100 闇の世界の支配者は誰か? (6)


 では、アメリカと日本、特に大東亜戦争をめぐる問題について。引き続き、『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』 (馬渕睦夫著)によります。

   アメリカの使命は「世界のアメリ力化」

 アメリカという国は、イギリスのピューリタン(清教徒)がメイフラワー号に乗ってアメリカ東部マサチューセッツ海岸に辿り着いたことから始まっている。

 ピューリタンは、ピューリファイ(purify 純粋の意)という言葉からきている。宗教改革を進めるプロテスタントのなかでも最も純粋なものを求める人たちで、純粋に神の言葉に戻ろうというのが彼らの考え方。神の言葉に帰るというのは旧約聖書の教えに忠実に帰るということで、ユダヤ教に帰ることにも通じる。

 17世紀当時は、イギリスでも宗教改革の風が吹き荒れ、とりわけ急進的な主張をしたピューリタンは迫害を受けた。信仰の自由を求めてイギリスから逃れアメリカに渡った人たちがアメリカを建国した。アメリカの建国精神であるピューリタニズムは、極めてユダヤ教的な思想である。

 イギリス国王の迫害から逃れてアメリカに渡ったピューリタンは、アメリカという地をいわば新しいエルサレムとみなし、この地に国を建てて神の福音を世界に広めようと考えた。自分たちはそのために神から選ばれた民族であると考え、神の福音を世界に広めるためにまず先住民族を征服し、フロンティアを拡げていった。

   アメリカに「内政不干渉」の発想はない

 1648年に、ヨーロッパではウェストファリア条約が結ばれた。これは30年に及ぶ宗教戦争(三十年戦争、1618~1648年)を終結させる講和条約です。
 宗教戦争というのはいわば正義対悪魔の戦いで、悪魔は一人残らず滅ぼさなければならない。そのため相手が全滅するまで際限なく続いてしまう恐れがある。ヨーロッパでは長い宗教戦争の結果、各国がみな疲弊してしまった。
 そこで、各国はお互いに宗教をもとに戦争はしないと約束をし、新たな国際秩序を作り上げた。宗教のことはその国が責任を持つ。その代わりに他国には干渉しないというのが、ウェストファリア体制。「内政不干渉」という概念はこのときにできた。

 しかしアメリカという国だけは別だった。彼らは建国の当初から宗教的使命を持ち、神の福音を世界に広めようと考えていた。ウェストファリア体制とは相容れない考え方で、彼らのミッションは世界をアメリカ化することであり、彼らに内政不干渉という考え方はない。それがアメリカとヨーロッパの軋櫟の原因となった。

   大東亜戦争は「アメリ力化」との戦い

 大東亜戦争も、彼らのミッションとの戦いであった。アメリカが日本をあれほど追い詰めて徹底的に攻撃を仕掛けたのは、単に戦争に勝つことが目的ではなく、日本をアメリカ化することが良いことである、と彼らが信じていたから。ただし、ここで注意すべきことは、この場合の「アメリカ化」とは必ずしも元来の「アメリカ化」ではなく、社会主義化の色彩が濃くなっていたこと。その理由の一つに、ルーズベルト大統領の取り巻きが社会主義者で固められていたことが挙げられる。

 多くの日本人はいま、同盟国であるアメリカが歴史認識問題で韓国の肩を持っていることを理解できずにいます。民主主義の度合いにおいても、経済面においても、その他の様々な意味においても、アメリカにとって韓国より日本のほうが遙かに頼もしい同盟国のはずだ。

 にもかかわらず、アメリカが韓国寄りなのはなぜなのか。韓国はあくまでも日本を牽制するための駒として使われているのです。

 アメリカの目的は、日本のアメリカ化です。ただし、彼らの目指すアメリカ化の中身は、建国当初はピューリタニズムに基づき神の福音を世界に伝えることだったが、途中からユダヤ思想的なものに変質してきた。アメリカ化の中身は、世界を国際主義によって無国籍化し、金融中心の世界を広げていくことに変わっている。

 アメリカの各界の支配層はユダヤ系が多くを占めるようになり、社会主義指向の人たちが強い影響力を及ぼしている。現在のアメリカという国の本質は革新国家、社会主義国家であり、左翼国家と言っていい。

   社会主義者に囲い込まれたルーズベルト政権

 第二次世界大戦が起こる前触れとして、1929年に大恐慌が起こった。これは自然に起こった恐慌ではなく、FRBによって引き起こされたもの。アメリカの通貨供給量は、1913年以降はFRBが決めている。不況のときにはマネーを市場に供給しなければいけないのに、大恐慌当時のFRBは金融引き締めを行なった。不況時にマネーを引き揚げれば、経済が破綻するのはわかりきったこと。

 大恐慌によって多くの国民が苦しんだが、その裏で国際銀行家たちは大儲けをした。株価が最高値のときに売り抜け、株価が暴落した時点でタダ同然になった株を買い戻して利益を上げたのである。

 彼らはFRBの株主だからFRBの動きを初めから知っている。まさにインサイダー取引。ロスチャイルドがナポレオン戦争のときにやったように、暴落させて買い占めるやり方です。何も知らない国民は、ブームに煽られて株に投資し、ある日突然、その株が紙屑になってしまった。

 国際銀行家たちは大儲けをしたが、国家経済は瀕死の状態となり、アメリカはニューディール政策へと進んでいく。これも彼らの思惑どおり。フランクリン・ルーズベルト大統領の周りを社会主義者で固めて、社会主義のニューディール政策をとらせたのだ。
 ニューディール政策によって、政府は膨大な借金をして公共事業を行なったが、政府に金を貸したのは国際銀行家たちです。

 しかし、ニューディール政策によっても経済は回復せず、戦争による特需以外に経済を回復させる方法はなくなっていく。
 もともとルーズベルトは、「ヨーロッパの戦争には参戦しない」と約束して大統領に当選した人です。アメリカをヨーロッパ戦線に参戦させたいルーズベルトの側近たちは、いかにアメリカを戦争に引き摺り込むかで苦心した。ターゲットとして使われたのが日本です。

 少し遡れば日本が日露戦争に勝利したあとの1907年にアメリカはオレンジ計画というものをつくった。日本と戦うための戦争計画で、オレンジは日本を意味している。
 ルーズベルトの取り巻きたちは、日本を社会主義化することを考えた。ところが、日本は天皇を戴く国であり、社会主義あるいは共産主義とは相容れない国。そこに最大の衝突要因があった。

 日本の安全保障上の脅威はソ連の南下であり、中国の共産化だった。日本は共産化の拡大を阻止しようとした。そのためアメリカと利害が衝突し、日米の全面戦争に繋がったと解釈できる。
 日本が帝国主義的な政策をとって中国の市場を独占しようとしたわけではなく、日本は国体を守るために共産化を防がなければならなかったのだ。アメリカも帝国主義的な政策をとったわけではなく、社会主義を広げることに目的があった。アメリカは蒋介石を使って日本と戦わせながら、両者が疲弊する間に毛沢東を支援して、共産中国の設立に成功した。

   ルーズベルトが日本を追い込んだ

 第二次世界大戦当時、本来は日本とアメリカは戦う必然性は何もなかった。日本はアメリカと戦争をするつもりなどまったくなかった。アメリカの挑発で戦争に引き摺り込まれていったと見るのが自然です。
 アメリカ人もそのことに気づいたようで、アメリカのなかでルーズベルトの見直しが行なわれている。「なぜ、ルーズベルトは日本を追い込んだのか」という疑問が呈されているのです。

 たとえば、開戦前の1940年10月に作成された「マッカラム覚書」というものがあり、その8項目のなかに日本を追い詰めていく行動計画が書かれている。そこには、全面禁輸や資産凍結などが出てくる。石油を禁輸し、金融制裁をすることは事実上の宣戦布告である。日本を挑発し、暴発させて最初の一撃を打たせることがルーズベルトの狙いだったと考えられる。

 日本の宣戦布告の通告が遅れたことが喧伝されているが、暗号解読でアメリカは日本の攻撃を知っていた。本来なら、ハワイの海軍司令部に連絡して防衛措置をとるべきだったが、そうしなかった。日本に先制攻撃をさせる必要があり、そのためにハワイ司令部には情報を伝えなかったのだ。
 日本の真珠湾攻撃成功を受けて、ルーズベルトは「騙し討ちにあった」と宣伝し、参戦を渋っていた国民世論を一気に参戦へと結びつけた。議会で演説し、議会に対日宣戦布告をさせた。

 ルーズベルトはハワイのキンメル太平洋艦隊司令長官に意図的に情報を伝えなかったにもかかわらず、真珠湾攻撃への対策を怠ったとしてキンメルを解任している。キンメルの親族やキンメルを支持する人たちが、戦後、彼の名誉回復のために立ち上がった。

 それらの活動によって、日米開戦は石油禁輸などの制裁措置によってアメリカ側が対日宣戦布告と同等のことをしていたこと、暗号解読で日本の先制攻撃を知っていたことなどがアメリカ国民にも知られるようになり、ルーズベルトの評価は見直しが行なわれるようになった。

 いずれにしても、日米開戦はアメリカによる日本への挑発が最大の要因を占めている。より正確に言えば、アメリカという国ではなく、背後にいる社会主義勢力――ユダヤ思想勢力――がアメリカという国を利用して仕掛けてきた攻撃だった。

 第二次世界大戦当時の世界情勢は、アメリカは社会主義者に乗っ取られ、ソ連は共産国家であり、中国は共産化を目指していた。つまり、社会主義が日本を追い詰めようとしていたのであり、日本はそれと戦っていたのです。

 <つづく>

  (2015.7.27)
99 闇の世界の支配者は誰か? (5)


 もう一度、主としてアメリカについてです。これも、『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』 (馬渕睦夫著)によります。

   アメリカの歴史は、通貨発行を巡る戦い

 アメリカの歴史は、アメリカ政府とロスチャイルドなどイギリスの銀行家との通貨発行を巡る戦いだったと言っても過言ではない。18世紀の建国以来、20世紀初頭までその戦いは続いた。
 戦いの結果は、巧妙な作戦によってロスチャイルド側の勝利に終わり、アメリカ政府は敗れた。1922年にロスチャイルド系銀行を中心とする国際銀行家たちが、中央銀行の設立に成功してドルの発行権を握ってから、今日までその体制が続いている。

 世の中で一番誤解されているのは、中央銀行と呼ばれる銀行の位置づけです。中央銀行を「公的な」銀行と考えていることにそもそもの間違いがあります。

 アメリカの中央銀行は、マスメディアではFRB、連邦準備銀行、連邦準備制度理事会などいろいろな呼び方がされているが、連邦政府の機関ではなく百パーセント「民間銀行」。株主構成は公開されていないが、アメリカのいくつもの書物に株主情報の一端が記されており、それらの最大公約数を見ると、主要な株主はロスチャイルド系の銀行であることがわかる。

 制度上は、連邦準備銀行を統括する連邦準備制度理事会の議長は、上院の同意を得て大統領が任命することになっているが、実際には大統領が自由に議長を選任できるわけではなく、大統領は、候補者として上がってきた人を承認しているにすぎない。その候補者は株主の国際銀行家たちが選任し、マスメディアを使って有力候補者であることを世間に印象づけ、大統領が承認せざるを得ないように持っていっているのです。

 アメリカの中央銀行(FRB)は、政府が一株も持っていない民間銀行。他国の中央銀行も似たようなものです。日本銀行も公的機関ではない。ただし日銀は政府の出資額は55%と過半数を抑えている。だから日本政府は日銀総裁人事の決定権を握っている。

 ナポレオン戦争以来、ヨーロッパとアメリカの金融を牛耳ってきたのはロスチャイルドなどの国際銀行家たちだった。現在はヨーロッパの金融システムは大きく変わって共通通貨のユーロが誕生し、欧州中央銀行(ECB)というものができているが、依然として彼らの影響下にあることに変わりはない。ユーロを握っているのも国際銀行家です。

 彼らはドルの発行権を握っているので、ドルが基軸通貨であり続ける限り、世界の政治経済に対して大きな影響力を持ち続けることができる。

 仮にアメリカの国力が弱まってドルの信用が衰えても、彼らは欧州中央銀行も抑えており、実質的にユーロも刷ることができるようになっている。基軸通貨としてのドルが衰えてもそれに代わりうるユーロがあるので、彼らにとって影響はない。前に述べたように、彼らにはそもそも国家や国籍という概念はない。

   通貨発行権さえ握れば世界を支配できる

 1913年にFRBが誕生し、それ以来、アメリカは国際銀行家の支配下に置かれることになった。そこに至るまでの歴史を振り返ると――

 イギリスからアメリカに渡ったピューリタン(清教徒)たちは自分たちの国をつくろうと考え、1775年から独立戦争を起こした。1776年に独立宣言を発表したが、戦争は以後、7年間続く。アメリカとイギリスの間に和平が成立したのは1783年、パリ条約で、イギリスはアメリカの独立を承認した。

 イギリスの銀行家たちは、アメリカの独立はやむを得ないと認めたが、その代わりにアメリカの金融を握ろうと考えた。金融さえ抑えれば国を支配できるというのが彼らの思想です。

 金融の主体は通貨である。彼らは通貨発行権を握ることでアメリカを支配しようとした。

 ロスチャイルドらは、イングランド銀行のような民間の中央銀行をアメリカにつくってアメリカを支配しようと考えた。彼らの目論む中央銀行は、二つの特徴を持っている。一つは、通貨の供給を独占的に行なえること。もう一つは、民間の銀行であることです。

 ロスチャイルドらの意を受けたアメリカ合衆国の初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンは、イングランド銀行をモデルとした中央銀行の設立を提案する。それに対して、民間の中央銀行の危険性を熟知していたベンジャミン・フランクリンや、独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンはハミルトン案に反対した。

 議論は続いたが、フランクリンの死後、1791年にハミルトンはジェファーソンの反対を押し切って合衆国第一銀行として中央銀行の設立に成功。ワシントン大統領が法案に署名して、合衆国第一銀行が設立される。合衆国憲法では貨幣鋳造の権限は連邦議会が有すると規定しているにもかかわらず、憲法違反の民間の中央銀行が設立されたのです。

 この合衆国第一銀行の株式の8割は民間保有で、連邦政府保有分は2割に過ぎなかった。民間株主となったのは、ロンドンのロスチャイルド系の銀行やニューヨークの民間銀行などであり、彼らがアメリカの通貨発行権を握ることになった。

 合衆国第一銀行の存続期限は20年だったので、1811年に期限切れを迎え、更新するかどうかを巡り、連邦議会で大論争が行なわれた結果、民間銀行が通貨を発行することはおかしいということで、上下両院とも一票差で更新が否決された。

 これに怒ったのはロンドンの銀行家たちです。アメリカの通貨発行権を失えば、アメリカを支配できなくなる。彼らはイギリス政府をけしかけて、アメリカに圧力をかけさせ、その結果、翌1812年に英米戦争が起こる。

 その結果、アメリカ政府の債務は約3倍に拡大し、深刻なインフレに見舞われる。このインフレに対処するために中央銀行が必要だという意見が持ち上がり、1816年に連邦議会は合衆国第二銀行の設立法を可決した。合衆国第二銀行の株主構成も民間が8割、政府が2割という割合で、合衆国第一銀行と同じく、民間株主はロンドンのロスチャイルド系の銀行やウォールストリートの民間銀行であった。再び、ロンドンの銀行家たちがアメリカの通貨発行権を取り戻したのです。

 合衆国第二銀行の期限も20年間でした。1836年に期限を迎えるが、その少し前の1832年に当時のジャクソン大統領が更新を拒否。激しい攻防が繰り広げられたが、ジャクソンは最後まで妥協せず、期限切れを迎えて合衆国第二銀行は終了した。

 中央銀行としての合衆国第二銀行は終了したが、中央銀行がない時代には一般の銀行が銀行券を出して流通させたので、銀行券は何種類も出回った。それらを統一して中央銀行だけが通貨を発行できるようにしようとしたのが、ロスチャイルドです。統一された通貨の発行権を握れば、金融を支配できるからです。

   政府による通貨を初めて発行したリンカーン

 その後、アメリカは南北戦争の時代に移っていきます。
 北部のリンカーンは戦費調達に困り、ロスチャイルドなど銀行家から借り入れをしようとしたが、ロスチャイルドらは24~36%の高利子を条件としたため、リンカーンは借り入れを断念し、ロンドンの銀行家たちに衝撃を与える行動に出た。政府の信用をもとに独自の紙幣を刷ったのです。「グリーンバックス」と呼ばれるアメリカ財務省の法定通貨です。アメリカで最初の法定通貨を発行したのはリンカーンです。

 グリーンバックスは政府がどんどん印刷できるため、自在に戦費を賄うことが可能になりました。ロンドンの銀行家たちは、南軍にも北軍にも高利で戦費を貸し付けて大儲けしようとしていたのですが、当てが外れてしまいました。ロンドンの銀行家は、独自に紙幣を発行するリンカーンを何とかして倒さなければならないと考え、南軍を支援しました。

 結局、リンカーン大統領は暗殺されたのです。
 イギリスとその背後にいるロンドンの銀行家にとっては、リンカーンの法定通貨は何としてでも発行停止させなければならないものでした。リンカーン暗殺にはイギリスがかかわっていたという説が有力です。

   リンカーンの通貨を無力化する金融界の工作

 リンカーンが発行した法定通貨を無力化するために、ウォールストリートやロンドン・シティの国際銀行家たちは、段階を踏んで緻密な工作を行ないました。

 国際銀行家たちがアメリカの通貨発行権を握るためには、もう一度、金融パニックを引き起こす必要がありました。
 1907年、ニューヨークの中堅銀行ニッカー・ボッカーが倒産に追い込まれました。これは、ウォールストリートの財閥銀行家たちの仕組んだ風評によって起こったとされています。これをきっかけに再び金融恐慌が起こりました。結果、財閥は市場独占を強め、より大きな支配力をもつことになりました。

 それからロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーによってアメリカの中央銀行設立案が練られ、まとまった案が、フェデラル・リザーブ・システム(FRS=連邦準備制度)です。名前を聞いただけでは何のことか理解できませんが、それが彼らの狙いでした。真の目的を隠すために、あえて意味不明の名称を使ったのです。彼らの真の目的は、アメリカ議会から通貨ドルの発行権限を奪うことです。

 連邦準備法案は議会に提出されました。議会で可決するための様々な工作が行なわれて、1913年のクリスマスイブ前日の12月23日に、クリスマス休暇で議員の多くが選挙区に帰って不在のなか、ほとんど審議されることなく可決されました。時の大統領ウィルソンがこの法案に署名して、連邦準備法は成立しました。いわばドサクサに紛れて民間の中央銀行ができてしまったのです。
 ウィルソンは取り巻きの言いなりになっていた大統領です。事の重大性をよく理解せず、言われるがままにサインしてしまったのでしょう。

   策を弄した民間銀行が通貨発行権を握った

 設立されたFRBは民間銀行です。アメリカ政府は一株も所有していません。ニューヨーク連邦準備銀行の株主を見てみますと、FRBの株主には外国銀行が多い。ただし、彼らは本店の所在国に忠誠を誓う人たちではなく、国際主義者であり、国境を不要と考えている人たちです。無国籍の銀行と言えます。彼らの多くはユダヤ系です。

 FRBの仕組みは非常に巧妙に考えられており、FRB設立とともに連邦所得税法が成立しました。FRBという民間銀行を通じて、アメリカ政府に貸し付けたお金は国民の所得税によって返済が担保されるようにしたのです。

 この中央銀行は民間銀行ですから、通貨を発行すれば必ず利子や手数料を取ります。そこに大儲けできるカラクリがあります。紙幣を印刷すればするほど、彼らの懐に利益が転がり込むのです。

   通貨発行のたび民間銀行に利子を払う米政府

 問題は、ドル発行の背後にある仕組みです。形式的には、政府が十億ドルの債券を発行してFRBが引き受けたことになり、これは借金ですから、FRBに利子が支払われます。
 わかりやすく言えば、アメリカがドルを発行するたびに、FRBの株主である国際銀行家に利子が転がり込むというわけです。

 アメリカ・ドルを発行しているのは無国籍の国際銀行家たちで、彼らの意向でアメリカ経済はいかようにもなります。ドルの供給を増やしてインフレにすることもできますし、ドルの供給を減らして恐慌にすることもできます。1929年の大恐慌も、通貨供給と大きく関係しています。民間企業に国家経済の生殺与奪の権が握られているというのは、まったくおかしなことです。通貨を発行するたびに政府は借金をしているわけですから、アメリカ政府が財政赤字に陥りやすいのは当然です。政府の借金が、金(マネー)を生むという実におかしなことが起こっています。

   知らないうちに国民の税金が民間銀行の利益に

 国際銀行家からみれば、これほど旨味のある錬金術はありません。書類をつくって政府の口座にその数字を入力するだけで、自分たちの懐に巨額の利子が転がり込んでくるのです。まさしく濡れ手で粟の仕組みです。

 この錬金術で損害を受けているのは一般国民です。国際銀行家の利益のために、知らず知らずのうちに税金を吸い上げられています。要するに、庶民から金を巻き上げ、ごく一部の人たちが巨富を得る搾取の構図です。

 日本の場合は政府が55%日銀に出資していますので、純粋な民間銀行のFRBとは仕組みが違います。しかし、あまり安心していられません。国際銀行家たちは、日本に対してグローバル化を求め、様々な圧力をかけてきています。彼らは日本でも錬金術を行ないたいのです。

   戦争すればするほど銀行が儲かる仕組み

 1913年のFRB設立と連邦所得税の導入で、国際銀行家たちの錬金術の仕組みは整いました。次は、政府にいかにお金を使わせるかです。お金を使わせるほど、利益が大きくなります。

 戦争には巨額の戦費が必要ですから、政府は借金をします。戦費調達のために政府が発行した国債を引き受ければ、国際銀行家は利子を得られます。

 またFRBの成立によって、リンカーン時代のように政府が独自に紙幣を印刷してそれを戦費に充てることはできなくなりました。必ずFRBに頼んで通貨を発行してもらわなければなりません。そのたびに、FRBの株主の国際銀行家に利子が転がり込みます。彼らにとって戦争ほど儲かる商売はないと言ってもいいでしょう。

 FRBの設立が一つの契機となって、アメリカの第一次世界大戦への参戦へと繋がっていきます。国際銀行家たちは、当時のウィルソン大統領の周辺に息のかかった仲間を送り込んで、アメリカが参戦するように持っていきました。

 いかにして戦争に引きずり込んだかは、先述したとおり、ドイツ軍の残虐行為をでっちあげ、その虚偽の情報をメディアを使って流して世論操作をしたのです。国民世論は一気に変わって、参戦へと進んでいったのです。

 <つづく>

  (2015.7.27)
98 闇の世界の支配者は誰か? (4)


 次は、アメリカについてです。これも、『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』 (馬渕睦夫著)によります。

 ロシア革命が起こった当時のアメリカ大統領は、ウッドロー・ウィルソンでした。ウィルソンはロシア革命を受けて、「すばらしい民主主義国ができた」と称賛しています。
 ウィルソンはなぜそのような発言をしたのか。

 ウィルソンは日本人のイメージとは異なり、優れた政治家というより凡庸な学者にすぎなかった。彼は世間知らずで、周囲の取り巻き連中にとって操りやすい人だった。

 ウィルソンの側近に、マンデル・ハウス大佐というユダヤ系の社会主義者や、バーナード・バルークというユダヤ系財閥出身の人物がいました。ユダヤ系ジャーナリストのウォルター・リップマンやエドワード・バーネイズらも、ウィルソンの側近でした。彼らは第一次世界大戦直前に、ドイツとの開戦に反対するイギリス国民を翻意させるための宣伝攻勢をかける目的で設立された世論操作機関で働いていた。二人がウィルソン政権に加わり、アメリカ世論を対ドイツ参戦に導く宣伝工作を行なったのです。

 ウィルソンは1916年の大統領選挙のときに、「アメリカはヨーロッパの戦争に参戦しない」と約束して再選された大統領です。その彼が、1917年にはアメリカを参戦させた。そこには彼を取り囲むユダヤ系ネットワークの意思が働いています。

   ユダヤ人がアメリカを第一次世界大戦に参戦させた

 大統領府の広報委員会で働いていたユダヤ系のリップマンとバーネイズは、ドイツ軍がいかに残虐行為を行なっているかという虚偽の情報を流した。ドイツ軍がベルギーの婦人を殺したとか、子供の腕を切ったとか、妊婦の腹を切り裂いたといった虚偽の情報を流してプロパガンダを行ないました。今日、中国が日本軍の南京大虐殺があったと虚偽の情報を流して日本を貶めているのと同じ手法で、情報操作をしたのです。

 アメリカの大衆は、世論操作によってほどなく意見を変えました。それまではドイツに対して好意的だったアメリカ世論がドイツはけしからんという論調になり、参戦へと突き進んでいきました。

 歴史を振り返ってみてわかるのは、情報を動かしている者が世の中を動かしているということです。

 では、情報は誰が動かしているのでしょうか。アメリカの主要なメディアは、ほとんどがユダヤ系資本の影響下にあります。イギリスのロイターも、ユダヤ系ドイツ人が設立した通信社です。つまり、ユダヤ系金融資本がメディアに大きな影響力を持っているということです。彼らの操る「資金」と「情報」が世の中を動かしているのです。

 その点をよく理解しておかないと、知らず知らずのうちにメディアの情報に洗脳されることになってしまいます。

   アメリカの民主主義は操られた幻想に過ぎない

 ウィルソンの側近として世論操作をしたリップマンは、ジャーナリストの世界で最も権威のあるピユリッツァー賞を二度も受賞した人物で、ジャーナリストの鑑とみなされていた人ですが、「大衆に対して自らが民主的権力を行使しているとの幻想を抱かせなければならない」と論じています。わかりやすく言えば、「アメリカの民主主義は幻想である」と述べているのです。これがジャーナリストの鑑とされる人の発言です。

 主権者だと信じている国民大衆は自ら権力を行使しているのだと信じ込まされているけれども、それは情報操作によって意図的に作り出されたものであり、幻想でしかないということです。

 この民主主義の裏面を一層具体的に明かしたのが、リップマンとともに大統領広報委員会で働いていたバーネイズです。バーネイズは『プロパガンダ』という本を書いて、「世の中の一般大衆が、どのような習慣を持ち、どのような意見を持つべきかといった事柄を、相手にそれと意識されずに知性的にコントロールすることは、民主主義を前提とする社会において非常に重要である」と述べ、一般大衆をコントロールする「目に見えない統治機構」がアメリカの真の支配者である、と言いました。

 つまり、私たちが自分の意見だと信じている考え方は、実は私たちが気付かないうちにコントロールされたものであって、決して私たち自身の意見ではないというのです。私たちはこういった錯覚の世界で生きており、大衆の意見をコントロールしている人々が真の支配者であると喝破しているのです。

 私たちは、金と情報操作によって「目に見えない統治機構」にコントロールされている可能性があることを認識しておく必要があります。

   米大統領側近にはユダヤ系有力者が送り込まれる

 アメリカでは、大統領になるよりも大統領候補になるほうが難しいと言われる。まず、共和党・民主党の党内予備選挙で大統領候補に選出してもらわなければならない。この予備選挙で、本選挙以上に多額の資金が必要と言われている。

 各大統領候補は献金集めに奔走しますが、大口献金者はほとんどがウォールストリートの人たちです。票に影響する情報を握っているのも、ウォールストリートの影響下にあるメディアです。

 2008年の選挙で言えば、最後まで資金が続いたのがオバマ候補でした。ヒラリー候補も健闘したけれども、オバマのほうが資金力で上回っていました。
 1976年の大統領選挙では、ジミー・カーター元ジョージア州知事が民主党の大統領候補に選出され、現職のフォード大統領を破って当選。しかし、なぜ「ピーナツオヤジ」と呼ばれていた彼が大統領候補になれたのか、とても不思議でした。
 その後の大統領選挙を見ても、アーカンソー州という誰も注目しないような小さな州の知事だったクリントンが突然、注目を浴びて急速に支持を集め、現職のブッシュ(父)大統領を破っている。
 オバマの場合は上院議員を1期6年も務めていないのに突然、頭角を現し、世間に持ち上げられて大統領に当選しています。
 どうしてこのようなことが起こるのか理解しがたいのですが、彼らに白羽の矢を立ててピックアップしている人たちが背後にいると考えるのが自然ではないか。

 おそらく、「カーターは使いやすい」「クリントンはまあまあ使いやすい」「オバマはこちらの言うことを聞きそうだ」と考えた人たちがいるのでしょう。実力とは関係なく、メディアが注目し、資金力のある人が大統領になっています。

 オバマ政権が誕生したあとの人事を見ると、周りにはユダヤ系の人たちが何人もいました。大統領を支える首席補佐官のラーム・エマニュエルや、国家経済会議委員長のローレンス・サマーズなどがユダヤ系です。大統領の側近には、いつもユダヤ系の人が送り込まれるわけです。
 大統領がいくらあがいても、もがいても、大統領に据えてくれた恩人から、いわば目付け役が周りに送り込まれるシステムになっているようです。
 ウィルソン政権、ルーズベルト政権も同じでした。ウィルソン政権では、周囲をユダヤ系社会主義者たちが固めていました。様々な資料から、ウィルソンは取り巻きの言うがままに動かされていたことがうかがえます。

 ソ連が誕生したときに「すばらしい民主主義国が誕生した」と理解しがたいことを述べたのも、ウィルソン自身が当時のソ連の状況を把握していたのではなく、取り巻きに囁かれて、そのとおりの発言をしたのでしょう。

 <つづく>

  (2015.7.26)
97 闇の世界の支配者は誰か? (3)


 では、「ユダヤ思想に基づく金融の力と情報操作力が、闇の世界を支配してきた」 という歴史的事実の具体例を引かせて頂きましょう。以下は、『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』 (馬渕睦夫著)によるものです。

 1917年のロシア革命もユダヤ革命であったというのが、西洋では常識になっています。

 ロシア革命の原点を遡ると、約百年前のナポレオン戦争(1796~1815年)に行き着く。ナポレオン戦争で巨富を得たユダヤ人のロスチャイルドと、神聖同盟をつくったロシア皇帝アレクサンドル一世の対立がこの時代から始まっている。

 ナポレオン戦争の際に、イギリスのネイサン・ロスチャイルドが巨万の富を築いたという有名な話――ナポレオン戦争では、最後のワーテルローの戦い(1815年6月)で雌雄が決した。この戦いでナポレオン軍(フランス)が敗れ、ウェリントン軍(イギリス)が勝利を収めたが、このときロスチャイルドは、他の者が知るよりも早くイギリスが勝利したという情報を掴んだ。その時ロスチャイルドは、取引所でイギリス国債を大量に売却した。この様子を見た周囲の仲介人やブローカーはイギリスが敗れたに違いないと考え、雪崩を打ったように国債を売却したので、イギリス国債は暴落した。この機を逃さず、ロスチャイルドは暴落した国債を大量に買い戻す。

 しばらくして、ウェリントン軍が勝利したという情報が伝わると、イギリス国債は買われてどんどん値が上がる。暴騰したところでロスチャイルドは売り抜け、ヨーロッパ全域に影響力を行使できるほどの巨万の富を得た。

 彼の前に立ちはだかったのが、ロシア皇帝アレクサンドル一世の提唱した神聖同盟であった。これはキリスト教国君主の団結を呼びかけるもので、いわばキリスト教国の国際連合のようなもの。オーストリアとプロイセンに加え、のちにイギリス、オスマン帝国、ローマ教皇を除く全ヨーロッパの君主が参加した。

 キリスト教徒の団結に対して最も敏感に反応するのは、イエス・キリストを殺害したとしてキリスト教徒から敵視されていたユダヤ教徒であり、ロスチャイルドをはじめとするユダヤ系国際銀行家たちである。

 神聖同盟以来、ロシア皇帝とユダヤ系銀行家の対立が続いていたが、ロシアが革命のターゲットになった直接的な理由は、帝政ロシアによるユダヤ人に対する迫害であった。当時のロシアには多くのユダヤ人が生活していたが、彼らはロシア皇帝に抑圧、迫害されていた。ロシアでのユダヤ人虐殺は「ポグロム」として知られている。

 ロシアに住むユダヤ人を迫害から解放するには革命を起こさなければならない、とユダヤ人たちは考えた。レーニンは母方の祖父がユダヤ人で、レーニン自身は四分の一ユダヤ人。トロツキーは両親ともユダヤ人。カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデック、スヴェルドルフ、リトヴィノフなど、当時の指導者の8割以上はユダヤ人だった。

 しかし、ユダヤ人はロシアの人口の僅か数パーセントに過ぎない。その少数民族が革命を成功させて政権をとることができたのは、背後に支援する勢力があったから。ロシア革命を支援したのは、ヨーロッパやアメリカのユダヤ系財閥であった。

 レーニンはロシアで革命運動をしていたが、逮捕されて流刑に処され、刑期を終えたあと、スイスに亡命している。亡命していたレーニンをロシアに戻したのは、イギリスのロスチャイルドとアメリカのヤコブ・シフです。(シフは、日露戦争に際しては日本国債を購入することによって戦費を用立て、日本を助けた。それはロシアの国力をそぎ革命を起こしやすくするため、日本を利用したのである。)

 シフたちユダヤ人の支援で、レーニンはドイツを経由して封印列車でロシアに戻った。
 トロツキーは、ロシア革命時はアメリカにいたが、アメリカから支給されたパスポートを持ってロシアに戻る。そのときニューヨークを中心に住んでいたロシア系ユダヤ人を引き連れて戻っている。彼は帰国後、ボルシェヴィキ(ロシア社会民主労働党分裂後のレーニンが率いた多数派)に入って革命を指導した。

 ロシア革命はマルクスの理論どおりにはなっていない。資本主義が発達していなかったロシアでなぜ共産主義革命が起こったのか、マルクスの理論では説明がつかない。

 世界は理論によって動いているわけではない。革命というのは「革命を起こそう」という意思があり、その実現のために必要な資金や人材を支援する人がいることで起こる。

 ロシア革命の場合、「ユダヤ人を解放しよう」という意思があり、ユダヤ系銀行家、ユダヤ系財閥が支援したことで起こった。つまり、ロシア革命はユダヤ人解放のための革命だったわけです。結果、ロシア革命でユダヤ財閥は大儲けをした。

 「革命は民衆の勝利」というような単純な理解をしていると、歴史の真相は見えてこない。ロシア革命の背後には、ユダヤ人解放の意思とユダヤ系財閥の商売上の意図が深く関係している。

 <つづく>

  (2015.7.26)
96 闇の世界の支配者は誰か? (2)


 20世紀は 「戦争の世紀」 であった、と言われますが、「ユダヤの世紀」 であったとも言える。その視点こそ世界史の矛盾や不思議を解く鍵なのだ。

 ――そう説いている 『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』 (馬渕睦夫著)を読み終えました。読みでのある本でした。何もかもすべて馬渕氏のおっしゃる通りであるとは思いませんが、世界史の大局的な新しい視点に立った見方で、蒙を啓かれた、目からウロコが剥がれたという思いがします。共感するところも多々ありました。

 同書を読む動機を与えて下さった「二代目一寸法師」様のご投稿に感謝します。

 上掲書は昨年2014年10月30日初版ですが、その 「まえがき」 には次のように記されています。

≪ いま、世界は大きな地殻変動の最中にあります。(…中略…)

 中国による尖閣奪取の表明や、韓国の日本敵視外交、このような両国の反日行動を阻止しようとしないどころか、逆にわが国の歴史認識を批判する同盟国・アメリカ。日々のニュースは、まるで米中韓三国による日本封じ込めを彷彿させるようなトーンで満ちています。一体、同盟国であるはずのアメリカは何を考えているのでしょうか。本書は、米中韓による反日姿勢の根源を明らかにするものです。

 これまで七十年の長きにわたり、マスメディアや教科書などによって、日本を貶
(おとし)めるための洗脳が行なわれてきました。先般の朝日新聞の慰安婦問題などに関する「誤報取り消し事件」は、これまで行なわれてきた洗脳工作の一端が破綻した象徴的な事件です。

 しかし、この事件そのものは、戦後ずっと日本を覆ってきた広範な洗脳工作の終わりの始まりにすぎません。私たちが本当に言論の自由を取り戻すことができるかどうかは、国民の方々の意識にかかっています。国民の方々が洗脳の事実に気づき、洗脳者にレッドカードを突きつけることができるか否かです。……≫


 昨日も申しましたように、「闇の世界」 とは、神の造り給うた 「光の世界」 「実相世界」 に対して、「現象世界」 のことであります。

 現象世界の歴史を振り返ると、20世紀は 「革命と戦争の世紀」 と言われる。革命にも戦争にも、資金が必要である。巨額の資金を、誰がどこから調達したのか。これまでの歴史研究では、その視点が欠けていた。歴史を読み解く鍵は、ユダヤ思想とユダヤ人たちの金融力にあった。革命と戦争をけしかけ、金融によって膨大な利子をかせぎ大もうけをして来たのがユダヤ系財閥、現在ではロンドン・シティやウォールストリートの国際銀行家たちである。

 「国際銀行家(international bankers)」というのは国際業務を行なっている銀行家という意味ではなく、通貨を支配しようとの野望を持った銀行家。国境意識や国家意識を持っておらず、特定の国に忠誠を誓うことのない銀行家です。主に王室や政府という、確実に利益の上がる融資先に資金を貸して巨富を築くのが彼らのやり方です。王室や政府に貸しておけば、回収不能になることはありません。返済に困れば、税金を上げて国民に出させればいいからです。

 上掲書のカバー袖に

 
≪本書を読めば、唖然とする歴史の真実を知る!
  超大国アメリカを動かす実体とは?
  グローバリズムを推し進める国際金融資本とは?
  歴史を読み解く鍵はユダヤ思想にある!≫


 とありました。ユダヤ思想に基づく金融の力と情報操作力が、闇の世界を支配してきたということです。

 日露戦争、ロシア革命、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、現在の東アジア情勢に繋がる歴史的出来事の背景にある金融の動きがわかれば、「なぜこんなことが起こったのか?」 という数々の歴史的な疑問が解けてくる。第二次世界大戦で米ソが組んだ理由も、より明確になってきます。

 ユダヤ思想とは何か。

 ユダヤ人は過去、国を持ったこともあったが、ことごとく滅ぼされてしまった。そこで、ユダヤ民族として生き残るために、国を持たなくても生き残る方法はないのか等々、深刻な議論を経て到達した結論は、離散(ディアスポラ)と呼ばれる生き方だった。世界各国に散らばって住むということ。どの国も興亡を繰り返すが、各国に散らばってユダヤ人が生活していれば、必ずどこかで生き残ることができると考えついた。

 しかし、散らばったユダヤ民族が、各国で国王や政府から迫害を受ける可能性がある。それをさせないために、彼らは国王や政府に金を貸してコントロールする方法を考えついた。金融による支配である。

 こうしたディアスポラによる国際主義と金融支配が、ユダヤ思想の根幹にある。そこから、より確実な安全保障のために、あるいは、より多くの金銭的利益を求めて世界中を自分たちのシステムに変えていこうとする人たちが出てきた。

 ユダヤ思想というのは何もユダヤ人の独占物ではない。思想は民族を越えて広がる力を持っており、日本人を含め世界の多くの非ユダヤ人がユダヤ思想の実践者になっている。

 金融至上主義、国境廃止、主権廃止、無国籍化を世界中に求めようとして、各国の国民性、民族性、勤労観などと衝突して軋櫟が生まれているのである。

 <つづく>

  (2015.7.25)
95 闇の世界の支配者は誰か?


 「ひろば」 #56 に、「二代目一寸法師」 様が、馬渕睦夫元ウクライナ大使の“「反日・中韓」を操るのは、じつは同盟国アメリカだった”という講演の録画を見て意見を言ってほしいというご投稿を下さいました。

 それで、講演の録画はまだ全部見ていないのですが、『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』 (馬渕睦夫著)という本を手に入れ、読み始めました。講演の録画も、本の方も、まだ全体の約3分の1見た(読んだ)だけですが、それで考えたところを書き始めます。

 「闇の世界」 とは、神の造り給うた 「光の世界」 「実相世界」 に対して、現象世界のことです。

 現象の世界は、人間の心が創ります。その人間の心は、実は環境に支配されやすく、情報操作によってだまされ動かされやすいものだということです。

 馬渕氏の講演の最初に、WGIP(War Guilt Information Program 戦後、連合軍が、日本精神をぶっ壊し、「日本は侵略国だ」という罪意識、「原罪意識=人間罪の子」を日本人に植え付けようとした洗脳政策)の話があり、それが二代目一寸法師様の投稿文のタイトルともなっているのですが、これは美事に功を奏して、その結実である 「日本国憲法」 が、戦後70年たった今も、金科玉条のように守られて、誤植の一文字すら変えられていない、という現実があります。

 不思議とも思えるこのようなことについて、裏面で世界の歴史を動かしてきたものを見抜く鍵は――まさに “目からウロコ” の視点――それは、ユダヤ思想の視点。

 ユダヤ思想に基づく金融の力と情報操作力が、闇の世界を支配してきたのではないか――。

 <つづく>

  (2015.7.24)
94 憲法改正(帝国憲法復元)への正攻法


 「ひろば」 #55 に、「蓮華」 様が、さっそく反応のご投稿をくださいました。ありがとうございます。本サイトをよく読んで下さっていることに感動いたしました。合掌礼拝。

 ≪谷口雅春大聖師がいかに明治憲法復元を望んでおられたかが、ひしひしと感じられ、現日本国憲法が日本国にとっていかに危険な憲法であることか――つい最近、安倍総理が安保法案で、精力的に日本の安全保障整備に貢献されようとしても、現憲法下では焼石に水となってしまう不安も感じました。

 といいますのも、安倍政権の支持率が今回の安保法案可決によって、著しく低下しているからです。これはまさしく、日本国憲法の唯物観、国民主権という名のもとに潜む個人主義が反映している結果であると、今回谷口雅春大聖師の聖典を拝読して確信致しました。≫(蓮華様の投稿文より)


 ――私も今、これは容易ならぬことであると、憲法の問題を心静かに、真剣に考えています。

 ≪安倍晋三は、憲法改正の正攻法を、本当に学んだのか
  ──“逆・憲法学”長谷部恭男が憲法学界の多数説という現実
                 筑波大学名誉教授  中 川 八 洋≫
  (中川八洋掲示板)

 というのも見ました。

 私は安部総理が誠実に真剣に国のために一身を顧みず働いてくださっていることに感謝し応援する気持でいますから、中川氏が岸信介元総理や安部晋三現総理のこともボロクソに言うことなどには嫌悪感を持ちますが、今の安部総理の戦術でいいのか、考えさせられるところもあります。

 中川氏の言わんとする内容のポイントは、

 
○岸元総理は、安保条約改定よりも憲法9条改正を先にすべきだった。

 ○日本の憲法学者の99%は、学問の対象として学術研究をしているのではなく、現在の日本国憲法をカルト宗教の教典とするような政治的作業を行っているのみである。

 ○憲法改正には、国民投票がある。国民には“憲法改正アレルギー”はないが、朝日新聞やNHKは憲法学者(99%は極左)と連動して「憲法9条改正に反対せよ!」と煽動するから、これに汚染されやすい。だから、まず憲法学者と真っ正面から戦って叩きつぶし、朝日新聞などを廃刊に追い込むことをしなければならない。

 ○安部総理は、まず憲法改正条項の「第96条」を改正して国会議員の2分の1(現在は3分の2)の発議で改正手続きに入ることが出来るようにすれば、第9条改正ができるようになると考えているが、それは極左勢力を打倒・粉砕することを避ける怯懦
(きょうだ)がある故の幻想である。国会議員の2分の1で憲法改正ができるようになれば、それで天皇制が廃止される。

 ○正しい立憲主義とは、「明文憲法の上位に、古来からの根幹的な法制(国体)がある。これから逸脱する変革を認めない」ということである。ところが、いまの憲法学者たちのほとんどは、「現憲法の精神、条文をカルト宗教の教典のように信仰せよ」というのが立憲主義だ、とねじ曲げて言っているようである。これは狂気の謬論というべきで、これをまず叩きつぶさなければならない。


 ということのようです。

 この最後の「立憲主義」を実際に適用実現すれば、「帝国憲法復元改正をすべし」 となると思うのですが、中川氏は、随分激しい言葉を吐いていながら、「憲法復元」 ははっきり言っていない。しかし、傾聴すべきところがあります。

 私は、前に #56#62 で書きましたように、若手気鋭の憲政史家・倉山満氏にも注目しており、正しい真理国家日本の実相顕現と世界平和の実現のために、適切な行動がとれるよう、祈りつつ勉強して行きたいと思います。

  (2015.7.23)
93 東芝トップ人事の教訓を考える


 「原子力を生かした新しい文化創造のために」 はちょっとお休みして、いま新聞などをにぎわしている東芝人事問題の教訓を考えましょう。

 ――東芝の不適切会計処理問題はトップがかかわっていたとして、歴代3社長が辞任する、ということになった。この事態を他山の石として、自己を省りみ、さらに生長の家教団の問題も考えてみたいと思います。

 まず、今朝(2015.7.22)の日経新聞「春秋」欄から。

≪連休最後の夜に、第三者委員会の報告書の要約版を公表したというから、市場や投資家の厳しい視線を前に、かなりの切迫ぶりと言えようか。東芝による1500億円を超える不適切な会計事案は、経緯が明らかになるほど、何とも言えないもの悲しさがあふれてくる。

▼社長月例という会議で、社内カンパニーの長らに「チャレンジ」と称する過大な目標の設定が命ぜられる。意を受けた事業部長、社員らが会計操作に手を染め続ける。内部統制も効かない。誰もが「まずい」と思いつつ、破滅の坂を転がっていく。どれだけの人が苦い酒を飲み、眠れぬ夜を過ごしたかと同情を禁じ得ない。≫


 ――上記の中で、≪「チャレンジ」と称する過大な目標の設定≫というのは、生長の家の運動の中で、過去にあった。講習会受講者拡大、誌友拡大、聖使命会員拡大などの過大な目標が設定され、発破をかけられて、信徒が苦しい思いをしたこともあったと思います。

 日経紙は、また別の編集委員が 「トップが成長の目標を掲げ、社員にはっぱをかけるのは自然な行為だ。だが、行き過ぎれば組織の足元は揺らぐ。経営者には難しいかじ取りが求められる時代だ」 とも書いています。

 いまの生長の家の運動では、「過大な目標の設定」 をして発破をかける、ということはしていないように思われます。しかし――「春秋」子は、つづいて次のように書いています。

≪▼「上司の意向に逆らうことのできない企業風土」 と、報告書は書く。創業140年のエリート集団を覆った 「空気」 でもあったろう。(中略)

▼「亢竜
(こうりょう)の悔いあり」 という言葉は 「徒然草」 83段にも引かれる。天に登った竜は下るしかない宿命にある、という意味だ。トップの地位は揺らぎやすいので自戒せよとも取れる。歴代の社長が部下を理不尽に叱責してまで守りたかったものは何か。チャレンジが自身の権威を維持するための「挑戦」なら社員は報われまい。≫

 ――私にも、反省するところがあります。

 ところで、生長の家教団ではどうか。

 「過大な目標の設定」 はなくなったとしても、「トップの意向に逆らうことの出来ない風土」 というのは、あるのではないか。

 たとえば、原発には反対しなくてはならない、として、本部講師は「踏み絵」のように 「脱原発」 のリレーエッセイを書かされる。もう24回もそれが続いている。「脱原発」 に疑問を持つようなことは、発言を許されない。私がその疑問を発したら、何の回答もなく、即クビ(講師解任)である。生長の家教団は、その「教規」に

「第2条 この宗教の設立の目的は次の通りである。
(1)谷口雅春創始の、生長の家の教義に基き、その主著 『生命の實相』 を鍵として、万教共通の宗教真理を開示し、これを宣布することによって、人類光明化につくすこと。」


 とあって、原発に反対することなど、その目的ではないはずです。本来の目的から外れた「カルト」のようになったのでは、教団の持続可能性が失われるのではないでしょうか。

≪コーポレートガバナンス(企業統治)とは何か。トップは何を語るべき存在か。長年にわたり、不適切会計が行われていた東芝の問題が問うたのは企業経営の根本部分にかかわる命題だった。≫

 と、日経の編集委員は書いている。

 私は生長の家が東芝のようにならないよう、聖使命会員として残ったまま、納得できない疑問は疑問として発言したり、反対すべきことには反対し、積極的提言をしたり、信念を吐露したりします。「ひろば」 #38 に投稿された“しろうさぎ”さんのような方も、いっぱいいらっしゃるんです。

  (2015.7.22)
92 原子力を生かした新しい文化創造のために(4)


 「私は 『次世代への決断 宗教者が“原発活用”を決めた理由』 というような論文を書いてみたいと思っています」 と、昨日私は書いたのでしたが、その日届いた生長の家の普及誌 『いのちの環』 65号(8月号)には、「リレーエッセイ 脱原発」(24)として、矢野俊一本部講師が書かれたページがありました。まずこれを読んで、とても気になったこと、これはいけないと思ったことを書きます。

 まず、国民総幸福量世界一とも言われる 「雷龍の国ブータン」 の話が語られています。(抜粋)

 
≪息子の一人がしきりに、「ブータンに行きたい」と話していた。彼によれば、ブータン国民に、「あなたは幸せですか?」と問いかけると、ほとんどの人が「あなたが幸せなら、私も幸せです」と答えるそうだ。また、ブータン国王の国民に対する誠実さと優しさが、政策にも現れている点が魅力だという。

 ……国王がいかに誠実に国民と向き合っているかが感じられるエピソードがある。それは、即位直後から王は、ブータン全土へ行幸したが、それ以来、「雷龍王の足跡がない村はない」と言われているほどという。

 「海抜200m前後のインド国境を覆う熱帯ジャングルから、7000m級のヒマラヤ巨峰が連なる中国国境まで、直線距離ではわずか200キロを無数の激流が貫き、国土は波打つ急階段の連続。車道に頼れる安易な旅ではない。酸素の薄い大気にあえぎ、雨期には蛭に血を吸われ、蚊や蚤、風に悩みながら、野宿を強いて歩き続けた。

 一人でも多くの民の心を聴こうと訪れる王の謙虚な姿に打たれ、民は胸を開いて語った」(西水美恵子著『あなたの中のリーダーへ』より)

 翻って我が国はどうだろう? 日本政府は国民に対して誠実だろうか。残念ながら現状は違うようである。≫


 ――ブータンを賛美することはよいです。しかし日本には、ブータン国王どころではない、比較にならぬ3000年の歴史と伝統を持つ尊い皇室、天皇陛下のご存在があることを、なぜ言われないのでしょうか。

 戦後日本復興の精神的原動力となった昭和天皇の3万3千キロに及ぶ全国ご巡幸―― 「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」という占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。そうして繰り広げられた感動のエピソードは、枚挙にいとまがない。

