが、それは形・姿を似せてというよりも、コトバ(アイディア)を発することによってものを創り出す者という点で神に似ているのではないか。

 「物質には寿命がある」 という最新の物理学のことを報じた同日の日経紙に、次のような記事もあった――


《   車は道具? それとも作品?

 「株式市場では移動手段を作っている日本の自動車メーカーとドイツのBMWを同じ分野と見ていないのではないか」。アートと企業経営に詳しい文筆業の山口周氏は以前、こんな話を披露してくれた。ではBMWが何かと言えば、ほとんどファッションを売っているというわけだ。

 確かに自動車は移動手段だが、かつて日本人にとってはライフステージを示すシンボルだったり、あこがれだったり、無粋なだけの存在ではなかった。1970年代のスーパーカーブームは今も記憶に刻まれている。ポルシェやロータス・ヨーロッパが走り回る漫画 「サーキットの狼」 に興奮した若者も少なくないだろう。

(中略)だがバブル崩壊後、日本人の自動車へのあこがれはすっかり薄れた。所有より使用、電気自動車、自動運転……。自動車産業はエンジン性能を競ってきたが、今や米グーグルなどネット企業も参入し、人工知能(AI)を巡るデジタル戦の様相を呈している。

 そんな中でいち早く規模の拡大を見切り、プレミアム戦略に絞ったのがマツダだ。

 「移動手段や商売の道具だけにしない」。デザインを磨き、ブランド戦略の中心人物が前田育男常務執行役員だ。マツダの目指すデザインを突き詰め、一定のブランド哲学を導き出した。それが 「魂動
(こどう)デザイン」 だ。

 同社の技術陣がよく使う言葉が 「人馬一体」。ただの乗り物ではなく、馬が人と寄り添う友人のような関係という意味だ。

 面白いのはここからだ。「ご神体」 と呼ぶ曲面で覆われた鉄のオブジェを作った。生命感を内包した形を極限まで突き詰めた存在とか。「魂動
(こどう)デザイン」 の自動車を作るときは 「ご神体」 がその原型になるという。……》


 車は、人間の移動手段という 「物」 でもあるけれども、それは 「こんなカッコイイ車に乗りたくないかい?」 という 「コトバ」 を発していた。そのコトバに心を動かされて車を買っていたのである。すべてのものは単なる物質ではなく、コトバを発している。物の本質はコトバである。

 表面の心だけでなく魂をゆさぶるようなコトバを発するデザイン 「魂動
(こどう)デザイン」 の車を作ろうというのがマツダの戦略なのだ。「はじめにコトバ(デザイン)あり、コトバは神(創造主)なり」 である。


   一大詩劇・古事記の物語と歌謡

 さて話は変わるが、日本最古の歌集とされる 『万葉集』 が元号 「令和」 の出典にもなってブームだという。だが、その前に現存する日本最古の古典 『古事記』 がある。

 現代語訳 『古事記』 を書いた一人である梅原猛
(うめはら・たけし)氏は、次のように言っている(学研文庫版 『古事記』 より)

 《今回、『古事記』 を現代語訳してみて、わたしは、あらためて、『古事記』 が紫式部の 『源氏物語』 や世阿弥の能などと並んで、あるいはそれ以上に、すぐれた文学であることを感じざるをえなかった。『古事記』 は散文の歴史書であるよりは、韻文(歌謡、詩)の歴史書である。……

 『古事記』 において、事件のクライマックスは、その主人公の歌う独唱によって語られる。はなはだしきは、多くの歌にわずかの説明文を加えて、一つの大きな歴史的事件が語られる。……

 これが歴史書でないにしても、すぐれた文学書であることは間違いない。これは、古代日本の伝承をもとにして、詩と散文で作られた、みごとな文学ではないかと思う。

 わたしが 『古事記』 を文学として高く評価するのは、そこに人間が実に鮮やかに描かれているからである。

 長い日本の歴史の中に様々な人間がいた。そして、そのさまざまな人間たちのことは、長い長い時間の中で、さまざまに伝承されて来た。『古事記』 の作者は、この長い長い間伝承されて来た、遠い遠い過去の人間に、あたかもそれらの人間が、いま現に生き返って来たかのような、生々しい人間性を与えるのである。》


 『古事記』 に出てくる最初の歌謡は、須佐之男命
(すさのおのみこと)

  
八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに
   八重垣つくる その八重垣を


 である。これは五・七・五・七・七の形になっていて、「最古の短歌」 とされている。その大意は、武田祐吉訳注の 『古事記』(角川文庫版)では

 「雲の叢
(むら)がり起つ出雲の国の宮殿。妻と住むために宮殿をつくるのだ。その宮殿よ。」

 だが、これでは歌にならぬ。梅原猛訳 『古事記』 では

 「多くの雲が立っている。その雲が多くの垣根のように、私の家を取り巻いている。その中に、私は妻を取り籠める。ああ、雲が垣根をつくっている。多くの、多くの垣根をつくっている」

で、これならかなりよく伝わる。けれども、スサノオノ命
(みこと)の爆発的な喜びの気持は、ここに至るまでの物語を読んではじめて、よくわかるのである。

 『古事記
(こじき、ふることぶみ)』 は、712年(和銅5)語部(かたりべ)の稗田阿礼(ひえだのあれ)が伝承を口述し太安万侶(おおのやすまろ)が編纂して元明天皇に献上した。天地開闢(かいびゃく)以来の神話物語から始まっていて、梅原猛氏は

 「『古事記』 は歴史の書であるとともに、宗教の書である」

 とも言っている(同前書)。物語の形で暗示した哲学の書だとも言えるのではないか。

          ○

 古事記の冒頭は

 
「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。この三柱の神は並(みな)独神(ひとりがみ)成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまひき。」

 から始まっている。

 「天地の始め」 と言えば、宇宙物理学では今から約138億年前に起こったと推定される 「ビッグバン」 の時ということになるだろう。しかし時間・空間は本来なく、大生命が表現の舞台として仮につくりだしたものであり、時間・空間がそこから発した根源世界だという説がある。生命の実相哲学を説いた谷口雅春師である。私はその説に同感する。

 それは時間・空間を超越した 「今」 であり、創造の本源世界である。時間・空間上に展開された現象世界は無限に多様なものが相対的に現れているけれども、根源は 「一
(ひとつ)」 であり、その中心が 「天之御中(あめのみなか)」 である。そこから陽(タカミ)・陰(カミ)、すなわち男性原理・女性原理の両極に分かれた生命が、再びムスビ(結び)合って新しい生命を生み出す。

 ――というのが、現象宇宙創造の根本設計、根本構図である。そのことを、古事記冒頭の文言は述べあらわしている、という説に納得共感する。

 それから古事記神話では、宇麻志阿斯訶備比古遅神
(うましあしかびひこぢのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)、国之常立(くにのとこたちの)神、豊雲野(とよくもぬの)神……等々、全部で12代17柱の神名が出てきた後、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)がお成りになる。

 「成る」 は 「鳴る」 で、鳴りひびき出現すること。

 イザナギ・イザナミの命
(みこと)までは 「別(こと)(あま)つ神」 ・ 「神代七代(かみよななよ)」 と称され、身を隠された別格の天上の神 「天(あま)つ神」 である。

 ウマシアシカビヒコジノ神というのは、宇宙がまだ混沌として形がととのっていなかったときに、タカミムスビ・カミムスビの産巣日
(むすび)(=結び、合体)によって葦の芽のように萌え上がったすばらしい生命力。

 トコタチは永遠に壊れない。

 トヨクモヌノ神は豊かに雲が湧き上がるような創造力を象徴する神の名で、霊妙なすばらしい生命力があるということ……

 等々の象徴であろう。

 日本民族の祖先は、大自然の中に仰いで天を見、伏して地を見て、そのような宇宙の根本理念を直感したのだ。

 神話は民族の作品、民族の潜在意識がつくった作品だ。絵画、彫刻、小説などの作品がその作者の生命の表現であるように、神話は民族の生命の表現だと思う。

          ○

 それからイザナギの命
(みこと)(男性神)・イザナミの命(女性神)が現れるのである。と言っても両神は肉体的存在ではなく、人間の男女の原型理念である。

 その男女両神に

 
《於是(ここに)天神(あまつかみ)(もろもろ)の命(みこと)(も)ちて、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)二柱の神に 「是(こ)の多陀用幣流国(ただよへるくに)を修理(つく)り固め成せ」 と詔(のりご)ちて、天沼矛(あめのぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。……》

 と 『古事記』 の原文にある。

 そのところを梅原猛氏の現代語訳 『古事記』 では

 《ここで、以上の天
(あま)つ神たちは多くの神さまの命令だといって、イザナギ・イザナミの二柱の神に、「このただよって不完全な国を整えて完成してほしい」 とおっしゃって、玉で飾った天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)をくださり、おまかせになった》

 となっている。

 しかし、「命
(みこと)」 という字は 「神」 である一方、「御言(みこと)」 すなわち「御言葉(みことば)」 である。「言依(ことよ)さし」 は 「命令」 というより言(ことば)で 「依頼」 「委任」 されたのではないかと思う。

 つづいて現代語訳――

 《そこで二柱の神は、「天
(あめ)の浮橋(うきはし)」 に立って、その矛を降ろしてかき回し、引き上げられたときに、矛の先からしたたり落ちた塩がかさなって島となった。その島にお降りになって、立派な柱を立て、御殿をおつくりになった。

 そこでイザナギの命は妻のイザナミの命に、

 「あなたの身体
(からだ)はどんなになっていますか」

 と訊いた。イザナミの命は、

 「わたしの身体
(からだ)はよくできていますが、足りないところが一(ひと)ところあります[吾が身は成り成りて成り合はざる処一処(ひとところ)在り]

 とお答えになった。

 そこでイザナギの命は、「わたしの身体もよくできているが、あまったところが一ところある。わたしの身体のあまったところをあなたの身体の足りないところに刺し入れ、塞
(ふさ)いで、国を生みたいと思う。どうだろうか[吾が身は成り成りて、成り余れる処一処在り。故(かれ)此の吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国土生(くにうみ)成さむと以為(おも)ふは奈何(いか)に]」 とおっしゃった。イザナミの命は、「それがいいわ」 と賛成した。

 そしてイザナミの命が先に 「ああなんて、まあいい男だこと」 といい、その後でイザナギの命が 「ああなんて、まあいい女だ」 といい、事を始めて、お生みになった子は、くずの子であった。この子は葦の船に入れて、流してしまった。つぎに、淡島
(あわしま)を生んだ。これも子の仲間には入れなかった。……》

 とある。

 ――それは、肉体の性のいとなみを表現しているようだが、イザナギ・イザナミの神は肉体を持った人間以前の理念の神だから、森羅万象の調和と生々発展の法則、理念を謳っているのではないか――と思う。

          ○

 イザナギは陰陽の陽、プラス・マイナスのプラス、男性原理の象徴である。対してイザナミは陰陽の陰、プラス・マイナスのマイナス、女性原理の象徴。

 この宇宙生命の根本構図は、中心が一つあって、その 「本来一つ」 の生命が陰陽、プラス・マイナス両極に分かれ、それぞれ遠心・求心の個性を発揮し、元の 「一つ」 に結ばれることによって新たな生命を生み出すということ。その無限歓喜の創造発展が宇宙生命の根本設計である。

 自然界でも植物は太陽の光と水と二酸化炭素をいただいて光合成で炭水化物をつくり酸素を放出しながら生長繁栄する。動物はその植物を食して成長し、酸素を吸ってエネルギーを燃やし、植物が必要とする二酸化炭素を放出する。相互に与え合い共存共栄する調和した仕組みになっている。人間の経済活動においても、需要と供給が結ばれて富み栄え幸福が増大する……。

 しかし、「ムスビ」 において、イザナミの命が先に声をかけるとよい子が生まれないというのは、どういうことだろうか。「イザナミ」 は不足、欠点の象徴である。

 現実界の人間や物事には欠点と美点が共在する。マイナスの欠点を指摘して叱りつけガミガミ指導する教育よりも、美点を褒め称え、励まして 「やる気」 を引き出す積極的教育の方が、良い結果が生まれる。

 まだ足らぬ、もっとほしい、「合わんなあ」 というマイナスの不平の感情・要求が先に立って行動すると、よい結果は生まれない。反対に、満足・感謝・よろこんで貢献したい意欲が先に立って動き出せば、良い結果が生まれる。

 陽気が陰気より先行する方が、よいものが生まれるという原理法則をあらわしているのではないだろうか。

 また、理想は陽であり現実は陰であるとすれば、理想を先に立て現実をそれに従属させることがよい結果を生む。

          ○

 そこでイザナギ・イザナミ二柱の神は、自分たちが生んだ子がくずの子であったので、相談して天つ神のところに参上し、天つ神のお心をお聞かせくださいとお願いした。すると 「女が先に声をかけるのはよくない。もう一度島に帰って、あらためていいなおすがよい」 と言われた。

 それを聞いて天から島に帰り、今度はイザナギの命
(みこと)が先に声をかけ、その後でイザナミの命が声をかけて、結び合われた。すると淡路島をはじめ、よい島が次々に生まれた。

 それから協力して大八洲
(おおやしま)日本の国土、十四の島々と、三十五柱の神々をお生みになった。最後に火の神をお生みになったイザナミの命(みこと)は陰部を火傷(やけど)して遂にお亡くなりになり、黄泉(よみ)の国へと旅立たれる。

          ○

 イザナギの命は、愛妻のイザナミの命にもう一度会いたいと、黄泉
(よみ)の国に妻を追っていらつしやった。

 「愛
(いと)しいわたしの妻よ。わたしとあなたが一緒につくった国はまだ完成していない。だから、どうか帰ってくれ」 と。

 イザナミの命は答えておっしゃった。

 「残念ですわ。わたしはもう、黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、ここから出ることはできません。しかし、黄泉の国の神と交渉したいと思います。どうかわたしの姿を見ないでください。」

 イザナミの命はこう言って、御殿の中に帰っていかれた。

 いつまでたっても出て来られないのでイザナギの命は待ちかねて、髪に刺していた櫛の端の太い歯を一つ折って、火をともしてはいってごらんになると――これはこれは、イザナミの命のお体にはウジャウジャ蛆
(うじ)がたかって、いたるところに八種類の様々な雷(いかずち)が出現していた。

 これを見て、イザナギの命は恐ろしくなって逃げ帰ろうとされたが、イザナミの命は 「わたしに恥をかかせたわね。許しておけないわ」 と怒って、黄泉の国の醜い女(醜女
(しこめ))や八種類の雷(いかずち)に黄泉の軍を添えて遣わし、イザナギの命を追わせた。

 イザナギの命は身につけていた物を次々に投げつけながら逃げに逃げた。黄泉比良坂
(よもつひらさか)という急な坂の麓に来られたとき、そこにあった桃の実を三つとり、投げつけると、この桃の霊力によって、黄泉(よみ)の国の者たちは、すべて帰っていった。

 とうとう、イザナミの命が自分で追い駆けて来られたので、イザナギの命は千人引きの大きな石をその黄泉比良坂
(よもつひらさか)に置いて、その石を中にしてイザナミの命に、別れの言葉をおっしゃった。

 イザナミの命は 「愛しいあなたがそうなさるなら、わたしはあなたの国の人間を一日に千人絞め殺してしまいましょう。」

 イザナギの命は、「あなたがそんなことをするなら、わたしは一日に千五百人の子を生ませよう」 とおっしゃった。

 ――これは、マイナスの出来事が起こっても、それ以上のプラスを作り出すように積極的に前進するという明るい 「陽」 の気持を表していると考えられる。

          ○

 こうして黄泉の国から帰られたイザナギの命
(みこと)は、「わたしは、いやな、醜い、汚い国に行っていたもんだなあ。全身の禊(みそ)ぎをしよう」 とおっしゃって、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の水門(おと)で全身の浄めをなさり、イザナギの大神となられる。

 そのときたくさんの神々が現れられたが、最後にイザナギの大神が左の目をお洗いになったときに現れられたのが、天照大御神
(あまてらすおおみかみ)。次に右の目をお洗いになったときに現れられたのが月読命(つきよみのみこと)。次に鼻をお洗いになったときに現れられたのが須佐之男命(すさのおのみこと)である。

 イザナギの大神はたいへん喜ばれ、天照大御神に 「あなたは高天原
(たかあまはら)(天上)を治めなさい」 月読命には 「夜の国を治めなさい」 須佐之男命には 「海原(地上)を治めなさい」 とおっしゃって、お任せになった。

 ところがスサノオノ命は、大泣きに泣いてばかりいてイザナギの大神から委せられた地上を治めることをしなかったので、大神はお怒りになって命
(みこと)を追放される。……

 しかしスサノオノ命は…(中略)…

 アマテラス様のつくられた田の畔
(あぜ)をこわし、御殿に糞(くそ)をしちらす。しかしアマテラス様は 「糞のように見えるのは、酔って吐きちらした反吐(へど)であろう。田の畔をこわし溝を埋めたのは、農地を広くしようと思ってしたことであろうよ。わたしの愛しい弟がしたことだ」 と言ってかばわれた。

 しかしスサノオノ命の乱暴はますますひどくなり、神さまの着物を織らせている機屋
(はたや)の天井に穴をあけて、そこから皮をはいだ斑馬(ふちこま)を落とし入れる。織女(おりひめ)は驚いて、梭(ひ)で陰部を突いて死んでしまう……。

 これを見てさすがのアマテラス様もびっくりして、天の岩屋戸
(あまのいわやど)に入り、岩戸をぴったり閉めて籠ってしまわれた。

 高天原(天上)も地上も、すべてまっ暗闇になり、ありとあらゆるわざわいがわき起こって来る……。

 <つづく>


  (2019.12.18)

534 無我=法悦ということ


 また、榎本恵吾師の 『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―

 から引用させていただきます。第25番目の論文です。


≪ 「入龍宮不可思議」 とは、入龍宮が不可思議であるということである。「不可思議」 とは、思議そのものが不可すなわち無いことを意味し、これは思議そのもの、心そのものが、みずから 「私は無いのです」 との無我であり、消え切りの澄み切りの法悦そのものであるということなのである。これはいわゆる 「非思量底を思量する」 ということである。「非思量」 とは思量そのものが 「私はないのです」 とみずからの死に切りであり、消え切りであり、澄み切りの法悦であることを意味しているのである。

 私が味わった 「自分が無いということはそんなにも法悦そのものなのか<」 と感動せずにはいられなかったその尊師のお姿の輝きが、今日は、すべてのものに輝いていることを想ったのである。

 天地一切万物の一つ一つが 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、死に切りの、澄み切りの法悦そのものであるのであった。太陽の如く明るく丸く、満面法悦そのものであるすがたにおいて輝いているのであった。



 山も川も草も木も、全身の細胞の一つ一つも、存在するものすべてが 「私は無いのです」 の法悦そのものであったのである。

 「無の門関」 とは門関みずからの消え切りの、死に切りの、澄み切りの法悦そのものであり、 「無の門関」 とは 「法悦の門関」 であることを感じたのである。

 天地一切に感謝し、礼拝するとはこの法悦を拝することにほかならなかったのである。その法悦の輝きに包まれること、浴することが感謝であることを知らされたのである。

 神想観そのものも消えているし、思念も消えているし、気合いも消えているのであった。

 「菩薩は来たって来たるところなく、去って去る所なし。過去、現在、未来に非ず」 とは、時間、空間そのものの、みずからの消え切りの法悦の充満の世界であったのである。自分を取り巻くすべてのものが、消え切りの、澄み切りの法悦であることが、自分を取り巻く全てが観世音菩薩のお姿であることなのであった。その法悦の輝きが尽十方にひろがっている様そのものが、そのまま尽十方無礙光如来の姿そのものであったのである。

 神癒祈願の名簿
(※ 注1)そのものが、斯くの如き観世音菩薩なるものの名簿であったのである。申込者の一人一人が、みずからの消え切りの、澄み切りの法悦そのものの尽十方充満の姿そのものであったのである。

 「私は無いのです」 ということが、何故そのような法悦であるのか。それは私には解らないが、神の子人間は限りなく、無我であることに憧れを持たざるを得ないのは、親様である神が 「無神」(※ 注2)であり給うからに違いないのである。

 「高天原に神詰まり坐
(ま)す」 とは、幽の幽なることにおいて、隠り身の消息において、神はみずからの消え切りの澄み切りの法悦であることにおいて、 「高天原に神詰まり坐す」 とは 「高天原に法悦詰まり坐す」 ということであったのであり、生長の家が高天原それ自体であることにおいて生長の家人類光明化運動がみずからの消え切りの、澄み切りの法悦そのものであることなのである。それが 「よろこびの光明化運動」 ということの基礎であること、その基礎が高天原にあるということは、まことにすがすがしくも、さやけくもありけるかなというほかはないのである。 「あなさやけ、おけ」(※ 注3) と歌いつつ、踊りつつ、また新しきよろこびの装いをして生長の家の人類光明化運動が新しき世紀となって天降るのを見るのである。(1998.7.25) ≫

 (※ 注1) 当時、榎本恵吾師は生長の家宇治別格本山の入龍宮幽斎殿で毎日、神癒祈願の祈りをされていた。
 (※ 注2) 『無神』 という榎本恵吾師著の冊子がある。その内容は、ウェブサイト「榎本恵吾記念館」の「文書館(2)」に収録されている。
 (※ 注3) 古事記や日本書紀、古語拾遺にも出てくる 「天の岩戸開きの神話」 の場面で、神々が歌った喜びの言葉が 「あはれ、 あなおもしろ、 あなたのし、 あなさやけ、おけ!」 である。「あはれ」 は 「あっぱれ」、「あな」 は 「ああ」 という感嘆詞、「おけ」 は囃子詞(はやしことば)。アメノウズメノ命が桶(おけ)の上に乗って踊られたからか?

          ○

 ―― 「無我 即 法悦」! 何という素晴らしいことでしょう!

 僕も、今から70年ちかく前の高校2年生から3年生になる間の春休みに、突然その 「無我法悦」 の体験をして、生まれかわった。そのことは、「疾風怒濤のわが青春記録より」 #2 「いのちの讃美歌」、 およびその #13 「いのちの火を燃やす」 などに書いた通りです。

 今、もう一度その青春時代に還って、「無我即法悦」 を忘れずに悦びの人生を生き切り、伝えて行こうと思います。


  (2019.11.21)

533 明仁(あきひと)上皇陛下・美智子上皇后陛下に捧げまつる鑽仰と感謝の詞(ことば)と歌


 奇しくもありがたくも、私は上皇陛下と同年に日本に生を享けました、草莽の一老人でございます。

 明仁上皇陛下・美智子上皇后陛下。このたびは、本当におめでとうございました。

 10月22日、新帝の 「即位礼正殿の儀」 が、世界186ヵ国の代表者を賓客として迎え、国内外から約2000人が参列し厳かに優雅に、そして悦びに満ちた雰囲気の中で執り行われました。盛大な祝宴も催されました。

 日本国中が喜び一色に包まれたようで、笑顔が満ちあふれました。前の日から降っていた雨は、即位礼が始めると晴れ上がり青空が出て、美しい虹が架かりました。

 天が祝福していると、感動しながら、私はそこには見えない上皇様・上皇后様の尊いお姿を思いました。

 この日を迎えることができたのは、上皇様の深い強い思いやり、 「忠恕」 のお気持ちと、固いご決意・ご行動、そしてそれを支えつづけられた上皇后様の御献身があったからにほかならないと思います。

 上皇様は3年前、平成28年の8月8日、「象徴としてのお務めについて」 というお言葉を述べられ、ビデオメッセージとしてテレビを通じて全国民に放送されました。

 そのとき、陛下が述べられたお言葉の中で、次のように仰せられていました――


≪ ……即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で 「象徴」 と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に80を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間
(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。

 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

 天皇が象徴であると共に、「国民統合の象徴」 としての役割を果たすためには、……常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

 こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。

 皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行なって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、

私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。……


 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。

 更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯
(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。

 その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。……

 憲法の下
(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 国民の理解を得られることを、切に願っています。≫


 と。

 上のお言葉は、上皇様の深い御心の叫びであったと思います。

 そのお言葉に、国民の大多数が感銘し、動いて、今日のよろこびの日を迎えることになりました。これはまさに、上皇様の強い慈愛の御心の結果です。


≪ 昭和から平成への代替わりは昭和天皇の崩御がスタートである。言うなれば、葬儀とお祝いを一緒にやるようなもので、昭和天皇をしのぶ葬儀に重きがあった。平成の即位の行事は大々的にはやりにくく、今とは雰囲気がだいぶ違った。≫

 と、当時官房副長官として喪儀と即位礼の準備采配に携わった石原信雄氏が日本経済新聞の 「私の履歴書」 に書いておられましたが、まさにそういうことだったと思います。


 上皇様のビデオメッセージが国民にひろく受け入れられたのは、上皇様がまさに 「全身全霊をもって」 「象徴の任務」 と考えられたことを実践されているお姿を、テレビなどを通して拝していたからでしょう。

 大きな災害が起こるたびに、上皇様は上皇后様とともに被災地を訪問され、膝をついて被災者一人一人にお言葉をかけ激励されました。それは昭和天皇までの時代には考えられなかったスタイルで、側近たちを驚かせました。

 日本経済新聞4月27日付の 「平成の天皇と皇后 30年の歩み(51) 最終回」 で、皇室関係担当編集委員の井上亮
(まこと)氏は次のように書いていました。

≪ 災害被災地訪問は 「1ヵ所に行くと、すべての被災地に行かなければ不公平になる」 と疑問視された。膝をついてのお見舞い批判は表層的なもので、これこそ本質的問題だった。「天皇の強い希望で」 と語られている海外慰霊の旅も、外国訪問は政治が絡む。天皇の意思が前面に出ることは憲法に抵触するという見解もあった。

 昭和時代には考えられなかった天皇像に対する抵抗を “力業” で突破し、自身の信じる道を貫き通すには、屈しない意思が必要だった。

 他者を思い、ときに傷つきながらも寄り添う。国民は、そこに献身と真心を見た。その静かな積み重ねと天皇陛下の強い意思が、200年閉じていた退位への扉を開かせたのだろう。……

 平成の天皇と皇后の30年の歩みの到達点は、まぎれもなく国民の象徴であった。


 と。

 井上亮氏はまた、『平成と天皇』 (半藤一利・保阪正康・井上亮 共著) の中で、

≪ 私も何ヵ所も被災地訪問に同行しましたが、天皇、皇后が来る前までは被災者はみんな暗い顔をしているんですよ。被災したんだから、あたりまえですよね。でも、天皇、皇后が来るとみんな、わっと拍手して、表情がぱっと明るくなる。それは事実です。

 それで、「何でうれしいんですか」 と質問したら、「それはいろいろあるけれども、あれだけの方が自分の目の前に来てくれたという感動がある」 と、みんないうんですよ。そして 「天皇、皇后が来るぐらいだから、ここは日本中が注目してくれているところだ。自分たちは見捨てられていない。忘れられていない」 と感じるというんですね。東日本大震災の被災地の方たちも、やはり同じことをいうんです。

 平成の初めのころには、危うい行動だという見方も一部にあったんですが、いまではそういう声はまったくなくなりました。≫


 と言っています。

 平成24年2月に上皇様は心臓手術を受けられましたが、その翌月に行われた東日本大震災一周年の追悼式に出られました。そのときのことを、渡辺允
(まこと)元侍従長は次のように語っています(日本経済新聞 今年2月25日付)

≪ 皇后さまは和服で出られた。初めてですよ、ああいう公式の場では。なぜ和服かというと、ハイヒールよりも草履の方が安定感があるからです。もし陛下が倒れるようなことがあったら、自分が支えなければならないというお気持ちだったと思います。≫

 上皇様は、ご自分の身の安全よりも使命感を優先され、使命達成のために命をかけてこられたのですね。


 現行憲法は、日本がポツダム宣言を受諾し連合軍の占領下にあって日本の主権が制限されていたときに、マッカーサー連合国軍最高司令官がわずか1週間で作らせた英文の草案ををもとにして作られた、占領基本法ともいうべきものであり、これは国際法に照らして独立回復後は無効とすべきものだという論があり、私もそれが正しい筋ではないかと思ってまいりました。

 しかし、戦争の悲惨さを身をもって感じられ、戦争のない世界、平和を切に願ってこられた上皇様は、現行憲法を受け入れられ、その第一条

 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

 という文言を生かしながら皇室の伝統を守り続ける道を考えぬかれました。そして、

 「伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくか」 (上皇様のビデオメッセージより)

 それを、命がけで考え、それを実践してこられたのですね。

 その 「象徴」 とは、常に身を捨て己を無にして国民の心に寄り添い、国民との絆を深めて、国民統合の接着剤のようになられる、ということではなかったかと拝察いたします。そしてその上皇様の思いは結実して、現在の日本があるのではないでしょうか。


 終戦直後アメリカ国内では、皇室を即刻解体廃止すべきだという意見が多くあった。けれども、占領軍は時間をかけて皇室の首元を徐々に絞める方法を選び、天皇という位を 「象徴」 に過ぎずと憲法の中に定め、無力な飾りものとし、その地位は 「国民の総意」 によるとした。占領軍は 「象徴」 という言葉で天皇と皇室を崩壊させようとしていたのではないかと思われます。

 しかし、上皇様はその占領軍の意図を見事に粉砕してしまわれました。「象徴」 を単なる無力な飾りものではなく、「いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていく」 ものに変貌させてしまわれました。

 このことは、実に偉大な、新しい平和な時代をひらく大仕事であったと思います。

 上皇様は、憲法上の 「象徴」 が何を意味するか、何も決まっていない中で、新しい 「象徴」 像を作り上げられました。新しい皇室像を作り出されました。これは、たいへん大きな歴史的意味をもちます。

 いま、新天皇陛下は、新皇后陛下とともに、上皇陛下・上皇后陛下が命がけで築かれた皇室の理想像をしっかと受け継ぎながら、世界に向かってさらに新しい歩を進めて行くと決意されています。

 上皇様は 「象徴」 としてのお務めを果たし終わられて退位なさり、表に立たれることは少なくなりました。おさびしい思いも少しはあられるかも知れませんが、それよりも大きな達成感、幸福感にひたっていらっしゃるのではないかと拝察申し上げます。


 上皇様は、平成30年12月23日、御在位中最後のお誕生日に、

≪ 象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労(ねぎら)いたく思います。≫

 と述べられました。

 わたくしは、勿体なくも 「国民に感謝する」 と仰せられました上皇様のお言葉に、震えるような感動を覚えます。

 それは国民の方から――わたくしの方から申し上げなければならない、尊いお言葉でございます。

 上皇様の深く尊いご慈愛と強いご意志、御いのちがけのご実践ご行動の結実として、今日のこの悦びの日を迎えることができております。その感謝の気持をあらわす言葉もございません。

 ただ、「ありがとうございます。ありがとうございます。」

 この千載一遇の歴史的新時代の変わり目に生かされてまいりました幸せをかみしめ、上皇様の尊いご業績を鑽仰し、わたくしもまた、少しでも上皇様の御心・御すがたに近づくことができますよう、努力研鑽させて頂きますことを心に誓いながら、衷心より感謝のことばを申し上げさせて頂きました。

 上皇陛下・上皇后陛下。これからも末永くお健やかに、日本と世界の平和と発展のためにお祈りお導きください。

 ありがとうございます。ありがとうございます。

 合掌礼拝




  (2019.11.9)


532 世界の宝、宇宙の宝である天皇陛下の御即位礼を天が祝福したまう




≪ 高御座(たかみくら)とは、天上の日神(ひのかみ)の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。

 御即位式に昇られる高御座は、天
(あめ)が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持って居る場所、といふ意味である。

 天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天の帝
(みかど)といふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持って居るところ、といふ意味である。

 高御座で下される詞
(ことば)は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる。≫

 と、折ロ信夫
(おりぐち・しのぶ)氏は 『大嘗祭の本義』 で論じていられる(四宮正貴氏 『政治文化情報』 第408号〈令和元年10月25日発行〉より)

 「天上」 とは実相世界すなわち 「久遠の今」 なる、時空未発の根源世界であり、 「中
(みなか)」 なる天津神(あまつかみ)いますところである。そしてイエス・キリストが言った 「みこころの天に成る世界」 である。

 「久遠」 即 「今」 であり 「天上」 即 「地上」 である。「今ここ高天原
(たかあまはら)」 「神の国」 なのである。

 大東亜戦争敗戦の翌昭和21年(1946)1月1日、「天皇の人間宣言」 と世にいわれる詔書が渙発された。その5日後の1月6日朝、谷口雅春先生は啓示を受けられる。「大和の国の神示」 と称される。これは当時占領軍の厳重な言論統制下にあって原稿を没収され米国に持ち去られていたものを、資料館の厖大な資料の中から昭和56年(1981)に高橋史郎氏が発見してコピーを持ち帰ったのである。


≪    大和の国の神示

 われ再び大日本 天津日嗣
(あまつひつぎ)天皇(すめらみこと)と云う意味について語らん。

 天孫降臨
(てんそんこうりん)と云うことは天の父のみこころが天降(あまくだ)って、天(あめ)が下ことごとくが一つの光の世界になり、大和(だいわ)、平和の世界があらわれると云う意味の象徴的表現である。

 日本民族が世界を治めるのではなく、『天孫
(てんそん)』 すなわち 『天の父のみこころ』 が全世界を治める時期が到ることである。これがイエスの 『主の祈り』 にある御心(みこころ)が既に成る世界の意味である。それが真(まこと)の大日本(ひかりあまねき)世界国(せかいのくに)である。

 大日本 天津日嗣
(あまつひつぎ)スメラミコトとは固有名詞ではない。理念の表現である。

 「大日本」 すなわち 「ひかりあまねき」、「天津
(あまつ)」 すなわち 「天の父の」、「日嗣(ひつぎ)」すなわち 「みこころを嗣(つ)ぎたまえる」、「スメラミコト」 すなわち 「天降(あも)りましたる帝王」 と云う意味である。天の父のみこころが全世界に光被(こうひ)してあまねく平和になる世界になれば、それが本当の大和(だいわ)の国である。それが本当の大日本 天津日嗣(あまつひつぎ)すめらみことの治(しろ)しめし給う世界である。(昭和21年1月6日朝の啓示による)≫


 谷口雅春先生は著書 『大和の国日本』 の中で、「大和の国の神示」 講義として次のように説かれている。

≪ 「天津日嗣
(あまつひつぎ)」 の “天津” とは、天津神(あまつかみ)すなわち 「実相の神」 のことでありますが、本源の神としては天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)様を申し上げ、これが陰陽二つの働きに分れて見れば高御産巣日(たかみむすびの)神様と神産巣日(かみむすびの)神様の二柱の神様のことを申し上げるのであります。

 つぎに “日嗣
(ひつぎ)” というのは “日” は即ち “霊(ひ)” であって 「霊的理念」 のことであります。従って 「天津日嗣」 とは、天之御中主神の中心帰一の原理であるところの 「中(みなか)」 の理念を承け継ぐということであります。……

 私は、天皇さまを、実相を直視して全知全能の神の御現われであるというように今も考えているのであります。そしてアインシュタインがいみじくも言った如く世界連邦が成立し、誰をその連邦の神聖な中心にすべきであるかというと、自然に日本天皇がその首座に推されるほかはないと信ずるものであります。≫


 と。(アインシュタインの言については、#351#357#358 をご参照あれ)

