2 「いのちの讃美歌」

                    (平成元年9月号 『理想世界ジュニア版』 所載  岡 正章)
  

 私の祖母は熱心なクリスチャンでした。といっても私が四歳の時に亡くなっているので、自分の記憶はあまりないのですが、私は3人の姉のあとで生まれた長男なので、口ぐせのように「長男正章、長男正章」と、目の中に入れても痛くないほどかわいがってもらったようです。それで私はよその人から「坊ちゃん、お名前なんていうの?」ときかれたら、「岡チョウナンマチャアキ」と答えたということです。

 そのころ一家は奈良にいましたので、祖母の葬送式は奈良のキリスト教会で、讃美歌とともに行なわれました。それからまもなく私はキリスト教の幼稚園に入り、そこでは子どもの讃美歌を歌う毎日でした。そんなわけで私は讃美歌が大好きです。讃美歌を聴いたり歌ったりすると、心の底からなつかしく思います。そして洗礼を受けたことはないけれど、折りにふれてイエス・キリストの言葉が魂の底からよみがえってくるのは、亡き祖母の導きでしょうか。

 私は小さいころ特に体が弱く、ひょろひょろで、よく学校を休みました。父が昔の陸軍軍人で、だいたい2年ごとに転勤があり、子供はそのたびに転校でした。私が小学校3年の時に山口県山口の小学校に転校したときには、いじめにもあいました。おとなしい、いい子で、学科の成績も悪くはなかったけれども、自信がなく、積極性のかけらもないような私でした。

 私は肉体が自分だと思っていましたから、高校生になってからは特に劣等感のとりこになり、死にたいとすら思うほどになりました。

 そして高校2年の時、実際病気で死にかけたのです。

 しかし、父母の愛に満ちた祈りと看病によって、私は死にませんでした。父はその頃生長の家にふれて、熱心に『生命の實相』を読んでいました。

 病気がやっと快復してきたある日、突然私は

 「お前は生命(いのち)だよ! 生きているのだ! 生きている生命は使わなくてはだめだ! 生命は使って伸びることが、喜びなのだ! すべては喜びばかりなのだよ!」

 という声のない声が聞こえたような気がしました。私はその瞬間、いいようのない感動に全身がふるえました。
 すぐに私は裸足(はだし)で外の畑へ飛び出して行きました。力いっぱい働きました。昨日(きのう)までの私は、働いたらくたびれて死んでしまう、働いたら損だ――と思っていました。ちがった! 今、私は生きているのだ! 生命なのだ! 生命は、力は、出せば出すほど無限に湧いてくるのだ! 力は出さなければ損なのだ、と感じられるのでした。心臓が高鳴るほど、うれしくて、うれしくてたまりませんでした。

 一所懸命働いてひとくぎりしてから家に入って見ますと、いつも掲げられている祖母の写真が、ニッコリと私の方を見てほほえんでいるように思われました。

 「それ罪の払う値は死なり、されど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠(とこしえ)の生命(いのち)なり」(新約聖書ロマ書6章23節)

 という聖書の言葉が、私の中によみがえって、「ああ、私は永遠の生命なのだ!」という喜びが湧いてくるのでした。そして、

「人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ。……人もし汝に一里ゆくことを強(し)いなば、共に二里ゆけ」(マタイ伝5章39・41節)というようなイエス・キリストの言葉もまた、永遠の生命を自覚した者の喜びの言葉として、私の中にひびいてくるのでした。

 はじめて、私の中に無限の希望がわいてきました。それから私は勉強も、家のために働くのも、喜びばかりとなり、希望に燃えて何でも積極的に力いっぱいするようになりました。すべてが、喜びなのでした。

 そして東大入学を心に描きました。

 「東大だ! 東大だ! そうだ! 希望だ! 東大だ!」

 と、毎朝毎晩心に唱え、ノートに書きつけました。

 山口高校3年の3学期に入り、1月下旬のことです。

 ある夜、けたたましい消防車のサイレンと鐘の音が聞こえ、外へ出てみると空が赤く輝いていました。母校が猛火に包まれ焼けているのでした。当時の校舎は木造でしたから、あっという間に全焼してしまいました。そして生徒の成績評価などを記録した書類も全て灰になってしまったのです。

 わたしはその前、成績のことを気にして心が引っかかっていました。それが火事になって全部焼けたとき、思いました。形あるものはみんな夢の如くはかないものだ。点数や他人の評価なんか問題ではない。問題は本当の中味だ。本当に、自分が永遠の魂の世界にどれだけ価値あるものを積んだかということだけが問題なのだ! と。

 「なんじら己(おの)がために財宝(たから)を地に積むな、ここは虫と錆(さび)とが損ない、盗人(ぬすびと)うがちて盗むなり。なんじら己がために財宝(たから)を天に積め、かしこは虫と錆とが損なわず、盗人うがちて盗まぬなり」(マタイ伝6章19〜20節)

 という聖書の言葉が心に浮かんできました。

 校舎を失った3学期の残る期間、私は動揺することなく、学校を全くあてにせずに、自分のペースで必死に勉強しました。入学試験に受かっても、受からなくても、そんなことはどうでもよい。しかし、「今」自分の生命(いのち)が伸びる喜びのために、「今」力いっぱい勉強するのだ――と。

 結果は、合格でした。