 私たちがいま生かされているのは、まさに天皇陛下のご一身をなげうっての大愛のお蔭ではないか。矢野さんはそのことを息子さんに伝えられておられるとは思いますが、日本人としてこういう事実をよく知らない若い人たちにもっともっと伝え、次世代に残すことこそ、「皇恩に感謝せよ」と説く生長の家の生き方で根本的な大切なことではないですか。

 幸福は外にはない。わが内にあるのである。感謝する心にあるのである。ブータンは幸福度世界一の国だというから、ブータンに行けば幸福のお裾分けでももらえるかと、日本青年がブータンを訪ねてみたら、全然ヒドイ国だった、という笑えない笑い話みたいなことも聞いています。

 安部総理は、潰瘍性大腸炎という難病をかかえながら、一身をなげうつ気持で誠実に日本のために働いてくれていると私は思います。そういうことにも感謝せず、自国の悪口ばかり言っていていいのか。それが日時計主義なのですか、と問いたい。

 原発の問題について矢野氏は、次のようにおっしゃる。

 
≪原子力発電の安全神話はすでに崩壊しているにもかかわらず、政府の原発推進派は、未だに「CO2を出さない原発は地球温暖化を防止する」と喧伝する。しかし実際は、原子炉を稼働(原発の建造やウランの製錬・加工など)させるためには、膨大な量の二酸化炭素を排出する化石燃料が必要なのである。≫

 ――「膨大な量の二酸化炭素」 といわれるけれども、それは、太陽光パネル製造やメガソーラー建設に比べたら、出力エネルギー量当りはるかに少ない量の二酸化炭素なのではないか。≪何処へ行く?「生長の家」≫の第二部[質問3]で引用紹介させて頂いた藤沢数希著 『「反原発」の不都合な真実』 にはそのことをデータを明らかにして述べられています。

 矢野氏はさらに、

 
≪また、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏は、著書 『子どもたちに伝えたい 原発が許されない理由』 の中で、原発が海を直接温める問題について言及している。

 原発の仕組みでは、発電器のタービンを回すために高温の水蒸気を発生させるが、その熱エネルギーは、電気エネルギーに変わる段階で3分の1になり、残りは、冷却用に引き込まれた海水を温めて海に捨てられる。しかも、海水は、海に戻される時点で7℃も水温が上がっているという。それが、百万キロワットの原発では、1秒間に約70トンも流される。そうした規模の原発が日本には20基以上あるから、海水温度の上昇が進み、近海の生態系に悪影響を与えるのは推して知るべしだろう。≫


 とおっしゃっていますが、そういうことがあるならば、小出氏は原子炉実験所の助教であれば、エネルギー変換効率を高めて、そんなに海水を温めることなく運転できるよう、技術革新を進めるのが使命なのではないかと私は思うのですが、なぜそれをしないで「原発が許されない理由」などといって使命を放棄されるのでしょうか。わかりません。

≪ 「あなたが幸せなら、私も幸せです」
 自然にも未来を生きる人々にも、そう言える自分でありたいと思う。≫


 と矢野氏はおっしゃる。私も、そう思います。ただ、私は原発をも活用しながら、真理を伝えひろめ、皇恩・国恩に感謝してヒノモトの実相顕現に生きることによって、それはできるのだと思います。原子力エネルギー、原発は、愛深き神の賜です。

 <つづく>

  (2015.7.21)
91 宗教とは何か。人間とは何か(7)


 宗教とは何か。『広辞苑』 では、

 「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事、また、それらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。」

 ウィキペディアでは

 「宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」

 とあります。似たような定義ですが、後者の方が少しわかりやすい気がします。

 しかし、いずれも宗教を信じていない人が、外形的に見た「宗教」の常識のように思われます。
 「宗教」 は多様な定義が可能で、「これが絶対的な定義だ」 と決めつけられるものではないようです。

 私は、前に #26 でも書いたことがあるように、

○最も野蛮な迷信の一つは、人間は信仰なしに生き得るものだという独断に対する現代の所謂学者の大多数の迷信である。

○あらゆる宗教の本体は、何のために私は生きるか、自分をとりまく無限無窮の世界に対する私の関係は如何なるものであるかという疑問に対する解答の中にのみ存する。

○学問において是非とも究め知る必要のある唯一の知識は、吾人が如何に生くべきかという事実に対する知識である。


 というトルストイの 『人生読本』 の言葉から、宗教の道を究めようと思いました。

 そして、『生命の實相』 を読んだ時に、≪宗教は人間を解放するものである。「この教えでなければ救われない」と言って人間を束縛するようなものは、正しい宗教とは言えない。すべての正しい教えの神髄は、説き方はちがっても真理は一つである。≫

 として、「万教帰一」 が説かれている。この道を究め、この道に自分の人生を懸けて生きよう、と決めたのです。それは20歳前のことでしたから、それから60年あまりたちました。

 でも、道は永遠であり、無限ですから、まだまだ道半ばです。


 さて、「ひろば」 #54 「新しき風」 様のご投稿に、

≪ある誌友会に出講した。中年と見えるご婦人から、こんな質問を受けた。

「自分のうちには まだ育ち盛りの子供がいるのだが、ノ―ミートにしなければいけないのでしょうか」 と。これはその方が悩んでいるから出た質問である。

私は、「あまり食事のことでノ―ミートにこだわらなくてもいいのではないですか。無理なことはできないし、無理するのは み教えではないのだし。」 とお答えしたことであった。

別に、ここで出た質問ではないが、他に予想される質問には
「安倍普三首相の安保政策は まちがっているのですか」 とか
「原子力発電には反対しなければいけないのでしょうか」 等々あり得る。

これらの質問に対して、一本の線を主張するなど、むしろ控えるべきであると思う。
生長の家は、真理を学ぶことにより、心が(実相の)自由を得ることを目的に出現したのであって、日常の食べ物や、家でのエネルギー節約の具体的目標付けをすることなど、まったく目指していなかったはずである。

こうした、自分の毎日の生活態度を変更すべきか否かに悩んでいる信徒さんも多数いらっしゃるので、本来生長の家が目指すものを、再確認しておかねばならないと思った次第である。(2015.7.20 新しき風)≫


 とあります。

 生長の家は、「ノーミートにしなければならない」 とか、「原発には反対しなければならない」 という教えではないと思います。「人間解放の宗教」 である。

 今日届いた普及誌 『いのちの環』 65号(8月号)には、谷口雅宣 生長の家総裁の 「今なぜ、国防政策の大転換か?」 という論文が掲載されています。そこには、

 
「私は、この関連11法案に反対する。理由の最大のものは、法治国家の大原則を無視しているからだ」

 と書かれています。

 私は、現行憲法そのものが、法治国家の大原則を無視して占領下に押しつけられたものであることを、無視してはならない、と思います。

 私は、四宮正貴氏が、
「憲法守って国滅ぶ」
「支那からの侵略の危機と日米軍事同盟」
と題して Facebook に書かれていることの方が、当を得た、時宜に適った論であり、生長の家創始者谷口雅春先生のお心を受け継ぐものでもあると思います。

 総裁が個人的にどういう政治的見解を持たれるのもよいでしょうが、信徒がそれに縛られることはないと思います。

 総裁は 『次世代への決断 宗教者が“脱原発”を決めた理由』 という本を書かれていますが、私は 『次世代への決断 宗教者が“原発活用”を決めた理由』 というような論文を書いてみたいと思っています。

  (2015.7.20)
90 宗教とは何か。人間とは何か(6)


 「天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時」 とは、時間的流れの初めという意味ではなく、天地の根元、時間空間が発する元のところを言い、「高天原」 とは大宇宙、実相世界を意味する。

 その神のみことばのなりひびく実相世界、神の国の特徴は――古事記神話において、「神代七代
(かみよななよ)の御神名で表現されている、と谷口雅春先生はお教えくださっている。

 その 『古事記』 原文をまず学びましょう。


≪ 角川文庫版 『古事記』 (武田祐吉訳注)より <つづき>

 次に国稚
(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂える時に、葦牙(あしかび)(5)のごと萌え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこじ)の神(6)。次に天の常立(とこたち)の神(7)。この二柱の神もみな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(みみ)を隠したまひき。

   上の件
(くだり)、五柱の神は別天(ことあま)つ神。

 次に成りませる神の名は、国の常立
(とこたち)の神。次に豊雲野(とよくもぬ)の神(8)。この二柱の神も、独神(ひとりがみ)に成りまして、身(みみ)を隠したまひき。次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹(いも)須比智邇(すひぢに)の神。次に角杙(つぬぐひ)の神。次に妹(いも)活杙(いくぐひ)の神 二柱。次に意冨斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹(いも)大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に於母陀琉(おもだる)の神。次に妹(いも)阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神(9)。次に伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に妹(いも)伊耶那美(いざなみ)の神。

   上の件
(くだり)、国の常立の神より下、伊耶那美の神より前を、
   あはせて神世七代
(かみよななよ)とまをす。
   上の二柱は、独神おのもおのも一代とまをす。
   次に並びます十神はおのもおのも二神を合はせて一代とまをす。

  ※注(5) 葦の芽。十分に春になったことを感じている。
     (6) 葦牙の神格化。神名は男性である。
     (7) 天の確立を意味する神名。
     (8) 名義不明。以下神名によって、土地の成立、
        動植物の出現、整備等を表現するらしい。
     (9) 驚きを表現する神名。(以上、武田祐吉訳注)


 ――上記の御神名が、実相世界の特徴をあらわしていると、谷口雅春先生は 『限りなく日本を愛す』 第六章にご教示くださっています。それは次の通りです。

1.「中心帰一の妙有世界」 <天之御中主
(あめのみなかぬしの)神>

2.「陰陽の秩序整う世界」 <高御産巣日
(たかみむすびの)神・神産巣日(かみむすびの)神>

3.「無限創造の世界」 <宇摩志阿斯訶備比古遅
(うましあしかびひこじの)神・豊雲野(とよくもぬの)神>

4.「金剛不壊の世界」 <天常立
(あめのとこたちの)神・国常立(くにのとこたちの)神>

5.「遠心求心調和の世界」 <角杙
(つぬぐひの)神・活杙(いくぐひの)神>

6.「無限包容の世界」 <意富斗能地
(おほとのぢの)神・大斗乃弁(おほとのべの)神>

7.「円満完全至美至妙の世界」 <淤母陀琉
(おもだるの)神・阿夜訶志古泥(あやかしこねの)神>

 ――その詳細なご説明は、長くなりますので、後にゆずりますが、妹
(いも)は奥さんのことで、天之御中主神以後の神名はおおむね対(つい)になっていて、中心帰一・陽陰調和が実相世界の秩序になっており、一番最後の「阿夜訶志古泥(あやかしこねの)神」というのは、どのように形容してもなお足りない、ただもう妙々あな畏(かしこ)しと讃嘆するほかはないということなのであります。

  (2015.7.19)
89 宗教とは何か。人間とは何か(5)


 現象界は不完全で生老病死などの苦しみがある「八苦の娑婆」である。そこには「絶対」や「完全」はない。

 しかし、その現象界は夢まぼろしのごとく、本当は「ない」ものなのである。四苦八苦は、夢を見ていただけなのである。本当は、すでに無限完全円満な天国、極楽浄土がある。心の眼を開いて見れば、今此処が天国であり、龍宮であり、死なない命がある。

 「安らなれ すべて善ければ とこしえに此処極楽に 汝
(なれ)はいま 守られてあり」
  (「堅信歌」) なのである。

 そのことを知る・知らせるのが宗教、信仰である。

 そしてその、すでにある無限完全円満な天国(実相世界)を地上に顕現するのが人間の生まれてきた目的、使命である。人間は宇宙大生命の表現口。神より出でたる光である。

 人間の魂(生命、本体)はみな一つの玉(魂)の緒でつながっている。神の子の兄弟姉妹であり、本来一体の生命である。

 イエスは、「天にまします我らの父よ。御名
(みな)をあがめしめ給え。御国(みくに)を来たらしめ給え。みこころの天に成るがごとく地にも成らせ給え」 と祈るように教えた。

 その 「みこころの天に成る」 神の御国とは、どんなところであろうか。

 それは、日本古典 『古事記』 の冒頭に記されている、神代七代の御神名で表現されているところであろう。

 『古事記』 の冒頭には、次のように記されている。


≪角川文庫版 『古事記』 (武田祐吉訳注)より

 古事記 上つ巻

     〔天地のはじめ〕

 天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神(1)。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神(2)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)(3)に成りまして、身(みみ)を隠したまひき(4)。

  ※注(1) 中心、中央の思想の神格表現。空間の表示であるから活動を伝えない。
     (2) 以上二神、生成の思想の神格表現。事物の存在を
       「生む」ことによって説明する日本神話にあって原動力である。
       タカミは高大、カムは神秘神聖の意の形容語。
     (3) 対立でない存在。
     (4) 天地の間に溶合した。(以上、武田祐吉訳注)≫


 谷口雅春先生は、上記を、「久遠の今」なる唯神実相哲学のお悟りの境地から、つぎのように説かれる。

 「天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時」 とは、時間的流れの初めという意味ではなく、天地の根元の状態、時間空間が発する元のところをいう。「久遠の今」である。

 高天原
(たかあまはら)とは、時間と空間とが十字交差して球状の家をなしている大宇宙を意味する。
 (「生長の家」というのも「生」は時間、「長」は空間で、「高天原」と同じく大宇宙を意味して名づけられている。#70 に掲示した図をごらんください)

 「天之御中主神」 とは、個別神の固有名詞ではない。我々の名前は、人間にはいろいろの人間があり、それの区別をつけなけらばならないから名前を付けるけれども、大元の神は一つだから名前なんかない。天之御中主神は大元の本源の神だから、他の神々の名称とちがって、「之」という字をつけてある。これは天球、宇宙の本源の、現象が未だ発せざるところの中心という意味の説明語であることを表している。角川文庫版の注でも、「中心、中央の思想の神格表現」とされている。

 「高天原に成りませる神」は宇宙全体に鳴りひびいている本源のコトバ、理念ということであって、ヨハネ伝第1章の「太初
(はじめ)にコトバあり」(#87)の「コトバ」と同じ。

 「独神」は、対立するもののない、唯一絶対なる神を意味する。

 高御産巣日神・神産巣日神も「独神」すなわち唯一絶対なる神であるということは、この両神は天之御中主神の陽と陰二つの御働きをあらわしているのである。

 上記三柱の神は、「身を隠したまひき」で、大宇宙全体に遍満しながら身を隠していらっしゃる創造の原理なのである。天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神を勧請して祀るというのは、この三神をまるで個別神扱いしていることになるので、谷口雅春先生はそういうことはなさらなかった。

 <つづく>

     **************

 ○ 創造の本源世界、実相世界(神の国)には一切が備わっており、悪はない、大調和の世界であるけれども、八苦の娑婆とも言われる現象界の家には戸締まりをして泥棒が入りにくくすることも適切な知恵である。今騒がれている安保法制の問題に関連して、四宮正貴氏が直言しているのをご覧ください。

https://www.facebook.com/masaki.shinomiya.1/posts/882029625217382


  (2015.7.18)
88 宗教とは何か。人間とは何か(4)


 宗教とは何か。宗(もと)の教えと書く。「ビッグバン以前」 の宗(もと)に帰る教え・学びと言ってもよいのではないだろうか。

 ビッグバンによって創成された宇宙は、前にも述べたように、数多性・多様性をもって現れている。しかし、数多性・多様性が生じる以前に、「一」 なる、主客未分の根源生命があった。それは現象宇宙すべての第一原因者である。サムシング・グレート、宇宙大生命、神、真如(しんにょ)、仏と言ってもよい。それは対立するものがないから 「絶対」 なのである。

 現象宇宙は、時間・空間を認識の形式として仮に創りだし、そこに映し出した壮大な映画のようなものである。時間も空間も本来ないので、時空間のスクリーンに映し出された現象宇宙は実在ではなく、映像
(うつし)である。

 聖経 『甘露の法雨』 に曰く。

≪   神

或る日天使生長の家に来りて歌い給う――
創造の神は
五感を超越している、
六感も超越している、

至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則
真理
光明
知恵
絶対の愛。
これらは大生命――
絶対の神の真性にして
神があらわるれば乃ち
善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし。≫


――と。この冒頭の 「或る日」 は、昨日引用した 「新約聖書」 ヨハネ伝第1章の冒頭に

 
≪太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神なりき。……万(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。……≫

 とある 「太初
(はじめ)」 と同じく、「ビッグバン以前」 と言ってもよい、時空を超えた 「或る日」 なのである。「久遠の今」 と言ってもよい。

 現象世界は相対の世界であって、そこには 「絶対」 や 「完全」 なるものはあり得ない。

 しかし、上記聖経 『甘露の法雨』 には 「絶対の愛」 「絶対の神の真性にして」 と、「絶対」 が出てくる。そこは現象以前の、時空未発の 「一」 なる根源世界であるからである。

 その
「絶対の愛」 なる神、完全なる神を信ずるのが本当の宗教である と、私は思います。なぜなら、現象界は不完全で「八苦の娑婆」(#86)である。そこから救ってくれる神は、愛が足りなかったり、力が足りなかったりしたのでは救いにならない。安心立命を与えるのが宗教の役目ならば、絶対の愛なる神、完全なる神がなければならない。

 聖経 『甘露の法雨』 には、つづいて

≪神こそ渾(すべ)ての渾て、
神は渾てにましまして絶対なるが故に、
神の外にあるものなし。
神は実在のすべてを蔽う。
存在するものにして
神によって造られざるものなし。≫


 とあります。

 「神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし。」

 ですから、わたしたち人間も、苟も存在するとしたら、本来神であり、「わたしたちの外にあるものなし」 「すべてはわが内にあり」 という絶対存在なのですね。

 そして

≪神が一切のものを造りたまうや
粘土を用い給わず、
木材を用い給わず、
槌を用いたまわず、
(のみ)を用いたまわず、
如何なる道具も材料も用い給わず、
ただ『心』をもって造りたまう。……

この全能なる神、
完全なる神の
『心』 動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。≫


 とありますが、ここで 「一切の現象」 とある 「現象」 は、現象世界の現象ではない。現象以前の理念のすがたである。映画で言えばスクリーンに映し出された映像ではなく、フィルムに記録されている画、つまり現象が現れる元の本源世界、実相世界のアイディア、理念のすがたである。そう谷口雅春先生はお教えくださっています。

 <つづく>

  (2015.7.18)
87 宗教とは何か。人間とは何か(3)


 物理学的な物の考え方として、科学者が大事にしている信念は、「絶対的に正しい考えなど存在しない」 ということだという。現象界は“諸行無常”で、物理学界でも 「これだけは正しい」 と思われていたことがあとになって崩れた例は、今までにたくさんあったから。

 「絶対」 とは、 「対立を絶していること」。現象界のすべてのもは相対的に、数多性・多様性をもって現れているので、現象界に 「絶対」 というものはあり得ない。認識は、主観と客観があって成り立つ。それが 「相対」 であって 「絶対」 ではないから、とも言える。

 1940年、ガモフとアルファおよびハーマンが宇宙創成に関する仮説を発表した。それが150億年ほど前のビッグ・バンによる宇宙の誕生である。そして現在の宇宙にはビッグ・バンからとりのこされた輻射熱が宇宙全体に充満していて、その温度は絶対温度で五度だと予測した。最新の宇宙論とは少し異なる。だからといって、この大胆な仮説の価値は少しもそこなわれない。むしろ、純粋な推理だけでここまで予測したことはすごい。ガモフたちの仮説は、その後の宇宙論の方向を示す輝かしい成果を生み出したのである。

 ところで、ビッグ・バンによる宇宙の誕生の前には何があったか。何もなかったか。

 新約聖書ヨハネ伝第1章冒頭に、

 
≪太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神なりき。……万(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。……≫

 とあります。この 「太初
(はじめ)」 とは、「ビッグバン以前」 のことである。

 ――というのは、もちろん物理学的に証明できることではありません。五官も六感も超えた――五官認識を超えた生命的直観認識によるものです。

 ビッグバンによって創成された宇宙は、前にも述べたように、数多性・多様性をもって現れている。しかし、数多性・多様性が生じる以前に、「一」 なる、主客未分の根源生命があった。それは現象宇宙すべての第一原因者である。サムシング・グレート、宇宙大生命、神、真如
(しんにょ)、仏と言ってもよい。それは対立するものがないから 「絶対」 なのである。

 現象宇宙は、時間・空間を認識の形式として仮に創りだし、そこに映し出した壮大な映画のようなものである。時間も空間も本来ないので、時空間のスクリーンに映し出された現象宇宙は実在ではなく、映像
(うつし)である。

 では、「人間」 とは何か。

 肉体が人間ではない。時間も空間も超えた宇宙大生命、絶対者の地上的顕現である。真如より来たれるものであるから 「如来」 とも言い、「神の子」 とも言う。日本古神道では 「日子」 「日女」 と称したのである。

 谷川俊太郎さんの絵本 『子どもたちの遺言』 で、

≪いくら勉強しても分からないことがある
怠けているからじゃない
頭が悪いからじゃない
おれはどこから来てどこへ行くのか≫


 と言って(問うて)いる、その答えは――

 神(仏)の国から来て、神(仏)の国に還る、と言ってもよいのではないか。

 <つづく>

  (2015.7.17)
86 宗教とは何か。人間とは何か(2)


 詩人 谷川俊太郎さんの絵本 『子どもたちの遺言』 のまず最初に、

≪生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか≫

 とある、この 「ぼく」 は高級霊(何度も生まれかわりの体験を繰り返し、人生について多くを学んで進化を遂げてきた魂)なのかな、と思います。

 仏教で、この世は 「四苦
(しく)、八苦(はっく)の娑婆(しゃば)」 と言います。

 「四苦」 とは、生・老・病・死の四つの苦しみ。生きて行くには生存競争の苦しみがあり、やがて老衰し病気で苦しみ、死ぬ苦しみがある。

 「八苦」 というのは生老病死の四苦に加えて、

・愛別離苦
(あいべつりく) - 愛する者と別れなければならない苦しみ
・怨憎会苦
(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会わなければならない苦しみ
・求不得苦
(ぐふとくく) - 求めても得られない苦しみ
・五陰盛苦
(ごおんじょうく) - 煩悩が盛んで肉体と精神が思うままにならない苦しみ

 の四苦を合わせ八つの苦しみがある。そうして苦しんで、誰でも、どんなに立派な功績を残した人でもみんな、死んでこの世から去って行く。

 それでは、何のための人生だろうか。人生は苦しむためにあるのだろうか。

 釈迦は、この八苦の娑婆を遠離
(おんり)し解脱する(苦しみから解き放たれ脱する)道を求めて家出(出家)し、6年間山に籠もって苦行をしたが、悟れなかった。

 それで山をおりて沐浴し、一杯の乳粥をバラモンの乙女から供養されて食したときに、「山川草木国土悉皆成仏」 山も川も草も木も国土も、悉く成れる仏である、この世はすべてが互いに生かし合っている極楽浄土である、という実相を悟られた。

 人間は、死なない命、生滅を超えた永遠の命だ。

 いろは歌留多
(かるた)の歌が教えている。

 〈色は匂へど散りぬるを 我が世たれぞ常ならむ 有為(うゐ)の奥山今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず〉

 ――すべて見える世界のもの(色)は一時美しく咲き誇っても花は必ず散るように消え去ってしまう。この世に誰か常恒で変わらないものがあろうか。人間のはからい心で人為的に深い山奥を究めるような仕事をしたと思っても、それは浅はかな夢を見たようなもの。今はそれを超え、酔っ払ったような行動をせず、真理に目覚めた価値ある生き方をしよう。

 ――ということだと思います。

 キリスト教の讃美歌 536番が思い浮かびます。

≪1.むくいをのぞまで
  ひとにあたえよ。
  こは主のかしこき
  みむねならずや。

  水の上
(え)に落ちて、
  ながれしたねも、
  いずこのきしにか
  生い立つものを。

2.あさきこころもて
  ことをはからず
  みむねのまにまに
  ひたすらはげめ。

  かぜに折られしと
  見えし若木の、
  おもわぬ木陰に
  ひともや宿さん。≫


 これは、マタイ伝10-8に 「病める者をいやし、死にたる者を甦えらせ、癩病人をきよめ、悪鬼を逐いいだせ。価なしに受けたれば価なしに与えよ」 とあるのに基づいているものだということです。

 <つづく>

  (2015.7.16)
85 宗教とは何か。人間とは何か(1)


 「原子力を生かした新しい文化創造のために」 はまだ尻切れトンボで完結していませんが、いったん中断して、ここで 「宗教とは何か」 「人間とは何か」 についての考察をして行きたいと思います。

 初めに、詩人 谷川俊太郎さんの絵本 『子どもたちの遺言』 から。

 先月、NHKのあさイチでしたか、上記の絵本(谷川さんの詩と田淵章三さん撮影の写真を組み合わせた作品)を紹介していたのを見て、感銘を受け、注文したら第10刷が7月10日にできたのが届いたのです。そのまず最初に、

≪   生まれたよ ぼく

生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか

だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが誰かを好きになるのを
ぼくが幸せになるのを≫


 とあります。

≪   一人きり

ぼくはぼくなんだ ぼくは君じゃない
この地球の上にぼくは一人しかいない
もしかすると半径百三十七億光年の宇宙で
ぼくは一人きり

生まれる前もぼくはぼくだったのか
死んだ後もぼくはぼくなのか
どこへ行ってもぼくはぼく
いつまでたってもぼくはぼく
ぼくはぼくが不思議でしかたがない≫

≪   きみと

いくら勉強しても分からないことがある
怠けているからじゃない
頭が悪いからじゃない
おれはどこから来てどこへ行くのか≫


 とも。
 ――その、誰もが一度は不思議に思う、「おれはどこから来てどこへ行くのか」という問いに答えるものが宗教だ、とも言える。そう私は思います。

 <つづく>

  (2015.7.15)
84 原子力を生かした新しい文化創造のために (3)


 『何処へ行く?「生長の家」』の、総裁への公開質問(3)およびこの欄の #81「原子力を生かした新しい文化創造には百年の準備期間が要る」でご紹介しました、日本原子力界の第一人者と言われている石川迪夫
(みちお)氏が、昨日7月13日から茨城県の日立シビックセンター音楽ホールで3日間にわたって開かれている 「日本保全学会 第12回学術講演会」 初日の特別企画 「廃炉への取組―原子力利用と環境―」 で特別講演をするというので、聴きに行きました。

 石川氏は 「福島事故が教える 間違いだらけの原子力常識」 という演題で熱弁をふるっていました。
 石川氏は、『電気新聞』 の 「ウェーブ」 という時評欄に、今年1月以来 「許し難いNHK原子力報道」 という題で3度にわたり書いています。

 まず第1回目に、

       ************

 「知られざる大量放出」。昨年12月21日放映されたNHKスペシャルの題名だ。独自の取材と科学的検証を積み重ねて、これまでの常識を覆す真実と、番組説明で自負した放映だったが。

 結論を先に言えば、「嘘をまぶして、ペテンでこねて、でっち上げたがこの番組」とのチョボクレが、昔の瓦版売りなら出る内容だ。

 この放映に、福島も含め全国に怒りのメールが飛び交い、暮れも迫った30日、急遽集まった人数は、マスコミも含めて約20人。

 番組冒頭のナレーションは、福島事故の放射能放出は、最初の4日間とされてきたが、今回新たなデータを解析したところ、3月15日以降2週間にわたり全体の75%が放出されていた。その原因は原発の構造的欠陥にある、と言う。

 だが、これが嘘の始まりだ。15日以降の大量放出は、早くから東電報告に有り、原子力学会の事故調報告書にも書いてある。知らぬはNHK一人、調査もせずに「知られざる真実」とは、厚顔だ。

 第2の嘘は、この大量放出原因が、15日昼から午後9時頃までの3号機のベントにあるとする下りだ。実際の大量放出時刻は15日午前6時と16日午前0時で、NHKがいう時間帯ではない。

 映像では「3月15日午後4時3号機中央制御室」と表示し、「ベントAO弁開」との音声が続く。さらに「正門付近の放射線量が上昇、23時30分現在、80、80マイクロシーベルト」と本部員に叫ばせる。

 これが正しければ、排気筒からの放出放射能は、半日近くも測定されずに雲隠れしていた事となる。子供でも気付く間違いだ。

 第3の嘘は、この放射能が全体放出の10%を占め、ヨウ素137が主体の3号機からの放出とし、学生実験を絡めて「知られざる新事実」として報道する部分だ。

 …(中略)… だが一般視聴者に、この作為は見破れないから、映像は真実と映る。さらに局の女性アナウンサーが「今頃になって(新たに)分かることがこんなに多いとは、安全をどう考えたら良いのか」と、さも不安げに追従を入れて、視聴者の原子力不信を煽る。

 許し難いのは、15日の現場再現映像の過剰演出だ。「原子炉水位、燃料頂部マイナス2300」と聞いて、燃料が露出したと全員が驚愕、狼狽するシーンが出る。だが、これは間違いだ。3号機の水位は、13日昼頃の炉心溶融以降、変化していない。こんな誤った映像を「真実」の名で放映し、必死で放射線作業を続けた運転員達の心を傷つける。

 不愉快なのは、拙著『考証 福島原子力事故』の内容を無断でつまみ食いしている点だ。「これはぱくり」だとは、多数の見解だ。作品を使用して貰うのは、嬉しいことだが、無断使用や誤用には腹が立つ。世の見解を二分する原子力問題について、公共放送の報道姿勢が、これで良いのであろうか。


       ************

 このNHKの報道に対して、100人を超す専門家たちが署名してNHKに抗議文を提出したが、NHKから来た回答は論旨のすり替えで指摘をはぐらかし、文面こそ丁寧なものだが抗議を全面否定する、許し難いものだったという。

 今日の日経新聞夕刊 「こころの玉手箱」 欄に、音楽プロデューサーの酒井政利氏が 「天井桟敷のLP」 と題して書いていました。

≪ 私は一貫して言葉を大切にしてきた。……寺山さんが作詞した「時には母のない子のように」を天井桟敷にいた17歳のカルメン・マキが歌った。69年にCBS・ソニーから発売したら、会社初のミリオンセラーになった。

 「酒井さん、作り物はだめだ。すぐに見抜かれる」が寺山さんの口癖だった。曲に波の音を入れることになっても、ソニーにある波の効果音は使わない。私たちが湘南の海まで1日がかりで録音に出かけた。

 今もこのLPを手に取ると、寺山さんの声が脳裏に響く。「作り物はだめだ」。私のプロデュースに影響を与えた金言である。≫


 と。

 実は、昨日の講演会には、石川氏の本を出したいという一出版社の社長も一緒に聴きに行ったのでしたが、“作り物”でない、本物をあらわした本を作れば、「至誠天に通ず」できっと本も売れるであろう。私も、まだまだわからないことが多いので、本当のことをしっかりと勉強して行きたいと思います。

 <つづく>

  (2015.7.14)
83 原子力を生かした新しい文化創造のために (2)


 東京大学教授の鷲谷いずみ氏が、「イモガイ類の多様性と有用性」 と題して、日経新聞 「明日への話題」 欄に、次のように書かれていたことがありました(2012年)。

 ≪フィールドワークを始めるとき、まず知っておかなければならないことの一つが「野外の危険な生物」だ。海の危険な生物のうち、もっとも恐れられているのがイモガイ類である。

 (中略)イモガイ類の中にはどう猛な肉食で、猛毒をもつモリの如き器官で魚や貝をつき殺して食べるものもいる。しかし、「毒と薬は紙一重」 という諺のとおり、その毒は、医療の現場で役立つものが少なくない。

 モルヒネの1000倍もの痛み止めの効力があるのに習慣性の少ないジコノタイドなど、すでに医療現場で利用されているものもある。イモガイ属だけでも、5万種類もの薬として利用できる可能性のある化学物質が存在するという推定もある。

 有用な薬の宝庫と目されるイモガイ類だが、サンゴ礁の世界的な環境悪化のため、その人類にとっての有用性を確認する間もなく、相当数の未発見種を含む多くの種が絶滅してしまう可能性が懸念されている。≫


 と。

 イモガイは 「危険な生物」 として最も恐れられている、猛毒を持つ貝だが、その毒が、使い方によっては(適量では)貴重な薬になるのだという。

 これは、「ホルミシス効果」 と称ばれているもので、原子核反応から出る放射線も、強すぎれば死に到ることもあるけれども、適量ならば生物の健康にプラスの効果をもたらす、というのが 「放射線ホルミシス効果」 である。「ホルミシス」とは「ホルモン」と語源をおなじくする、「活性化」という意味からきている。

 自然界にはあらゆるところに放射線が存在する。その放射線は、実は地球上の生物、人間にとって不可欠のものである。

 米国のT.D.ラッキー博士
 ――1941年コロラド州立大学(化学)、ウイスコンシン大学で理学修士(生化学)、ノートルダム大学助教授、准教授(1946-1954)、ミズーリ大学生化学主任教授(1954-1968)、退職により名誉教授号を授与される。NASAのアポロ計画に協力し、地上の数百倍の宇宙放射線環境内での安全性を追求する中で、適度の放射線被曝は「人体に恩恵をもたらす」ことを発見し、「放射線ホルミシス効果」と名付けて世界に発表した。――

 ラッキー博士は、2011年の6月1日にアメリカで発行された、“Journal of American Physicians and Surgeons”という医学雑誌に、「電離放射線の生物学的効果-日本に贈る一視点」という論文を寄稿した。その冒頭で博士は「世界のメディアの大半が放射線は全て有害であると思い込んでいる。もし、日本政府が2011年3月の地震と津波がもたらした福島原発事故への対応にあたってこうした思い込みに支配されるなら、既に苦境にあえぐ日本経済が途方もない無用な失費に打ちのめされることになろう」と書いている。

 「高線量放射線は人体に害があることは当然だが、それが少なくなるに従って、害の程度が減ずる」 とわれわれが考えているのとは異なり、或る値(これを閾<しきい>値と言う)以下になると却って人体の健康に良い影響を与える、という事実があるのである。これを博士は 「放射線ホルミシス効果」 と呼んでいる。

 ではどのくらいの線量からよい影響が出るのか、という点に関しては、ラッキー博士は膨大な研究論文、自身の実験などの結果から、100ミリシーベルト/年が最も健康に良い線量レベルであると述べている。

 上記ラッキー博士の論文を中心に紹介した本(2011年8月初版) 『放射能を怖がるな! ラッキー博士の日本への贈り物』 の翻訳解説者 茂木弘道氏は、1970年に岡、矢野弘典などと共に 「東京大学生長の家学生会」 を立ち上げた時の同志、後輩です(東大経済学部卒)。

 <つづく>

  (2015.7.12)
82 原子力を生かした新しい文化創造のために (1)


 有馬朗人
(ありま あきと) 元文部大臣 元東大総長が、「原子力の安全と利用を促進する会」 会長として、

 「福島を復興しながら、原子力の安全性を確保し再利用を進めたい」

 と題し、次のように言われています。

≪ ……寺田寅彦は 「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、 正当にこわがることはなかなかむつかしい」 と言っている。英知を絞って科学技術を伸ばし、世界と日本のエネルギー事情を克服していくため、「原子力を正しくこわがるように説得していきたい」。≫

 と。

 「原子力を正しくこわがる」 とは、どういうことでしょうか。

 有馬氏に聞いてみたいと思いますが、私は自分なりに、次のように思いました。

 #80 に書きましたように、それは――

 太陽エネルギーは原子力エネルギー。
 地上の万物は太陽エネルギー、すなわち原子力エネルギーによって生かされている。植物は太陽光エネルギーによって二酸化炭素を酸素と炭水化物にする「光合成」を行い、成育する。動物は、人間を含め、基本的にその植物を食して生かされている。

 日本は、「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわ)まりなかるべし。」 という御神勅から始まった国。

  イネ(稲)は、天照大御神から賜った 「命の根」 で、神の賜だとして古来、実った稲穂のお初穂はまず神に捧げて感謝する 「神嘗祭
(かんなめさい)」 を、伊勢神宮および宮中で 「大祭」 として行ってきた。(旧暦では9月17日、明治に新暦になってからは10月17日)

 さらに11月23日には、「新嘗祭
(にいなめさい)」 が行われ、収穫した新穀を天照大御神に捧げてそのお下がりを天皇陛下が召し上がることによって天照大御神の御生命をいただき、天津日嗣(あまつひつぎ)として更新新生される、重大な大祭、大マツリゴトが行われる。

 国民は、新嘗祭が終わるまでは新米を食べないという伝統があったのです。


 さて人間は、太陽エネルギーによて育った植物を食べて命をつなぐだけでなく、産業革命以来、石炭・石油などの化石エネルギーによって驚異的経済発展を遂げてきた。その化石エネルギーも、もとはと言えば太陽エネルギーである。

 その太陽エネルギー、原子核エネルギーを、神の恩寵により直接地上で生み出させ
ていただくのが原子力発電。それはやはり神の愛による賜であるから、神に感謝し、畏れ慎んで拝んで大切に使わせて頂かねばならぬ。イネを神の賜なる命の根として感謝祭をしてから戴いてきたように、原子力もまた神の賜だから、発電に成功したらまず神に感謝の御祭りをして、畏れ謹んで使わせて頂く――それが 「原子力を正しくこわがる」 ことではないか、と思いました。

 絶対善なる愛なる神は、悪を造り給わない。原子核エネルギーも、神の愛の賜である。その核エネルギーに伴う放射線を「絶対悪」のようにこわがるというのは、正しいこわがり方ではなく、神に対する不信・冒涜ではないか。

 <つづく>

  (2015.7.11)
81 原子力を生かした新しい文化創造には百年の準備期間が要る。


 今日は、日本原子力界の重鎮と言われている、世界的にも著名な石川迪夫
(みちお)氏と会って、新しい文化の創造について語り合ってきました。
 石川氏とは、『何処へ行く?「生長の家」』の、総裁への公開質問(3)でもご紹介しました、我らがやんちゃな貧乏学生時代の昭和27年から2年間、同じ寮生活で寝食を共にしたポン友です。

 石川迪夫氏いわく。
 「原子力は、人類の未来の生活を左右する、大きな使命を持っている文化である。
 新しい文化の受け入れには、必ず反対者が出てくるのが人間世界の歴史である。
 たとえば日本にとっての具体例は、仏教の伝来と定着。日本に仏教が入ってきてから皇室に認められるまでに百年かかっている。
 原子力平和利用の歴史はまだ50年あまりだ。仏教が定着した時間の半分しかたっていない。いろは歌留多が教えるように、人は「有為の奥山(ういのおくやま)」をこえてのち「浅き夢」を見なくなる。そんなふうに気長に考えるべき大きな文化変化の力を原子力は持っている。焦らずに着実に進めるべきだ。」 (雑誌『公研』2015年6月号参照)
 と。

 日本は、天照大御神の「天壌無窮の御神勅」から始まった、神の国。
 天照大御神は日の大神、太陽神でもある。
 太陽エネルギーは原子核エネルギー。
 地上の万物は太陽エネルギー、すなわち原子核エネルギーによって生かされている。
 だから、日本人は日子(ひこ=天照大御神の息子)、日女(ひめ=天照大御神の娘)と称した。
 その太陽エネルギー、原子核エネルギーを、神の恩寵により地上で生み出させていただくのが原子力。それは神の愛の賜であるから、拝んで、神に感謝して大切に使わせて頂かねばならぬ。

 そして、憲法問題もまた、急(せ)いて現行「日本国憲法」と称する偽憲法を部分的に手直しすることにより占領憲法の根本精神(歴史・伝統を否定、日本弱体化のための3原則「国民主権」「人権尊重」「平和<軍備抛棄>」)を容認してしまうような中途半端なことをしてはならない。あと30年かかろうとも(今年は戦後70年だから100年まであと30年)、天孫降臨・天壌無窮の御神勅を元とし、天津日嗣スメラミコトを中心とする神の国の正統憲法 「大日本帝国憲法」 復元改正をこそ実現すべきだ。

 ――それこそが、本当に 「神・自然・人間が大調和した新しい文化・文明の創造」 になるのではないか――と、私はそう思いました。

  (2015.7.9)
80 「ひろば」 ご投稿に思うこと


 「ひろば」 #53 トレモス様のご投稿を拝読して思うことを書かせて頂きます。

≪(「生長の家が本来為すべきこと」<2015.7.6 トレモス>)

人間は、本当は神の子であり、神の国に存在しているにもかかわらず、
肉体だと思い物質世界にいると思って 物質的な生活から抜け切れず、
本当の喜びを見いだせない人が いっぱいいます。
ほとんどの人が そうだと思われます。

でも本当の自分は そのように見えなくても、
現実に神の国に存在している神の子なのであって、
神に属する無限能力の持ち主なのであるのが真実なのです。

この素晴らしい事実を人々に伝え、
本来そうであるところの神の子と神の国の実現を 
人間が実現するための導きをするために、
生長の家は出現したのです。

 (中略)
 それですから 生長の家は、まずは実相独在の真理を知らせ、
人が愛他の行動を自ら進んで行うように導き、
実相を顕わす観法の 正しい指導をするべきなのです。

つまり生長の家は 人間が神の子であることを知らせ、「神の子」を実現できる方向へと
導くことをすべきなのです。≫


 ――ご投稿、ありがとうございました。

 上記ご投稿は、いきなり日本国家の理想、憲法問題などを言うな、というご忠告かと思います。それについて思うことを、体験をまじえて書かせて頂きます。

 
≪まずは実相独在の真理を知らせ、人が愛他の行動を自ら進んで行うように導き、実相を顕わす観法の正しい指導をするべきなのです。≫

 とトレモス様はおっしゃる。それももっともだけれども、必ずしもそれにとらわれる必要はない。最初から、「實相独在」 の真理に立っていきなり国家問題を説いてもよいと思います。

 昨日私は、熱心な婦人講師の方たち3人と会って懇談する機会がありました。
 一人は私が青年会時代に純情な高校生で、共に活動した、今は50代で60に近い方。一人は私がかつて東京第一教区副教化部長時代にご縁のあった、いま70歳定年まであと1年という方。一人は私が青年会でがんばっていた頃からご縁のあった、80を過ぎた方。

 この方たちは、みな人生苦から救いを求めて生長の家に入ってこられたのではありませんでした。谷口雅春先生のひたむきな愛国救国の思いからほとばしる獅子吼にひかれて入信し、己を捨てての運動の中で自分も救われていったという体験をお持ちの方ばかりです。

 私と年齢の近い80代の方は、ご主人が若くして亡くなられ、子供をかかえて生活に不安もあったけれども、『占領憲法下の日本』など谷口雅春先生の愛国啓蒙書を愛行するように言われて、真剣に神に祈り、内なる神の導きのままにそれを実行して行ったときに、不思議に奇蹟的に自分の生活も救われていったという体験の持ち主です。

 高校生時代からご縁のあった方は、青年会の先輩たちの清らかなまばゆいばかり輝く雰囲気に強くひかれて、ひたむきに道を求めて来た。ところが最近、雅宣総裁の 『宗教はなぜ都会を離れるか?』 の本を見て、その「はしがき」を読み、最初のところに徳島教区の講習会で受講者から受けた質問

 「敗戦後、なにか日本は負い目を感じ今日まできたように感じます。しかし、戦争にいたる事実を知り、日本人として誇りをとりもどしました。もっと雅春先生の憲法に関する著書を世に出すべきではないのでしょうか。私たち日本人は、もっと世界に自信をもっていいのでは。そういう教育は間違っているのでしょうか。」

 という内容が “いかにも時代錯誤的だったから驚いた” という書き出しで、信徒を見下した書き方がされているのを読み、もう腹が立って仕方がない。それで怒っていたら、ご主人から、「お前、何をそんなに怒っているんだ」 と言われたという。

 お断りしておきますが、この方は、岡の 『何処へ行く?「生長の家」』 というの読まれたわけではない。昨日お会いするまで、「みすまるの珠」のサイトを知らなかった。それをプリントした本を読まれたわけでもない。昨日お会いした3人のうち、読んでおられたのは80代の方だけです(この方にはプリントした本を差し上げてあった)。

 70に近い方も、ご主人が、「生長の家が日本天皇を尊敬し尊重しないような団体になったのなら、そんなところへ行く必要はない」と言われるという。白鳩会の支部長をしていて、来年は定年になる。後継者と目している人は、「学ぶ会」にも誘われ全国大会に参加した。「学ぶ会」の方が信仰的で元気があってよいと言っている、と言われる。いま教団組織に属している人でも、現在の状態に疑問を感じていない人はいないと思う――と言われるのでした。今の組織や講師会の状況について、あれこれ5時間以上にわたって疑問を語られました。

 特に谷口雅春先生のお教えを受け、運動をしてきた方たちは、ほとんどの方が悶々として悩んでいらっしゃいます。「仏教の極意は、そして生長の家の御教えは、“素直にハイ”ですよ」 と言われて、どうすべきかと。

 私は、『光明法語』 にある次のご教示を言ってあげました。

≪ 七月三日の法語 「ハイ」 の無限力

 最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。それは 「ハイ」 の一語である。一切の行為は 「ハイ」 にて動き、一切の事物は 「ハイ」 の一語にて成就する。汝、使命を感ぜんか、唯 「ハイ、ハイ」 とのみ言え。然してこれを実行せよ。然らば必ず成就せん。「ハイ」 とは決意である。使命に対する決意である。如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、「ハイ」 の決意にてその困難は斫
(き)り拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。「ハイ」 は汝を自由ならしめる。「ハイ」 は実相その儘(まま)である。

  七月四日の法語 「否定」 の威力

 「ハイ」 に対立する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」 である。汝病気ならんか、「否!」 と断じて言うべし。病いすなわち必ず癒えん。汝に不幸来らんか。「否!」 と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて 「否」 と言う。かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。世界は如何なる 「幸福」 でも 「不幸」 でも自由に販売しているところの百貨店だと言える。それを求める貨幣は 「決意」 である。≫


 「ハイ」 は、必ずしも人や組織に 「ハイ」 ではなく、使命感に 「ハイ」 と言え、というのが御教えでしょう、と申し上げたことでした。

 「個即全」 「全即個」 でありますから、「個の救いが先でなければならない」 と決めつけるのは誤りだと思います。

 『光明道中記』 「七月十九日 久遠人間を自覚する日」 というところには、

 「説似一物即不中
(せつじいちもつそくふちゅう)
 <「これだ」と一つのものを指してハッキリ言ってしまったらそれに的中しない


 という禅のことばも示されています。

 結局、私はトレモス様のご意見に全面的には同意しません。もっと自由自在であってよいと思います。

  (2015.7.8)
79 禊祓と、住吉大神宇宙浄化の祈りについて(7)


 谷口雅春先生著 『聖なる理想・国家・国民』 から引用のつづきです。

≪   天皇国家は日本民族の創作せる美意識の顕現である

 日本国の生成は 『日本書紀』 の示すが如く、


 
「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」

 という天照大御神様の大御心の中に創造されたところの理念(“理想”といってもよろしいが)、その“理想”が天降って来て実現したのであって、国家形成の部分たる住民が勝手に相談して団結して出来上がった様な、私利を主体とする如き国家じゃないのであって、神の構図された理想を実現するための神聖国家なのです。

 いわば日本国家は天照大御神の創作せられたる国ですから、此の国の主権は、この国を構想された創作者にあるわけであります。それは、我々が現代に於いても、自分の理想を盛った創作が出来ると、その著作権は創作者にあり、創作者が霊界に神去りますと、その子孫が著作権を継承すると同じであります。著作権者はその創作に対する主権を有ち主権を行使するのであります。これは当然のことであります。

 明治憲法の第一条に 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」 と主権の所在をハッキリ示しているのは以上の如き、日本国家が帝国として創作せられた歴史的現実によるのであります。

 ところが現行の憲法は、憲法の総括的前文にあります様に、「主権は国民にありと宣言して……この憲法を確定する」 と書いているのであって天皇国家を創作した著者の著作権を、他の者が横取りして、その僭主者が主権を行使することになっている。だいたい、国民というのは意見も皆各々異るし、本来バラバラのものであって統一的意識はない。それは今の国会を見てもわかるのであります。

 そういう様にバラバラの複数の主権をこしらえて、国民同士が相争うて、内部が混乱するように、あれはアメリカの占領軍が日本を弱体化するためにうえつけた精神であり、日本民族本来の中心帰一の精神とは異るものなのです。藤の花の咲く原理を桜の樹に“接ぎ木”したようなもので、全然本来の日本民族の個性とは異るのである。藤の花だって美しく咲いているから、だから桜の樹に藤の木の枝を接ぎ木して藤の花を咲かせてやっても好いだろう、と言って無茶な精神的接ぎ木をしたのと同じことであります。

 これは全くけしからぬことであって、宇宙の大神たる天照大御神が定められたところの日本民族の建国の理想というものを、人工の、人間の心の計らいによって人工的に変えようとした不届き極まるものであって、アメリカ占領軍は大変な過ちを犯したのである。私たちは、占領軍が強制的に接木した藤の木に当るものを排除して、本来の民族精神、天皇という神授の中心生命に帰一する精神に立帰り、その中心帰一の精神を表現する自主憲法を制定しなければならないのであります。≫


 ――これこそが、「住吉大神宇宙浄化の祈り」 を具体的に成就する道ではないでしょうか。

 結びとして、谷口雅春先生著 『美しき日本の再建』 より。

≪  真に崇高なる生き甲斐の生活とは?