          ○

 このたびの日本 新天皇即位の礼は、単に日本一国だけの天皇即位礼ではなかった。

 
世界の天皇即位礼であった。

 10月22日、天皇陛下が即位を国内外に宣明した 「即位礼正殿の儀」 には世界186カ国の代表者が参列した。日本政府は国家として承認する195カ国のうちシリアを除いて招待し、9割超が出席した。国連加盟国は193カ国で、日本と日本が承認する国の計196カ国は国連加盟国の数より3カ国多いのである。

 即位礼正殿の儀への参列国の数は1990年の平成への代替わり時と比べ20カ国以上増えた。前回は約160の国の代表者が参列した。当時日本が承認していた国は165で、平成の30年間に30カ国も増えた。(日本経済新聞10月24日付による)

 10月23日付日経紙は、

 
「即位礼、海外でも関心  CNNが生中継 人物像にも注目」

 と題して、次のように報じている。


≪ 「即位礼正殿(せいでん)の儀」 について海外メディアも高い関心を持って報じた。

 米CNNテレビは30分近く即位礼を生中継し 「長年にわたり伝統が受け継がれている」 と伝えた。

 韓国のテレビ局YTNや聯合ニュースも天皇陛下のおことばを伝えた。

 香港紙サウスチャイナ・モーニングポストは 「第2次世界大戦後に生まれた初の天皇だ」 と報じた。

 各メディアの報道では、天皇、皇后両陛下の人物像も注目を集めた。

 仏ルモンド紙は 「悠々として現代的な二人」 と表現。

 英BBCは皇居前に集まった人々の声を紹介し 「より身近な存在として感じている」 と伝えた。

 海外での経験を生かした皇室外交に期待する声も挙がった。

 BBCは天皇陛下が英オックスフォード大に留学されていたことや、5月のトランプ米大統領とメラニア夫人との面会で、皇后さまが流ちょうな英語を披露したエピソードを取り上げた。

 ロイター通信も 「ハーバード大学で教育を受けた皇后」 と強調した。

 台風19号による各地の被害を受け、政府は祝賀パレードを11月10日に延期した。中東の衛星テレビ局アルジャズィーラは 「お祝いムードは台風によって和らげられたが、式典が始まった時に空が晴れた」 と歓迎した。

 BBCは 「式典が始まったとたんに激しかった風と雨がやんだ」 と伝え、式典直前に虹が架かったというツイッター利用者の投稿写真を電子版に掲載した。≫

              (2019.10.23 日本経済新聞より)


 本稿冒頭の写真をご覧あれ。

 降り続けた雨は儀式直前にやんだ。

 「ここに即位を内外に宣明いたします」。

 雲間から日が差し込むなか、静まり返った皇居・宮殿 「松の間」 に天皇陛下の声が高らかに響いた。

 22日執り行われた 「即位礼正殿の儀」。

 陛下は正面を見据え、ひと言ずつかみしめるようにお言葉を読み上げられた。

 国内外から招かれた賓客は厳粛な面持ちで儀式を見守った。


 そのとき、都心には大きく美しい虹がかかっていたのである。

 それは、たまたま、偶然だよ、と言う人もある。

 しかし僕は、まったくの 「偶然」 というものはない と信じている。


  (2019.10.31)


531 「スメラミコト(天皇)高御座(たかみくら)に坐し給う」


 僕はここ3ヵ月あまり、原則として毎朝6時すぎに近くの善福寺公園という水源池のある公園に行き、ラジオ体操などをしたあと、この池の中洲に祭られている水神の祠の前に立ち、「大日本神国観」 の神想観を続けてきた。

 「大日本神国観」 では、招神歌を唱えて次のように念じる。

≪ 吾れ 〈すべてのもの〉 今、五官の世界を去って実相の世界に入(居)る。

 はるばると目路
(めじ)の限り眺むるに十方世界ことごとく神なり。吾れ十方世界を礼拝す。

 天よ、ありがとう。地よ、ありがとう。空気よ、ありがとう。火よ、水よ、温みよ、冷たさよ、天地一切のもの神の顕われであります。ありがとうこざいます。

 中央にスメラミコト
(すべてを統べたまう澄み切りの中心者である天皇陛下)の御座(ぎょざ)あり、スメラミコト高御座(たかみくら)に坐し給う。

 皇祖皇宗の御神霊とともなり。

 これをめぐりて百官もろもろの司
(つかさ)あり、すめらみことに向かいて礼拝し奉行(ぶぎょう)し奉る。

 十方に八百万
(やおよろず)の神々あり、護国の英霊あり、十方の諸仏あり、諸天あり、スメラミコトに向いて礼拝し守護し奉る。

 スメラミコトの御座より御光
(みひかり)さし出でてあまねく六合(りくごう=くにのうち)に照り徹(とお)らせり。

 六合照徹
(りくごうしょうてつ)光明遍照、六合照徹光明遍照……

 すべての生きとし生けるもの、すべての青人草
(あおひとぐさ) スメラミコトを仰ぎ見て礼拝し讃嘆し感謝し奉る。

 天皇陛下、ありがとうございます。ありがとうございます。
 皇祖皇宗の御神霊、ありがとうございます、ありがとうございます。
 百官もろもろの司
(つかさ)様、ありがとうございます。
 十方、八百万の神々様、護国の英霊様、ありがとうございます、ありがとうございます。
 十方の諸仏・諸天様、ありがとうございます。ありがとうございます。……

 ……既に大宇宙の救済は成就せり。金波羅華
(こんぱらげ)実相の完全円満の相(すがた)、地上に隈(くま)なく反映し実現して中心帰一、万物調和の永久平和の世界今現ず。

 一切の生物ところを得て争う者なく、相食
(は)むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。

 実相・現象 渾然
(こんぜん)一体、実相・現象 渾然一体……

 みこころの天に成る世界、既に地に成就せり、ありがとうございます。ありがとうございます。≫


          ○

 さて、現行日本国憲法では、

≪ 第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。≫

 とある。

 「象徴」 とは何か――それは #513 で書いたように、一般的には

 「直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること。また、その表現に用いられたもの。例えば、ハトで平和を、王冠で王位を、白で純潔を表現する類。シンボル。」

 と、『大辞林』 にある。

 親指を立てて男または夫を表し、小指を挙げて女、妻あるいは情人を表すのも象徴である。

 わが家には割合大きな仏壇を設けてあり、その最上段中央に阿弥陀如来像を安置してある。

 阿弥陀如来とは、尽十方無碍光如来すなわち宇宙のあらゆるところに遍満し、遮るものなくすべてを照らし生かし給う大慈悲なる大生命である。それは直接的に知覚できないから、仏像という具体的な形象物をその 「象徴」 として安置し、仏像を拝する形をとって宇宙大生命を拝しているのである。

 宇宙大生命は凡ゆる所に遍満しており、人間が生きているのも、宇宙大生命(神と言っても、仏と言ってもよい)が生きているのである。人間の生命は神(仏と言ってもよい)の生命である。人間は本来神であり仏である。それ故に宇宙大生命を拝するとは、己自身を拝することである。

          ○

 仏像が仏(宇宙大生命)の象徴であるように、人間の肉体も人間生命(魂)の象徴であると言ってよいだろう。

 僕は今朝も6時ごろから、3kmほど離れたところにある善福寺公園まで自転車で行き、池畔の広場でラジオ体操をした後、水神様の前で大日本神国観を行じてきた。

 この時間帯、このあたりは “高齢者銀座” と言ってもよいほど、元気で生きるのに意欲的なお年寄りたちがいっぱい、ウォーキング、ランニング、ラジオ体操などをしているのである。

 僕はそうした人たちの姿を見ながら、その肉体の姿は魂の象
(かたち)、象徴だと感じる。

 いや、人の姿だけではない。池畔にみずみずしく咲く色とりどりの花たちも、欅
(けやき)などの木々たちも、みな宇宙大生命の表現である。

 それらが皆、互いを生命の兄弟として祝福し合っているのである。

 それら目に見える象
(かたち)あるすべてのもは、目に見えぬ生命の象徴と言ってもよいのではないか。

 「山川草木国土悉皆成仏」 である。


          ○


 上皇となられた平成の天皇は、現行憲法を受け入れ、次のように述べられている(平成28年8月8日、国民へのビデオメッセージより)。

≪ ……日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 (中略)

 私が天皇の位についてからほぼ28年、私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。

 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

 (中略)

 皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行
(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。…(後略)…≫


          ○

 いまでは多くの国民から支持されているその天皇の 「あり方」 は、当初は昭和時代との比較でかなりの違和感を持たれ、抵抗にあってきた。

 災害被災地訪問は 「1カ所に行くと、すべての被災地に行かなければ不公平になる」 と疑問視された。

 膝をついてのお見舞い。「天皇の強い希望で」 と語られている海外慰霊の旅も、外国訪問は政治が絡む。天皇の意思が前面に出ることは憲法に抵触するという見解もあった。

 昭和時代には考えられなかった天皇像に対する抵抗を "力業" で突破し、自身の信じる道を貫き通すには、屈しない意思が必要だった。

 昭和の前例をそのまま踏襲する方がずっと楽だったはずだ。しかし、近代以降の天皇に要請された役割をよしとせず、人間的で人々に寄り添う 「国民の象徴天皇」 像を追い求め、実践してこられた。

 それは命がけの 「戦い」 でもあったのである。

 僕は思う。スメラミコト天皇は、理念的にいうと、すべてを知ろしめし統べたまう、無私で 「スミキリ(澄み切り)」 の中心者であり、宇宙のあらゆるところに遍満し、遮るものなくすべてを照らし生かし給う大慈悲なる大生命すなわち仏教的に言えば阿弥陀如来にあたる御存在ではないか――と。

          ○

 その平成の先帝が本年4月30日をもって退位され、5月1日に令和の新帝が即位されて、本日は即位の大礼が執り行われる。

 天皇陛下が即位を国内外に宣明される 「即位礼正殿の儀」 は、世界約180カ国と国際機関の代表らを含む国内外の賓客約2千人が出席する中で、

 
「スメラミコト高御座に坐し給う」

 という 「大日本神国観」 で唱え祈りつづけてきた御すがたが、如実に現実に顕現されるのである。

 まことに千載一遇の有難き日である。

 「天津日嗣
(あまつひつぎ)の高御座(たかみくら)
 千代万代
(ちよよろずよ)に動きなき
 国のみはしら建てし世を
 仰ぐ今日こそ 楽しけれ」

 と 「紀元節の歌」 で歌ってきたおすがたの顕現である。


  (2019.10.22)


530 「自律的中心帰一」 と
ラグビーW杯日本チーム



 <拙詠> ラグビーのワールドカップ日本は皆が主将で 「自律」 の強さ

        ラグビーのワールドカップは魂熱
(たまあつ)し 日本猛進 夢は優勝

          *

 今年の日本チームについて、日経紙はつぎのように書いていた。

≪ 「自律」 の理想のもと結束した国際色豊かな日本の選手たち。9月28日、アイルランド戦の先発15人の中に主将リーチ・マイケルはいなかった。前半途中から出場したが、監督が試合中に出せる指示が限られるラグビーで 「グラウンド上の監督」 ともいえる主将を先発から外すこと自体、過去の代表ならありえない決断だった。

 上意下達がもっぱらの日本のスポーツ界にはめずらしい、「選手自身が動かすチーム」 ならではの選択。主将不在の間もグラウンド上の選手たちは揺るがない。“代理主将” ピーター・ラブスカフニを支える強固なスクラムが組まれていた。

 コーチ陣や一人の主将に頼らず、リーダーシップを共有した選手たちが試合中に問題を解決する。ヘッドコーチのジェイミー・ジョセフは母国ニュージーランドの流儀に習った自律的なチームを求め、様々な工夫を選手に落としこんでいた。

 指示によらない戦術転換を、ジョセフは 「時間がないときの判断は難しい。その力がついてきた」 と喜んだ。

 前回大会で3勝を挙げた4年前のチームは、元高校教師のヘッドコーチ、エディー・ジョーンズによって厳格に管理されていた。大の大人が1日4度の 「昼寝」 を義務づけられる。指示も細かく、午前3時に叱責のメールが選手の携帯電話に届く。戦術面の禁止事項も多かった。

 今回は違う。「自分たちでつくり、進化したチーム。今までよりさらに誇れるチームになった」 という。≫


 と。また、海外出身者が15人と、過去最多で、他競技を見渡してみても、これほど 「多様性」 をキーワードに語られる日本代表はかつてなかった。その重要性を最も理解しているのが、ニュージーランド出身で日本に帰化した主将、リーチ・マイケルだという。

 島国で同質性の高い日本人は、いわゆる 「あうんの呼吸」 でコミュニケーションが成り立つ。これに対して移民なども多い欧米では、何事も言葉できちんと説明する必要がある。「あうん」 では細かいことを詰められない。外国人が入ると、必ず言葉にして、数値化、視覚化するコミュニケーションをとるようになるので、プレーの精度が上がる。それが今の代表の強さになっている、ともいう。


 これは、野中郁次郎氏のいう 「形式知と暗黙知の相互作用」 だ。

 暗黙知だけで明確な言葉による伝達がないと、旧日本軍のような失敗がおきる。「組織的知識」 は、相補的な関係にある形式知と暗黙知の相互作用という 「ダイナミクス」 がくり返し起こることで創造される、ということの証だと言えよう。

          *

≪ ラグビーワールドカップ(W杯)で、にわかラグビーファンが急増している。恥ずかしながら、自分もその一人。学生時代は大好きで記者1年目はラグビー担当だったのに、1990年代半ば以降、仕事以外ではテレビ観戦することもほとんどなくなった。それが今、13日の日本代表対スコットランド代表戦が待ち遠しくて仕方がない。

 ラグビーへの関心が薄れたきっかけは、日本代表が95年W杯でニュージーランド代表に17-145の大敗を喫したことだったと思う。世界とのレベルの差を見せつけられ、国内の学生や社会人の試合も見なくなった。

 それ以上に失望したのは、ラグビー日本代表が求心力を失ったことだった。10年ほど前、代表は日本のラグビー選手の誰もが目指す目標ではなかった。代表で活躍するより所属チームでの活動を優先する選手も目立った。当然、そんな代表チームにはファンの支持も広がらない。


 ……今、自国開催のW杯を戦う日本代表からは、そんな時代があったことなど想像もできない。一人ひとりの表情や態度から、このチームや仲間が大好きで、その一員としてプレーすることの誇りと喜びが伝わってくる。 ラグビーという競技の特徴もあるだろうが、驚くほどの一体感と求心力を感じる。そんな代表チームが国籍にとらわれず、日本のラグビー界で活躍する異なる国、地域の出身者たちで構成されていることも頼もしい。

 さまざまな個性が心を寄せて力を結集する。これからの社会が目指す姿を示しているというのは言い過ぎだろうか。(編集委員 北川和徳)≫



 という同紙のコラム記事もあった。

          *

 組織とは、生命体である。

 生命体には必ず、一つの中心がある。中心がなくなれば死んで腐ってしまう。

 生命体を生かす中心は、必ずしも目に見えるすがたを表していなくともよい。

 目に見えなくても中心があって、周辺のすべてが自律的にその中心につながり中心を生かすように生長し、繁栄しているのが生命体ではないか。

 日本国家も、総体的・概括的に見れば、天皇は常には表面に出られることなく隠れて祈られる存在であったが、民は安心して自律的に全体のために奉仕し、長く続いてきた。それで諸々の危機はあっても乗りこえて滅びることなく、概ね安定して幸福に生きてきたと言えよう。

 それゆえ日本の最古典 「古事記」 の冒頭には

 
「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。此の三柱(みはしら)の神は、並(みな)独神(ひとりがみ)成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまひき。」

 (「独神」 とは相対するもののない唯一絶対の神であるということであり、「身を隠し給ひき」 は、相対の世界からは姿を消してしまわれたということ)


 と記されてあり、聖徳太子十七条憲法の第一は

 
「和を以て貴しと為せ」

 であり、明治天皇の 「五箇条の御誓文」 には

 
「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
  一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
  一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
  一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
  一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」


 とあるのである。

 ここに真の民主主義があり、組織活性化の道があり、勝利への大道があるのではないか。

 それが、

≪ 生長の家の組織とは中心をもつところの渾ての渾てなる組織であり、絶対の組織であり、組み合わせて出来上がる組織ではなく、組織それ自体で組織である在りて在る組織なのである。金波羅華(こんぱらげ)實相組織ということである。組織紋理整然中心帰一万物調和の相(すがた)が生長の家の組織そのものなのである。≫

 と榎本恵吾師の言われるすがたであり、生長の家人類光明化運動のあるべき組織のすがたなのではないか。

 それが、「組織活性化の道」 であり 「勝利への大道」 であるならば、それを証
(あかし)しなければならない。すなわち、それを実践することによって、地上天国が自ずから現成して行くことを実証する。それを、後世に立派な遺産として遺して行くことが、生長の家の御教えに触れて今生かされているわれらの使命ではないか。


  <つづく>


  (2019.10.11)


529 ラグビーの熱戦ゲームさながらに 「知識創造」 組織動力学


 いま、ラグビーのW杯日本大会で日本チームは優勝候補のアイルランドを破り金星を挙げるなど素晴らしい健闘ぶりを見せ、今夜は対サモアの第3戦だ。熱戦が続き諸外国からの観戦観光客もふえて、ラグビーへの関心が高まっている。

 ところで野中郁次郎氏 「知識創造経営」 理論のルーツは、最初1986年に 「新しい新製品開発ゲーム」 と題して発表した論文で、日本企業の新製品開発の速さと柔軟性を描き出すのに、「ラグビー」 の比喩を用いた。開発中の新製品を、一団となって走るチームがパスしながら進めるラグビーのボールに見立てたのである。



 当時、1970~1980年代は、日本企業の新製品開発力がすさまじかった。僕はずっと日経紙(日本経済新聞)を愛読しつづけているが、当時は同紙の新製品紹介欄に毎日次々と新しいすぐれた電子機器、映像・音響機器、家電製品などが発表されているのを、驚異の目をもってわくわくしながら読んでいたのを思い出す。日本企業の新製品開発力はすごいものだなあ――と感嘆の思いをもったものだ。

 なぜ日本企業は成功したのか。日本企業の新製品開発のスピードが桁違いに速い理由はどこにあるのか。それは多くの西洋人にとって謎であった。野中郁次郎氏と竹内弘高氏は、それに対する答えとして、長年の研鑽の結果を1995年に英文でまとめ上げオックスフォード大学出版部から出版されたのが “The Knowledge Creating Company”(邦訳 『知識創造企業』)。これはピーター・ドラッカーやマイケル・ポーターといった著名な経営学者の讃辞推薦を受け米国でベストセラーとなった。そのあとで邦訳書 『知識創造企業』 が東洋経済新報社から出されたのである。

 邦訳書の序文と第1章の一部を要約抜粋してご紹介すると――

          *

 
≪……ラグビーのアナロジー(たとえ・類似点)を続けよう。

 (ラグビーの)チームがパスでまわすボールの中には、会社はなんのためにあるのか、どこへ行こうとしているのか、どのような世界に住みたいのか、その世界はどうやって実現するのか、についてのチーム・メンバーの共通理解が入っている。きわめて主観的な洞察、直観、勘などもその中に含まれる。つまり、そのボールの中に詰まっているのは、理想、価値、情念なのである。

 次に、ラグビーで 「どのように」 ボールがパスされるかに注目すると、リレー競走で走者から走者へ手渡されるバトンと違い、ラグビーボールは楕円形だからリレーのように順次線形には動かない。それはフィールドでのチーム・メンバーの連係プレーから生まれてくる。それは、過去の成功や失敗の積み重ねの上に、その場その場で決められる。それは、チーム・メンバー間の濃密で骨の折れる相互作用(インタラクション interaction)を必要とする。その相互作用のプロセスが、日本企業の中で知識が組織的に創られるプロセスによく似ている。

 「組織的知識創造」 は体験や試行錯誤とともに、アイデアを生み出す思考や他者からの学習である。それはアイデアにかかわるだけでなく、アイデアル(理想)にもかかわる。

 日本企業は 「組織的知識創造」 の技能・技術によって成功してきたのだ。組織的知識創造とは、新しい知識を創り出し、組織全体に広め、製品やサービスあるいは業務システムに具体化する組織全体の能力である。これが日本企業成功の根本要因なのである。

          *

 ここでいう 「知識」 とは何か。

 「知識」 には、「形式知(explicit knowledge ――明確に表現された知識)」 と 「暗黙知(tacit knowledge ――形式言語では言い表し難い個人的な知識」 の2種類があると考える。

 言葉や数字で表現される知識(形式知)は氷山の一角にすぎない。知識は、基本的には目に見えにくく、表現しがたい、暗黙的なものであり、より重要なのは、形式言語で言い表すことが難しい 「暗黙知」 と呼ばれる知識なのである。それは人間一人ひとりの体験に根ざす個人的な知識(パーソナル・ナレッジ)であり、信念、ものの見方、価値システムといった無形の要素を含んでいる。暗黙知は、人間の集団行動にとってきわめて大事な要素であるにもかかわらず、これまで無視されてきた。それが日本企業の競争力の重要な源泉であった。これが、日本的経営が西洋人にとって謎であった大きな理由であろう。

 われわれは相補的な関係にある形式知と暗黙知に注目する。より重要なのは、この二つの知の相互作用という 「ダイナミクス」(dynamics = 動力学、活力。statics = 静力学の対語)が企業による知識創造の鍵なのだ。「組織的知識創造」 とは、そのような相互作用がくり返し起こるスパイラル・プロセス(螺旋状に展開する過程)の謂いなのである。

 知識創造は、個人、グループ、組織の三つのレベルで起こる。暗黙知と形式知、個人と組織の二種類の相互作用は、①暗黙知から形式知へ、②形式知から形式知へ、③形式知から暗黙知へ、④暗黙知から暗黙知へ、という知識変換の四つの大きなプロセスを生み出す。……

          *

 そうはいっても、最近の国際競争における日本企業の後退は、我々のモデルの基礎を掘りくずす反証になりうると主張する人もいるかもしれない。しかし今われわれが目のあたりにしているのは、最近では最も長くきびしい不況の中で、過去にうまくいったやり方から離れ、ビジネス・チャンスを求めて未知の分野に踏み込もうとしている日本企業なのである。

 今日、危機の重圧とさらなる国際化の必要性は、日本企業に知識創造のいっそうの発展を迫っている。

 過去50年ものあいだ、日本企業は、「確実なのは不確実の連続だけ」 という環境の中で生きてきた。第二次世界大戦の壊滅的結果に始まり、朝鮮戦争とベトナム戦争という動乱、そして二度の石油ショック、ニクソン・ショック、円高、最近ではバブル経済の破裂など数多くの経済的危機を乗り越えてきたのである。

 このような外部環境の不確実性に加えて、日本企業はそれぞれのビジネス分野で、変動する市場、続出する新技術、増える競争相手、急速に陳腐化する製品を見てきた。

 不確実性への対応は、成功してきた日本企業にとっても、生きるか死ぬかの問題であった。たとえばホンダは、もし燃費の低いエンジンを石油ショックの前に開発していなかったら、今ごろは存在していないかもしれない。キャノンは、最初のマイクロ・コンピュータ付き一眼レフ・カメラAE-1に社の命運を賭けた。ソニーもまた、「メイド・イン・ジャパン」 が 「安かろう、悪かろう」 を意味した時代に輸出戦略を敢行しなかったならば、今ごろは忘れ去られた存在になっていただろう。

 競争はつねに苦しい戦いの連続であった。振り返ってみれば、それが幸いしたのである。日本企業は、成功に伴うさまざまなマイナス要因、とりわけ奢りと傲慢をまぬがれた。日本企業が、かつてのIBM、GM、シアーズのように、それぞれの産業分野で圧倒的優位を占めた例は一つもない。これら三社は、それぞれの領域の支配者として、王座の安逸をむさぼり、しだいに感覚を失い、周りの変化に気づかなくなっていった。彼らにとっては、不確実性ではなく確実性が当たり前になったのである。

 それとは対照的に、日本企業は、最後には勝つという固い決意で、さまざまな障害や逆境を乗り越え、国際競争を戦ってきた。つい最近まで、気を緩めたり、奢り高ぶる余裕などなかった。

 不確実性の時代には、企業は頻繁に組織の外にある知識を求めざるをえない。日本企業は、貪欲に顧客、下請け、流通業者、官庁、そして競争相手からも新しい洞察やヒントを求めた。ちょうど 「おぼれる者はわらをもつかむ」 ように、必死で外部知識を取り込んだのである。日本企業の連続的イノベーションの特徴は、この外部知識との連携なのである。

 外部から取り込まれた知識は、組織内部で広く共有され、知識ベースに蓄積されて、新しい技術や新製品を開発するのに利用される。そこでは、ある種の変換が起こっている。この外から内へ、そして新製品、新サービス、新ビジネス・システムの形で今度は内から外へという変換プロセスこそが、日本企業のこれまでの成功を理解する鍵なのである。この外から内へ、内から外へという活動こそが、日本企業の連続的イノベーションの原動力である。この連続的イノベーションが、日本企業の競争優位につながったのである。……≫



  <つづく>


  (2019.10.5)

528 宗教は、新しい未来をつくる「智」の創造体である。


 
「企業は、新しい未来をつくる知の創造体である」

 ――と、いま世界的に注目されている 「知識創造経営」 理論の先駆者・野中郁次郎氏(一橋大学名誉教授、『知識創造企業』 の著者)は言っている。

 https://globis.jp/article/2389

 これは、宗教団体にこそ当てはまることではないかと、僕は思う。

 「知」 「知識」 は 宗教的悟得、智慧、「真理は汝を自由ならしめん」 とイエスが言った 「真理」と考えよう。それを 「創造」 するというと、人間が無から創り出すように聞こえるけれども、そうではない。現象を超えた、時空を超えた 「久遠の今」 なる実相の世界には、すでに無限の智慧・愛・生命が充ち満ちてあり、無限の歓喜・無限の供給・無限の調和に充ち満ちている。その波動を受信して時間空間上の現象世界、現実世界に鳴りひびかせることが、創造である。

 ――とすると、

 「宗教は、新しい未来をつくる 『智』 の創造体たるべし」

 と、僕は思うのである。

          


 僕は最近、遅まきながら野中郁次郎氏の著書 『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』 を読了し、その続篇 『失敗の本質――戦場のリーダーシップ篇』 と 『知識創造企業』 をいま読みつつあるところである。

 読み始めたきっかけは、日本経済新聞に9月1日から連載されている野中氏の 「私の履歴書」 を読んで、面白い と思ったから、アマゾンを通じて購入したのである。

 その “履歴書” の一部を紹介させて頂こう。


 野中氏は僕とほぼ同世代で、1935年(昭和10年)5月、東京は本所の生まれ。

 いま、世界の経営学会に新風を巻き起こしている野中氏の精神を貫く太い幹は、「米国へのリベンジ」 だという。それは、戦時中、小学生のとき米軍機の機銃掃射にあい、死にかけた経験が原点にある。

 大東亜戦争の戦火が激しくなり静岡県の吉原村(現富士市)に疎開していた終戦直前の1945年(昭和20年)6月ごろのこと。日本近海に迫っていた米軍の空母から艦上戦闘機グラマンが飛来し、空襲警報が鳴った。子供たちは木陰に身を隠しながら裏道になっている林道を進み、集団で下校する。家が遠かった野中郁次郎君は最後まで残り、1人で歩いていた。

 戦闘機が近付いて来るのが分かり、松の木の下に隠れていると、機銃掃射の爆音が大きくなってきた。身体知で危険を察知し、飛び出してトウモロコシ畑のほうに移った。しばらくすると、松の木は炎に包まれ、根元から折れて倒れた。飛び出さなかったらおそらく、やられていた。

 旋回しながらまた撃ってくる戦闘機を見上げると、パイロットと目が合う。にやりと笑っているように見えた。

 そのとき郁次郎少年は、「必ずいつか敵
(かたき)を討つ。米国に勝つ」 と心に刻み込んだ。


 後に早稲田大学を卒業してビジネスマンになると、今度は米国の企業が、決して負けてはならない相手として目の前に現れた。このままだと日本はまた米国に負けると危機感を持ち、まずは懐に飛び込み、先方のやり方を吸収しようと考えて、米国に留学を決意した。

 しかし、当時勤務先の富士電機製造に留学制度はないから自費で行くしかない。学費が高いハーバード大学やスタンフォード大学には行けないから、候補に浮かんだのがカリフォルニア、ワシントン、インディアナといった州立大学だった。6、7校に願書を送ったら最初に合格通知が来たのがカリフォルニア大学バークレー校だった。

 渡航費用を含め、留学資金の宛てはなかったが、会社から無利子で50万円を借り、また支援者を見つけ、67年に31歳で会社を休職して大阪商船三井船舶の船で渡米。カリフォルニア大学バークレー校での留学生活を始めた。


   
母校から奇跡の 「生涯功労賞」


 ――それからちょうど半世紀を経た2017年。野中氏は、母校の米カリフォルニア大学バークレー校で、同大学最高賞の 「生涯功労賞」 というのを受賞した。

 受賞のスピーチでは、小学生の時、疎開先で米軍機の機銃掃射にあい、米国へのリベンジを誓った経験を披露した。そして、

 「今ここに私が立っているのはまさに奇跡です。米国に対するリベンジに燃えていた男が、米国の先進的な大学機関から、このような素晴らしい賞をもらえるようになるとは、誰が想像したでしょうか」

 と語った。大喝采を受けたという。それは、野中氏が自己(小我)を超克し得た証だと思う。


          



   
イノベーションは、単なる 「技術革新」 ではない。


 さて、「新しい未来をつくる知の創造」 こそイノベーションである、と野中郁次郎氏はいう。

 「イノベーション」 は日本では 「技術革新」 と翻訳されてその認識がほぼ定着しているようだけれども、本来の 「イノベーション」 には、もっと広範な意味がある。

 イノベーション(英: innovation) の本来の意味は、物事の 「新結合」 「新機軸」 「新しい切り口」 「新しい捉え方」 「新しい活用法」 (を創造する行為) のこと。新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する。

 イノベーションは、1911年に、オーストリア出身の経済学者であるヨーゼフ・シュンペーターによって、初めて定義された。シュンペーターはイノベーションを、「経済活動の中で生産手段や資源、労働力などをそれまでとは異なる仕方で新結合すること」 と定義し、

 1.プロダクション・イノベーション(新しい財貨の生産)
 2.プロセス・イノベーション(新しい生産方法の導入)
 3.マーケット・イノベーション(新しい販路の開拓)
 4.サプライチェーン・イノベーション(新しい供給源の獲得)
 5.オルガニゼーション・イノベーション(新しい組織の実現)

という5つを挙げているのである。

 ところが日本では 1958年の 『経済白書』 において、イノベーションが 「技術革新」 と翻訳紹介された。1958年は日本経済が発展途上であり、新技術の発見と技術の革新、あるいは技術の改良が死活的であり重要な時代だった。

 しかしその後の成熟した日本経済においては、技術に限定しすぎた 「技術革新」 という訳語は、社会的なニーズを無視、軽視した技術開発を招き、新たな経済成長の妨げともなっている。このため、「技術革新」 は誤訳と批判されることもある。

 それゆえ、中小企業庁が発刊する 『2002年版中小企業白書』 では、イノベーションに 「経営革新」 の括弧書きをした。2007年の 『経済白書』 においては、シュンペーターの定義に立ち返り、イノベーションを 「新しいビジネスモデルの開拓なども含む一般的な概念」 としたのである。しかし、いまだに 「技術革新」 の訳語から抜け出せていないのが現状ではないだろうか。僕自身、「イノベーションとは技術革新のこと」 と思い込んでいたのである。


          



  組織とは何か
   〜思考の起点となる組織の三要件〜


 組織とは、何か。手許の辞書を引いてみると――

 1. ある目的を目指し、幾つかの物とか何人かの人とかで形作られる、秩序のある全体。

 2. (生物) 同じ系統の細胞が集まって一定の働きをする器官。

 とある。

 米国の経営学者チェスター・バーナードの定義によれば、

 「組織とは、意識的に調整された2人またはそれ以上の人々の活動や諸力のシステムである。」

 そして、その成立要件として

  1. 共通目的(common purpose)
  2. 貢献意欲(willingness to serve)
  3. 意思疎通(communication)

 が必要、としている。

 この3要件が組織を組織たらしめている。組織において生じる問題の多くはこの3要件の機能不全と捉えることができる。

 目的が明確でなく何を達成すればよいのかわからない。複数の人間が力を合わせて目標を達成しようとする貢献意欲(やる気)がなく、てきぱき動かない。成員間のコミュニケーションが成立しておらず、命令系統の分断や分業・協業に不効率が生じている。――等々、機能不全のパターンは種々多様なものがある。そこで、組織の一つひとつの要件について深く考察することは意義のあることである。

          


    
『失敗の本質』

 野中郁次郎氏は、先の大戦時の日本軍の失敗を組織論的に研究し、6人の同志と共に 『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』 という労作を著して(1984年)、ベストセラーとなった。

 同書は、日本軍が先の大東亜戦争において、終局的に無条件降伏という決定的敗戦の結果に至った失敗のプロセスから、特に(1)昭和14年の日ソ間に起きたノモンハン事件(陸戦)から始まり、(2)第二次大戦中のミッドウェー(海戦)、(3)ガダルカナル(陸戦)、(4)インパール(陸戦)、(5)レイテ(海戦)、(6)沖縄(陸戦)で戦われた6つの作戦で敗退に至る経過を調査し、それを組織論的な観点から分析研究して共通点を見出し、一定の判断(失敗の教訓)を導き出したものである。

 上記の6つの作戦がとりあげられた理由は――

 1.ノモンハン事件は大東亜戦争には含まれないが、その作戦失敗の内容から見て、大東亜戦争におけるいくつかの作戦の失敗を、すでに予告していたと考えられる。たとえば、そこでは作戦目的があいまいであり、しかも中央と現地とのコミュニケーションが有効に機能しなかった。戦闘では過度に精神主義が誇張された。ノモンハンでの失敗の教訓は、ほとんど学習されることがなかった。ノモンハンは、比喩的にいえば、失敗の序曲であった。

 2.ミッドウェー海戦とガダルカナル陸戦は、それまで順調に軍事行動を進ませてきた日本が、この二つの作戦の失敗を転機として敗北への道を走り始めたのである。とくにミッドウェーは、不測の事態が発生したとき、それに瞬時に有効かつ適切に反応できなかった。

 ガダルカナルでは、情報の貧困や兵力の逐次投入といった点が指摘されると同時に、太平洋戦場で反攻に移った米軍が水陸両用作戦を開発しそれを効果的に用いたのに対し、日本軍がそれにまったく成功しなかった点にも注意が向けられる。

 3.インパール、レイテ、沖縄は、日本の敗色が濃厚となった時点での作戦失敗の主要な例である。いうならば、この三つの作戦は、本来的な意味における「敗け方」の失敗の最も典型的な事例を提供してくれる。

 インパールは、しなくてもよい作戦を敢行した、いわば賭の失敗であった。戦略的合理性を欠いたこの作戦計画の決定過程に焦点を絞り、人間関係を過度に重視する情緒主義や、強烈な使命感を抱く個人の突出を許容するシステムの存在が、失敗の主要な要因として指摘される。

 レイテは、精緻をこらした独創的な作戦計画のもとに実施されたが、いぜんとして作戦目的はあいまいであり、しかも、精緻な統合作戦を実行しうるだけの能力も欠けたままであった。参加各部隊(艦隊)は、その任務を十分把握しないまま作戦に突入し、統一指揮不在のもとに作戦は失敗に帰した。能力不相応の精緻な作戦計画や、事前の戦果の非現実的な過大評価に目を向ける。

 大東亜戦争最後の主要作戦たる沖縄でも、相変わらず作戦目的はあいまいで、米軍の本土上陸を引き延ばすための戦略持久か航空決戦かの間を揺れ動いた。とくに注目されるのは、大本営と沖縄の現地軍に見られた認識のズレや意思の不統一である。そこに分析のメスが入れられる。


 大東亜戦争の 『失敗の本質』 は、結局、「日本軍は戦略目的があいまいであり、意思疎通が不十分でイノベーションができず、不測の事態に対応できなかったこと」 と言えるかも知れない。

 突っ込んで言えば――

 1.目的のあいまい性――目的の単一化とそれに対する兵力の集中は作戦の基本であり、反対に目的が複数あり、そのため兵力が分散されるような状況はそれ自体で敗戦の条件になる。ところが日本軍には明確なグランドデザインがなく、個々の作戦においても戦略ないし作戦目的があいまいで二重性を持つことが多かった。

 大規模作戦を計画・準備・実施するのに、陸・海・空の兵力を統合し、その一貫性、整合性を確保する組織・システムがなく、上級司令部と現地軍との間の意思の疎通は極めて不十分で相互に不信感を持つことが多かった。作戦決定の会議でも、自由闊達な議論が行われることなく、その場の 「空気」 が支配して決定されることが多かった。

 2.柔軟な学習を軽視した組織――日露戦争での成功体験から陸軍は 「正面からの白刃一斉攻撃」 を金科玉条にして、それが功を奏さなくても何度も繰り返した。海軍は日本海海戦で大勝したために、大艦巨砲、艦隊決戦主義が唯一至上の戦略オプションになった。この思想は東郷平八郎連合艦隊司令長官のもとで参謀を勤めた秋山真之少佐が起草した「海戦に関する綱領」をもとにして明治34年に制定された「海戦要務令」以来日本海軍の伝統になった。

 「海戦要務令」自体は、その後の状況変化に合わせるように5回にわたって改訂されたが、戦艦中心の思想は一貫して変えられることがなかった。

 「戦闘の要旨は攻勢をとり速やかに敵を撃滅するにあり。戦闘の要訣は先制と集中にあり。戦艦戦隊は艦隊戦闘の主兵にて敵主隊の攻撃に任ず」 云々……

 この海戦要務令の条項からも明らかなように、日本海軍の短期決戦、奇襲の思想、艦隊決戦主義の思想は教条的にといってよいほど保持され、潜水艦や航空機は効果的に使われなかった。

 失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを組織の他の部分へも伝播していくということは驚くほど実行されなかった。これは物事を科学的、客観的に見るという基本姿勢が決定的に欠けていたことを意味する。

 また、組織学習にとって不可欠な情報の共有システムも欠如していた。日本軍のなかでは自由闊達な議論が許容されることがなかったため、情報が個人や少数の人的ネットワーク内部にとどまり、組織全体で知識や経験が伝達され、共有されることが少なかった。

 作戦をたてるエリート参謀は、現場から物理的にも、また心理的にも遠く離れており、現場の状況をよく知る者の意見がとり入れられなかった。したがって、教条的な戦術しかとりえなくなり、同一パターンの作戦を繰り返して敗北するというプロセスが多くの戦場で見られた。

 ガダルカナルの失敗は日本軍の戦略・戦術を改めるべき最初の機会であったが、それを怠った。また、成功体験の蓄積も不徹底であった。さきに述べたように、緒戦の勝利から勝因を抽出して、戦略・戦術の新しいコンセプトを展開し、理論化を図ることを行なわなかった。

 レイテ海戦に至ってもなお、艦隊決戦思想からの脱却がなされていない。沖縄でも、中央部の発想は本土前線における決戦、そして機動反撃という戦略・戦術を一歩も出ていないのである。大東亜戦争中一貫して日本軍は学習を怠った組織であった。

 そして不測の事態が起きた場合への対応計画の欠如――作戦計画が誤っていたとわかっても、それを直ちに建て直す心構えがまったくなかった。それで失敗の循環スパイラルをくりかえし、決定的敗戦へと突き進んだ。……


          ○


 さて、榎本恵吾師は実相生長の家の組織について

≪ 大宇宙の組織がそのまま、生長の家の組織なのである。

 生長の家の組織とは中心をもつところの渾ての渾てなる組織であり、絶対の組織であり……組織紋理整然 中心帰一万物調和の相
(すがた)が生長の家の組織そのものなのである。≫

 と書かれていたが――


 振り返ってみれば、現実の現象界では、生長の家の運動組織もまた、上記の日本軍のような組織的欠陥を、持っていたのではないだろうか?

 僕は、戦後の生長の家の組織的運動について、生長の家本部の山口悌治・総企画局長を中心に展開された 「国民総自覚運動」 から生長の家政治連合(生政連)の運動、さらには青年会の 『理想世界』 誌百万部運動、そして三代目谷口雅宣総裁が率いる現在の、環境運動を中心として 「“新しい文明”の基礎を作る」 というスローガンを掲げた運動組織にも躊躇することなく分析の目を向け、野中郁次郎氏の 「知識創造経営」 理論をしっかり学んでそれを超え、


 「宗教は、新しい未来をつくる 『智』 の創造体たるべし」


 との思いを、同志と共に展開すべく、老骨にむち打って――いや、肉体はないのであった。肉体を超え神の御心のままに、神が為し給うのであると信じて――挑戦して行きたいと思う。


  <つづく>


  (2019.9.29)

527 「あなたの中に太陽が昇る 」


 自分の中に宇宙があり、自分の中に天皇がおわしまし、自分の中に住吉大神が顕れられるのである。

 「顕斎
(まつり)の時は今」 という 『理想世界』 誌昭和53年11月号の座談会記事は、前段に掲載させて頂いた 「生長の家人類光明化運動」 の理念を具体的に語った、まことに素晴らしい座談会であると思います。それをここに再録させて頂きましょう。

 この中で、 というのは神道に通じた生長の家の大先輩。

  というのは榎本恵吾師です。


 当時、私が 『理想世界』 誌編集長としてこの座談会を企画し、人選・司会を務め、録音起し・編集をしました。われながら素晴らしい記事ができたと感謝しています。



 冒頭のリード文にいわく――

≪(昭和53年)11月21日から8日間、長崎県西彼杵郡西彼町の生長の家総本山で、龍宮住吉本宮の鎮座落慶大祭が盛大に執り行なわれる。その大拝殿は 「鎮護国家出龍宮顕斎殿」 と称され(宇治別格本山には 「入龍宮幽斎殿」 がある)、ここに住吉大神の御出御を請い、顕斎(神を形に顕わして斎る)が行なわれるのである。

 それは谷口雅春先生だけでなく私たち一人一人の中に住吉大神が顕われ給い、宇宙浄化が行なわれる慶事であり、私たちの日々の生活が即、神(天照大御神)を顕わす祭りとなることである。龍宮住吉本宮は私たちのいのちの中にある。それを形に投影したのが総本山のすがたなのである―― 。

 龍宮住吉本宮鎮座落慶を記念して、その 「顕斎」 の意義について座談会を行なった。≫



 その内容です。――


          ○


     
あなたの中に太陽が昇る


  やあやあ遅くなりました。きょうは午前中ある後輩が弁理士の事務所開きをするので、その潔めのお祭りをしてくれというので行って来たんですよ。神職の方にたのめばいいといったら、神職の方は職業上、形式ばかりのことをするような気がする、それより素人でも心のこもった祭りの方がというので、行って来たんだけれどね。

 日本人は本来、家を建ててもそれは自分の家を建てるんじゃなく、神さまの宮を建てて、神の宮に住まわせていただくんだという気持だったんですね。だから入口にしめなわを張って、おまつりをするんですよ。

 食事だって、天照大御神の御いのちをいただく神事であるし、寝るのだって、単に疲れたから寝るというのじゃなくて、マドコオウフスマに入ってお籠
(こも)りをする神事なんです。すべてこれ顕斎ですよ。

  すばらしい話ですね。住吉大神の顕斎ということは、他人事
(ひとごと)ではなく、私たちのいのちのことなんだということですね。

  そう。顕斎
(まつり)というのはね、まずみそぎ(禊)をしますが、これは霊注(みそそ)ぎで、神さまが霊止(ひと)にお生れになるというのが、まつりの根本的意義なんですよ。

 天照大御神が天皇さまにお生れになるというのが御即位のときの大嘗祭
(だいじようさい)、そして毎年11月23日の新嘗祭(にいなめさい)です。その新嘗祭の前の日である11月22日に、天照大御神の前の霊(ひ)である住吉大神が、谷口雅春先生をはじめとして、われわれ信徒一人一人に御誕生になるんですよ。ですから大変なことであるわけです。

 谷口雅春先生の御誕生日が11月22日だということは偶然じゃない、宇宙的な大経綸が秘められているという気がしますね。

  たいへんなことですねえ。

  一般に知られている祭りというのは、神さまがここに人のいのちとして生れて、何とありがたいことか、嬉しくて楽しくてたまらないというのが神楽となり、舞となり、踊りとなり、とそういった神遊びで、氏子の地域一帯を神のいのちで充満させるためにお神輿をかついでねり歩いたり、神船に乗ってお渡りになるとか、山車
(だし)を引いて舞うとかするわけです。

 その、神さまがお生れになって、なんとありがたいことか、たのしいことかという 「神遊び」 の行事だけが、一般のお祭りとなって残っているわけですが、本当はその前に禊
(みそぎ)という 「幽斎」 がある。ところが顕斎だけに世の中の人の眼が向いているので、現在の神道界では、幽斎に向けて熱心になっているんです。

 生長の家はもともと顕幽一如、幽斎即顕斎だったのですが、今までどちらかといえば 「祈ればいい」 という幽斎の方が強かったので、今、神さまを形に顕わして行く顕斎の方に向いて来たんですね。

 で、 「顕斎」 というのはお宮を建てて神事を行うということも一つですが、同時に生活の一つ一つに神さまを顕わして行く、生活のすべてを 「神遊
(かむあそ)び」 にするということなんですね。

  うれしくなってきますね。食事も、睡眠さえもが神の祭りであるというのは……


     
生活のすべてが 「神遊び」 である


  そう、われわれが何の気なしに毎日寝んでいる寝床も、これは日々新生するための神聖な真床追衾
(まどこおうふすま)ですよ。寝床に入ることは、いったん今までの自分は死んで、また神のいのちを宿して新たに生まれる、「籠(こも)り」 の行事なんです。

 人間の誕生だって、胎内に宿ってから十ヵ月のお籠りの期間があるでしょう。それは熟成の期間なんです。紙だって、機械から出て来たナマの紙をすぐ印刷にかけると、あまりかんばしくない。お習字に使う紙だって、半年か一年ねかせておくといいんです。それは何でもそうです、アイディアだってしばらくねかせておくと熟成してくる。

 神想観していったん死に切って寝むと、またお籠りの期間を経て、「只今誕生」 と、新しいいのちが生れてくる、というのが、われわれが日常、寝床に入り、朝起きるという行事なんですね。こういう神事を、日本人はずっとやってきたんですよ。


     
食事は人類共通の顕斎


 食事をいただくのも、これは 「大調和の神示」 以前に、「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」 という神示で教えられている通り、たいへんなお祭りですよ。日本古来の言葉でいえば、「贄
(にえ)の祭り」 または 「饗(あえ)の祭り」 と言いますが、食事が祭りだというのは日本だけのことじゃないんです。

 われわれ、人類光明化運動と言いますが、その人類共通の祭りは何かといったら、食事ですよ。それから音楽ですね。アイヌの熊祭りというのも、食事によって神と一体になる祭りだし、ヨーロッパでも、ゲルマンをはじめいろんな諸民族で、キリスト教のために自分の民族にうけつがれてきた祭りが抹殺されて今は稀薄になっているけれども、諸民族の祭りの根源をたどって行くと、全部神さまと一体になる、食事によって神さまのいのちをいただいて生れ変るというのが、全人類共通の祭り、全人類共通の顕斎なんですよ。

 その全人類共通の顕斎が、日本に、最も純粋に深く伝えられてきているんです。そのいちばんいいサンプルが、天皇さまのお祭り(大嘗祭・新嘗祭)なんです。そこに、日本の世界的使命というものが感じられるんです。

 だから、現在意識ではそのことをみんな忘れていても、日中条約を結ぶとかなんとか、しち面倒くさい外交交渉なんかの前には、必ず食事の宴がはられるでしょ。それは、全人類共通の顕斎は食事であるということが、深い潜在意識の底にあるからですよ。だからいっしょに一つのテーブルについて飲食を共にするという食事の席では、ケンカをしないでしょう。

 ヨーロッパ人などが未開民族のところへはいって行っても、まず、持っているものを交換したり、いっしょに食事をしたり、というところからやって行くと、警戒心を解いてしまう。
 全く言語も、歴史、伝統、風俗習慣もちがう者同士が会ってもね、一つテーブルについて飲食を共にする行事でもって、お互い一ついのちに生かされているんですよという、つながりを思い出させている……

  おもしろいですね。

  だから、世界の、コトバもちがい風俗習慣もちがういろんな諸民族が、長崎の住吉本宮に参拝に来ても、全然不自然なことはないんです。


     
神のいのちが顕われると


  木間さんの 「祭りの形と心」 には、日本の古代の村の長老というような人は、いつも神に祈り神と対話することが日常の会話のようになっていたということが書かれていましたね。なにか、それが現代にも行なわれる時が来ているんだなあと、顕斎の時代の意味するものが迫って来るような気がします。すべての人に、それがいのちの底からよみがえってくる……

  幽斎・顕斎というのがこう一致してくると、私なるものがかわって来るんですね。生れかわりが行なわれるというか、自我をスパッと死に切って行くと、いろいろと具体的に変化が顕われてきます。

 私は最近、自然にたばこを喫
(の)まなくなったんです。たばこをやめようと考えたこともなかったんだけど……実は私は戦時中、戦地に行ったとき、ある先輩が、「君はこれから大勢の部下を持つようになるんだから、兵隊の気持をわかるためには、たばこを喫め。たばこの味がわからなければ兵隊の気持もわからないよ」と言われたんです。

 当時は、「上官の命令は朕(天皇陛下)が命令と心得よ」 ということだったので、私はその先輩の命令のような言葉を忠実に守って三十数年たばこを吸いつづけてきて、やめる気は全然なかった。それはあの、小野田少尉が上官の命令を忠実に守って、上官が命令を解除するというまでフィリピンのミンダナオ島のジャングルから出て来なかったのと同じだなと思ったんですがね。

 ところが、「顕斎」 について書いているうちに、私自身が非常に変ってきて、私の体の中からたばこなるものがフワフワ、フワフワと抜け出して行って、私とたばことがずれてしまったような感じなんですね。そうして全然たばこを吸わなくなってしまった。

 それから、二十何年もつれそった、四十幾歳の家内が、非常にかわいくなって……(笑)

  いやあ、すばらしいですね。

  私も、最近変ってきたんです。子供を見ていて、嬉しくてしようがないんです。女房を見ても、以前は子供の教育のしかたが不満で小言を言ったりしていたりしたんですが、それが全然なくなって、ただ嬉しい。庭の草花を見ても、ひじょうに嬉しい。何が嬉しいというのでもなく……あらゆるものが神なんですね。

  なるほど。自分の奥さんを神さまと観て拝むことも顕斎ですよね。

 すべての人に、いのちの底から、そういう甦りが起ってくる。それは、生長の家に入っているとかいないとかの形の問題ではなく、空気も水も火も、花も草も木も甦ってしまう。

  住吉大神の“顕斎の気”が、大気の中に満ちてきて、それに包まれたというようなことなんでしょうか。

  これは本当に、おどろくべきことだな。こうして人類全体が、なんとなくお互い同士いとおしくなり、なつかしくなって来るとしたら……どんなことになって行くんでしょうね。


     
住吉大神、宇宙を浄めたまう


  住吉大神は、古事記神話では、天照大御神がお生れになる前、イザナミの命
(みこと)のみそぎはらいの完成のときにお生れになった神さまですが、それは地上の人間ばかりでなしに、神々をも、一切を浄化される。

 住吉大神は浄化の神で、浄化とは秩序を正すということである。中心を中心として、中心に帰一した神々の世界がだから、神界においても浄化が行なわれる、つまり住吉大神が住吉大神として正しく祭られることによって、天照大御神以後の神々がみんな秩序あらしめられて、その御働きを及ぼされる。そうすると、八百万
(やおよろず)の神々、日本のいたるところ、津々浦々にある神社の神々も復活するんですね。

 生長の家は万教帰一で、一切の宗教を生かし、すべての教祖のいのちを現代に生かしてきた。聖書のコトバが生活に生きてきたとか、法華経の本当の意味がわかったとか……それは教えの復活、神々の復活ですね。

  万教帰一というのは、すべての教えが一つに帰るという意味がありますが、顕斎ということからいうと、つまり実相の側からいうと、すべての教えは一つから展開しているという宇宙の創造のすがたをいい表わした真理のコトバだと思います。

 そうして私たちは、その中心なる天照大御神のふところに抱かれて私たちのいのちがあるんですから、すべては自分のいのちの展開であると言える。


     
自分の中に宇宙がある


 ぼくはね、以前はベートーヴェンの音楽をきいても、バッハの音楽をきいても、「これはベートーヴェンという人の体験した、ある生命体験を描写したものだ」 あるいは 「バッハの世界を表現したのもだ」 と思っていました。それは他人事だったんです。そして、ベートーヴェンの能力に嫉妬心を起していたんです。

 ところが、そうではなかった。これは、ベートーヴェンが、ぼくのいのちをまつってくれて、ぼくのいのちをたたえて、こうして顕斎してくれているんだ、という気持になってきたんです。ベートーヴェンが他人事じゃなくなったんですね。こういった大天才たちが自分のいのちの延長として出て来て、自分のいのちをたたえてくれている、という感じになってきたんです。そしたらもう、うれしくてうれしくて……

  ベートーヴェンが自分のいのちの延長……すばらしい。

  ぼくはね、住吉大神が宇宙浄化をされるというのは、浄化とは秩序だてること、秩序の回復だとおっしゃる、それはどういうふうに秩序づけるかというと、まず、自分のいのちの中に宇宙があると自覚して、自分が自覚的に宇宙にひろがって、宇宙というものを自分のいのちの中に秩序づけるということではないかと思っているんです。

 木間さんは、「祭りの形と心」(本誌七月号)の中で、時間・空間の発する一点、その一点を透過したすみ切りの妙境ということをお書きになっていますね。そこのところに尊師のいのちがあり、そこから尊師のおコトバが発せられて来ているんですね。そこは大調和にすみ切った世界ですね。私はそこを “聖なる今” と言ってもよいと思うんです。そこから 「大調和の神示」 が鳴り出している。その大調和の神示に、“汝が天地一切のものと和解したとき、そこに吾れは顕われる” と書かれていますが、ここに顕斎の道が示されているんですね。


     
神に無条件降伏して


 3月1日の立教記念日の祝賀式での谷口雅春先生のお話に、神に無条件降伏して天地一切のものと和解する、ここに住吉世界をもちきたす極意があると言われました。神に無条件降伏したとき、“もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにあって生くるなり” で、もはや、そこに神が生きていられる、神が顕われているんですね。

 神が顕われるとは、ある限られた、五官とか六感とかの感覚にふれるような限定されたすがたでとらえられるということではなく、実に全相をもってわがいのちと合一するということ。顕斎的にいうと――つまり、神の側からいうと、神がわが姿となって顕われるということですね。“人間神の子” から “神の子人間” への自覚だ。

  「神の子人間」 の自覚から転落して、実相の側に立たないで現象の側から自分を中心に教えを受けとって、「俺は今までこういう功績をあげた」 とかね、あたかも自分が自分の力で光明化したような、とんでもない不遜の気を起すことがある。それで谷口先生は今、「顕斎」 ということを言われるようになったと思うんです。人間が人間を指導したり、育成したりすることはできないと思うんですよ。神様のおはたらきで光明化ということは行われるんですねえ。

 だから、いろいろ奇蹟的なことが起きたりすると、癒された本人よりも、指導にたずさわったこちらの方がありがたくなるんですね。

  「吾がわざは吾が為すにあらず」 ですね。

  そう。それでその時は、ただありがたいという素晴しい感動なんだけれども、しばらくたつと、「あれは俺が指導したんだ」 とか、「自分が救ってやった」 「自分が成績を上げた」 と、そういった意識が残る……。

 本当は、バイブルの言葉じゃないけど、自分の力で身長1センチ伸ばせるわけじゃない。自分がしているわけじゃない、全部神様のおはたらきでしょ。それを、自分が何をしたというような功をほこる意識が残る、そんな未熟な、救いがたい、ニセモノの自分を去って、本来の神の子の姿にかえらしめ給え――と、そこで自分が死ぬわけだ。そういうことでないと、神のみもとへ行けない、ぼくは神想観できないですよ。

 神想観というのはね、吾々が祈るんじゃないんですよ。住吉大神が祈られる。それには、自分を捨て切らないと、祈りが始まらないんですよ。

  神想観というのが、神を想い観るのではなくて、もう一つ、生長の家の大神がここに坐し給うてなし給うのですから、神が想い観るということになるんですね。そうして、非常に強い神の光の放射する中に坐しているというような……それが顕斎ということなんですかねえ。

  それは言葉で言ってしまえば簡単なことですけれども、大変なことで、死に切れるかどうかということによって、祈りに入らせていただけるかどうか、本当の顕斎に入らせていただけるかどうかということがきまる。


     
両刃(もろは)の剣をうちふるえば


  住吉本宮の御神体は 「護国の神剣」 で 「両刃の剣」 になっているわけですが、「両刃の剣」 というのは、相手がまちがっていれば相手も切るけれどこっちがまちがってればこっちも切るんだというところにすばらしい魅力があると思うんですね。ところが、今は 「こっちに切るべきものがあったら切るけれども、今はない」 というような感じになっていないかどうか。

  今年の青年大会のときの谷口雅春先生の最後の御講話で、「神の子無限力の真理」 という題だったと思いますが、「どんなに神想観をしても、たとえば食膳で人の悪口を言ったりしている限り、無眼力は出ません」 ということを言われましたね。私は自分自身をふり返ってみて、ショックを受けたんですがね。

 悪口をいうということは、物質の世界を見ているわけですね。自分自身も物の世界からしか物を言っていない。そこからは、限定された力しか出ないですよね。

「奇蹟の時は今」 の 「今」、感謝合掌礼拝して、物を観て、感じて、行動する。先生は最近、ラジオ放送でもそういうお話ばかりされていますよ。

 頭だけで教えを聞いていることがある、その姿勢が問題だと思います。頭だけで教義を理解してわかった気になっていると、いのちが無くなってしまう。それが、「顕斎」 となると、神の子が神そのものの御姿をあらわす、そういう自覚の生れ変りが行なわれて来るんだと思うんです。「両刃の剣」 ですから、まず自分が正しいすがたをあらわす――そうして、全世界が、神さまのつくりたもうた世界のすがたをあらわして来る……

  「三界は唯心の所現」 と最初にスパッと説かれたときに、全宇宙は自分の心の影なんだという、これはすごい宇宙をひらく言葉だったんです。それが今は、「自分の心も影もあるけど、ほかの国の心の影もある」 というふうに、なにか切れ味がニブくなってきたんじゃないか。つまり、世界を変えるには、自分だけが変ればよいということを忘れているのではないか。

 「自分の心が変れば世界が変る」 これをひっくり返して、「世界を変えるには自分の心を変えるだけでよい」 というところまで徹底することができなくて、いささかニブっていて、そのニブった部分、その誤差の部分に光明化運動論を成立せしめているようなまちがいをおかしていないか……

  うーん、それは痛烈な反省ですね。

  運動が、「実相独在」 の否定から始まってはいないか――両刃の剣で 「切る」 としたら、まずその辺がいちばん先に切られるべきこととして、あるんじゃないか。

 早い話が、神想観して 「光明一元」 と言っちゃったら、光明化運動の意義づけができなくなるというような――それでは、祈ろうとしても本当にすっと祈ることができない。神想観が、おかしな神想観になってしまう。

  こわい、こわい。


     
「神ながら」の運動を展開しよう


  先日私の知合いが、「北方領土返還要求」 ということで、九州の南端から北海道の現地まで日本全国縦断のキャンペーンをやるんだという連絡が来て、もうスタートしちゃったそうだけれども、ぼくは 「ちょっと待て、出発する前に話し合おう」 と言いたかったところです。

 この北方領土の問題は、「それは日本のものだ、返せ」 と言えば、向うはすでに自分のものとして基地を作ったりして、地図にもソ連領として書かれているとなると、「何を言ってるか」 ということになる。そうすると今度は、力づくで取り戻さないと戻って来ないことになる。

 今、こういう状態では、戻る可能性は百パーセントないと言っていいですよ。「戻せ」 というと戻さない。「何を言うか」 とひとひねりされたら、もうしようがない。

 では、どうすればいいか。私は、エトロフ、クナシリや千島の島の神様をお祭りすればいいと思うんです。それは日本書紀に書かれてあるんですよね。島の国魂神
(くにたまのかみ)の顕斎を、本当に心を合わせてやるようになったら必ず返ってきますよ。ソ連の居心地が悪くなって、いられなくなってきますよ。

 それは、一人や二人が祈ったのではだめだけれども、日本人の百人に一人が真剣に祈ったら、簡単に実現すると思うんです。

 ところが、「返せ、戻せ」 と言ったら、現象の次元での衝突になってしまう。それではかえって、「何をいうか」 ということになって、憎まれて、反動が来るだけで、どうしようもないと思うんだね。

  一番確実な方法は何かということですね。

  ぼくは、『生長の家』 誌の 「明窓浄机」 等に谷口雅春先生が九州本山についてお書きになったものを最初から今日にいたるまでの全部をコピーして綴じて持っているんですが、さっきそれを最初からずっと読みかえしてみましたら、先生は実に 「神ながら」 なんですねえ。

 九州本山には百万坪の土地があるわけですが、最初はあまりに広大で、山は雑木
(ぞうき)ばかりで、いろんな構想はあっても、ちょっと手がつけられないでしょう。まあ孫の代のいい遺産になるのでは――というようなことをいう人もいた。

 その時に先生は、「人間の力ではほとんど手のつけようがない。しかし、神なら、これをすみやかに開拓して、本山にふさわしい土地つくり、道つくりもできる」 とおっしゃっているんです。そうして、なさっていることが、あとで振り返ってみると、全然無駄がなく、みんな見事にぴしっとはまっているんですね。それは驚くべきことですよ。

 だから、私思いますのに、元号法制化でも憲法復元でも、神ならそれを実現する方法をちゃんと知っていらっしゃる。いや、憲法復元もすでに御心に成っている世界があるわけです。それを、み心のままに、最もふさわしい時に、最もふさわしいあり方で、それを神の子なる私にお授け下さいと祈る、そういうところから神ながらの働きかけが出てくる。

  そうして、神ながらの運動をして行くには、青年会運動にも先輩からの継承がなくてはいけない。生長の家は 「汝の父母に感謝せよ」 が基本なんですから。

 一つには、今まで青年会運動の中で志半ばにして斃れた同志が全国では相当な数に上っていると思うので、その同志たちの顕彰感謝祭を行なうといいと思うんです。

 そうして、お祭りというのは全員参加、“村は総出の大祭り” で、みんなが一つ心になっておみこしをかつぐというところに大きな意義があるんですから、この顕斎を機会に、過去を捨ててみんな一つになって力を出し合うということが必要だと思う。今がそのチャンスなんです。

 ぼくは、これからおどろくべきすばらしいすがたが顕われてくると思う。



          ○


 これが、「神癒の展開としての人類光明化運動」 でもあると思う。


  (2019.9.17)

526 「生長の家人類光明化運動讃偈」


 榎本恵吾師が 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿にての覚え書き」 として書き遺された 『神癒の展開としての人類光明化運動』 という文章の抜粋、第7弾――


≪ 「大信心は仏性なり。仏性即ち如来なり」 と親鸞は言っているのである。大信心と仏性と如来とはひとつであるということである。ひとつなるものを 「大」 と言い、 「仏」 と言い、 「如(にょ)」 というのである。

 神と生長の家と人類光明化運動とはひとつなのである。ひとつであるということは、 「今」 であり、渾
(すべ)ての渾てであるということなのである。渾ての渾てであるということは自分自身のことであるということでなければならないのである。

 「渾ての渾てである」 というのが他人
(ひと)ごとでは有り得ないのである。渾ての渾てであると言いながら、それは自分のことではない、ということは成り立たないのである。

 「吾れ」 「今」 「ここ」 がひとつであって渾ての渾てであるのが、存在するもののすべての相
(すがた)なのである。

 神とは、實相とは今、ここ、吾れなるものなのである。神、實相は今、渾ての渾てであるから、 「實相を現象に現してこそ値打ちがある」 というのは、實相ではないのである。今、すでに、完成そのものであり、 「そのままでよい」 と言えるものこそが、神であり、實相であるからである。

 もしも、實相を現象に現さなければ値打ちがないのであれば、宇宙的に見れば、地上に戦争もあり、危険もあり、天体の爆発消滅もありであって、神は實相を現象に現していない、ということになって、神そのものも大したものではないということになるのである。

 神と言い、神の子といい、神と言える神そのものがあるのかどうかが、全てなのである。

 「神はあるのか無いのか」

 「神とは何か」

 「神があれば不完全は無く、不完全があれば神は無い」

 ただただ、ひたすら、この問題(テーマ)だけでよいのである。そして生長の家は、

 「神はある」

 という大直観によってはじまっているのである。この 「不完全は無い」 との、神なる、よろこびの、大光明のおのずからなる展開が 「生長の家人類光明化運動」 の相
(すがた)なのである。

 神は絶対者であり、無限者である。それ故、神が自分の内にあるとは、自分は無いということであるのである。

 吾が内にありて、生長の家人類光明化運動は、

 「私は渾ての渾てである」

 と宣
(の)り給うているということは、自分は無いということなのである。

 ただただ見渡すかぎり、神ばかり、光明化運動ばかり、よろこびばかりである。

 自我なきことが光明化運動なのである。

 「神は在
(いま)し給う」

 このいのちのコトバのひろがりがあるばかりである。

          ○

 神は満点そのものであり、天国の持続そのものであり給う。これが實相ということであり、まことの生長ということなのである。

 それ故、生長の家人類光明化運動なるものもまた、満点の卒業として、進んでいるのである。

 神は試行錯誤をされ給うことはなく、ただただ、すべてを満点でクリヤーしつづけ給いつつあるのみなのである。

 神は、やってみた結果、思わしくなかったから、別の道を選ぶというような進み方はされ給わないのである。変化すると言えどもすべて満点で前進の姿があるのみなのである。

 これが生長の家人類光明化運動の中身なのである。

 生長とは自性
(じしょう)を没せずして創造的な久遠の自己展開をしているすがたを言うのである。それ故、明日をまたずして消えゆくものではないのである。

 はじめのはじめに完成があり、「こと終われり」 があり、今もありつづけて、しかも無限の展開、発展そのものなのである。

 感謝すなわち満足と、無限の生長がひとつとなっているのが生命の不可思議、妙々のすがたである。満足し、感謝した人ほど健康であり、繁栄するのである。

 満点の持続が生長ということである。それ故、生長はありつつも、昨日よりも今日の方がより偉大である、というあり方ではないのである。昨日も絶対、今日も絶対、永遠に久遠に、比較を絶して渾
(すべ)ての渾てであるのがいのちのもつ妙々不可思議なすがたなのである。

 それ以外ない渾ての渾てなるものの純粋なる天国の持続なるものにとっては、過去、現在、未来というものはなく、今なるすべてがあるのみなのである。

 神は創造するにあたって、何ものをも用い給わず、ただただ、完成をもって完成し給うのみなのである。

          ○

 「天地
(あめつち)のはじめは今をはじめとする理(ことわり)あり」 と古言は鳴りひびいているが、これは 「天地のはじめは、生長の家人類光明化運動をはじめとする理(ことわり)あり」 ということなのである。万教帰一とは、はじめなるものの鳴りひびきとして鳴っている言葉であり、神そのものなのである。

 ここに書きつらねていることは 「生長の家人類光明化運動讃偈
(さんげ)」 なのである。讃えても讃えても讃え切れるものには非ざれども、書かずにはいられないのである。 「怺(こら)えたり我慢するな」 という言葉を私はここで聴くのである。

 讃偈したくなること即ち、生長の家人類光明化運動それ自体のはたらきなのである。

 天地
(あめつち)の中に生長の家人類光明化運動があって、その天地から讃偈されているのではないのである。天地をあらしめて生長の家人類光明化運動なるものがあるのである。讃偈を讃偈たらしめて生長の家人類光明化運動は在るのである。

 いのちある運動とはこのことなのである。絶対がここに生きて歩んでいる、絶対の運歩
(*後注)としての運動ということである。大宇宙の運行そのものが、生長の家人類光明化運動が運行している姿なのである。
 大宇宙の組織がそのまま、生長の家の組織なのである。

 生長の家の組織とは中心をもつところの渾ての渾てなる組織であり、絶対の組織であり、組み合わせて出来上がる組織ではなく、組織それ自体で組織である在りて在る組織なのである。金波羅華
(こんぱらげ)實相組織ということである。組織紋理整然中心帰一万物調和の相(すがた)が生長の家の組織そのものなのである。≫

 
*<注> 谷口清超著 『正法眼蔵を読む』 の 「山水経の巻」 において、原文 「東山水上行、西山常運歩」 の意義を説かれ、「山も川も渓(たに)も水も空も自在に運歩している自在無碍(むげ)の實相生命を示していて、教化の相(すがた)もこの運歩の相である」 と説かれている。

          ○

 ――前掲の

≪ 大宇宙の組織がそのまま、生長の家の組織なのである。

 生長の家の組織とは中心をもつところの渾ての渾てなる組織であり、絶対の組織であり、組み合わせて出来上がる組織ではなく、組織それ自体で組織である在りて在る組織なのである。金波羅華
(こんぱらげ)實相組織ということである。組織紋理整然中心帰一万物調和の相(すがた)が生長の家の組織そのものなのである。≫

 という生長の家の組織なるものは、外にはない。

 「神の国は汝らの内にあり」 とイエスは言った。

 「『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり」 と生長の家はいうのである。

 わが内なる理念、内部理想の生長の家の組織である。

 それは 「すでにある」 のである。「すでにある」 から、それを自覚するとき、みずから、おのずから外に展開するのである。それが、「神癒の展開としての人類光明化運動」 であると思う。


  (2019.9.10)

525 「天地(あめつち)の初発(はじめ)」 に還ろう !