 高邁な理想を掲げて、その理想実現のために前進する生活こそ本当に尊き生活であり、また生き甲斐ある生活であるのである。高き逞しき理想と見えるアイディアは色々あるであろうが、最も高邁なる理想は、神の国を地上に実現せんとする理想である。

 “神の国” とは神の御意志の実現せる国である。それはイエス・キリストが 「みこころの天に成るが如く地にもならせ給え」 と祈られたところの、唯一の神がその中心座にましまして、一切の存在と生命とがその中心なる神意に帰一して大調和せる国である。そのような国が本当にあるであろうか。あるのだ!! それは天照大御神が、

 「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫
(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ、行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当に天壌(あめつち)と窮まりなかるべし」

 と宣言せられた “神示の中心” ひとつに 一切の生きとし生ける者、ありとしあらゆる物が中心帰一せる国家である。

   天照大御神の神勅をわが生涯の理想として

 天照大御神は “天” 即ち “天球”(宇宙)を遍く照らし給う大神であらせられる。その大神の勅
(みことのり)によって設計せられた国が、「豊葦原の瑞穂の国」 なのである。それは代々、天照大御神の子孫が帝として、中心皇位に坐し給うと神勅天降りし国であるから、“大日本帝国”と称するのである。

 およそ高邁なる理想のうち最も崇高神聖なる理想は、宇宙神の国家創造の根本理念に一致する理想であると私は信ずる。それゆえに、この天照大御神の大日本帝国創造の神勅を、完全にわが国に具体化し実現することをわれら国民 相ともに、われら生涯の理想として献心挺身することこそ、最も生き甲斐のある事としなければならないのである。≫


 ――何と素晴らしい、生き甲斐ある道を与えられていることでしょうか。人間として生まれてきた以上は、谷口雅春先生がお示しくださったこの最高の道を行こうではありませんか。

  (2015.7.7)
78 禊祓と、住吉大神宇宙浄化の祈りについて(6)


 「此の神様(住吉大神)は宇宙創造の神であると同時に、宇宙浄化の神である」

 と谷口雅春先生が『實相と現象』の33頁でおっしゃっていますが、その「宇宙浄化」ということについて、46~56ページに、次のようにご教示くださっています。

≪   物質文明と霊的文化との融合完成

 古事記に於いては天地の創造は、伊邪那岐
(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の両神が陰陽を結び合わして国をお生みになったように書かれております。この天地創造の「陽」の神様、「光」の神様が伊邪那岐神であり、「陰」即ち「暗(やみ)」の方の神は、伊邪那美神であります。

 世界の文化を「陰」と「陽」とにわけますと、西洋文明が伊邪那美神であり、「光は東方より」の諺にもある通り、光の神様、陽の神様が伊邪那岐神であります。物質は「陰」であり、「陽」は「霊
(ひ)」であるから、霊の神様、即ち霊的文化の神様が伊邪那岐神であります。

 古事記には、伊邪那美神は陰府(
(よみ)=冥途(めいど))の神様として、黄泉大神(よもつおおかみ)と名づけられたと書かれているのであります。物質はそれ自体「生命」をもたないので、黄泉大神の分野に領する、即ち、伊邪那美神は物質文明を代表いたします。そして、伊邪那岐神は霊的文化をあらわしているのであります。そして、霊的文化と物質文明とが、うまく結合して発達した時に完全に調和した世界があらわれて来るのでありますけれども、先ず最初に「霊的文化」が発達するための「基盤」として物質文明が或る程度まで先ず発達する必要があるのであります。

 「衣食足って礼節を知る」と云う諺があります様に、「物質文明」という土台がなかったら、「霊的文化」を創造すると言っても「基盤」がない、あまり腹が減り過ぎてフラフラだったら歌を唱うことも絵を描くことも建築することもできない。全然科学文明が発達しないで、古代の人類のように土の中に穴を掘って動物みたいな生活をしているとしたら、霊的文化を発達させようと思ったっても、それが十分の発達をする土台がないと云うことになるのであります。だから、先ず「伊邪那美文明」なるところの「科学文明」が地球上に発達致しまして、その上に霊的文化が発達する順序となっているのであります。

 最近迄は物質文明が発達する途上にあったのでありまして、霊的文化がその物質文化の発達におくれていて調和しない、物質偏重のバランスを得ないという状態になっておったのであります。このような状態がつづいて物質文明ばかりが発達したら、どう云う様な状態になるのであるかと云うと、『古事記』にはこう書かれているのであります。

   世界終末の危機来ると云う 『古事記』 の預言

 伊邪那美神が「火の神」なる火之迦具土神
(ひのかぐつちのかみ)をお生みになったときに、「美蕃登(みほと)(やか)えて病み臥(こや)せり」と書いてあります。火之迦具土神とは、「火具」即ち大砲とか、爆弾とか、大陸間弾道弾とかいうものに当るのであります。そう云う巨大な兵器を産んだら、「美蕃登炙えて病み臥す」ことになるのであります。「美蕃登」とは女の“局部”のことであります。これは「産み出す器官」即ち生産機関でありますから、これが火傷をして病気になって臥(ね)ておられたと云うことは、原子爆弾、水素爆弾の様なもので一切の生産機関が焼けてただれて灰燼に帰することの象徴的預言であります。

 そこで伊邪那岐神は心配なさって、そっと騰戸
(あげど)を明けてお覗きになりましたら、「宇士多加礼闘呂呂岐(うじたかれとどろぎ)て」と古事記には書いてある。その意味は、伊邪美神の御体には蛆が一ぱいたかって、ごろごろと轟きわたる爆弾の響きがすると云うことであります。

 この爆弾を『古事記』には「雷
(いかづち)」即ちカミナリをもって表現しております。即ち「頭(かしら)には大雷(おおいかづち)居り、胸には火(ほの)雷居り、腹(みはら)には黒雷居り、陰(みほと)には拆(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の手には土雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り」合計八種の雷神が伊邪那美神の体じゅうにごろごろやって、蛆が一ぱいたかっていたと書かれているのであります。これは伊邪那美文明の極致には、世界が原子爆弾、水素爆弾によって死屍累々たる状態になると云う様な時代が来ると云う預言です。

 伊邪那岐神は、その有様を御覧になりまして、「ああいやらしい、物質文明の最後はこのようにいやらしい」と、帰って来られて禊祓いをせられたことが、『古事記』には、「是を以って伊邪那岐大神の詔
(の)りたまわく、吾はいなしこめしこめき穢(きたな)き国に到りて在りけり。故れ吾は御身(おおみま)の禊(はらい)(せ)なとのりたまいて……禊ぎ祓いたまいき」とあります。

 此の宇宙創造の神様の禊祓いというのは、宇宙の浄化作用であります。宇宙の浄化作用の最後に、終末の浄化をするために、顕れられたのが上筒之男神
(うわつつのおのかみ)、中筒之男神(なかつつのおのかみ)、底筒之男神(そこつつのおのかみ)と云う三柱の神様、その三柱を一つにまとめて潮筒之男神(しおつつのおのかみ)、潮土(しおつちの)神(塩椎神)即ち住吉大神がお生れになっているのであります。

 さて、今や此の『古事記』に書かれている所の預言――それはことさらに預言として書いたものじゃないのですけれども、古代の民族は科学的精神が発達していないから、かえって霊的直感力が発達しており、その霊的直感力によって、この宇宙の進化のプログラムとして出て来る事件を直感して、何かに語り伝えるとか、何かに書くとかせずにいられない衝動にかられて、どういう順序を通じて、どう云う世界が顕れて来るのであるかという事を神様物語に表現したのが、神話というものなのであります。

 だから、神話には預言的性質があり、物質文明のきわまるところ其の最後には「宇士多加礼闘呂呂岐て」惨憺たる原爆、水爆の大破壊があり、死骸が腐って、蛆が一ぱいたかっているような世界になってしまうと云うのであります。≫

 ここまでは『實相と現象』からの引用でしたが、ここからは『聖なる理想・国家・国民』の71ページ以下から引用させていただきます。

≪   地球絶滅の惨禍を避けるための世直し禊ぎ祓い

 伊邪那岐神様は“霊”の神で主働者として、“物”をあらわす受身の御はたらきの伊邪那美神様とお二人で宇宙をおつくりになった神様ですから、宇宙創造の大神です。その伊邪那岐神様が、

 「吾は、いなしこめしこめき穢
(きたな)き国に到りて在りけり」
 (……ああ私はいやらしい物質文明の国へ行っておった。イザナギ文明の世界にあこがれて往っておったけれども、物質文明の世界というものはあんな穢い国であった!!)
 とこう言われて、御身体の禊ぎ祓いをせられたのであります。

 伊邪那岐神様の御身体の禊ぎ祓いとは、宇宙神であられますから、宇宙ぜんたいの禊ぎ祓いであります。

 どこで禊ぎ祓いせられたかというと、「筑紫の日向
(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到(い)で坐(ま)して、禊ぎ祓ひ給ひき」と『古事記』にはあります。

 筑紫というのは、漢字で当てはめれば尽十方――あらゆる方角の総てを尽くしたところ、すなわち遍尽天地の宇宙全体の事であります。日向というのは“日に向う”という意味で、大宇宙の光明遍照する世界に於いて禊ぎ祓いすなわち 「宇宙の浄化」 をせられたのであります。

   実相の言霊
(ことたま)による宇宙浄化

 どのようにしてその禊ぎが行なわれたかというと、「橘
(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)」という地名をもって象徴的に書かれているのであります。

 この世界は言
(ことば)によって創造せられたのであります。

 新約聖書の「ヨハネ伝」の第一章には、「はじめに言(ことば)あり、言は神と偕
(とも)にあり、言は神なりき。……万(よろず)のものこれによりて成り、成りたるものに一つとして之によらで成りたるは無し、これに生命(いのち)あり」と録(しる)されているのであります。

 その言を竪
(たて)にアイウエオ、横にアカサタナハマヤラワと、ア行、力行、サ行、タ行……という具合に五十音を並べますと、一番始めの竪の端にある音(竪端(たちはな)の音)は、アイウエオという母音であります。この竪(たて)の端(はな)の音が総ての音に入ると言葉が安定するのです。安定は平和であります。

 例えば誰でも知っている英語 “ブック”(BOOK) ですね、この語尾のKは完全音ではないのです。不完全音であって、「ク」とハッキリ発音できない、犬が喉に骨でも立て、それを吐き出そうとして咳
(せ)いているような音ですが、そのKにアイウエオを入れると Ka Ki Ku Ke Ko となってハッキリと完全音になるでしょう。このように“竪端(たちはな)の音”を注ぐと、総ての音が完全音になる訳であります。

 ところで、この世界が言葉によって出来ているとするならば、それを構成する言葉が不完全音である限りにおいては、不完全な世界が現われるより仕方がない訳であります。そこでその言葉に、橘の小門(竪端の音)アイウエオを入れてやったならば、ことごとく地上の人間が語る言葉が完全な言葉になるから、その言葉によって出来ている世界が、不完全音の実現ではない、「完全音の実現の世界」になるという訳であります。
 それゆえに伊邪那岐大神の宇宙浄化は「アーイーウーエーオー」と宇宙にひびき亘る竪端の音による禊ぎ祓いであったのであります。

 これが伊邪那岐神様の筑紫の日向の竪端の音の阿波岐原に於ける禊ぎ祓いであります。アハギハラというのは、アは“現わす”であり、ハギは“剥ギ”であり、着ている迷いをハギ除り、ハラいのけて実相の神聖清浄のすがたを顕現する意味を場所の名称にして物語化したのであります。こうして禊ぎ祓いをせられますと、身についた着物の汚れが十二柱の神となって去って行かれました。

 そのあと洗濯すれば垢がとれて汚れ水が出て来るように、八十禍津日神
(やそまがつびのかみ)や大禍津日神(おおまがつびのかみ)が出て来られたが、そこに神直毘神(かむなおひのかみ)、大直毘神(おおなのひのかみ)という実相を直視する神が出現され、その汚れ水は却って浄まるハタラキであると見直されまして、最後の浄化の御ハタラキとして出現せられたのが、上筒之男神(うわつつのおのかみ)、中筒之男神、底筒之男神という三柱の神様であって、これは龍宮の大神、海(うみ=創造)の神様であります。海の水を三段に分けて上の方を司り給うのが上筒之男神であり、中段を司り給うのが中筒之男神であり、底の部分を司り給うのが底筒之男神でありますが、この三柱の神は三柱にして三神一体の住吉大神であり、『古事記』は墨江(すみのえの)大神という漢字を当てはめている。現代読みましたら住吉(すみよしの)大神であり、今の時点に於いて人類光明化の神として天照大御神の神徳を顕現し、日本国家を護持するためにあらわれてまします生長の家の神様であります。

 住吉大神のおはたらきというものは、あるべきものをあるべきところにあらしめるところの、宇宙の浄化の原理ともいうべき神が住吉大神であらせられます。この住吉大神が伊邪那岐神様、宇宙創造の神様、宇宙浄化の禊ぎ祓いの最後の浄化の神様として出て来られて、上、中、下と、みずから秩序ある相に分かれて、人類はみな“神の生命”の顕現で一体であるけれども、みな個性があって、日本民族は日本民族として、他の国に並びのない天皇国家というそういう理念を持っていて、他国に類例のない素晴らしい美しい中心帰一の国家を創ったのであります。そういう個性あるアイディアを実現する使命を持って生まれたのが日本民族なのである。それは梅の木が梅の花を咲かせ、桜の樹が桜の花のすがたを此世に実現する使命を持っていると同じ様に、日本民族は、天之御中主の「中
(みなか)」の原理を国家にそのまま実現して、天皇なるところの中心を持った国家をつくる使命を持って地上に降誕したのである。その使命の実現として天皇国家日本は出来たのであります。≫

 と、書かれてあります。

 今、「明治日本の産業革命遺産」 の世界文化遺産への登録が決まったと、喜びの声があがっています。

 日本民族が数千年守り培ってきた天皇国日本の国体こそは、世界文化遺産としても何物にも代えられない、比べるもののない偉大な人類の宝ではないでしょうか。

<つづく>

  (2015.7.6)
77 禊祓と、住吉大神宇宙浄化の祈りについて(5)


 「此の神様(住吉大神)は宇宙創造の神であると同時に、宇宙浄化の神である」

 と谷口雅春先生が『實相と現象』の33頁でおっしゃっていますことは、非常に深い哲学的根拠のあることだと思います。

 住吉大神とは別名塩槌大神であり、龍宮の大神である。龍宮は、“時間・空間”以前、現象以前の本源世界、「久遠の今」なる実相世界だから、創造の根柢(うみのそこ)にあるというのであり、龍宮界にはあらゆる宝がそなわっていて、不老不死の世界である。現象世界というものは、現象以前にあるものが、時間空間の世界に映ってきて顕れたものであるから、住吉大神(塩槌大神)は宇宙創造の神であると言える。

≪此の神様は宇宙創造の神であると同時に、宇宙浄化の神であり、東道(みちびき)の神でもいらせられます。≫

 と、『實相と現象』 33ページには書かれています。つづいて

≪  住吉大神の使命

 この住吉の神様は、いったい、どういう時に顕れていらっしゃるかと言いますと、日本国の危急の時に顕れて来られて、日本の国をお護りになる神様が、この住吉大神であります。≫


 として、神功皇后
(じんぐうこうごう)の三韓征伐の時の話が書いてあります。

≪ ――征伐と言いますと、大変こちらが強そうで侵略的でありますけれども、実はあの時には、新羅が日本に侵略して来たのであります。そして日本の危急の時でありまして、恰もその頃仲哀(ちゅうあい)天皇が御崩御(ほうぎょ)あらせられたが、天皇御崩御の報がつたわり、日本国が動揺していると見られたならば、新羅が益々勢いを得て征(せ)めて来るかも知れないのであるから、神功皇后様は男装をなさいまして、軍艦に乗って瀬戸内海を進んで行かれたのであります。

 その時に住吉村へ上陸あそばして、そこに住吉大神をお祀りになって、戦勝の祈願をなさった。それは、新羅が征めて来まして、目本が滅びるか、潰れるかと云うような国家の一大危機に当っていましたので、神功皇后は住吉大神をお祀りして、日本の戦勝の祈願をなさったのであります。

 そしたら住吉大神が潮満珠
(しおみつのたま)と潮干珠(しおひるのたま)という二つの珠――総称してこれを如意宝珠(にょいほうじゅ)というのであります。この如意自在の宝珠をお投げになりまして、終に日本は新羅の海軍に大勝利を博したのであります。

 潮干珠というのは潮を干かせる珠であります。潮が干くと水がなくなるので、新羅の軍艦は浮いている事が出来ないので横に倒れてしまう。そこへ今度は潮満珠をお投げになったら横に倒れている軍艦が沈んでしまい、新羅の海軍は全滅して、日本が大勝利を得たというのであります。

   “否定”と“肯定”との想念が如意宝珠である

 これは象徴的物語でありまして、潮干珠と云うのは欲せざるものを「否定する思念」であります。潮満珠と云うのは欲するものを来らせる「肯定の思念」であります。珠と云うのは「魂」であって、魂で念ずる事を象徴しているのであります。ここに吾々が、困難に面した時には如何に思念すべきかと云うことを住吉大神が教えていられるのであります。

 困難が吾々を襲いかかって来たと見えるとき、「斯くの如き困難はあるかの如く見えているけれども、実は存在しないのである」と魂の底ふかく強く念じて、それを“心の世界”で否定してしまうのが、潮干珠であります。「新羅は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれども、日本の国は神国であるから、決して敵に滅ぼされると云う事はないのである。日本に敵して来る様な新羅の国は存在しないのである」と、魂の底ふかく否定するところの思念が、“潮干珠”であります。

 そして「日本の国は神国であって神が護っておられ、天照大御神様の直系が世々吾が子孫の君たるべき国なりと、神のコトバによって宣言されている所の国であるから、決して滅びない所の永遠不滅の国である」と魂の底深く念じて、その真理を強く肯定することが“潮満珠”であります。

 皆さんがすべて何事でも困難が出て来た時に、この潮干と潮満との二つの魂――即ち如意宝珠によってですね、「こんな困難というのはないのである」と否定し、「既に自分の希望は実現しているのである」と肯定する。否定と肯定とのこの二つの思念、即ち“如意宝珠”を用いますと、必ず皆さんは希望を実現し、目的を成就することが出来るのであります。これを住吉大神は神功皇后にお教えになったわけなのであります。≫

 と、書かれているのであります。

<つづく>

  (2015.7.6)
76 禊祓と、住吉大神宇宙浄化の祈りについて(4)


≪  「生長の家大神とは住吉大神である」

 住吉村に私がおりまして、毎朝風呂場で禊をして、その浄まった直ぐのけがれのない体で毎朝、その住吉神社に参拝して日本国家の隆昌のために祈っておった時に、霊感をいただいて始まった教が生長の家であって、その教の本尊、即ち本統の教祖は住吉大神であらせられるので、私はただその教のラッパに過ぎないのであります。(『實相と現象』p.37)≫


 と言われているのでありますが、その住吉大神が 「宇宙創造の神であると同時に、宇宙浄化の神である」 (同書p.33) ということについて、その根拠の検証をさせていただきましょう。

≪  住吉大神と阿弥陀仏との関係

 この住吉大神は如何なる神様であるかと言いますと、人生を住みよき世界にする所の神様であります。仏教で言うと、この神様は阿弥陀仏にあたるのであります。阿弥陀仏の慈悲の働が観世音菩薩、阿弥陀仏の智慧の働が勢至菩薩であります。阿弥陀・観音・勢至の三尊一体であります。生長の家の神様は観世音菩薩であると言われておりますが、その本地は阿弥陀仏であります。

 聖観世音菩薩の仏像を拝見致しますと宝冠をかぶっておられる。その宝冠の真中に普通は、もう一つ仏像が刻んであるのであります。その宝冠の仏像は阿弥陀如来であります。これは観世音菩薩が阿弥陀仏の示現であることをあらわしております。

 阿弥陀仏は尽十方に満々ておられる“宇宙の本体”的実在であらせられ、尽十方無礙光如来
(じんじっぽうむげこうにょらい)とよばれているのであります。尽十方と云うのは八方に天地の二方を加えて十方であります。十方をことごとく尽してあらゆる方角にも充ち満ちていられる無礙の光が阿弥陀仏なのです。無礙というのは、どんなものもさわりにならない、障礙物にならないで何処にでも満ちておられることであって、「光」と云うのは「智慧」のことであります。宇宙遍満の智慧が阿弥陀如来である。

 如来は尽十方に満ちみちておられるから、「彼の仏如来は去って去る所なく、来って来る所なく」と、法顕訳の大無量寿経に書いてあります様に、去来して、どこからどこへ来迎あそばされてお救けになると云うような、そういう空間的な距離的働がなく、十方――あるゆる方角――に満ちみちておられるのが阿弥陀如来であります。

 だから現実に人格的に姿を顕して人をお救いになると言う時には、阿弥陀仏そのままでは出てこられないで、“観世音菩薩”のお姿をして出て来られると云う事になるのであります。この観世音菩薩が生長の家の神様なのであります。

   なぜ観世音菩薩は生長の家の神様か

 生長の家の神様は住吉大神であると言って、今またそれを観世音菩薩であると説くのは、何故であるか、どこにそんな証拠があるのか。お前は、その様に説いたならば、キリスト教も仏教も一緒に和合するのに大変都合がよいと思って、そう云う説を牽強付会してこしらえたのではないか、と云う風にお考えになる人もあるかも知れんけれども、決してそれは牽強付会ではないのであります。それには現実的な証拠があるのであります。≫


 ――それは、門脇観次郎という大阪の生長の家連合会長をしていた人が、生長の家のマークができて初めて見た時に、「これは見たことがある。4年ほど前に神想観をしたときに観世音菩薩が出て来られた。宝冠をかぶっておられたがその宝冠の真中にこのマークがついておった」 と云うことを思い出されたということであります。

≪  現象界は霊的世界にある原型の影である

 それによって何がわかるかと申しますと、現象世界と云うものは、現象世界以前にあるものが、映って来て、現象化して顕れて来るものである、即ち現象世界はその前に“現象以前の世界”――霊界――または心の波の世界に在るものが、ある時間の経過をたどって、それが現実化し、現象世界に顕れて来るものであるということがわかるのであります。こう云うわけで生長の家の神様は仏教では観世音菩薩であると云う事が証明されているのであります。

   普門成就の観世音菩薩

 さて、この観世音菩薩と云う仏様は一宗一派の仏様ではないのでありまして、これは仏教のどんな宗派の方でも、真言宗であろうが、浄土宗であろうが、日蓮宗であろうが、観世音菩薩を拝まないところの仏教はないのであります。この観世音菩薩の功徳が書かれてあるところのお経は、法華経の“普門品第二十五”という所に書かれているのであります。この“普門品
(ふもんぼん)第二十五”というところを、独立さして“観音経”とも謂われているのであります。

 観音様は、何故“普門品”に収録めてあるかと言いますと、“普門”と云うのは、“あまねき門”と云うことで、“あまねく”と云うのは“どこにでも”と云う意味です。“門”と云うのは“宗門”です。観世音菩薩はあらゆる宗門を、あまねく成就するところの仏様であるから、普門成就の仏様として「普門品」に収録めてあるのです。

 このように観世音菩薩と云う仏様は、普門成就のキリスト教にも、神道にも、この観世音菩薩は示現して救を垂れていられるのです。神道に於いては既に申しました様に、住吉大神、塩椎大神、それからまた綿津見神
(わだつみのかみ)と云う様に龍宮の大神として顕れてましますのであります。

 此の住吉大神のおすまいになっている住吉世界と云うものは、“住みよし世界”すなわち実相世界の事であります。一切のものが豊かに具
(そなわ)っている所の極楽な世界でありますから、仏教はこれを極楽世界と言うのであります。仏教の極楽世界は、神道の住吉大神様の“住吉世界”と同じものであります。

 この住吉大神の“住吉世界”と云うのは、どこにあるかと言いますと“海の底”であります。“海の底”と云うのは、象徴的にそう云うのでありまして、“龍宮界”のことであります。龍宮界に行きますとですね、七宝が充満している。金銀瑠璃
(るり)硨磲(しゃこ)瑪瑙(めのう)とか云うような、いろいろの宝が充満している。“七宝”の“七”とは、世界が七日間で成就したと云う神話から来た「一切を成就する」数であって、“七宝”とは一切の宝をあらわす。一切の宝が龍宮界には充満しているのであります。

 象徴的神話によりますと、龍宮海に浦島太郎が入って行きましたら永遠に年がよらなかったと云うのであります。何故年が寄らないかと云うと、この 「龍宮世界」 というところは、現象以前の世界であります。現象以前の世界と言いますと、肉眼に見える“時間・空間”以前の世界でありまして、時間の生ずる以前の世界でありますから、年寄ることがないのです。

 「年寄らぬ世界」 と云うのは無量寿国と言われる。無量寿国は無量寿仏すなわち阿弥陀仏の世界です。これは、実相の世界で、永遠に年よらない世界でありますから、所謂る不老郷であります。

 和歌山には塩釜神社というのがありまして、その前に“不老橋”と云う橋があります。不老橋は“不老郷”を象徴したのであります。ここには塩釜の大神がお祀りしてあります。“塩釜の大神”と云うのは、塩椎の神様で、“水火交合(シホカミ)”と云う意味であります。“シ”というのは“水”で、“ホ”は火、水と火と、即ち陰と陽とを結び合せて一切のものを創造したまう実相世界(龍宮海)の創造の本源神であります。

 この創造の本源世界こそ極楽世界――無量寿の世界であるから年が寄らんのであります。

 ところが、浦島太郎が龍宮界から帰って、現象世界に現れて来るとき、龍宮の乙姫様から“玉手箱”と云う“箱”をいただいたと云う話になっております。此の玉手箱と云うのは、「魂が出る箱」 と云う意味で、魂が龍宮から出て来て現象世界へ生れて来ることを象徴しております。

 「箱」 と云うのは、縦横厚みがあるので、吾々肉眼で見ている縦・横・厚みのある現象世界を象徴します。この縦・横・厚みの現象世界に魂が出て来たら、濛々として煙がたって浦島太郎が白髪の老翁になったと云うのは、実相が見えなくなって迷いの煙幕におおわれて、実相に於いては 「永遠に老いないところの人間」 が現象の 「老いる姿」 に顕れて来たと云う事になっているのであります。≫


 ――上記、<「龍宮世界」というところは、現象以前の世界であります。現象以前の世界と言いますと、肉眼に見える“時間・空間”以前の世界でありまして、時間の生ずる以前の世界でありますから、年寄ることがないのです。> と言われておりますが、これは「生命の実相」哲学の 「久遠の今」 であります。どうぞ、お時間のある方は今一度この 「久遠の今」をクリックして、谷口雅春先生の御講義をお聞きください。また、#70 にある図解をごらんください。

<つづく>

  (2015.7.6)
75 禊祓と、住吉大神宇宙浄化の祈りについて(3)


 さて、先日ある勉強会で、神道の方が言われました――

 神社界で 「浄め」 をするには 「禊祓祝詞」 を誦げる。祝詞には、瀬織津比咩(せおりつひめ)速開津比咩(はやあきつひめ)気吹戸主(いぶきどぬし)速佐須良比咩(はやすさらひめ) の四柱の神様を 「祓戸大神(はらいどのおおかみ)」 としてその名前が書かれている。
 しかし、普通神社界では 「住吉大神」 が宇宙浄化の大神として重要視されてはいない。

 生長の家で 「住吉大神」 を宇宙浄化の大神として特別重要視するのは、谷口雅春先生の“勇み足”ではないか――と言われるのでした。

 そのことについては、谷口雅春著作集4 『實相と現象』 の第一部 「宗教の神髄」 の二番目の章 「生長の家の発祥とその本尊及び使命」 というところに詳しく書かれていますので、これを改めて拝読し、深く考察させて頂きましょう。

 上掲書には、次のように書かれています。

≪生長の家は、皆さんが既に御存知の通り兵庫県武庫郡住吉村八甲田という所に私が住んでおりました時、丁度“勇湯(いさみゆ)”という風呂屋がありまして、私は朝風呂が大変好きでありますので、そこへ毎朝、朝風呂へ入りまして、きれいにからだを禊ぎして――約半丁位の近くに住吉神社があるのであります。詳しくは本住吉神社といいまして、その神社へ毎朝お参りをして、私が日本の国家の隆昌の為に祈っておりました時に、霊感をいただいて始まったところの人類光明化運動が生長の家であります。≫

 生長の家の立教は、『生長の家』 誌創刊号が昭和5年3月1日発行となっていますのでその日が立教記念日となっていますが、その前年昭和4年12月に創刊号の印刷を終えて準備されていたということですから、谷口雅春先生が上記 「本住吉神社に毎朝お参りして日本国家の隆昌の為に祈っていた時に霊感をいただいた」 といわれるのは、昭和3~4年のことであろうかと拝察されます。なお拝読しますと――

≪  生長の家大神とは住吉(すみのえの)大神である

 この生長の家大神とは誰方
(どなた)であるかと言いますとこれは阪神間の本住吉神社にお祀りしてあるところの住吉大神(すみのえのおおかみ)であられまして、『古事記』に、天照大御神様がお生れになるに先立って、此の大宇宙浄めの神として、水と塩(霊)とを以って浄め給うところの龍宮海の神様として現れられたところの上筒之男神(うわつつのおのかみ)、中筒之男神(なかつつのおのかみ)、底筒之男神(そこつつのおのかみ)と言われる三柱の神様を一体に総称して、住吉(すみのえの)大神(俗称すみよしの大神)と申しているのであります。

 生長の家が発祥致しました前後に私が住吉村に住んでおりまして、毎日その本住吉神社へお参りしたものでありまして、その当時、霊感に啓示されて此の生長の家の教と云うものが現れて来たのは今申し上げた通りであります。爾来「一切の宗教は一つである」 「真理は一つである」 との啓示に導かれて、古今東西の宗教を比較宗教学的に研究し、いずれの宗教も、その説き方は異なっても、どの教も人間を救う “唯一つの真理” を説くのであるから、どの宗教も互いに分立せずに手を繋げと云うことを説いて来ているのであります。

 『古事記』 にあらわれたる住吉大神は其の後同書に塩椎神
(しおつちのかみ)又は塩椎翁(しおつちのおきな)(『日本書紀』・神武天皇の巻)として現れていらっしゃるのであります。塩椎神は潮筒之男神(しおつつのおのかみ)であらせられまして、海の潮を上潮、中潮、底潮と分けまして、上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神の三柱に顕れていられるのでありますが、総じて塩筒之男神と申し上げるのであります。

 此の神様は宇宙創造の神であると同時に、宇宙浄化の神であり、東道
(みちびき)の神でもいらせられます。≫


 ――なぜ、「此の神様は宇宙創造の神であると同時に、宇宙浄化の神」 であるのかについては、次にその根拠について検証させていただきます。

<つづく>

  (2015.7.5)
74 禊祓と、住吉大神宇宙浄化の祈りについて(2)


 「禊祓祝詞」 と 「住吉大神宇宙浄化の祈り」 について、谷口雅春先生のご教示を勉強する前に、自分は今、「浄化」ということについてどう考えるか、その思索をしてまいりたいと思います。

          ○

 「浄化」 という時、「穢れ」 すなわち汚いものが「ある」ということが前提になっている。

 しかし、「汚いもの」 とは何であろうか。

 「うんこ」 は汚い、という。なぜ 「汚い」 のか。

 物質は、無だったのではないか。色即是空、空即是色。

 すべては波動であり、本来無だったのだ。

 ならば、「うんこ」 だって、汚いことはないのではないか。

 でも、やっぱり便器の外に出てしまっているうんこは、「汚い」 と言わざるを得ない。

 谷口雅春先生は、それは 「処を得ない」 からであって、「処を得れば、うんこも汚くはない」 とお教え下さっている。中からアンモニアだけを純粋に抽出すれば化粧水にもなるし、糞尿は昔は肥料として農家には大切な資源となったから、売買されることもあったのである。

 「汚職」 は 「職を汚す」 で、汚いこととして罰せられる(浄められる)。
 「職務」 は、公(おおやけ)のために仕える任務である。
 「おおやけ」 は「大宅(大家)」 の意から、天皇・朝廷。また、政府。官庁。国家。個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。(広辞苑などによる)
 その、公に仕えるべき立場を利用して私(個人)の利を得ることは、汚い、「汚職」 と言われるのである。

 神道を学んでいる方が言われた。神道では、身から外へ出たものは穢れたものと見る。大小便、鼻汁、唾、汗、血など、みな穢れである。女性の生理(月経)も 「穢れ」 だから、月経中は神事に奉仕することは禁じられていたという。ならば、男性の精液も身から出たものだから 「穢れ」 であり、精子(と卵子)から生まれた人間は、身から出たもので、穢れた存在だということになる。

 谷口雅春先生は、人間は未だかつて女の子宮から生まれたことはない。神聖受胎の神の子である。肉体ではない、と喝破された。

 肉体はない。真の人間は霊的存在である。本来聖(きよ)き神の子であり、神である。その自覚に還ることが 「禊ぎ祓い」 であり、浄化である。

 真の人間は、肉体でないから、自我を滅して公のため――天皇のため、国家のため、人類のため、宇宙のため、神のために、無我になって生きるのが使命である。その道から外れることが 「穢れ」 なのである。


 天皇国日本に生かされていることを感謝し、「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」 と、天之岩戸開きのとき神々がうたい踊られたように、明るく力いっぱい唱いながら、穢れなき道を進みましょう。

「あはれ」 は、“天晴れ” =天が晴れて光差すこと

「あな、おもしろ」 は、“あな” は感嘆詞、“おもしろ”=アマテラス大御神の光で面(顔)が白く輝くこと

「あな、たのし」 は、“手伸(たの)し” =喜んで手が伸びること

「あな、さやけ」 は、草木も一緒に喜び踊ること

「おけ」 も、草木が風になびき揺れること

 ――だそうです。

<つづく>

  (2015.7.4)
73 禊祓と、住吉大神宇宙浄化の祈りについて(1)


 谷口雅春先生の「禊祓祝詞(みそぎはらいののりと)講義」(『實相と現象』より)について勉強してまいりました。では、先生が晩年にいのちがけで鎮護国家龍宮住吉本宮を造営し祈られた「住吉大神宇宙浄化の祈り」とのつながりは、どうなっているのでしょうか。それについてしっかりと学び、考察してまいりたいと思います。

 ついては先日6月28日の地元誌友会の日に、誌友会に先立ち「聖使命会感謝奉納祭」も行われ、私も7月分聖使命会費奉納の報告書を提出してまいりました。その時に誦げられた「聖使命会感謝奉納祭の祝詞」の言葉が格別身にしみましたので、それをここに掲示させていただきます。

≪  聖使命会感謝奉納祭の祝詞

 掛けまくも畏き宇宙を治
(しろ)しめす大神、応化し給いては宇宙すべての人及び物・事を浄め給う 住吉大神(すみのえのおおかみ)と顕(あ)れまし給い、仏道に垂迹(すいじゃく)ましましては阿弥陀如来、観世音菩薩となりて世の諸々の魂を救いたまい、さらに基督(キリスト)教に垂迹したまいては久遠のキリストとも化して姿を顕わし給い、神示を垂れ給う七つの燈台の点燈者にまします生長の家大神の御前(みまえ)に ○○○○ 畏み畏みも白(もう)さく。

 今日を生く日の足る日の吉
(よ)き日と斎(いわ)い定めて、住吉大神(すみのえのおおかみ)の宇宙浄化・鎮護国家の御神徳を蒙(かがふ)りて大神の人類光明化運動、日本国実相顕現運動の聖使命を感得し、命の限り衆生救済に身を挺し心を致し資を献げ誠を尽さんと誓える聖使命会員たち、大神の御前に打ち集いて感謝の讃辞(たたえごと)を奏上(もうしあ)げ奉(まつ)り、聖経読誦の中(うち)に聖使命会費を捧げ奉る状(さま)を平らけく安らけく聞し召し諾(うべな)い給いて、皇御国(すめらみくに)はもとより、天(あめ)が下万国々(よろずのくにぐに)に大御光を恵み幸(さきは)え給い、弥遠(いやとお)に弥広(いやひろ)に五十橿八桑枝(いかしやぐわえ)の如く立栄えしめたまえと畏み畏みも乞祈(こいのみ)(まつ)らくと白(もう)す。……≫


 ――こういう祝詞を奏上して、聖使命会費を捧げてきたのであります。

 だから、聖使命会費は、上記の祝詞にそった目的のために使われなければ、神様に対して、また聖使命会費を奉納した信徒に対して、嘘をついたことになります。それは、詐欺罪にも当たるのではないでしょうか。

 http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15378004

 で言われているような状況は、あってはならないことだと思うのであります。

 そのことを前提として、「禊祓祝詞」 と 「住吉大神宇宙浄化の祈り」 とのつながりについて、勉強してまいりたいと思います。

 ありがとうございます。

  (2015.7.3)
72 今こそ、禊ぎ祓いの時である!(5)


 谷口雅春先生の「禊祓祝詞(みそぎはらいのりと)講義」(『實相と現象』より)について、引きつづき勉強させていただきます。(一部要約)


≪  ストレス=凝りを均(なら)す働き

 新派の柳英二郎と云う役者がありました。その奥さんが、いつも肩が凝ると云う持病があったと云うのです。その頃、真澄静子さんが生長の家の誌友で東京にいられた。その人が指圧療法の先生でありまして、まだ生長の家の誌友になる前に、肩を凝らしている新派の俳優の所へ指圧の治療に行くようにしていられ、毎月一二回は柳英二郎さんの奥さんのところへ指圧治療に行くのでした。

 何時も指圧して居ると其の人の肩が凝っているか凝っていないかと云う事は一寸手を当てると、もうすぐに分かる。ところが或る日、真澄静子さんが行って柳夫人の肩に手を当てると、いつも凝って固くなっている肩の筋肉が凝っていない。柔かなのです。ハッと気付いた真澄静子さんが、「貴女、悟ったですねえ」 と斯う言われた。

 そうしたら柳夫人が、「実は生長の家の本を読んだのです」 と言う。
 「生長の家の本ってそんな好い本ですか」 と云う訳で、それから真澄静子さんが生長の家に入って勉強し、地方講師になり、熱心に生長の家の教を人々に伝えられるようになったのであります。
 心が穏かになり、平静になって、實相に調和した心境になったら肩が凝らんのであります。

 地球だって本来生き物でありますから、矢張り肩が凝るのですよ。地球には肩がないけれども、地殻の一部にストレスを生ずる、それは肩が凝るのと同じことだ。そうすると色々な現象が出て来る。たとえば噴火山が爆発するのは、あれは地殻の内部圧力が不平均だから爆発する処が出来るのでしょう。また地震が起るのは地殻内部の圧力の不平均を均す働でありましょう。

 地球をとりまく雰囲気である大気中にも又気圧の不平均と云うものも起って来る、これらは地球のストレス即ち肩が凝っているのであります。その気圧の不平均を均す働きと云うものがさあっと起って来るのが、台風であります。普段にも少しずつ風も吹いているし、波も起っているのですが、あれは速佐須良姫のサスル働きによって、地球のストレスが始終少しずつ浄化して行きつつあるのであります。併し徐々に浄化が行われるだけでは足らんものですから、ときどき、もっとひどい浄化作用がやって来る事がある訳です。

 地球だって人間だって生き物でありますから良く似ているのです。人間も夏になったら汗が出るでしょう、冬になったら皮膚が乾いてカサカサになる。地球だってそうなんです。夏近くなったらじめじめとした雨期が来、台風をともなう大雨が来て諸方に洪水が起って来たりします。人間が夏期になると発汗作用が起るように夏期には地球の水分が表面へ出て来るのです。ところが冬になると、人間の皮膚の発汗作用が減退して来るのと同じように、地球も汗をかかんようになり渇水期と云うのを迎えます。汗をかくと云うのは生きている証拠でありますが、夏でも心境を涼しくしておったら、やっぱり涼しい感じがして汗をかかん人もあります。

   浄化と時間の経過

 ところで地球の生命と人間の生命とは互いに連関しておりますので、地球上に住んで居る人類全体が、汗をかかん様な焦らない、静かな、平和な心境になっておったら、そう云う天災地変と云うものも減って来ると云う事になる。天災地変と言うけれど、雨が降るのは瀬織津比売命の御働きであり、地震や火山爆発は速佐須良比売の御働であって、宇宙を浄化し地球を浄化しているのであります。

 もし宇宙にこう云う浄化の働きがなかったら、私たちがうんこでも流したのが、いつまでもその辺に浮いとって、もう汚くて汚くて、海水浴なんてできない事になるけれども、それをちゃんと速佐須良比売命
(はやさすらひめのみこと)が擦(さす)ってくれて波を起こして「可々呑(かかのみ)てむ」と云うわけで不浄物を「無」の世界に皆呑み込んでくれるものですから、どんな不浄物を海に流しても浄化してしまう訳であります。風呂へ入って皮膚の表面を擦(こす)ると垢がとれる。それと同じことが宇宙にも行われる。此の宇宙浄化の働きを神格化して、祓戸(はらいど)四柱(よはしら)の神として、日本神道ではこれに礼拝し感謝するのであります。

 それで、
 「祓戸
(はらいど)の大神等(おおかみたち) 諸々(もろもろ)の枉事(まがこと)罪穢(けがれ)を祓(はらい)給へ清め給へと申す事の由を、天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百萬(やおよろず)の神等共に天斑駒(あめのふちこま)の耳振立て聞召(きこしめせ)と畏み畏みも白(まを)す」

 天斑駒と云うのは、古事記に、須佐之男命
(すさのおのみこと)が天斑駒を逆剥(さかはぎ)に剥いで、天照大神様が機(はた)を織っておられた所へ投げ込んだと云う事が書かれているのであります。此の天斑駒と云うのは、天の“まだらうま”と云うことでこれは“時間”の象徴であります。あのガソリンに「ペガサス・ガソリン」て云うのがあるでしょう。あのペガサスと云うのが天を翔ける馬であって、商標の図を見ると、馬に翼がついているでしょう。あれが天斑駒です。“斑”というのは、白と黒との“ぶち”のことで、これは、“昼”と“夜”とを表している訳です。“昼”と“夜”との交代によって幾日経過したかと分かる時間の事なんです。

 「天馬空を翔る」 とか 「白駒の隙を過ぎるが如し」――白い駒が隙間を過ぎる様だ――と云って時間を馬に譬える語句があります。このように支那の喩にも、「時間」 を 「駒」 に譬えているが、日本でも 「時間」 を 「駒」 に讐えているのであります。≫


 ――この後が、#67 で勉強させて頂いた、

 「天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百萬(やおよろず)の神等(かみたち)共に天斑駒の耳振立て聞召せ」 についてのご文章になります。すなわち、

 ≪此の世界を浄化するためには或る時間が要る。あまり急いだらいかん。あまり急激に変革しようとして急いだらそれだけ余計激しい変動が起らなければならないから、悲惨が一層拡大するのであります。だから徐々に時間の経過をとおして変化させて行く、これが 「天の斑駒の耳振り立てて」 であります。≫

 ということになるのであります。

 神様のなさることに間違いはない。浄化は祓戸大神の御働きに委ね、感謝し、結果は神に全托して、私たちは「今」内なる神の御導きのまにまに、神ながらに、できること、為すべき事を粛々と実行して行く。それによって、必ず世界は浄化され、完全円満な実相が顕現して行くのだと思います。

 ありがとうございます。

  (2015.7.2)
71 今こそ、禊ぎ祓いの時である!(4)


 谷口雅春先生の「禊祓祝詞(みそぎはらいのりと)講義」(『實相と現象』より)について、#70 のつづきを勉強させていただきます。


≪祓戸(はらいど)の四柱(よはしら)の神様は大祓祝詞(おおはらいのりと)の中に名前が書かれておりますから、どう云う神様であるか、大祓祝詞を次に読んでみることに致します。

 「彼方
(おちかた)の繁木本(しげきがもと)を焼鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)もて打掃(うちはらう)事の如く遺罪(のこるつみ)はあらじと祓給ひ清め給ふ事を、高山之末短山之末(たかやまのすえひきやまのすえ)より佐久那太理(さくなだり)に落ち、多岐都速川(たきつはやかわ)の瀬に坐(ま)す瀬織津比咩(せおりつひめ)

 先ずその一柱は瀬織津比咩神(せおりつひめのかみ)と云う神様であります。女性の神様になっているのは「水」の働であるからであります。「多岐都速川」即ち、瀧の様に早く流れている所の急な流れにましますところの“急流の神様”で、噴流式の洗濯機のような御働きで、速かに宇宙浄化の作用をなさる神様であります。川の水と云うものは凡てを浄化する。農村なんかでは水道の水が無いから、川で洗濯している。襁褓
(おむつ)でも何でも洗っている。その下の方でお米を炊(かし)いだりしているのもある。まことに乱暴な話で、それは衛生に悪いと思われますが、それでもその割に伝染病にかからないのは、速川の流れる働きで浄化されるからであります。

 兎も角
(ともかく)、何でも彼でも浄めるのは此の川水の働きでありまして、この浄化の働きを人格化したのが瀬織津比咩(せおりつひめ)と称せられる神様です。此の瀬織津比咩と云う神が、「大海原に持出でなむ」とありましてこの川の御働きとしてあらわれてまします宇宙浄化の神様が、一切の地上の不浄物を大海原(おおわだのはら)即ち大海原(おおうなばら)へ流し出される。すると、大海の浄化の働と云うものは又素晴しいのであります。

    實相の世界へ息吹き放つ

 海には地上にある凡ゆる汚いものが流される。都会では、皆さんの大小便も――水洗便所を通じて――みんなここへ流されて行く。それがいつの間にか浄まって、それで皆さんが泳いだり、その海の中で呼吸したり餌をくったりしている魚を、皆さんが「美味しい」と云っておあがりになるのです。まあそう云う様な工合になっているのが、宇宙浄化の大自然の働きであって、どんな汚いものでも全部呑み込んで、浄化したまう働きをして下さる。この大自然力が大海原の神様で、この神を「速開津比咩神
(はやあきつひめのかみ)」と申し上げる。大祓祝詞には次のように書かれています。

 「大海原
(おおわだのはら)に持出でなむ。如此持出往(かくもちいでいな)ば荒塩(あらしお)の塩の八百道(やおぢ)の八塩道(やしおぢ)の塩の八百會(やおあい)に坐(ま)す、速開津比咩(はやあきつひめ)と云ふ神」

 此の「速開津比咩」と云う神様が、海の浄化の神様になっておるのです。どんなものでも、口を開いて呵々
(かか)として呑んでしまうのです。だから、大祓祝詞には、

 「速開津比咩と云ふ神持
(かみもち)可々呑(かかのみ)てむ。」

 と、ぐーっとこう呑んでしまうと書かれているのであります。こうして大海が一切の不浄物を呑み込んでしまうと、どうなるかと云うと、大祓祝詞には、

 「如此
(かく)可々呑ては気吹戸(いぶきど)に坐(ま)す気吹戸主(いぶきどぬし)と云ふ神 根之国底之国(かみねのくにそこのくに)に気吹(いぶき)放ちてむ。」

 とあります。これは風の神の働きを云ったのであります。

 此の「気吹戸主神様」のおん働きが大切であります。大自然の力・台風みたいな働きを人格的に拝して「気吹戸主神」と申し上げたのです。海上や山間にああ云う台風のような風が吹かなんだら、地上の不浄物は一網打尽的に海へ流れないし、又幾ら海へ流れ込んだとて、完全に速かに浄化しないのであります。ああやって、ザーザーと、風の働によって波を立てて吾々が地上でつくった汚れを浄化して下さるのであります。そうするとどんな汚い物でもきれいなものに変化してしまう。

 その浄化すると云うのは、どこへ其の汚物をやるから浄化出来るのであるかと云いますと、「根の国底の国に気吹
(いぶき)放ちてむ」とあります。「根の国、底の国」と云うのは、事物の生ずる「根底の国」即ち「實相の国」のことを云うのであります。「實相の国」にはどんな汚れもない、それは「光ばかりの国」でありますから、「光ばかりの国」へ、暗(やみ)の「気枯(けが)れ」を追いやったら、暗は自然に消えてしまうのであります。

 わたし達が春秋の大掃除の時に、畳を叩いてホコリを落すと、濛々
(もうもう)としてホコリが立ちのぼる。ところが、いつの間にか大気がきれいに澄み切ってその埃(ほこり)が無くなってしまっているのであります。あれは気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)のおん働きによって根の国底の国――實相世界――へ追いやられて浄化されてしまう。科学的に云えば、いろいろな物理化学的現象によってそれが浄化されるのですが、その働きの根元は實相世界から来ている。實相の世界にはどんな埃も無い。現象の世界には埃がある。それで、實相の世界へ気吹放ってしまうと、現象世界の汚れが浄化されるのであります。どうして浄化されるかと云うと、大祓祝詞には、

 「根之国底之国に坐
(ま)す速佐須良比咩(はやすさらひめ)と云ふ神持佐須良比(かみもちさすらひ)失ひてむ。」

 とあります。速佐須良比咩命と云う“霊的波動”のはたらきによるのであります。此の速佐須良比咩神と云う神様のお働きを分り易く言うと、擦
(さす)る神様です。大宇宙をマッサージする神様です。皆さんでも、肩が凝ったと云うときには、そこに心の埃が溜っている、換言すれば、そこに心の執着や焦りのストレスが出来ているのであります。その時に、按摩をして貰うと、その凝りがとれて、気持がよくなる。気持がよくなるのは浄化されたのであります。按摩は擦る働き即ち速佐須良比咩神様の一つのお働きで、それで気持が良くなるのであります。さすれば、實相の正しい血液循環のそのままの姿というものが、そこに現れて来て、凝りや病気が消えると云う事になるのであります。

 これは、人間界の出来事に喩
(たとえ)をもって来て分り易く云っているのでありますが、大自然界に於いても、ああ云う工合に台風が吹くのも、或る意味から云うとあれは宇宙浄化の働きであります。だから吾々の心が濁ると、それだけ余計浄化せねばならんから余計台風が吹くと云う事になるのであります。あの台風に依って、人間のつくった心及び物の汚いものが皆浄化されて、清らかに澄み切った世界が出て来るので、吾々の心が、浄化を要しない位に浄まらないと、毎年一回や三回位は速佐須良比咩命に台風を起こして擦って貰わんと、一度に溜めておいて浄化するとなると、それこそ大変、地球の滅亡にもなりかねないのであります。


 <つづく>

  (2015.7.1)
70 今こそ、禊ぎ祓いの時である!(3)


 今日は、まず最初に大懺悔しなければなりません。

 と申しますのは、私は #68 で

 <今、生長の家は、そして日本は、「気枯れ(けがれ)」の状態、天照大御神が岩戸隠れをなさった、闇の混乱状態になっているのではないかと思います。>

 と、他人事のように書いておりました。

 『何処へ行く?「生長の家」』の「はじめに」というところに、私は

 ≪「生長の家は何処にあるか」と問われたら、私は「生長の家は今、ここにあります。私が生長の家です。生長の家は、わたしの生命
(いのち)です」と答えたいと思います。

 今が天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時であり、此処(ここ)が生長の家(たかあまはら)(高天原)である。わが生命(いのち)は天之御中(あめのみなか)の御生命(おんいのち)が鳴りひびいているのである。

 谷口雅春先生が、「本当の生長の家本部は神界にある」とおっしゃった、神界とは遠くにあるのではなく、「神の国は今此処わが内にあり」ということであると信じます。

 生長の家とは、時間・空間未だ発せざる中
(みなか)、一切万象発生の枢機を握る「久遠の今」なる本源世界、大宇宙(たかあまはら)である。≫

 と書いておりましたが、その境地を忘れておりました。

 「気枯れ(けがれ)」の状態になっていたのは、自分自身でありました。

 ≪実相のほかには何ものも存在しない。だから調和に反するもの、美に反するもの、愛に反するもの、従って、病気・不幸・災厄などは、五官の眼で見て如何に存在するが如く見えても、それは単なる夢であって、存在しないのであります。真に実在するものは至美・至善の大調和世界であります。≫
(『新版 真理』第4巻、第14章より)

 という御教えから外れて迷っていたのは、私自身でありました。

 禊祓をしなければならぬのは、私自身でありました。

 申し訳ございませんでした。 顔を洗って出直します。

 ありがとうございます。

          ○

 『生命の實相』第12巻第4章には、次のように書かれておりました。

 
≪もし、この「生長の家」が何々教というように、ほかの宗教に対して対立的になっている一つの宗教でありますならば、このように他のいっさいの宗教を包容して、そのすべてを生かしてゆくことができないのです。

 「生長の家」がこのようにいっさいの宗教を包容してその神髄を生かしてゆくことができるのはなぜであるかと申しますと、「生長の家」はいっさいの「生命」がそこから発生し、そこから生長し出た「家」であるからであります。

 「家」というのは「生」が「寄」る、すなわちいっさいの生命がそこに寄り集まる所をいうのであります。この「家」のことをまた「巣」と申すのでありまして、小鳥の巣、獣の巣、虫の巣などいろいろありますが、すべて「巣」というものは「生命」が集まって来て、そこで「生命」が窮屈な社会的仮面を脱いで、本来の伸び伸びした面目を発揮する所なのであります。

 「家」すなわち「巣」というものは、蜘蛛の巣を見ましても一つの中心に集まっている。スベテが一つの中心に統一されているーこのスベテの「ス」、統一するという意味の「統べる」という言葉の「ス」、スベテが統一されて、スキ通り、スミきって、少しも乱れがないいっさいを包容するという意味での「澄」「透」などの意味が「生長の家」の語にはあるのであります。すなわちわれわれの教えは無色透明の「家」であるからこそ、すべての宗教の方々に喜ばれるのであります。



 この「生長の家」というのは、そのように中心の無色透明の真理の家でありまして、「生」すなわち「縦」に無限に生びること――すなわち無始無終無限の時間と、「長」すなわち「横」に無限に長びること――すなわち無始無終無限の空間とを、一つの中心より放射状に発生せしめて一切万象発現の枢機を握り、一切万象そこより発し、そこに帰る中心を握っている巣(統、主)であるから、「生長の家」といったのであります。

 このように「生長の家」といいますのは、一切万象をそのうちに統べ包んでいる宇宙をいうのでありますから、いっさいの宗教が「生長の家」に包容されるのは当然のこと、いっさいの事物の創造原理さえも「生長の家」に包容されねばならないのであります。

 宇宙のありとあらゆるものは、最初に中心があって、そこから「縦」と「横」、時間と空間とがあらわれまして、その時間空間が交叉せる家、すなわち「生長の家」の内に在るのでありまして、…(中略)…「生長の家」とは縦横無限の宇宙、無始無終の時間空間の交叉せる家、陰陽二つの原理の交叉せる宇宙なのであります。縦は火の燃える相であり、横は水の流るる相であります。この陽と陰との交叉せる世界がこの大宇宙なのであります。≫


 そして、

 
≪……如何なる教えにてもあれ一切の教えを包括する本当の実相に到達したとき『生長の家(たかあまはら)』と言うのである。それは天爾(てんに)の『家』であり『巣(す)』であり『統(す)』であって教えではない。その家の中にあって色々の教えが生きるのである。本当の古神道は『生長の家』の内にあり、本当の基督(キリスト)教は『生長の家』の内にあり、本当の仏教は『生長の家』の内にあり、生命の実相の顕現する所、説かるる所、読まるる所、その悉くが世界の中心である。≫(「万教包容の神示」より)

          ○

 ――と、お教え頂いているのでした。それが生長の家であり、その生長の家、またヒノモト(霊の本)なる日本は、一遍も「気枯れ
(けがれ)」たことなどなく、その實相を見なかった私が気枯れていただけだったのでした。

 生長の家大神様の御前に、大懺悔させていただきます。ありがとうございます。

          ○

 では、顔を洗い禊ぎをしましたので、次に、引き続き谷口雅春先生の「禊祓祝詞
(みそぎはらいのりと)講義」(『實相と現象』より)等を勉強させていただきましょう。

 <つづく>

  (2015.7.1)
69 今こそ、禊ぎ祓いの時である!(2)


 さて、#67 で 谷口雅春先生の「禊祓祝詞
(みそぎはらいのりと)講義」(『實相と現象』より)を一部引用させて頂きましたが、これはとてもとても面白くわかりやすく説いて下さっていますので、もう少し詳しくご紹介させて頂きましょう。

 まず、「禊祓祝詞」の全文をまとめてもう一度掲げます。

 「高天原に神留坐(かみつまりま)す。神魯伎神魯美(かむろぎ かむろみ)の詔(みこと)を以ちて、皇御祖(すめみおや)神伊邪那岐命(かむいざなぎのみこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に身禊(みそぎ)祓ひ給ふ時に生坐(なりませ)る祓戸(はらいど)の大神等(たち)、諸々の枉事(まがこと)罪穢れを祓ひ給へ清め給へと申す事の由を、天津神(あっまつかみ)国津神(くにつかみ)八百萬(やおよろず)の神等共に天斑馬(あめのふちこま)の耳振立(ふりたて)て聞(きこし)召せと畏(かしこ)み畏みを白(まを)す。」

 ――上記「禊祓祝詞」の谷口雅春先生ご解釈は、スケールが宇宙大で、とてつもなく面白いのですが、長文にわたりますから全部ご紹介するわけにはまいりません。それで、後半の一部をご紹介させて頂きます。

≪伊邪那岐神様は天地創造の積極原理としてはたらきたまう宇宙の大神であります。それですから、“ツクシ”と云うのは、九州の“筑紫”と云う字が当て嵌めて書いてありますけれども、本当はそうじゃあない、ツクシは「尽くし」なのであります。十方あらゆる方角を尽くして宇宙全体に広がって充ち満ちておられる光の神様が伊邪那岐神様である。

 次に、筑紫の“日向
(ひむか)”でありますが、“日向”を九州の“日向(ひゅうが)”だと思って、“ひゅうが”と読む人があるけれども、“日向(ひゅうが)”は「日向(ひむか)」が転じた語であります。“ヒムカ”と云うのは、見渡すかぎり光に向っている意味でありまして、「尽十方光明遍照の国」の意味であります。

 尽十方光明遍照の大宇宙に於いて、宇宙の大神が禊祓をせられた。だからこれは荘厳極まりなきすばらしい宇宙浄化の行事であります。小さな人間的形体をそなえた神様が九州の一角でちょっと祓式をやっているなんて云うようなことじゃないのであります。

 此の祝詞を見ても、日本人は随分雄大な信念を持っておった民族であることがわかるのでありまして、皆さんの祖先は實にすばらしいのであります。島国に住んでおった様ですけれど、心は宇宙に充ち拡がっておって、自分たちは宇宙の大神の子孫である、即ち「神の子」であると云う信念をもっていたのであります。

 この伊邪那岐
(いざなぎの)神様は“ツクシ”即ち“尽十方”の“ヒムカ”即ち“光明遍照の世界”に於いて、禊祓(みそぎはらい)をせられた。“ミソギ”と云うことは“浄化”することを云うのであって、その浄化は何によってするかと云うと「光」でするのです。伊邪那岐神様は「光」の大神であって、宇宙を「光」で満たして暗黒を消し、世界に平和を持ち来たす御働きの神であります。

 伊邪那岐神様が、「光」の神であると云うことは、後に宇宙を照す天照大御神をお生みになったので明らかであります。「光」で「暗黒」を消すと云っても、物質的な光線ではありません。それはどんな光によって禊祓をせられたかと云うと、「橘の小戸」であります。「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」と地名の如く書かれてありますが、これは地名じゃないのでありまして、地名に象
(かたど)ってその御働を象徴してあるのであります。…(中略)…

    宇宙浄化の働は永遠につづく

 “アハギハラ”と云うのは、「筑紫の日向の阿波岐原」と云う風に、場所の名前になっておりますが、“ア”と云うのは“あらわす”ことで、“ハギ”と云うのは“追剥”の“ハギ”と同じ事で、偽物のヴェールを“剥ぎ”とって覆いを取り除いてしまうことであります。即ち「光明の言葉」の力で、本来無い処の偽物の迷いを、それを除いてしまう、これが禊祓なんであります。

 「光明の言葉」の力に依って人間の心の暗黒を取り去り給うたそのお働を、宇宙の大神たる伊邪那岐神様がせられた時に、その宇宙浄化の働が人格化して現れて祓戸大神と云われる神様が四柱お生れになられたのであります。それで、此の禊祓の祝詞には「伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓たまふ時に成りませる祓戸の大神たち」となっているのであります。

 それで神社その他で祭典をする時に、先ず祓式と云うのをやる時に、祓戸四柱の神様のお名前を一柱ずつ唱えてこの宇宙浄化の神様のお働を勧請
(かんじょう)するのであります。簡単にやれば、お名前を呼び奉らずに、この「禊祓の祝詞」だけを読めば、言葉の力によって祓戸の大神の宇宙浄化の働が動き出して下さるのであります。

 この祝詞に「禊祓ひたまふ時に」とありますのを「禊祓ひ給ひし時に成りませる」と読む人がありますが、伊邪那岐大神の宇宙浄化の働は過去にもありましたが、今も永遠につづいていますので「禊祓ひたまふ時に成りませる」と現在の動詞活用で読む方が正しいのであります。≫

 <つづく>

  (2015.6.30)
68 今こそ、禊ぎ祓いの時である!


 今、生長の家は、そして日本は、「気枯れ
(けがれ)」の状態、天照大御神が岩戸隠れをなさった、闇の混乱状態になっているのではないかと思います。

 日本の国は、天祖 天照大御神
(あまてらすおおみかみ)が天孫 邇邇芸命(ににぎのみこと)にくだされた御神勅

 「豊葦原
(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。
 爾
(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)
 寶祚
(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわ)まりなかるべし。」

  (『日本書紀』巻二。「天壌無窮
(てんじょうむきゅう)の御神勅」と言われる。
   これこそが、わが国最高の成文憲法である)

 この御神勅から日本の国は始(肇)まった。これを現代語にすると、

<豊かな葦原で、秋になると稲穂がたくさん稔る国(日本)は、私(天照大神)の子孫が(しら)す(統治する)国です。
 なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。
 寶祚(天照大神の霊統・血統を継ぐ天皇の御位)が栄えることは、まさに天地と共に永遠で窮まりないことでしょう。>

 ということですね。

 この「元」に還ると、国も、民も、「元気」になって栄えるのです。

 この「元」を忘れると、「気枯れ(けがれ)=穢れ」の状態、元気のない混乱状態になるのです。

 この「元」をさらに遡れば、

 「天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

 となります。

 今の神道界では、まず天地自然が先にあって、その中へ天之御中主神が「お成り」になった(出て来られた)という解釈が常識、通説になっているそうです。
 (そのことは昨日午後からの勉強会で、先祖からずっと神社の宮司を務めてこられた家系で毎朝禊祓祝詞を誦げているという方が、言っておられました)

 しかし、谷口雅春先生のお悟り、生命の實相哲学では、違います。

 『生命の實相』第12巻「万教帰一篇」には、次のように書かれています。

≪ 宇宙のいっさいは、時間と空間、「無限の縦」と「無限の横」との展開よりなっているのでありまして、その展開を統べ括っている中心を「ス」と申します。……その一切事物の根元たるコトバは、「ス」であり「枢」であり「主」であり、キリストであり、これを日本古典では天之御中主神と申し上げたのであります。

 天
(あま)の「ア」は現われるという意味であります。「マ」は真ン円く現われる、そしてそれが広く拡がっている。ハラというのは広々と続いているので、それが高天原で大宇宙であります。この大宇宙に成り坐(ま)せる神が天之御中主神である。成りませるというのは鳴り響いているということであります。高天原というある場所にヒョッコリ生まれたのが天之御中主だなどというようなケチな意味ではない。「すべてのものコトバによってつくらる」ということが聖書の『ヨハネ伝』の第一章にありますが、そのとおりでありまして、コトバは神である。大宇宙高天原に鳴り響いているところの神様、それが天之御中主神そのものである。

 ですから天之御中主神はすべてのすべてであり、絶対神であって、別に他に神はない、天之御中主神一元であるということになるのであります。


 ……仏教でも、単に真言宗だけで「声字
(しょうじ)即実相」を説いているだけではなく、真宗では「南無阿弥陀仏」の六字の名号(みょうごう)を称えるところに功徳があると申します。名号を唱えれば極楽に往生できるのであります。が、この「名号を唱える」ということは要するにコトバの力によるのであります。日蓮宗で「南無妙法蓮華経」の題目を唱える功徳を説きますのも、皆この「言葉の力」の功徳によるのであります。

 日本では古来から「言葉の力」によっていっさいの罪と穢れを祓うということを実行してきたのであります。コトバによっていっさいを浄めるのであります。神道の祭典に常に用いられる禊ぎ祓いの祝詞というのは、日本では太古からあるものであって、『古事記』の編纂などよりもずっと古い時期に作られたもので、コトバの力によって万物を浄めるのであります。それには、

 「高天原に神詰
(かみつま)ります。神魯岐(かむろぎ)神魯美(かむろみ)の詔以(みこともち)て皇御祖(すめみおや)神伊邪那岐命(かむいざなぎのみこと)、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)にて禊ぎ祓い給う……云々」

 とあるのでありますが、……≫


 と。
 現在、神社などで誦げる祝詞は、この「禊ぎ祓い給う……」というところは「禊ぎ祓い給いし時に……」と過去形で述べますが、生長の家ではそれは過去形ではなく現在形で「禊ぎ祓い給う時に……」と宣べます。祓戸
(はらいど)の大神等(おおかみたち)の禊ぎ祓いは過去のことではなく、今此処に天降ってなされる、という宣言だと思います。おそらくそれが本来の禊祓祝詞だったのではないでしょうか。

 <つづく>

  (2015.6.30)
67 「天津神国津神八百萬の神等共に天斑駒の耳振立てて聞召せ」


 「ひろば」 #50 に、「二代目一寸法師」様が

≫分裂がない 対立がないのが 生長の家であります。

との岡様の御提言には全く異論はございません。が、創始の本来の「生長の家」を復活させるため、四分五裂している現在の組織を統一させるのは至難のわざかと思います。≪

 というご投稿を頂きました。

 その通りであろうと思います。世は、業
(ごう)の力に流されているからです。

≫まして、左傾化する八ヶ岳に本部がある“宗教法人「生長の家」”を糺すよりも、宗教法人認可当時の本尊、教義、宗教儀式等々とは大きな齟齬、瑕疵があり宗教法人法違反であると告発、告訴し司法の判断に委ねるべきだと思いますが・・・。≪

 とも書いて下さっています。それをしようと準備している人があるのも知っています。

 掲示板で、
 
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15378004

 というような切実な状況があることも知りました。

 でも――昨日、午前中は私の地元相愛会の誌友会がありました。
 テキストは、『新版 真理』第4巻、第14章を輪読して研鑽しました。
 その中に、次のようなご文章がありました。

≪ 真の実在界には相剋相闘は存在しない

 宇宙は一つ、神は一つ、宇宙意識は一つなのでありますから、目的意志の食い違いや、互の相剋相闘などは存在しないのであります。

 それは一つであるから、調和しているのであります。各部分が全体の目的意志、一つの智慧によって調和しているから「美」なのであります。すべての部分が互に一体なのですから、他の部分を見ること、さながら自己を観るが如くであり、他の悦びを自己の悦びと感じ得ますから愛なのであります。すべては愛によって調和していますから、善のみある世界なのであります。

 これが実相なのでありまして、実相のほかには何ものも存在しない。だから調和に反するもの、美に反するもの、愛に反するもの、従って、病気・不幸・災厄などは、五官の眼で見て如何に存在するが如く見えても、それは単なる夢であって、存在しないのであります。真に実在するものは至美・至善の大調和世界であります。≫

≪治すのは人間が治すのではない、神が治すのであること。生命は神から来るのであるから、神以外のもの――病気――などによって左右せられるものでないこと。神は無限の力をもっていたまいて、吾等の呼ぶに先立って応えたまう存在であること。

 神以外には如何なる存在もないのであるから、神に全然まかせ切るとき、その唯一の力は、それ以外の「仮の力」(病気等)を消滅せしめる力がある、と云うことを知らしめなければならないのであります。≫


 午後からはまた別の集まりで、神道に造詣の深い方たちの勉強会に出席しました。
 「禊祓(みそぎはらい)」について勉強しました。

 谷口雅春先生は、『實相と現象』という御著書の後の方、「禊祓祝詞(みそぎはらいのりと)講義」の章に、次のようにお教え下さっています。

 「天津神
(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百萬(やおよろず)の神等(かみたち)共に天斑駒(あめのふちこま)の耳振立てて聞召(きこしめ)せ」

 という祝詞のことばについてのご解説として。

≪ 天斑駒(あめのふちこま)と云うのは、天の“まだらうま”と云うことでこれは“時間”の象徴であります。(中略)

 此の世界を浄化するためには或る時間が要る。あまり急いだらいかん。あまり急激に変革しようとして急いだらそれだけ余計激しい変動が起らなければならないから、悲惨が一層拡大するのであります。だから徐々に時間の経過をとおして変化させて行く、これが「天
(あめ)の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて」であります。

 病気でも早く癒る時には“ケミカライゼーション”即ち“迷いの自壊作用”と云うものが起って今まで慢性の病気であったのが急激に急性の病気になったりして、一時的にはひどくなってそれで却って快くなると云うことがある。或は此の社会でも良くしようと思ったら、革命と云うような、激しい事が起ってから、それで善くなると云うことがある。中共みたいにわずか数年の間に社会革命を起こして封建制度の世界から、共産制度の世界を造り上げたと云うような場合には、あの為に、一千萬人程度の人が粛正されて殺されたと云うことですね。あんな大きな問題は、それ程の大自壊作用を急激に起こすことによって、急速に良くなるのであります。

 だからどうしても此の世界を良くしようと思ったら、時間を経なければならない。それで、「祓
(はら)ひ給へ清め給へ」と御祈り申し上げたならば、天の神、地の神、八百萬(やおよろず)の神様がみんな一緒になって時間をかけて天地の浄化を徐々にやって頂くように「天斑駒(あめのふちこま)の耳振り立てて聞召(きこしめ)せ」と祈るのであります。それは、時間の経過を経なければならないから、「天斑駒の耳振り立てて」聞いて下さいと云う表面の意味で、「聞召せ」と書いてあるけれども、耳で聞くだけじゃないんです。

 大体此の世界の一切のものは言葉で出来ておりますから、「物を動かす」ことをみんな「聞く」という語で表現することがあるのです。たとえば、目で見るんだったら、あの人は「目きき」である、「目ききが鋭い」などと言います。此の世界は言葉で出来ているんですから鼻でそれを知る場合にも「あの人は鼻が良くきく」というのです。また「香をきく」とも云う。舌が物を言う場合には、「あの人は口ききじゃ」と云う。「味わう」ことを「味をきく」とも云いますね。また腕で實行するのに巧みな人を「あれは腕ききだ」と云う。「手はきかぬが、足はきく」と云うことばもある。ともかく皆實行する事を皆「きく」と云うのです。是は此の世界の凡てのものは言葉に依ってつくられているからそれに反応を示すことをすべて「聞く」と云うのであります。

 それで「天津神
(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百萬(やおよろず)の神等(かみたち)共に天斑駒の耳振立てて聞召せ」と、私たちは、時間の経過をとおして、どうぞ徐々に、あまり激しい自壊作用なしに、此の世界を光明化して、浄化して下さいませ、と斯う云う風に祈り申し上げる言葉が禊祓の祝詞なのであります。≫

 ――ともかく實行する事を皆「きく」と云う。此の世界の凡てのものは言葉によってつくられているからそれに反応を示すことをすべて「聞く」と云うのである。

 神に全托し、神に導かれながら、毎日せっせと「実行」を続けてまいりましょう。

 ここに、神に導かれた適切な言葉をしるして行くことも、これからも命のかぎり、ねばりづよく「実行」します。

 そして、さらに具体的な適切な行動を、勇敢に実行してまいります。

 ありがとうございます。

  (2015.6.29)
66 「ひとたびは 死にし身も 主によりて いま生きぬ。」


 今日私は、満82歳の誕生日を迎えました。

 私の好きな讃美歌の一つに、532番 「ひとたびは死にし身も」 というのがあります。

1.ひとたびは 死にし身も
 主によりて いま生きぬ。
 みさかえの かがやきに
 つみの雲 きえにけり。

 
(おりかえし)
 ひるとなく、よるとなく
 主の愛に まもられて、
 いつか主に むすばれつ、
 世にはなき まじわりよ。

 ――という歌詞の讃美歌です。

 毎月1回の分離唱(#52参照)による合唱のつどいで、だいたい毎回うたいます。無伴奏の混声四部合唱で、私はバスのパートを唱うのですが、自然に全生命をこめて唱う気持になります。

 なぜそうなるかと言いますと、自分の高校生時代の霊的体験が自然に浮かんでくるからです。(その体験のことは、「疾風怒濤のわが青春記録」の「2.いのちの讃美歌」に書きました)

 「ひとたびは 死にし身も」――というのは、肉体的にも盲腸炎で死にかけたのですが、その病気をする前から、罪の意識が強くて「罪の値は死なり」というわけで、肉体は生きていても魂が死んでいた。それが、

 「主によりて いま生きぬ。
  みさかえの かがやきに
  つみの雲 きえにけり。」

 ――その「主」とは、必ずしも具体的にイエス・キリストが思い浮かぶわけではない。が――そのときのことを、私は次のように書いています。

≪今、私は生きているのだ! 生命なのだ! 生命は、力は、出せば出すほど無限に湧いてくるのだ! 力は出さなければ損なのだ、と感じられるのでした。心臓が高鳴るほど、うれしくて、うれしくてたまりませんでした。

 一所懸命働いてひとくぎりしてから家に入って見ますと、いつも掲げられている祖母の写真が、ニッコリと私の方を見てほほえんでいるように思われました。

 「それ罪の払う値は死なり、されど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠
(とこしえ)の生命(いのち)なり」(新約聖書「ロマ書」6-23)

 という聖書の言葉が、私の中によみがえって、「ああ、私は永遠の生命なのだ!」という喜びが湧いてくるのでした。≫


 ――その「主」、「永遠の生命」とは、「久遠の今」なる宇宙大生命、生命の実相なのだ! ということが、『生命の實相』を読み、生長の家の教えを学ぶことによって、わかってきたのであります。永遠のキリストが、罪なき聖なる生命が、わが内に宿っていたのでした!

 「ひるとなく、よるとなく
 主の愛に まもられて、
 いつか主に むすばれつ、
 世にはなき まじわりよ。」

 この「世にはなき」の「世」とは、現象世界のこと。現象世界は“映し世”すなわち影の世界であって、夢まぼろしのごとく儚(はかな)い世界である。「久遠の今」なる、時空を超えた本源世界なる親神様との一体感こそ、「世にはなき まじわり」なのです。

 私は、高校2年生の時にその霊的体験をした時から、「ひるとなく、よるとなく 主の愛にまもられて」 生かされてきた。ありがとうございます。ありがとうございますと、感謝の思いに満たされています。そしていのちあるかぎり、いや、何回でも生まれかわり生まれかわりして、この「万教帰一」の生長の家の真理をひろめ伝え、地上に神の国を実現してゆきたいと思います。

 ありがとうございます。

  (2015.6.28)
65 「龍となれ、雲自ずと来たる」 82歳の覚悟


 明日、6月28日は、岡 正章 満82歳の誕生日です。

 「みすまる宣言」 に採用させて頂きましたように、武者小路実篤は、

 82歳にして 「龍となれ、雲自ずと来たる」 という色紙を書いています。

 私も、それを書いた時の武者小路実篤と同じ年齢になるのです。

 その 「龍となれ」 の色紙を手にした森ビルの社長森稔氏は、

 「龍は天高く昇り、その眼は遙か遠くまで見渡す。孤立しているように見えても、高い志で理想を説き続けていけば、同志は自然に集まってくる」

 と解釈して、武者小路がユートピアの実現を掲げ「新しき村」をつくろうと行動を始めた時の思いを実感し励まされながら、約20年かけて東京・赤坂に「アークヒルズ」の大型再開発の夢を実現させたという。
(日本経済新聞「こころの玉手箱」より)

 吉田松陰先生は、

 「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。

 死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし。」

 と言われた。

 私には、まだ今生での使命がある。

 それは、「生長の家」 立教の本来の使命を明らかにすること。

≪人間は、イエスが説いたように、みんな “神の子” である。

 釈迦が宣言したように、“天上天下唯我独尊” の仏である。

 日本神道のことばで言えば、天照大神の御子、日子・日女である。

 “地球のガン” ではない。

 釈迦が悟ってみたら “山川草木国土悉皆成仏”

 ――山も川も草も木も国土も、悉く皆成れる仏であった。

 神・自然・人間が不調和になっていると見たのは、迷いだったのだ。≫

 という根本実相、「久遠の今」 に立ち、『生命の實相』 に還ること。

 
イエス・キリストが 「み心の天に成るがごとく、地にも成らせ給え」 と祈るように教えた、その「み心の天に成る」神の国は、すでに一切のものが一つのいのちの分かれとして協力し合い、中心帰一している大調和の世界である。

○生長の家とは、建物の名ではない。「和」の名であり、「愛」の名である。(『光明道中記』34頁より)

○分裂がない、対立がないのが生長の家であります。

○だから、生長の家は永遠なのであります。

 その「神の国」は、神のみ心(実相世界)においてすでに成就しているから、それはやがて必ず顕れざるを得ないのである。

 それを信じ、その実現には20年かかるかも知れないが、「一切は自分である」 との自覚のもとに、楽しく勇猛果敢に行動してまいります。

 ありがとうございます。

  (2015.6.27)
64 「憲法復元改正は宗教運動」という根拠について


 「ひろば」の49番目に、Oyaoya 様から≪憲法復元改正運動は「宗教運動」でしたか≫との投稿を頂きました。

 私がそう思う根拠を示させていただきます。

 谷口雅春先生は、次のようにご教示下さっています。

          


  『聖なる理想・国家・国民』 p.18~

    1 人間として最も高貴なる生き方

 (前略) 釈尊が尼蓮禅河の畔の菩提樹下に結跏趺坐して悟りをひらかれたとき、釈尊は、すべての存在が、山も川も草も木も国土もことごとく物質でない事を感得せられたのであった。この悟りが「山川草木国土悉皆成仏」という語で表現せられているのである。

 この語の中には国家も単なる国土ではなく仏(宇宙の本体)のいのちの現成であるという意味が含まれているのである。

 “宇宙のいのち”すなわち宇宙大生命が展開している“純粋世界”が“実相世界”である。“純粋世界”は物質ではないから肉眼には見えないのである。

 この“純粋世界”のことをキリストは“天”とか“天国”とか、“神の国”とかいう語をもって語られた。
 キリストが「みくにを来らしめ給え。み心の“天”に成るが如く地にも成らせ給え」と祈れと訓えられたのは、この“純粋世界”の写象として、純粋世界そのままの姿が、“地”すなわち現象世界に、実現するように祈るように勧められたのである。

 この純粋世界は、神の創造になる世界であり、神の愛と叡智と生命力との展開せる世界であるから、神が唯一の中心であり、すべての生物、すべての存在ことごとく、秩序整然として一つの中心に帰一して、各々その天分に従って、互いに扶け合い、大調和せる生かし合いの世界であるのである。多元中心の世界の如きは、互いにその覇を争うために、権力闘争の世界を展開して永久に平和の世界を実現することはできないのである。


 (昭和38年2月28日 生長の家全国代表者会議ご結語
   『生長の家四拾年史』より)

    「国家の成仏ということ」

「“人間神の子”を説く宗教は他にもある。“肉体も環境も心の影”と説く宗教もある。万教帰一だから根本は同じである。だがそれでは、とくになぜ生長の家が出現したのか。生長の家の神は住吉大神である。その住吉大神が、なぜ今ここに、日本の国土にこの時期に現われ給うたのか。そこが非常に大切なところである。

 『古事記』 に示されるごとく、住吉大神は天照大御神の御誕生の直前に現われられた。最後の宇宙浄化の働きとして、宇宙の大神が住吉大神と現われ給うたのである。

 天照大御神の御誕生とは、日本の実相の誕生ということである。日本なるものの魂が具体的に宇宙を照らす光となるということである。この直前に、最後の浄化の働きとして住吉大神が今ここに現われ給うたという、ここに生長の家出現の真意があるのである。

 ただ単に、人間は神の子であり、物質はない、肉体はない、病気は治るという、それだけのことではないのであって、天照大御神の光が宇宙に天照らすべく、天皇陛下の御稜威を発現せしめて、日本の国を救い、世界を救うというところに、生長の家出現の本当の意義がある。

 したがって、たんに個人の救いにとどまらず、宗教的自覚をおしすすめて、国家の成仏、人類全体の成仏、宇宙の成仏というところまでゆかなければならないのであって、そのひとつが政治活動なのである。」

          ○


 上記ご教示を拝読し、あわせて[61]で引用させて頂いた 『女の浄土』 第十九章のご教示を拝読すれば、憲法復元改正運動をすることが「国家の成仏」のための運動であり、宗教的自覚の展開であって、宗教運動である事がわかると思います。憲法を復元改正し、中心帰一の 「みこころの天に成る神の国」 を実現することは、生長の家立教の使命であります。

  (2015.6.26)
63 生長の家立教の使命達成のために


 「ひろば」の48番目に、「今起とう」様の投稿を頂きました。

       *************


今、起ちましょう!
<2015.6.24 今起とう>

…(前略)…時あたかも、生長の家相愛会会則が改定されました。
(平成25年5月26日の統括実行委員会で審議され、平成25年6月6日
生長の家の総裁承認)

「生長の家相愛会会則」 (目的) 
第3条  本会は、男性信徒による生長の家人類光明化運動・国際平和信仰運動の
普及推進機関として、宗教法人「生長の家」「国際本部」(以下「本部」という)の意図
方針に従い、社会各層、地域社会、各職場、各家庭にくまなく光明思想を浸透せしめ、
生長の家立教の使命達成を図ると共に、神・自然・人間が調和し た“新しい文明”の
構築に貢献することを目的とする。

とあります(この変更は、今回の岡先生の件を念頭においていると思います)。

       *************

 「今起とう」様のご心配、ご愛念には感謝いたします。

 しかし、変更された会則でも、

 「社会各層、地域社会、各職場、各家庭にくまなく光明思想を浸透せしめ、
生長の家立教の使命達成を図ると共に、神・自然・人間が調和した
“新しい文明”の構築に貢献することを目的とする。」

 とあって、
「生長の家立教の使命達成を図る」というところは削除されていませんから、特に問題はないと思います。

 憲法を復元改正し、中心帰一の 「みこころの天に成る神の国」 を実現することは、生長の家立教の使命である。その「使命達成を図ると共に、神・自然・人間が調和した“新しい文明”の構築に貢献する」 ということで、真理を説き続けてまいりましょう。

 「ひろば」の(45)で、「憲法復元改正運動は思想運動」 と Oyaoya 様が投稿されましたが、憲法復元改正運動は、単なる思想運動ではなく、生命の實相哲学=真理 に根ざした思想運動であり、神の国・仏の浄土実現のための宗教運動であると思います。

 ありがとうございます。

 ちょっと余談ですが、今朝の日経新聞「交遊抄」のコラムに、「愛の陶芸家」と題して、「おか・まさあき(岡正朗)」山口大学学長さんが書いていらっしゃいました。「伝統ある萩焼の世界で、愛をテーマに斬新な作品をつくり続けておられる陶芸家、三輪休雪さんと仲よくさせていただいている」というエッセイで、「先日、萩市の窯を妻と訪ねた際、……」と書かれていました。私も先日(6月21日)妻と萩市を訪ね、萩焼も鑑賞していましたので、シンクロニシティ(共時性)を感じたことでした。ありがとうございます(笑)。

  (2015.6.25)
62 わが国の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。(その7)


 いま、私は倉山満氏――精力的な新進気鋭の憲政史家――に注目しています。

 その近著 『帝国憲法物語』 の終章「なぜ日本国憲法が駄目なのか」というところに、

 
「二、カルト的な八月革命説を流布した東大憲法学――宮澤俊義の詭弁と矛盾」

 と題して、次のように書かれています。

       
***************

 戦後憲法学の開祖である宮澤俊義東大教授は、高らかに日本国憲法の意義を破天荒に誇る。八月革命説である。

 宮澤、曰く。

一、大日本帝国憲法(帝国憲法)では、主権が天皇にあった。
二、帝国憲法では、天皇主権は国体そのものである。
三、天皇主権は、いかなる憲法改正でも変更できない改正の限界であった。
四、ところが、昭和二十年八月のポツダム宣言受諾により、
   天皇の主権は連合軍の制約下に置かれることとなった。
五、結果、国民主権の日本国憲法が制定された。
六、本来は改正できないはずの国体変更がなされた。
七、これは天皇から国民への主権の変更であるから、革命である。
八、日本国憲法は革命によって成立した、革命憲法である。

 そして、今に至るまで無数の批判を浴びながらも、通説としての地位を保っている。のみならず、八月革命説を出発点とする東大憲法学は、日本中に定着している。小学生が受ける中学受験をはじめ、高校入試や大学入試で日本国憲法は頻出問題である。司法試験、国家・地方の公務員試験、教員採用試験と、日本国の指導者になろうとするものが受ける試験でも憲法は頻出問題であり配点が高く、そこにおいて東大憲法学が正解とされる。通説であるとは、そういうことである。
 マッカーサーやケージスが去った後にも、宮澤憲法学は生き残り、その教義は日本を支配している。

   帝国憲法を「天皇主権」と騙る詭弁の極致

 だが、宮澤の唱えた八月革命説の理論的根拠はまったくない。単に占領軍の権力を後ろ盾に、彼らがいなくなった後も東大法学部教授の権威を利用して、通説の地位を占め続けただけだ。
 八月革命説を八点に分けて説明したが、詭弁の極致である。

 第一に、帝国憲法にはどこにも「天皇主権」などと書いていない。明記されているのは統治権の所在だけである。国内法における主権とは絶対主義の国王の権力をさすが、伊藤博文ら帝国憲法の制憲者たちは慎重に「主権」の語を避けた。天皇は実際に権力をふるう絶対君主ではなく、国家儀礼を行ない、それに権威を付与する存在が立憲君主であると考えたからだ。この思想は美濃部達吉が唱えた戦前の通説にも受け継がれている。

 よって、第二に「天皇主権」が国体であるとの結論は自動的に崩れる。

 だが、仮に統治権と主権を同じものと看做す立場で議論を進めよう。

 第三の、「天皇主権」を「天皇の統治権」と読み替えると、確かにこれは通説でも有権解釈でも採用されていた説である。ポツダム宣言受諾に際しても、国体の護持とは天皇の統治権だと解されていた。少なくとも政官界(軍を含む)の多数派は、そう考えていた。ただし、それは狭義の解釈であり、広義には皇室の存続であると看做されていた。

 第四は、主権の語にこだわらなければ事実である。遺憾ながら、天皇も含め日本国全体が占領軍の強い制限化に置かれた。国家主権そのものを喪失してしまった。

 第五は、誰もが否定しようがない事実である。日本国憲法は国民主権を明記した憲法である。

 だが、第六は議論の余地がある。第三の「改正の限界」の議論を前提としているので、そちらを考察せねば軽々に結論は出せない。現に、日本国憲法制定時には、国体が変更されたか否かに関して、多くの議論があった。

 第七に至っては、まったくの誰弁である。もはや日本語すら変更している。外国占領軍による革命など、概念として破綻している。

 なお、天皇主権と国民主権で意味が違っている。
 日本国憲法学では、国際法の意味以外に、主権を「統治権の所在」と「国政の最高決定権」の意味で使っている。天皇主権の場合は前者であり、国民主権の場合は後者である。
 たとえば戦前でも、「憲政の常道」が強力な憲法習律として確立していた時代には、後者の意味での主権は明らかに国民にあったことになる。

 しかし、その時代でも、統治権の総攬者としての天皇は不動である。総選挙によって示された国民の意思により総理大臣が選定された時代、「国政の最高決定権」は国民にあった。だが、いかに天皇が国民の意思に拒否権を行使しない慣例(それが超強力な場合、憲法習律と呼ばれる)が確立していると言っても、形式的には御名御璽が必要である。天皇の署名と印鑑がなければ国民が選んだ総理大臣は任命されない以上、「統治権の所在」は天皇にある。

 このように、「統治権の所在」と「国政の最高決定権」は矛盾ではなく相互補完関係にある。
 それを対立概念であるかのように印象操作した宮澤の詭弁は何なのか。

 第八は、まつたく事実に基づかない。「日本国憲法は革命によって成立した、革命憲法である」など、宮澤個人の脳内革命に過ぎない。単なる宗教的イデオロギーである。

 ただし、この宗教的イデオロギーにも似た珍説は、狂信者たちの熱狂を得て通説の地位を得ている。
 いわゆる護憲派のみならず、イデオロギーと無縁な司法試験受験生も、八月革命説の論理的妥当性と正統性を信じている。なぜか。

 他の三説と違い、積極的意義を唯一説明できるからである。

 日本有数のフランス憲法の専門家でもあった宮澤は、フランス革命を日本国憲法に投影させた。彼は人権の母国とされるフランスのような、革命によって成立した素晴らしい憲法だと言いたいのである。

 「革命」の一語にエクスタシーを感じるような、常識人から逸脱した論理への狂信者の熱狂こそが、八月革命説の根拠なのである。これは学問ではなく、カルト宗教だと認識しなければならない。そうした何度もなされてきた批判を跳ね返し、この説は自己を守ってきたことを理解せねばならない。

   矛盾だらけの「三大原則」を祭り上げた神学の罪

 宮澤俊義は、マッカーサーやケージス以上に「日本国憲法の教祖」と呼ぶにふさわしい。

 幣原内閣がマッカーサーの示唆により松本蒸治を長とする委員会を結成して憲法改正調査に着手した際、助手役を務めたのが宮澤である。松本案は現在の憲法学のほとんどすべての教科書で「しょせんは明治憲法の焼き直しに過ぎなかった」と嘲笑されるが、その焼き直し作業の中心人物が宮澤なのである。宮澤は、松本がGHQに忌避されることを知るや手のひらを反して、帝国憲法の首切り役人を買って出ているのである。

 宮澤は貴族院議員として憲法改正審議にかかわるだけでなく、占領軍との折衝も行なっている。議員としての宮澤は、占領軍・日本政府・学識経験者の問を調整し、自らが制憲者ともなっているのである。

 文部省はパンフレット「あたらしい憲法のはなし」を配布し、新憲法の思想の普及に努める。新憲法の思想とは、同書の見出しとなっている「民主主義とは」「國際平和主義」「主権在民主義」「戦争の放棄」「基本的人権」のことであり、これが今やいかなる憲法改正によっても改正してはならない「三大原則」とされていく。「平和主義」「人権尊重」「国民主権」である。

 日本国憲法の条文中、平和主義(戦争放棄)は前文と九条に、人権尊重は十一条と九十七条に、国民主権は前文と一条に書かれている。これらバラバラな場所に書かれている内容が、今や三大原則として定着している。宮澤憲法学では、これら三大原則は矛盾することはなく存在し、いかなる憲法改正であっても変更してはならない原則だと教えられる。
 その論理的妥当性はともかく、宮澤の教えは完全に定着した。

 自民党案や産経新聞案を見よ。代表的な改憲案には、平和・人権・国民主権は必ず盛り込まれている。これは今に始まった現象ではなく、占領明け当初に改憲が議論された時から、「いかなる憲法改正でも変更できない守るべき理想」とされてきた。

 では、この三大原則とやらは本当に守るべき理想としての価値があるのか。一冊をかけて論じた課題であるので、ここでは多言はしない(長谷川三千子との共著『本当は怖ろしい日本国憲法』)。

 ただ一つだけ述べておこう。
 何の罪もない人がさらわれ、いつ殺されるかわからない暮らしを強いられている北朝鮮拉致問題は、完全に人権侵害である。一人の権利を守るために総力を挙げるのが主権国家であるならば、話し合いで解決しない以上、戦争をも辞さない覚悟で交渉に臨むのがまともな国である。ところが、我が国は無理やり理由を見つけて武力の行使だけはしないと決めている。拉致された被害者や家族の人権を見捨てたうえでの平和主義である。国民の多数がそれを是としているのが、戦後民主主義の姿である。

 つまり、三大原則は既に矛盾しているのである。だが、東大憲法学が通説の地位にある限り、その矛盾の指摘が多数の声となることはない。

   「まだ、あんな憲法を使っていたのか」

 かくして宮澤神学が定着した。現代日本で巨大な影響力を誇る東大憲法学とは、宮澤神学である。いかなる改憲案も宮澤の呪縛から逃れていない。

 そして、帝国憲法は葬り去られた。大日本帝国の盛大かつ陰惨な葬式は、“ダグラス教”の総主教とも言うべき、宮澤俊義の手によって執り行なわれた。

 朝鮮戦争発生以後のダグラスは日本国憲法の足かせに苦しみ、「逆コース」と呼ばれる政策を行なうも、本国に召還された。日本国憲法制定の実務担当者だったチャールズ・ケージス民政局長も、訪れた日本人を相手に「まだ、あんな憲法を使っていたのか」と絶句したという記録が残っている。

 マッカーサーやケージスは制憲者として教祖や聖人であるかのように祭り上げられるのが常だが、彼らの意思をはるかに離れたところで、どこに毒が回ったのか。
 日本人全体に、である。
 日本国憲法の毒は定着している。


三、日本国憲法の手続きで日本国憲法を葬り去れ――自主独立の国への道

 日本国憲法は、強姦憲法である。その強姦憲法を、正統嫡子として七十年間も尊重し続けてきた。では、その強姦憲法と今後どうつきあっていくべきなのか。

 護憲は論外である。革命憲法として崇拝するのも、惰性として押し戴くのも、もはや限界が来ているのは、よほどの狂信者以外には明らかだろう。

 日本国憲法の改正はどうか。三大原則を墨守して、日本国憲法を改正するなど、恥の上塗りである。まさに「戦後のレジーム」の固定である。

 では、破棄論はどうか。これは原理的に不可能であり、危険である。

 ならば、どうするべきなのか。

 日本国憲法の改正手続きに従って、帝国憲法を復活させるべきである。

 真正面から帝国憲法の改正案を国民に訴えればよい。日本国憲法の改正手続きに従って。特に「平和」「人権」「国民主権」の語は、その改正案中でも絶対に使うべきではない。帝国憲法が帝国憲法の改正手続きで葬り去られた逆をやり返せばよいのだ。

 日本国憲法の改正である以上は三大原則を守らねばならないというのも、日本国憲法にとらわれない日本人自身の自主憲法を制定するには破棄論しかないというのも、いずれも宮澤俊義の仕掛けた罠に嵌っているのである。

 すなわち、憲法の改正には限界があり、特に「平和主義」「人権尊重」「国民主権」は絶対に変更してはならないとする学説である。では三大原則の根拠は何なのか。その根拠のいかがわしさと、現実の国家経営には何の役にも立たない点は既に述べた。宮澤“神学”の教義に過ぎないのである。

   日本国憲法にとらわれない憲法論議こそが自主憲法への道を開く

 帝国憲法は、その改正手続きによって葬り去られた。
 ならば、同じように日本国憲法も葬り去れるはずだ。
 宮澤神学による三大原則こそが何の根拠もない単なる虚構であると自覚し、日本国憲法の条文にとらわれない憲法論議によってこそ、日本人の憲法が復活できる。

 我々は恥ずかしい時代を生きている。日本建国より初めて外国軍隊に占領され、その押し付けてきた憲法を押し戴いている。
 これを先祖と後世に恥じることが、自主独立の国になる第一歩なのだ。

       ***************


 以上は、倉山満氏著 『帝国憲法物語』 からの抜粋でした。
 倉山氏の著書シリーズは、今よく売れているようです(1年以上前に、「著者シリーズ25万部突破」と謳われていた)。

 イエスは、

 「われら神の国を何になずらえ、如何なる譬えをもって示さん。一粒の芥種
(からしだね)のごとし、地に播く時は、世にある万(よろず)の種よりも小さけれど、既に播きて生え出づれば、万の野菜よりは大きく、かつ大いなる枝を出して、空の鳥その蔭に棲み得るほどになるなり」 (マルコ伝第4章30~32)

 と言っています。

 神の国は、現象界では一粒の芥種のように小さく見えていても、必ず大きく育って、空の鳥がその蔭に棲み得るほどになるのである。

 その時は、必ず来るのである。

 それを信じ、谷口雅春先生のお教えを信じて、私たちはしっかり勉強を続け、真理を説き続けてまいりましょう。

  (2015.6.25)
61 わが国の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。(その6)


 谷口雅春先生は 『女の浄土』 第十九章に、憲法問題ついて、次のようにご教示くだっさっています。(同書318頁~)

          ○

   日本の本当の建国は何時か

 日本国の建国はいつの時代かという問題は建国記念日制定以前から色々の論があり、建国記念日制定後にも尾を曳
(ひ)いている問題でありますが、コトバが神であり、神はコトバと偕(とも)にあり、一切のものはコトバによって生じたという哲学から申しますと、日本の建国は、宇宙の大神にまします天照大御神が

 「豊葦原の瑞穂
(みずほ)の国は世々わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき国なり」

 とコトバによって宣言された時に日本国は、「神のコトバの世界」即ち「理念の世界」に於て成立したのであります。

   理念とは如何なるものか

 もつとも「理念」というものは、コトバ即ち「神の生命の智的表現としての振動」即ち神の心の中に想い浮べられた“形相”でありますから、それは物質的形相ではありません。従って縦横厚みの三次元的な空間的大小のひろがりをもっていません。すなわち物質的な形や大きさを抽(ぬ)きにした超空間的な純粋な形相であります。だから、その理念が現象面に投映して来る場合には、大にも小にも顕われて来るのであります。

 天照大御神が天孫降臨の神勅に於て仰せられた「豊葦原の瑞穂国」というのも色いろの解釈がありますが、これは大には現象宇宙ぜんたいを表わしており、国家的には日本国を表現しており、極微の世界に於ては物質原子の構成をあらわしていると見ることができます。

 というのは、瑞穂国というのはこれを哲学的に解釈いたしますと水火国
(みずほのくに)ということになります。“水”は陰の象徴であり、“火”は陽の象徴であります。陰陽の組合せによる結合によって出現したものはすべて、大小に拘らず水火国(みずほのくに)であります。大は太陽系統から、小は物質原子に至るまで、すべて水火国であります。国家も家庭もすべて陰陽結合によって成り立つ水火国であります。

   瑞穂(みずほ)の国の根本構図について

 その水火国
(みずほのくに)が如何なる形相をもつべきか、換言すれば如何なる構造であるべきかの、根本構図として示されたのが、「世々わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」というコトバであります。これは

 「この根本構図は、一切の存在は世々変らざる即ち永久不変の中心をもつべきものである」

 という意味であります。

 これが宇宙の大神たる天照大御神の御宣言なのであります。それは宇宙の大神の御宣言でありますから、宇宙の万物すべてのものにあらわれている存在の根本構図の原理であります。

 だから吾々が知っている最も小さな存在たる“原子”も、原子核という永久変らざる中心をもっているのであります。原子が原子としての存在を保っているのは、原子核という「永久変らざる中心」があるからである。原子核を中性子で攻撃して、核を破壊してしまえば、もうその原子は爆発して飛んでしまって存在しなくなります。

 太陽系統も、太陽というその系統の「永久変らざる中心」があるのでその存在を保っているのであって、何らかの原因で太陽が爆発して飛んでしまったり、消えてしまったら、太陽系をめぐる天体は、中心を失って存在しなくなる。無論、地球は単なる“死天体”として冷却して、一切の生物は存在し得なくなります。

 家庭も、家長たる父又は良人がその家庭から姿を消すと、従来の安泰平和な状態を失って、家族が四分五裂してしまう。

 国家も日本天皇の如き万世一系の変わらざる中心が無くなってしまえば四分五裂して、ソ連や中共の革命当時のような混乱状態が起るのは必然であります。

 そしてその混乱は一時的なものではなく、絶えず強者が弱者を倒して易姓革命が起り、王朝が変り、インドネシアのような状態や、中共の紅衛兵旋風に類するものが起って存在の安定が失われてしまうのであります。

 このようにすべての存在は、永久変らざる中心を持つことによって、その存在を維持しているのであります。

 ところが現行の憲法では、国家の中心である天皇を象徴と称して半ば破壊し、“家”の制度を根本的に破壊した。家長とか戸主とかいうものはなくて唯夫婦単位に、陰陽がただ集まっているのが家庭であって、中心というものはない。恰度それは分子を滅茶苦茶に集合さしただけであるから、親の言うことをきく必要もなければ、親孝行する義務もない。夫に操
(みさお)をつくすという要請もない。ほかに好きな男が出来たら離婚するのは自由だというようにできている。中心のない家族雑居は、もう既に「家」ではないのであって、それはただの下宿人の集りである。太陽を失った遊星のようにみんな冷えつつある。

   速かに明治憲法復元の必要に迫られている

 (中略)今のうちに現行の憲法が本当の憲法ではなく、占領中に日本を弱体化する政策上押しつけられた“占領行政基本法”であることを明かにして、占領終了と同時に失効せるものであり、その失効と同時に、明治憲法はそのまま生きているということを宣言すべきなのであります。

 つまり、国家にも永久かわらざる中心が万世一系の天皇の形によって持続することによって、一切の存在が「永久変らざる中心を持つ」という天意の実現せる唯一の国家が日本国家であって、若
(も)し、この日本国家に天皇がなくなれば、すべての存在には永久変らざる中心があるという神の宇宙創造の基本形態が国家だけには当てはまらず破壊されることになります。

 今こそ吾々は神意を実現せる真理国家こそ日本国家であるという日本国家独特の神聖性を明かにするために明治憲法復元に踏み切るべき時であります。

 こう申しますと、私の言うことは非常にナショナリズム的に他から観られるかも知れませんが、海外の書籍などにも生長の家はナショナリズムにつながるというような紹介記事を書いたものがありますが、世界的に組織をもち生き生きと活動しているアメリカの新しいキリスト教リリジヤス・サイエンスの理事長であるウィリアム・ホルナディ博士が数年前見えたときに、その事について質問せられたことがあります。その時に私はこう答えたのであります。

 「イエスの教えた模範的祈りの“主の祈り”に於て“天にまします吾らの父よ、御名
(みな)をあがめしめ給え、御国(みくに)を来らしめ給え。御心(みこころ)の天に成るが如く地にも成らしめ給え”と祈るように教えられているのであるが、天には唯一つの永久変らざる神がいらっしゃって、すべてのものがその唯一つの神の御心に帰一しているのでありましょう。そうすれば、天にそのように御心の成るが如く地にも成るとすればその御心が地上に成り、その御心が国家にあらわれるならば、永久変らざる中心が国家にも成就しなければならない。そのような永久変らざる中心である万世一系の天皇をもつ国は日本だけであって、国家としては最も神意にかなう形態をととのえているのが日本国家である」と申上げたのであります。すると、ホルナディ博士は大いに頷(うなず)いて賛成の意を表されたのであります。

 だから 『古事記』 『日本書紀』 等の示すところの天皇中心国家というものはキリスト教の示す世界観又は国家理想とも完全に一致するものであります。これをナショナリズムだ軍国主義だとキリスト教側から反対されるのは理窟に合わないのであります。


          ○

 以上は、谷口雅春先生著 『女の浄土』 第十九章からの引用でした。

 <つづく>

  (2015.6.25)
60 わが国の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。(その5)


 「ひろば」の47番目に、トレモス様が、
 「実相を人々に伝えることが生長の家出現の目的」
 というタイトルで、次のように投稿されました。

       *************

尊師谷口雅春先生がこの世に出現したのも、釈迦やキリストが出現したのも、
存在の実相を人々に知らせ、罪と病と死との非実在を明らかにせんがためであったと
思われます。

ですので、環境問題を説くとか、原発に反対するとか、ノ―ミート料理を広めるとか、
そういうことが 生長の家出現の目的ではないのであります。
私たちは、この最初の目的である
「罪と病と死との非実在を明らかにする」
ということに徹底すべきです。
それは「実相独在」ということです。

目下のところ、というよりもいつの世も、罪と病と死とがいわゆる人生苦であって、
これを先ず解決しないことには 他のことにまで行かないのです。
実相というものがあることを 人々に知らせるということが、
人類光明化運動の基本です、目的です。
(2015.6.24 トレモス)


       *************

 谷口雅春先生は 『光明道中記』 に、次のように書かれています。

     ***********

  一月十日 自在を得る日

 空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず、……空間の上に投影されたる生命の放射せる観念の紋、これを称して物質と云う。(『甘露の法雨』)

 (中略)
 生命はそのように、無空間の無限相の存在であると云うことが判れば、此の肉体の何処にも自分の「生命」は無く、無空間の世界から、空間面に肉体と云う反影(リフレクシヨン)を投げかけているものが生命だと知れるのである。だから生長の家では「肉体はない、生命のみある」と言うのである。

  一月十一日 天地の法輪を聴く日

 全世界は如来の転ずる法輪である。大法輪が実在の宇宙である。(『驀進日本の心と力』)

 (中略)
 大宇宙は「神の心」の展開なり。肉体は「個の心」の展開である。神の心の波さながらに生きることを法爾(ほうに)すなわち「法さながら」に生きると言い、神随(かんなが)らに生きると言う。「個」の心が「神」の心に融合するなり。「個」が「全体」を背負って立つなり、「永遠」を背負って立つなり、無窮を背負って立つなり。茲(ここ)に於て恐怖なし。

 宗教とは「個」が「永遠」と「無窮」とにつながる意識なり。具体的「永遠」とは「皇位」なり、具体的無限とは日本国なり。具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。

  一月二十三日 寒菊競い開く日

 十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするが日本の使命である。(『秘められたる神示―神示講義〈秘の巻〉』「久遠天上理想国実現の神示」)

 全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。

 理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交(こう)叉(さ)する万象発現の枢機を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇の御天職である。此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。

 全世界は天皇に於て一宇である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用に過ぎない。

 天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、真理の中には病気不幸は存在しないが故に、病気不幸が消えるのは当然のことである。病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。省みて真理に載るものは幸である。

     ***********


 ありがとうございます。

 トレモス様が、「実相というものがあることを 人々に知らせるということが、人類光明化運動の基本です、目的です。」

 とおっしゃっていますが、その「実相」とは、上記のお教えにある「真理」であると思います。

 上記の「一月二十三日 寒菊競い開く日」のご文章は、本サイトの『何処へ行く?「生長の家」』のページ 第一部 谷口雅宣総裁への公開質問 [質問1] の最後のところにも掲げ、

≪ これは『生命の實相』の真理――唯神実相の実践哲学――と表裏一体をなすところの永遠に変わらざる生長の家教義の中心部分、すなわち“宗教目玉焼き論”から言えば“卵の黄身”にあたるところであって、時代の移り変わりによって変化する“周縁部分”ではないと思います。

 マタイ伝第5章13節に、

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々に前に輝かしなさい。あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 とあります。前記

 「十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするが日本の使命である。」

 「全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。……全世界は天皇に於て一宇である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。」

 というところは生長の家の教義の中心部分であり、生長の家出現の目的、使命である。これをなくせば塩に塩気がなくなったと同様、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」になってしまうのではないか、と私は思います。

 私は、間違っていますでしょうか。≫


 と質問申し上げているのに対し、3ヵ月以上経ちましたが 「それは間違っている」 というお答えは頂いておりません。したがって、これは正しいのであると私は信じております。

 <つづく>

  (2015.6.24)
59 わが国の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。(その4)


 日本国憲法を改正しなければいけない最大の理由は、そこに盛り込まれた原理そのものに問題があるからであり、さらに言えば、日本国憲法が「憲法」だと自称していることそれ自体のうちに、根本的なウソがひそんでいるからなのです。

 その意味では、70年近くもこのような憲法を放置してきたのはなんたることか、と居ても立ってもいられなくなるような憲法が日本国憲法なのです。

 けれども、そのことを国民全体がしっかりと認識しているかといえば、決してそうではない。そもそも、いまの日本の「憲法学」なるものが、現行の日本国憲法を大前提として、それをどう解釈するか、それについてどのような判断があるか、といったことばかりを研究する学問となっているからです。そもそも日本国憲法がどれほど問題だらけの憲法なのかということは、怖ろしいことに「憲法学」の中ではまともに取り上げられない、というのが実情なのです。(長谷川三千子氏、『本当は怖ろしい日本国憲法』<倉山満氏と共著>より)

 日本人は、前文と百三条の条文からなる日本国憲法が日本の憲法のすべてだと思っている。しかし、これこそが日本国憲法に縛られているということなのである。

 日本国憲法学では「帝国憲法は悪魔の憲法」の如く扱われますが、実際は反対です。帝国憲法こそ、日本国の歴史と文化と伝統に則ったまっとうな憲法であり、世界標準の文明国の通義にかなった憲法なのです。(『帝国憲法の真実』倉山満著より)

 自民党に代表される改憲派の致命的な欠陥は、当用(現行)憲法の改正しか考えていないことです。しょせん当用憲法はマッカーサーの落書きにすぎません。落書きをどういじっても、落書きは落書きです。ピカソにはなりません。ましてや葛飾北斎には絶対になりません。
 そもそも自民党は「自主憲法制定」を掲げて設立された政党です。「占領憲法の改正」とは違います。なぜマッカーサーの落書きをいじることに終始して、自分たちの憲法を考えようとしていないのか、不思議なところです。(『間違いだらけの憲法改正論議』倉山満著より)

 ところで――

 井上孚麿先生の現憲法無効論(谷口雅春先生もこれを採用して「占領憲法破棄・帝国憲法復元」 を叫ばれた)は法理論としてまことに正しい 。憲法というに値しないマッカーサー占領基本法(倉山氏は“強姦憲法”ともいう)の三大原則(平和主義・人権尊重・国民主権)を墨守して「日本国憲法」を改正するなど、恥の上塗りであり、「戦後レジーム」を固定することになるから間違いである。

 しかし、「いま『日本国憲法』を破棄するということは原理的に不可能であり、危険である」と倉山氏はいう。破棄した瞬間に国会議員や大臣、国会や政府の正当性まで失われてしまう。日本国憲法で選ばれた国会議員や政府の大臣が、どうやって日本国憲法の破棄をできるのか。

 過去、憲法・法体系を全部無効宣言するようなことをやった国はみな、流血の惨事をひきおこしている。憲法無効宣言により、それだけの危険を現在の日本が負うことができるのか?