 日本経済新聞夕刊(毎月曜日~土曜日)に、「プロムナード
(“散歩道”の意)」 というエッセイのコラムがある。6人の書き手が曜日毎に交替で好きなことを書いていて、面白く示唆に富むことを書いていることもあるので、僕はだいたい愛読している。

 9月4日は 「始まりに目を向ける」 と題して、日本文学研究者のロバート・キャンベル氏の執筆。

 「ヒトは往々にしてものごとの始まりより終わりに目を奪われがちである。不幸な出来事ほどそう。……結末から歴史を振り返り現在を思うと同時に、ことの発端に目を向け、『今』 を読み解き続けることの大切さを思い知らされる……」

 とあった。

 内容は――近年その是非が議論される選挙人団という米国特有の大統領選出方法の始まりは、建国当時に奴隷制度の存続を容認する妥協策として生まれたものである。

 今日世界中の会計士が数値データを集計・分析するために使う 「スプレッドシート」(表計算ソフトの形式) の始まりは、奴隷労働を管理する木綿農園で定着した簿記技術に基づくものである――というような話。

 僕は、思った。奴隷制度などは、根元的な 「始まり」 ではない。

 「始まりに目を向ける」 というなら、最古の日本文学書とも言える 『古事記』 の冒頭

 
「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。」

 というところに還るのが、初発
(はじめ)のはじめに還ることだ。

 それは、「万象発現の枢機を握る 『久遠の今』 に還ること」 なのだ。

 それは、旧約聖書 『創世記』 第1章に、

 
「元始(はじめ)に神、天地を創造(つく)りたまえり……神、その造りたるすべての物を視たまいけるに甚だ善かりき」

 とあることに通ずる。

 『生長の家』 誌創刊号の3~4頁には、一般に 「人類光明化運動発進の宣言」 と称されているところの 「生長の家の精神とその事業」 という文章がある。それは、次の通りである――

≪   『生長の家』 出現の精神とその事業

 自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。人類は今危機に頻してゐる。生活苦が色々の形で押し寄せて人類は將に波にさらはれて覆没しやうとしてゐる小舟の如き感はないか。自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れてゐたのだつた。一求道者としていつまでも謙遜でゐたかつた。併し今は謙遜でありたいと云ふことが自分にとつては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。自分は此の誘惑に打ち克つて人類を救はねばならない。自分の有つてゐる限りの火で人類を救はねばならない。自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照さすにはおかないだらう。此の火は天上から天降つた生長の火である。火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を點ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覺悟して起ち上つた。見よ! 自分の身體が燃え盡すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。

 自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。自分は此の火によつて人類が如何にせば幸福になり得るかを示さうとするのだ。如何にせば境遇の桎梏から脱け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば一切の病氣を征服し得るか、また、如何にせば貧困の眞因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか……等々。

 今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のやうに苦しみ踠がきあせつてゐる。あらゆる苦難を癒やす救ひと藥を求めてゐる。しかし彼らは悩みに眼がくらんでゐはしないか。方向を過つてゐはしないか。探しても見出されない方向に救ひを求めてゐはしないか。自分は今彼らの行手を照す火を有つて立つ。……≫


 ――この 「発進宣言」 と言われている文章は、生長の家の根本聖典と言われている 『生命の實相』 には収録されていないのである。

 それは、何故であろうか。

          *

 榎本恵吾師が 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿にての覚え書き」 として書き遺された 『神癒の展開としての人類光明化運動』 という文章の抜粋、第6弾――

          ○

≪  生長の家の根本聖典である 『生命の實相』 には、あの 「人類光明化運動発進の宣言」 が載せられていないのは何故であるか、ということは、まことに厳かな意味で一考を要することではなかろうか。


 ――と、榎本師はまず書かれている。そして

≪  『神癒の展開としての人類光明化運動』 であるということは、その 「運動論」 、その 「運動方針」 を読むだけで神癒がもたらされる、ということを意味しているのでなければならないのである。

  「神癒」 とは如何なるものであるか。 「生命の實相の自性円満
(そのままでえんまんなこと)」 を自覚したときに起こるところの 「よろこばしき何か」 であることを再びここで確認しておきたいのである。

 ここに全宇宙の神癒の現成をすすめる運動である以上、全宇宙的 自性円満性を祝福礼拝出来る運動であることがその出発点でなければ、神の運動、すべてのすべてなるものの運動という訳には行かなくなるのであり、神癒の 「神」 が成り立たないことになるのである。

 尊師は 「既に神はすべてを救い給うたのである」 と言っておられるのであり、神ご自身は 「はじめのはじめから癒やさなければならない世界は創造
(つく)っていないのである」 と世界をあがめ給うているのであり、これが実相なのである。

  「人類光明化運動」 、 「地上天国建設運動」 は 、“私は無いのです” との、みずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものである、その聖なる姿に、相
(あい)まみえなければならないのである。

 ここに 「人類光明化運動」 の、 「地上天国建設運動」 の 「筑紫
(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相世界」 に於ける禊(みそ)ぎ祓(はら)いの姿を視るのである。

 ここに 全宇宙的、全地上的神癒なるもの、神なる癒しそのものである、甦りそのものである運動の姿を先ず認めて出発することが出来るのである。

  『人類光明化運動』 という言葉、 「地上天国建設運動」 という言葉そのものが神であり天国であることを拝むのである。

 神癒は、ここに見よ、彼処
(かしこ)に見よと、外に求めるものではないのである。白分が神癒そのものであり、世界が神癒そのものであり、 「人類光明化運動」 が神癒そのものであり、 「地上天国建設運動」 そのものが神癒そのものであるのである。

 それが生命の實相の自性円満を拝む、生長の家のあらゆる運動の、はじめであり終わりであり、すべてのすべてなのである。

 「光明化運動」 は単なる、實相をこの世に写し出す、影を生み出す運動ではないのである。光明すなわち實在それ自体の自己展開、価値創造として存在するのである。

 實在であることは、神であることであり、それ自体で不滅の久遠の自己展開そのものであるということであり、 「光明化運動」 は久遠不滅の自己展開それ自体である “生きもの” であるということなのである。

 斯くの如き、生長、創造それ自体であるものを光明というのである。 「光明化運動」 がみずから 「光明化運動」 を実現するのである。自分というものはどこにも要らないのである。

 
 「今、起て!!」 とは 「“今” なる汝よ、起て!!」 ということであったのである。この “今” は 「久遠の今」 であり、渾
(すべ)ての渾てなる、はじめのはじめなる今であるが故に、大聖師谷口雅春先生は 「今」 そのものであり給い、その 「今」 なるものに天降った言葉であったのである。

 「今」 はすべてのすべてであるが故に、生長の家人類光明化運動もまた 「今」 そのものであり、 「“今” なる生長の家人類光明化運動よ、起て!!」 ということであったのである。「今」 と大聖師と生長の家人類光明化運動とはひとつであるのである。吾れと今と此処とがひとつである 「久遠の今」 において、大聖師と生長の家人類光明化運動と自分とはひとつなのである。

 無の門関に坐して、時空超脱の目無堅間
(めなしかつま)の小船(おぶね)に乗るとはこのことなのである。……≫

 ――と書かれているのである。

 ⇒ 谷口雅春先生御講義 「久遠の今」

 「人類光明化運動発進の宣言」 と言われている文章が、生長の家の根本聖典と言われている 『生命の實相』 には収録されていないのは、何故であるか。

 それについて榎本師は、次のように書かれている――

≪ この運動は 「今起て!」 という啓示によって起った光明化運動であるが、その天の声は、

 「無いものは無いのだ。知れ! 実相のみがあるのだ!」

 という極まった唯神実相の自覚がそこに現成した、そのところが 「今」 であり、そこに出発が成り立ったのであり、いささかも現象への妥協によってではなかったのであることをはっきりと確認しておかなければならないのである。そのことは唯神実相、実相独在、光明一元であり、救われていないものは一人もいないということであればこそ始まったところの運動であることを意味するのである。

 ひるがえって想えば、「人類光明化運動発進の宣言」 は、現象世界の状況を認めた上での方便的宣言であると言わなければならないのではないか。こちらの方は、世界が不完全であればこそはじまった運動であるというところに方便的要素があると言うことである。これはつまり状況論であると言わなければならないのである。

 一方、『生命の實相』 の方は、たとえ、そのような状況が無くなったとしても、それを超えて、神がこの天地を必要性や状況への対処のために創造され給うたのではなく、神はすべてのすべてであり、完全であればこそ、その完全なる相
(すがた)の自己展開として天地創造が行われ、神は今に至るも創造され、生長されつづけているという、その創造としての、久遠の創造のすがたとしての人類光明化運動であることがそこに顕われているといわなければならないのである。

 それ故、「人類光明化運動発進の宣言」 の方は、苦しみ悲しみがあればこそ起たざるを得なかったという方便的表現であり、『生命の實相』 の方は、うれしいからこそ起たざるを得なかった、ということになっているのである。

 このことは、世紀を超え、状況を超えた運動のあり様
(よう)が謳(うた)われているということなのである。そこに 『生命の實相』 が根本聖典であるゆえんがあると拝察されるのである。ここに尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 に、「発進宣言」 を載せられなかったゆえんの一つがあるのではなかろうか、という想いに至らざるを得ないのである。≫


 と。


  (2019.9.7)

524 「汝らの内、罪なき者まず石を擲(なげう)て」


 榎本恵吾師が 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿にての覚え書き」 として書き遺された 『神癒の展開としての人類光明化運動』 という文章の抜粋、第5弾です――

          ○

≪  姦淫の罪を犯したマグダラのマリアを石にて打ち殺そうとした群衆に向かって、イエス・キリストは

「汝らの内、罪なき者まず石を擲
(なげう)て」

と言い給いて、群衆が一人去り、二人去り、ついに一人も残らなかった。そこでマリアに

 「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」

 とイエスは言い給うたのであった。

 役人たちがイエスを法に背いているとして捕らえようとしていたのである。マリアに対するイエスの見解を示せと迫ったのである。罪はないと言えば法に背いたことになり、罪ありと応えれば、自分の信仰に背いたことになるのである。

 この時イエスは黙して、ただ地面に何かを書いてい給うたということである。
 聖書には何を書き給うていたかはたしか書かれていないと記憶する。

 尊師谷口雅春先生は戯曲 『イエスは十字架に架かり給わず』 の中では、 「大調和、大調和」 とお書きになったと描かれているのである。

 大調和の 「大」 とは、神によってそうあることなのである。人間が自分で作ったものではなく、神の責任において、はじめのはじめから神と偕
(とも)にあるもの、神そのものが 「大」 ということであり、したがって、万人に同時にあるものであり、はじめのはじめから在る以上は永遠に消えることのない相(すがた)が 「大」 ということなのである。

 それ故 「大調和の神示」 は、神によってはじめのはじめから在りつづけている調和の相
(すがた)を祝福した神示なのである。

 それ故聖経 『甘露の法雨』 を開けば、先ずはじめに 「招神歌」 が載せられているのである。即ち 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神
(みおやがみ)」 からはじまるものであり、生くるも、為すもすべて神によってであるところの大人生、大生活というものが示されているのである。そして、その後に 「大調和の神示」 が出て来るのである。生きとし生けるものが生かされていること、もの皆が自分で生きているのではないことが 「大調和」 なのである。

 さて、イエスは 「汝らの内、罪なき者まず石を擲
(なげう)て」 と言い給うた、その 「内」 とは、イエスみずから 「神の国は汝らの内にあり」 と言い給うた 「内」 であり、聖経 『甘露の法雨』 の 「 『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり」 と録(しる)されている 「内」 のことなのである。この 「内」 は生きとし生けるもの、もの皆すべてに拝まれている 「内」 なのである。群衆にもマリアにもある 「内」 なのである。

 「内」 なる神の国には罪はありようがないのである。それ故、この罪なきものばかりがそこに立っていたのであり、そしてその罪なきものが罪を打ったのである。即ち

 「罪は無い」

 と罪を打ち消したのである。そして、罪は無に帰したのである。その結果、罪なき状態が顕れたのである。この時全人類の罪は打たれて無に帰したのである。この時、人類の罪に対する贖
(あがな)いの歴史は終わったのであった。

 「われも汝を罪せじ」

 と言ったのは、神がすべてを罪せじである故に、私もまた罪せじなのである。ただ単に自分のことを考えれば他人のことは言えないというようなものでは、結局は罪はゆるされていないのであり、罪はマリアにも群衆にもありつづけなのである。

 そうではなく、本当に罪なき大調和なる内なるものがあったればこそ、その罪なき姿があらわれたのである。マリアにも群衆にもそれは同じであったのである。


 この事件は、マリアにだけあったのではないのであって、群衆にも罪なき事件であったのである。内なる神性を拝まれ救われたのは、マリアだけではないのである。群衆も救われたのである。マリアは救われたが、群衆は救われない、という片手落ちなことをイエス・キリストは満足され給うであろうか。生きとし生けるものの、救われずみの實相なるもの、大調和なるものがそこに拝まれていたのである。

 現象界は、やったらやり返される世界であり、蒔いた種は刈り取らなければならず、一つの苦しみを与えた罪は一つのその同じ苦しみによって贖
(あがな)わなければ消えない世界である。それは大地を打つ槌がはずれても、この法則からはずれることは出来ないのである。

 しかし、ここにやっていない世界、やっていない自分があるとしたならば、世界は贖いの歴史は要らないのであり、人間は贖いの人生は必要ではなくなるのである。

 そのやっていない世界、やっていない神の子なる人間、實相なる世界、實相なる人間を発見したのが生長の家であり、永遠に、世界から贖いの歴史を終わりにさせたのが生長の家なのである。

 いくら新しい種を蒔こうとしても、既に過去において犯された罪によって汚染されてしまっていて、永遠に新しい、けがれなき、贖いの必要のない種を蒔くことは出来ず、たえず、過去をひきずり、過去にひきずられていた歴史は終わりとなったのである。

 戦争によって民族的な罪を贖おうとするといわれる、その戦争はまことに必要がなくなったのである。

 21世紀は、まことの戦争の終わりの世紀のはじまりとしたいものである。≫


          ○

 上記を読んで、僕は思わず涙した。

 これは、一般の解釈とは全く違う、榎本師独得の、驚くべきすごい解釈である。

 姦淫の罪を犯した女(マグダラのマリアとよく混同される)の話は、ヨハネ伝第8章1~11節に書かれている、よく知られた話である。すなわち――

≪ イエス、オリブ山にゆき給う。夜明ごろ、また宮に入りしに、民みな御許に来りたれば、坐して教え給う。ここに学者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕えられたる女を連れきたり、真中に立ててイエスに言う、『師よ、この女は姦淫のおり、そのまま捕えられたるなり。モーセは律法(おきて)に斯る者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言うか』

 斯く言えるはイエスを試みて訴うる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書きたまう。かれら問いて止まざれば、イエス身を起して

 『なんじらのうち、罪なき者まず石を擲
(なげう)て』

 と言い、また身を屈めて地に物書きたまう。

 彼等これを聞きて良心に責められ、老人
(としより)をはじめ若き者まで一人一人いでゆき、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり。イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言い給う

 『おんなよ、汝を訴える者どもは何処におるぞ、汝を罪する者なきか』

 女いう 『主よ、誰もなし』 イエス言い給う

 われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな』 (「ヨハネ伝」第8章1~11節)≫



 これについての一般的解釈は、たとえば――聖学院大学大学院客員教授の鵜沼裕子氏は、次のように書いておられる――

≪ 私がまだキリスト者となる前の、若い学生の頃で、聖書の知識もほとんどなかった頃のことでした。当時、若者・年配者を問わず広く読まれていた文芸評論家に、亀井勝一郎という人がおりました。どういうきっかけであったか覚えていませんが、あるとき私は、この方の講演を聞きに行きました。亀井氏はキリスト者ではなく、仏教に帰依し、特に親鸞に私淑して、親鸞についての書物も書いておられる方であります。

 ……その時語られたことの中で、ひとつだけ今でも忘れられないことがあります。それは、亀井氏が聖書のこのヨハネ福音書の箇所を取り上げて、「汝らのうち罪なき者まず石をなげうて」というイエスの言葉について、これはまさに宗教の極意であり、宗教の真髄を表した言葉である、まことの宗教者にして初めて語ることの出来る、深い言葉である、と熱く語られたことでした。

 親鸞に傾倒しておられた亀井氏にとって、悪人こそ救いの対象である、と語った親鸞の 『歎異抄』 という書物の教えに通じるものがあったのかもしれません。いずれにせよ、その時の亀井氏の熱のこもった語りが私の心の琴線に触れ、それ以来、「汝らの中罪なき者、まず石を投げうて」 というこの言葉が、何かにつけて心にこだまするようになりました。

 一体、自分自身の考えや行為に絶対の確信をもって、人に石を投げることの出来る人がいるでしょうか。心の中に何のやましいこともない人などいるでしょうか。そして、この体験は、このようなことが語られている聖書というものと真剣に取り組んでみたい、という思いを私に抱かせたのであります。

 聖書のこの話は、全く罪のない者、心の中にやましい所のない者など一人もいない、という人間の現実を暴いたものといえるでしょう。

 小説家三島由紀夫のある作品に、他人の幸福をこの世で何よりも嫌悪し、誹謗や中傷、罵詈雑言やスキャンダルが大好きだという人物が出てきます。そんな人は例外だ、と思うかもしれません。しかし、たとえば人がテレビのワイドショーを喜んで見るのは、暗にそうした欲望を満たしたいからではないでしょうか。……≫


 ――それが常識的、良心的解釈なのである。

 ところが、榎本師は 「実相独在」 なる 「久遠の今」 に立って、「現象なし」 と完全に常識を超えた超常識的解釈をされたのである !!


 鵜沼裕子氏は、次のように詳しく書かれている――

≪ 学者たちが、不倫の現場で捉えられた女性をイエスのもとに連れてきて、イエスに一つの問いを投げかけます。

 「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

 これは大変難しい、しかも危険な質問です。もしもイエスが 「打ち殺してはならぬ」 と答えれば、当時厳しく守られていたモーセの律法に背くことになります。しかし、「打ち殺せ」 と答えれば、「神の赦し」 を説く日頃のイエスの教えと矛盾することになります。つまり学者たちの意図は、イエスを窮地に陥れて、イエスを訴える理由をつくることにあったのです。このイエスの言葉は、そのような抜き差しならない場面で発せられたものであります。

 その時イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」 と答えられました。イエスは、敵対者から突き付けられた難題を見事にかわし、しかも、いわば返す刀で、問う者自身に鋭い問いを投げ返されたのであります。

 私は、学者たちがここで更にイエスを攻め続けずに、憤然と立ち去っていったということにも驚きを感じます。恐らくその理由は、イエスの言葉に、抵抗することの出来ない重み、心に突き刺さるような鋭い力があったからではないでしょうか。その鋭さは、いわゆる 「寸鉄人を刺す」 という、離れ業のような鋭さではありません。心の深みに静かに染み通り、聞く者を自ずと深い内省へといざなっていく力であったと思います。≫


 ――と。

 鵜沼裕子氏は、たいへん謙虚なキリスト者だと思う。しかし、人間は皆、罪のない者はいないということになれば、そのような不完全な人間をつくった神は不完全だったということになり、神を否定することになる。榎本師がいわれるように、

≪……「汝らの内、罪なき者まず石を擲(なげう)て」 と言い給うた、その 「内」 とは、イエスみずから 「神の国は汝らの内にあり」 と言い給うた 「内」 であり、聖経 『甘露の法雨』 の 「 『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり」 と録(しる)されている 「内」 のことなのである。

 「内」 なる神の国には罪はありようがないのである。それ故、この罪なきものばかりがそこに立っていたのであり、そしてその罪なきものが罪を打ったのである。即ち

 「罪は無い」

 と罪を打ち消したのである。

 ただ単に自分のことを考えれば他人のことは言えないというようなものでは、結局は罪はゆるされていないのであり、罪はマリアにも群衆にもありつづけなのである。

 内なる神性を拝まれ救われたのは、マリアだけではなく、群衆も救われたのである。

 マリアは救われたが、群衆は救われない、という片手落ちなことをイエス・キリストは満足され給うであろうか。生きとし生けるものの、救われずみの實相なるもの、大調和なるものがそこに拝まれていたのである。

 神の子なる人間、實相なる世界、實相なる人間を発見したのが生長の家であり、永遠に、世界から贖
(あがな)いの歴史を終わりにさせたのが生長の家なのである。≫


 ――でなければ、真の神の救いとはならない。

 「内」 とは、「久遠の今」 のことである。ここに真の神の救いがある。

 ここに、生長の家が 「人類最後の最高の教え」 であると言われる所以がある。

 合掌


  (2019.9.3)

523 自性円満の自覚のひろまることが、光明化である。


 榎本恵吾師が 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿にての覚え書き」 として書き遺された 『神癒の展開としての人類光明化運動』 という文章の抜粋、第4弾です――

          ○

≪  「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ。只今神癒祈願申し込み中の方々に、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚せしめ給いて、神癒を実現せしめ給え」

 と、自分は神癒を祈る時に唱えることにしている。

 それは 『生命の實相』 第一巻の本論の冒頭に

  「生命の實相の自性円満
(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」

 と書かれているからである。

 あらゆる神の癒しという癒しはすべて、生命の實相の自性円満
(そのままでえんまんなこと)を自覚することによって実現しているのである。

 自性円満の自覚によるのであって、不完全の自覚、罪の自覚によってではないのである。

 神癒の展開として生長の家人類光明化運動がある以上は、生命の自性円満の自覚運動であるのがこの運動なのである。

 「そのままでえんまんなこと」(自性円満)の自覚のひろまることが、光明化運動(自性円満)がひろまることなのである。

 實相の自性円満は 「そのままでえんまんなこと」 において、自ら目覚めて自覚となって展開し、一切の光明化運動の相
(すがた)となって花咲いているのである。

 自性円満の自覚と言えども、その自覚も神が為し給うのである。實相の自性円満とは神であり給うことである故に、人間力の入る余地はいずこにもないのである。

 神自
(みずか)らの目覚めとしての自覚として神癒があり、人類光明化運動がありつづけているのである。その自覚は久遠の昔から在りつづけている久遠の自覚なのである。

 久遠を流るるいのちの自覚こそ久遠の生長の家人類光明化運動なのである。神がおはじめになった運動とはこのことである。神は渾
(すべ)ての渾てにましますが故に、自分の全く要らないのが、神がおはじめになった運動なのである。

 既に完成している實相なるものの運動である時、はじめて、はじめのはじめから自分というものは消えている運動となっているのである。

 自分がいて、自分が支えてやらなければならない、というような運動は、我
(が)の運動であって、神の運動、感謝の運動ではないのである。それはもともと無い運動だったのである。そんな運動であったためしのないのが生長の家人類光明化運動なのである。いのちが久遠に流るる運動なのである。

 生長の家の運動は感謝の運動であるということは、神がすべてのすべてであり給う運動であるということなのである。

 それはまた、神癒の運動であるということにおいて、神が癒しそのものである運動であって、ここにもまた自分の必要はどこにもないのである。

 自分なるものは未だかつて生長の家の運動をしたことは一度もなかったのである。自分そのものが無いからである。

 生長の家の人類光明化運動は、天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時のまま、 「今」 をはじめとする天地(あめつち)のはじめに、神と偕(とも)にあったそのままの相(すがた)で、今ここに輝きつづけ、広がりつづけなのである。

 久遠を流るるいのちの 久遠を流るる人類光明化運動よ。≫



  <つづく>


  (2019.8.30)

522 まことの人間は罪を犯すこと能わず―人間に迷う自由はない !


 榎本恵吾師が 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿にての覚え書き」 として書き遺された 『神癒の展開としての人類光明化運動』 という論文抜粋の第3弾です――

          ○

≪ 神想観において 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 と言ったとき、すでに五官の世界のすべては消えているのである。光明化運動のひろがっている世界もひろがっていない世界もないのである。

 現象を針の先ほどでも認めるということは、 “神はない” ということなのである。神のない光明化運動というものは有り得ないのである。

 神は天地創造を何の必要があってなされたもうたのであろうか。神は必要性のために天地を創造せられたのではないのである。神の前に、神より先に “必要性” というものが存在するとか、神以前に何かがあり、神がそれに従わなければならないということは決してないのである。神はただただ嬉しくて、よろこびで、創造したいから創造せられ給うたのである。

 人間は神の子であって完全であるのに何故迷うのか。

 「それは神が人間に自由を与え給うたからである。神は強制され給うことはない。自由のないところには価値がないからである。迷う自由がありながら、自由性の中に迷わないところに善があるのである」 とも言われる。一応この説明は方便説としては説かれているところではある。

 しかし、それならば聖経 『甘露の法雨』 の中の

 「……罪を犯さんと欲するも罪を犯すこと能わず。」

 ということはどうなるのであるか。

 神の前に、神がしたがわなくてはならないという法則などはないのである。 「自由のあるところにのみ善がある」 というような法則が神より先にあって、神はその法則に従って創造をしなければならないなどということは有り得ないことなのである。神は神のコトバの発し給う通りでよいのである。

 それ故、神は、迷う自由を無くして、しかもそこに善があり、無限のよろこびがあるという相
(すがた)に人間を創造したもうたのが本当の相なのである。

 人間は未だかつて迷ったことはないのである。迷う自由は無いのである。此の世もまた一度も不完全であったことも、暗
(やみ)であったことも、迷いのあったこともないのが真実の相なのである。

 ここに、「不完全であるからこそ救済しなければならない」 という姿は消えてしまったのである。不完全、暗をもとにする光明化運動ではなくなったのである。

 『未だかつて、一度も一人も救ったことはない』 ということが光明化運動の本当のすがたなのである。

 ただただ、光明が光明し、實相が實相し、光明一元だからこそ、實相円満完全であり、迷うもの一人もなく、迷いそのもの、暗そのもの不完全そのものが存在しないからこそ、光明であり、光明化運動があるのである、ということが真実の運動のすがたなのである。

 唯神實相、光明一元であれば、なぜ運動の必要があるのか、ということの説明において、現象というものを針の先ほども持ち込まないで説明し得るか、ということは、21世紀の百年をかけて研究されてもされ尽くすことの出来ない、美しいテーマであろうと想われるのである。≫



  <つづく>


  (2019.8.27)

521 諸行は無常にあらず。諸行は実在にして常恒である!


 榎本恵吾師が 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿にての覚え書き」 として書き遺された 『神癒の展開としての人類光明化運動』 という論文抜粋の第2弾です――

          ○

≪ 誰が言い出したものか、生長の家の説く真理には、縦の真理と横の真理とがあるということを聴く場合が多いのである。

 そして横の真理を説くということは、心の法則、いわゆる三界唯心所現の理を説くことであり、これは現象世界のことなのであるが、現象を認めた上での話である、という。

 これに対して、縦の真理とは現象無しを説き、そして、實相の独在を説くことであるという。

 しかしながら、尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 においてお示しになっていられるのは、多少趣きを異にしている。

 『生命の實相』 第17巻の 「はしがき」 では、横の真理の説明が先にされて、その説明によれば、横の真理とは 「三界は唯心の所現」 即ち 「現象無し」 と悟ることであると説かれ、 「現象無し」 が横の真理であるとされているのである。

 そして、縦の真理とは、人間は久遠不滅の神のいのちそのままである、と悟ること。即ち實相の独在を悟ることが縦の真理である、とされているのである。

 つまり、横の真理は 「現象無し」 であり、縦の真理は 「實相独在」 ということなのであって、現象を多少でも認められた部分は縦横の説き方の中には入っていないということなのである。

 「現象無し」 「實相独在」 で縦横がつくされているということであって、私たちは通常 「現象無し、實相独在」 という順序で受けとっているのであるから、この通常の順序にしたがって、横の真理すなわち 「現象無し」 から先に説明されたものと拝察されるのである。

 「現象無し。實相独在」 で縦横がつくされているということは、これ以外に生長の家は無いということなのである。これこそが生長の家の人類光明化運動が神癒の展開として出発していることの根拠であると拝察させて頂くのである。

 現象無しと現象を超えた時にのみ、神=實相独在があり、そこに自性円満の生命の實相を認めた時にあらわれるメタフィジカル・ヒーリング(神癒)が認められるのであって、現象を何らかの意味において、横の真理として認めたところには、神なく、實相なく、したがって神癒は無く、そこには神なき迷妄の展開があるのみなのである。

 尊師谷口雅春先生のお悟りになった、啓示を受けられたところの最後のところは、 「自分もまた明治26年の11月22日に母の胎内から生まれたのではなかった」 のであり、そして

 「今はじめて悟ったのでもなく、久遠の昔より、そして今このまま久遠の仏そのものであった」

 というよろこびで結ばれているのである。

 これは父母未生以前の自己の発見であったと拝察するのである。

 一切を超えられたお姿がここにあるのである。自分自身をも超えられたのである。

 神は何ものにも依らない、在りて在り給うそのいのちのよろこびをご自分自身に体現せられたのであった。

          ○

 「三正行すなわち、聖典を拝読すること、神想観をすること、そして愛行をすることは尊いことの極みではあるが、それをやってから私は生まれて来たのではない。」

 このことは、いつ如何なる時にも発せられることのゆるされている言葉であり、この言葉を発せられることが、よろこびということなのである。これは因縁を超えたる円相的自由ということなのである。このよろこびを以て進められるのが、いわゆる 「よろこびの光明化運動」 というものなのである。宇宙いっぱいの自由、神なる自由ということなのである。

 「常に神なら如何にあり給うかを想え」 ということこそ、よろこびのもとなのである。それは決して、神のなし給うことを参考にして生きよ、ということではないのである。何故ならば、神は何ものにも依り給わない存在であり給うからである。それ故、神なら如何にあり給うか、とは何ものも参考として依ることの要らない姿として今ここにあれ、ということなのである。

 「吾れ神の内にあり、神吾れの内にあり」 である。神に祈ると言えども、神吾れの内にありである。この上に立っての 「御祖神
(みおやがみ)」 である。

 「實相を成就せしめ給え」 との祈りは、實相が成り就
(な)りひびくことであり、純粋なる實相なるもの、完成なるものの持続を、實相なる神の子が宣(の)りごとしているのである。

 ここには實相は現象に現れなければ何にもならぬ、もしくは、實相は現象に顕れはするが、しかし現象に顕れなければ値打ちがないというような、現象に価値づけして貰わなければならないというものでは決してないのである。

 もしそのようなものであれば、神もまた全宇宙的に實相を完全には顕してはおられないのであるから、神もまた完全全能ではないということになるのである。

 人生の目的は、「實相を現象に投影し出すこと」 というような、影の創造ではないのであって、實相の成就すなわち、實在が實在し、實相が實相するのであって、尊師谷口雅春先生がお示し下さった 「愛行はむなしからず」 とは、影のための人生ではないことをお示し下さっているのである。

 そのとき、諸行は無常ではないのである。諸行は實在にして常恒なのである。

          ○

 「与える生活を生きよ」 とは、求めることの要らない存在である相
(すがた)を祝福した言葉なのである。それは、既に、内に、すべてが満足、自足している存在、即ち神と同じ相である、實在の實相の自性円満を祝福した言葉なのである。

 神は求め給わない。神は外という因縁を、自分が自分である原因なるものを求める必要のない、みずから在りて在るご存在にましますのである。

 求める必要のない存在でなければ、与えるということは成り立たないのである。

 宗教に求める必要なく、行に求める必要なく、人に求める必要なく、心に求める必要なく、一切の外界、一切の現象無しと斬ったそこに輝く、内なるものの展開あるのみの生活、即ち 「与える」 生活がここにあるのである。


 「光りは東方より」 ということは、 「光りは当方より」 ということである。

 全存在の発するところは吾が内にましますのである。自分は無いのである。当方のみが渾
(すべ)ての渾てなのである。すべては内より出でて内に還るのである。

 時間も空間も、したがって21世紀も 22世紀も、「当方より」 ということなのである。いのちなるものは、21世紀という時間の流れの枠組みの中に規制されて生くるのではないのである。

 また、組織という空間的枠組みの中に部分として組み込まれているのでもないのである。時間空間と心とを組み合わせ、それを織りなしている創造的主体者として生かされているのである。組織人とは当方より組織を発しているいのちのことなのである。

 神癒の社・入龍宮幽斎殿に於ける神想観の中で、

 「われ今、此処、龍宮界の龍宮城に坐して住吉大神より龍宮無量寿のいのちにて全身全霊浄めらる……」

 と念ずる。この 「全身」 とは 「全ての全てなる身」 ということであり、 「全霊」 とは 「全ての全てなる霊身」 ということである。吾れ今此処ということにおいて、自己のいのちが 「全身」 であり、 「全霊」 である。住吉大神の祝福によりその本来の相に還ることが、“浄めらる” ということなのである。それが 「わが全身如意宝珠なり」 という言葉となって行くのである。

 即ち、全存在なる 「当方」 に帰ることが 「全身全霊浄めらる」 ということなのである。宇宙の中の部分である自分一人が浄めらるということは有り得ないことである。

 全宇宙と一つでないことが浄まっていないことであり、現象界の妄想即ち汚れなのである。

 一つなるもの、全ての全てなるものに還っていることのほかには浄まっている相
(すがた)はないのである。全宇宙と偕(とも)に一つとなって浄まっていると言ってもよいかも知れない。一つが一つすることが浄まっていることなのである。

 「吾ら現象界の妄想悉く浄められて本来の如意自在の實相顕わる、わが全身如意宝珠なり、一切の宝、吾が掌中にあり……」

 と唱えるのである。 「本来の如意自在の實相」 とは、渾ての渾てであることに他ならず、 「わが全身如意宝珠なり」 とは全ての全てなる身即ち如意宝珠即ち全宇宙にほかならず、 「一切の宝、吾が掌中にあり」 とは全ての全てにほかならず、吾れそのものがそれであることが浄まっている相
(すがた)、本来の相なのである。それが荘厳の極みなる自己の自己なるものであり、内そのものであり、当方そのものなのである。

 吾が内の展開としての天地であり、組織であるのである。内が神であり、神が内である。 「神よ」 と呼ぶ時、それはすべてであるのである。神に祈りの成就を求める必要はないのである。渾
(すべ)ての渾てであり、神は成就そのものであり給うのである。世界の平和を祈る時、 「神」 と言った時、成就そのものを呼んでいるのである。神が為し給うとは、成就そのものが為し給うているのである。

 「神よ、21世紀を御心のままに」 と祈る時、御心は成就そのものなのである。祈りそのもの、願いそのものが、内なる神、内なる渾ての渾て、内なる成就そのもの、成就が展開して祈りとなっているのである。すべてが当方であり、当方が渾ての渾てなのである。これが如
(にょ)であり、如意自在であり、今であり、天国浄土そのものなのである。願いとその成就が分裂していないのである。それが實在の實相なのである。ただただこのことの成り就りひびきがあるのみなのである。≫


  <つづく>


  (2019.8.24)

520 「実相」は、自覚する必要のないものである。


 榎本恵吾 本部講師(故人)は、谷口雅春先生の発見された(覚られた)生長の家生命の実相哲学に、最も深く透徹された天才的宗教家であったと思う。

 榎本恵吾師が 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿にての覚え書き」 として書き遺された 『神癒の展開としての人類光明化運動』 という論文がある。

 53字×19行×1000頁、すなわち約100万字にもなる膨大な量の論文である。

 これは榎本師が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていた平成10年から11年(1998.7.1~1999.11.29)に、毎日 「入龍宮幽斎殿」 で神想観・神癒祈願をされたあと、深い祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってよいものだと思う。平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれている。

 榎本師は、これを当時本部に設けられていた 「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」 宛に送っておられたという。

 その控えのプリントを、僕は頂いて持っている。このたび、本サイトの 「ひろば」 の頁に掲載させて頂いた 「元宇治研修生」 氏のメールに触発され、あらためてそれを読み返して、ここにご紹介させていただく――。

          ○

≪ 『生命の實相』 第一巻 本論の冒頭には、高らかに、

   生命の實相の自性円満
(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。

 とうたい上げられているのである。

 ……

 實相は完全であり、神であり、すべてのすべてであるから、實相とはなれたところで、それを観じたり、自覚したり、しなかったりというようなはなれたもののはたらきは要らないのである。

 實相は観じられなければ、自覚されなければ無い、というようなものではなく、観る観ない、自覚するしないを超えてみずから在りて在るところのものなのである。

 實相は観る必要のないもの、自覚する必要のないもの、知る必要のないもの、みずから存在するものである。

 そのようなものとしてよろこぶことが、そしてそれが自分そのものであって、はなれていない、従って今ここに既にはじめのはじめから “それでよい” ところのものとして、よろこぶことが、尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 の中でお示し下さっている、「観ること」 であり、「自覚すること」 なのである。

 自覚するとは、自
(みずか)ら覚めるという意味を表現した言葉なのである。


 これぞ龍宮住吉本宮 出龍宮顕斎殿の建立が象徴しているものなのである。その建立の主旨として、

 「最早や人間の力では及ばない、神に直接お出まし願う」

 と、尊師谷口雅春先生のお言葉にある。即ち、「神=實相には、直接自分で顕現する力が備わっている」 と観じられているのである。

 人間の側の心によって――いわゆる自覚や観ずることによって、實相を引き出し顕し出すということによって――ではなく、實相には自分で顕現し、展開する力が備わっているのである。

 天照大御神は、天之岩戸
(あまのいわと)を外の力によって開かれるのではない。外に居る神々も、岩戸も、高天原も、すべては天照大御神が生み給い、生かし給うているのであるから、天之岩戸の内も外もすべては天照大御神そのものなのである。だから天照大御神はご自分の力で出でまされたのである。渾(すべ)ての渾てであり給う天照大御神は一度も隠れ給わず、露(ろ)堂々として全宇宙となり輝き出でましつづけていられるのである。

 そのことを認めることが、あるべきものがあるべき姿にあること、浄まっていることなのである。

 かくのごとく観じ、はじめから 「天照大神出でましぬ」 となっていることを観じる時代(世紀)を迎えていることを象徴しているのが、出龍宮顕斎殿の建立なのである――と拝察申し上げる。≫



  <つづく>


  (2019.8.22)

519 人間は皆、船長である


 「生長の家」 という現象界の船は、すでに沈没しかかっているのではないか

 ――というその船の 「船長」 とは、生長の家総裁という他人のことではない。

 人間は皆、「運命」 という船の船長なのである。

 それが、「天上天下唯我独尊」 ということであり、「人間はみな神の独り子だ」 ということである。

 私が船長であり、あなたが船長であるのである。

 時あたかも 「生長の家」 という船が、現象界においては、大きく二つに割れて、沈没しかかっていると見えているのである。

 それは誰の責任でもない、私の責任であり、あなたの責任であるのである。

 しかし、「現象はない」 のである。悪はないのである。不完全はないのである。


 「 “本当の教祖” というべき “真理の啓示者” は “実相世界” にある “神” のみなのである。イエス・キリストも 『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』 といっているし、谷口雅春も、“自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある” といっているのである。」

 と 『神 真理を告げ給う』 (p.13) に書かれている実相の生長の家に、分裂はないのである。悪は無いのである。敵はないのである。

  
「神はすべてにして、
   すべて一体
(ひとつ)なれば、
   よろずもの皆共通
(ひとつ)
   ちから是を生かせり。

   天地
(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
   唯一つの神にませば、
   天地はただ一つに、
   いと妙に調和満つる。

   吾れ坐す妙々実相世界
   吾身は金剛実相神の子
   よろず円満大調和
   光明遍照実相世界。」


 と 「実相を観ずる歌」 にある通りなのである。

 その実相、本当のすがたを、現実世界に顕わすのが、神の子人間の使命なのである。


 分裂して沈没しかかった船、そしてその乗員すべてを、救うことができるのは、何者であるか?