 倉山氏は、「日本国憲法の改正手続きに従って帝国憲法を復活させるべきだ」 という。

 帝国憲法の復活こそが、「戦後レジームからの脱却」になるのである。

 それには、おそらくまだ20年はかかるであろう。私が生きているうちには叶わないかも知れない。しかし、

 「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし。」

 と言われた松陰先生の言葉のように、私も今できることを精一杯やり遂げて死にたいと思います。

 <つづく>

  (2015.6.23)
58 わが国の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。(その3)


 私事、20日朝から妻と共に2泊3日の旅に出て来ました。山口・萩方面へ。
 萩ではもちろん松陰神社に詣でて来ました。萩の松陰神社詣では数十年ぶりのことになります。 
(東京世田谷の松陰神社には、[12]に書きましたように、この5月初めにも詣りましたが。)

 読みかけだった倉山満氏の 『帝国憲法物語』 を携えて行き、機内や宿で空いた時間には一所懸命読みふけりました。この本は、単なる憲法論を超えた、『日本人がつくった世界史』の本のようでもあります。木戸孝允・高杉晋作・大久保利通など松下村塾で学んだ維新の志士たちが、松陰先生の言葉

 「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし。」

 を実行して、日本国家存亡の危機に対処し国を救ったことも、詳らかに記されている。

 萩の松陰神社では、松陰先生直筆 『至誠 二十一回猛士』 の複製色紙(左下)、『留魂録』 の直筆複製本など、数点の記念品・資料も購入して来ました。

 松陰神社境内に復元保存されている松下村塾の建物は、講義室が8畳ひと間のちっぽけなものだけれども、なればこそ、この小さな茅屋でわずか2年の教育から明治維新の大業を成し遂げた多くの志士たちが育ったということに、涙が出るほどの感動を覚えます。

 山口湯田温泉の宿でたまたま見たNHKニュースで、自民党が稲田朋美議員などの提起で、「東京裁判」の検証をする委員会を発足させることになったと報じていました。遅まきながら当然のことが始まったと、うれしく思いました。

 PCから離れた旅でしたが、22日午後、旅から帰ってきましたら、「ひろば」へ Oyaoya 様からの投稿文(45 「憲法復元改正運動」は「思想運動」)がメールで届いていました。

 その 「憲法復元改正運動」 について、いま私が鋭意勉強し考えていることを、しばらくここに書き記して行きたいと思います。

          ○

 まず、『帝国憲法物語』(倉山満著)等を読んで、憲法復元運動について考えさせられたこと。

 「憲法とは歴史そのものである。人智を超えた英知によらねばならない」(ローレンツ・フォン・シュタイン<1815~1890>ドイツの法学者・思想家)。

 大日本帝国憲法(明治憲法)は、皇室の祖先である神々に誓う形で制定された。前文にあたる「御告文」に、祝詞の形でそれが書かれている。明治天皇が、皇室を守る神々でもある歴代天皇(皇祖皇宗・皇考)に誓う形で始まる。それを現代語にして要約すると――

≪・これまで御先祖様より、宝物として日本国を無事に受け継いでまいりました。

 ・世の中の文化が発達しましたので、ご先祖様の教えを明らかにするために皇室典範と帝国憲法の形で示し、子孫たちが守るべきところとし、臣民たちが従うべき道を広め、国家の形をますます強くし、国民の福祉を向上させることになるでしょう。

 ・これすべてご先祖様以来の統治の規範を記したものに他なりません。

 ・ご先祖様のありがたさを祈り、わたくしが率先して現在と未来の国民のためにここで定めた典範と憲法を守ることを誓います。

 ・お守りください。≫


 ということ。

 なぜ大日本帝国憲法が日本の最高の法なのか。日本国の本来の主である皇室を継ぐ明治天皇が歴代天皇の霊に誓ったからである。それは、古事記神話に始まる日本の歴史そのものを体しているからである。……

 <つづく>

  (2015.6.22)
57 わが国の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。(その2)


 憲法問題(憲法復原論)についての古典的名著としては、井上孚麿(たかまろ)先生著『憲法研究』・『現憲法無效論―憲法恢弘の法理』 があります。前者は昭和34年(1959)政教研究会刊・神社新報社発売、後者は昭和50年(1975)日本教文社刊で、私は日本教文社勤務時代に最後の仕事としてこの後者 『現憲法無效論』 の編集を担当させて頂きました。何度か井上孚麿先生のご自宅を訪問して、お話を伺ったことがあります。

 井上先生は谷口雅春先生とほぼ同年代の明治生まれ、大正6年東大法科卒で外国留学もされたこの道の権威者。その『憲法研究』は谷口雅春先生が絶賛して『生長の家』誌「明窓浄机」欄に取りあげられ、井上先生は谷口雅春先生を深く尊敬しておられました。普段は歌人であり、すでに80歳を超え温和そのものの雰囲気だった井上先生が、やむにやまれぬ正義感と熱烈な愛国憂国の思いをほとばしらせて熱っぽく話されたこともあります。

 その 『憲法研究』 発刊以来半世紀以上経ったいま、井上先生が播かれた正論、真理の種子は、発芽し生長して、大きく育ちつつあると私は思います。

 新進気鋭の憲政史家、倉山満氏は、

 ・『間違いだらけの憲法改正論議』
<安部総理、改憲で日本は変わりますか? 2013年5月>

 ・『本当は怖ろしい日本国憲法』
<●凶暴な行動原理「国民主権」 ●暴走し無限増殖する「人権」 ●矛盾だらけの「平和主義」 2013年10月、長谷川三千子氏と共著>

 ・『帝国憲法の真実』
<気鋭の憲政史家が戦後最大のタブーに迫る! 2014年5月>

 ・『帝国憲法物語』
<なぜ、憲法の本で こんなに涙が出るのか? 2015年5月>

  
(いずれも< >内はオビの言葉)

 などの著書を出して精力的な活動を続けている。

 私たち(私も含めて)は、もっともっと視野を広げて勉強する必要があると思います。

 ネット上に、次のようなサイトもありました。

≪本当は怖い日本国憲法の話
いくそたび かき濁しても 澄みかへる 水やみくにの 姿なるらむ
http://go-home-quickly.seesaa.net/article/391640850.html

 大日本帝國の憲法学会を代表する憲法家の一人であった井上孚麿は、宮沢俊義の八月革命説(すでに恥かき革命説であるが)を戦後憲法学の通説にした違憲有効界の魑魅魍魎
(ちみもうりょう)たちに屈することなく、日本国憲法無効・大日本帝國憲法復原増補(改正)論を唱え続けた。

 そして南出喜久治弁護士が井上孚麿の衣鉢を継ぎ、従来の無効論に、さらに詳細な無効事由と、帝國憲法復原の具体的方法と日本国憲法下で成立した法令の安定性を維持する緻密な法理論を加えて、新無効論を完成させた。

 2011年11月16日、参議院自民党のエースである西田昌司議員の紹介により、日本の戦後史上初めて、日本国憲法の無効請願が国会に受理された。さらに衆議院自民党のエースである稲田朋美議員が正々堂々と日本国憲法の無効を公言した。
 日本国憲法無効論は衆参自民党のエースの支持を得るに至った。


 井上孚麿先生が『憲法研究』の本を書かれ、谷口雅春先生がそれを推称して正統憲法復原論の愛国書をたくさん出版され、世論喚起に命をかけて叫びつづけられた半世紀前には、それは天地をひっくり返すようなことで、到底不可能な夢物語と思われた。それが、今や新しい常識になりつつあるのかも知れない。そうして、それはやがて実現する時が来るであろうと、私は信じています。

 イエスは、

 「われら神の国を何になずらえ、如何なる譬えをもって示さん。一粒の芥種
(からしだね)のごとし、地に播く時は、世にある万(よろず)の種よりも小さけれど、既に播きて生え出づれば、万の野菜よりは大きく、かつ大いなる枝を出して、空の鳥その蔭に棲み得るほどになるなり」 (マルコ伝第4章30~32)

 と言っています。

 神の国は、現象界では一粒の芥種のように小さく見えていても、必ず大きく育って、空の鳥がその蔭に棲み得るほどになるのである。

 「現憲法擁護」などと馬鹿の一つ覚えのように言っている者は、やがて「時代錯誤」と言われる時が来るでしょう。いや、もうすでに来ているのかも知れません。

  (2015.6.20)
56 わが国の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。(その1)


 #51 「憲法守って国滅ぶ」 6月14日 で紹介させていただいた四宮正貴氏が、6月17日、「日本国体と西洋成文憲法」 と題して次のように書かれています。

     * * * * * * * * * * *


日本国体と西洋成文憲法   四宮 正貴
   https://www.facebook.com/masaki.shinomiya.1/posts/863860380367640

 憲法を論じるにあたって最も重要な前提は、西洋成文憲法は「権力に対する制限規範」ということである。イングランド最悪の王と言われるジョン王と諸侯との間で結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』という原則=『法は王権に優越する』という法治主義を確立した、とされる。「権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。その為に成文憲法が必要とする」という考え方である。これが西洋成文憲法の根底にある思想である。西洋の成文法は、人間相互の不信の上に成り立つものである。人間同士が信じ合えないから、成文法を作ってお互いにそれを遵守することによって秩序を保つのである。

 このような性格を持つ成文憲法に、神話時代に発生した悠久の歴史を有する日本国体を規定すること自体不自然なことなのである。つまり、日本の歴史と伝統そして日本国体は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋近代の成文法とは基本的に相容れないのである。

 日本国は信仰共同体であり、国民が契約を結んで人工的に作った国ではない。そして祭祀主である天皇は、国民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。これが日本肇国以来の国柄であり国体である。

 わが日本は、国家の本質と君主たる天皇の御本質が、建国以来、信仰的に厳然と確立している。これを法律論的に言えば、不文法によって定まっているということである。故に成文憲法でそれを変革することはできないし、成文憲法は不文憲法(立国の基本)に反する規定をしてはならない。西洋から輸入した近代法思想に基づく成文憲法によって立国の基本即ち日本国体を覆したり破壊してはならない。

 換言すると、天皇及び皇室そしてそれを中心とする日本国体は、成文憲法などの世俗的な法律を超越しており、成文憲法などの権力機関で制定された法律は、国体及び皇室にかかわることに干渉することはできないのである。

 日本天皇が日本国の君主・統治者であらせられるのは、日本の伝統信仰・歴史的な国体観念に基づくのであって、憲法に規定されているから天皇が君主であらせられるのではない。

 日本天皇の国家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の国体であり歴史である。また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが国における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどという事は絶対にあり得ない。また、わが国の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。

 近代日本の成文憲法即ち『大日本帝国憲法』の国体条項(第一條・第二條)は肇国以来の日本の国柄即ち日本国体を成文化したものである。

     * * * * * * * * * * *

 上記は、私が #51 「憲法守って国滅ぶ」 の結びに――

≪憲法があって、国があるのか?
 国があって、憲法があるのか?
 憲法とは、本来 国のこころとかたち、すなわち国体、国柄――伝統に根ざした国の理想・あり方を明文化したものでしょう。日本の国は、三千年も前の神話から始まった伝統が今も生き続けている、類い稀な国、世界にただ一つの国と言ってよいでしょう。

 その伝統を無視して、占領下に押しつけられた現行憲法は、日本の憲法とは言いがたいものである。そのことを日本国民ははっきりと自覚しなければならない。

 憲法とは言えないものを守って、国を滅ぼすようなことは、絶対にあってはならないと私は思います。≫

 と書いていたことを、世界史的、法学的見地も踏まえて具体的に的確に表現されたものと言えるようで、まさに 「これあるかな」 と感謝讃嘆させていただきます。

 それは、「何処へ行く?『生長の家』」 の 「質問Ⅰ」 の 「二」 で引用させて頂きました、谷口雅春先生 『女の浄土』 第十九章の、以下のご教示とも軌を一にするものです。

          


   日本の本当の建国は何時か

 日本国の建国はいつの時代かという問題は建国記念日制定以前から色々の論があり、建国記念日制定後にも尾を曳
(ひ)いている問題でありますが、コトバが神であり、神はコトバと偕(とも)にあり、一切のものはコトバによって生じたという哲学から申しますと、日本の建国は、宇宙の大神にまします天照大御神(あまてらすおおみかみ)が 「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国は世々わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき国なり」 とコトバによって宣言された時に日本国は、「神のコトバの世界」 即ち 「理念の世界」 に於て成立したのであります。

   理念とは如何なるものか

 もつとも 「理念」 というものは、コトバ即ち 「神の生命の智的表現としての振動」 即ち神の心の中に想い浮べられた“形相”でありますから、それは物質的形相ではありません。従って縦横厚みの三次元的な空間的大小のひろがりをもっていません。すなわち物質的な形や大きさを抽(ぬ)きにした超空間的な純粋な形相であります。だから、その理念が現象面に投映して来る場合には、大にも小にも顕われて来るのであります。

 天照大御神が天孫降臨の神勅に於て仰せられた「豊葦原の瑞穂国」というのも色いろの解釈がありますが、これは大には現象宇宙ぜんたいを表わしており、国家的には日本国を表現しており、極微の世界に於ては物質原子の構成をあらわしていると見ることができます。というのは、瑞穂国というのはこれを哲学的に解釈いたしますと水火国
(みずほのくに)ということになります。“水”は陰の象徴であり、“火”は陽の象徴であります。陰陽の組合せによる結合によって出現したものはすべて、大小に拘らず水火国(みずほのくに)であります。大は太陽系統から、小は物質原子に至るまで、すべて水火国であります。国家も家庭もすべて陰陽結合によって成り立つ水火国であります。
……(後略)……

          

 ありがとうございます。

  (2015.6.19)
55 「断行熟慮」で行きましょう!


 『致知』 という雑誌の7月号に、作家 三戸岡道夫氏(昭和3年生まれ、87歳)の

 “「断行熟慮」――実践の中から新しい知恵が生まれる”

 という言葉が載っていました。

 本来は 「熟慮断行」 (よく考えた上で思いきって実行すること) という四文字熟語だが、三戸氏は、(特に若い時は)よく考えた上で行動するよりも、まず行動することが大事だと自戒し 「断行熟慮」 をモットーとしてやって来たという。

 頭で考えているだけでは何も実現しない。とにかく一歩を踏み出せば、考えていただけでは思いつかなかったアイディア、知恵が生まれてくる。実践を繰り返す中から、また新しい知恵が出てくる、という。

 私も、もう年齢は若くはないけれども、気持は若く、今からでも 「断行熟慮」 で行こう、と思います。今までが、臆病な引っ込み思案の方でしたから。

 『生命の實相』 の 「生活篇」 に、「思い切りよく、押し強く、勇敢に断行せよ」 という教えもあります。

     
* * * * * * * * * * *

     十三、思いきりよく、押し強く、勇敢に断行せよ

 今、なんじの決心をすぐ実行に移せ。思想はそれが実践せられるまではただの夢でしかない。諸君に競争者があるか。あっても恐れることはない。それはただ人間ではないか。行け! あえて行くところに道が開かれるのだ。決意をもって進む人の前には、万人がひざまずいて奉仕しようと申し出るのだ。

 困難、それがなんだ。勇敢にそれを押しのけよ。失意すべき時に失意せず、落胆すべきときに落胆せず、勇気を失わずにあえて前進する者には困難が困難でなくなるのである。

 世界は毎日臆病者をば失意と失敗との谷底へ墜落せしめつつあるのである。それは臆病者は事物の前に立ってあえて行なう勇気を欠いて、捕うべき機会を見失ってしまうからである。「機会」に向かって最初の第一歩を踏み込まない者は永遠に機会を見のがしてしまうのである。

 勇敢なる人は自分の眼の前にあらわれたる困難を、そのまま神が自分に与えたまうた「希望」実現のための踏み石として感謝して受け、困難を踏み台としてなおいっそう前進する。かかる人には困難はかえってその人の魂の向上の資料となる。

 およそ大胆と勇敢と決行の迅速と、どこどこまでもやりとげる押しの強さとは大人物なるものの一つの資格である。右顧左眄(うこさべん=みぎむきひだりむき)して人の思わくに気がねし、猫を恐れる鼠のように周囲に気がねして、コソコソオズオズ自分の行為を進める者は一生大事業をなしとげえない人である。

 諸君よ、ひとたび「このことは善事なり、行なうべし」と決定したる以上は、それを「自己の内に宿る神」の最後の宣告であると思いて断行せよ。それを決行しなければ、人生における苦しみの刑期が延びると思って必ず実行する習慣をつけよ。かくのごとき決断の習慣に馴らされてくるときには、その人は、人生において躊躇逡巡する間に空費する自分の生命力を非常に節約することになるのである。

 諸君よ、決して倒れることを恐れず、自己の不決断のみを恐れよ。倒れることは、再び起き上がりさえすればかえって喜ぶべきことであるのだ。不倒翁(おきあがりこぼし)は逆様に投げられるので、いくどでも起き上がりうる自分の力を現実に証明しうるのである。不倒翁には逆様に投げられることが喜びでもあるのだ。

 ゲーテは「世界中で最もあわれむべき者は不決断の人である。彼はあれにしようか、これにしようか、二つの希望の中間を、とつおいつ思案にあまってどちらをも得られない」と言っている。古い諺にも、「二兎を追うものは一兎をも獲ず」という言がある。決断を要するほどの決断であるかぎり、一つの希望のほかに何かかえりみるべき別の希望があるのである。

 だから「決断」とは何かを捨てるということである。何かを捨てるとは思いきりのよいということである。人は思いきりがよくなければならぬ。「生きようと思ったら死ね」とトルストイは言った。「生命を得んとするものはかえって生命を失い、生命を捨つるものはかえって生命を得」とキリストは言った。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」とは古来の諺だ。足をいつまでも河の底につけていては、永久にその人は泳げないであろう。

 諸君よ、一事を成そうと思うならば、心の内にひそんでいる臆病の侏儒(こびと)の声に耳を籍(か)すな。何事を成そうとするにも、この臆病の侏儒が心の内にひそんでいる人は、この侏儒がこう言うのを聞くであろう――「そんな無謀な計画がどうして成功しようぞ。どこから考えてみてもその計画には勝ち目がないではないか。誰か今までそんなことで成功した者があるか。もっとよくよく考えてから実行せよ。お前にはほかにもっと適当な容易な仕事があるはずだ。待て、待て、時機を待て。ものには時機というものがあるのだ。時機に逆っては何事も成就しない」と。

 時機! そうだ、諸君は、たしかにあらゆる計画を実行するには時機がある。しかし常に「その時機とは今だ!」と心のうちの侏儒に対して答えよ。「思いついたが吉日だ」という諺には真理がある。思いついた時には必ずその第一歩にとりかかれ。思いつかなければすなわち止む。いやしくも自分の心が神に一致し、そしてあることを思いついたからには、もう決行の時機は来ているのである。躊躇するな、ためらうな、一日おくれれば一日だけ勝利の機会は逃げてしまうのである。

 先例のない計画だとて逡巡(しりごみ)するな。先例のある計画ばかりをさがしていては、ついに大成功は得られないのである。ひとの先例がなければ不安を感ずるような弱者は、つねに人のあました糟粕(かす)を嘗め、わずかな余利を拾い集めうるにすぎないのだ。諸君よ、諸君が勝利者となることを欲すれば先例を破りうる人となれ。「誰が今までそんなことで成功した者があるか」というこの臆病な侏儒の囁きを逆用してかく答えよ、「先例なきこと、新機軸であればこそ成功するのだ!」と。

 今、世界は非常な時である! 今ほど新機軸の必要な時はないのである。それだのに、諸君のうちには新しい生活の道を開こうとしないで、ありきたりの職業ばかりを求めている人が多いのである。青年の大多数は誰も彼も学校を出てサラリーマンになることを欲していないだろうか。知識階級のこの失業群は何を意味するか、ひとが一度やってみた職業でないと危っかしくてやれぬという臆病根性のあらわれでないか。国を救う道は、そして自己を救う道は、この臆病な一寸法師を心の外へ投げ出すこと、そして新生活を発見することにあるのだ。

     * * * * * * * * * * *


 ありがとうございます。

 皆さま、勇気をもって、「今」 内なる神の声のままに、断行しましょう。必ず道は開けます。

  (2015.6.18)
54 杉良太郎の 『媚びない力』 に涙……


≪……役者は徒党を組めません。どこまで行っても一人稼業、頼るのは自分しかいません。そんな役者が世間一般の常識的発想に囚われてしまって、どうするのでしょう。常識と非常識の既存の定義をそのまま受け入れてしまい、誰かが決めたことに対してその枠から抜けられない。それは怠慢です。

 みんな平均点で満足し、「良い子」や「良い人」を装う。こんな社会では、突出した芸術家や企業家は育たないでしょう。

 自分の前に道があるのではなくて、自分が行くから道ができる。私はつねにこの精神でやってきましたが、常識に挑戦するのは身体的にも精神的にかなり疲れること。だからこそ日々の鍛練が重要なのです。≫


 ――それが「神の子」の姿だと思いました。忙しいときは月に13本もの1時間ドラマを撮っていて、毎日毎日、セリフを覚えて、立ち回りやキャスティングのことを考えていた。空いた時間を見つけては、全国の福祉施設をまわったり、刑務所の慰問や視察をしたり、東南アジアの国々を中心に文化交流を計画したりと、さまざまな活動を行って、遊ぶ時間がなかったという役者、芸能界デビュー50年を迎えた杉良太郎。

 ≪媚を売ることを嫌い、一途一心の気構えで芸を磨いてきた杉良太郎。下積み時代の屈辱の体験、芸能界の荒波を乗り切る知恵と工夫、芸の先達から政治家まで錚々たる戦後名士たちの素顔、時に「売名」と揶揄された福祉活動の真実……デビューからの50年間が大胆に記される。人生を輝かせる術から成熟の極意まで、凡百の人生指南本を超えて胸を打つ50年間の軌跡。≫

 とカバー袖のキャッチコピーに書かれている、杉良太郎の自伝 『媚びない力』 (NHK出版新書)を読み、感動で、あふれる涙をぬぐうことが幾度もありました。

 「ひろば」のページ42番目に、「“いのち”を捧げます」 は、本当のご覚悟か?<2015.6.16 中仙道>と、ありがたいご投稿を頂きました。

 杉良太郎の前掲書では、

≪芸の世界では、「死ぬまで勉強」とよく言われます。それはどの職業にも通じることでしょうが、学ぶ手を止めた時点でその人間は終わりです。

 「こんなもんじゃダメだ、まだまだできるはずだ」と、「ちょっと」のことに本気で挑んでいく。……

「客の拍手が役者を殺す」

 安易に褒めてしまうと、役者は自分はうまいんだと勘違いをして、芸を磨こうと努力しなくなってしまう。だから、役者をダメにするには、拍手一つで勘違いをさせてやればいいということです。≫


 と言っています。安易な褒め言葉よりも、愛のあるきびしいご叱正はありがたいです。

 「一芸を究めた者は万芸に通ず」というような金言があったと思います。私にとって、 「日々の鍛錬」 の根本となるのは神想観です。常住坐臥神想観、「吾れ一切者なり、主人公なり。わが業はわが為すにあらず」です。――杉良太郎は、次のようにも書いています。

 ≪いまの時代、何が本音で、何が建て前なのかわからない。本音らしく建て前を言う人がいかに多いことか。

 本音を見せることは、自分の存在を殺しかねない。そんな世の中にあって、誰が本音をさらけ出そうとするでしょうか。黙っていたほうが勝ちと、多くの人が本音を引っ込めてしまうのも当然です。

 もし、これから私が語る「本音」をあなたが間違っていると思うなら、批判するだけでなく、どうぞあなたの腹のなかを見せてください。≫


 と。

 『生命の實相』第7巻「生活篇」には、次のように書かれています。

     * * * * * * * * * * *

     十五、共通的生命の歓喜のために働け

 諸君よ、諸君がいかに手先を働かし肉体を労するとも、諸君の仕事が「愛」をもってなされるのでない限りは、その仕事に真に「魂」がはいらないのである。「魂」のはいらない仕事にはどこかに隙ができる。一見したところいかによく似たようにそれができていようとも、機械的に頭や手足を働かせてできた製品は、とうてい「魂」の籠った仕事とは比べものにはならないのである。

 古代の日本人は「魂の人間」であって、利害で働く人間ではなかった。彼は何よりも魂を尊ぶ人間であった。何事を愛するにも「魂の愛」のゆえにそれらを愛したのであった。されば書を書いては書道となり、花を活けては華道となり、茶を淹れては茶道となった。医者は病める者を見ては利益を絶して救うことを喜びとしていた。それゆえに医は仁術であり、医道であった。刀工が刀を鍛えても値段をもって売るために鍛えたのではなかった。彼は焼刃にあらわれる「魂の匂い」を愛するために三尺の秋水を鍛えたのであった。名工の打った日本刀はただ見るだけでもわれわれの魂が清まるのである。それは実にその仕事に生命が籠められているからである。

 昔の築城師が城を築くのは今の建築家が家を造るの比ではなかった。彼は城を築けば、城の構図の秘密を知る唯一の人として生命を召されることを知りながら城を築いて、工事ができ上がると同時に従容として切腹したのであった。
 これこそ文字どおり命を懸けた仕事であった。

 諸君よ、いやしくも諸君が仕事をなすならば、これら昔の日本人のようにその仕事に生命を懸けよ。『生長の家』の執筆も「生命」を懸けてできているのだ。「生命」というも「魂」というも「愛」というもひっきょうは同じである。愛は神であり、生命であり、魂である。仕事に愛をそそぐことは、その仕事をすることによって自分の内に宿る神を生かすことになり、生命を生かすことになり、魂を生かすことになるのである。

 魂が本当に生きたらその瞬間死んでもよいという覚悟ができるものである。古聖が、「朝に道をきかば夕べに死すとも可なり」と言ったのは本当に魂が生きれば肉体の死はなんでもなくなるからである。築城師がその仕事を終ると同時に生命を召されることを覚悟しながらも、その仕事を成しえたのは、彼が仕事を愛して仕事と一つになりきることによって魂が本当に生きたから、死ぬことが彼にとってはなんでもなくなったからであるのだ。

 魂が本当に生きてする仕事にはわれわれは疲れない。それは、働けば働くほど生命が生かされるからである。疲れるとは生命が生きたりない、伸び伸びしない、窒息状態であると言うにほかならない。諸君がある仕事を愛さないけれども、義務のためにそれをつとめて行なうならば、諸君はその仕事を愛して行なう場合よりもいっそう多く疲れるであろう。愛は神であり、神は生命である。仕事に愛が注がれないということは、生命が生きていないということを意味するから、早く疲れるのである。

 また愛の注がれた仕事は、義務の観念でしょうことなしになされた仕事よりも、でき栄えがよいのである。その仕事の中に愛が生きる。その仕事の中に神が生きる。その仕事の中に生命がきる。それゆえにその作品は生命の籠った魂の籠ったものとなる。されば、それは神品である。近代文明の精華をあつめてもってしても、昔の一鍛冶工が手工の作品たる正宗、村正のごとき名刀ができ上がらないのは、近代の人間は仕事をなすのに、「愛」を生かすためにせず、 魂を生かすためにせず、生命を生かすためにせず、ただ、数多く作りて、数多く金の儲からんことをのみ念願しているからである。

 愛をもって仕事に臨むならば、最初肉体の熟練がそれに慣らされていない間は、それでもその仕事が下手にできるかもしれない。しかし愛をもってその仕事に臨む人は、その上達が必ずすばらしく速いのである。神がその頭脳と手先とをとおして働き給うからであるのだ。

 その仕事に対する愛がなく、ただ義務観念をもって仕事をいやいやながら遣っている場合には、彼はただその肉体なる手先と、肉体なる脳髄とを働かしているだけで、神がその肉体をとおして働かないがゆえに、すみやかに肉体は疲労し、仕事は上達せず、どんなに気をつけてもその仕事には見落とした欠点や、行き届かぬ点ができるのである。

 だからわれわれが仕事をする場合には、その仕事に興味を見つけてそれを愛するようにしなければならぬ。義務でやらされる仕事でも義務でやると思ってはならぬ。義務という観念が、われわれの心の全体を押しつけるならば、どんなおもしろい仕事もつまらなくなる。子供に体操を課せれば実に嫌々やるものであるが、彼らはキャッキャッと喜び騒いでその体操と同じ運動を、友だちと遊びながらなら自分で進んでやっていることがあるものである。(中略)

 われわれが「仕事の歓び」を失わされる原因に二とおりある。一つは自分の仕事をみずから「欲してとった物」と思わず、「強いて課せられたもの」、「強制されたもの」すなわち「義務」として行なわねばならぬという観念である。かかる観念がわれわれの心を占領してしまうとき、いかなる愉快な仕事も不快になるのである。

 諸君よ、共通的生命に生きよ。隣人と共通の歓びを生きる仕事をなせよ。そこから来る歓びは無限だ。そこから来る健康は無限だ。共通の生命は肉体の垣を越えて無限だからだ。

 この「共通の歓び」となるべき仕事をわれらがなし遂げた時、それがどんなに小さな仕事であってもわれらは魂の奥底に共通的生命(普遍的生命、至上の神、全人類の生命)から来る「よくしてくれた!」という感謝と賞讃との声を聞くのみである。常に共通的生命からこの感謝と賞讃との声を聞くものは幸いなるかな。無限の魂の平和――無限の共通的生命と調和する平和――はその人のものだからである。

 ここに到ったときわれらの行ないは自然にまかせていて善にかなう。すべての行ないが共通的生命と呼吸を一つにして催してくるようになる。ここにいたってわれらの行ないは真に惟神となる。神ながらとは共通的生命(大生命-神)を愛し、共通的生命におのずから奉仕できることである。

 ここにおいて、世界の光景が一変する! 自分の心が一変したからである。最初われらは肉に属する歓びを捨てて、霊に属する歓びを努力して選んだのであった。しかし本当に物と肉とに属する喜びを捨てたとき、全世界が自分のために讃歌を歌ってくれているかのように見えてくる。捨てたはずのすべての物の歓びが、かえって色あざやかに染められて自分のために帰って来る――家も、土も、空気も、父も、母も、兄弟も、他人も、みんなが自分を喜んでくれ、同時にみんなが自分を喜ばすために存在しているかのように見える。あたかも太陽が万ずの生物を喜ばすために照り輝けば、万物はその光を浴びて、太陽を歓ばすために美しい色彩に変わるのと同様にだ。見よ、かつては義務のために強いてわが歓びを捨てたのに、ここにはいかなる快楽よりも大きな喜びが帰って来た! 「共通的生命の歓び」がわが歓びとなったのだ!

 「生長の家」とは常にこのスイートな魂の歓喜を味わう人たちのすまいなのだ。

     * * * * * * * * * * *

 ありがとうございます。前記 杉良太郎の生き方は、まさにこの『生命の實相』生活篇の生き方であったから感動を呼ぶのだ、と思いました。

  (2015.6.17)
53 「ひろば」ご投稿に感謝します


 「ひろば」のページに、たくさんの方々が率直なご意見などのご投稿をくださっていて、ありがたく感謝申し上げます。その中で、36番目(2015.6.14)に Oyaoya 様が、『信仰の「変形」は起こっているのか?
(その1)』と題して書いてくださった――

 ≪わたしの相愛会では、“本流”へ行かれた方も複数いらっしゃいます。
 しかし、たまにお会いすることがあっても、「この頃の生長の家はねぇ・・・」と、いろいろな話にはなりますが、わだかまりのようなものは何もなく、ともに同じものを信仰しているということが確認できて、楽しく話ができます。
 所属は分かれても、個人の信仰の中身については、分裂はしていないと言っていいのではないかと思います。

 だからと言って、それでいいと思っているわけではありません。
 問題なのは、わたしや、残られている会員さんの心の中で、分裂というか、大きな葛藤があることです。
わたしの知る限り、本部の方針を心から支持している会員さんはいないのではないかと思います。
 本当は常に教団を支持したいのに、それができないということは、信仰者にとって、とてもつらいことです。≫


 ――とても考えさせられる投稿文ですね。

 私のところにも、教区を越えて全国各地の知友信徒から、「よく書いて下さった。今まで大きな心の葛藤があったのを、よく代弁してくださった。同志に伝えたい」というような電話が一再ならずかかってきたりします。「和解なんか出来るわけがない」というのは教団の上層部と“本流”の上層部の方たちで、下層の一般信徒同士は、組織を超えて仲よくつきあっているケースも多いようです。

 だから、本当に信徒の幸福を考えたら、上層部の先生方は

 
「分裂がないのを生長の家という」

 
「分裂のない、一つの生長の家を実現する」

 ために、命を投げ出していただきたいと思います。

≪ためしに無記名のアンケートでもしたら、(多くの信徒が本部の方針を)支持していない実態は浮き彫りになると思います。

 ・大東亜戦争は侵略戦争であったと思うか。
 ・環境や生物多様性、ノーミートが、生長の家の運動の核であると思うか。
 ・技能や芸術の誌友会が本筋であると思うか。
 ・『生命の實相』や『甘露の法雨』はなくてもやっていけると思うか。
 ・『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』はお経であると思うか。
 ・谷口雅春先生のご著書を廃絶していっていいと思うか。
 ・総本山の性格を変えていいと思うか。
 ・原子力は使うべきでないと思うか。
 ・民主党を支持したいと思うか。
 ・生長の家の教えは変わっていないと思うか。≫


 上記、Oyaoya 様記述のアンケートの項目については、教団組織会員で、心から素直に「Yes」と答える人は稀なのではないでしょうか。総裁先生、本部上層部の先生方、信徒を馬鹿にしてはいけません。よくよくお考え頂きたいと思います。

 ありがとうございます。

  (2015.6.16)
52 「しずけき祈りの ときはいと楽し」


 以前、「岡正章のブログ」のプロフィール(自己紹介)で「興味のあること」として、

 ≪佐々木基之先生(1901-1994)が、神に導かれてふとひらめき実証された「分離唱」という方法により、澄み切った美しいハーモニーでコーラスをすること。……そして、いろいろな宗教宗派が、きれいなハーモニーで合奏するように一つに結ばれ調和した世界を実現すること。≫

 と、書いていました。

 「分離唱」というのは、自我を捨て神に全托してうたう唱い方と言えましょう。具体的には、指導者がピアノで和音を弾くと、参加者は心を空にし全身を耳にしてその和音を聴きながら、その中の一音を発声する。そのときに無我になって、自分の声が和音の中にとけ込み帰依して消えてしまう境地を味わうのです。それは座禅の境地であり、祈りの境地であり、神想観の境地に通ずるものだと思います。すでにあるハーモニーから一音を分離して唱うことから、逆説的ですが「分離唱」と名づけられたのでしょうか。

 昨日私は、その「分離唱」により、美しいハーモニーにひたり、アカペラ(無伴奏)で讃美歌などを歌う、法悦の合唱の集いに行ってまいりました。

 そこで毎回最初に歌う聖歌に、讃美歌310番「しずけき祈りの…」というのがあります。
 その歌詞は――

1.しずけき祈りの ときはいと楽し
 なやみある世より われを呼びいだし
 父のおおまえに すべての求めを
 たずさえ至りて つぶさに告げしむ

2.しずけき祈りの ときはいと楽し
 さまよいいでたる わが魂(たま)をすくい
 あやうき道より ともない帰りて
 こころむるものの 罠をのがれしむ

 「私は、ないのである。ただ神のみいます。今、ここに神が生きてい給うのである。ありがとうございます。」

と、神に全托して、「今」をよろこんで生きて――生かされてまいりましょう。

 谷口雅春先生著 『光明道中記』 <六月三十日 問題解決・感謝の日>というところに、次のように記されていました。

 
≪若(も)しあなたが自分を空(むな)しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。そのとき世界はあなたのものである。世界は神のものであり、神はあなたのものであるからである。そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。

 自分自身を「自分のもの」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、アダムの食った智慧の樹の果(このみ)であったのである。それは形に於ける自分を見て、自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。すべて神のものである。神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。

 神がすべての渾(すべ)てであるが故に、今、あなたは自分を空しくして神に一致するが故に、神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。

 あなたは、此の世界を「我が家」と呼び、すべての人間を慈愛深き父母兄弟と拝まなければならない。衝突は自分を空しくしない処より起り、他を父母兄弟として拝まない処より起る。≫


 ありがとうございます。

  (2015.6.15)
51 「憲法守って国滅ぶ」


 四宮政治文化研究所の四宮正貴氏が、「憲法守って国滅ぶ」と、次のような意見を発表しています。簡潔に急所を押さえて書かれていて、私もまったく同感です。四宮氏に感謝し、ここにアップさせていただきます。

     
* * * * * * * * * * *

 ≪「憲法守って国滅ぶ」 という言葉があるが、民主党はまさに憲法を守って国を滅ぼそうとしている。

 衆院憲法審査会で、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案について、与党推薦を含む参考人全員が 「憲法違反」 との見解を示した。民主党は、自民党の 「人選ミス」 につけ込む形で 「法案撤回が当然だ」(枝野幸男幹事長)と鬼の首でも取ったように廃案に追い込もうとしている。「憲法守って国滅ぶ」 という言葉があるが、民主党はまさに憲法を守って国を滅ぼそうとしているのだ。

 弱肉強食・強い者勝ちが冷厳な国際社会の現実である。『現行占領憲法』 の 「前文」 に書かれている 「人間相互の関係を支配する崇高な理想」 などというものは、少なくとも南北朝鮮・支那・ロシアは全く持ち合わせていない。力がない国は侵略され、滅ぼされる。

 また、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」 などということは、全くの空想・夢物語であるばかりでなく、きわめて危険な思想である。わが国固有の領土南樺太・全千島を七十年近くも占拠したままのロシア、わが国固有の領土竹島を六十年以上に亙つて占拠している韓国、そしてチベット・東トルキスタン・満洲・蒙古などを侵略支配し、台湾を併呑せんとし、尖閣諸島・沖縄などのわが国固有の領土・領海を侵略せんとしている共産支那のどこに 「公正と信義」 があるのか。

 さらに、「前文」 の 「日本国民は…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」 という文章は、「日本は東條内閣の行為によって侵略戦争を起こしましたが、二度とそのような事はしないことをお誓いします。今後はアメリカ様、ソ連様、支那様など戦勝国の皆様の公正と信義に信頼して、侵略を行なった悪い国であるわが国とわが国民の生存と安全を保持してまいります。今後は何をされても決してお手向かいを致しません」 という 「詫び証文」 である。この 「詫び証文」 の精神を実践してきたのが戦後日本の外交である。

 「憲法守って国滅ぶ」 という言葉はまことに真実である。極論すれば、国家基本問題においては 『現行占領憲法』 に違反してこそ、日本は正常な国になるのである。正統性が全くない押しつけ憲法である 『現行占領憲法』 に何が書かれていようと、一切これを無視するくらいの気持ちがなければ 『憲法守って国滅ぶ』 が現実のものとなる。≫


     
* * * * * * * * * * *

 ありがとうございます。

 憲法があって、国があるのか?

 国があって、憲法があるのか?

 憲法とは、本来 国のこころとかたち、すなわち国体、国柄――伝統に根ざした国の理想・あり方を明文化したものでしょう。日本の国は、三千年も前の神話から始まった伝統が今も生き続けている、類い稀な国、世界にただ一つの国と言ってよいでしょう。

 その伝統を無視して、占領下に押しつけられた現行憲法は、日本の憲法とは言いがたいものである。そのことを日本国民ははっきりと自覚しなければならない。

 憲法とは言えないものを守って、国を滅ぼすようなことは、絶対にあってはならないと私は思います。皆さまは、どう思われますか?