 それは、
岡正章という何の実力も実績も無く、ただ馬齢を重ね、犬の遠吠えのように偉そうなことをネット上に書いているだけの愚かな狂人に、できるわけがない。


 ――人間には、不可能なことである。

 分裂して沈没しかかった船、そしてその乗員すべてを、救うことができるのは、人間ではない。それが出来るのは、ただ神のみである。


 諦めましょう。ギブアップ、GIVE UP しましょう。無駄な抵抗はやめて、神に、無条件降伏しましょう。 そして、笑いましょう! 喜びましょう!


  (2019.8.15)

518 (50年戦争)


  (2019.8.13)

 ――この項は、道から外れていたと思いますので、削除します。


517 後世に伝えたいこと(3)


 生長の家 「七つの燈台の点燈者の神示」 のひとつに、「万教包容の神示」 というのがある。

 「万教包容の神示」 に、次のように示されている。

≪ キリスト教では聖地エルサレムが世界の中心であると言い、大本教では丹波の綾部が世界の中心であると言い、天理教では大和の丹波市が世界の中心であると言い、天行居では周防の岩城山が世界の中心であると言う。世界の中心争いも久しいものである。併しわれは言う、それらは悉く皆世界の中心であると。

 一定の場所が世界の中心だと思っているものは憐れなるかな。生命の実相の教えが最も鮮かに顕れたところが形の世界の中心であるのである。そこは最も世を照らす光が多いからである。

 キリスト教でもイエスの教えがエルサレムに最もよく輝いていた時代はエルサレムが世界の中心であったのである。天理教でも教えの光が最もよく輝いていた時代は大和の丹波市が世界の中心であったし、大本教でも教えの光が最もよく輝いていた時代は丹波の綾部が中心であったのである。

 わが行きてとどまるところは悉く世界の中心であるのである。
 誰にてもあれ生命の実相を此世に最も多く輝かせた処に吾は行きてとどまり其処が世界の中心となるのである。

 …(中略)…

 古神道ひとすじで行く、基督教ひとすじで行く、阿弥陀ひとすじで行くと言うような人があり、そのひとすじの所に誠があらわれていて喜ばしいが、大抵は自教の外に他教を認め、他と混りたくない意味で言うのであるから、自分で自分の崇める神なり仏なりを小さくしているのが気の毒である。

 本当の神は一つであり、他の神と対立するような小さな存在ではない。

 本当の古神道は自余の一切の教を包括するものであり、本当の基督教は自余の一切の教えを包括するものであり、本当の仏教は自余の一切の教えを包括するものである。そして如何なる教にてもあれ一切の教えを包括する本当の実相に到達したとき 『生長の家
(たかあまはら)』 と言うのである。それは天爾の 『家』 であり 『巣』 であり 『統(す)』 であって教(おしえ)ではない。その家の中にあって色々の教が生きるのである。

 本当の古神道は 『生長の家』 の内にあり、本当の基督教は 『生長の家』 の内にあり、本当の仏教は 『生長の家』 の内にあり、生命の実相の顕現する所、説かるる所、読まるる所、その悉くが世界の中心である。
(昭和七年七月七日朝神示)

          


 生命の実相は、「久遠の今」 すなわち時間・空間そこより発した本源世界、生長の家にある。「久遠の今」 すなわち生長の家から万教は出たのであり、生長の家の外にあるものなしである。そのことを、「本当の神は一つであり、他の神と対立するような小さな存在ではない」 と、神示には示されている。

 この神示をわかりやすく解説されたようなご文章が、『生命の實相』 第12巻第4章に、次のように書かれてあった。

≪ もし、この 「生長の家」 が何々教というように、ほかの宗教に対して対立的になっている一つの宗教でありますならば、このように他のいっさいの宗教を包容して、そのすべてを生かしてゆくことができないのです。

 「生長の家」 がこのようにいっさいの宗教を包容してその神髄を生かしてゆくことができるのはなぜであるかと申しますと、「生長の家」 はいっさいの 「生命」 がそこから発生し、そこから生長し出た 「家」 であるからであります。

 「家」 というのは 「生」 が 「寄」 る、すなわちいっさいの生命がそこに寄り集まる所をいうのであります。この 「家」 のことをまた 「巣」 と申すのでありまして、小鳥の巣、獣の巣、虫の巣などいろいろありますが、すべて 「巣」 というものは 「生命」 が集まって来て、そこで 「生命」 が窮屈な社会的仮面を脱いで、本来の伸び伸びした面目を発揮する所なのであります。

 「家」 すなわち 「巣」 というものは、蜘蛛の巣を見ましても一つの中心に集まっている。スベテが一つの中心に統一されている――このスベテの 「ス」 、統一するという意味の 「統べる」 という言葉の 「ス」、スベテが統一されて、スキ通り、スミきって、少しも乱れがないいっさいを包容するという意味での 「澄」 「透」 などの意味が 「生長の家」 の語にはあるのであります。すなわちわれわれの教えは無色透明の 「家」 であるからこそ、すべての宗教の方々に喜ばれるのであります。



 この 「生長の家」 というのは、そのように中心の無色透明の真理の家でありまして、「生」 すなわち 「縦」 に無限に生びること――すなわち無始無終無限の時間と、「長」 すなわち 「横」 に無限に長びること――すなわち無始無終無限の空間とを、一つの中心より放射状に発生せしめて一切万象発現の枢機を握り、一切万象そこより発し、そこに帰る中心を握っている巣(統、主)であるから、「生長の家」 といったのであります。

 このように 「生長の家」 といいますのは、一切万象をそのうちに統べ包んでいる宇宙をいうのでありますから、いっさいの宗教が 「生長の家」 に包容されるのは当然のこと、いっさいの事物の創造原理さえも 「生長の家」 に包容されねばならないのであります。

 宇宙のありとあらゆるものは、最初に中心があって、そこから 「縦」 と 「横」、時間と空間とがあらわれまして、その時間空間が交叉せる家、すなわち 「生長の家」 の内に在るのでありまして、…(中略)…「生長の家」 とは縦横無限の宇宙、無始無終の時間空間の交叉せる家、陰陽二つの原理の交叉せる宇宙なのであります。縦は火の燃える相
(かたち)であり、横は水の流るる相であります。この陽と陰との交叉せる世界がこの大宇宙なのであります。≫

          ○

 ――それが、「生長の家」 なのであった。

 それなのに、もともと一つの生長の家から出た同志すらも、不倶戴天の敵であるかのように排斥する教えなどは、とても 「生長の家」 だと言うことはできない。

 それは、生長の家の教規にも違反することではないか。教団の教規は、国家の憲法にあたるものであって、内閣総理大臣といえども憲法を守らなければならないと同様に、総裁といえども教規は守らなければならない根本規定だと思う。

 その生長の家教規の第2条に、「この宗教の設立の目的は次の通りである。」 として、次のように記されている。

 
「(1)谷口雅春創始の、生長の家の教義に基き、その主著 『生命の實相』 を鍵として、万教共通の宗教真理を開示し、これを宣布することによって、人類光明化につくすこと。」

 と記されているのである。

 その意味するところは、#515#514 に録したとおりだと信ずる。

 だから僕は、この教団に居続けている。

 生長の家は神が始められた神の運動であると信じているからである。

 神の運動は、神意が中心でなければならない。総裁の恣意
(しい)を中心にした運動に、信徒は盲目的に従わなければならないというのでは、カルトになってしまう。

 谷口雅春先生は御著書 『親鸞の本心』 の 「はしがき」 に

≪ 所詮、宗教と云うものは宗祖の教えを受取る人々の心的力量によって、深くもとれれば浅くもとれるものであって、たとえば西本願寺の勧学寮がその教権によって、親鸞の教えはかく解すべきものである、それ以外は異安心であると封建的に断定を下すべき筋合のものではないのである。

 本当に人間が救われるか、救われないかと云うような問題は 「誰が何といったから、それがたといだまされていても救われる」 というように他の人の解釈にまかせて置くべき問題ではないのである。「魂の救われ」 の問題は人々各自が真剣に取組んで考えて見なければならぬ生命を賭けての問題である筈である。≫


 と書かれている。大切なことである。

          


 生長の家が ≪人類を究極の平和、「神の国」 即 「仏国土」 を地上に実現する基となる哲学・宗教である≫ と僕が思うのは、それが 「現象は、ない」 「神は、悪を創らないから悪は存在しない」 という唯神実相哲学であって、対立抗争を超えているからである。

 そこにこそ、生長の家の真骨頂があり、これを外せば、生長の家も単なる一宗一派になりさがり、カルトの一つとなってしまう。そんなものを後世に遺しても何の価値もない。

 3代目谷口雅宣総裁は、「谷口雅春先生も、間違われることもある」 といい、「『生命の實相』 はもう古い」 とか、聖経 『甘露の法雨』 は不完全だから自分がこれを補強する」 と言って、人間知、頭脳知で、「現象なし、唯神実相」 の真理を覆いくらますような詩を作った。そして 「これは聖経に取って代わるものではない」 と言いながら、結局は聖経の形にして信徒に読ませるという暴挙に出た。

 雅宣総裁は、「悪はない」 という絶対善の唯神実相から出発せず、「悪がある、不完全がある」 という 「現象」 から出発して、現象改変を目的とした運動をしている。それは 「メタフィジカル・ヒーリング」 による神の運動ではなく、人間の頭脳知による運動に引きずり下ろしてしまったのである。

 『生命の實相』 の著作権を谷口雅春先生から譲渡されていた公益財団法人生長の家社会事業団は、長年にわたって 『生命の實相』 のリニューアル版発行を提言してきたが、総裁の意向によりそれが容れられなかったので、日本教文社に与えていた独占出版権を引き揚げて光明思想社という別の出版社から出版させることにした。

 その経緯はいろいろあるにしても、配下の日本教文社が 『生命の實相』 (聖経を含む) の出版権を失った根本原因は、総裁が 『生命の實相』 を軽んじたことにあるのではないか。

 にも拘わらず、社会事業団を悪者に仕立て、裁判沙汰にして法廷闘争に持ち込み、誰も得をしない泥沼の10年戦争を続けている。

 「万教包容」 どころではない、身近な同志すらも包容することができず、排除敵対抗争をつづけていて、何処に 「大調和」 を掲げる生長の家があるのか。

 その結果、救済力を失った生長の家教団は衰退の一途を辿っている。


 出発点が、間違っていたのである。

 神から出発せず、現象から出発していた。

 神は、愛である。愛は、神である。

 愛と赦しから出発し直さなければ、もはや生長の家はないのである。


 「日本の実相顕現の神示」 に

≪ 敗戦の原因は多々あれども戦争を始めたから敗けたのである。……排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、切る心は切られる心と教えてある通りに自分が切られる事になったのである。

 切る心は三日月
(みかづき)の心であり、利鎌(とがま)のように気が細く、角だっていて、空にあらわれている時間も少く、その光も弱く、直(じき)に地平線下に沈んでしまう心である。≫

 とあるが、生長の家教団が今、沈みつつあるような現象を呈しているのは、上記の神示にある通り、「排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、切る心は切られる心と教えてある通りに自分が切られる事になったのである。」

 これは、まことに悲しいことであると言わざるを得ない。しかし、

≪ 心の通りに日本の国が沈んでしまっても、それは日本人の心みずからの反映であるから、徒(いたずら)に失望、落胆、放心してしまってはならない。

 『見よ、われすべてのものを新たにするなり』 と教えてある。現象の三日月は沈んでも実相の円満玲瓏
(れいろう)一円相の満月は依然として虚空に輝いている。それと同じく、心狭く尖りたる排他的な軍国主義の似非日本の国は沈んでしまっても、実相円満の日章旗のようにまんまるい日本の国は無くなってはいないのである。

 有るもの、有りしものは永遠に滅びることなく、必ずそれは日本人全体の心が円満になり、実相の波動に日本人全体の心の波動がぴったり合うようになれば、現象界にもその不滅円相のすがたをあらわすのである。

 汝等
(なんじら)嘆くことはない、滅びしものは本来無きもののみが滅びたのである。無きものは滅びるほかはない。軍国日本の如きは本来無き国であるから滅びたのである。神洲日本は不滅であり、永遠に滅びることはない。≫

 と、神は仰せられているのである。

 上の神示にある 「軍国日本」 にも比せられる似而非
(えせ)生長の家教団が滅びても、天界にある生長の家本部は滅びることはない。

 「万教包容の神示」 にあるように、生長の家信徒は、「久遠の今」 なる生命の実相に立ち、「今・此処 世界の中心なり」 の自覚に立とう。

 そして、「入龍宮不可思議境涯の祈り」 にある

≪ ああ悦びに満たされたるこの朝よ、わが愛する者は、すべて悦びに満たされ、神を讃う。神は讃うべきかな。われらの悦びの源、われらの幸いの泉。

 神の恵みきたるとき、一切の争いは止み、すべての戦いは停止し、いにし時の敵と味方とは、手を挙げて平和を喚
(よ)び交(かわ)し、兄弟の如く睦び合い、愛情の祝盃を交して、神の平和を称(ほ)め讃う。将兵たちみな剣(つるぎ)を収め、銃を棄てて、愛をもて娘たちが織りし美しき衣をまとう。すべての人々の頭(かしら)に “平和の冠” あり、黄金の七つの星をもてその冠を飾り、荘厳なること限りなし。……≫

 の状態がすでにあることを心に描き、その実現のために、日々よろこんで一層の自己研鑽に励もう。

 生長の家創始者谷口雅春先生の教えに直接触れることのできた僕は、もはや肉体は老骨となったが、その最高の真理を後世に伝えるべき使命、責任があると思っている。


 (2019.8.11)
516 後世に伝えたいこと(2)


 「生長の家」 生命の実相哲学は、人類が究極の平和を実現する正しい方途を発見した、人類の歴史上特記すべき至大の宝である。

 これは、アインシュタインが発見した相対性原理などよりも段違いに大きな宝である。

 相対性原理は、原爆を生み出す基となった。

 谷口雅春先生が発見された生長の家・生命の実相哲学は、人類を究極の平和、「神の国」 即 「仏国土」 を地上に実現する基となる哲学・宗教である。

 僕は、この生長の家・生命の実相哲学こそ、正しく後世に遺すべき最高の宝だと信じている。

          


 しかしながら、三代目総裁谷口雅宣氏が生長の家教団を実効支配して20年を超え30年に近くなったいま、現在の教団はほぼ完全にその本来の光を失った状態になっている(と見える)。

 谷口雅宣氏は、五官の感覚で認識できる現象世界をそのまま 「あり」 とする一般常識から抜け出せない、魂的に幼稚な “宗教オンチ” ではないかと、僕は思う。 そして、米国コロンビア大学で政治学、国際関係論などを真面目に勉強した “西洋かぶれ” でもあるようだ。

 で、雅宣氏は生長の家創始者で祖父でもある谷口雅春先生の発見された(開悟された) 「現象なし・唯神実相」 の根本真理の偉大さがわからず、人間の頭脳知で神智を覆いくらましてしまった。

 現象は儚く移りゆき消え行くもので、本来ない。現象は神の創造された完全なすがたが段階を追って顕現しつつある過程で光と影とが交錯していて、不足を見れば不足はあり、闇を見れば闇はあるかのごとく見える。雅宣総裁は、生長の家の運動においても、闇の面を見てこれを攻撃し破壊する闘いを使命と感じてやってこられたように思える。


 その中でも、突出して長い闘いになったのは、雅宣氏と、安東巌氏 (および安東氏に一目置いて <尊敬の念をもって> その志に糾合して行こうとしている人たち) との闘いであろう。

 僕は昭和50年~同54年(1975~79)、森田征史・安東巌両氏主導の 「『理想世界』 百万運動」 ピーク時に、その青年局にいて 『理想世界』 誌の編集長を務めた者であり、またその前には日本教文社で谷口雅宣氏と机を並べて仕事をしたこともある。それで雅宣氏・安東氏の半世紀になんなんとする長い闘争の歴史を、実体験をもってかなりよく知っている。

 僕が日本教文社において谷口雅宣氏と席を並べていた(僕の方が先輩)であったとき、すでに雅宣氏は青年会の 『理想世界』 百万運動に鋭く厳しい批判の声を上げていた。僕は日本教文社に勤務しながら夜と休日は青年会活動をし、光明実践委員会議長を務めていたが、雅宣氏は 「岡さんは今の法外に激しい青年会運動がそのままでいいと思ってるんですか」 と詰め寄られ、たじたじとなることもあった。

 その背景には、その前雅宣氏が青山学院大学の学生時代に生学連活動をしようとして左翼の学生達から “つるし上げ” のような目に遭うとか、苦難の体験があったのかも知れない(僕の直接知るところではないが)。

 上のような出会いがあってから、僕は谷口雅春先生に直訴のお手紙を書いて、『理想世界』 の編集をするため本部青年局に移る。『理想世界』 誌を、 “浄円月の雰囲気” を発して読者をつつみ、「読まれる雑誌」 「魂が救われる神誌」 にするという祈りをこめて。

 <神の無限の愛、この小誌に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
  『理想世界』 誌に浄円月の雰囲気漂う。
  その雰囲気はやわらかく、やわらかく……暖かく、暖かく……
  浄く、浄く……うるわし、うるわし……。
  すべての読者に平和・平和・平和……をあたえ
  すべての人びとの罪を赦し……
  すべての人びとを愛するのである……>
 と。

          


  安東巌氏著 『わが思い ひたぶるに』 という冊子がある(昭和55年8月15日 生長の家青年会中央部発行、本文290頁)。『理想世界』 百万運動の司令塔として事務局長をしていたころの心情、志、噴出する思いを、「青年会中央事務局報」 や 『理想世界』 誌などに吐露した文章を、編集してまとめられたものである。

 これを読めば、その頃の安東氏の、そして 『理想世界』 百万運動の原動力となった情念、思想がいかに強力なものであったか、魂にビンビン響いてきて、よくわかる。

 安東氏は、青春時代に重い心臓病を患い、高校2年から9年間寝たきりで家から出ることがなかった。それが生長の家に触れ 『生命の實相』 を読んで起ち上がり完全健康になって27歳で長崎大学に入る。そして――谷口雅春先生の講習会で、体験談を発表する。以下、安東氏の 『わが思い ひたぶるに』 より――

≪……私は長崎大学の生学連の仲間とともに学園の正常化運動に挺身しておりましたが、そのことが谷口雅春先生のお目にとまりまして、御講習会の際に長崎の公会堂で御報告する栄に浴したのです。

 実をいいますと私は、その時学生運動のことよりも、たった一つだけ谷口雅春先生に聴いて頂きたいことがあったのです。それは 「数年前、病床に呻吟していたあの私が、生長の家の御教えの導きによって、今は祖国再建運動に起ち上がるような人間になりました。有難うございます」 という一言でした。

 でも、尊師の御前に立って合掌したとたんに、何も言えなくなってしまったのです。万感胸に迫ると申しますか、涙があとからあとからあふれて、泣いてばかりおりました。そうしましたら尊師はつかつかと歩み寄られて、しっかりと握手して下さり、「がんばって下さい」 とおっしゃられたのです。≫


          


 安東氏は、長崎大学で左翼学生たちに封鎖された学生会館を解放するなどの 「学園正常化」 を訴えて自治会委員長に立候補し一般学生の支持を得て当選、国立大学としては全国で初めての民族派による自治会掌握を勝ち取った。これが民族派学生運動の広がりに弾みをつけた。その実行力、強力なリーダーシップはすごい。

 安東氏は長崎大学卒業後昭和45年に生長の家本部に奉職し青年局に入り、森田征史氏が中央執行委員長→青年会長、安東氏がこれを支える女房役の事務局長→副会長となって、『理想世界』 誌百万運動にエンジン全開で飛翔しようとしていた。

 僕が 『理想世界』 誌編集のため日本教文社から本部青年局に移ったのは、昭和50年5月、百万運動たけなわの青年会全国大会の時からである。

 それは、森田征史・安東巌両氏の語る “『理想世界』 百万運動のロマン” に惹かれたからというよりは、その余りの激しさに危険を感じ、救いの手を差し延べる必要、使命を感じて飛び込んだのであった。だから上記のように 「浄円月観」 の祈りをしながら編集をしたのである。

 で、森田・安東両氏の意に添わない記事を書いたり採り上げて編集もした。そのときには、安東氏から殺されそうな雰囲気を感じたこともある。僕は、安東氏のひたむきな変わらぬ志と行動力には敬意を払うが、基本的に波長の合わないものも感じて、その当時、「この人とどこまでも行動を共にしよう」 という気にはならなかった。

 だから僕は、『理想世界』 百万運動時の 「祖国再建」 の志を継ぐ 「日本会議」 「谷口雅春先生を学ぶ会」 などには、一度も、一歩も足を踏み入れたことはなく、その機関紙等を購読したこともない (頂いて読んだことは屢々ある)。

 しかし、2016年5月に菅野完
(すがの・たもつ)著 『日本会議の研究』 というのが扶桑社から発行されたのを読み、あらためて安東巌氏著 『わが思い ひたぶるに』 を読み返してみると、ここには魂の輝きとひたむきな恋闕愛国の思い、きびしくも不退転の決意が貫かれていて、感銘を覚えるものがあった。

 そして、それから40年以上を経た今なお、当時の志を風化させることなく堅持しながら、並々ならぬ努力を続けている同志がいるということも直感的にわかり、そこには超人的な力が働いていることも感じられた。

          


 菅野完著 『日本会議の研究』 は、その帯に “「一群の人々」 によって日本の民主主義は殺されるだろう” とあるように、日本会議を民主主義に反する危険な団体として貶める書き方をしており、そして安東巌氏はその日本会議や政策研究会・谷口雅春先生を学ぶ会等を陰で動かしている策士、黒幕と決めつけている。

 生長の家3代目総裁の谷口雅宣氏は、その 『日本会議の研究』 を、「我が意を得たり」 とばかりに、生長の家の準テキストのように採用して、全信徒に読むよう勧めたのである。

 ということは、これまで 「生長の家は政治運動から距離を置く」 といってきたのは虚偽であり実は総裁自身が宗教よりも政治マニアだったという馬脚をあらわしたことになった。そして、安東憎し、『理想世界』 百万運動憎しという了見の狭い、宗教とはほど遠い感情を公の場にさらしたことになったのである。


 信徒が求めているのは、政治運動や、現象改善の運動ではなく、唯神実相の真理であり、真理に基づいた人間救済である。

 唯神実相の真理による救済力を失った生長の家教団は、衰退の一途を辿りつつある。そのときに総裁は、『日本会議の研究』 を読ませることが教勢発展にプラスになるとでも思ったのだろうか。

 それは逆である。信徒はますます離れて行き、教勢の下降に拍車がかかっている。

 このまま行けば、雅宣総裁は生長の家を滅ぼした暗愚な総裁だったという歴史を残すことになるであろう。


 (2019.8.8)
515 後世に伝えたいこと(1)


     (この項に私の孫の情報を公開し、
     「乞う、ご声援」 と書いておりましたが、
     これは現象界の些細なことであり、この公開は
     却って孫にプレッシャーとなることもあり得る。
     孫には自由に伸び伸びと活躍してほしいので、
     削除しました。お許し下さい。)



          ○


 「生長の家」 は、人類が究極の平和を実現する正しい方途を発見した、人類の歴史上特記すべき至大の宝である。

 これは、アインシュタインが発見した相対性原理などよりも段違いに大きな宝である。

 相対性原理は、原爆を生み出す基となった。

 谷口雅春先生が発見された生長の家・生命の実相哲学は、人類を究極の平和、「神の国」 即 「仏国土」 を地上に実現する基となる哲学・宗教である。

 その大きな特徴の一つに、「万教帰一」 というのがある。

 「万教帰一」 とは、地上に顕現した諸宗教の説くところを精査して共通部分を寄せ集め、人為的に強引なこじつけをして作り上げた論理ではないのである。

 それは、「久遠の今」 なる、時間・空間未だ発せざるところの 「一」 なる本源世界にこそ、完全円満なる真実在(実相)があり、万象・万教(すべての宗教)はその共通の 「一」 なる大生命の展開であるとの世界観――覚
(さと)りから、おのずと生まれたものである。


   ⇒ 谷口雅春先生御講義 「久遠の今」


 時間・空間は本来なく、生命が仮に表現および認識の形式として作った仮有
(けう=仮存在)である。

 されば時間・空間上に展開して現れて見える(認識される)一切のものは本来無なる仮有である。そのことを端的に、「現象無(現象はない)」 というのである。

 時間・空間上に展開され認識される現象界の一切のものは、時空未発の本源世界=実相世界に実在する完全なる原型の、不完全な投影(順次段階を追って展開されつつある映像)なのである。

 真に実在するものは、神のみである。移り変わり消え行くものは、本来ないものであって、実在ではない。

 悪は、ない。死は、ない。対立は、ない。不完全な現象は、ないのである。

 ただ善のみ、生命のみ、調和のみ、喜びのみがある。それが真実の実在、実相である。


 では、現象界に戦争はなぜ起こるのか。それは、本来ない現象を 「あり」 と認識するからである。現象ありとすれば、現象は彼我対立の世界であるから、戦争が起こるのである。現象を超えなければならない。

 人類の多くが 「現象なし」 と知り、現象を超えて生命は自他一体、彼我一体であると自覚すれば、戦争はなくなる。


 “人間学を学ぶ月刊誌” 『致知
(ちち)』 8月号は 「[特集] 後世に伝えたいこと」 となっている。

 私にとって、ぜひとも後世に伝えなければならぬものは、正しい生長の家の教義、生命の実相哲学だと、迫ってくる。


          ○


 「生長の家」 は、谷口雅春先生が 「現象なし、実相(神)独在」 をお覚りになって、始まったのである。(『生命の實相』 第20巻 自傳篇下 p.132~162)

 そして、「生長の家教規」 は、次のような条文で始まっている。

≪   第1章 名称

第1条 この宗教は、生長の家と称する。

     第2章 目的

第2条 この宗教の設立の目的は次の通りである。

(1)谷口雅春創始の、生長の家の教義に基き、その主著 『生命の實相』 を鍵として、万教共通の宗教真理を開示し、これを宣布することによって、人類光明化につくすこと。

(2)教化道場及び礼拝施設を備え、この宗教の教義に基いて儀式行事を行い、信者を教化育成すること。

(3)教義の発祥及び発展の沿革を明かにするため、総裁の遺跡、遺文、記念物等を保存し、この宗教の史跡及び施設を散逸せしめざるよう修理保管すること。

……以下略≫


 私は、10代の学生時代から今日86歳までほぼ70年、生長の家の教義を信じ、上記の教規にしたがって生きんとしてきた信徒である。


 教規第2条の(1)に、「谷口雅春創始の、生長の家の教義に基き、その主著 『生命の實相』 を鍵として、万教共通の宗教真理を開示し……」 とあるが――

 『生命の實相』 第1巻 總説篇 七つの光明宣言 解説の冒頭に、次のように書かれている。

≪生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。≫

 と。

 実に、ここに 「生命の実相哲学」 の何たるかが、ズバリ簡潔に余すところなく表現されている、と思う。


          ○


 (1) まず、「生命の実相の自性円満
(そのままでえんまんなこと)」 とある。
    これは、生長の家の 「縦の真理」 と言われているところのものである。
    今まで、「ある」 と固く信じていたところの 「生・老・病・死」 の四苦などは、五官の感覚に描かれた夢まぼろしの如きもので、実在ではない。実相すなわち本当のすがたは、そのままで円満完全であるということ。

 (2) それを自覚すると、「横の真理」 といわれているところの 「心の法則」 が自働的に働いて、不完全な状態は消えて行く。世界の国々の対立抗争、戦争なども人類社会の病であって、そんなものも自ずから消滅し、自由で平和な中心帰一の神の国(仏国土)が現成する。


 ――というのが、生命の実相哲学の根幹である。

 しかし、これだけで悟れる人はほとんどいない。しかも生命の実相哲学は頭で理解しただけではだめで、実践哲学であるから、腹の底から納得し、持続的に生活化、行動化するとき初めて環境が、運命が変わってくる真理である。

 だから、谷口雅春先生は毎月多いときは6種類もの月刊誌に執筆され、全国各地から海外にまで足を運んで講習会も続けられた。また初期の 『生長の家』 誌に書かれた文章は編纂されて 『生命の實相』 の聖典となり愛蔵版は全20巻、頭注版は全40巻が刊行されて累計2000万部にも及ぶロングセラーとなった。それ以外にも数百点の御著書が出版されている。これらは各界のリーダー的人物で読んだことのない人は稀であり、日本社会に大きな影響を与えてきた。戦後日本の復興発展に大きな希望を与え、寄与貢献したのである。


 私は、この生長の家・生命の実相哲学こそ、正しく後世に遺すべき最高の宝だと信じている。


          ○


 <つづく>


 (2019.8.1)
514 生長の家教団が沈みつつあるように見えるのはなぜか。

 人間は皆本来 「現人神」 である



 人間は皆、本来 「現人神
(あらひとがみ)」 すなわち肉体の姿をもって現象界に姿を現した神なのである。

 それ故に、『生命の實相』 第1巻 總説篇 「七つの光明宣言」 の第一条に

 
≪ 吾等は宗派を超越し生命を礼拝し……≫

 とあり、その解説として

 
≪ われわれが 『生命』 を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い 『生命』 であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。

 自分自身が尊い 「生命」 であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることができるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの 「生命」 の大元の 「大生命」 をも尊び礼拝したくなるのであります。≫


 と記されてあるのである。

 「現人神(
あらひとがみ)」 というのは、今まで、「上御一人(かみごいちにん)」 とも称された天皇陛下にのみ用いられた尊称であった。

 しかし、人間は皆、宇宙大生命=神の生命の肉化した顕現体、神の最高の自己実現であるという生長の家の教えからすれば、人間は皆、畏れ多くも 「現人神」 と言ってよい尊い存在なのではないか。

 「君民同治の神示」 に

 人間生命が神より生れたる神聖なるものであるという自覚が、その外延であるところの国をも神より生れたる国であるとの神聖性を要求するのである。

 ……天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから来る。即ち観る主体(民)が神聖であるから、観らるる客体である天皇が神聖なのである。≫

 とあることからも、それは言えると思う。

 (むろん、悪平等はいけない。上のものは上、中のものは中、底のものは底と秩序を明らかにすることが住之江大神=住吉大神の宇宙浄化のお働きである。しかし、神は渾てのすべてであって、神以外に存在するものはないのだ)

 己れを神として礼拝し、すべてを神として礼拝するのが生長の家だ。


 奇跡を生む礼拝合掌のすがた


 (#375 にも書いたように) 谷口雅春先生はかつて 『動向』 という武藤貞一氏主宰の雑誌に、 「耿耿
(こうこう)の言」 という随想を執筆しておられた。その中に、次のような珠玉のご文章がある。

 
<「耿耿(こうこう)の言」の「耿(こう)」には、〈耳がひらいてあきらか。目がさえて眠れない〉という意味があり、「耿耿」は、〈光が明るいさま〉と、〈心が安らかでない。気にかかって寝付かれない〉という意味がある。>


≪  『動向』 誌所載 《耿耿の言》

   暴力から合掌へ ─ 学内暴力の一掃策 ─

                           谷口 雅春

 毎朝わたしは神前に坐して 『甘露の法雨』 又は 『天使の言葉』 の如き生長の家の聖経を朗読することにしているのである。その聖経の中に

 「一つの物体(光源)の周囲に百万の鏡を按きて
 相対せしむれば百万の光を発せん。
 人は神より発せる光であって
 甲乙丙丁互いに相分れて別々の存在と見ゆれども
 すべて “神” なる一つの光源の反映であって、
 本来一つの光であって、
 すべて一体であるからその実相を自覚すれば
 互いに愛と讃嘆の念湧き起らん」

 という意味の事が書かれているのである。

 それを読みながら近頃、頻々として起っていることが報ぜられている教師と生徒との間に於ける反感や暴力沙汰は、この真理を互いに自覚すれば、教師と生徒との間に起る反感や暴力沙汰は自然に消えてしまうのに!! と思いながら、日本の文部大臣にこれ位のことがどうして出来ないのかと歎息の溜息を吐いたのであった。

 教師と生徒とが一つの大生命(神)より発した光であり、
 互いに兄弟姉妹であり、
 互いに愛と讃嘆の念が起るならば、
 教師と生徒との間に起る暴力の原因が消えてしまうのである。

 こんな簡単明瞭な真理が、どうして
 現代の教師にも生徒にも解らないのだろう。
 すべて教師と生徒との両者に生長の家の説く真理を会得さしてしまえば、
 それで万事はOKである筈である。
 それが出来ないのは皆な唯物論者であって、
 互いの神性を拝むということを知らないからだ。

 そう思ったとき、私はもう数十年も前の事であるがこんな記憶があるのを思い出した。

 大阪の難波の駅から急行電車に乗って和歌山へ私は行くことになっていた。

 その時信徒の人たちが多勢私を見送りに来て、皆々私の方を向いて合掌していた。

 私も見送りの人たちに向って、列車の窓に両肘を突き窓から半身を乗り出すようにして合掌していた。

 肉体の形が合掌しているのではない。互いの魂が相互に合掌して礼し敬しているのである。

 その時、ひとりの男の人が私のいる列車の窓口ヘ
 つっと近づいて来て、私を合掌して拝んだ。そして云った。

 「私は今日、刑務所から出て来た者であります。
 娑婆へ出て来たけれども、どうして今後生活すれば好いか見当が付かないのでした。
 しかし私は先生の合掌していられるそのお姿を拝しました。
 そして私は今後どのようにして生活すればよいかを知らして頂きました。」

 私は列車の窓から腕を突き出して、その男の人の手を握った。
 「兄弟よ、あなたは“神の子”である。如来である」 と私は心で念じた。


 今、日本の諸方の学校で起っている校内暴力はどうして起るのであるか、
 総理大臣も文部大臣も唯、拱手傍観していて、
 「暴力者は悪い奴である」 と念ずるばかりで
 為すべきすべを知らないらしいのである。
 そして此の暴力沙汰を引き起す原因については
 何ら御存知ないらしいのである。
 本当の暴力の起る原因は教師の 「心」 の中にあるのだ。

  (註)その暴力者を 「悪い人である」 と念ずる教師自身の 「心」 の中にあるのだ。

 現在、学校で教職についている先生方は
 自分の知りている知識を生徒に授けるのが教職者の
 仕事であるとのみ思っているらしい。

 “授ける” “受ける” の立場に立って、
 先生と生徒との関係は、上位と下属との関係である
 と漠然と思っている先生が多いのではあるまいか。

 なまけていて進歩の少い生徒は劣等の人間であると、
 先生はその生徒を軽蔑する。
 生徒は教師の自分に対する軽蔑を
 先生の表情又は雰囲気で直感する。

 生徒はこんなとき先生よりも霊感的であり、
 先生の軽蔑心をすぐ直感的に身を以って体感する──
 “何クソ” と生徒は先生に反感を起すのだ──

 もうこうなったら “正しい教育” は成り立たないのである。
 生徒は先生に対して敵意をもつ。
 生徒の教師に対する校内暴力は
 此の敵意のあらわれであるのだ。


 私は老齢既に卒寿を越えて脚腰の動作が不便であり、坐位でも椅子でも直立でも、相当時間一定の姿勢をつづけて講義することは勿論、執筆すらも長くつづけることができない。併しもう少し若かった頃公会堂その他の大会場で、皆に話すために演壇に立った時、いつでも聴衆に向って私は低身合掌して 「皆さん、ありがとうございます」 と先ず礼拝の言葉を演べた。私は講演するとき、相手を見くだして教える心で立ったことはない。

 皆なを拝む心で演題に立てば、皆なが話者を拝んでくれるのである。演者は別にその効果を期待して、聴衆を合掌して拝んでいるのではない。真理の講話を話しに来る者、またそれを聴講に来る者、倶に深い因縁のあることである。

 学校暴力とか校内暴力とか云う乱暴な出来事が起るのは、教師も生徒もその深い因縁に気付かないで教師が、“生徒を拝む心” で講壇に立つのではなく 「万一の事が起った時には護身のために必要だから」 と理窟づけして、教師の方がポケットに護身用ナイフを忍ばせて演壇に立つからである。

 即ち、相手を傷つける想念は隠し持ったる護身用具に随伴する。想念は造る力であるから、自分の予想するものが形の世界にあらわれて来て、自分を傷つけ又、相対する相手を傷つけることになるのである。

 私は中学時代大阪市岡中学で学んだのであるが、教師は演壇に立ったとき、生徒総代又は級長が号令をかけて 「先生に礼拝……直れ」 などと音頭をとって 「形式的に敬礼」 させる。

 それでは軍隊式で、形式が先に立って
 「先生に礼拝する」 ごとき、魂で恩愛を感じて自然にお辞儀が出来てくるのとは違って、強制される礼儀形式ばかりが先に立つ。

 生徒の中には、そんな形式的な命令に従ってお辞儀をさせられる事は、「自由を縛る束縛だ」 と反感を懐きながらお辞儀をしている者もあっただろうと思うが、私もそれ等生徒の一人であった。

 尤もその時代の中学生と先生とは、弟子と師と云うような階級的な次元に於いて対立感情で向かい合っているのではなかった。儒教的な 「三尺さがって師の影を踏まず」 という 「礼」 の秩序性が表現されたものであって、先生と生徒とは互いに共学の研心の同朋であった。

 相互は、学校の授業時間だけに於いて共学研心の同朋であるだけでなく、学校の授業時間を了えて校外に出ても、先生と生徒とは何らかの意味に於いて研心の同朋であった。

 あの時代の中学教師と中学生との精神関係を喚び戻すことが出来れば楽しいと思う。

 私は数学の時間に幾何や代数の問題で先生に屁理窟を云うと、先生は 「もう谷口君にかかったら負けだ」 と笑いながら云った。

 今でも先生と生徒との関係が愛情によって結ばれていたことをなつかしく思う。

 教師が本当に生徒たちに皆一視同仁的に各々の生徒を愛の心を以って立ち向うならば、教師の表情が愛に満たされた様子で、常にどの生徒に対しても同様に立ち向うことになる。

 その時には黒住教祖の宗忠尊師が

  立ち向う人の心は鏡なり
    おのが姿を映してや見ん

 と、いみじくも詠われた状態が現れて、生徒はその教師に対して親愛の感情を感ずるのである。これは空想ではない、現実に成り得る問題だ。

 (中略)

 生長の家の箴言にある、いつも天気に対してお礼を云う気持で “神様、好いお天気を与えて下さいまして有りがとうございます” と念ずる習慣のある人は、天気に祝福されて、その人が旅立つときには好天気が常につき添うて下さるのである。

 もう十数年も前のことであるが、私たち夫婦は各国を身を以て知るために世界旅行に出掛けたことがある。ドイツを廻った時の季節は、朝晴れているかと思うと数時間もすると雨が降る 「秋しぐれ」 の季節であった。

 ドイツで私たち夫婦を道案内して下さった方は、日独交換教授として、ドイツに駐在中の日本の早稲田大学の独逸語教授の山田先生であった。山田先生は

 「ドイツのこの季節にはいつ時雨るかも知れませんから雨具を用意してまいりましょう」

 と時々云われたが、わたしは、

 「常に天気に対して私たちはお礼を云っていますから、私が観光に出掛けている時間には雨は降らないでしょう」

 と答えたものである。そして“雨降る”予報の天候は、私の言った通りに私たちが宿舎に帰ってから降り始めるのであった。

 私たちの案内役をつとめて下さった山田先生も、天候が私の云う通りに適当に変化するので偶然としてはあまりに不思議だと感心していられた。

 近頃、日本の国では人間界だけではなく、天候があまりにも傷ましいほどに大自然の暴力を揮うのである。古への為政者はこのような時、自分たちの政治のあり方に、天意に背く間違ったやり方を行なっている点があるのを御気付けして下さるのではなかろうかと反省して、行政の姿勢を正したものである。

 今は民主主義の時代であって、何事も人民主宰の世界であるから、為政者にして、

 「罪あらば我をとがめよ天つ神、民はわが身の生みし子なれば」

 とお詠みになった歴代の天皇の大御心を自分の政治の上に復唱する者は、既に為政者の中心にないのである。

 現下の日本に必要なものは、何よりも為政者の心の姿勢を反省することである。

 今こそ私は 「教育勅語」 の復活を中曽根総理大臣に宣言して頂いて、為政者自身の心を浄めることを 「第一の事」 として、先ず何事も第一の事を第一に為し、国民総じて実践する道を行く扉を開かれんことを希望するのである。

 今、日本の為政者が教育勅語の実践的復活をみづから提唱し、みづからが率先して実践せられるならば、想像もつかない教育界の大なる浄化作用が滔々として起ることを期待して、その実現を私は待ち祈るのである。≫


 ――これを実践すれば、生長の家は隆々と栄えざるを得ないのである。

(上記は谷口雅春先生がかつて 『動向』 という武藤貞一氏主宰の雑誌に連載で 執筆しておられた「耿耿(こうこう)の言」 という随想の一つ。その御文章のみのコピーが出て来たので、『動向』 誌何年何月号に書かれたものかは不明。「中曽根総理大臣」は昭和57年11月7日から62年11月6日まで約5年間在職しており、谷口雅春先生は昭和60年6月17日に御昇天になっているから、これは先生が卒寿<90歳>を超えられた最晩年期のご執筆である)

 必勝の真理 「尊師の平法」



 孫子の兵法に

 「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」

 という。これは

 「相手を神であると知り、己も神であると知れば、如何なる問題も神智に導かれて必ず解決し、楽勝する」

 と深読みするのが、最高の解釈である。

 それが
「尊師の平法」 である。


 「日本の実相顕現の神示」 に

≪ 敗戦の原因は多々あれども戦争を始めたから敗けたのである。

 ……排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、切る心は切られる心と教えてある通りに自分が切られる事になったのである。

 切る心は三日月
(みかづき)の心であり、利鎌(とがま)のように気が細く、角だっていて、空にあらわれている時間も少く、その光も弱く、直(じき)に地平線下に沈んでしまう心である。

 心の通りに日本の国が沈んでしまっても、それは日本人の心みずからの反映であるから、徒(
いたずら)に失望、落胆、放心してしまってはならない。

 『見よ、われすべてのものを新たにするなり』 と教えてある。現象の三日月は沈んでも実相の円満玲瓏
(れいろう)一円相の満月は依然として虚空に輝いている。それと同じく、心狭く尖りたる排他的な軍国主義の似非日本の国は沈んでしまっても、実相円満の日章旗のようにまんまるい日本の国は無くなってはいないのである。

 有るもの、有りしものは永遠に滅びることなく、必ずそれは日本人全体の心が円満になり、実相の波動に日本人全体の心の波動がぴったり合うようになれば、現象界にもその不滅円相のすがたをあらわすのである。

 汝等
(なんじら)嘆くことはない、滅びしものは本来無きもののみが滅びたのである。無きものは滅びるほかはない。軍国日本の如きは本来無き国であるから滅びたのである。神洲日本は不滅であり、永遠に滅びることはない。

 滅びたように見えているのは実相が蔽
(おお)い隠されているだけである。実相を蔽う心が眼鏡をかけている心である。

 すべて此の世の中の事物は象徴であるから、その象
(かたち)をよく見ていれば世界に何が起りつつあるかを知ることが出来るのである。≫

 とあるが、生長の家教団が今、沈みつつあるような現象を呈しているのは、上記の神示にある通り、「排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、切る心は切られる心と教えてある通りに自分が切られる事になったのである。」


 これは、まことに悲しいことであると言わざるを得ない。

 しかし、気がついた者から実践すればよいのである。

 神は、悪を創らない。悪はないのである。

 神は、愛である。愛は、神である。


 愛こそ最大の精神的資産



 ――聖経 『真理の吟唱』 より


≪     聖愛を実現する祈り

 すべての人間は、ことごとく “神の子” なのである。それゆえに、すべての人間は、私たちにとってみんな兄弟姉妹なのである。私たちがすべての人間に対して愛情を感じることは、神から与えられた最大の精神的資産であると言わなければならないのである。

 この最大の精神的資産を行使しないで、ただ眠らせているということは、まことに愚かなことだと言わなければならないのである。

 それゆえに私たちは、この “愛” という精神的資産をゆたかに行使するのである。単に自分の家族に行使するだけではなく、また単に人類のうちの親しい人たちだけに行使するのではなく、すべての人に、そしてすべての処で、またすべての時に、この “愛” の資産を行使するのである。

 “愛” は美しき花びらのごとく人生を飾るのである。私はすべての人に、すべての時に、あらゆる所において “愛” の資産を行使する。それゆえに、私の行くところ常に天国浄土とならざるを得ないのである。……

 (中略)

 魂が魂を呼び、魂が魂を観るためには、肉体の目を閉じて、相手の実相を観ずるのが最勝にして最善の方法である。実相を観ずるとき、彼の実相の円満さが自動的に顕現するために、彼の行動は自然に正しくなるのである。

 また実相を観ずるとき、彼に何をしてあげればよいか最も適切なる方便が思い浮ぶのである。真の愛は必ずしも “甘く” はないのである。真の愛は峻厳である。峻厳なる方便を通して、彼の実相の円満さが引き出されるのである。≫



 見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。

 今此処天国である。


 
今此処天国を現前せよ



≪    入龍宮不可思議境涯の祈り

 ああ美しきかな、この朝よ。もろもろの花は地にあらわれ、もろもろの鳥のさえずる時すでに至れり。わが愛する者どもは目覚めて、神の御前に集まりて、神を讃美す。よろこびは悦びを呼び、愛は愛を呼ぶ。わが愛する者に幸いは集まり来たり。すこやかに子供は伸びて、楽しさにさんざめく。

 ああ幸いなるかなこの朝よ。家族たちの悦びの声は宇宙にこだまする音楽の如く、その声の底には極楽の響きを湛
(たた)うる泉あり。その泉より噴(ふ)き出ずる悦びの声は、龍宮の輝きを帯び、神の光に照されて、五彩七彩の虹を放つ。

 今、われら家族、極楽の園に遊び、龍宮海に入る。もろもろの宝は我らの掌
(たなぞこ)に満てり。黄玉(おうぎよく)、紅玉(こうぎよく)、青玉(せいぎよく)等その数を知らず。わが子供たちは、黄玉を連ねて頸輪(くびわ)となし、紅玉を結びて腕輪となし、青玉を点綴(てんてつ)して髪飾りとなす。衣裳には虹のごとき輝きあり、日光を受くるに従いて、その色を変化して美しきこと限りなし。ああわれらここ実相龍宮海の美しさをはじめて知る。

 ああ祝福されたるこの朝よ。われら言葉の力にて現世
(このよ)に龍宮城の美しさ、麗しさ、ゆたかさを引出し来れり。見よ、愛する者ここにあり、見よ彼らはわが肩に攀(よ)じ、膝に来り、わが前に立ち、後に倚(よ)る。その語る声は美しくして極楽鳥のごとし。後にある我が愛する者よ、汝の顔を見せよ。なんじの声を聴かせよ。なんじの声は竪琴の奏でらるるが如く、七絃琴の奏楽の如し。語るに随って、美しきもろもろの花咲き出でてその周囲を飾る。幸福なること限りなし。

 ああ悦びに満たされたるこの朝よ、わが愛する者は、すべて悦びに満たされ、神を讃う。神は讃うべきかな。われらの悦びの源、われらの幸いの泉。

 神の恵みきたるとき、一切の争いは止み、すべての戦いは停止し、いにし時の敵と味方とは、手を挙げて平和を喚
(よ)び交(かわ)し、兄弟の如く睦び合い、愛情の祝盃を交して、神の平和を称(ほ)め讃う。将兵たちみな剣(つるぎ)を収め、銃を棄てて、愛をもて娘たちが織りし美しき衣をまとう。すべての人々の頭(かしら)に “平和の冠” あり、黄金の七つの星をもてその冠を飾り、荘厳なること限りなし。

 ああこの朝、平和なるかな。山々に平和の雲漂い、朝日の昇るにしたがいて五彩にその色を変じ、われらの祝福の宴
(うたげ)に霞の幔幕をもて飾る。もろもろの花咲き出で、もろもろの鳥謳(うた)う。その声、神を讃え、われらを祝う。まことに実相浄土の厳浄(ごんじょう)を地上に実現したる朝なるかな。神に感謝し奉る。≫


 ありがとうございます。


 (2019.7.6)
513 肉体は魂の象徴である


 「象徴」 とは――

 「直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること。また、その表現に用いられたもの。例えば、ハトで平和を、王冠で王位を、白で純潔を表現する類。シンボル。」

 と、『大辞林』 にある。

 親指を立てて男または夫を表し、小指を挙げて女、妻あるいは情人を表すのも象徴である。

 わが家には割合大きな仏壇を設けてあり、その最上段中央に阿弥陀如来像を安置してある。

 阿弥陀如来とは、尽十方無碍光如来すなわち宇宙のあらゆるところに遍満し、遮るものなくすべてを照らし生かし給う大慈悲なる大生命である。それは直接的に知覚できないから、仏像という具体的な形象物をその 「象徴」 として安置し、仏像を拝する形をとって宇宙大生命を拝しているのである。

 宇宙大生命は凡ゆる所に遍満しており、人間が生きているのも、宇宙大生命(神と言っても、仏と言ってもよい)が生きているのである。人間の生命は神(仏と言ってもよい)の生命である。人間は本来神であり仏である。それ故に宇宙大生命を拝するとは、己自身を拝することである。


          ○

 仏像が仏(宇宙大生命)の象徴であるように、人間の肉体も人間生命(魂)の象徴であると言ってよいだろう。

 私は今朝も6時ごろから、3kmほど離れたところにある善福寺公園まで自転車で行き、池畔の広場でラジオ体操をして、池の周囲約1kmを歩いたり走ったりで一周してから、また自転車で帰ってきた。

 この時間帯、このあたりは “高齢者銀座” と言ってもよいほど、元気で生きるのに意欲的なお年寄りたちがいっぱい、ウォーキング、ランニング、ラジオ体操などをしているのである。

 私はそうした人たちの姿を見ながら、その肉体の姿は魂の象
(かたち)、象徴だと感じる。

 いや、人の姿だけではない。池畔にみずみずしく美しく咲き溢れる色とりどりの紫陽花
(あじさい)の花たちも、緑ゆたかな欅(けやき)などの木々たちも、みな宇宙大生命の表現である。

 それらが皆、互いを生命の兄弟として祝福し合っているのである。

 それら目に見える象
(かたち)あるすべてのもは、目に見えぬ生命の象徴と言ってもよいのではないか。

 「山川草木国土悉皆成仏」 である。


          ○


 「君民同治
(くんみんどうじ)の神示」 に、次のごとく示されている。


≪   君民同治の神示

 国は人間生命の外延
(がいえん)である。それは身体が人間生命の外延であるが如くである。

 人間生命が神より生れたる神聖なるものであるという自覚が、その外延であるところの国をも神より生れたる国であるとの神聖性を要求するのである。

 この要求が神によってその国が造られたのであるとの神話を創造するのである。

 しかも人は自己が無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である(民主)との自覚を、生命の外延の世界に於ても持つことを要求するのである。観られる世界は観る人の心の世界であるからである。

 身体も国も共に観る者(主体)から反映せられる世界(客体)である。

 観る心の要請が身体に於ては脳髄の存在となり、国に於ては永遠の元首なる、無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。

 天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから来る。即ち観る主体(民)が神聖であるから、観らるる客体である天皇が神聖なのである。

 観る主体(民)の神聖性が包まれ蔽われて混濁するとき、天皇の神聖性は蔽われて発現しなくなるのは其のためである。今の状態がそれである。

 (註。これは敗戦直後の昭和20年12月28日夜、谷口雅春先生に天降った神示である)


 人間は自己自身の神聖性の故に神造の国家に神聖降臨の神話を創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。天孫降臨とは人間自身すなわち民自身が天孫であり、神の子である自覚の反映にほかならない。

かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり、君は客である。是を主客合一の立場に於て把握すれば主客一体であり、君民
(くんみん)一体であり、民は君を拝み、君は民を拝む。

 民を拝み給う治
(じ)は、君を拝むところの事(じ)と一体である。治事(じじ)一体であり、治(おさ)めると事(つか)えるとは一体であり、君民同治である。

 天皇は絶対者にましますとは、観る主体たる人間(民)の絶対性より来
(きた)る。民が自身の絶対性の把握が破れるとき、その反映として国の絶対性と天皇の絶対性とは破れるのである。

 打ち続く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覚が破れたのが国家大権、天皇大権の一時中断の形をもって現れたのである。≫



 ――上記の

 「民が自身の絶対性の把握が破れるとき、その反映として国の絶対性と天皇の絶対性とは破れるのである。
 打ち続く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覚が破れたのが国家大権、天皇大権の一時中断の形をもって現れたのである。」

 とあるのは、「日本の実相顕現の神示」 に

≪ 当時の日本人は気が狭くて島国根性であり、排他的精神で、我慢自慢独善精神に陥り、それを日本精神だと誤解して、一人よがりに易々(いい)加減な気持になって、遂に世界を相手に敵として戦うようになったのである。

 排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、切る心は切られる心と教えてある通りに自分が切られる事になったのである。≫


 とあり、また 『新生の書』 (谷口雅春先生著)に、

≪ 日本の軍隊は何故負けたか、生命を軽んじたからである。部下の兵隊を擲(なぐ)る蹴るのは上等兵の常套事となっていた。そして、それが 天皇の名に於て行われたので、誰も反抗し得なかったのである。……彼等上等兵以上の将兵は、天皇の大御心を歪曲し、天皇の権威を笠に着て、天皇の大御心を詐称して、天皇の赤子たる人間を冒涜したのである。……

 人間の生命を礼拝しなかった軍隊は、その生命が絶ち切られた。己れにいずるものは己れに還る。一切万事われより出でて、われに還る。環境も肉体もわが心の反影
(かげ)である。≫

 と書かれているようなことが現象の世界にあらわれたので、日本は負けつづけてポツダム宣言(降伏勧告文書)を受諾せざるを得なくなり、一時日本国土の諸拠点(points)が占領下におかれ、国家大権・天皇大権は連合国軍総司令部総司令官マッカーサーに従属(subject to)するという状態に置かれた――ということを意味していると思う。

 しかし日本は反省すべき事をしっかり反省し、昭和27年に連合国とサンフランシスコ講和条約を結んで独立を回復して、国家大権・天皇大権を回復した。天皇は 「日本国の象徴・日本国民統合の象徴」 と憲法に規定されたが、今やその憲法の文言をも超えて、「現人神
(あらひとがみ)」 のおすがたを顕現されたのである。


 (2019.6.23)
512 天皇は日本において憲法を超えたご存在となった


 天皇というご存在は、世界の宝である。


 先の大戦後、GHQ(連合軍最高司令部)は、日本が再び立ち上がることができなくするために、強権をもって洗脳工作を実施した。それは 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program、頭文字をとって WGIP)」 と名づけられ、学校教育、新聞・放送などのジャーナリズムをはじめ、映画等も支配して徹底的に 「日本は悪い国だ」 という自虐・贖罪史観を植え付ける工作を行った。歴史を否定し、国旗・国歌を否定し、愛国心を持つことも危険だとして、教科書に 「わが国」 という表現も許さず、書き換えさせた。そして 「プレスコード」(新聞などの報道機関統制令)を布き占領軍や米国のやったことに対する批判は断じて許さなかったのである。

 (→ #140

 天皇・皇室について、終戦直後アメリカ国内では、皇室を即刻解体廃止すべきだという意見が多かったが、占領軍は時間をかけて皇室の首元を徐々に絞める方法を選んだ。天皇という位を憲法の中に定め、単なる 「象徴」 に過ぎず無力な飾りものとし、その地位は 「国民の総意」 によるとした。すなわち――

≪ 「日本国憲法」 第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。≫

 ――占領軍は 「象徴」 という言葉で天皇と皇室を崩壊させようとしていたのだ。

 そして軍事力を永久に抛棄するという事実上の降伏文書、不平等条約を憲法として押し付けたのである。

 しかし、上皇陛下となられた先の天皇陛下は、この憲法を受け入れ、次のように述べられている(平成28年8月8日、国民へのビデオメッセージより)。

          ○

≪ ……日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け…(中略)…既に80を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。


 私が天皇の位についてからほぼ28年、私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。

 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

 …(中略)…

 皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行
(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。…(後略)…≫


          ○

 ――上記お言葉にある 「全身全霊をもって」 は、まさに重みのあるお言葉です。

 #505 で引用させて頂いた日経新聞記事(今年4月27日、「平成の天皇と皇后30年の歩み」 最終回)にあるように、

≪ 「わが友は――」 その人は天皇陛下をそう呼ぶことがあった。そしてこうも言った。

 「彼は本質的に強い男だよ」

 元共同通信記者のジャーナリスト、松尾文夫さん。今年2月末、取材で訪れていた米ニューヨーク州で急逝した。85歳。陛下とは学習院高等科、大学の同級生だった。東京・目白のキャンパス内にあった学生寮 「清明寮」 で陛下と同室で、約2年間寝食をともにした。

 親友ゆえに、松尾さんは陛下に遠慮なく 「直球」 でもの申すことが多かったという。ただ、自身がメディアの人間でありながら、交友の詳細を口外することはなかった。陛下にとって、何でも話すことのできる、真の気が置けない友だったのではないだろうか。

 その友が語った数少ない天皇陛下の人となりを表す言葉のなかで強調されていたのが 「強さ」 だった。平成の象徴像を形づくってきた原動力は意思の強さにある、と。

 振り返ると、いまでは多くの国民から支持されている 「あり方」 は、当初は昭和時代との比較でかなりの違和感を持たれ、抵抗にあってきた。

 災害被災地訪問は 「1カ所に行くと、すべての被災地に行かなければ不公平になる」 と疑問視された。

 膝をついてのお見舞い批判は表層的なもので、これこそ本質的問題だった。

 「天皇の強い希望で」 と語られている海外慰霊の旅も、外国訪問は政治が絡む。天皇の意思が前面に出ることは憲法に抵触するという見解もあった。

 昭和時代には考えられなかった天皇像に対する抵抗を "力業" で突破し、自身の信じる道を貫き通すには、屈しない意思が必要だった。

 昭和の前例をそのまま踏襲する方がずっと楽だったはずだ。しかし、「国民から超越した非人間的な存在であれ」 という近代以降の天皇に要請された役割をよしとせず、人間的で人々に寄り添う 「国民の象徴天皇」 像を追い求めてきた。

 ある意味 「戦い」 でもあった……≫


 のである。


          ○


 アメリカの歴史学者・日本史の研究者であるジェイソン・モーガン氏は、次のように書いている(雑誌 『Will』 7月号)。


≪ 「平成」 から 「令和」 にかけての諸儀式や会見の中で、上皇陛下と天皇陛下が「象徴」という言葉をご発言なさったことに、私は少し違和感を覚えました。

 そもそも、天照大神から受け継がれた天皇を 「象徴」 と呼ぶことに抵抗がある私には、陛下ご自身がその発言をされるのを聞き、正直愕然としました。どうしても 「象徴」 という束縛から解放されてほしかったからです。

 ここ数年、関野道夫さんや高橋史朗さんなどのご著書を拝読して、WGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プロブラム)について勉強をしてきました。アメリカが日本に対してやったことは、あまりにも許しがたいことだと痛感しています。

 アメリカは自分たちの戦争犯罪を隠すためだけでなく、日本を弱体化させるために占領軍を使って日本国民に幅広い洗脳活動を展開した。連合国による不平等裁判である 「東京裁判」 もその一例です。また、教育機関などを通じたプロパガンダによつて、真っ赤なウソを平気な顔で拡散していた。

 「天皇象徴論」 もその企みの一環だからこそ、「天皇が象徴だ」 という考え方に私は頷きたくないのです。

 結果的に、アメリカの占領軍は戦争責任を日本に押し付け、戦後復興の歩みの中で日本人に猛烈な自虐史観を埋め込んできました。

 現在、日本で社会問題となっている少子高齢化も、アメリカの策略です。占領軍が優生保護法などの悪法を強制的に成立させ、中絶や避妊の普及によって日本人の数を減らそうとした。その結果、今日の日本人口は急減しており、日本国家の存続が危ぶまれるほどに、策略は成功しています。この一連の占領政策により、多くの日本国民が凄まじい被害に遭いました。しかし、その最たる被害者は 「天皇」 と 「皇室」 だと、私は思っています。


   陛下の慈悲深さ

 しかし、これらの悲愴感を友人に話してみたところ、彼は 「ちょっと違うよ。天皇陛下が 『象徴』 という意味を変えたと思う」 と言う。この言葉に非常に衝撃を受けました。

 占領軍が 「象徴」 という言葉で天皇と皇室を崩壊させようとしていたことは、紛れもない事実でしょう。君主制を忌み嫌うリベラル派は、日本の天皇さえ 「象徴」 という呼称で徐々に弱体化できると期待していた。

 でも、それだけではなかったというのです。確かに、友人の言う通りかもしれない。

 聖書ではイエス・キリストが 「汝の敵を愛せよ」 「右頬を打たれたら左頬も差し出せ」 とお教えになっている。これに対し、世俗には 「あの手この手を使っても、自分の意思を通せれば大丈夫」 という論理が成立しています。

 それでも、結局 「悪」 は無力です。「悪」 で 「善」 の排除を試みると、必ず失敗します。

 天皇陛下は、この不思議な逆説をよくご存じだと思います。世の中が乱れていても、天皇陛下が博愛で受け入れる。そうすると、ご自分の存在が社会全体の雰囲気を和やかにし、日本国民は一つになることができるのです。

 皇室は、占領軍やリベラル派から 「天皇はただの象徴だ」 と侮辱されようと、憐れみや仁慈をもって誰にでも寄り添う。これは 『古事記』 にも多く見られます。

 アメリカの占領軍は、まさに 「須佐之男」 であった。天皇陛下に 「象徴」 という侮辱を与え、傲慢な態度を崩さなかった。しかし、イエス様がお教えになられた通り、天皇陛下はその侮辱に対し更なる侮辱で返したのではなく、愛と赦しと憐れみでお返しになった。

 この天皇陛下のお心が、「象徴」 という言葉の定義を大きく変えたのです。「象徴」 を肯定的に受け止め、従来の天皇のあり方に勝るとも劣らず、素晴らしい姿勢で天皇らしく国を象徴されてきた。そういう意味では、天皇陛下が第二次世界大戦を勝ち抜かれたと言えるでしょう。

 “象徴” 天皇が、八百万
(やおよろず)の神々に対して全国民の幸福を祈願し、国民の 「鏡」 として一人ひとりの心を顧みられることで、アメリカが思っていた窮屈な 「象徴」 の意味を超えて、天皇陛下は日本という国家の単なる象徴ではなくなった。天皇陛下は、日本の素晴らしさ、伝統の良さ、日本の歴史を代表される 「象徴」 になったのです。

 言い換えれば、「象徴の超克」 です。

 「天皇陛下が 『象徴』 という意味を変えたと思う」 という友人の言葉――。この言葉が響いた私は、天皇陛下のお陰で、令和が始まったばかりのこの時期に、不思議な希望が湧いてきました。

 天皇陛下は先の大戦に取り残された過去の産物ではなく、もっと人間らしい、リベラルの呪縛を払拭した未来の兆しに他なりません。

 「リベラル」 というイデオロギーは、必ず崩壊するでしょう。その時にも、天皇は必ずおられる。もしかすると、天皇陛下は 「象徴の超克」 だけではなく 「近代の超克」 も遂げてしまうかもしれません。

 私はアメリカ人として、いや、一人の人間として、新たな天皇陛下のご即位を日本国民の皆様と共に心からお祝いしております。≫



 ――天皇は憲法を否定せず受け入れながらそれを超えられた。天皇のご存在そのものが不文憲法として明文憲法の上にあり給うたとも言えよう。それは、神ならでは出来なかったことではないか。


          ○


   天皇は 「人間宣言」 などしていない


 もうひとつ、GHQは天皇のご存在を貶め日本を弱体化するために、終戦の翌年昭和21年元旦に、昭和天皇をしていわゆる 「人間宣言」 といわれている詔勅を出させた。

 それは、GHQが戦前の日本を、天皇は神の子孫 「現人神
(あらひとがみ)」 と信ずる天皇崇拝と軍国主義が一体となった狂信的軍事国家だと考えたからである。

 天皇という神の存在が、日本人が戦争をしたり、特攻隊のような戦い方をすることを可能にしたと分析した。GHQは日本に二度と同じようなことをさせないように、天皇(神道)が日本の政治に影響を及ぼさないようにしたかった。だがいくらGHQが 「天皇は神ではないと信じよ」 と命じても日本人がそれを信じなければ意味がないから、天皇本人に言わせようということになったのである。

 “人間宣言” の文面を最初に作成し、天皇に出させたのは、GHQ(連合国軍総司令部)の民間情報教育局のダイク氏だと言われている。

 しかし、昭和天皇の名で出されたその詔書は、連合国占領下の日本で1946年(昭和21年)1月1日に日本国政府の官報により発布されたが、これには何も題がつけられているわけではない。「人間宣言」 という名称は当時の日本のマスコミや出版社が名付けたもので、当詔書内には 「人間」 「宣言」 という文言は一切ない。

 その内容は、#291 に私が書いているように、冒頭に明治天皇の 「五箇条の御誓文」 を掲げられ、

≪ 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
   一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
   一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
   一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
   一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

 叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。 ≫


 とあって、民主主義はもともと日本にあったものだから 「又何ヲカ加ヘン」 ――何もつけ加えたり変えたりすることはいらない。

≪我ガ国民ガ現在ノ試錬ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克(よ)ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ、全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ効(いた)スベキノ秋(とき)ナリ。 ≫

 とおっしゃっているのであります。つづいて、

≪ 惟(おも)フニ長キニ亙レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動(やや)モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ、道義ノ念頗(すこぶ)ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵(まこと)ニ深憂ニ堪ヘズ。

 然レドモ朕ハ爾等
(なんじら)国民ト共ニ在リ。常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(きゅうせき=喜びと悲しみ)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

 朕ノ政府ハ国民ノ試錬ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ、我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚
(よ)リ相扶(たす)ケ寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能(よ)ク我至高ノ伝統ニ恥ジザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。

 斯ノ如キハ、実ニ我国民ガ、人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。一年ノ計ハ年頭ニ在リ。朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一
(いつ)ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾(こいねが)フ。

 御 名 御 璽

   昭和二十一年一月一日≫


 とあるのであります。

 これは 「新日本建設の詔書」 とも称されているものであって、天皇は神の子孫であるという神話を否定されてもいない。民主主義は日本に元からある、明治天皇の 「五箇条の御誓文」 にあることを明確にされたのであります。