  (2015.6.14)
50 「優位戦思考」で世界に勝つ―「間抜け」とは「考えや行動に抜かりがあること」


 日下公人著 『優位戦思考で世界に勝つ』 を読んでの感想のつづきです。

 まず、同書の内容から抜粋紹介します。

 
≪    中国が強要した「政治三原則」を墨守

 なぜ政府やマスコミは、こうした中国迎合姿勢を続けるのか。

 これは、「日中友好」という場合の「友好」の中身、定義を中国側に握られてきた劣位戦の敗北である。中国側の意に添わないことはことごとく反中的と非難されてきたが、それ自体がきわめて理不尽な言いがかりでしかないことに、日本国民が気づかなくなってしまった。

 日本と中国の間に「記者交換に関する覚書(協定)」なるものが存在していることを知る国民は少ない。

 昭和四十三年三月、田川誠一、古井喜実氏ら親中派の代議士が介入して、日本の新聞は中国側が条件とした「政治三原則」を守らなければ中国に記者を常駐できないことになった。

 政治三原則というのは、「中国を敵視しない」「二つの中国をつくる陰謀に加わらない」「日中国交正常化を妨げない」というものである。

 新聞社やテレビ局が特派員を派遣するのに、相手国政府の方針や言論の枠に従うことを事前に約束するのでは、自由な報道・論評をはじめから放棄したのも同然である。

 当時、NHKは台湾を取材し、その映像をテレビで放送したこと、その画面に「大陸反攻」という蒋介石のスローガンが大書された壁面が映っていたことで、また『朝日新聞』はラジオ欄でその番組を紹介したことが問題視され、中国側にそれぞれ“謝罪”したという逸話もある。

 なぜ日本のマスコミは、「そんなもの(政治三原則)は承諾できない」と言えないのか。中国には何も言えないくせに、日本国内では「報道・表現の自由を守れ」と叫ぶ。まったく恥ずかしい行為だが、これが日本のマスコミの正体である。

 作家の曽野綾子さんは、中国が強要した政治三原則を墨守する日本のマスコミに対し、こう憤っている。

〈この四十年あまり、産経新聞と時事通信を除く日本のマスコミは、絶えず中国の脅しを受けながら、特派員を受け入れてもらうため、完全に中国政府の意図を代弁する記事を書き続けてきたということです。

 『朝日』『毎日』『読売』などの全国紙、『東京新聞』ほかのブロック紙などは、中国批判はただの一行たりとも書かず、私たちにも書くことを許さなかった。私が少しでも中国の言論弾圧を批判すれば、その原稿は私が内容表現を書き直さないかぎり、ボツになって紙面に載らなかったのです。

 ちゃんと曽野綾子という署名を入れた小さな囲み記事ですら、印刷中の輪転機を止めてまで掲載を許さなかった新聞もあります。私は、その新聞には二度と書かないことに決め、いまもそれを通していますが、私に言わせれば、中国報道に関してマスコミは正気で「発狂」していたのです〉(曽野綾子・金美齢著『この世の偽善』PHP研究所)

 中国に対しては徹底した劣位戦思考で、卑屈な態度の報道しかできないのに、日本政府と日本国民に対しては、偉そうに高みから批判し、啓蒙しようとするのが日本のマスコミである。

   「間抜け」とは「考えや行動に抜かりがあること」

 当時の民主党政権は、巡視船に体当たりした中国魚船の船長を超法規的に釈放した。いまでは、仙谷由人官房長官が菅直人首相の意向を受け、船長を釈放するよう法務・検察当局に働きかけたことが明らかになっているが、中国漁船が領海侵犯をし、巡視船への体当たりを仕掛けた事実が歴然である以上、日本側は法に従って毅然と処理しなければならなかった。

 民主党は、こちらが譲歩すれば中国側の対応も穏やかになるだろうと、仙谷官房長官は記者会見で、「(逮捕された)十四人と船がお帰りになれば、また違った状況が開かれてくる」と、信じられない言葉遣いで中国側の譲歩を期待したが、結果は、日中の閣僚級交流の停止、日本向けレアアース(希土類)の輸出全面差し止め、建設会社フジタの社員四人が中国国内で拘束と、日本側が反撃しないことを見越しての報復措置が続いた。

 領海侵犯と不法行為の証拠(ビデオ映像)はこちらが握っていたのだから、世界注視のなかでいちはやく中国の無法ぶりを訴え、国際世論を味方につける優位戦に持ち込むチャンスがあったにもかかわらず、民主党政権は、ビデオの非公開を早々に決め、自ら脆いて中国側にお伺いを立てるような外交をした。

 かつて安倍氏は菅直人氏について「間抜けな議員」と呼んで、物議を醸したことがあった。北朝鮮の工作員で日本人拉致にも関わり、韓国で逮捕拘留されていた辛光洙容疑者の釈放嘆願書に署名した行為を批判して安倍氏はそう言ったのだが、当時、官房副長官だった安倍氏は野党から「“暴言”を撤回しろ」と要求され、記者会見でも「撤回しないのか」と問われた。

 安倍氏は反撃に出た。「『間抜け』を辞書で引けば、『考えや行動に抜かりがあること。そのようなさまやそのような人』とある。菅氏に抜かりがなかったと言えるのか」と。すると記者たちも頷き、騒ぎはそれで収まった。かように安倍氏は、間抜けな政治家、間抜けなマスコミを相手にしてきたから、第一次政権時の疲労は並大抵ではなかったと想像する。≫


 ――上記のような“間抜け”な「劣位戦の思考」を脱し、「優位戦の思考」すなわち、何ものにも縛られない「神の子」の自覚に立った自主的、積極的な外交戦に踏み切るべき時です。それを始めているのが、安部総理だと思います。

 「優位戦の思考」を持つに到る最高の秘技は、「現象はない」という実相哲学を悟り、「時間も空間もわが掌中にあり」という宇宙の主人公、神の子の自覚を持つことにある。つまり、神想観をすること、「久遠の今」に立つこと。常住坐臥 神想観の自覚で行動するにある、と私は思います。

 「生長の家」は、「もはや時代遅れの“間抜け”」とも思えるメガソーラー募金などに精力と資金を投じるよりも、もっと根本的に大切なことがあるのではありませんか。

 それは――

 「生長の家」は「現象」から出発したのではなく、神から出発した、「実相」から出発したので、その元に還ること。天地の初発(あめつちのはじめ)なる「一」に還ること。『生命の實相』に還ること。聖経『甘露の法雨』に還ること。そのためには、“本流”を名乗る元同志の人たちをも「観世音菩薩」として拝み、結び合い協力し合えるよう、一歩でも前進する努力をすることことではないでしょうか。

 聖使命会員は、谷口雅春先生から「人類光明化のパテントは、皆さんに譲った。皆さんは人類光明化運動の株主である」と言われています。株主には、発言権があるはずです。「物言う株主」になりましょう。

  (2015.6.13)
49 「倍返し」は、いつでも発動できる。


 日下公人氏 2014年4月刊の著書 『優位戦思考で世界に勝つ』 をまだ読んでいなかったので、中古本を買って読んでいます。以下は、その終わりの方からの抜粋です。

 
≪   日本の「倍返し」はいつでも発動できる

 昨年、『半沢直樹』というテレビドラマが大ヒットした。

 半沢直樹は自らのモットーを、こう語っている。
 「オレは基本的に性善説だ。相手が善意であり、好意を見せるのであれば、誠心誠意それにこたえる。だが、やられたらやり返す。泣き寝入りはしない。十倍返しだ」

 この台詞の「オレ」を「日本人」に置き換えても違和感がない。そして、やり返すかやり返さないか、やり返すことを決めたら、それを十倍にするか百倍にするかをこちらが決めるのが優位戦思考である。

 半沢直樹は、銀行内で密かに不正を行い、部下を苦境に陥らせても保身と出世を図ろうとする卑劣な上司と戦う。半沢は劣位からスタートし、やがて優位戦を展開して上司との対決に勝つ、というのがこのドラマの醍醐味で、同じような境遇にあるサラリーマンの共感を得たようである。

 日本が中国や韓国からの理不尽な非難を浴びているときに、このドラマが大ヒットしたことには、国民心理における因果関係があったのかもしれない。

 いずれにせよ、現実の日本の「倍返し」はいつでも発動できる。「相手が善意であり、好意を見せるのであれば」発動する必要はない。だが、その実力は時々見せておくのがよい。

 日本には力がある。国際親善に尽くして海外と付き合わなければ経済が成り立たないというのは思い込みでしかない。≫


 「劣位戦」を脱し「優位戦」の思考を持つに到る最高の秘技は、「現象はない」という実相哲学を悟り、「時間も空間もわが掌中にあり」という宇宙の主人公、神の子の自覚を持つことにある。つまり、神想観をすること、「久遠の今」に立つこと。常住坐臥 神想観の自覚で行動するにある、と私は思います。


 「分裂のない、一つの生長の家」 を実現する


 ために――

○単に「思い煩(わずら)うな」と言って、問題を次へ次へと延ばして行く者は、恐怖を先に延長しているようなものであって、本当は「思い煩っている」のである。吾々は事物に面することを次へ延ばすことなく、「今」受けるが好(よ)いのである。「今」恐れなく受けるのである。「今」目の前にあるものが決して自分を害するものではないと知ることである。避けるのではない。捉えるのである。(『光明道中記』 「六月十二日 今すぐ行う日」 より)

○分裂がない、対立がないのが生長の家であります。

○だから、生長の家は永遠なのであります。


 「みこころの天に成る世界」は、すでに天すなわち時間空間発する以前の根源世界、実相世界において成就している。播かれた種は生える、必ず花咲き実を結ぶ時が来るのである。合掌。

  (2015.6.12)
48 生死を超えて生きる“いのち”


  「ひろば」への35番目のご投稿(2015.6.9)に、「二代目一寸法師」様が

≪「あらゆる宝のうちで最も大切なるもの」は、“ありのままのわたし” と “いのち” です≫

 と題し、次のように書かれていました(要約)。

 ≪先日、4ヵ月に1度の ICD (植え込み型除細動器:いわゆるペースメーカー) 定期検査を受診しました。前回10月から4ヵ月間の心臓機能と器機の作動状況を「心電図」のようにチャート化したデータが出てきます。

 担当医師が 「2月15日に体調異常はなかったですか。この日に不整脈による心停止があり、ICDが作動して心臓を再起動させている」 とのことだった。

 記憶を手繰っていると、あった、あった! この日、久しぶりに外出して、ショッピングセンター内のドトール・コーヒに立ち寄った。注文したコーヒを持って席に座り、「心肺停止人間がよくぞここまでリカバリーできたもんだなぁ」 と、往時の “いのちのリレー” に参加してくださった方々に感謝の想いで感慨にふけっていた。

 そのとき、突如として睡魔に襲われたように眠くなり室内の照明がフェードアウトしたかのように真っ暗闇に吸い込まれていくようだった。次の瞬間、ドォーンと雷が落ちたような大音が響き、椅子から身体(尻)が浮き上がった。

 その後、室内照明がフェードインしてきて、睡魔も去っていったように意識が戻ってきた。

 もし、あの日、あの時に ICDが作動していなければ、いま、この瞬間、PCに向かっている “わたし” は存在しない。
 この生きている、否生かされている瞬間、瞬間が、あらゆる宝のうちで最も大切なるものである。
 “ありのままのわたし”、“いのち” こそが万巻の書に勝る宝庫である。≫


 ――この 「“ありのままのわたし”、“いのち” こそが万巻の書に勝る宝庫である」 というお言葉、まさにその通りであると思います。

 生長の家は、生命礼拝の生命宗教である。『生命の實相』第1巻、七つの光明宣言に、

 
≪一、吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。

 「生長の家」の目的はその宣言の第一条にありますように生命を礼拝し生命の法則に随順してみずからも生活し、推しひろめてはこの生活を他の人々にもできるだけ多勢の人に生きてもらいまして、しだいに全人類の生活を光明化することが目的なのであります。われわれが生命を礼拝し、こうした「生命」の法則にしたがって生活することを目標においていますのは、われわれがこの世界に「生命」を享けてきた事実から出発するのでありまして事実ほど力強いものはないのであります。≫


 とある通りですね。『新版 生活の智慧365章』 p.163には

   幸福の鍵は何処にあるか

 もしあなたに「どんな幸福の扉でも開く鍵があるのですが、あなたはそれを欲しくありませんか」と言われるならば屹度
(きつと)あなたは、「本当にそんなものがあるならば、それを得たいものだ」と思われるでしょう。その鍵は決して金属でできているものでも、楠や檜の板で出来ているものではありません。そんな物質で出来ているものは結局はこわれるものであります。虫食い錆(さび)くさるものに幸福を求めてはならないと教えられました。

 その鍵は“霊的なもの”で出来ているのです。そして他物にそれを求めても得られるものではなく、自分自身の内にその鍵があるのです。その鍵を『生命の実相』と呼ぶのです。それは必ずしも書籍の名前ではありません。『生命の實相』の本はその鍵の在所
(ありか)を示した本ですからそのように名づけたのです。

 その鍵はすべての人が自己の内にもっている万人具有の鍵であります。人間の生命のうちには「無限」が宿っているのです。その無限に気がついたとき、その人はその鍵を発見したのです。自分自身の生命のうちに「無限」が宿っている、何という素晴しい事でしょう。

 とあります。『生命の實相』の本は宝(幸福)をひらく鍵のありかを示した本であって、宝(幸福)そのものではない。宝は外にはなく、人間の“いのち”の中にあるのでした。

 まさに、“いのち” こそが万巻の書に勝る宝庫であります。

 私も、この生きている“いのち”、「今ここに生かされている“いのち”こそが、最も大切な無限の宝である!」 という魂の自覚を、高校2年生の時に体験しました。それは生死の境を超えるような病気をしたあとでした。
(「疾風怒濤のわが青春記録」 13 「いのちの火を燃やす」をご参照ください)

 103歳になってなおお元気で活躍されている日野原重明先生は、58歳のとき、「よど号ハイジャック事件」の飛行機に乗っていた。死を覚悟したが、解放された時、「これからの人生は与えられたのだ」と思った。生かされている限り、まだミッションがある、使命がある と自覚して、今もお元気で活躍されているわけですね。

 「二代目一寸法師」様が、最近、生死を超えるような体験をされ、 「“ありのままのわたし”、“いのち” こそが万巻の書に勝る宝庫である」という自覚を持たれたことは、神の恩寵でありましょう。生かされているということは、まだミッションがある、使命がある ということですね。その使命とは何か、ご自分で考えてみて下さいませ。

  (2015.6.11)
47 日本の実相は、顕現しつつある。(2)


 日下公人(くさか・きみんど)氏は、“「劣位戦」を脱し、「優位戦」の思考を持て”と言われる。

 
≪「優位戦」とは、こちらが主導権を握って「戦場」を選び、時も目的も手段も決められる戦いのことである。この思考に長けているのが欧米の政治家や外交官、経済人だ。

 新しいルールを中核メンバーだけで、自分たちが有利になるように決め、あとから日本などに参加を呼びかける。「入らないと孤立するぞ」と脅かされた日本は、慌てて飛んできて、彼らに合わせた国内ルールを作って必死に追いつこうとする。日本はそういう典型的な「劣位戦」を強いられてきたのだ。≫

 (『「新しい日本人」が創る2015年以後』 p.22~23)と。

 「劣位戦」を脱し「優位戦」の思考を持つに到る最高の秘技は、「現象はない」という実相哲学を悟り、「時間も空間もわが掌中にあり」という宇宙の主人公、神の子の自覚を持つことにある。

 「久遠の今」に立つことにある、と私は思います。
  
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 日下公人氏は、また言っています。

 
≪私がここで強調したいのは「今、風向きが変わってきている」という点だ。

 と。

 昨日ご紹介した日下公人×宮脇淳子対談シリーズのYouTube動画「日本人が創る世界史」でも、宮脇淳子先生が言ってました――

 
≪二、三日前の新聞に、“教科書にも載っていない「従軍慰安婦」を教えた先生が、父兄からつるし上げられて新聞沙汰になった”というので、“ああ、世の中、変わってきたんだ”としみじみ思いました≫

 と。 日下氏は前掲書でまた、

 
≪安倍総理が展開しているのは、優位戦思考による日本からの提案と発言に裏打ちされた外交である。……優位戦思考ができる日本人は明らかに増えている。

 それを理解することなく、劣位戦思考に陥ったままでいるのが、政治家、学者、マスコミで、こうした職業で、もっともらしい顔をしているのは、「いい大学」で「いい成績」を収めた秀才たちだ。今までの日本の弱点は、こうした人士ほど劣位戦思考であることである。

 アメリカやイギリスは優位戦の名人で、わかりやすく言えば、有色人種をうまく騙して儲ける国である。劣位国の若い秀才を留学させて、劣位戦思考に染め上げ、何人かメンバーに入れて喜ばせる。≫


 と言っています。谷口雅宣 生長の家現総裁も、もしかしたらこの「劣位戦思考」にとどまっておられはしないでしょうか。

 拙文 『何処へ行く?「生長の家」』 の[質問1]に書きましたが、総裁は講習会に参加した一信徒の質問に対して、

 「私は驚きを禁じえなかった。というのは、内容がいかにも時代錯誤的だったからである。それをここへ掲げよう――

 敗戦後、なにか日本は負い目を感じ今日まできたように感じます。しかし、戦争にいたる事実を知り、日本人として誇りをとりもどしました。もっと雅春先生の憲法に関する著書を世に出すべきではないのでしょうか。私たち日本人は、もっと世界に自信をもっていいのでは、そういう教育は間違っているのでしょうか。」

 (『宗教はなぜ都会を離れるか?』 はしがき より)

 と書かれていますが、もしかしたら、総裁の方が「時代錯誤的」なのでは? と思ってしまいます。いかがでしょうか。

  (2015.6.10)
46 日本の実相は、顕現しつつある。


 日本の実相とは、釈迦が成道してすぐに説いた華厳(蓮華荘厳)の世界であり、イエス・キリストが説いた「みこころの天に成る世界」、中心帰一大調和の世界である。

 それは、神武天皇建国の宣言にある 「八紘為宇」 の理想、すなわち、すべての人類はみな一つの大祖神(みおやがみ=宇宙大生命)の岐(わか)れ、一つの命の兄弟姉妹である、玉の緒(魂の緒)が一つにつながっている神の子だから、一つの家族として仲よく生かし合い調和したすがたを実現して行こうという、神武建国の理想と一致する。神武建国の理想は、宇宙的な理想なのである。

 その「みこころの天に成る世界」は、すでに天すなわち時間空間発する以前の根源世界、実相世界において成就している。播かれた種は生える、必ず花咲き実を結ぶ時が来る。

 それは、目に見える現象世界すなわち地上に、いま段階を追って展開し投影されつつある。

 私は日下公人
(くさか・きみんど)氏著
『「新しい日本人」が創る2015年以後』
<目覚める、日本。この国が新時代の幕を開ける>
『いよいよ、日本の時代がやって来た』
<世界の中で日本を仰ぎ見る国がどんどん増えている。世界が日本化する>(< >内はオビの言葉など。昨年11月・12月刊)
などを読み、感銘深く、まさにその思い(日本の実相は、顕現しつつある)を強くしました。

 日下公人氏は、1930年(昭和5年)兵庫県生まれで私より3歳上だから85歳になられると思いますが、心身共にたいへんお若い感じ。東京大学経済学部卒だけれども、スケールが大きく発想がユニークで的確な、評論家らしくない型破りの光明思想的評論家。

 最近、“生長の家「本流復活」について考える”掲示板で、「ぼるぼ」様が教えてくださった日下公人×宮脇淳子対談シリーズのYouTube動画「日本人が創る世界史」というのを一部見て、ますます 「日本の実相が、神ながらに顕現しつつある」 との感を深くしました。
 下をクリックしてご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?list=PLn2kLGRySM2izMN-fMgn5CbrIgHzOPoPH&feature=player_detailpage&v=5_kF93_n9YM

 今まで、「世界史」を書いた人は、ヨーロッパのギリシャ人(ヘロドトス)と中国人(司馬遷)だった。
 今度は、われわれ日本人の手で、世界史を書こう。

 今までの300年間、世界中が軍国主義だった。白人たちは、どんなに酷い悪いことをしてきたか。日本だけは違っていた。日本は一番最後にちょっと軍国主義になっただけだった。日本だけが軍国主義で侵略をしたというのは大きな間違い。
 第一次世界大戦で、ヨーロッパでは非戦闘員 女子供を含め約2500万人が死んでいる。

 いま戦後70年、日本は悪いことを何一つしなかった。だから、日本の国際的地位は上がっている。世界は日本をほめちぎっている。日本人がいうことなら従うよ、真似するよ、という国がどんどん増えている。日本文化が世界に浸透しつつある。

 日本はこれから教育大改革で、劇的に変わって行くであろう。生き生きと自信を持って世界に貢献する国に。

 ――というのが、前記≪日下公人×宮脇淳子対談シリーズのYouTube動画「日本人が創る世界史」≫の一部(約2時間。全部見ると丸一日かかる)を視聴して、両先生の言葉からメモした、魂に響いた言葉でした。

<つづく>

  (2015.6.9)
45 分裂がないのを、「生長の家」というのです。


 「みすまる宣言」 に、

 ○生長の家とは、建物の名ではない。「和」の名であり、「愛」の名である。

 ○分裂がない、対立がないのが生長の家であります。

 ○だから、生長の家は永遠なのであります。


 と書いてあります。それが、「実相
(ほんとのすがた)」 であります。

 ところで、再び 『光明道中記』 「6月 神にむすばる」 より――

          
* * * * * * *

○悪は無いからこそ征服し得るのである。暗
(やみ)は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺める時、吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。光は驀(まつしぐ)らに暗に向って進むのである。光が暗に向って進軍するとき暗は消える。進軍は行(ぎよう)である。

 「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を瞑
(と)じて、「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、「触らぬ神に祟(たたり)なし」式に行動することではない。「悪」をその眼の中に直視するのである。偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰められると、裁判官の前に引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。光に視詰められるとき暗は消えるのであって、暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて灯(あかり)を点(とも)さないことではない。(六月二日 恐れず所信を貫く日)

          * * * * * * *


 上記の 「悪」 というところを 「
分裂」 と置き換えてみましょう。

分裂は無いからこそ征服し得るのである。暗(やみ)は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺める時、吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。光は驀(まつしぐ)らに暗に向って進むのである。光が暗に向って進軍するとき暗は消える。進軍は行(ぎよう)である。

 「本来 『
分裂』 無し」とは、分裂に対して卑怯にも眼を瞑(と)じて、「分裂」 を見ることを避け、それに触れることを避けて、「触らぬ神に祟(たたり)なし」 式に行動することではない。「分裂」 をその眼の中に直視するのである。偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰められると、裁判官の前に引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。光に視詰められるとき暗は消えるのであって、暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて灯(あかり)を点(とも)さないことではない。(六月二日 恐れず所信を貫く日)

 「分裂のない、一つの生長の家」 を実現する


 ために――

○単に「思い煩(わずら)うな」と言って、問題を次へ次へと延ばして行く者は、恐怖を先に延長しているようなものであって、本当は「思い煩っている」のである。吾々は事物に面することを次へ延ばすことなく、「今」受けるが好(よ)いのである。「今」恐れなく受けるのである。「今」目の前にあるものが決して自分を害するものではないと知ることである。避けるのではない。捉えるのである。(『光明道中記』 「六月十二日 今すぐ行う日」 より)

 逃げることなく、先延ばしすることなく、「今」 思うことを発言し、「今」 できることを実行してまいりましょう。他に責任をなすりつけるのではなく、「自分が一切者である、一切の責任者である」として――

○先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾
(は)ね返す力を失って了うであろう。譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。而もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。相手は弾ね返されながら、そのことに就て快感を感ずるであろう。柔かく弾ね返す褥のように。調和から万事が生れ、調和から万物育つ。(『光明道中記』 「六月六日 心やわらかになる日」より)

○すべての人々を赦し、赦すだけではなく、すべての人々に感謝出来ますように、あなたの愛を私に流れ入らしめ給え。自壊作用なくして理想世界が実現致しますように。すでにわが願いがあなたに聴かれたることを感謝いたします。
(同前書 「六月八日 祈りに始まり祈りに終る日」より)

 合掌 ありがとうございます。

  (2015.6.8)
44 相愛会連合会役職フリーのご報告


 6月6日(土)、シニア学習会に出席しました。これまで私は相愛会教区連合会顧問・シニア対策部長というお役を頂いていたのですが、その役職は解任され(先月末に通告を受けました)フリーとなりました。

 しかし、役職としてはまだ 「聖使命会費取扱者」 というお役があります。

 このお役は、解任されることはないでしょう。また、聖使命会費を納め続ける限り、「聖使命会員除名」 ということもあり得ないだろうと思っています。

 で、私は今も現教団組織に所属している信徒です。

 私は、生長の家人類光明化運動というのは谷口雅春先生が自らおっしゃっていますように、谷口雅春という一個の人間が始められた運動ではなく、宇宙の大神が人類の苦悩をみそなわして広大の慈門を開き給うた宗教運動であるということを信じます。

 アンデルセンの童話に、「おじいさんのすることに間違いはない」というのがありますね。

 この物語のあらすじは、お金が必要になったおじいさんが、素晴らしい駿馬を牛と取替え、牛を山羊と取替え、山羊を鶏と取替え、最後には鶏を腐ったリンゴ1袋と取り替えてしまう。それを見ていた大金持ちが、「さぞかしおばあさんが怒るだろう」と言うと、おじいさんは、「いいや、家のおばあさんはいつも、おじいさんのすることに間違いはないと言うよ」と言うので、「もしそれが本当なら、わしの土地を全部上げよう」と、家までついて行く。するとおじいさんから駿馬が腐ったリンゴになった話を聞いたおばあさんは、「おじいさんのすることに間違いはない」と言って、そのリンゴを欲しがっている隣家へ届けに行き、おじいさんは約束通り土地を手にして、豊かな老後を送った、という物語ですね。

 このお話は、「おじいさん」 というところを 「神様」 と置き換えると、私は納得できます。

          * * * * * * *

 聖経 『真理の吟唱』 に

≪神の愛は近視眼的愛ではなくて遙かに前途を見越して、有終の美を飾る如き結果をわれらに与えたまうのであるから、現在の状態がたとい如何なる状態であっても私たちは神に対する信頼を失うということは絶対にないのである。≫(「人生の苦難を克服して伸びる祈り」)

≪宇宙の一切のものは、神の無限の内容が、時間空間の枠を通して逐次に展開し行く姿であるのである。それゆえに今日は昨日よりも一層よく、明日は今日よりも一層よくなることは間違いないのである。

 たとい一時、暗黒の状態があらわれようとも私は決してそれについて悲観することをしないのである。暗黒と見える時にも生命の生長の営みは行われているのであって、植物は、夜のうちに一層伸びるということである。われわれの魂も、境遇が苛辣であり、周囲の一切のものがただ暗黒に閉ざされていると見える時には、かえっていろいろの反省や努力が行われて、明るい幸運にめぐまれている時には、ないがしろにせられていた魂の部分が一層伸び且つ向上し進化するのである。

 肉眼には明暗の二相があるかのように見えているけれども、魂にとっては、明暗ともに、生長と進歩との機会なのである。悪しきものは宇宙のどこにも存在しないのである。

 わたしの希望は、神の希望がわたしという噴出口を通して、実現して来ようとしている衝動であるのであるから、その希望は自分自身の卑怯な臆病な躊躇逡巡をもって妨害しない限りは必ず成就し実現するのである。

 「不可能」という語は、それが他の人々に不幸を与え迷惑を蒙らせるような願いでない限り、あなたの「生活の辞書」には存在しないのである。

 私は今日より後、一切の卑怯な躊躇と臆病な逡巡とに別れを告げるのである。
 私は勇敢に希望実現の道を歩む。
 神が導き給うのであるから、決して道に迷うことはないのである。

 私は光に照されて、神の示したまえる大道を歩むがゆえに、私の行く先はことごとく神の光に照されて、暗きは明るくなり、嶮(けわ)しきは平らかとなるのである。

 私は神を信じ、神の導きを信じ、つねに神の叡智を受けて進むがゆえに、わが心は疑いの念に一瞬でもくらまされるということはないのである。

 神の光に照されて人生の大道を歩む私たちは誠に幸福なるかなである。
 神に深く篤く感謝し奉る。

 ありがとうございます。ありがとうございます。≫

   (「困難を克服して伸びる祈り」)

          * * * * * * *

―― と教えられている通りです。

 「わたしの希望は、神の希望がわたしという噴出口を通して、実現して来ようとしている衝動である」

 その 「わたしの希望」 は、

 
「分裂のない、一つの生長の家」 を実現する

 ということです。

 「今が最高、今こそ魂が大きく飛躍する最高のチャンス」 だと思います。

 「ひろば」 の20番目で、Oyaoya様が

≪福島正俊氏の遺稿を拝読し、すごい方がおられたのだと感銘しました。

これを拝読し、こういう方がおられた生長の家ですから分裂するはずがない、岡先生が 「生長の家は分裂しない」 とおっしゃるのが少しわかってきたような気がします。
わたしが感じさせていただいたことは、生長の家にはまっすぐな道しかない、だから分裂のしようがない、ということかと思います。

ならば現実との乖離をどう説明したらいいのでしょうか。
それは、「分裂」はないけれども 「外れていく者はある」、ということかと思いました。
これは組織から外れるという意味ではなくて、教えから外れていくという意味です。

教団がこぞって外れていこうとも、自分はまっすぐな道を行く、というのが、このたび岡先生が示されたご行為なのかと拝察する次第です。
わたしも中にいて、まっすぐに行くにはどうしたらよいのか、考えさせていただきます。≫

 と書いて下さっている。このお言葉もかみしめ、私は上記 『真理の吟唱』 のお言葉のように、

 
≪わたしの希望は、神の希望がわたしという噴出口を通して、実現して来ようとしている衝動であるのであるから、その希望は自分自身の卑怯な臆病な躊躇逡巡をもって妨害しない限りは必ず成就し実現するのである。

 私は勇敢に希望実現の道を歩む。
 神が導き給うのであるから、決して道に迷うことはないのである。

 私は光に照されて、神の示したまえる大道を歩むがゆえに、私の行く先はことごとく神の光に照されて、暗きは明るくなり、嶮しきは平らかとなるのである。

 神の光に照されて人生の大道を歩む私たちは誠に幸福なるかなである。
 神に深く篤く感謝し奉る。≫


 ――この道をまっしぐらに、明るく前進してまいります。

 合掌 ありがとうございます。

(2015.6.7)
43 『光明道中記』 「6月 神にむすばる」を拝読して

 明日、6月6日はわが教区相愛会シニア会員の学習会。テキストは『光明道中記』当月(6月)の法語を学ぶことになっていますので、しっかり拝読しました。

 今の心境にピッタリ合った、わが魂にひびく神の贈りもののお言葉がいっぱいありました。少し抜粋謹写させて頂きます。

          * * * * * * *

○吾が力で何事でも成そうと思う者は躓
(つまず)く。自分は神の流出口であると思わねばならぬ。(冒頭扉裏の言葉)

○悪は無いからこそ征服し得るのである。暗
(やみ)は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺める時、吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。光は驀(まつしぐ)らに暗に向って進むのである。光が暗に向って進軍するとき暗は消える。進軍は行(ぎよう)である。

 「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を瞑
(と)じて、「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、「触らぬ神に祟(たたり)なし」式に行動することではない。「悪」をその眼の中に直視するのである。偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰められると、裁判官の前に引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。光に視詰められるとき暗は消えるのであって、暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて灯(あかり)を点(とも)さないことではない。(六月二日 恐れず所信を貫く日)

○人が神に近づくには試練の火が必要であり、必ず困難によって鍛えられなければならないと云うのは虚
(うそ)である。……試練を神に帰することは神を残忍者であると観、神を不完全者であると観ることになる。斯くの如きことは「子たる者」の為すべきことではない。子自身が勝手に放浪(さすら)い出て困難を経験していたに過ぎない。心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなるのである。(六月三日 困難消滅する日)

○狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ大事業を打ち建つべきである。「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、あなたは今日から出直さねばならぬ。
(六月四日 天の声を聴く日)

○柔かい心で一切を受け容れること。上等のバネ附の褥
(しとね)のように、羽根蒲団のように、柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。弾力性のある心こそ必要である。一時は強いようでも相手と衝突して脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。弾力ある心はすべてが調和して、相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。柔かくなること。調和ある心を為すこと。調和ある動作をすること。

 先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾
(は)ね返す力を失って了うであろう。譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。而もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。相手は弾ね返されながら、そのことに就て快感を感ずるであろう。柔かく弾ね返す褥のように。調和から万事が生れ、調和から万物育つ。(六月六日 心やわらかになる日)

○すべての人々を赦し、赦すだけではなく、すべての人々に感謝出来ますように、あなたの愛を私に流れ入らしめ給え。自壊作用なくして理想世界が実現致しますように。すでにわが願いがあなたに聴かれたることを感謝いたします。
(六月八日 祈りに始まり祈りに終る日)

○盤根錯節
(ばんこんさくせつ)(面倒な事柄)を厭(いと)うのが生長の家の生活ではない。盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。盤根錯節が吾々に不幸を齎(もたら)すのは、盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、盤根錯節は却って吾々に幸福を齎すのである。(六月十一日 困難を征服し宝石を得る日)

○単に「思い煩
(わずら)うな」と言って、問題を次へ次へと延ばして行く者は、恐怖を先に延長しているようなものであって、本当は「思い煩っている」のである。吾々は事物に面することを次へ延ばすことなく、「今」受けるが好(よ)いのである。「今」恐れなく受けるのである。「今」目の前にあるものが決して自分を害するものではないと知ることである。避けるのではない。捉えるのである。(六月十二日 今すぐ行う日)

          * * * * * * *

 合掌 ありがとうございます。

(2015.6.5)
42 “花燃ゆ”第22回「妻と奇兵隊」


 「死して不朽の見込みあらば、何時でも死ぬべし!

 生きて大業の見込みあらば、何時でも生くべし!」

      (吉田松陰)

 幕末、明治の夜明け前、江戸幕府はじまって以来初の、欧米列強との戦いが下関で行われた。「攘夷」の旗印で戦った久坂玄瑞指揮する長州軍は、完膚なきまで打ちのめされる。

 そのとき・・・高杉晋作が現れる。

 「日本の今までの戦い方ではとても欧米列強には叶いません。正面からは勝てない相手ならば、奇策をもつて戦う兵をつくります。名付けて奇兵隊といいます。身分に関わらず兵を集め、隊をつくります。百姓、町人、戦う志のあるものは皆、入隊させる。武士のみならず、この長州の男、女をみな決起させねば異国から下関の海は守れません」

 と、藩主に進言。この斬新な革新的な考えを長州藩の毛利藩主は受け入れる。

 「俺は生きて、この奇兵隊で大業をなさん。
 志あるものは身分を問わず奇兵隊へ集まれ。」

 そして高杉晋作は、奇兵隊として集まった町民、農民にこういう。

 「今までのやり方だったら、隊長を失った隊は指揮なきまま、散りぢりになって隊の機能が崩壊した。そのような上下の隔たりを俺はなくす。この奇兵隊はたとえ隊長を失おうとも、すぐさま誰かが隊長となり、指揮を続ける・・・」

 民衆のエネルギーを背景に長州は新しい時代へと踏み出す。

 ――今や平成の国難来たる時、この 「草莽崛起(そうもうくっき)」 こそが国を救い世界を救うのではなかろうか。

(2015.6.4)
41 八千草薫『あなただけの、咲き方で』を読む(2)


 八千草薫著 『あなただけの、咲き方で』 の抜粋紹介と感想のつづきです。

          ○

  
 丁寧に向き合う時間が豊かな結果につながる(p.64~)

 近年、ものすごいスピードで世の中が変化しています。何ごとも便利になったものだと思う反面、そのスピードに合わせようと、みんなが少々急ぎすぎているような気がしてなりません。

 私自身、こんなに速く過ぎていっていいのかなと時折思いつつも、さっさと駆け足で歩かなくては、おいてきぼりになってしまいそうな不安を感じてしまうこともしばしばです。

 ご多分にもれず、映画やテレビなどの作品づくりでも、そんなスピード化の波が押し寄せてきているのを肌で感じるようになってまいりました。限られた制作日数で作品を作るために、撮影現場では流れるように現場での作業が行われます。役者一人ひとりがしっかりと準備をして撮影に臨む。そのこと自体は、すばらしいことだと思います。

 でもその一方で、何もないところから、試行錯誤して作品を創り上げていく醍醐味が失われつつあるようで、昔のことを知る人間にとっては、ちょっと寂しいような、味気ないような気もいたします。

 芝居は一人で作るものではなく、本来は相手との関係性の中で探り合ったり、ぶつかりあったりしながら、創り上げていくもの。相手が役柄をどう受け止めて、どのように演じるかによってそれを受けた側の演技も変わるのが自然です。ですから、相手のお芝居に呼応することで、自分でも思いがけない演技が引き出されることもあります。

 そんな奇跡のような一瞬に出合うためには、互いの意見を尊重しながら時間をかけて進めていくことも、必要なのだと思うのです。

   喧々諤々
(けんけんがくがく)のディスカッションを大事にする

 何ごとも効率化が求められる現場では、暗黙のうちに争いごとを避けてしまいがちです。……余計な波風を立てないように、何か思うことがあってもすっと通り過ぎてしまう。みんなが行儀良くなり過ぎているような印象も受けます。

 かつて、テレビがまだ白黒だった時代、ディスカッションが多いことで有名な連続ドラマに出演させていただいたことがあります。撮影のためのディスカッションをしていると、必ず深夜12時を過ぎてしまうのです。こんなに遅くまで話し合いをして、明日の撮影はどうするんだろうと思うこともしょっちゅう。堂々めぐりの話の展開にしびれを切らして、「結局やるんですか? やらないんですか?」とお尋ねしてしまったこともありました。

 時間はかかりますし、相当の体力や気力が必要で、当時はみんなそれはもう必死でした。それでも、みんなが一所懸命で、納得できるまでスタッフや俳優の垣根なく全員がどんどん言い合う環境が整っていたことは、今から思えばとても贅沢な現場だったのだと、懐かしく思い出されます。

 よりよい作品を作るために、互いが納得できるまでとことん話し合う。そんなディスカッションの力を改めて感じる今日この頃です。


          ○

 生長の家の普及誌『いのちの環』63号には、総裁の「多様性の中に神を見る祈り」が掲げられ、「きらわれものから見た生物多様性」という特集が組まれて、「ダニ博士とハエ博士の異色対談」という記事も掲載されています。

 ダニ博士、ハエ博士として名高い青木淳一、倉橋弘両氏の対談で、感銘深いものがあります。抜粋引用させていただきます。

          ○

 青木 なぜ生物多様性が保たれていなければいけないのか、という問いにまともに答えるのはなかなか難しい。神様に聞くしかないわけですが(笑)、一つ言えるのは、地球上で何かカタストロフィー(破局)が起こった時、単純な生態系、多様性の低い生態系だと、すぐ、ぽしゃっちゃうということですね。回復できなくなるんです。

 例えば森だったら、高木、亜高木、低木、下草などいろんな性質を持つ植物が育っている自然の森なら、山火事や崖崩れが起きたりして何かがダメになっても、他の植物が動き出して修復する。生物多様性というのは、地球の生命維持装置だと言った人がいますが、大変いい表現で、私もその通りだと思います。

 倉橋 言い得て妙ですね。その意味で、生物多様性が損なわれるのは、地球にとって非常に危険なシグナルですが、なかなか気づきにくい。静かなところで進行しているので、気づいたらとんでもない事態になっていたということが、大いにあり得えます。

 ……自然というのは、絶妙なバランスの上に成り立ち、既に出来上がっているもので、それだけで価値があるものでしょう。ダニもハエもそのバランスの中に組み込まれているなのに、人間が勝手にバランスを崩し、こんなものは目障りだと排除しようとしたりする。そんな発想は絶対しちゃいけないと思いますね。

 では、大切な生物多様性を守っていくために、どうしたらいいかということですが、益虫、害虫という分け方に象徴される、人間を中心にした物の見方、考え方を改めることだと思います。人間でも、私たちみたいにダニを研究したり、ハエを研究する“変なおじさん”(笑)がいていいように、種々様々な生物がいていいというか、いなければならないんです。


          ○

 ――私、岡は現在生長の家相愛会の会員でありますが、相愛会会員は生長の家本部の運動方針に添って活動しなければならないというような規約がある、それなのに運動方針を批判するようなことを書いて発表している“変なおじさん”だから、除名すべきだとおっしゃる本部中枢の幹部の方がいらっしゃるらしいです。その方は、上記両先生の

 「地球上で何かカタストロフィー(破局)が起こった時、単純な生態系、多様性の低い生態系だと、すぐ、ぽしゃっちゃうということですね。回復できなくなるんです」

 「人間が勝手にバランスを崩し、こんなものは目障りだと排除しようとしたりする。そんな発想は絶対しちゃいけないと思いますね。」

 というご発言を、どう受け取っていらっしゃるのでしょうか。

 「めんどうくさい(ことをあえてする)」 が地球を救う、とのご指導もあったと思います。

 八千草薫さんの、

 「よりよい作品を作るために、互いが納得できるまでとことん話し合う。そんなディスカッションの力を改めて感じる今日この頃」


 とおっしゃる言葉――生長の家の組織には、それはありえないことなのでしょうか。


(2015.6.3)
40 八千草薫『あなただけの、咲き方で』を読む


 5月27日に、八千草薫主演の新作映画 『ゆずり葉の頃』 を観た時、八千草の新著 『あなただけの、咲き方で』 というのがあることを知り、妻が読みたいというので購入し、私も読みました。

 共感するところが多くありましたので、少し抜粋紹介させて頂きます。

          ○

     はじめに

 私は、16歳で宝塚歌劇に入団してから、舞台や映画、テレビドラマに出演し、約67年間、女優生活を送ってきました。

 とはいえ、華やかな世界が苦手で、女優に向いているのかと常に自問自答しながら、続けてきたというのが正直なところです。

 ただ、他の人と比べてあれこれと悩むよりも、自分らしい生き方ができたらいいのではないか。ときを経るごとに、そんな思いにようやくなれたような気がしております。……(略)……

 そんな私が、最近心がけているのは、ちょっとだけ無理をすること。

 なぜなら、若い頃と違って精一杯頑張り過ぎることでかえって周りに迷惑をかけてしまうかもしれません。だからといって、まったく無理をしない生活では、ただ無為に時を過ごしているだけなのではないかと思うからです。

 だから、何に対しても、“ちょっとだけ”無理をして生きていこうと思っています。
 同時に、あれこれと先のことを心配したり、行く末を案じたりしても先のことは分からないな、とも考えるようになりました。

 歳を重ねることに、焦りもしなければ、諦めもしない。それよりも、一日をきちんと生きようとすることが大切なのではないでしょうか。だから、今日一日をなんとなく一生懸命やったな、と思うことができれば、それでいいんじゃないかと思うのです。……(略)……


          ○

 「ケセラセラ、なるようになる。先のことなど わからない」 という歌もありましたね。

 焦りもしなければ、諦めもしない。ちょっとだけ無理をして、「今」 を生きる。――私も、それで行こうと思います。

 それは、

 ≪「 『一つ』 の生長の家」 実現のために、“いのち”を捧げます。≫

 と言ったことと、必ずしも矛盾はしないと思うのです。

 肩の力を抜いて、焦りもしなければ、諦めもしない。ちょっとだけ無理をして、「今」 を生きる。それで行こうと思います。

 困難なことに面しても、それは 「神の栄光の現れんがためである」 と信じて、私も福島正俊先達のように、「一呼一吸感謝大自然士」 として、常に感謝、感謝、明るく強く前進します。

<つづく>

(2015.6.2)
39 岡は、“本流”には参りません。


 岡は、“本流”には参りません。

 なぜなら、「梅の花の神示」に

 ≪世界に中心が幾つもあって争っていて人類が幸福になれるなどと思うな。太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。この事実を見て宇宙の意志を窺
(うかが)えよ。地上の国々だけが中心が幾つもあって好(よ)いと思うな。複数の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。一つの中心が太陽系に成るが如く地上にも成る日が近づいたのである。≫

 とあり、「久遠天上理想国実現の神示」には

 ≪一切のものは中心に集り、中心に統一せられることによって澄む即ち浄められるのである。中心のないものは統一がないので、雑然として言噪
(ことさわ)ぐのである。……中心が無しにいつまで論争(ことあげ)して見たところで、善きことは生れぬ。論争(ことあげ)したすべての国が一つの中心にあつまりて、統一せられねば全世界は一つの『家』にならぬのである。久遠天上の『生長の家』が地上に顕現して全世界が『生長の家』にならねば永遠理想世界は地上に来ぬ。≫

 とあります。

 私は、福島正俊先達が決意された

≪世界の平和
 人類光明化のため
 恩師谷口先生の御教 「生長の家」 を 世界に宣布する。
  (全人類が一人残らず神の子の実相を体得するまでは我れ正覚を得ず)≫

 のお志を受け継ぐことを決意しました。それには、「生長の家」 が 「中心に集り、中心に統一せられる」 ことなく分裂状態にあって 、そんな 「生長の家」 を世界に宣布するということが出来るわけはない。だから、まずは、

 
「分裂のない、一つの生長の家」 を実現する

 ために、わが “いのち” を捧げます。

 そのためには、“本流”(分派)に行く必要はない。

 「ひろば」 20番目に、 Oyaoya 様が次のようにご投稿くださいました。

≪生長の家にはまっすぐな道しかない、だから分裂のしようがない。

 「分裂」はないけれども 「外れていく者はある」、ということかと思いました。
 これは組織から外れるという意味ではなくて、教えから外れていくという意味です。

 教団がこぞって外れていこうとも、自分はまっすぐな道を行く、というのが、このたび岡先生が示されたご行為なのかと拝察する次第です。≫

 と。

 現在あらわれて見える分裂状態は、総裁が悪いのでもなければ、本流(分派)が悪いのでもない。自分が神であり神に生かされている、一切者である。自分が「本来“一”」の元に還ればよいのである。自分が浄まればよいのである。悪は無いのである。悪と見えるものは、善が現れ出でようとしている過程なのである。現れ出ようとしている善を引き出すには、基本的には礼拝讃嘆と感謝の言葉によるのである。

 しかしながら、「讃嘆と感謝の言葉以外を使ってはならない」と自縄自縛することもないのである。イエスも仮相(まよい)の現れに対しては“サタンよ退け!”と一喝した。宮の境内で牛・羊を売る者があると、縄の鞭をもって動物たちを追い出すような乱暴もされた。谷口雅春先生も、革命を扇動する“進歩的文化人”などを激しく口撃されたこともある。

 そういうことをすれば、「切る者は切られる」という法則がはたらいて、自分が切られることもある。しかし、それを恐れて自縄自縛する必要もない。もともと自分はないのであるから、不滅なる実相が切られることはない。

 「安らなれ すべて善ければ
 とこしえに 此処極楽に
 なれは今 まもられてあり」 (堅信歌)

 である。

     * * * * *

 『生命の實相』第2巻97頁には、

 ≪よく生長の家の本部の建物はどこだときく人がありますが、わたしが今坐っているここは生長の家本部ではなく「生長の家本部」は霊界にあるのです。そしてわたしはただこの霊界の本部の神の啓示を出版する役目を受け持たされているだけですから、雑誌『生長の家』第二集第一号にも、わたしのことを「生長の家」の出版部係と書いてあります。住吉在住当時のわたしの宅へお出でになった方はごぞんじでありましょうが、わたしの宅に「生長の家出版部」とのみ標札が出ていた。これは霊界にある「生長の家本部」と地上にある出版部とを区別せんがためであった。

 ともかく、わたしは皆さんとともに『生長の家』の一読者として、それを読み、習い、修養して皆さんとともに一歩一歩向上せんと努力している一求道者にすぎないのであります。わたしだって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。≫

 と書かれています。

 創始者谷口雅春先生も、「自分は中心ではない、神が中心である」とされているのです。

 全信徒がその「中
(みなか)」なる神に帰一したならば、おのずから 「一つの生長の家」 が実現することは間違いないと信じます。

 「雅宣総裁率いる現生長の家教団と、“本流”を名乗る“学ぶ会”とが和解し協力しあう、なんていうことが出来るわけはない」 と、教団の幹部は言うし、“本流”の方たちも言う。

 しかし、

 「人間には出来ないことでも、神なら出来る」

 というのが生長の家の御教えなのではありませんか?