          ○


   天皇は神の子孫であるという神話も否定されていない


 上記 「新日本建設の詔書」 に

 「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。」

 とあるが、この文言は決して、天皇は神の子孫であるという神話を否定されてはいない。朕(天皇)と国民との結びつきは、「単なる神話と伝説だけ」 によるものではなく、それもあるけれども、それだけではない、「終始相互の信頼と敬愛とによって結ばれてきた」 と言われているのである。


 だから、英国出身のジャーナリスト(「フィナンシャル・タイムズ」 初代東京支局長、元 「ニューヨーク・タイムズ」 「ロンドン・タイムズ」 東京支局長など歴任)ヘンリー・スコット・ストークス(Henry Scott Stokes)氏が、『WiLL』 の7月号に、次のように書いている――


≪   天皇は 「人間宣言」 などしていない   ヘンリー・S・ストークス


 天皇というご存在は、世界の宝である。ギネスブックには、「世界最長の王朝」 として記録されている。それだけでも、天皇というご存在の尊さは 「世界の宝」 というに相応しい。

 しかし、それだけではない。天皇を、最も崇高にして神聖なる存在たらしめているのは、天皇が神話の時代を二十一世紀に生かし続けていることである。皇室、そして天皇のご存在は、「市民」 や 「民衆」 や 「選挙民」 が決めたものではない。

 それは神話の中で、天照大御神が 「この地が私の子孫がシロシメス土地である」 と、神勅を発せられたことに由来する。そして、「天孫」 と位置付けられる天照大御神の孫にあたる邇邇芸命
(ににぎのみこと)に、庭にあった稲穂と鏡を授けて地上に降臨させたのだ。天孫降臨である。皇室祭祀で、稲や米が大切にされるのには、こうした背景がある。日本文化の大本は、大陸からの輸入文化ではなく、神道なのだ。

 降臨した天孫の孫にあたるのが、橿原の宮を開かれ日本の初代天皇となられた神武天皇である。

 私が尊く思うのは、畝傍
(うねび)の橿原に大宮を築いて即位した時の詔である。

「八紘
(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)む」という有名な行(くだり)は、それこそ今風に言えば、「世界は一家、人類は皆兄弟」 ということである。

 これは初代天皇となった神武天皇の 「世界平和を実現しよう」 という理想であって、世界征服を目論むようなものではない。「八紘」 というのは、八方という意味で、天下とか世界を意味する。神武天皇の時代には、「大和の国」 が世界であったろう。

 こうした日本の神話は、当然のこととして日本の学校教育、特に義務教育で教えられてしかるべきである。しかし不思議なことに、日本の公教育で 「日本神話」 は教えられていないのだという。

 その背景には、GHQの占領政策がある。特に、特攻隊など死をも恐れず向かってくる日本軍に恐怖を感じたマッカーサーは、「天皇を神とあがめ、天皇のために死ぬことを厭
(いと)わない神道の教えに問題がある」 「日本を二度とアメリカに歯向かわせないためには、天皇への信仰心を取り除かなければならない」 と考えたのだ。

 多くの日本人は、天皇は 「人間宣言」 をして 「神ではないと宣言した」 と、そう錯覚している。実は、天皇は 「人間宣言」 などしていないのだ。

 いわゆる 「天皇の人間宣言」 と呼ばれる詔は、昭和21年の元日に発せられたものだ。この詔には、タイトルがない。「人間宣言」 などというのは、占領軍のプロパガンダに踊らされたマスコミが事実を捻じ曲げてレッテル貼りをした虚構だった。

 詔で、天皇は、「天皇が神を自称して、臣民を世界征服のための侵略戦争に駆り立てたなどとは、荒唐無稽な話だ。天皇と臣民の信頼関係はもっと深い歴史に根差したものである」 という主旨を述べられたにすぎない。このどこが 「人間宣言」 なのだろうか。

 むしろ、「日本が侵略戦争をした」 という占領軍の虚妄を真っ向から否定されたまでであった。それが、「天皇の 『人間宣言』」 などとして、日本の公教育や教科書で日本人に教えられているとしたら、なんと不幸なことであろう。

 世の多くの人々は、民主主義こそが最高に素晴らしいものであるかのように錯覚している。だが民主主義は、時にヒトラーのような暴君をも生み出す。決して万能ではない。

 一方で、二千年以上にわたって国民を慈しまれ、国をひとつに治めてきた天皇は、世界史でも立証済みの実績を持たれている。時の政治家や軍人が対立して戦っても、日本という国が、皇紀で言えば2679年(令和元年)までの長きにわたって分裂することもなく治められ続けたのは、天皇という存在があってこそである。

 世界最長の王朝、しかも 「万世一系」 の天皇という、神話に由来する国の長である。その権威は、決して占領軍によって侵されることはなかった。

 その証拠に、警備もつけず広島に行幸された天皇を原爆を投下された広島の人々が歓喜して迎えた。多くの国家指導者は戦争に負ければ地位を追われるか、亡命するか、殺されるかと相場が決まっている。ところが、日本の天皇は戦前も、戦中も、戦後も、天皇として君臨された。これまた、世界史の奇蹟である。

 なぜ、そのようなことが可能なのか。それは、日本の長い長い歴史の中に天皇が存在しているからである。そして、その天皇は日本固有の、日本オリジナルの信仰でもある 「神道」 の、最高位の神官なのだ。単に選挙の人気投票で選ばれたというような、「成り上がり」 ではない。

 これから様々な宮中祭祀、なかんずく大嘗祭が執り行われる。そうした祭祀は連綿と古代から受け継がれたもので、秘儀の部分もあろう。それを、国会議員や民衆が開示しろとか、差別にあたるとか、そういう議論をするとしたら大人げない。全てのことには、秘め事がある。差異もある。それを分別できてこそ成熟した文明であろう。

 天皇は、現人神
(あらひとがみ)なのだ――。≫


 (2019.6.14)
511 人生は神生であり生命芸術である


 私は約4年前、この 「近況心境」 #148#149 に、「日本民族最大の創作芸術は」 ・ 「“生命芸術” としての国体と宗教」 と題して、書いていました。今それを読み返して、感想を挟みながら、再録したいと思います。


          ○


148 日本民族最大の生きた創作芸術-それは“天皇国家”


 谷口雅春先生は 『美しき日本の再建』 に、次のように書かれています。

≪   天皇国家は日本民族独得の一大文化的創作である(p.29)

 われわれ独得の日本人の創作の文化の中で、一番偉大なる生きた芸術――生きて動いている大芸術がこの日本の国体であります。

 国体というと、国のあり方のことであります。この日本にしかないところの、一大創作芸術、一大文化的産物というのが、日本独得の天皇中心の “天皇国家” というものであるのでありますが、そういう独得の一大創作なる国家が創造されたというのは、この日本民族の真理直観の天分によるのであります。

 日本民族が古代から宇宙の真理として天地の始めに発見し表現した所の天之御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)、宇宙の御中(みなか)に中心があって、全ての生命はその御中の中心から分れて出て来、そして又、それが中心に帰一して、中心・周辺一つにして渾然一体であるのが生命体であるという真理を日本民族は把握したのである。

 日本民族にとっては、全てのものは、一つの中心生命体から分れて出て、分れて出た末梢生命が又、中心に帰一して、それが渾然一体たる有機的生命体となっていると観るのであって、この世界観が国家にあらわれているのが、この現実の大日本国である。この民族の一大創作芸術である独得の日本の国家形態を吾々日本民族は永久に護持しなければならないのであります。これは他に、真似の出来ないところの創作芸術である。…(後略)…≫


 (『美しき日本の再建』 谷口雅春先生著より)

 ――「日本の国体(国のあり方)」 とは、「天皇主権」 とか 「国民主権」 とか、天皇と国民を利害の対立する二者とは見ず、君は民を 「おおみたから」 と拝み給い、民は君を 「大君は神にしませば……」 と拝みまつって来た。明治天皇は 「罪あらばわれをとがめよ天つ神 民は我が身の生みし子なれば」 とお詠みになった。君と民は親子のように一体のもの、君民一体、君民同治が国のあり方であった。だから終戦のとき、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問され、「戦争の責任は自分一人にある。自分はどのような処置をとられても異存はない。罪のない国民に餓死者が出るようなことのないように、食料援助をお願いしたい」 と申し出られ、マッカーサーをして 「骨の髄までも揺り動かした」 と言わしめるような感動を与えた(#145)。そうして 「生命
(いのち)を得んとするものは生命を失い、生命を捐(す)つる者は生命を得」 とキリストも云ったように、食糧は援助され、国体は守られてきた。

 このような国が世界にただ一つあるということは、奇跡とも言えることではなかろうか。

 それは、イエス・キリストが結婚して子をもうけ、その子孫がイエスの教えの通り愛を行じて治める神の国が現存しているような奇跡、あるいは仏陀-釈迦牟尼の子孫が今もインド王国の王として仏の慈悲を行じ、菩薩行として国を治めているというようなこと、または孔子の子孫が中国の皇帝として徳をもって仁政を行っているというような、まさに 「有り難い(めったにあり得ない)」 こと。

 日本食や富士山が世界文化遺産として登録されても、そのような形あるものを超えた、限りなく偉大な生きた創作芸術 「日本の国体」 こそが世界で最も貴重な文化遺産であることに気付かず、これを守ろうとしない者は、愚か者というしかない。私は、そう思います。  (2015.10.2)



 ――以上を書いたのは平成27年(2015年)でしたが、それから約4年たった今、新しい御代を迎えるに当たり、『WiLL』 6月号では 「皇室こそ世界遺産」 と題した特集記事を掲載しており、日本を愛する6人の外国人国際政治学者などが、異口同音に日本国体を讃える発言をしている(→#510)。 時代の潮流は大きく変わってきた。


          ○


149 “生命芸術”としての国体と宗教


≪「天皇国日本」は日本民族が創作した世界最大の文化的創作であって、これより大なる大芸術は他のどこにもないことを知って、この国体を尊重して貰いたいものである。≫
  (谷口雅春先生『古事記と現代の預言』序文より)

≪手を挙げるのも、眼をしばたたくのも、歯をみがくのも、床(とこ)をたたむのも、笑うのも、鼻をつまむのも、ことごとくが芸術である世界、そのような世界に住んでいて、そのような生々しい真理のカケラを血眼(ちまなこ)になって追いまわしている人々を、なぜ芸術家と呼ぶのでしょう。≫
  (谷口清超先生『愛と祈りを実現するには』より)

≪生命に生きることが、私の芸術であり、その生命芸術を宗教というのだ。
 宗教ほど大きい芸術はない。普通にいわれている芸術は、感覚を通じての局部芸術だ。宗教だけが全生の芸術をもち、生命の芸術をもつ。≫

  (賀川豊彦氏「生命芸術としての宗教」)

≪私は(賀川豊彦氏の言われる)「生命芸術」は、天皇に帰一する宗教にしてはじめて完成するのだと思う。一つの中心ある全体生命の中に個の生命が完全に救いとられるところにこそ、生命芸術の美の極致があるのではないだろうか。これを完成するところに生長の家出現の目的があるのだと思う。……われらの目的は個の生命を単に個の生命としてではなく、全体生命=一つの中心ある生命=永遠生命の中に救いとることにあるのだ。何たる大いなる聖使命であろうか。信じられないほど輝かしく豊かな世界をわれらは創りだすのだ。≫
  (岡正章「変わらざるものを」<『聖使命』昭和45年10月15日号「北極星」欄所載>)


≪ここに賀川豊彦さんの 「神の祭」 という文章があります。賀川豊彦さんというのは有名なクリスチャンで社会救済運動に挺身された方で、もうだいぶ前に亡くなられましたが、私は生前に賀川先生の講演を二、三回聴いたことがあります。霊感的な、火を噴(ふ)くようなお話でした。その賀川豊彦さんの 「神の祭」 という、熱烈な詩的な文章です。読んでみます。

  「聖パウロは言った。“その身を活ける供物
(そなえもの)として神に献げよ”と。
 五尺の鯉
(こい)を神に祀(まつ)ることは最も愉快なことである。
  
(この「五尺の鯉」というのは、人間のことを言っているんです――話者)

 吾々の生活の凡
(すべ)てが神への供物であり、祭であるのだ。
 祭だ、祭だ! 花火が上り、楽隊が聞えるではないか。我々の生涯のあらゆる瞬間が神への祭だ。表に五色の旗が翻
(ひるがえ)らなくとも、魂の奥には、永遠の燻香(くんこう)が立ち昇る。神への燔祭(はんさい)は、我々の赤き血そのものである。

 若き小羊を捕えて神に献げよ。全き小牛と全き小羊を神に献げよ。日本の若者の魂を捕えて神に献げよ。神への奉加は、吾々の生命そのものであらねばならない。吾々の玉串は、生霊そのものであらねばならぬ。完全に我々の全生命を神に祀ろうではないか。我々の肉体、我々の生活、我々の精神、我々の学問、我々の芸術、そして我々の道徳を神への献げ物として八足
(はつそく)台に献げようではないか。

 永久
(とこしえ)の祭だ、永久の歓楽だ! 不滅の花火、無限の祝典、生命の神饌(しんせん)は永劫(えいごう)に尽くべくもない。両国の花火はなくとも、我々の心臓のうちには、不滅の血が花火以上に赤く爆発する。」

 これが賀川豊彦さんの「神の祭」という文章です。私たちも、毎日毎日の生活を、すべてを神への祭りにしようじゃありませんか。素裸になって、すベてを神さまに献げてしまうんです。そのとき、神さまからすべてが与えられているんです。こんなうれしいことはないじゃありませんか。

    生命芸術の創造を

 賀川豊彦さんはまた、「生命芸術としての宗教」という題でこう書かれています。

 「私は敢ていう。宗教ほど大きい芸術はない。普通にいわれている芸術は、感覚を通じての局部芸術だ。宗教だけが全生の芸術をもち、生命の芸術をもつ。」

 「宗教は生命芸術である」と言われるんですねえ。このことばは、生長の家によってはじめて現実の意味が出てくるんではないかと思います。

 神想観をして龍宮海すなわち創造の本源世界に入ると、私達の中に時間も空間も全部ある。天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時、即ち今、自分は神さまと一つになって、宇宙創造をしているんだ。その中心がわれわれ一人一人なんです。この宇宙は神さまが指揮者であるところの一大交響楽だというわけですけれども、また、われわれ一人一人が神そのものですから、われわれ一人一人が指揮者であり、演奏者であり、宇宙創造の中心者であるわけです。どういう音楽をかなでるかということは、われわれ一人一人の心ひとつにあるわけなんです。

 「人間神の子」の大真理をうたい上げて行きましょう。もっともっと素晴らしい歌をわれわれが創り出して行きましょう。そして、自分が創造の本源の中心にある自覚で、交響楽の演奏にも似たような、メロディーとリズムとハーモニーのある喜びの創造的運動をやって行こうではありませんか。≫


  (岡正章 『光のある内に』 〈昭和54年8月 日本教文社刊〉 所載 講話録より)


≪ 憂うべき戦後教育

 日本弱体化政策によって、まず修身・国史・地理を教えることが禁止された。教育のあらゆる部面で、日本人に国の誇りを失わせるような政策がとられた。現行日本国憲法が制定されるや、この憲法を尊重すべきことを中心とする「社会科」の授業が行われ、日本のよき伝統と歴史から断絶された根無し草のような教育、日本の過去はすべて否定するという教育が行われてきたのである。(中略)

   正しい歴史教育を通し高い理想を

 教育は、一定の理想あるいは価値を志向して行われるべきものであって、高い理想をめざさない教育などというものは本当の意味での教育とはいえない。しかして教育の理想は、国家理想、政治の社会的理想と無関係には考えられない。

 その理想はどこにあるか。……日本国憲法による戦後の教育が理想であるか。……現行憲法が理想だなどという者は、日本人は数千年の歴史をもちながら、この昭和二十年に至って敗戦の憂き目にあい占領憲法を与えられるまでは、正しい理想がわからなかったバカ者だったということなのだ。

 日本国は幾千年の間、天皇を中心に戴いて、幾多の困難をのりこえ、繁栄してきたのである。天皇中心の政治と文化を築く営みにおいて国民はその理想を遂げつつ人間性を開発してきたのである。

 「我カ
(わが)臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此レ我カ国体ノ精華(せいか)ニシテ教育ノ淵源(えんげん)亦実ニ此(ここ)ニ存(そん)ス」

 この教育勅語の中に日本国民の教育の理想、社会的理想があったのである。……理想の教育による理想国家実現のために前進しようではないか。≫


  (岡正章 『生学連新聞』 昭和45年10月1日号所載)

 「克
(よ)ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世々厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此レ我カ国体ノ精華(せいか)」――これぞ世界最大の生きた創作大芸術でしょう。  (2015.10.3)


 ――上記 『生学連新聞』 所載論文は昭和45年(1970年、安保条約再改定の年)で、今から50年前の執筆だ。それは谷口雅春先生の烈々たる信仰の御指導による。ありがたき極みである。それから半世紀を経て、唯物思想の迷妄は次第に崩壊し、実相の光が日本に顕現してきたと言えよう。


          ○


 人生は神生であり、生命芸術である。

 ――時間・空間を舞台として壮大な生命芸術を展開しているのが、私たちの人生なのでありました


 (2019.6.9)
510 「令和」新時代を美(うるわ)しく生きる


 人間の肉体は、時間・空間の中に生まれて生命の表現をする。

 しかし、それは表現して消え行く影であって、人間の本体は時間・空間を超えたところにあり、時間・空間を生み出した主人公=神なのである。人間は、死なない。

 「神我一体」 「自他一体」 「三界唯心」 である。

 「神」 は 「示す」 偏に 「申す」 と書く。

 神はことば(ロゴス)であり、創造者であり、表現者である。

 人生は神生であり、表現であり、生命芸術である。

 人生は時間・空間を画布
(キャンバス)として描く画であり、時間・空間を大ホールとして演奏する音楽であり、上演・上映する演劇あるいは映画である。

 人間は本来神であり、仏である。無限の自由・無限の可能性を持っている。

 日々、その無限の可能性を、悦びをもって美しく表現する御代(みよ)――

 「令和」 の御代は、そういう御代にしよう。


          ○


 「言葉は神」 である。言葉は創造主
(つくりぬし)である。

 元号は、その御代を創造
(つく)り出す言葉である。

 「令」 には 「神のみこころ」 という意味がある。

 神のみこころは、令
(うるわ)しく、美(うるわ)しい心である。

 「神、その造りたる諸
(すべて)のものを観たまひけるに、甚だ善かりき」

 (『創世記』) である。


          ○


 美しいものには、中心がある。

 美しい世界には、一つの中心がなくてはならない。

 その美しい中心を、「スメラミコト」 というのである。

 イエス・キリストが 「みこころの天に成るがごとく地にも成らせたまえ」 と祈るように教えた神の国、

 釈尊が金色の蓮華の花を拈って示した中心帰一の金波羅華
(こんぱらげ)世界――

 そのひな形、モデルとも言うべき、「スメラミコト」 (天皇) を中心に大きく令
(うるわ)しく和する国が、日本の理想なのである。

 だから日本を 「大和
(やまと)」 の国と言う。「やまと」 とは、弥数多(いやあまた)のものが中心に一つにまとまっていることを意味する。

 そして、「しきしまの大和の国は 言霊
(ことだま)の助くる国ぞ 真幸く(まさきく)ありこそ」 (万葉集、柿本人麻呂)とも歌われている。


          ○


 「令和」 という新元号は、80%以上の国民に好感を持って受け入れられている。

 「国中が湧いた」 と言ってもよい。特に、若い人たちが、喜んで受け入れた。

 戦後教育を受け、占領軍のWGIP(“War Guilt Information Program”の頭文字。GHQが占領後も日本人の心に戦争犯罪者意識・贖罪意識を植えつけ、独立心を奪い二度と立ち上がれなくしようとした洗脳政策。#140 参照の教育を受けてきた若い人たちが、このたびの 「令和」 改元に沸き返った。

 「日本は、世界最古の歴史と文化を持つ、ステキな国だったんだ!」 と。

 GHQは日本人の誇りを破壊しようとし、それは成功してきたように見えたが、ついに叶わなかったと言える。日本人を洗脳から守ったのは、古くから日本に続く確固たる存在、すなわち天皇にほかならない。

          *

 しかし、この 「令和」 改元に違和感を持ったり、反発する人も、まだ20%近くいる。

 人間は完全に自由につくられているから、どのように受け取るのも自由である。

 しかし、「思い」 はその人の人生を創る。積極的に明るい思いを持てば、明るい人生が創造される。

 80%の国民が 「令和」 という新元号を好感を持って受け入れているということは、新しい御代が明るい素晴らしい御代になることを暗示していると考えられる。

 そうなるように、私も残る人生を、全心全霊を懸けて、積極的に美しく生きて行きたいと思う。


          ○


 『WiLL』 6月号に、「皇室こそ世界遺産」 と題した特集をしており、日本を愛する6人の外国人国際政治学者などが、異口同音に、次のように書いている。(一部抜粋です)


≪ ご譲位によって、「令和」 の御代を迎えることになりました。

 ご譲位によって新天皇が即位されるのは、第119代の光格天皇(在位1780~1817年)以来、約200年ぶり。光格天皇が即位されたのは、アメリカの建国のわずか4年後のことです。

 日本という国の 「凄み」 の一つは、ここにあります。

 アメリカと違い、ちょっとした伝統、慣習でも、数百年、はたまた千年以上も遡ることができるのです。

 日本人の皆さんは、それを当たり前に思っているかもしれません。しかし、国家が長い間、侵略も征服もされることなしに続いているからこそできることなのです。ユダヤ人の私は、そのことを痛切に感じています。

 世界の歴史の中で、数多くの王朝が興っては、滅びていきました。しかし、そうした中で日本だけは連綿と一つの皇室が続いているのです。これを“奇跡”と言わず、何と言うのでしょうか。

 皇紀で言えば、令和元年は2679年にあたります。ギネスブックでも、皇室は 「世界最古の王朝」 と記録されていますが、世界最古の王朝は日本人にとってのみならず、世界中の人々にとっても“宝”ともいうべきものです。

 「皇国
(すめらみくに)よ、永遠(とわ)に、弥栄(いやさか)なれ!」

 私は、その思いを込めて新たな御代を、愛するイスラエル、日本、そして世界の人々とともに、素晴らしい時代にしてゆきたいと思うのです。≫

 (元駐日イスラエル大使 エリ・コーヘン)


≪ 皇室、そして天皇という存在は、日本にとって何物にも代えがたい宝ものです。

 では、アメリカの 「柱」 は一体、何なのでしょう。

 多くのアメリカ人は、三つの文書――「権利章典」 「独立宣言」 「合衆国憲法」――と答えるでしょう。アメリカの建国の父たちは、宗教と政治を区別し、「人間中心」 の国をつくろうとしました。

 しかし、三つの文書は表現が抽象的で、その意味を一般の国民が理解しているとは思えません。アメリカの 「柱」 は目に見えず、分かりにくいものです。

 そして現在、アメリカは 「右派」 対 「左派」 の“内乱”へ向かっています。

 欧州ではこれまで多くの戦争が起こり、何度も王室の交代、つまり 「国体の変更」 が起こりました。勝った国の王様が負けた国の王様を殺したり、男爵や伯爵が王様を殺して成り上がった例もあります。

 しかし日本では戦国時代、大名がどんなに権力を持っても、天皇陛下に取って代わろうとはしませんでした。また、局地的に農民の暴動はありましたが、国体を変更する 「革命」 は起こらなかったのです。

 それは仁徳天皇の 「民のかまど」 の逸話に象徴されるように、天皇は民を思い、そして国民がそんな天皇を尊敬していたからでしょう。

 日本のように 「皇室」 という目に見える、分かりやすい 「柱」 が存在する国の国民は冷静で、感情的になりにくいのです。

 今上陛下を見ていると、外国人が驚く日本人の感謝の心、助け合いの精神、優しさといった国民性も、皇室の存在が大きな影響を与えたことが分かります。

 皇室が存在したからこそ、素晴らしい日本人、日本が存在する。日本人は永遠に皇室を大切にすべきです。≫

 (元アメリカ海兵隊員・歴史研究家 マックス・フォン・シュラー)


≪ 私は日本の皇室のことを知ってから、一貫して 「畏敬」 と 「憧れ」 を感じています。

 世界の中で、皇室ほど尊い存在はありません。

 なぜ、日本の皇室は尊いのか。「長く続いているから」 ではありません。因果関係は逆です。

 尊いからこそ、長く続いている――皇室が長く続いていることは、尊さの 「理由」 ではなく 「証拠」 なのです。

 日本の左派には、皇室の存在を否定する人たちがいて、皇室を大切にする人たちのことを 「右翼」 とレッテル貼りをします。

 保守の基本的な考え方とは、一人の智恵より、多くの人の智恵の方が優れているということです。

 それは、「現在を生きる私たちの多数派」 という意味ではありません。現代人の智恵より、今まで生を受けた全ての人たちの智恵の方が優れている、という意味です。

 これまでの日本人は、皇室の存在が日本国の安定と民族の繁栄を支えていると分かっていました。社会全体の感覚として、「皇室を大切にしないと、日本民族は繁栄しない」 と感じていたのです。

 実際に歴史上、天皇を軽視した勢力は最終的に滅んでいます。どちらが正しく、どちらが間違っていたのか、何よりも物語っているでしょう。

 長い歴史の中で、神々の意思に沿ったものが残り、そうでないものが消え去りました。尊いものが残り、そうでないものが消える――単純明快な法則です。

 だからこそ、日本の皇室は、世界で最も尊い存在の一つと言えるでしょう。≫

 (ウクライナの国際政治学者グレンコ・アンドリー氏)


          ○


 『文藝春秋』 6月号に、「新天皇皇后 『知られざる履歴書』」 と題して、ジャーナリストの友納尚子氏が、次のように書いている。

≪……お住いの赤坂御所(元東宮御所)の部屋には、この4月に学習院女子高等科3年生になられた愛子内親王殿下(17)が筆で書かれた 「令和」 の半紙が飾ってある。その文字は墨痕あざやか実に堂々たるもので、令和時代の安寧を願うお気持ちが見る者に伝わるものだという。

 両陛下は、この文字を折に触れご覧になり、平成の終わりと令和の始まりを迎えられた。≫


 ――私も、「令和」 の文字を筆で書き、座右に飾って日々これを見、新しい御代の素晴らしい天皇陛下・皇后陛下のお心をわが心として、日本に生かされている悦びと感謝に輝く創造の日々を送ろうと思う。


 (2019.6.3)
509 品田悦一氏の偏見を駁す


 「令和」 の 「令」 は 「久遠の今」 であり(#507参照)、龍宮城――

 乙姫様の舞い踊る 「うるわしい」 「よい」 ところである。そして


≪大和(やまと)は 国のまほろば

 たたなづく 青垣

 山こもれる 大和し うるはし≫
(『古事記』)


 と日本武尊
(やまとたけるのみこと)が歌われた、令(うるは)しき日本である。


 「令和」 の考案者とされる中西進氏は、 『文藝春秋』 6月特別号に、次のように書いておられる。

≪元号とは何か。元号とは文化です。

 つまり日本で連綿として受け継がれてきた文化であって、本来、国や役人が定めるものではありません。元号は本来、天が決めるものなのです≫


 と。

          ○


 私は新元号が決まる前の3月29日に、次のように書いていました。


≪ 新たなる御代の元号が、まもなくあと3日ほどで、4月1日に発表されます。

 どういう元号になるのでしょうか。

 元号は、「国家の理想を語っていること」 というのが第一条件。

 ならば、私は 「大和」 という漢字が浮かびますが――

 これは、「土地の名前などと重複しない」 という条件から、はずれますね。

 「国文学、漢文学、日本史学、東洋史学などについて学識を有する専門家に考案を委嘱し、内閣の責任において決める」 と言われているが、そこには人智を超えた神智が天降って決まることを信じ、わくわくしながら期待しています。≫


 と。

          ○

 ――まさに、その通りになったことをうれしく思っています。

 それで、私は歌に詠んだのであります。


≪ 元号は人作るにあらず天(あめ)よりぞあまくだりきて祝福したま

  
(「令和」 の考案者といわれる中西進氏もそう言っておられる。
    中西氏は万葉集研究の第一人者、90歳。2013年文化勲章受章。
    中西氏は 「元号は中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、
    天の声で決まるもの。考案者なんているはずがない」 と話した<4月2日 時事通信>。)


  
元号はわが日の本の文化なり いま令(うるは)しく和みて咲(わら)ふ≫

 と。



          ○


 「令和」 に関する私の歌と説明をある方に送ったところ、「これを読みなさい」 と、品田悦一
(よしかず)氏(国文学者)の檄文のようなものを送ってこられた。それは、 『短歌研究』 という雑誌に掲載された 緊急寄稿 「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ  と題する論文のコピーであった。

 私は、それを送って来られた方(私が所属している短歌会のお世話役・指導者格の方)に、次のようにお返事した。


≪ ご懇切なお手紙、そして 「『令和』 から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ」 という品田悦一氏の論文コピーをお送りくださいまして、まことにありがたく、感謝申し上げます。

 感想を申し上げます。

 品田氏はその方面の専門研究者として該博な知識をお持ちのようですが、結論は、旅人の心境などについていささか偏見をもって断定的に言い過ぎていらっしゃると思われ、残念に思います。

 具体的に申し上げますと、新元号 「令和」 の出典、万葉集巻五 「梅花の歌三十二首」 の序文を書いたと思われる大伴旅人
(おおとものたびと)について、

【 ……長屋王を亡き者にしてまでやりたい放題を重ねる彼ら(藤原四兄弟)の所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。年老いた私にできることといえば、梅を愛でながらしばし俗塵を離れることくらいなのだ。…(中略)… これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人のメッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への憎悪と敵愾心が潜められている。】

 と書かれていますが、それは品田氏の推測であって、そう断定できる証拠はない。現に、「令和」 の考案者とされている先輩同業者(同じ万葉集の研究者という意味です)中西進氏は、少し違った見方をしておられます。5月1日付け日本経済新聞では

【 「序文の作者は大宰帥の大伴旅人だと思います(註。万葉集の序文に署名はない)。この宴を開いた前年には、平城京では 『長屋王の変』 が起き、藤原四兄弟による独裁が始まっています。旅人はそうした時期に左遷され、大宰府に来た。中央の政局への複雑な感情があったに違いありません」

 「そんななかで開いた宴の序文には、権力者にあらがいはしないが屈服もしないという気構えが見て取れます。本当は、どんなに悔しかったでしょう。それを抑えて、悠然と風流を楽しんで宴を張る。不如意のときの見事な生き方を示してくれています」】

 
と書かれていますが、6月特別号の 『文藝春秋』 では

【……森鴎外も軍医として北九州の小倉に左遷され、「隠流」 という号を名乗っています。その境遇は似たものがありますが、旅人は鴎外とは違って陰陰滅滅とはせず、権力争いとは距離を置き、都を遠く離れても人生を楽しもうとした人でした。

 旅人には融通無碍な歌の技巧があり、和歌は漢文風です。例えば、「天地
(あめつち)と 長く久しく」 と書いて 「天地長久」 と漢文としても読めるような和歌を作ります。読むたびに感心しますが、「梅の花の歌の序」 も漢文で書かれながら、和歌として詠むこともでき、しかも梅の花を囲む宴会の、快く満ち足りた様子もありありと伝わってきます。

     旅人のような品格を

 旅人は、端然として品格のある人物です。組織や権力に恋々とせず自由に楽しむ生き方を選びました。人生を満喫できるかどうかは自分が決めることですから、私は旅人を見習いたいのです。

 昨今、価値観が定まらず、行く先が分からない日本で、多くの人は不安感にとらわれています。その中で、麗
(うるわ)しく生きる万葉集の精神性、そして旅人の品格のある生き方が 「令和」 という元号から伝わるよう願っています。】

 と書かれており、品田氏と中西氏の論文とでは、かなりニュアンスがちがいます。どちらに共感するか、それは人によってまちまちでしょう。私は、中西氏の論の方が品格が感じられてよいと思います。

 品田氏は最後に、次のように書かれています。

【 安倍総理ら政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。

 一つは、新しい年号 「令和」 とともに 〈権力者の横暴を許さないし、忘れない〉 というメッセージの飛び交う時代が幕を開け、自分たちが日々このメッセージを突き付けられるはめになったこと。

 二つめは、この運動は 『万葉集』 がこの世に存在する限り決して収まらないこと。

 もう一つは、よりによってこんなテキストを新年号の典拠に選んでしまった自分たちはなんとも迂闊
(うかつ)であったということです(「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。

 もう一点、総理の談話に、『万葉集』 には 「天皇や皇族・貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌」 が収められているとの一節がありました。

 この見方はなるほど三十年前までは日本社会の通念でしたが、今こんなことを本気で信じている人は、少なくとも専門家のあいだには一人もおりません。高校の国語教科書もこうした記述を避けている。かく言う私が批判しつづけたことが学界や教育界の受け入れるところとなったのです。

 安倍総理――むしろ側近の人々――は、『万葉集』 を語るにはあまりに不勉強だと思います。私の書いたものをすべて読めとは言いませんが…(後略)…】


 ――何という人を見下げた書き方をされるのでしょう。「俺は東大教授だ、だまって俺の言うことをきけ」 というような傲慢さが感じられて、人を不愉快にさせます。私は、こんな人には嫌悪感を感じます。

 率直な感想を申し上げました。失礼致しました。お許し下さい。

                  岡 正章 拜

  追伸 最近の新聞記事から、コピーを2点、添付させて頂きます。≫




          ○


 昨日引用させて頂いた 「君民同治の神示」 に、

≪……人は自己が無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である(民主)との自覚を、生命の外延の世界に於ても持つことを要求するのである。観られる世界は観る人の心の世界であるからである。

 身体も国も共に観る者(主体)から反映せられる世界(客体)である。

 観る心の要請が身体に於ては脳髄の存在となり、国に於ては永遠の元首なる、無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。

 天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから来る。…(後略)…≫


 とありました。品田氏は、自分の中に 「権力者への憎悪と敵愾心」 を持っているから、大伴旅人もそうだろうと観たのでしょう。

 一方、中西進氏は 「端然と品格ある生き方」 を理想として生きておられるから、旅人のすがた・文章に 「品格」 を観られたのではないでしょうか。


 (2019.5.30)
508 「令和」 新時代を讃えて詠める歌(3)


 「やりとげた」 よろこびにまさる幸福なし 仕事制限は幸福制限だ


 ―― 幸福とは何か。健康で、衣食住足りて、家族むつまじく、時には打ち揃って旅に出かけるというのも、平凡な幸福であろう。

 しかし、困難を克服し、辛い仕事をやり抜いてやり遂げたという達成感のよろこびには、平穏無事という常識的幸福感にまさるやすらぎ感、幸福感があると思う。


≪ 兄弟よ、海の波が巌(いわお)にたわむれるように、困難にたわむれよう、猿が木の幹を攀(よ)じのぼるのをたのしむように困難を楽しんで攀じのぼろう。もし軽業師が綱の上を渡らないで、平坦な大道を歩くだけならば、誰も喝采する者はないであろう。梅の花は烈々たる寒風の中で開くので喜ばれるのだ。