 谷口雅宣総裁に感謝し、お願い申し上げます。

≪ 総裁は、本年(2015年)1月1日のメッセージとして、『「結び合う」生き方を進めよう』 と呼びかけられました。
 では――「本来一つ」であった元々生長の家の熱心な同志たちで 今は離れて対立的になっている人たちと、 「互いに結びあって、一緒に協力して前進する」 ようになることは、できないのでしょうか?≫

 総裁は、『いのちの環』 No.62に、次のような 「神の子の希望実現のための祈り」 をご掲載下さいました。

     * * * * *

≪ 神さま、私は神の子であり本来、自由自在の存在です。「神の子」とは、仏教では「仏」のことです。仏さまは、何ものの束縛も受けない「ホドケ」た存在です。だから仏教では、すべての人間に仏性ありと教えるのです。人間は本来、自由な存在だという意味です。キリストが「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」と教えられたのも、心から束縛がなくなれば、人間は神の国に入ることができるという意味です。このように、私の本性は自由自在ですから、私が何かに縛られて動きが制約されたり、運命の手から逃れられなかったり、誰か他人の言いなりにならなければ生きていけないことは、本来あり得ません。私は神の子として、このことを高らかに宣言します。

 (中略)

 ああ、神さま。私はあなたの御心を地上に表現するために生きている神の子です。神さまは対立や争いなどの不完全を創造されていませんから、神の子の前にも対立や争いが生まれる必要はありません。もし対立や争いがあるように見えるならば、それは私の希望が神さまの御心と充分一致しておらず、私の生き方が神さまの御心を充分反映しておらず、あるいは対立や争いの相手に対して、私の思いが充分伝わっていないからです。私は神さまの御心をよく聴き、神さまの創造になる世界には不調和が存在しないことをよく知り、私に内在する神さまの御徳を充分に発揮して、「私の希望は神の御心なり」との堅い信念をもって希望実現の道を邁進いたします。

 神さまの御徳とは正しい「知恵」であり、無償の「愛」であり、無限の「生命力」です。私は神の子ですから、知恵を求めかつ表現し、愛を与えることを惜しまず、生命力を行使して様々な分野に挑戦することに喜びを感じます。私はすべての人々と調和して進むばかりでなく、存在のすべてに――動植物や菌類などの生物、大自然や地球環境とも調和して、「真」と「善」と「美」を地上に顕現するために、希望と喜びの人生を歩んでまいります。神さまの御心にかなう希望は、必ず実現するからです。

 この大いなる自覚と、希望実現の信念と勇気を与えてくださった神さまに、心から感謝申し上げます。ありがとうございます。≫

     * * * * *

 ありがとうございます。

 上記の確信と祈りをもって進めば、必ず

 
「分裂のない、一つの生長の家」 を実現する

 ことは、成就すると信じます。

 その実現のために、私は“いのち”を捧げます。
 お役に立てることがあれば、喜んでお役に立たせて頂きます。
 ありがとうございます。

(2015.6.1)
38 福島正俊遺稿集『激動の世に“いのち”捧げて』を読む(3)


 <つづき>

 『激動の世に“いのち”捧げて―福島正俊遺稿集―』 より抜粋謹写

          ○

   私の日誌(昭和54年1月29日(月))―福島正俊遺稿集―

 私の心の中にはいつも「殉皇至誠正俊」と「一呼一吸感謝大自然士」の二つの戒名(戒名とは何も霊界に行ってからつけるものではなく、われを戒めてこの地上に大いなる使命を果たすものであって、あの世はあの世のことだ。この地上界でしつかりやれるようにわれを戒めての名である)が絡(から)み合って居た。日常は、殉皇至誠であっても、いざ、生と死の境に立たされると必ず“一呼一吸感謝大自然士”となって胆ッ玉が坐って度胸が出て来て、起死回生の、それこそ死地を脱出することが出来たのであった。そして又「殉皇至誠」に還るのである。……(中略)……

 昭和十四年に初めて生長の家の御教に入らせて頂いてから少年時代を、それから現役兵として入隊してから戦場に、シベリアの虜囚に、そして神戸大学にて、一貫したものは「天地一切すべてのものは神様の生命(いのち)である」と言うことであった。このために必然的に神想観を行ずるほかに道がなかったのである。本当に昭和十四年に入信させて頂いた時から、神想観だけは一日も欠かすことが無かったのである。

 このおかげで一兵士たる身でありながら、軍人精神は本当に実践することが出来たし、又生死の境にあってもいつも、自我を滅することが出来たのである。このときは神想観の行によって理窟を抜きにして只、「ハイ」の精神を行じきることが出来たのであった。

 今このことをこと更に何故書くのかと言えば、生長の家の全組織にとって一番大切なことは只「ハイ」の精神であって、この精神が無ければ「いのち」はあらわれて居らないのである。……(後略)……

     昭和維新は吾らの手で

   『生長の家三拾年史』を拝読して

 開巻第一に強く感じたことは「生長の家の本尊」について、谷口先生がお示し下さつた「教義の大要」である。

 「国体ヲ明徴ニシテ皇室ノ尊厳ヲ明ニシ、各宗ノ神髄ヲ天皇信仰ニ帰一セシメ、尽忠報国、忠孝一本ノ国民精神ヲ昂揚シ、悪平等ヲ排シテ一切ノモノニ人、時、処、相応ノ大調和ヲ得セシメ、兼テ天地一切ノモノニ総感謝ノ実ヲ挙げ、中心帰一、永遠至福ノ世界実現ノ大目的ヲ達成センコトヲ期ス」

 ここを拝読して、今更ながら、「生長の家が皇祖皇宗の御神霊の御垂示によって顕(あらわ)れ給うた御教」であることをはっきりと覚らせていただいた。

 今までの考え方では、肉体谷口先生を通して生長の家を拝していたのであるが、それは大きな誤りであって、天皇の御生命の流れが生長の家であることが判ったのである。ありがたき極みである。

 そして、生長の家発祥の前後に住吉村に住んでおられた谷口先生が毎日、本住吉神社へお参りなさって、人類救済の悲願達成を御祈願なされたことを拝して、私もまた毎日、今まで通り教化部における早朝神想観に通って、益々人類救済の悲願達成に真剣な祈りをささげることにする。そしてどんな小さな問題でも、神に立ち還って、神の立場から考え、また行って、問題の本当の解決をだしてゆきたい。

《壁間にかかげた決意の書》
神想観
世界の平和
人類光明化のため
恩師谷口先生の御教 「生長の家」を 世界に宣布する。
(全人類が一人残らず神の子の実相を体得するまでは我れ正覚を得ず)
この神想観は私の永遠の願とする。

   勇気ある行動について

 谷口先生の大勇猛心を私の心としなければならない。

 昨年九月、教員組合のゼネストが決行される前日の十四口、兵庫県において志を同じくする十二名の現職者によって兵庫県教職連盟が結成されて、それぞれ日教組を脱退した。そのとき、各有名新聞を通じて声明書を発表し、日教組に対してその反省を促したのであるが、日教組傘下にある兵庫県教職員組合及び学生達の反撃は猛烈を極めた。学内に於いては反動グループと称されて掲示とビラが全学に配布され、授業ボイコット、職場ボイコットが行われた。

 その当時私は組合の委員であつたので、組合幹部からの追及はするどかった。組合の委員会が開かれた。

 「君は何故組合に対して反旗を翻すのか。」

 ――私は現在の組合が赤旗を振りストをやる限りは、皆さんとともにいることはできない。

 「我々は何も赤旗を振っておるのではない。勤評反対のために行動を起しているのであって、誤解してはいけない」…(この後、共産主義者の計画していること等、長時間にわたって説明がなされ、又問答が繰り返されたのであるが、紙面の都合上省略する)

 「とにかく君がそのような組合に対する反対行動をとるならば、今後職場においての人間関係が困難となり、行きづまって、君自身が苦しくなる。今からでもよい。君が現在の行きがかりを捨てて職場で正常な働きを希うならば、我々としても快くそれを受けたいと思うから、よく考えて執行委員長まで話を出して貰えばよい。」

 ――今後の職場関係で私が苦境に立つと言われるが、私は今のような組合の在り方はつづかないことを確信しており、必ず必ず赤旗は消えて、日の丸の旗を振ってお互いが祝福し合う日が来ることを確信しているから、人間関係がどうのと言われても少しも苦しくはない。とにかく私は、祖国を天皇中心のものにするために全力をささげているのであるから、もう皆さんと議論しても無駄であるから、ここでお別れする。しかして皆さんが日の丸の旗を振るようになったときは、私は喜んで皆さんのところに帰ってくる――

 私は委員会を去った。そのとき私の手には、シッカリとお守りの『甘露の法雨』がにぎられていた。

 翌日私は上司より、「現在の運動(光明化運動)をやめるか、それが出来ないならば退職して貰わなければならない」旨を言われて、運動をやめる位なら退職した方がよいと覚悟した。しかしこのことは、喜多正一氏(兵庫県連副会長)の御助言により「私が退職することは敗退」であることを知って、職場にとどまることに意を決した。そして私は、神想観を一所懸命にやった。

 このときほど御教の力、谷口先生のお祈りの力を強く知ったことはない。私自身のみならず、兵庫県教職員連盟が強くゆるぎもしなかったのは、同志の中六名までが生長の家の御教によって結ばれた「新教育者連盟」の人達であったからである。

   困難は困難でなくなる

 私たちの運動は大きく前進してゆきつつある。未来への希望に燃えつつ、それは、谷口先生が住吉より発祥されて、幾多の辛苦を乗り超えられて歩まれたその道の後を、私たちはよろこんで歩みつづけているからである。

 日本の実相顕現のため、今日ほど強い勇気を要するときはない。そして、立教の精神が天皇信仰にすべてを帰一せしめる大理想であるならば、昭和維新は我々の手によってなされなければならないのである。古今未曾有の大国難である現在、神が、我々を選び給うて、祖国防衛の第一線に起たしめられたとき、七生報国の念願のもとに再度今生に現れし楠公谷口先生のもと、一致団結して祖国のために身命をささげるのが、我々生長の家人の覚悟ではないか。

 これからは、幾多の困難があると思う。しかし我々は、先生が、輝子奥様が押された“乳母車”のあのときの御心情を思うとき、生長の家人としてのよろこびと幸福に燃えて、困難は困難でなくなることを確信しているのである。

     (『生長の家』昭和34年6月号)

          ○

 ――私は、上記の福島正俊先生遺稿集『激動の世に“いのち”捧げて』を拝読し、深い感動と共に、この福島先生の魂をわが魂としてしっかと受け継ぎ、自分もまた日本の実相顕現・世界平和 人類光明化のため、「生長の家」を世界に宣布するために、生れかわり生れかわりして“いのち”捧げようと、決意いたしました。まずは、


 「分裂のない、一つの生長の家」 を実現する


ために、わが “いのち” を捧げます。

(2015.5.31)
37 福島正俊遺稿集『激動の世に“いのち”捧げて』を読む(2)


 <つづき>

 『激動の世に“いのち”捧げて―福島正俊遺稿集―』より

          ○

     天皇の実相をあらわすもの

 “一呼一吸感謝大自然士”と自分に言いきかせつつ、自分を戒める名とした。息を呼(は)くとき“ありがとうございます”息を吸うとき“ありがとうございます”と繰りかえし祈りつつ皇恩に感謝す、皇道から外れないためである。

 受け難き生を皇国日本に生まれさせて頂いて、この御恩に感じない事では人生の生き甲斐をどこに求めると言うのか。

 現象如何にあろうとも荊(いばら)の道であろうと、火魔燃えさかる中であろうと、只々感謝しつつ征(ゆ)くことのできる心境は実に“ハイ、ありがとうございます”しかないのである。

 大命を拝しては言挙(ことあ)げせずに征く「ハイ」の精神、「ありがとうございます」の心ほど美しいものはない。

 今の日本はあまりにも各自が言挙げすぎて理屈ばかり言っている。自分のことばかり考えて、他のこと、祖国のことなど考えないのである。まさに肇国(ちょうこく)以来の大国難である。

 この大国難を突破するには如何にすればよいのか。誰かがやってくれると言うのか。そして自分だけは安楽なところに居て、生を楽しんでいればよいと言うのか。これほど卑怯卑劣なことはない。口先ばかりで言うことは立派なことを言うけれども、行動が一つも出てこないことでは、では一体誰が祖国を救うと言うのか。

 自分が起たなかったから祖国は現状のごとくなったのである。学者や政治家を責める前に、私のまごころの足らなかったことを反省しなければならぬ。

 と言って無為徒食していたのではない。昭和十四年の十六歳のとき、神戸市立大倉山図書館で谷口雅春先生の御著書『向上読本』を拝読して大いに感激して、このあと神戸の生長の家兵庫県教化部での講演会で御法話を聴きつつ意を決して『生命の實相』の革表紙全巻を、地、水、火、風、空、教、行、信、証、の九冊の巻を求めて一気に拝読した。十六歳のときに全巻を一気に拝読したのであるからどれだけ感激していたか、今、この感激を出そうと思っても中々出てこない。

 このあと昭和十八年一月十日に満州第十一独立国境守備隊野砲兵第二中隊に入隊したが補充兵、召集兵の居ない現役兵ばかりの中隊で訓練もきびしかったけれども、一日として神想観をやらない日はなかった。昭和二十年八月十日午前零時国境前線で突如としてソ連軍の急襲を受けて死屍累々たる激戦が展開され、終戦もわからずに月末まで戦いつづけて、遂に師団命令で武器をソ連軍に渡したが、このときも日々必ず神想観を行じつづけた。

 九月の寒風の中をシベリアにおくられて、四年間虜囚の中にアムール鉄道の建設に従事したが、この嵐の四年間も毎日神想観をしつづけた。苦しかったけれども神想観のおかげでゆったりとした心ですごされた。生と死の境にあっても、“天地一切すべてのものは神様の生命。ありがとうございます”とつねに感謝しつづけられたことは、全くもって御教のおかげであって、乱に居て治を忘れずの心で居れたことはうれしいことであった。

 昭和二十四年八月四日、シベリアから引きあげて明石の父母のもとに帰って、早速明石の生長の家誌友相愛会長の安達すが先生のお宅を訪ねて御挨拶申し上げ、以来誌友会の手伝いをしながら安達先生の御援助をいただき、明日の祖国を次代の子供たちに託して、明石中崎海岸で神童会をひらいた。

 昭和二十五年、父は脊髄カリエスとなって国立大久保病院に入院して、ギブスベッドに入ったきりの生活となった。粗末な配給の食料と学生時代のヨレヨレの服が全財産であった。けれども御教のおかげで職場と誌友会と神童会と病院と、よろこびをわかしつつ走り廻っていた。

 昭和二十六年、御近所に住んでおられた池内栄太さん(元生長の家本部理事)とともに、明石青年会を創立して青年会活動に入った。昭和二十七年、谷口雅春先生から「霊の選士としての青年の使命」の御言葉を拝してからは、街頭伝道に祝福班行に全力をそそいだ。

 生活は赤貧洗うが如く御飯がなくて配給の素麺(そうめん)ばかりで日を過ごした。この素麺にかける醤油がなかったので茄でるだけで食したが、三十二歳になるのに自分の服は一着もなく、父の着古した色褪せた服と、これも又父の履いた靴を履いていた。それでも心は祖国再建の志によろこびに燃えていた。

 昭和二十九年一月十六日に結婚した。本当に安達すが先生のおかげであった。父の病床の枕もとで聖経『甘露の法雨』と『天使の言葉』を奉読して神想観を行じたきりの式であった。夜は明石の街々を妻とともに街頭伝道をしたが、これが新婚旅行であった。この年の十二月六日に父はこの世を去った。

 昭和三十年初頭、生長の家青年会兵庫県支部長を拝命、毎日毎日街頭伝道をつづけるとともに、この年の十月から神戸の教化部に早朝神想観にかようことにした。この年の二月に始めて川崎重工業株式会社経理部長の喜多正一先生とお会いして、先生とともに十二年間、先生が御逝去になられるまで、ともにともに祖国再建に全力をそそぐことになった。……(後略)……

     私の日誌(昭和五十四年一月二十九日(月))より

 私の心の中にはいつも「殉皇至誠正俊」と「一呼一吸感謝大自然士」の二つの戒名(戒名とは何も霊界に行ってからつけるものではなく、われを戒めてこの地上に大いなる使命を果たすものであって、あの世はあの世のことだ。この地上界でしつかりやれるようにわれを戒めての名である)が絡み合って居た。日常は、殉皇至誠であっても、いざ、生と死の境に立たされると必ず“一呼一吸感謝大自然士”となって胆ッ玉が坐って度胸が出て来て、起死回生の、それこそ死地を脱出することが出来たのであった。そして又「殉皇至誠」に還るのである。

 今、わが家の玄関に掲げてある竹の板に墨書した“一呼一吸感謝大自然士”は、昭和三十八年に神戸大学教育学部附属住吉校の当直室で書いたものであり、教化部の私の事務机のひき出しに入っている。“一呼一吸感謝大自然士”と書いた(陶器の)瀬戸物の大皿と小皿とペンダントは、昭和五十一年六月三十日、神戸大学を退職するときに陶土をかためて作ったものである。そして昭和五十一年七月二日になつかしい神戸大学を去って、翌日に七月三日、生長の家兵庫県教化部に入らせて頂いたのであった。

 昭和十四年に初めて生長の家の御教に入らせて頂いてから少年時代を、それから現役兵として入隊してから戦場に、シベリアの虜囚に、そして神戸大学にて、一貫したものは「天地一切すべてのものは神様の生命である」と言うことであった。このために必然的に神想観を行ずるほかに道がなかったのである。本当に昭和十四年に入信させて頂いた時から、神想観だけは一日も欠かすことが無かったのである。このおかげで一兵士たる身でありながら、軍人精神は本当に実践することが出来たし、又生死の境にあってもいつも、自我を滅することが出来たのである。このときは神想観の行によって理窟を抜きにして只、「ハイ」の精神を行じきることが出来たのであった。

 今このことをこと更に何故書くのかと言えば、生長の家の全組織にとって一番大切なことは只「ハイ」の精神であって、この精神が無ければ「いのち」はあらわれて居らないのである。……(後略)……

          ○

 ――以上は、『激動の世に“いのち”捧げて―福島正俊遺稿集―』よりの抜粋謹写でした。
 私、岡は、この福島先生の魂をわが魂として受け継いで行きたいと思います。

<つづく>

(2015.5.30)
36 福島正俊遺稿集『激動の世に“いのち”捧げて』を読む


 感動しました。特に昭和30年代、兵庫県の生長の家青年会時代から、熱烈な信仰・伝道活動に文字通りいのちを捧げてきた伝説的な魂の偉人、福島正俊先生(平成23年8月、90歳で帰天)の「遺稿集」を読んで――。私は最近、縁ある方からこの本を送って頂き、読ませていただいたのです。一読して、襟を正し、背筋がぴんと伸びました。

 そこに収録された最初のご遺稿――(「理想世界』昭和32年2月号所載)

          ○

     私は何故日本を愛するか

 私は日本に生れたことを心からうれしく本当に幸福だと思っております。

 三千年来一系の皇室を上にいただくということはどんなに大きいよろこびであるかは、筆舌には言いあらわせません。

 以前私はMRA運動(道徳再武装運動)のお話をききましたとき、正直、純潔、無私、愛の四つを強調され、絶対の正直、絶対の純潔、絶対の無私、絶対の愛でなければならないことをきかされたときすぐに思い出しましたことは、この四つの徳を兼ね備えられていられますのは天皇陛下御一人であらせられるということでした。

 現在の国々で指導者、又は元首に於いて本当に世界の平和を希う人が何人ありましょう。必ずや党利党略で自分に又は自国に有利なように考える人たちばかりです。

 この点になりますと、わが歴代の天皇は民を愛したまうこと子の如く、御心の中には常に世界の平和のみを御祈念なされ給うておられます。

 陛下のこの御心をあらわしました“君が代”の国歌の美しさ、つい最近においてメルボルンに開かれましたオリンピック大会に於いて、水泳の古川選手が二百米の平泳で優勝しましたとき、マイクから“君が代”が流れて来ました。そのとき私はわが祖国の国歌をきいて思わず目頭があつくなりました。

 スポーツの世界に於いても否何処の地、時に於いても天皇陛下の御代をたたえる、千代に八千代にまで栄えあれと祈るわが国風の美しさ、そこには権力もなく、階級的な意識もなく、天皇と私たちとが一つ生命に結ばれた親子であり、愛以外に何ものもないということです。“君が代”の国歌こそは、外国における血と闘いの中から生れた国歌でなく、本当に愛情から生れたものです。

 又天皇の大御心をあらわしましたものに国旗をみることが出来ます。太陽をかたどりました日の丸の国旗の美しさ、そこには本当に万物をあたため生育して止まない太陽の如き御心があらわれており、日本の国の使命をよくあらわしております。外国の国旗をとやかく言いたくありませんが、しかしやはり物質的なものを感ずるのですがわが日の丸は愛を感じさせます。霊を感じさせます。清潔を感じさせます。無限の大きさ、明るさを感じさせます。日の丸を仰ぎみますとき、私は心から日本人として生れて来ました幸福をつくづくと考えずにはおられません。

 わが祖国の歴史をみますと、私たちの祖先は、常に天皇を中心として、よろこびも、苦しみもたえず皇室とともに為してきました。

 実にわが祖国は天皇を御柱として栄えて参りました。如何なる権力者も天皇を後楯にしなければ政治をやってゆくことは出来ませんでした。天皇をないがしろにしたとき権力者は不思議に亡んでゆきました。しかして権力者による政治は必ず下剋上の兵乱を生じ、民は塗炭の苦しみを受けました。わが国の歴史は天皇の大御心がよく政治にあらわれますときにのみ民は幸福でありました。

 天皇―祖先―父母―我と一つ生命につながる感情は日本国民が常に祖先を祀るという美風を生み出しました。世界各国において日本人程、祖先を尊ぶ国民はありません。そして又祖先を尊べば必ず子孫の栄えてゆくことの例は唯物論によっては理解することの出来ないものなのです。

 私はかつて抑留者としてシベリア・タイセット地区に四年間在住しましたが、その間私は太陽がさし昇るとき太陽に向かって父母の平安を合掌して祈りました。あるとき私が合掌しておりましたとき日本人のアクチーブ(赤化工作のための幹部)がやって来て「君は何をしているのだ」と問われました。私は「父母の平安を祈っております」と答えますと、そのアクチーブは、「それは観念論だよ、止めたまえ。我々はマルクス・レーニン主義を体得して、たえず階級的な物の観方から生活をしてゆかなければならない。そして世界革命のために我々は日本に敵前上陸をしなければならないのに、君のような観念論的な考え方であっては階級意識がまだまだ出来ていない」
 と言いました。

 私はこのことをききましたとき、どれだけ悲しくなったか判りません。忠節孝道を美風とした日本人の心にかくも唯物的な考え方が侵し来ったのかと思ったからです。

 あらゆる集会が闘争と批判でした。赤旗が大きくゆれて会衆はスクラムを組んで爆唱しました。憎しみのルツボに燃えよ、と感情を爆発させて高唱する。「天皇を断頭台へ」と叫ぶ声、私はこの姿をみて泣けて泣けて仕方がありませんでした。そして私はこのときに深く覚悟したのです。必ずや祖国に帰って、人間神の子の真理により祖国を救済しなければならないと。

 ソ連は不幸です。アメリカも又キリスト教国ですが、祖先を祀る感情のうすいのはこれ又不幸です。徹底した個人主義は自己の快楽のみを求めているようですが、結局は不幸です。

 やがて私は舞鶴に帰って来ました。青々とした祖国の山河、澄み切った海の美しさ、それにもましてうれしかったことは出迎えのランチに翻っていた日の丸の旗でした。戦いに敗れアメリカに占領されても変らずにいたわが皇室と国旗と国歌。祖国は美しい。世界中で一番美しい、わが父母の国。とめどもなく流れる涙でした。

 私は家に帰って参りました。父母はあらゆる困難に耐えて私の帰りを一日千秋の思いで待っていてくれました。父母は、泣いて私を出迎えてくれました。親子の愛情-家族制度、このような美しい制度に対して多くの人は、何故反対するのでしょう。私たちは、この美しい美風を護り育てなければいけません。

 三千年来、父祖たちが血と汗とで護りぬいて来たところの美風、伝統、神代から流れ続いているところの生命、この生命の尊厳のために肉体をささげて行った先輩たち――しかしてこの先輩たちの生命は脈々として私たちの体内に躍動しております。永遠に生き通しのわが生命は祖国の生命であります。

 天皇の御生命(みいのち)は私の生命(いのち)であり一切の人々の生命でもあります。

 生命は一つ、愛は一つ、まことは一つ、自分が正しく生きるとき祖国は正しくなるのです。
 私は生れかわり生れかわりして、天皇の御栄えのために尽してゆきたいと思います。

      (「理想世界』昭和32年2月号)

          ○

  <『激動の世に“いのち”捧げて―福島正俊遺稿集―』より。(原文は正漢字・歴史的仮名遣い使用)>

<つづく>

(2015.5.29)
35 諸神示等に照らして考える


≪ 『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉れざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉れざるに到るかの二途しかない。前者は自ら進んで嘗める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。≫

 と、「霊魂進化の神示」にあります。「声字(しょうじ)即実相の神示」には、

≪……『生命の實相』を展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。今は過渡時代であるから、仮相(かりのすがた)の自壊作用として色々の出来事が突発する。……迷いと迷いと相搏(う)って自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起るであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。≫

 「“心の法則”と“平和への道”の神示」にも

≪近いうちに汝らの世界には一大変動が来るであろう。迷いの自壊作用である。≫

 とあります。「梅の花の神示」には

≪……開くまでには厳寒の冷たい日が続くが、厳寒の冷たい日があるので一陽来復の日が来るのである。無明(まよい)の自壊作用がないのに光明遍照の楽土が来るなどと甘いことを思うな。

 世界には唯一の光しかないのだ。唯一の光であるからヒノモトと呼ぶのである。ほかの光は皆偽(いつわり)の光ばかりである。梅の花には中心が一つしかないではないか。

 世界に中心が幾つもあって争っていて人類が幸福になれるなどと思うな。太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。この事実を見て宇宙の意志を窺(うかが)えよ。地上の国々だけが中心が幾つもあって好(よ)いと思うな。複数の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。一つの中心が太陽系に成るが如く地上にも成る日が近づいたのである。≫


 『生命の實相』を中心に据えなかった結果、『生命の實相』を失い、聖経『甘露の法雨』まで失って、迷いの産物である『大自然讃歌』や『観世音菩薩讃歌』、『日々の祈り』等をもってこれに換えようなどということは、神示に照らしてみれば、これから烈しい自壊作用が起こり、「一つの中心が太陽系に成るが如く地上にも成る日が近づいた」証拠かも知れない、と思います。

 その自壊作用は、

≪高く建ちたる建物の壊(くだ)くるときには
轟然たる響(ひびき)を発せん。
その轟然たる響にも似たる病変は
高く建ちたる汝の過去の迷いの消ゆる響なり。
迷いの建物低ければ激動少し、
迷いの建物高ければ激動多し。
されど此らの病変を恐るること勿れ。
壊くるものは汝自身に非ずして「迷い」なり。
「迷い」壊くるとも本当の汝は壊けず、
「迷い」苦しむとも本当の汝は苦しまざるなり。≫

 (聖経『続々甘露の法雨』)

 でありますから、恐れることはいらない。

 しかし、できれば自壊作用の「激動」は少なくして、現象的にも苦しまず平和のうちに、

≪すべて人類の病患は忽ち消え
盲人(めしい)は眼(まなこ)ひらき、跛者(あしなえ)は起ち上り、
歓喜し相擁して
天日を仰ぎて舞踏するを見る。

夢にあらず、実相なり。
天童たち仰ぎ見て讃嘆し、
敬礼し軈(やが)て歌いて云う。

「神はすべての渾て、神は我がみ親、わが光、
 我らを救い給えり」と。

此のとき、大神の天の宮なる太陽は
円舞するが如く照り輝き、
神光(みひかり)は花葩(はなびら)の如くさんさんと地に降り濺(そそ)ぎ、
五彩の虹、雲の柱となりて空にかかり、
実相の国そのままのみ栄えを実現したりき。≫

 (聖経『続々甘露の法雨』)

 という状態が実現しますように、私たちは内なる神のみ声を聴いて、己を無にして使命感のままに、行動して行きたいと思います。

 しかし、昨日の日経新聞「春秋」欄に、次のようにありました。

          ○

▼専横を極めた平氏に源氏方がついに兵を挙げた治承4年(1180年)。呼応して反旗を翻す奈良の寺社勢力を前に清盛は「さらば攻めよや」と断を下した。平家物語が「奈良炎上」で伝える。明かりを取るために民家につけた火は、師走の吹き迷う風で伽藍(がらん)に移った。

▼興福寺の東西の金堂や観音像、五重塔などは「たちまちに煙となるこそかなしけれ」。東大寺の大仏も、頭は焼け落ちて地面に、体は熱で溶け小山のようになった。「清盛は憤りが晴れて、お喜びになった」が、この争乱からわずか2カ月後に病死してしまう。発した高熱は人が近寄れぬほど。大仏を焼いた罪と噂された。

(中略)
▼「知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず」。14年前の皇后さまの歌だ。アフガニスタンでのタリバン政権による石仏の爆破。人に潜む不寛容さの表れならば、自分も一つの弾を人知れず撃っていたのでは。そんな気持ちを詠まれた。権力や宗教への情熱は時に暴走する。厳しい省察が欠かせない。

          ○

 上記の最後のフレーズを肝に銘じながら。

(2015.5.28)
34 「霊魂進化の神示」に照らして考える


 「ひろば」に投稿してくださった Oyaoya 様のご感想

≪信徒われら一人一人の自覚を促されている
自主独立の神の子として起つべき時が近づいている


――「生長の家大神―総裁・副総裁―御教」 というのは、もしかしたら間違った命題なのかもしれない、と初めて思いました。

ほかの「伝統的宗教」では、創始者と現在の教主との関係はどうなのでしょうか。
現教主を通じて神が現れるということになっているところはないのではないか。

現教主も創始者の弟子ではないのか、もっと言えば、現教主は創始者の教えを守るためにある存在ではないのか、と思われるのです。

 ―― Oyaoya 様のご感想に、私も同感です。

 「霊魂進化の神示」などを、あらためて読み返し、考えさせて頂きたいと思います。

          ○

   霊魂進化の神示

 『神の子』なる人間の実相を現象世界に実現するのが人生の目的である。
 現象世界とは現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である。

 人間の運命とは『神の子』なる人間の実相が現象界に投影する時、時間的空間的に展開するのに、 おのずから一定の順序を追うて展開して行くように 大体定められているのを言う。それは譬えば朝顔の種子の中には既に『花』の因子(たね)が包蔵されているが、それが現象界に『花』となって完成するまでには、日光に逢い、湿気に遭い、芽を出し、蔓を出し、蕾を生じ、ついに花を開くと言うように、大体一定の時間を要し、植物が日光に逢い、雨露に遭うが如く、或は幸福に恵まれ、或は虐運と戦うことによって、ついに実相人間の現象界への投影を完成するのである。

 併し、その投影が完成するには、その投影は『念波の集積』で成立っているのであるし、人間は心の自由を有ち、自由に実相の悟りによって念波を浄め得もすれば、迷によって念波を一層汚すことも出来るのである。 現象世界に実相人間を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることも出来るのである。霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。

 念の浄化には、実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉(とらわ)れざることが第二である。物質欲に捉れざるためには、『物質本来無し』の真理を悟るが第一である。

 『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉れざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉れざるに到るかの二途しかない。前者は自ら進んで嘗める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。

 その他に過去の悪業の自壊する過程として自己の霊的流動体に起る擾乱(じょうらん)現象の苦痛もある。 苦難がみだりに取去られず、多くの霊魂の霊界通信が苦行の価値を力説しているのも此の色々の理由によるのである。 (昭和八年九月十五日神示)

          ○

 上記「霊魂進化の神示」は人間の運命についての神示ですが、これは人類全体の運命についても同様であると思われます。

≪……既に大宇宙の救済は成就せり。金波羅華実相の完全円満の相(すがた)、地上に隈なく反映し実現して中心帰一、万物調和の永久平和の世界今現ず。

一切の生物ところを得て争う者なく、相食(は)むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。

実相・現象渾然一体、実相・現象渾然一体……

みこころの天に成る世界、既に地に成就せり、ありがとうございます。……≫
 (大日本神国観)

――という「みこころの天に成る世界」は、すでに完成しているのである。しかし、

≪ 人類の運命とは『神の国』なる天国の実相が現象界に投影する時、時間的空間的に展開するのに、 おのずから一定の順序を追うて展開して行くように 大体定められているのを言う。それは譬えば朝顔の種子の中には既に『花』の因子(たね)が包蔵されているが、それが現象界に『花』となって完成するまでには、日光に逢い、湿気に遭い、芽を出し、蔓を出し、蕾を生じ、ついに花を開くと言うように、大体一定の時間を要し、植物が日光に逢い、雨露に遭うが如く、或は幸福に恵まれ、或は虐運と戦うことによって、ついに実相世界の現象界への投影を完成するのである。≫

 というように、「霊魂進化の神示」を置き換えて読んでも間違っていないと思います。

 で、「中心帰一、万物調和の永久平和の世界」というのは、一即多・多即一、個即全・全即個で、個が一切者、中心者、自由独立なる「神の子」の自覚をもって完全に解放された世界であると思います。

≪ 併し、その投影が完成するには、その投影は『念波の集積』で成立っているのであるし、人間は心の自由を有ち、自由に実相の悟りによって念波を浄め得もすれば、迷によって念波を一層汚すことも出来るのである。 現象世界に実相「神の国」を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることも出来るのである。霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。

 念の浄化には、実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉(とらわ)れざることが第二である。物質欲に捉れざるためには、『物質本来無し』の真理を悟るが第一である。≫

 のでありますが、谷口雅宣 現生長の家総裁は、失礼ながら、上記神示の『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざるすがたを現していらっしゃるように思います。

 そういう総裁に「中心帰一」して、信徒が「神の子」としての自由独立なる実相をくらましている――ということはないか。神示には、つづいて

≪ 『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉れざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉れざるに到るかの二途しかない。前者は自ら進んで嘗める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。≫

 とあります。

 『物質あり』として、都会から森の中へ逃げ、「神・自然・人間の大調和をめざす」などというのも、一種の「物質欲」と考えられるのではないか。そうするとその結果は、
 「自ら進んで嘗める苦行」や、「幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難」
 を招くことになる。

 <つづく>

(2015.5.27)
33 映画「ゆずり葉の頃」を観て考える


 昨日は八千草薫(84歳)主演の新作映画 「ゆずり葉の頃」 を妻といっしょに観ました。
 その感想と、そこで考えたことなどを書かせて頂くことにします。

 この映画を見ようと思ったのは、20日頃だったでしょうか、テレ朝の「徹子の部屋」に八千草薫と相手役の仲代達矢が出て、この映画のシーンが紹介され、その八千草さんの雰囲気と、昨年93歳で亡くなった私の長姉の姿がそっくりだと感じた――それが、観劇の動機になりました。

 「暮れなずむ初秋の軽井沢
 自分の想いを貫くために
 どうしても観なくてはならない一枚の画

 絵画に刻み込まれた
 遠いあの日の旋律
 幼い記憶に秘めた 淡い恋心の追憶…

 一途な想いを貫いた ひとりの女性の人生讃歌!」
   
(第36回モスクワ国際映画祭特別招待作品)

 というのがこの映画のキャッチコピー。

 映画全体にそこはかとない上品さが漂い、ゆったりとした大人の時間が流れ、癒される。

 「老境にある女性が、最後にやり残したことを見つめなおし軽井沢を旅する、高齢者版ロードムービー。 日本映画の伝統を継承しつつ、西洋古典音楽のような構成感とカデンツ。 今年のベスト作品の1つになるだろう秀作。」

 という評もありました。

 この映画を見て、私が一番感動したのは、クライマックスのあとの結びで、主人公の市子(八千草薫)とその息子進(風間トオル)との会話でした。


 市子はいままで東京郊外で着物の仕立てをしながら一人で暮らしてきたが、老境を迎え、仕事をやめて「終の棲家」を探そうとしている。進は海外で商社に勤めて来たが、老齢になった母のために、帰国転職しようかと迷っている。それに対して市子は毅然として言う。

 「私のために転職するのだったら、私はいやです。あなたは自分の志を貫き全うしなさい。私は、ゆずり葉が好きです。私は私の想いを全うして、ゆずり葉のように、生きたい」

 というようなこと(大意)を言ったのに、いたく感動しました。

 ゆずり葉については、河井酔茗の、次のような詩があります(抜粋)。

          ○

≪ ゆずり葉



子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって――

お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。≫

          ○

 私は上の詩の
 「太陽のめぐるかぎり ゆずられるものは絶えません」
 というのは、

 <万教帰一の真理「生長の家」は、太陽のめぐるかぎり、絶えません>
 ということでもあると思いました。

 映画「ゆずり葉の頃」は東京・岩波ホールで5月23日ロードショーが始まったのですが、初日には主演の八千草薫らが舞台挨拶をしたそうです。企画段階から参加した八千草は、

 「いろんな意味でとても手作りの映画。とても詩的で、普通の映画と違った感じ。音楽も素晴らしいし、こんな素晴らしい映画になるとは思っていませんでした。映画になるのかなあというくらい心配でした」

 と本音を吐露し、会場の笑いを誘った。

 77歳で初めて監督をつとめた中みね子も、
 「できたことが奇跡。どうしてできちゃったのかなあと、八千草さんと話していた」と納得の表情。そして、『天上から師匠(八千草の夫の谷口千吉監督)、喜八さん(亡夫、監督)ら亡くなった仲間たちが支えてくれたのでしょう』と感激で声を詰まらた。」

 ということです。

 熱い思いには、
 「龍となれ 雲おのずから来たる」
 と言った武者小路実篤の言葉のように、天上からも雲があつまり支え援けてくれ、奇跡のような作品が出来上がって行く。そういうことが起こるのだと、心があたたかくなりました。

 「霊魂進化の神示」 については、次回に送らせていただきます。

 <つづく>

(2015.5.26)
32 「光明化運動に於いては人は中心ではない。神意が中心である」


 私は、「疾風怒濤のわが青春記録より 15 『絶対音感』を読んで思う」
に、次のように書いています。

          ○

 「生長の家人類光明化運動指針」に、

 ≪第九条 生長の家の各員は、如何に運動の分野が多岐にわたり組織が複雑化すると雖も、光明化運動の中心が何であるかを常に見失うことなく明らかに自覚して行動すべきである。

 生長の家大神―総裁・副総裁―御教。この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である事を、生長の家人たるものは一瞬たりとも忘れてはならない。如何にその人が有力者であろうと長年光明化運動に献身して来ようと、素晴らしき体験をもつ指導者であろうと、断じてその人を中心にしてはならない。若しも人を中心とすれば、その人が理解し把握している以上の運動の展開は不可能となり、歪んでいれば運動も歪むほかなく、その人とそりの合わぬ者、反対意見の者は身を引くか、対立して禍根を残すであろうし、若し或る人が情熱的な信仰を持つ場合、その人が真に中心を明らかに自覚している場合はよいが、唯熱心であるだけならば、何時(いつ)かその人に頼り過ぎ、その人が転任或は他界した場合は、忽ち火の消えた様に衰微してしまった如き事例は往々にしてある。すべて皆中心を誤っていることに気がつかなかった為である。

 
光明化運動に於いては人は中心ではない。神意が中心である

 とある。

 ――上記「第九条」において、「光明化運動に於いては人は中心ではない。神意が中心である。」 というところを、一瞬たりとも忘れてはならない。「総裁に中心帰一」ではなく、「神意に中心帰一」でなくてはならない。それは、谷口雅春先生ご教示 『先ず第一義のものを求めよ』 に明示されているところである。

 「総裁に中心帰一」と言って、「外なるもの」を絶対化して依拠させるのでは、オウム真理教で麻原彰晃を絶対なるグル(尊師)とさせるのとどこにちがいがあろうか。

 「何かに依拠して絶対化すると楽で、足場はしっかりします。しかし、それは絶対化の罠にとらわれる危険性があるのです。」(『絶対音感』4頁)

          ○

 と、書いていました(「疾風怒濤のわが青春記録 15 『絶対音感』を読んで思う」)。

 谷口雅春先生は、

 ≪わたしは『生長の家』の教祖ではない。わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一人の求道者にすぎない。
   (『生命の實相』第1巻14ページ)

 生長の家は、『すべての人間が神の子であり、すべての人間が教祖である』 という教えであります。
   (『生命の實相』第18巻37ページ)≫

 と言われている。

 「皆さんが谷口雅春であり、皆さんが住吉大神である」 とも言われています。

 しかし、信徒われらは、そのお言葉を素直にそのまま実感として受け止めることができなかった。私はその最たる者だったと思います。

 そこで、3代目 谷口雅宣総裁が、「私は皆さんと同じレベルの、隙だらけの人間ですよ」 というすがたを表わし、信徒われら一人一人の自覚を促されている、というのが現在の状況なのかも知れない――と私は思います。

 われら一人ひとりが永遠者である、絶対者である、神意具現の中心者であるということに目覚め、自主独立の神の子として起つべき時が近づいているのではないでしょうか。

 「霊魂進化の神示」を、あらためて読み返し、考えさせて頂きます。

(2015.5.25)
31 「お前が永遠(絶対)そのものだ!」


 谷口雅春先生著『光明道中記』114ページに、次のようにあります。

          ○

≪ 四月八日 釈迦新生の日

   永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今――お前が仏であり、お前自身が極楽である。(『生命の實相』第六巻)

 「お前は何を求めているのだ?」
 「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」
 「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」
 「この私が永遠か?」
 「そうだ、そのお前が永遠者なのだ。併しそのお前と云うのは肉体を指しているのではない。その肉体をあらわしている其のお前のいのちそのものだ。『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」

 此の対話の示す真理を理会する者は幸である。各人は自分自身が永遠なのである。自分自身が滅びない者なのである。是を発見するのが新生である。「人あらたに生れずんば神の国を見ること能わず」とイエスは言ったが、自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。
 吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。≫

          ○

 また、谷口雅春先生御講話シリーズ『一即多の真理』では、『叡智の断片』をテキストにして、次のように話されています。

          ○

≪ 神の子ということは、神そのものが実現しているのであるという自覚である訳なんです。そして、外(そと)のものだと見えておったものが、みんな「内」のものである、ということでありますね。

  自性円満の自覚(『新版 叡智の断片』49頁より)

 「汝若(も)し能(よ)く念々の馳求(ちぐ)の心を歇得(かつとく)せば便ち(すなわ)祖仏と別(こと)ならず。汝祖仏を識(し)ることを得んと欲するや。汝、面前、聴法底(ちょうほうてい)是なり。」(『臨済録』)

 この “馳求(ちぐ)” というのはですね、 “馳” は走りまわる、 “求” は求めるですね。走りまわって、どこかに悟りというものがあるだろうかというね、そういう心を歇得(かつとく)する―― “歇” は「やめる」という字ですね。歇(や)めて、悟りを得たならば、便(すなわ)ち祖仏と別ならず、と。祖仏とは、祖(おや)神様であるところの仏様ですね。祖神様であるところの仏様と一つである、というんです。

 で、われわれは、自分の内に宿っているものが、小さい、弱いものであると思って、外に何か得たならば、――そしてそれを集めたら強いものになるんだというような、そんな考えをもっておったならば、それは迷っている心であってですね、そういう “馳求(ちぐ)の心” 、走りまわって外に求める心を歇(や)めてしまって、自分の内に一切のものがあるんだという自覚を得たならば、祖(おや)神様なるところの仏陀とおんなじことになるのである、というわけなんです。

 「汝祖仏を識ることを得んと欲するや」――その祖神様、どこにいるか知りたいと思うのであるか。「汝、面前、聴法底是なり」―― “聴法底(ちょうほうてい)” というのは、法を聴いているその者が是(これ)なんだ、今、真理を求めているお前そのもの、面前にいるお前そのものが、祖神様と同じものなんだ、というのがこの二行であります。それは素晴らしい言葉なんであります。≫

          ○

 ――永遠なるもの、絶対なるものはわが内にあり、「内にのみあり」だった。

 「外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして
 永遠に神の国を得ること能わず。
 物質に神の国を追い求むる者は
 夢を追うて走る者にして
 永遠に神の国を建つること能わず。≫(聖経『甘露の法雨』)

 だったのであります。

(2015.5.24)
30 この世(現象世界)に「絶対」なるものはない。


 私は、「疾風怒濤のわが青春記録より 15 『絶対音感』を読んで思う」
に書きましたように、

○オウム真理教の信者たちが麻原彰晃を尊師とみなすことも、本来は相対的なこと。つまり、人はオウム真理教のケースを特殊な事件として見るが、人間誰しも、本来は相対的なものを絶対化して、それに気づかないことは往々にしてあるのではないか。

○科学に「絶対」はない。科学の学説というのは自然現象を解明するための手段にすぎない。天動説と地動説もお互いがお互いに対して相対的で、今のところ、地動説のほうがより多くの現象に説明がつけられるから採用しているだけなのだ。

○「何かに依拠して絶対化すると楽で足場はしっかりします。しかし、それは絶対化の罠にとらわれる危険性があるのです。そもそも固定化した見方を壊すのがサイエンスですし、世の中はこう見えているからこうだというステレオタイプな考え方はやめようというのが芸術だと思います。絶対的な観念を壊して、一瞬でも自由になるものです。それなのに、ピアノでこう弾きなさいと押しつけるのは芸術とはいえない」

○この世(現象世界)に、「絶対」なるものはない。すべて、相対的なものばかりである。
 相対の世界に、「絶対」はない。

○一切の「現象の未だ発せざる本源の世界」、「相対」が現れる元の「未発の中(ちゅう)」なるところ、「久遠の今」なる「神の国」にこそ「絶対」がある。

○その「神の国」は外にはない、内にある。内と言っても、外に対する内ではなく、「外はない。内ばかりだ」という、「絶対の内」にある。

○≪『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
 外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして
 永遠に神の国を得ること能わず。
 物質に神の国を追い求むる者は
 夢を追うて走る者にして
 永遠に神の国を建つること能わず。≫(聖経『甘露の法雨』)

 である。


谷口雅春先生御講義「久遠の今」
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be

の中で、先生は次のように言われている。

≪まだ時間も空間も現われていない、時間・空間がそこから現われるところの、その中心の「無」であります。

 これは神道の言葉でいうと「常今(つねいま)」と言う言葉がありますが、禅宗などでいうと、いわゆる「無」であります。

 「無」というと、なんにも無いのを「無」というと、考える人がありますけれども、全然無いんじゃないのであります。禅宗に「無字透関(むじとうかん)」という言葉があります。「無」の字の関門を透(とお)るという意味であります。

 『無門関』という禅宗の書物もあります。この「無」というものの関門を本当に知ったときに、吾々は自由自在になるのであります。

 ところで、その「無」というのは――時間・空間の中にすべてのものが現象世界に現れておりますけれども、その時間・空間の元のところ、時間・空間が未だ現われない、その「常今」のところ――そこには「なんにも無い」かというと、「なんにも無い」んじゃない。時間・空間がそこから現われてきたんだから、時間・空間がそこにやっぱり「有る」と言わなければならない。あるけれども、まだ現れていない。時間・空間が一点に巻きおさめられて、その一点もない。すべてのものが、一点もないその中にそのままアルのであります。

 これをもうひとつ別の言葉でいいますと、「絶対無」ということであります。「絶対無」と言えば、多少この「無」の意味がわかる。有無相対の「無」ではないのであります。「有る」に対して「何にも無い」という、有・無相対の、「有(う)」と「無」とが相対しているところの、有無相対の「無」じゃないのであります。絶対の「無」である。対立がない。「有る」ということに対してこれは「無い」という、「無い」のではなくて、「絶対の無」であって、その「絶対の無」をつき貫いたところに、そこに「実相」があるのであります。≫

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/3920
で a hope 様がおっしゃっていることは、その通りだと思います。

(2015.5.23)
29 「中心帰一」 とは何か。


 「ひろば」の投稿#11 <2015.5.9 直次ぐ 様> で、

≪ 今の生長の家は、三代目に中心帰一せよとの教えですが、その事にも、違和感を持っています。

仏教では、 仏(釈迦)→法(釈迦の教え)→僧(出家者、僧侶)です。
釈迦の教え(国訳一切経、各宗派の戒律)に中心帰一するからです。

生長の家で考えますと、仏(住吉大神・天皇陛下)→法(生命の實相・唯神実相)→僧(総裁・副総裁)になります。
「生命の實相」(唯神実相)に中心帰一すべきではないでしょうか?

岡 正章先生のお考えを、お聞かせいただけたら、有難く存じます。≫

 ――とありました。

 その最後の行、≪「生命の實相」(唯神実相)に中心帰一すべきではないでしょうか?≫については、まったくその通りであると思います。(中間部分については、まだよく解りません)

 『生命の實相』第18巻「宗教問答篇」の第2章に、次のような問答が載っています(抜粋)。

          ○

≪谷口――「物質本来無し」ということがあなたには本当に解っていないのだと思います。……どうも世の中には普通と変わった生活をしているからとてその人に感心する傾向があるのです。足で歩ける人よりは、手で逆立ちして歩く人に感心してみたり、蒲団がせっかくあるのに飽屑
(かんなくず)の中で寝てみる奇行者に感心したりするのです。だけど本当は普通の生活をしている人に感心できなければ健全ではないのです。逆立ちして歩く人よりも、足であたりまえに歩ける人の方に感心し、鉋屑の中で犬のように寝るのを修行だと思う人よりも普通に蒲団の中で眠る人の方を感心するようになれないと本当ではないのです。つまり外面の顕われに奇行があるのに感心しているのでは、形の生活に捉われているので「生命の実相」を掴んでいないことになるのです。

……窮屈なのは片寄りがあるからなのです。中心にのっていないからなのです。円の中心に乗る生活になれば、もう、どの方面へ向いて行っても、その中心の延長線上にある。中心に乗らないで、円周の方を廻って一歩一歩中心に近づいて行こうとすると、いくら円周上をぐるぐる廻っても中心に近づくことはできないのです。

 中畑――先生の「中心に乗る」とおっしゃる意味はどういう意味ですか。

 谷口――悟るということです、自己が神の子である実相を悟るということです。善というものが外界にあるのではなく、外界は影であって、自分が神であることがわかれば自己の向かうところすべて神の向かうところでありますから、すべてが神の姿を映して善になることになるのです。形の上から善々と追い廻していては悪を捉えるほかはない。

 中畑――そうすると、中心に乗るということはむずかしいことではない。みんな本来神の子であるから、もうすでに中心に乗っている、誰も皆本来中心に乗っているのです。誰も中心に乗っていない者はないのです。ただそれに気づけばいいのです。

 松野――誰も皆、本来中心に乗っている。なるほど、みんな神の子だったのでしたなあ。

 谷口――われわれの実相は常に中心に乗っているけれども、形の方から中心に乗せようとすると、迷いの方から悟りに近づこうとするので、現われが中心に乗らなくなるのです。形に捉われてしまうからです。

 人間は本来神の子であり、本来中心に乗っている。しかし形をすべて切ってしまわなければ、視点が中心に来ていないで、中心を外れているから、円の中心を離れてドウドウ廻りをしなければならないのです。

 本来神の子であり、本来中心に乗っている点からいえば悟った人も悟らぬ人も同じことでありますけれども、形を一刀両断斬って捨てていないものは、形に捉われ、心の視点が外の形を追うていて、中心なる生命の実相に来ない。外の形を斬り捨ててしまったものは、もう外界に捉われることはない。外界に捉われずにかえって外界を中心から投影し出しているということになり、外界が自然に整うてくるのです。

 「道の道たるは道にあらず」 この道、この道と、一つの形式を初めから造っておいてそこを歩まねば道でないと思っていると窮屈に凝り固って行きづまってくるのです。一燈園も「形の生活」を斬って捨てるために、いったん普通人の生活を捨ててしまう。それは大変いい方便ですけれども、形の方から普通人の生活を棄てなければならぬ、棄てなければならぬと、そこに一つの出家的な一つの型にはまった生活ができ上がると、それはもう中心に乗った生活ではない、形を追い廻している生活になっている。本来中心に坐しながら、中心を失っているのです。これを悟らぬ生活というのでありまして、悟った生活というのは、形の方は変幻出没自由自在で、心の視点が形に捉われず中心を離れないのです。≫

          ○

 ――以上、『生命の實相』第18巻で語られている「中心」は、以下の谷口雅春先生御講義の「久遠の今」であり「中(みなか)」であると思います。

 すべてのものはこの「一」なる、「久遠の今」なる「中(みなか)」から出でたので、元の「中(みなか)」に帰るのが根源的な「中心帰一」である。ここに帰るのが「神の子の自覚」であり、解脱であり、ここに帰ることによって人間はあらゆる束縛から解放され、自由自在となるのであります。

 オウムの問題にしても、「宗教とは何か」「何が本当の救いになるのか」の根本になるものが、ここにあります。

谷口雅春先生御講義「久遠の今」
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
(2015.5.22)
28 正しい宗教は、人間を解放する


 前回、「ラストマン」(最終責任者)という言葉(川村隆・日立製作所相談役の「私の履歴書」より)を紹介しました。川村氏が課長時代の上司で日立工場長だった綿森力さんから、この言葉を教わったそうです。後に日立の副社長になる綿森さんは身長が150センチあるかないかの小柄な体格だが、自信と威厳に満ちた大人物で、外国人の部下は綿森さんを評して「ヒー・イズ・スモール・バット・ア・ビッグ・ボス(彼は小さいが、大きな上司)」と言った。

 「ラストマン」とは綿森さんによれば船の船長のようなもの。
 「嵐が来て万策尽きて船の沈没やむなしとなった時、すべての乗客や船員が下船したのを見届けて、最後に船から離れる。だから船長をザ・ラストマンと呼ぶんだ」と。

 「ラストマン」は仏教的に言えば「菩薩
(ぼさつ)」であると、私は思います。日本の国ではまず天皇陛下のおすがたが思われます。

          ○

 谷口雅春先生は、宗教について、『生命の實相』第18巻の「はしがき」に、次のように書かれています。(抜粋)

≪ 宗教的信仰をもっている人はともすれば凝り固まって、物の考え方や生活が偏狭になると思う人があるが、それはまちがった偏った信仰をもっているからである。本当に正しい宗教的信仰は、人間の心を空
(くう)・無礙(むげ)の境涯にあらしめ、人間の生活を非常に自由にならしめるものなのである。正しい信仰のない者は自分の生命の本体、生命の実相がわからないから、窮屈に片寄って萎縮して大きな仕事もできないし、勇敢な決断もできない。自分の生命の本体がわかると、その本体から無限大の力を汲み出して来て何をしても自由自在にできるようになるのである。

 
本当の正しい宗教というものは人間を解放するものなのである。

 仏教では、「さとりを得る」ことを「解脱
(げだつ)する」と言う。すなわち、迷いによって自己を縛って窮屈にしていた状態から人間を解脱せしめ解放するのが、正しい宗教的信仰なのである。

 キリスト教では「真理はなんじを自由ならしめん」と言っている。所詮、正しい宗教的信仰は、人間を自由自在ならしめるものである。すべての正しき宗教はこのように人間の全的解放の道を示すのである。

 人間が全的に解放され、「内在の生命」が自由自在に発露する結果、運命も好転するし病気も治ることもあるが、そんなことは宗教の随伴的功徳であって、中心的な救いではない。人間が全的に解放せられるとき、どのように人間が自由になり、心の底から悦べるかは、本書の内容を読んでいただけばよくわかるのである。≫

          ○

 そして、本文第1章では

≪ 「生長の家」では自分自身を尊べと言うのでありますが、たいていの人は自分自身を尊ばないから失敗する。……自分の内に神がある、自分が神性である、自分が教祖である。これが分からないから、神がほかにあるように思い、教祖がほかにあるように思い、自分のすでに知っていることを、他の教祖から知らされて感心するのであります。……生長の家は、「すべての人間が神の子であり、すべての人間が教祖である」 という教えであります。

……本当の救いにあずかるということはいつまでも一人立ちのできぬ人間になることではありませぬ。さらに一歩を進めて、「生長の家」的に自主独立の精神に立ちかえり、ひとり立ちして、自分自身が神であり教祖であり、他からの御神宣よりも自分の御神宣が自分を一番よく知っているというようになっていただきたいのであります。≫

 とも書かれてあるのであります。

 各人の内なる神性を解放し、自主独立の道を歩むことができるようにするのが正しい宗教なのであります。

 すべては、外にはない、わが内にあるのであります。


 <つづく>

谷口雅春先生御講義「久遠の今」
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
(2015.5.21)
27 『オウムはなぜ消滅しないのかを読んで考える(3)


 『オウムはなぜ消滅しないのか』 (中嶋尚志著)のオビには、

出家主義・世俗主義
地下鉄サリン事件から20年を経て、今なお増える「オウム信者」。
林泰男死刑囚の国選弁護人(宗教面担当)として
事件を内側から見た著者が、
オウム真理教が今も日本に投げかけている
問題の核心に迫る。>

 とありました。

 この「脱世俗主義」という文言を見て、私は学生時代のことを思い出しました。運動部に入って寮生活をしていた時に、「おまえ、所帯じみたなあ」という言葉は軽蔑的な意味をもっていた。みみっちい世俗的・常識的な自己保身欲に縛られず自由奔放にスケールの大きなことを考え、自分を投げ出して行動するのが誇らしいと考えるような風潮があった。そういう思いは、時代が移り変わっても青年の中には、心の底に変わらず存在するのではないか――と思います。

 「宗教とは何か」。

≪あらゆる宗教の本体は、何のために私は生きるか、自分をとりまく無限無窮の世界に対する私の関係は如何なるものであるかという疑問に対する解答の中にのみ存する。≫

 というトルストイ『人生読本』の言葉を、昨日私は引用しました。

 無常なる現象世界があり、その中で生老病死のはかない一生を送る肉体が自分であるとしたら、人生の意義はわからない。

 そこで、「出家」すなわち現象世界を超え、世俗を超えた、生老病死を超越した自由の道、人間解放・解脱の道を求めるのが、「宗教心」というものかも知れません。

 『オウムはなぜ消滅しないのか』 の著者中嶋尚志氏は、オウム教団が若者を惹きつけた「出家主義」は、優れた宗教的視点であると評価する。

 昨日私は、それについて「大きな違和感を覚える」と書きました。しかし 、考えてみれば、オウムの「出家主義」が優秀な若者の、前述のような「宗教心」をゆさぶったということはあるのではないか。