 兄弟よ、わたしは苦しみに耐えよとは言わない。「生長の家」 では苦しみに戯れるのだ。いかなる苦しみをも戯れに化するとき人生は光明化する。

 盤根錯節
(ばんこんさくせつ)は 「生命」 がたわむれるための一つの運動具である。諸君はスキーを多難だと言うか。登山を不幸だと言うか。ゴルフを艱難だと言うか。競泳を悲惨だと言うか。いかなる苦しみも戯れに化するとき人生は光明化し、そこから剛健なる無限の生命力が湧いて来る。≫



 「働き方改革」 と言って、「上限を超えた残業はダメです」 と一律規制することによって、勤労者が働きやすくなるとは思えない。

 労働時間を縛ることは勤労意欲を削ぎ、日本をダメにする――といわれる丹羽宇一郎氏の論文(『文藝春秋』 令和元年6月特別号)に共鳴する。


≪仕事とは、すなわち人生そのもの――私は半世紀以上、この信念でやってきました。

 ……激しく仕事をした人間は大きく成長します。でも中途半端な仕事をしていたら人は成長しない――だから意欲のある人間は、何時間でも働いたらいいと思います。それは会社のためだけではなく、その人のためでもあるからです。

 ……仕事をマイナス面ばかりから考えるのは間違いです。仕事は何よりも人に生きる喜びをもたらしてくれる。働き方改革は、それが法律に反映されていないのです。≫



 ――「仕事を制限することは幸福を制限することだ」 というタイトルで、丹羽宇一郎氏は 『文藝春秋』 誌に、そう書いておられる。同感である。


          ○


 「天才の育て方」 と題して、日本経済新聞 5月23日夕刊の 「あすへの話題」 欄に、経済学者 松井彰彦さんが書いていらっしゃる。――


≪  天才の育て方
                   経済学者 松井彰彦

 大阪は天王寺よりさらに南に下った喜連瓜破
(きれうりわり)駅からタクシーに乗ると、周りに畑や空き地が残る陽だまりの中に小洒落(こじゃれ)た建物が見えてくる。これが障害者の施設だとは、言われなければわからない。

 アトリエ インカーブ。自身も障害当事者の今中博之さんが創り育てた 「施設」 だ。アトリエに所属するアーティストは20~30人。全員が――社会の基準で言えば――知的障害者である。

 しかし、彼らの作業を見ていても、障害者とはわからない。稼ぎ頭の寺尾勝広さんは、2メートル四方の絵を2週間で描きあげる。その絵が海外で400万円で売れる。必要経費を除いた売上代金は彼の所得だ。

 天才とも言える才能は教育では育まれない。「教育は邪魔です」 と今中さんはきっぱりと言う。型にはめられるような教育を受けてきた彼ら――健常者の指示をよく聞くよう躾けられてきた彼らは、一度指示されると、自由な発想を失ってしまうという。

 躾けられてきたのは健常者も同じだ。何枚絵を描いても、「好きやから、飽きへん」 と寺尾さん。それを聞いた美術系の大学生が、絵が好きだったのに、教授の顔色ばかり窺うようになった自分を振り返って、泣きだしたこともあるという。

 僕のゼミから僕を超える研究者が沢山生まれてくる理由も同じだ。彼らはおしなべて論文を書きまくる (ただし、寺尾さんのような実入りはない)。研究が好きだから飽きないのだ。そして、僕が 「教育は邪魔」 と言って、ゼミ中 うとうとしているおかげで 彼らは伸びるのだろう。今度のゼミでは彼らが成功する夢でも見よう。≫



          ○


 上皇様となられた先代の天皇陛下は、#505 の日本経済新聞 2019年4月27日記事 「平成の天皇と皇后 30年の歩み」 (最終回)に書かれているように、まれに見る 「心の強い方」。

 それは、「無にして絶対」 なる境地―― 「久遠の今」 なる、「一切者」 なるものとして 「国民に寄り添う」 実践を、全心全霊をもって実践して来られた結果、「幸せでした」 と、達成感のやすらぎにひたって譲位されるに至ったのだ。そして迎えたのが 「令和の時代」 なのである。


          ○


 「君民同治の神示」 に、次のごとく示されている。


≪   君民同治の神示

 国は人間生命の外延
(がいえん)である。それは身体が人間生命の外延であるが如くである。

 人間生命が神より生れたる神聖なるものであるという自覚が、その外延であるところの国をも神より生れたる国であるとの神聖性を要求するのである。

 この要求が神によってその国が造られたのであるとの神話を創造するのである。

 しかも人は自己が無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である(民主)との自覚を、生命の外延の世界に於ても持つことを要求するのである。観られる世界は観る人の心の世界であるからである。

 身体も国も共に観る者(主体)から反映せられる世界(客体)である。

 観る心の要請が身体に於ては脳髄の存在となり、国に於ては永遠の元首なる、無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。

 天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから来る。…(後略)…≫



 (2019.5.29)
507 「令和」 新時代を讃えて詠める歌(2)


 永遠
(とことは)に貫く棒は 「令」 の棒 時空を超えて生き通すなり


 ―― 「令」 は、「今」 に縦の棒がついた形である。

 それは、時空を超えた 「久遠の今」 ということである。

 「令」 の棒は、「靈」 の棒である。そこには――

≪太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。……万(よろず)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。……≫

 と 「ヨハネ伝」 にある、創造主なる神の言
(ことば)が鳴りひびいている。

 その言
(ことば)は即ち

≪「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。

 爾
(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)

 寶祚
(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわ)まりなかるべし。≫


 (豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る日本の国は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の霊統を継ぐ者が栄えるであろうことは、天地と共に永遠で窮まりないであろう、というほどの意)

 と、天祖 天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天孫 邇邇芸命(ににぎのみこと)にくだされた御神勅が鳴りひびいているということである。だから前項に掲げたように


 日の本は光の国ぞとこしへにスメラミコトのしろしめすくに


 なのである。


 (2019.5.22)
506 「令和」 新時代を讃えて詠める歌


     令和元年五月の歌


何なるか 平成・令和貫くは 棒の如きもの たづね究めん
  
(「去年<こぞ>今年貫く棒の如きもの」-高浜虚子)


「令」 の字に なじか知らねど不可思議な わくわくさせるオーラのありて


「令」 の字は 「靈」 なり奇
(く)しきマジックなり 漢字学者の説に肯く
  (#500 参照)


元号は人作るにあらず天
(あめ)よりぞあまくだりきて祝福したまふ
  
(「令和」 の考案者といわれる中西進氏もそう言っておられる)


元号はわが日の本の文化なりいま令
(うるは)しく和みて咲(わら)


日の本は光の国ぞとこしへにスメラミコトのしろしめすくに


(うるは)しくむつみ和(なご)みて結びゆくわが日の本は光の国ぞ


令和とは令
(うるは)しき大和(やまと)日本なり人びと和み結び合ふくに


ベートーヴェン歓喜の歌もそを謳ふ
   汝
(なれ)が魔法は万民を結ぶと
   (ダイネ・ツァウバー・ビンデン・ヴィーダー)


人はみな日子
(ひこ)なり日女(ひめ)なり神の子なりみな抱(いだ)き合ひ悦びうたふ


 (2019.5.20)
505 「令和」 新時代を幸福に生きる道(2)


 上皇となられた平成の天皇さまは、とても心の 「強い」 方だった、という。

 ――日本経済新聞 2019年4月27日、「平成の天皇と皇后 30年の歩み」 第51回(最終回)より――

≪ 「わが友は――」 その人は天皇陛下をそう呼ぶことがあった。そしてこうも言った。

 「彼は本質的に強い男だよ」

 元共同通信記者のジャーナリスト、松尾文夫さん。今年2月末、取材で訪れていた米ニューヨーク州で急逝した。85歳。陛下とは学習院高等科、大学の同級生だった。東京・目白のキャンパス内にあった学生寮 「清明寮」 で陛下と同室で、約2年間寝食をともにした。

 親友ゆえに、松尾さんは陛下に遠慮なく 「直球」 でもの申すことが多かったという。ただ、自身がメディアの人間でありながら、交友の詳細を口外することはなかった。陛下にとって、何でも話すことのできる、真の気が置けない友だったのではないだろうか。

 その友が語った数少ない天皇陛下の人となりを表す言葉のなかで強調されていたのが 「強さ」 だった。平成の象徴像を形づくってきた原動力は意思の強さにある、と。

 振り返ると、いまでは多くの国民から支持されている 「あり方」 は、当初は昭和時代との比較でかなりの違和感を持たれ、抵抗にあってきた。

 災害被災地訪問は 「1カ所に行くと、すべての被災地に行かなければ不公平になる」 と疑問視された。

 膝をついてのお見舞い批判は表層的なもので、これこそ本質的問題だった。

 「天皇の強い希望で」 と語られている海外慰霊の旅も、外国訪問は政治が絡む。天皇の意思が前面に出ることは憲法に抵触するという見解もあった。

 昭和時代には考えられなかった天皇像に対する抵抗を "力業" で突破し、自身の信じる道を貫き通すには、屈しない意思が必要だった。

 昭和の前例をそのまま踏襲する方がずっと楽だったはずだ。しかし、「国民から超越した非人間的な存在であれ」 という近代以降の天皇に要請された役割をよしとせず、人間的で人々に寄り添う 「国民の象徴天皇」 像を追い求めてきた。

 ある意味 「戦い」 でもあったが、けっして孤独な旅ではなかった。退位が決まって以降、天皇陛下は友人に皇后さまへの感謝を話すことが多くなったという。

 陛下は昨年12月の天皇として最後の誕生日に際しての記者会見で 「私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました」 と述べられた。

 皇太子妃は旧皇族・華族出身という慣例を破って、自分の気持ちに正直に向き合い、「庶民」 であった美智子さまに人生の旅の同伴を求めた。その意思と受け入れた皇后さまの決断のなんと大きかったことか。

 陛下は会見で、皇后さまが 「皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきた」 とねぎらわれた。

 他者を思い、ときに傷つきながらも寄り添う。国民は、そこに献身と真心を見た。その静かな積み重ねと天皇陛下の強い意思が、200年閉じていた退位への扉を開かせたのだろう。

 松尾さんは米国に出発する前の今年2月上旬、御所を訪れた。結果的に友との別れとなったが、このころ 「陛下はいま達成感があるんだ」 と語っていた。

 平成の天皇と皇后の30年の歩みの到達点は、まぎれもなく国民の象徴であった。≫



 ――以上は、4月27日付の日本経済新聞 「平成の天皇と皇后 30年の歩み」 最終回の記事(「編集委員 井上亮」 と署名入り)からの抜粋でした。


 戦没者慰霊、災害の被災地訪問と、「旅」 することで象徴天皇像を体現してきた上皇さま。2月24日、「在位30年記念式典」 では、

 「これまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたのは、幸せなことでした」 と、国民への感謝を述べられた。

          *

『文藝春秋』 2019年6月特別号には、瀬畑源氏(成城大学非常勤講師)が、『象徴天皇と 「行幸」 』 と題して次のように書かれている(抜粋)――


≪ 天皇が全国各地に 「旅」(行幸)をすることは、上皇のオリジナルではない。過去の天皇も、国民との向き合い方はそれぞれ異なるが、「旅」 をし続けていた。

 私が監修した 『昭和天皇戦後巡幸資料集成』 全18巻(ゆまに書房)が、今年の3月にすべての刊行を終えた。

 「戦後巡幸」 とは、昭和天皇が敗戦直後に全国を行幸し、国民を慰問し、激励をしたことを指す。米軍占領下の沖縄県を除く全都道府県を周り、国民の前に姿をさらし、傷痍軍人や戦災者などに声をかけていった。

 戦前から、天皇の行幸は定例的に行われていたが、個別に天皇と会うのは地方庁や軍の高官であり、国民は最敬礼で天皇を迎えたため、多くの人は直接天皇を見ることすら叶わなかった。敗戦後に警備が緩和され、結果的に天皇と国民との距離を近づけることになった。天皇自身も市井の人々に声をかけて、直接交流するようになった。

 この時、各地で 「行幸誌」 という記録集が作られている。戦前にも作成されていたが、あくまでも 「正確な記録を残す」 ことに主眼がおかれ、膨大な事務記録がほとんどを占めている。「読み物」 というよりは 「辞書」 である。

 しかし、敗戦直後に作られた行幸誌には、昭和天皇と各地の人々との交流の姿が活き活きと描かれている。掲載されている昭和天皇の写真も、心から国民との交流を楽しんでいるような満面の笑みを浮かべていることが多い。

 執筆者たちの編集後記などによれば、平易な文体で書くこと、親しみ易く書くこと、という方針が、どの行幸誌でも一貫している。この理由として、「人間天皇」 を人々に啓蒙する役割をもって執筆されたものが多いように思われる。

 当時の新聞記者や行幸誌の編纂者などの書いているものをみると、次のような考え方をしていることが読み取れる。天皇を神としてまつりあげることによって、天皇と国民の間が疎隔していたが、今、天皇が 「人間」 として目の前に立って自分たちと交流している。これこそが 「君民一体」 の姿なのだと。だから、天皇の 「人間」 としての魅力をみなに理解してほしい、と。

 戦後巡幸の後にも、昭和天皇は、春は全国植樹祭、秋は国民体育大会に行幸し、各地の人々と交流を続けていった。ただ、形式化が進み、警備の厳しさが次第に戻っていく中で、戦後巡幸の頃の交流は失われていった。

 のちに侍従長になった入江相政は、「終戦後間もなくの、あの 『行幸』 よ、お前は一体どこへ行った」 と、混乱していたものの天皇と国民の距離の近さを感じた初期の巡幸を懐かしがった (『城の中』 中公文庫)。

 天皇が国民との直接の交流を大事にするという考えは、この戦後巡幸の時に作られたと言ってよいだろう。当時皇太子だった上皇も、この考え方を引き継いだ可能性が高い。ただ、昭和天皇はあくまでも国民を 「赤子」(臣民) と考えており、膝をつくようなことはなく、握手を絶対にしなかった。一方上皇は、美智子上皇后の影響もあり、次第に国民と同じ目線で語りかけるように変わっていった。

 昭和天皇の戦後巡幸を覚えている人は、今では少なくなった。戦後の象徴天皇制への支持を支えた 「行幸」 とは何であったのか。その原点をたどる手段として、この資料集が活用されることを願っている。≫


 (以上は 『文藝春秋』 2019年6月特別号、瀬畑源氏 『象徴天皇と 「行幸」 』 より)


 ―― 「GHQは当初、天皇陛下が日本各地を巡幸すると知ったとき、日本国民から罵声や石が飛んできて、天皇の地位は失墜させられると考えていた。しかし、いざ日本中を回ると、どこへ行っても 『天皇陛下万歳』 の熱烈な歓迎ぶりに驚いた。そして、この国から天皇を亡くしたら、占領どころではなくなると思い直した」

 とも言われている。


          ○


    
平和を誓う 「歓喜の歌」

 上皇さまが即位された1989年は、冷戦を象徴するベルリンの壁が崩壊し、世界が大きく変動した年であった。93年9月、上皇さまと上皇后さまはベルリンを訪問された。東西の再統一から間もないドイツで、ワイツゼッカー大統領夫妻らと訪れたのは、東西ベルリンの境界にあったブランデンブルク門だった。

 説明を受けながら旧西側から旧東側に歩いて門をくぐられると、合唱団が待ち受けていた。響いたのはベートーベンの交響曲第9番。平和を誓い欧州統合のシンボルになった曲だ。

 
「東西を隔てし壁の払はれて 『歓喜の歌』 は我を迎ふる」

 と、上皇さまはこの時の感慨を歌に詠み、後に2009年の記者会見で

 「西ベルリンから東ベルリンに入ると、ベートーベンの 『歓喜の歌』 の合唱が聞こえてきました。私どもの忘れ得ぬ思い出です」

 と述べられている。


 平成が始まったころ、ドイツには皇室批判もあった。枢軸国として敗戦を迎え、戦後は主要7カ国(G7)の一員として利害をともにしてきたが、80年代は貿易摩擦が激化した。

 だがクラシック音楽が印象を変えた。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などの演奏会に上皇さまや上皇后さまが頻繁に足を運ばれると、「日本の皇族は音楽通」(ゲバントハウス管弦楽団の関係者)というのが知れ渡った。


 平成、そして令和へ。ドイツでも代替わりと改元への関心は高い。メディアはおおむね好意的だ。即位された天皇陛下については 「洗練された人」(独紙ハンデルスブラット)という受け止めが多い。

 お祝いムードのなかで変わらないのは外交に花を添えるクラシック音楽だろう。天皇陛下は8歳だった68年、訪日したドイツのオーケストラの演奏会に足を運ばれたことがある。「子供心に美しい旋律とドイツ語の力強い響きが強く印象に残ったことを今でも懐かしく思い出します」 と2011年に述べられている。演奏されたのはベートーベン交響曲第9番。平和を誓う 「歓喜の歌」 である。

 (参考:日本経済新聞 2019.5.5 「ドイツと皇室 外交に花を添えたクラシック音楽」 など)


 「歓喜の歌」の歌詞は、よく知られているように

Freude, schöner Götterfunken, (歓びよ、美しき神々の火花よ)
Tochter aus Elysium      (天国の使いなる娘よ)
Wir betreten feuertrunken  (われらは火のごとくに酔いしれて)
Himmlische, dein Heiligtum! (崇高なる歓喜あふれる神の国に入る)

Deine Zauber binden wieder, (汝
(な)が不可思議力は再び結び合わす)
Was die Mode streng geteilt; (時がいかに強く分け隔てたものも)
Alle Menschen werden Brüder,(みな一つ生命
(いのち)の分れなる兄弟なりと)
Wo dein sanfter Flügel weilt.  (汝
(なれ)がやさしき翼のおおうところ)

……

Seid umschlungen, Millionen! (抱
(いだ)き合おう、よろずの人々よ!)
Diesen Kuß der ganzen Welt! (この接吻
(くちづけ)を全世界に!)
Brüder, über'm Sternenzelt  (兄弟よ、この星空の上に)
Muß ein lieber Vater wohnen. (まちがいなくわれらの愛する父はいますのだ)

……


 というので、全人類はみな共通の父をもつ兄弟姉妹だ、抱き合おう喜び合おうという歌です。

 それはまさに、神武天皇建国の宣言にある 「八紘為宇(Universal Brotherhood)」 の理想そのものである。その理想、真理の顕現こそが人類最高の燃える大歓喜となる、ということです。


 ⇒ #169 #170 もご参照ください。


  <つづく>


 (2019.5.15)
504 「令和」 新時代を幸福に生きる道のヒント


 少子高齢化が進み、福祉国家日本は社会保障費の増大に喘いでいる。

 かく言う自分もすでに齢86になろうとしていて、年金暮らし十余年。しかし生かされていることにただ感謝の毎日である。

 歯医者と皮膚科以外 医者にかかったことはなく、今も薬は全然飲んでいないが、健康に不安はない。

 人間は、肉体ではない。霊である。不死不滅、本来生不滅の霊である。肉体は死んでも、霊は死ぬことはない。永遠に感謝と悦びの生長をつづける。

 「令和」 新時代を幸福に生きる道――それは、キリスト教的 「愛」 の道であると思う。


          ○


 私は最近、すばらしく輝いている人に出会いました。

 その方は――NPO法人「ホッとスペース中原」 代表のS氏。


≪ ホッとスペース中原は、1998年11月に、ご利用する全ての方々に 『ホッ』 とくつろげる場所を提供したいと考えて活動を開始しました。

 それは、一人ひとりの方をかけがえのない存在として考えているからです。

 そして、人は能力で評価されるのではなく、神様に目的と意味を持って造られた存在としてそのままで尊いと考えているからです。

 私自身は青春時代に、社会と大人たちから価値のない存在として扱われていると感じていました。

 そのため、暴走族として過ごし、アイドルを応援する親衛隊の隊長として自分の存在をアピールしました。

 そんな私が立ち直り今あるのは、教会を通して次のことを知ったからです。

 神様は自分の最も愛する一人子である主イエスを、十字架に身代わりに掛けるほどに、私たちを尊い存在として愛しぬいてくださっている。

 『こんな私だから尊い』

 それはコペルニクス的な(観の転換をもたらした)喜びでした。

 私はその価値観を持って社会福祉に携わり、多くの高齢者や障がい者、子どもたちを通して自分の存在の尊さに気付かされ、自分を愛することができるようになり、誰でもない自分の尊さを生きてよいことを知ることができました。

 私はこの体験から、同じように 『高齢者』 『障がい者』 『子ども』 という存在を通して、社会が豊かになると信じています。

 彼ら、彼女たちこそ、私たちを癒し、育んでくれる大切な存在なのです。

 私たちは、一人ひとりがハンディの有無に関わりなく、等しくかけがえのない尊い存在として扱われ、幸福を自分のものとして受け取り、使命を全うできるような社会を創造したいと願っています。≫

  (NPO法人「ホッとスペース中原」の案内チラシ、代表挨拶より)


 ――S氏は、非嫡出子(法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた子)として生を受けた。父親は40歳代の頃、精神病院に隔離入院させられていた。その病院にボランティアに来ていた19歳の女性に、病院から脱走する手伝いを依頼し、女性はそれを受けて決行。それがS氏の母親となる。

 病院から外へ出たものの、病を抱えた父は仕事ができず、28歳年下の母が生計を支え、逃避行の連続。同じ場所に3か月と定住していられなかった。飢えの連続――他人の軒先を借りるなどして、約10年間のホームレス生活を続けているとき、S氏の生命が宿ったのである。

 小さな村から2キロ離れた山に、ゴミ収集場から拾い集めた資材で掘立て小屋を建てた。水道も電気もなく、屋根は何度も風で飛ばされ、雨漏りの連続……テレビも冷蔵庫も風呂もなく、ロウソクの明かりで生活。そんな中で、S氏は不良少年になる。

 夢も希望もない中で、気がつけば何百人もの不良グループのリーダーになっていた。病気、失職、ひとり親、貧困、アルコールやギャンブル依存症、借金苦、DV……等々、仲間のほとんどの家庭が、複数の深刻な問題を抱え家庭崩壊していた。

 そのような環境を理解せず、彼らの敵対感をむき出しにする大人へ、子どもたちができる選択肢は、反発や反抗しかなかった。ただ社会を憎み、強がることしかできなかった……。


 S氏は、自分の生まれた境遇について、「自分より不幸な人間はいない」 と思っていた。力こそ人生を生きる術だと信じ、そのように生きてきた。しかし、暴力事件を起こして学校から謹慎の処分を受け、力には限界があると知り、知り合いの教会を訪ねる。

 そこには保育園が併設されていたので、訪ねるたびに子どもたちの遊び相手をした。子どもたちは、自分を疎外した大人たちとは違い、無邪気にまとわりついてきた。自分が必要とされていることを初めて体感できたその体験は新鮮で、温かく迎えてくれた教会の人達や、聖書を通して知った神の思いに通ずるものだった。

 自分には価値がないと思っていたとき、聖書を学び、どんな生い立ちであろうと、また能力がなくとも、神はOKを出してくれているんだと知ることができ、180度人生が変わった。18歳のとき、洗礼を受けた。

 その後、人を救いたいという思いが募り、介護と神学を学ぶ道に導かれ、1998年に川崎市中原で教会がスタート。その同じ建物で地域の介護拠点として本格的な活動を開始。

 ――S氏は今50歳で、キリストの牧師である。と同時にNPO法人の理事長として、たくさんの人々から神のように慕われる生活に身を献げている。――

 (『人は“命”だけでは生きられない』 佐々木炎
(ほのお)著<いのちのことば社刊>参照)


 佐々木炎氏はいま、進んで困難に立ち向かい、困難に戯れ楽しむ姿で、名前の通り炎と燃え、愛を実践する活動を続けている。


 ――ああ、現在の日本に、スター・デーリー(#477#478~)のような奇蹟を演ずる人がいたのだ! 「この人に会いたい!」 と私は思いました。

 その願いは、すぐにかなえられました。

 ――「ホッとスペース中原」 を訪問見学し、光り輝いている佐々木炎氏から直接お話を聞くことができたのです。

 S氏は笑顔で情熱を込めていう。

≪ 今後、社会はますます苦悩する人が多くなり、福祉を必要とする人が多くなるでしょう。また、一人ひとりの生きにくさや都市化に伴う社会的孤立や心身の障碍や不安などが増大するでしょう。

 私は社会の誰もが排除されない 「包摂」 の場所を、元当事者として、当事者と模索していきたいと考えています。

 「
compassion」(苦しみを一緒にする・一緒に耐えること)から 「希望」が生まれる。

 私たちは 「競争(competition・コンペティション)の社会から、苦しみを共にする共感(compassion・コンパッション)の社会へ向かおう、コンパッションの文化を利用者さんや職員間、社会に創ろう」 ということをモットーにしています。≫


 と。


 <つづく>


 (2019.5.10)
503 「元」は「未発の中」である


 「元号」 とは何か。

 「元号とは文化です」 と、中西進氏
(「令和」 の発案者とされている国文学者)はおっしゃる(『文藝春秋』 6月特別号)

 「つまり日本で連綿と受け継がれてきた文化であって、本来、国や役人が定めるものではありません。元号は本来、天が決めるものなのです」

 とも。


 「元号」 の 「元」 は、「もと」 であり、「一
(はじめ)」 であり、

 時空未発の
「中(みなか)」 「久遠の今」 である。

 そこには――

≪太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。……万(よろず)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。……≫

 と 「ヨハネ伝」 にある、創造主なる神の言
(ことば)が鳴りひびいている。

 そしてそれは、『古事記』 の冒頭に

≪天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬしのぬしの)神……≫

 とあるのと符節を一にし、旧約聖書 『創世記』 に

≪神光あれと言ひ給ひければ光ありき……神その造りたる諸(すべて)の物を視たまひけるに甚だ善かりき≫

 とあることとも繋がり、符節を合するのである。

 したがって、そこには 「はかりしれないほど不思議な」 「神々しい」 「とても素晴らしい」 大調和、大ハーモニーが鳴りひびいているのは当然のことである。

 「令和」 を英訳して最初外国の記者は “Order and Harmony(秩序ある調和)” と伝えた。その後、「令」 には 「よい」 「すばらしい」 という意味があることを知り、“Beautiful Harmony” と伝えられたという。だが、もっと、

 
“Wonderful, Miracle, Magical, Occult, Holy, Divine …”

 といった言葉で形容されてもいいのではないか――と私は思うのである。

 そういう至高最上の意味を持つ元号が、これからの世界・時代への 「予祝」 として鳴りひびき、実現して行くことを祈るものである。


 (2019.5.9)
502 「元号制定」は祈りである


 そもそも、「元号」 とは何か。

 「元号」 の 「元」 は、「もと」 であり、「一(はじめ)」 である。


 元号が最初に制定されたのは中国で、その始まりは前漢武帝の建元元年(紀元前140年頃)。

 わが国では645年大化改新時に元号を 「大化」 と定めて以後、元号が定められるようになった。

 中国の帝王は、天の命令により領土を支配すると同時に、時をも支配する――空間とともに時間を権力によって支配し、それが 「授時大権」 と称された。

 「日本天皇のもつ元号大権も、古代中国の帝王が有した授時大権に由来すると思われる」 と、瀧川政次郎氏は論じている (『元号考証』) が、日本の場合は違う、と四宮正貴氏はいわれる。

 日本天皇は日本国の支配者ではなく祭祀主であられる。「空間」 と 「時間」 とを 「支配」 するのではなく 「統治」 される。

 天皇の 「統治」 は、「しろしめす」 「きこしめす」 という。それは 「知る」 「聞く」 の尊敬語で、「お知りになる」 「お聴きになる」 という意。神の御心を知り給うて国民に知らせ、国民の声を聴き給うて天の神に申し上げる。それが 「統治」 となる。だから統治と祭祀は共に 「まつりごと」 「祈り」 なのである。

 中国の帝王は 「天の命令」 によって地上を支配し、徳が切れたら 「命」 が 「革
(あらた)」 まるという 「易姓革命(えきせいかくめい)」 の思想があって、それを繰り返してきた。しかし、日本に易姓革命はない。

 日本天皇の永遠性は、神話による。天照大御神の 『天壌無窮の御神勅』――

 「豊葦原
(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわ)まりなかるべし」

 (豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る日本の国は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の霊統を継ぐ者が栄えるであろうことは、天地と共に永遠で窮まりないであろう、というほどの意)

 ――から続いている。

 天孫 邇邇藝命
(ににぎのみこと)の御名は、「天地に賑々(にぎにぎ)しく稔っている太陽神の御子」 というような意を表す。「天孫降臨神話」は、稲穂がにぎにぎしく稔る国を地上に実現することが天皇のご使命であり日本民族の理想であることを物語っている。


 わが国は、「言霊
(ことたま)のさきはう国」 と言われ、言葉にはそれを実現する霊力があると信じられてきた。そのわが国の元号は、国家の隆昌・国民の福祉を予祝(よしゅく)した、祈りのこもった文字である。「予祝」 とは、前祝いである。

 「すべて祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ。さらば得べし」

 と、イエスも言っている(新約聖書 「マルコ伝」 11-24)。

    小正月に秋の稔りの前祝い

 古代では旧暦の二月に相当する時期に秋の稔りへの予祝行事が行われ、これが本来の正月であった。一月の望日
(もちのひ)十五日に家々の神様の前に、稔りの秋の様子を飾り立て、今年もこのような豊かな年になって有難うございますと前祝いをした。これを小正月(こしょうがつ)と言い、今も小正月の予祝行事には田植の模擬行事や農耕の経過を一通り演じる神事芸能が全国の由緒ある神社に伝えられている。

    「とし」 は稲作そのもの

 「年
(とし)」 という言葉は、稲の種播(たねま)きの準備から秋に穫入(とりい)れて穀倉に収めるまでの期間を意味していたことから、 「とし」 の語が一年間の年を意味するようになり、また稲のことを 「とし」 というようになった。それで祈年祭(としごいのまつり)は稲の豊作の祈願を通して国の弥栄(いやさか)を祈る祭となり、今も続いているのである。

    元号の勅定は権力の行使ではなく祭祀であった

 江戸時代中期の天文学者・西川如見
(にしかわじょけん)(1648~1724)は、「暦」 について、次のように論じている(『百姓嚢』)。

 「天の時を敬
(つつし)み、地の利にしたがうは、人間の常理也。ことさら農人は、一日も天の時、地の利をつつしみ、従う事なくんば有るべからず。耕穫収藝、みな天の時にして、暦の用なり。暦は朝廷の政治にして、民の時を授けたまう。……有りがたき風俗なり」 と。

 日本人の生活は、農耕を基本とし、規則正しく自然の変化に順応している。そして日本における暦は、祭祀主である天皇によって授けられるというのが伝統であった。

 一年間の時の推移、季節の変化は、日本民族の生活、特に稲作生活と不離一体の関係にある。故に暦は必要不可欠のものとして大切にされ、祭祀国家日本の祭祀主として常に五穀の豊穣・国民の幸福を祈られてきた天皇が、「まつりごと」 として 「暦」 を民に授けられた。

 「元号勅定」 は、この事と不即不離である。稲作国家日本の祭祀主なる天皇にとって、時代に節目にをつけ、時を授けるのは大切なご使命であり、これまでの歴史を顧みれば明らかなように、新元号を建てることによって時代転換、国家の新生、維新が行われてきた。

 近代においても、天皇が元号を定めることは権力行為ではなく祭祀であった。それは 「元号の勅定」 が天皇の 「統治権の総攬者」 としての 「国務・政務」 について規定されている 『大日本帝国憲法』 ではなく、「即位ノ禮及大嘗祭」 などの祭祀についてのみ規定されている 『登極令
(とうきょくれい)』 に規定されていることによって明白である。

 ところがこのたびの元号改定は、天皇の勅定によるという千数百年にわたるわが国の伝統が無視され、内閣がこれを行った。

 それは、「天皇の事前許可を求めれば天皇の国政関与を禁じた憲法に反する」 という考え方に基づくと言われている。が、元号の勅定は、天皇の政治権力行為ではなく 「天皇の祭祀」 の重要な事柄である。政府も国会も、皇室や日本の伝統よりも 『現行憲法』 の規定を重んじる姿勢を貫いているのはおかしい。

 安倍総理は、天皇陛下の政治への関与を禁じた 『現行占領憲法』 第四条に抵触しないよう配慮しつつ、「新元号」 決定前も決定後も、皇居・東宮御所に何回か参内し、天皇陛下、皇太子殿下に選考が元号にご説明申し上げたようである。天皇陛下、皇太子殿下にご報告申し上げ、ご意向をうかがったと思われる。

 わが国は 「君民同治」 の国である(#498 参照)から、それでもよいのかも知れない。が――

 天皇・皇室は、「憲法」 を超越した御存在である。天皇は権力者ではあらせられないのであるから、権力の制限規範たる成文憲法に規制されない。

 このことを明確にし、次の改元は勅定で行われることを願うものである。

 以上のことは、四宮正貴氏の 『政治文化情報』 第402号(平成31年4月28日発行)により、同氏の論に賛意を表して、まとめて発表させて頂きました。


 <つづく>


 (2019.5.7)
501 「令和」の号砲は鳴った!


○ 「令」 の字に なじか知らねど不可思議な わくわくさせるオーラのありて

 と、私は詠んだ(前項)。

 それは、「令」 という字は、「靈」 という字の代わりに使われて、「はかりしれないほど不思議な」 「神々しい」 「とても素晴らしい」 という意味がある、と知って納得できた(4月7日の日本経済新聞 「遊遊漢字学」 漢字学者阿辻哲次氏のコラムによる)。

 その 「令」 の字は、万葉集巻五 「梅花の歌32首」 の序文を典拠として新元号に採用された。

 新元号 「令和」 は、“ビューティフル・ハーモニー Beautiful Harmony” と英訳され、世界から好感をもって受け取られている。

 生長の家の 「梅の花の神示」 には、

 「梅の花の開く時節が来たのである。……梅の花とは、生みの花――創造(うみ)の始動(はな)のことである」

 とある。

 新天皇が即位され、新元号が公布された。御代替わりの時を迎え、新しい創造(うみ)の始動(はな)の号砲が鳴ったのだ。それは、神々しく美しい大調和の時代の始まりとしなければならぬ。


          ○


 そもそも、元号というものの由来は――というところから、今われわれはいかなる心構えで進むべきかを熟慮考察してみたいと思います。

 <つづく>


 (2019.5.4)

 
(1) プロフィール


岡 正章(おか・まさあき)

1933年6月 東京生まれ、86歳。 (先祖・両親の出は愛媛県)
妻1人、子供が4人、孫も4人あり。

趣味――音楽、特にコーラス・アコーディオン。
八十の手習いでピアノの練習も始めた。
パソコンによる動画編集も特技の一つ。

好きな言葉――バンザイ!

山口在住の1950年頃 父親が生長の家入信。その影響か、1951年春 霊的体験を得て人生観が一変。1952年 山口高校卒、同年 東京大学入学。1953年 生長の家青年会入会、谷口雅春師ご自宅での青年会「お山のつどい」でご指導を受ける。1959年 青年会中央執行委員学生部長。1960年 東京大学教育学部卒。1964年 日本教文社勤務、聖典・書籍の編集に従事。1975年、生長の家本部青年局に転じ『理想世界』編集長。1976年、同誌100万部突破。1984年~2006年、茨城・福島・山形の各教区教化部長歴任。2006年 東京第一教区地方講師。2015年4月21日、地方講師解任の通知を受ける。現在、相愛会員、聖使命会費取扱者。