          ○

 今日の日経新聞「私の履歴書」欄に、川村隆・日立製作所相談役が、次のような話を書いていました。

ハイジャック事件 墜落直前に助けられる この日を機に人生観変わる

 ……1999年7月23日、私は札幌に出張するために、羽田発新千歳行きの全日空61便に乗り込んだ。たしかこの日は金曜日で、「週末は懐かしい札幌で過ごそう」などとのんびり考えていた。

 異変が起きたのは離陸してほどなく房総半島上空に差し掛かったころだ。突如Uターンするので、「何か変だ」と思っていると、「当機はハイジャックされました」と機内放送が流れた。女性や子供の悲鳴が上がった。

 ……私は子細がまったく分からなかったが、とにかく生きた心地がしない。「こういう時は遺書を書くものかな」と頭の片隅で考えたが、書くに書けない。窓から外を見るのに必死で、他のことは手に付かない。

 急に視界の中に横田基地や米軍の住宅、車が飛び込んできて、それがどんどん近づいてくる。「もうダメだ」と覚悟したが、その瞬間、奇蹟が起きた。機体が態勢を立て直し、無事、羽田に戻ることができたのだ。

 ……絶体絶命の危機を救ってくれたのが、偶然その便に乗り合わせた非番の全日空パイロットの山内純二さんだ。犯人は機長を刺殺し、自分の操縦で横田基地への着陸を試みるが、とてもそんな技量はなく、うまくいかない。「このままでは墜落する」と判断した山内さんはドアを蹴破ってコックピットに突入し、操縦かんを奪い返した。あと数十秒遅ければ、機体は失速し、墜落必至。まさに間一髪だった。

 この山内さんの行動は実は航空会社の定めたマニュアルに反していたという。当時ハイジャックへの対処方法は「犯人の言うことを聞く」のが基本だった。かつてのよど号事件のように、「犯人の要求を入れてさえいれば、最悪の事態は回避できる。下手に抵抗しないほうがいい」という考え方である。

 ……マニュアルに沿って、この犯人の言うとおりにして、機体が墜落してはどうしようもない。緊急事態には自分の頭で考え、自分の責任で行動しないといけない。

 この事件で私の人生観はガラリと変わった。人はいつ死ぬか分からないのだから、毎日を大切に生きなければと自覚するようになった。当時は60歳になる直前だったが、残りの人生をどう生きるか真剣に考えたことはなかった。この日を機に、最期のゴールを見据えた「第二の人生」が始まったように思う。

 もう一つは、「ラストマン」の意識を改めて強く持ったことだ。ラストマンを訳せば、「最終責任者」となろうか。全日空61便におけるラストマンは山内さんで、彼の勇気や決断がなければ乗員乗客516人の命はなかった。自分ははたして山内さんのような「ラストマン」の役割を果たす機会があるのだろうか。そんな思いが胸に去来した。≫

          ○

 ――常識的・世俗的なマニュアルを度外視して、ラストマン、「最終責任者」として生きる道を示すのが宗教かも知れないと、私は考えます。

 <つづく>

谷口雅春先生御講義「久遠の今」
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
(2015.5.20)
26 『オウムはなぜ消滅しないのかを読んで考える(2)


 地下鉄サリン事件を起こしてから約20年。

 「オウム真理教」は、果たして「宗教」なのか。

 「オウム真理教」がもし「宗教」の範疇に入るものであるとしたら、宗教はとても危険性をはらんだものだと言わなければならない。

 ところが、『オウムはなぜ消滅しないのか』 の著者中嶋尚志氏は宗教学者だというが、「オウムはまぎれもなく宗教だ」と認めている。

 「宗教は多様な定義が可能であるが、超越的な存在(神)、絶対的存在や力を持ち込んでくる点は宗教にほぼ共通している。ただし、超越的存在をオウム真理教のように現実に存在する人物(麻原彰晃を指す)の中に認めるか、人物以外の天然の中に認めるかは、教祖の体験によって異なる。……教祖に何らかの跳躍体験がある場合、その宗教を単純にインチキであるとし、別の宗教が本当の宗教であると決めつけることは危険である。 これらの点から言えば、オウム真理教はまぎれもなく宗教であったし、麻原は教祖としての要件を満たしていたと言える。」

 と、中嶋氏はいう。しかも、若者を惹きつけた「出家主義」やヨーガの技法を取り入れた点などは、オウム教団の優れた宗教的視点である、と評価する。吉本隆明も、「麻原彰晃という人はヨガの修行者として抜群に優秀だと思う」と絶賛しているという。


 ――私は、それには大きな疑義があると思います。

 私が「宗教」に深くのめり込むようになったのは、上記のような視点からではなかった。トルストイの『人生読本』に、次のようにあったからです。

○最も野蛮な迷信の一つは、人間は信仰なしに生き得るものだという独断に対する現代の所謂学者の大多数の迷信である。

○あらゆる宗教の本体は、何のために私は生きるか、自分をとりまく無限無窮の世界に対する私の関係は如何なるものであるかという疑問に対する解答の中にのみ存する。

○学問において是非とも究め知る必要のある唯一の知識は、吾人が如何に生くべきかという事実に対する知識である。

○無益な学問をうんとこさ学び知るよりは人生の法則を少し知る方がましである。


 ――私は私の求めているものが宗教であり、神であり、『生命の實相』であることを知った。
<「疾風怒濤のわが青春記録より」の 3 に書いた通りです>

 今日5月19日の日経新聞夕刊のコラム「明日への話題」には、「農業即仏行」と題して 弁護士・元検事総長の但木敬一氏が、次のように書いています。

≪ 職人がいなければ、道具を調えることができない。武士がいなければ、世は治まらない。農人がいなければ、食物を口にすることはできない。商人がいなければ、彼(か)の地のものを自由に手に入れることはできない。

 筆を振るう人、医術を行う人、この世のすべての生業(なりわい)には、何一つ無駄なものはない。「本覚真如の一仏、百億分身して、世界を利益したまふなり」。仏の分身として行う事業、農業即仏行であり、職人も、武士も、商人も、それぞれ自分の生業に真剣に打ち込むことが仏になる道、すなわち成仏の道に通じる。

 この説を唱えた鈴木正三は、徳川の地侍の家に生まれ、大坂冬の陣、夏の陣の戦功により旗本に取り立てられた。腹切り覚悟で、主君秀忠に出家を申し出、禅僧となる許しを得たという。

 僧として高位になろうと出家して修行に励む者より、ただ生業に励む者のほうが仏の道にかなっているという説は革命的であった。仏との距離が近いと思われていた出家僧侶を俗界の人と同列に並べ、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という人間の本質的平等を説き、職業に貴賤(きせん)なしという原理を唱えた。(中略)

 近年の超ベストセラーに「置かれた場所で咲きなさい」という本がある。著者は、ノートルダム清心学園理事長渡辺和子氏であり、二・二六事件の際、眼前で父渡辺教育総監が銃殺されるという壮絶な経験を持つ方である。宗教は異なるが、信じるところは共通しているように思えてならない。≫

 と。私はこれに共鳴し、「出家主義」がオウム教団の優れた宗教的視点であるという中嶋氏の論議には、大きな違和感を覚えます。

 <つづく>

谷口雅春先生御講義「久遠の今」のYouTube映像が「非公開」状態だったようですね。不行き届きで、たいへん失礼いたしました。
今度は、下のURLをクリックして頂くと、見られると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
(2015.5.19)
25 『オウムはなぜ消滅しないのかを読んで考える(1)

 「ひろば」のページ <2.この思考停止をいつまで続けるのか>(2015.4.25)で Oyaoya様が話題にされています『オウムはなぜ消滅しないのか』(中嶋尚志著)を、私もいま読んでいます。途中少し飛ばし読みしているところもあるのですが、これから全部よく読んで、「オウム真理教」と「生長の家」はどこがどう違うのかを、しっかり考えてみたいと思います。

 この本の著者中嶋尚志氏は、元判事で、地下鉄サリン事件を契機に退職し、オウム真理教の幹部で実行犯の一人、林泰男の国選弁護人を務めた人。1933年東京生まれというところは私と同じ。中嶋氏は東京大学経済学部を卒業後、同大学大学院インド哲学科修了という宗教学者である。で、私とは大学入学後の進路経歴はまるきりちがうけれども、ある意味、宗教に関わったという点では同類かも知れないと思い、この本を読んで考えてみたいと思いました。

≪オウム真理教はあのような事件を起こしながら、今も、少しずつ伸びているようです。その理由は、出家による本気の修行など、現代仏教が忘れたものを提起しているから、ということになるようです。

生長の家とオウム真理教は比べものになりませんが、一つだけオウム真理教が優れていると思えるのは、いまでも教祖の教えを守ろうとする点です。いずれ死刑が執行される教祖であるにもかかわらずです。≫

 ――と、Oyaoya様は書いておられます(ひろば<2>)。

 さて、皆さまはどうお考えになりますか。

 将来、『生長の家はなぜ消滅したのか』 なんていう本が出ることにならないために――


 <つづく>

谷口雅春先生御講義「久遠の今」のYouTube映像が、グーグルの登録をしないと見られない状態だったようですね。当方の不行き届きで,たいへん失礼いたしました。
今度は、下のURLをクリックして頂くと、すぐに見られると思いますので、お試しください。
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
(2015.5.17)
24 「自発的活動」は「久遠の今」から。

 ≪ 戦後70年、「日本企業は現場が強い」は、日本産業界の常識の一つとされてきた。経営陣が指示を出す前に、社員が自発的に動き、生産効率や顧客満足度を上げていく。現場力の強さこそが日本企業が世界的に躍進する原動力だと現在も言われている。

 だが、独コンサルティング会社、ローランド・ベルガー日本法人の遠藤功会長は「その常識は幻想」と指摘する。日本企業の現場力が、産業を問わず崩壊の危機にひんしている。「今や中国、タイ以下」とも。日本の現場は強くない。≫と、日経新聞web版(2015.5.14)は報じている。

≪ 現場力の劣化が進むのは製造業だけではない。あるチェーンストアの店長を務めるC氏(32歳)は「自分の店で何が売れ筋なのか分かっていません」と笑いながら話す。「毎日本部から届く指導に従っているだけ。もちろん、本部の指示よりこっちの方を売った方がいいんじゃないかと思う時はある。でも思考停止していた方が楽ですから」。

 「サービス業における現場力はお客様の声から育まれる。それに耳を塞いでしまっては現場力が落ちるのは当たり前」。

 神話のように語られてきた日本企業の強みは既に崩壊しつつある。「日本の現場は強くない」。今こそ経営者はこの事実を直視し、現場力再構築へ自己反省とリーダーシップの発揮に取り組むべき時に来た。≫とも。


 わが教区の相愛会連合会長は、「自発――信仰者としての自発的な活動を。上から言われてやる、<やらされる>のではなく、内から湧き上がる力で、自分からやる。それを、今後3年間の目標としたい」と、去年就任の挨拶で抱負を語った。


 実は、山口悌治氏が戦後の生長の家“新態勢”を企画したときにも、「自発的活動態勢」を、と言っている。

 これについて榎本恵吾氏は、次のように言う。

 榎本恵吾著 『弟子像』 「Ⅱ 私の中の山口悌治先生」より――

     
* * * * * * * * * *

 「久遠の今」にいのちが立つとき、すべてはいのちとして観じられて来るのである。釈迦の山川草木國土悉皆成仏も、このとき、実相は完全に現象に投影している、または投影し終っている。または“住吉大神宇宙を浄め終りて”のすがたを言っているのである。

 光明化運動とは、暗(やみ)を光りと化するというのではなく、「久遠の今」に立って、今が今自身を観ずるとき、暗はおのずから無いのである。暗は光にふれることは出来ないのである。そして、光もまた暗にふれることは出来ないのである。「智慧の言葉」に「生命の実相を信ぜよ。実相の神を信ぜよ。実相の神に結びつくとき、一切の罪は自分から切り離される」という一節がある。この「自分から消える」というのは、自分でということである。罪は自分で自ら消えるのである。光明化と言っても、光明は光明し、暗は自分で消えるという厳かなることがあるだけなのである。しかし、これはいのちが「久遠の今」に立たなければ永遠にこの光明の消息はわからないのである。

 山口先生の提唱されている「自発的活動態勢」の「自発」とは、光りが自ら発する光りそれ自体の生長拡大のすがたである。その聖なる光を生きることが聖使命である。聖とはヒジリであり、日がいちじるしく輝くという意味である。日とは何か。それは神であり、偉大なる自発者である。神が「光りあれ」と言い給うたのは、誰に命令されたからでもない、ご自分で言いたくなられたからである。

 実相は自ら顕われるのである。実相すなわち光明には自ら顕われる力が包蔵されているのである。顕われる力は実相みづからにあるのである。光明化の運動は実相、実在なのである。

 罪は自ら自分で消えるのであるとは、光明化運動が如何にして進むかの消息を語っており、神が自ら直接顕われたまうということの反対からの説明となっているのである。これが顕斎なのである。これが山口先生のいわれる「自発的活動態勢」である。神における自発的創造態勢である。実相の自発的顕現としてのすがたである。それは神みづから自発され給うのである。神が自発でないのに、われらが自発であるはずはないのである。

 山口先生の論文にある「立教の瞬刻」というものには、光明の純粋なる持続ということはあり得ないのである。山口先生のいわれる「一切者の自覚」といえども、瞬刻というものは切れ切れな片ぺんであって、一切というものには永遠にかかわることはないのである。“瞬刻”というものは、起点となることは出来ない。瞬刻は現れては消えるものである。「久遠の今」に立たなければ一切というものと通うものがなく、一切の責任を負うといっても、負えないのである。

 山口先生は論文の中で「尊師の血の吹き出るような求道の姿」というのだが、“瞬刻”というものにはいのちはなく、吹き出すべき血も通っていないのである。「尊師の心を心とする」と言っても尊師のいのちと通うことが出来ないのが“瞬刻”である。“瞬刻”とは死である。


 今日、昭和十六年頃に吹き込まれたという「実相を観ずる歌」の合唱をSP盤からの録音で聴いた。大いなるいのちのうごきを想わせるものがある。

 ここに鳴っているのは、“先ず”いのちの感動とよろこびがあって、それを表現せずにはいられなくなって唱っているいのちである。現在私たちは、ハーモニーだ、ハーモニーだと云って、そこから、いのちの感激というものを得るために唱っているというようなことに、ともすればなりがちではなかろうか。もし、それであれば、「実相を観ずる歌」も“現象を観ずる歌”となってしまうかも知れないのである。そこには放射する光明とでもいうようなもの、躍動するような何ものかが欠けているように思えてならないのである。

 尊師が人間のいのちの荘厳さ、自己のいのち、ありとしあらゆるもののいのちに感動されて、その感動を唱い上げられたのが、全聖典をつらぬく尊師のお言葉の光りである。先ず私たちのいのちは此処に立ち、このいのちから出発し、唱い上げるのである。先ず、何よりも私たちはいのちであり、喜びであり、躍動なのである。これから光りとなるために唱うのではない。光りが唱うのが神の子の歌であり、聖歌である。大神が立ち給いて指揮をされる。聖歌とは霊なる聖なる神の子が唱うのである。聖とは“ひじり”といい、日がいちじるしく輝く光りの自発にほかならないのである。聖なるものが聖なる歌を唱うのが聖歌である。聖なるものが立ちて歌うとき、全てが聖なるものとなるのである。すべては聖なる歌となるのである。……

     
* * * * * * * * * *

谷口雅春先生「久遠の今」御講義
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
↑を、どうぞ繰り返しご視聴ください。ここに、生長の家の原点があり、その時空を超えた「久遠の今」から、すべてはよろこんで自発的に出てきたのです。

 <つづく>

(2015.5.16)
23 「久遠の今」に、中心帰一・万教帰一の華厳の世界がある。生長の家はそこから出発した。


 榎本恵吾著 『弟子像』 「Ⅱ 私の中の山口悌治先生」より――

     
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 「新態勢」が発足して、おそらくはじめてのご講話と思われる、尊師の「聖使命菩薩讃偈」についてのご講話が、『真理』第7巻に載せられている。仏の重現無礙を説かれ、「人間は神から生まれた」ということさえ充分な見方ではない。そこにはなにやら、「創ったもの」と「創られたもの」という相対性が感じられ、そこに神罰などの思想が生まれる――として、それは最高の教えではないといわれる。これまでに説かれたうちでも最も深い真理に属する説法となっているのである。自も他もない仏・神、絶対の「一」である真理、最上最尊深甚微妙の真理を示されている。「新態勢」のゆく末をはっきりと見ておられて、このことを説いておかなければならないと思われたのではないだろうか。

「己れ未だ度らざる前に、一切衆生を度さんと発願修行する……」とは、一見度
(わた)すものと度されるものとの相対の世界のように見え、それと生長の家「唯神実相論」との混同のないようにとお話し下さったのではなかろうか。<以下、『新版 真理』第7巻より引用>

≪  華厳(けごん)の相即相入(そうそくそうにゅう)の哲学

 (前略)実相の世界を「彼岸(ひがん)」と言い、現象(あらわれて見えるカタチ。<つねに変ります>)の世界を「此岸(しがん)」と言います。此っちの岸、即ち現象世界におりながら、ここがこのまま実相の世界であると自覚した人が、すなわち彼岸に度(わた)った人であるというわけであります。そして彼岸に度るところの方法に六つあると言って釈迦牟尼如来が「六波羅蜜(ろくはらみつ)」とこう言われたのであります。波羅蜜の「波羅」というのは「彼岸」ということです。これはサンスクリット語でありますけれども、日本の語源にも、やはり良く似ております。神道で、実相世界のことを高天原(たかあまはら)というあの「原」であります。その「高天原」彼岸実相の世界というものは、実に不思議なる世界で、そこにある事々物々はすべて物質ではなく霊的存在であり、相即相入の世界。相即相入、互いに一つなんです、互いに一つである。すべての人間が別々のように見えておるけれどもみんな一つである。

 こういうものの考え方は、これは華厳哲学にある考え方なのであります。華厳経に書いてある十無礙の中に重現無礙(じゅうげんむげ=一世界の中に無限の世界がありその各々の世界にまた無限の世界があり、またその各々の世界に……と云うように限りなく重なって世界があること)と云う真理があります。キリスト教的に神様が人間を生み出した、というような神人同格的なものの考え方よりも、もっと哲学的なものの考え方なのであります。神様が多数の人間をオギャアと生み出したというのじゃなくて、一つの本源のいのちが、多くに反映して、そしてそれが相即相入していると考えるのであります。「一個の物体の周囲(まわり)に百万の鏡を按(お)きてこれに相対せしむれば一個もまた百万の姿を現ぜん」ということが聖経『天使の言葉』に書かれているのでありますが、あれが華厳の重現無礙の真理なのであります。これは一個が百万の子供を生んだというのではないのです。神が子供を生んだというようなのは、譬喩的な擬人的な一種の小乗的な説き方でありまして、人間になぞらえて、そして判り易く、あまり哲学的な思索傾向をもっていない、人間的な愛情関係に於いて神を観たい人に、そういう説き方をするのであります。それでも間違いではないんですけれども、神様がこうして万物を生み出すというような考え方は最高の真理ではない。何故ならば、そのような考え方には、何処やらに相対的な(それ自身独立していないで、他との関係に於いてある)あるものがあるからです。創造者と被造物とが対立している。神様というものから別れて人間と云うものが生み出されたということになっているから、神と人間とが対立している。そこから神の審判などと云う思想が出て来る。これには相対的な考え方が何処やらにひそんでおりますから、まだ最高の真理というわけにはゆかないのであります。
(『新版 真理』第7巻第1章 9~10頁)

     
* * * * * * * * * *

 現象世界は時空間のスクリーン上に映し出された映画のようなもので、そこにはあらゆるものが相対的にあらわれている。けれども時空間を超えた、時空未だ発せざる根源の世界 「久遠の今」においては、対立がない、主観・客観 相即相入なのです。だから 自も他もない仏・神、絶対の「一」である。「生長の家」はそこにあるのですね。

谷口雅春先生「久遠の今」御講義
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
↑を、どうぞ繰り返しご視聴ください。ここに、生長の家の原点があったのです。その時空を超えた「久遠の今」から、すべては出てきたのです。

 <つづく>

(2015.5.15)
22 生長の家は、「久遠の今」から出発した。

 榎本恵吾著 『弟子像』 「Ⅱ 私の中の山口悌治先生」を読み返してみて――

 山口悌治氏は、戦後≪本部にありてはその組織の拡大に伴ひ教化企画編集局長、企画局長、基礎文化研究所所長、総企画局長、講師活動推進局長を歴任する中で、常に光明化運動の根幹となる年次計画を立案遂行し、つひに“光明化運動指針十三ヵ条”をもつくりあげ、その定着により戦後の光明化運動の新体制は、着実に推進され来たりしなり≫
(追善供養の詞、谷口雅春先生――『中(みなか)のこころ』「序にかえて」より)
と谷口雅春先生からも讃嘆される功績を残された方であった。けれども、結局その山口悌治先生ですら、「久遠の今」なる華厳の中心世界に身を置いておられなかった。だから「発心正しからざれば万行空しく施す」という道元の言葉の通りとなっていた、というのが榎本恵吾先達の『弟子像』「私の中の山口悌治先生」である――と、私は思います。

≪山口先生の言われる、例えば『生長の家四十年史』で“立教の瞬刻”というような言葉は、どうしても「久遠の今」ではないように思われて仕方がないのである。「今」とか、「永遠の今」とか言われているが、いざ立教の尊さを讃えられるその時になって、今更のように“立教の瞬刻”というような言葉が出て来るのである。そして、「未来と言えどもその一瞬一瞬において今の連続なのである」というような言葉を『生長の家四十年史』の中で使っておられるのである。何か痩せ細った本の虫が小さな書斎の中で細い指でタバコをセカセカと吸いながら書いている極めて貧相な感じしか湧いて来ないのである。それと「万葉」の雰囲気とはどこでつながるのであるか。谷口雅春先生とどこで鳴り響き合っているのか。≫

 ――というように、厳しく批判しておられるところもあります。全般的には、上司であった山口先生を尊敬し讃嘆しながら遠慮がちに書いておられるところが多いのですが、私は上記のような厳しい批判の言葉こそ、榎本先達がいいたいことであったのだろうと思います。

 現象は「無」である。現象を「無」と否定し尽くさなければ、「実相円満完全」「実相独在」は出て来ない。そして、いくら懸命に光明化運動をやっても、まだ足りない、まだ足りないと、足ることを知らず、人を責めまた自分を責めて、永遠に理想世界、神の国、仏国土は実現しない。現象は「無」である。「今此処天国」と感謝し、生かされていることを喜ぶこと。そこから出発するのが、「発心正しい」行となるのだ。

 山口悌治先生の提唱された“新態勢”なるものは、“現象あり”として「日本の危機」「世界の危機」の認識を出発点として“一切は自己の責任”という自覚に立とうという運動であった。それは「数は力なり」とする数の運動、内に求めるよりも外に結果を追い求める運動となり、結局それでは唯物論の運動ではないかと言われるようにもなったのである。

 そしてそれは生政連の選挙運動となってやがて挫折し、誌友拡大、『理想世界』百万運動となってこれも頓挫した形となった。そして――いま三代目谷口雅宣総裁の時代となり、運動の出発点となる時代認識・めざす方向性は大きく変わったけれども、“現象あり”として「日本の危機」「世界の危機」の認識を出発点とする、ということは同じで、全く変わっていない。「現象あり」からの出発なのである。だから今また行き詰まり状態に陥っているのではないか。

 岡が『何処へ行く?「生長の家」』として、総裁への公開質問として書いたことは、結局、「現象あり」から出発した運動には必ずほころびが出るので、そこを突いた質問になっていると思います。

 生長の家の出発点は、『生命の實相』自伝篇に書かれています。

≪ ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。
「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「空即是色(くうそくぜしき)」という言葉をつづいて思い浮かべた。
 と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念(こころ)の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。有(う)よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、『無』より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象無し。なんじの肉体も無し。」
 では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、「心もない!」とその声は言うのだった。今まで、わたしは「心」という得体の知れない悍馬(かんば)があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によって、わたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。
「心もなければ何も無いのか」とわたしは再びその声の主にたずねた。
「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。
「無のスガタが実相であるか。皆空(かいくう)が実相であるか」とわたしは尋ねた。
「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊(ごうん)が皆空であるのだ。色受想行識ことごとく空(くう)である!」
「空と無とは異なるのではないか」とわたしはたずねた。
「空と無と異なるとは思うな。五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓(つまず)く。空を無とは異なると思い、『無ではない』と思うからまた『五蘊は無いではない』と引っかかるのだ。『五蘊は無い』とハッキリ断ち切ったところに、実相が出て来るのだ。無いものを無いとしたところに、本当にアルモノが出て来るのだ。」
「では、実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。
「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。
「心も無いのが本当ではないか。」
「無い心は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心、仏、衆生三無差別と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。衆生を抹殺し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに、実相の神、久遠実成(くおんじつじょう)の仏が出て来るのだ。」
「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」
「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前(さき)から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である! 今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」≫

 「知れ、一切現象無し」。「久遠の今」、時間・空間を超えた「中(みなか)」に生長の家の出発地があったのです。


谷口雅春先生「久遠の今」御講義
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
↑を、どうぞ繰り返しご視聴ください。ここに、生長の家の原点があったのです。その時空を超えた「久遠の今」から、すべては出てきたのです。

 <つづく>

(2015.5.14)
21 「一切は、神である」―「久遠の今」に立つ(2)

 山口悌治(やすはる)元生長の家本部理事・総企画局長(理事長にもなった)は、戦後生長の家の「新態勢」「国民総自覚運動」の企画構想を立て、推進の先頭に立たれた方。
「人類光明化運動指針十三ヵ条」も、山口悌治氏の作文。

 榎本恵吾氏はその山口局長の膝下で総企画局員として勤務しながら、局長を標的にして“新態勢”の批判に明け暮れていたが、山口局長はその榎本氏を包容するおおらかさがあったという。

<以下、榎本恵吾著 『弟子像』 「Ⅱ 私の中の山口悌治先生」より>

     * * * * * * * * * *

 山口先生は、「一切者の自覚」という言葉をよくつかわれたのである。またこれの別の表現として「一切は自己の責任」という言葉もよくお使いになった。

 しかし、「吾が業
(わざ)は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」である。すべては神が為し給い、神がすべてを負い給うのである。神は責任関係で万物を存在せしめているのではないのである。責任という言葉は、はたして神の世界にあるのかどうか。じつに貧相な人間世界の言葉ではなかろうか。アメノウズメノミコトは、「このような暗い世界になったのは私の責任だ」と言っていては、笑うことも踊ることも出来なかったのである。ただただ神がすべてであり、天照大御神は未だかつてお隠れになったことも負うべき責任をはたせ給わなかったこともなく、世界は光明一元、神一元であることを観じて、笑って、踊らずにはいられなくなって踊り給うたのである。

 山口先生は「聖使命」新聞に書いておられた。「切り花のような運動ではなく、いのちのある、根のある運動でなければならない。切り花はすぐに枯れてしまう」と。このことは、自己の中にすべてを握る「今」(久遠の今)の自覚を失ってしまったことに起因するのではあるまいか。

 人類光明化運動が、世界に何らかの意味での神に対立する暗黒、不完全を認めた上での動きとして意義づけがなされているとしたならば、「発心正しからざれば万行空しく施す」という道元の言葉の通りとなる。

 世界状勢、現象の混乱を救うために出現したのが生長の家であるとして、出現の意義と人類光明化運動の必要性を鮮明にせんがために、現状の混乱状態を強調すると、「なぜ、神はこのような不完全をつくったのか」という尊師谷口雅春先生の「聖道へ」の時代に舞い戻るということになる。山口先生が「新態勢」案を提出して十回も拒否されたと言われるが、その会議に集った人々の心の中にこの辺のところがもやもやとしてあったのではなかろうか。現象の混乱状態に光明化運動の必要性の根拠を求めていると、「実相独在、唯神実相、光明一元、今此処天国、天地一切感謝」という生長の家の伝家の宝刀がふるえなくなることがあるということはなかろうか。今此処天国極楽浄土であれば、もはや救済としての運動は必要が無くなるということになるからである。

 しかし、山口先生にとって「新態勢」も運動もすべてはいのちを表現するための道具なのであり、依然として道具と自己とは裁然としてはなれているのである。山口先生は組織をつくりながら組織の中にもつれ込んでいない。それは組織の中に自分がいるのではなく、自分の中に組織があるというお姿でもあったのであろう。

 一日、局内の会議があって、山口先生は尊師谷口雅春先生のことにふれられ、「先生は、天地のはじめに立っておられて、星はここ、太陽はここ、月はここ、というふうに名づけられ位置づけられるところに坐っておられるんだからねえ」と言われた。「それ(宇宙の創造)は、尊師谷口雅春先生ご自身の中の出来事なのだ」というような意味のお話に、私には聴こえたのであった。

(以上、榎本恵吾著 『弟子像』 「Ⅱ 私の中の山口悌治先生」より)

 <つづく>

     * * * * * * * * * *

谷口雅春先生「久遠の今」御講義
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
↑を、どうぞ繰り返しご視聴ください。榎本先達のいわれる「久遠の今」が、よくわかってきます。

(2015.5.13)
20 「久遠の今」に立つ

 昨日私は、

≪生長の家諸年史等を読み返して当時の時代背景に思いを致し、また榎本恵吾先達の大著 『弟子像』 の 「私の中の山口悌治先生」 というところなどを、精読し直して、思うところを、明日以降に、ここに発表させて頂きます。≫

 というように書きました。

 それを書こうと思い、読み返し始めますと、以前に読んだ時はうわっつらしか読んでいなかった、なんとすごいことが書かれていたのだろう――と、驚くことが多く、深く考えさせられて、なかなか先へ進めません。で、考えをまとめようとするとまだまだ時間がかかりそうですので、まずは、その「驚いた」箇所などを転記させて頂こうと思います。

 山口悌治(やすはる)元生長の家本部理事(理事長にもなった)は、戦後生長の家の「新態勢」「国民総自覚運動」の企画構想を立て、推進の先頭に立たれた方。その山口先生が生長の家諸年史等に書かれている文章を読みますと、たとえば――

≪世界の昏迷と混乱とは全くとどまるところを知らない。人類の危機は、「人間の危機」に胚胎している。すべての人々が一切を自分の責任とする自覚、一切者であるという自覚に立った社会でなければ、世界でなければ、真の自由も平和も断じて現前せず、この自覚を欠いては、自由も平和も架空の美辞麗句にすぎない……≫
というような文言があります。

 
これに対して、根本から異論を唱えたとも言えるのが、榎本恵吾先達でありました。その大著 『弟子像』 の 「私の中の山口悌治先生」 というところから、注目すべき文言を、引用転記させていただきます。

     * * * * * * * * * *

 「聖使命」紙の山口悌治先生への追悼号は、「一切者の自覚に生きて」という見出しで思い出風に書かれていたが、私にはふと、「一切者の自覚」をそのように簡単に言ってしまうことが一番嫌いだったのが山口先生ではなかったかと思われた。

 「一切者の自覚」とは「われ神なり」の自覚の山口先生的表現であったのではないか。「生長の家三十年史」の論文には、「われ神なり」の方が書かれているように思う。歴史は「実相が現象に如何に映って来ているか。その様態を研究するものである」という尊師のおコトバを山口先生はどこかの論文に引用されていた。それでは歴史そのものは実相と現象のどちらに属するのであるか。「実相」を「現象」に持ち来すという「人類光明化運動」はどちらに属するのであるか。

 この解答は、山口先生の「生長の家四十年史」の論文の「立教の瞬刻」というコトバからは出て来ないのである。同じ年史の尊師の論文は「生長の家は久遠の昔からある」というコトバではじまっている。立教とは、「久遠の今」にのみあるのである。現象的時間の「立教の瞬刻」というものは無いのである。無いものをあるとしてこの瞬刻を起点とするということは不可能なことである。

 この「久遠の今」にいのちが立つとき、すべてはいのちとして観じられて来るのである。釈迦の山川草木國土悉皆成仏も、このとき、実相は完全に現象に投影している、または投影し終っている。または“住吉大神宇宙を浄め終りて”のすがたを言っているのである。

 光明化運動とは、暗
(やみ)を光りと化するというのではなく、「久遠の今」に立って「今」が今自身を観ずるとき、暗はおのずから無いのである。暗は光にふれることは出来ないのである。そして、光もまた暗にふれることは出来ないのである。「智慧の言葉」に「生命の実相を信ぜよ。実相の神を信ぜよ。実相の神に結びつくとき、一切の罪は自分から切り離される」という一節がある。この「自分から消える」というのは、自分でということである。罪は自分で自ら消えるのである。光明化と言っても、光明は光明し、暗は自分で消えるという厳かなることがあるだけなのである。しかし、これはいのちが「久遠の今」に立たなければ永遠にこの光明の消息はわからないのである。

(榎本恵吾著 『弟子像』 「Ⅱ 私の中の山口悌治先生」より)

     * * * * * * * * * *

 上記、「久遠の今」というのは、「ひろば」≪
14 「久遠の今」の御講義を 毎日拝聴して<Twinkle little star 様>≫の投稿に出てきました
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
 をご覧いただきたく思います。

 <つづく>

(2015.5.12)
19 「中心帰一」について、「ひろば」へのご投稿にお答えします。

 「ひろば」のページに、たくさんのご投稿を頂き、ありがたく心より感謝いたします。

<2015.5.8 Twinkle little star様が教えて下さったように、

 「神はこのご投稿を通して私を祝福したもうのである。
 そして神の愛われに流れ入り、私を通して、投稿をくださった方を祝福したもうのである」

 と、心から感謝祝福させて頂きます。そして、これからしばらく、それらのご投稿に、誠実にお答え(お応え)させていただきたいと思います。


 まず、「ひろば」<11 『生命の實相』の真理は未来永劫不変> (2015.5.9 直次ぐ様)と、<4 光明化運動においては神意が中心であるということ>(2015.5.1 二代目一寸法師様)のご投稿について。

 これは、信仰生活の根本問題です。私は「総裁への公開質問」の中でそれについて述べており、二代目一寸法師様・直次ぐ様のご意見には概ね賛同いたします。けれども、さらに突っ込んで勉強し、考えを深めてまいりたいと思います。


 “生長の家 大神──総裁・副総裁──御教。この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である事を、生長の家人たるものは一瞬たりとも忘れてはならない”
(「人類光明化運動指針 生長の家各員の運動心得十三ヵ条」の第9条)


 という文言は、二代目一寸法師様が書かれている通り、(『菩薩は何を為すべきか』の“はしがき”にありますが)これは昭和33年当時本部理事・教化推進部長であった山口悌治氏が草稿をまとめ理事会に提出し、総裁谷口雅春先生のご裁可を得て3月1日号の『聖使命』紙に発表されたものです。(『生長の家30年史』『同40年史』『同50年史』による)

 私は今、改めてそれらの『生長の家 年史』等を読み返して当時の時代背景に思いを致し、また榎本恵吾先達の大著 『弟子像』 の 「私の中の山口悌治先生」 というところなどを、感銘深く精読し直して、「これだ!」と深く思うところあり。それを、明日以降に、ここに発表させて頂きます。

(2015.5.11)
18 人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。(榎本恵吾先達の遺著より)

 榎本恵吾元本部講師(故人)を、私は「先達」と称させていただきます。私より若かったけれども、信仰・悟りの深さにおいて「先達」と称するにふさわしい偉人であったと思うからです。

 生長の家は「唯神実相論」で、「物質はない、肉体はない(現象はない)、実相独在――ただ完全な神のみ実在である」と言いますが、このことを本当に自家薬籠中のものとして生活に生きていた人として、榎本恵吾先達の右に出るものはいなかった――それは谷口雅春先生をも超えるところがあったのではないかと私は思います。

 その榎本先達の遺著『研修のヒント(“今をよろこぶ”生活のヒント)』(ウェブサイト「榎本恵吾記念館」の「文書館4」)の「はしがき」に、次のように書かれています。


    
* * * * * * * * * *

 これから諸君の前に、あの練成道場がよいのか、この練成道場がよいのか。あるいはまた、あの修行がよいのか、この修行がよいのか。厳しいのが良いのか、易しいのがよいのか。いろいろな人達に逢って、色々な意見を聴かされて、その判断に迫られる時があるかも知れない。これらのことは、今昔を問わず、常に偉大で真剣な先人たち、宗教家と言われる人々が直面して来た、重大で、最もいのちがけで当らなければならなかった問題であったのであり、今でもそれは少しも変ることはありません。
 老婆心ながら私の信とするところをしたためますから、参考にして下さい。

 どちらの道を選ぶかは全くのその人その人の自由でありますが、次のことだけは判然としています。すなわち、


 人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。修行が出来たか出来ないかということと、救われるか否かは全く関係のないこと。このまま自分もひとも生かされていることを喜び感謝するのが神の子の生活であります。

 修行。例えば、練成を受けること。研修を受けること。神想観をすること。聖典を読むこと。愛行をすること等……は、すべて現象であって無であること。

 それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのように修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、すなわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるものだけがあるということであります。

 (中略)

 もしも神は、修行した人だけしかよう救わないというのであれば、殆んどの人類を救うことが出来ない力不足の神を認めることになって、“修行しなければ”というのは神を尊敬するのではなく、神を軽蔑することになります。

 そして、最も重大な問題は、
 「修行しなければ……」という立場に立つと、修行の出来ていないと思う人を審かざるを得ないのであります。「あの人も出来ていない」「この人も出来ていない」そして「自分も出来ていない」ということになって「天地一切を拝む」のではなくて、「天地一切を審く」という罪を犯すことになるということであります。

 そして、「あの道場は……」「この道場は……」と道場同志が審き合うということが始るのであります。これが多くの宗派が派閥に別れた原因の一つとなっているとも考えられるのであります。

 無条件にある光り、世界に比類のないみ教えにふれている私たちが、世界に比類のない調和と、拝みと、感謝の、崇高な、安らかさに満ちた毎日毎日を与えられていることに感謝を捧げる、ただ一筋の道がここにあります。

 この心に満ちて生きているとき、私たちは神への全托の道を生きているのです。神への全托の輝きに満ちている研修生をひたすら礼拝させていただくのみであります。われらの道は“審かない道”“拝む道”であり、自分を拝みひとを拝む道であります。……(後略)……

    
* * * * * * * * * *

 私は、この道を歩みたいと思っています。

(2015.5.8)
17 パナソニック人事抗争史に学ぶ

 日本を代表するエクセレント・カンパニーとして隆盛を極め、長く世界のトップブランドとして君臨してきたパナソニック(旧松下電器産業)が、ここもと長期の経営不振に陥っていたのは、「人事において重要なことは、弱みを最小限に抑えることではなく強みを最大限に発揮させることである」
(ピーター・ドラッカー『経営者の条件』)という人事の経験則が守られなかったことによるものだ、と岩瀬達哉著『パナソニック人事抗争史』はいう。

 「鯛は頭から腐るいいますよね。ドタマが悪いとね、下がしっかり頑張っても、全部腐ってしまう。やっぱり、みんな、松下電器は潰れへんと思うてたんですな。それが判断歪めてきたわけや。驕れる者久しからずですな。」

 進むべき方向性を見失って久しいパナソニックの経営を立て直し、傷んだ組織を再生すべく、平成24(2012)年6月に8代目の社長を託されたのが津賀一宏(現社長)。津賀は、赤字をタレ流すばかりで経営の重荷となっていたプラズマ・ディスプレイの製造工場を操業停止とした。

 経営資源をプラズマに集中し、プラズマで世界市場を席巻しようと兵庫県尼崎市に建設されたその工場は、6代目中村社長が立案しすべてを賭け、総額4400億円を投入してきたものだった。その工場の操業停止は、中村の投資判断の誤りを明らかにし、経営者としての資質を真っ向から問い直すことになる。それだけに、誰もが、その必要性を痛感しながら言い出せずにいた。下手に言えば、中村の逆鱗に触れ、飛ばされる恐怖があったのである。

 中村の強権ぶりは、リーダーとしての逞しさ以上に、恐怖心を多くの社員に植えつけていた。社員たちが抱いた恐怖の源泉となったのは、中村の持つ人事権である。「中村さんに嫌われたら会社人生は終わり」。そんな言葉が、標語のように伝播していた。

 幹部社員たちが保身に走り、挑戦意欲が失われていることに気付かないまま、中村は、「品質の松下」を再建しようと、以前に増して激しくムチを振り下ろした。しかし中村が焦れば焦るほど、幹部社員たちの気持ちは萎え、固く縮こまっていくばかりだった。

 「どこのメーカーも、命かけてやりかけたことを、途中で引き下がったら、それでおしまい。いまは負けていても、勝つまでやらないかん。玉砕の思想でやっていたと言うんですな。」

 プラズマ事業において、中村が唱えた理論を大坪(7代目社長)が信奉していたというより、その理論をおそらくは否定できず、否定できない以上はその理論に従って経営しなければならないという一種の呪縛にとらわれていたのであろう。その結果として、まさにこの事業は「玉砕」してしまった。

 津賀は、ひとり、敢然と中村に直言した。

 中村が津賀を引き上げた理由は、心中ひそかに「プラズマはもうダメ」との思いに至ったからといわれている。しかし率先してやってきたことだけに、自分から止めるとは言えない。その役目を津賀に期待したからだと。

 津賀は、社長に就任するや、社内報で自由に議論のできる「普通の会社」への回帰を訴えた。
 「今の弱みの裏返し、つまり、『言いたいことを言い合える、活気あふれる会社』が目指す姿です。このことは中村社長や大坪社長の時代から発信され続けていますが、残念ながら実現できていません」

 もの言えぬ組織を改めるには、「全グループを揺さぶるような仕組みや仕掛け」が必要と、津賀は続ける。

 「揺さぶれば、これまである範囲内でしか動けなかった、組織を縛り続けてきた鎖が切れていくでしょう。この鎖を切れば、タブーを恐れず本音を言い合い、俊敏に反応できるようになり、『活気あふれる会社』へと一歩前進できるはずです。」

     * * * * * * * * * *

 ――以上は、岩瀬達哉著 『パナソニック人事抗争史』 からの抜粋です。ここからも、学ぶところがあるのではないでしょうか。

(2015.5.7)
16 生長の家は、カルトと化したのか?

 さて、私は生長の家現総裁 谷口雅宣先生のおっしゃることやご著書に書かれていることに疑問を持ち、「公開質問」としてその疑問を印刷物とこのウェブサイトで公開いたしました。総裁に直接お手紙を出すなどの方法をとらなかったのは、過去にそれをしても何のお返事も頂けなかったのみならず、当時の教化部長(現在の教化部長ではありません)にその報告をすると、顔色を変えて頭ごなしに怒られるだけ、という状況だったからです。

 それで「公開質問」を出しましたが、その質問には何の回答もなく、面接も何もないまま、一方的に「地方講師は解任」のみならず、「岡は相愛会員でもありえない」と本部の担当参議などが教区連合会長に言ったという噂を聞きました(私はまだ正式に聞いておりませんが)。

 ――それがもし本当なら、これは、生長の家教団がいわゆる「カルト」の状態になっているということではないかという気がしましたので、「カルト」というのをgoogleで検索してみますと、次のようにありました。

 ≪(カルトにおいては)さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見いだした究極の知識に対する盲信。絶対的な道徳観指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しくあてはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。≫
 (マイクル・シャーマー <アメリカのサイエンスライター、科学史家> による――ウィキペディア)とか、

≪カルトの見分け方
1.真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
2.組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない。
3.自分の頭で考えることをしないように指導する。
4.世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ。
5.白黒を常にはっきりさせる傾向が強い。
6.外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える。
7.信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある。
8.組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる。……≫
≪宗教とは関係なく、あまりに極端な思想を持った団体でもカルトという単語を用いることがある(例:環境カルト)。≫
(はてなキーワード)

 などとありました。

 現在の生長の家教団は、そのようなカルトの状態になっているのではないでしょうね――。

 私は、生長の家は神が始められた神の運動であり、谷口雅春先生がおっしゃったように、「人間解放の宗教」であると信じています。「カルト化」して人間を束縛する団体が生長の家ではないと思っています。「地方講師解任」ということも、教化部長から電話で連絡を受けただけで、正式な辞令を受け取ってはおりませんし、総裁や本部方針に疑問を呈したら相愛会員を除名、などということはあり得ないことと思っています。

 もしそんなことがあったら、生長の家はもはや人間解放の宗教でも何でもなく、社会的に有害な、人間を束縛して不幸にするカルトとして、自滅への道を歩むでしょう。大恩ある生長の家がそんなことにならないよう、私は命をかけて戦うつもりです。

(つづく)

(2015.5.6)
15 谷口雅春先生に誠心の献言・ 諫言をした先達 <つづき>


 先輩は、戦友たちへのまごころの愛から、谷口雅春先生に訴えた。

 それが谷口雅春先生の愛のまごころに通じた、ということではないかと思います。

 そのほか先輩は、しばしば谷口雅春先生に献言、時には「諫言」のようなお手紙を差し上げられた。それに対して先生は、自分のような若造の意見にも常に謙虚に耳を傾け、聴き入れてくださったと、先達は語っていました。

 「献言」を聴き入れられたことの一例として、「世界平和の祈り」の言葉があります。谷口雅春先生は、平和はまず心と言葉によってつくられる、「平和を闘いとる」というような闘争心から平和は生まれない。だから「世界平和光明思念連盟」をつくって「世界平和の祈り」をする人を増やそうと提唱され、その祈りの言葉を発表されました。最初に発表された「世界平和の祈り」は、次のようなものでした。

 「神の無限の愛、吾れに流れ入り給いて、吾れに於いて愛の霊光燦然と輝き給う。その光愈々輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和の想いを満たし給う。」

 その時、先輩は、谷口雅春先生に献言のお手紙を差し上げたそうです。

 「神の国の平和というのは、一つの中心があってすべてが生き生きと生かされている状態だと先生はお教えくださっています。その“中心帰一”ということを世界平和の祈りの言葉の中に表現して頂いた方がよいのではありませんか」

 と。先生はそれを容れられて、

 「神の無限の愛、吾れに流れ入り給いて、吾れに於いて愛の霊光燦然と輝き給う。その光愈々輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人類の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。」

 と変更された、と伺っています。


 さらにきびしい「諫言」のようなお手紙を差し上げたのは、生政連(生長の家政治連合)の運動についてでした。

 谷口雅春先生は、生長の家の誌友を増やすことは仏を増やすことであるとして文書伝道に命をかけられるとともに、「国家を成仏させる」すなわち釈迦が金波羅華を拈って示された華厳の世界、中心帰一の宇宙の実相をまず日本に、そして全世界に実現するためにと「生政連」を結成して国会に代表を送る政治運動を始められた。そして参議院に玉置和郎氏、村上正邦氏を出すことに成功し、昭和49年、次は衆議院に代表を送ると発表された。その時のことです。

 谷口雅春先生に対して、「それは無理です」と、畏れながら敢然とお手紙を差し上げたのが先輩だったのです。このことは昭和49年12月号の『生長の家』誌「明窓浄机」欄に谷口雅春先生が書かれています。

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 明 窓 浄 机(昭和49年12月号『生長の家』誌)
  ▽わたしが選挙の実際問題に口を挾む事から退いた理由△
  ▽田中忠雄・村上正邦両氏の次期衆院選出馬は中止した△
  ▽田中忠雄氏は禅学の天分を生かす道こそ国の為である△
  ▽副総裁にお委せした次期参院選候補者の今からの展望△
                     谷 口 雅 春

 …(前略)…熱心な誌友氏から丁重なお手紙を頂いた。前文を略して本題に入るところから敬意を表してここに再録させて頂く。

『……“明窓浄机”九月号を拝読し、万感胸迫るものがあり、又総裁先生が今次選挙の実情について御理解戴いてない点につき早速筆をとりかけましたが、組織の表面には出られない影武者として動いた立場上、黙して語るべきでないと心得て今日迄差控へてをりました。
 ところが十月号を拝見し、日本に於ける唯一最高の愛国団体、「生長の家」が懸崖の縁に立つ危機を感じて止むなく筆をとらさしていただきました。……(中略)……

 結論としまして、人、時、処、を勘案致しますと衆院選には誰も出馬させないのが最上の策でありまして、この位の事が判らぬ生政連ならば解散を命じられた方が国家の為と存じます。以上篤と御賢察賜り度くお願ひ申し上げる次第でございます。敬具』

 最後の一句「これ位の事が判らぬ生政連ならば解散を命じられた方が国家の為になります」は、私の胸に正面から鋭いメスで刺される思ひがした。これ位のことがわからぬのは生政連の幹部ではない。選挙に無知な私自身なのであるからである。……(後略)……

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 ――こうして谷口雅春先生は、「選挙の実際問題に口を挾む事から退く」と仰せられ、当時副総裁であった谷口清超先生にすべてを委ねられたのでありました。


≪ 昔から「綸言(りんげん)汗の如し」といって、一度出た汗をひっこめることができないように、皇帝が言い出したことは、たとえそのことが道にはずれたことであろうと通してしまう、通させてしまうのが当たり前であったのであろう。その皇帝に反論するのは、まさに命がけである。文字通り忠臣でなければできることではない。真に皇帝を思えばこその進言である。

 しかしそれを道理として、自分の云い出したことをひっこめる、つまり臣下の云うことであろうと、それが道理ならばそれに従うことができるというのは、明君でなければできることではない。そこを道元禅師は、「忠臣一言を献ずれば、しばしば廻天の力あり」「明主に非ざるには、忠言を容(い)るることなし」と両者をほめたたえられたのである。

 この太宗と張玄素のありようを、宰相の魏徴が「張公の事を論ずるは回天の力あり」と激賞したという。回天の力、つまり天子さえも方向転換させる力をもっていた、というのであり、この因縁を挙して、道元禅師はさらに「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」(『正法眼蔵』菩提薩?四摂法(ぼだいさったししょうぼう))と述べておられる。愛の心からほとばしり出た愛の言葉が、一人の人を、皇帝をも、百八十度方向転換させる力をもっているというのである。≫

「わが青春記録」15より)

 先輩は、まさにこの張玄素のような忠臣であり、その諫言を聴き容れて方向転換された谷口雅春先生は、太宗にもまさる明君でもあられたと思う次第であります。

(つづく)

(2015.5.5)
14 谷口雅春先生に誠心の献言・ 諫言をした先達を見送る


 今日は、ある先達大人(うし)の葬儀があり、出席して参りました。

 その先達とは、「わが青春記録」の 11 あなたの中に太陽が昇る―顕斎(まつり)の時は今
(『理想世界』昭和53年11月号)の座談会に、「」という名で登場されている大先達です。87歳での大往生でした。

 先輩は、14歳のとき「少年戦車兵」として戦地に赴き、壮絶な闘いをして、戦友たちは皆戦死を遂げたが、自分は生長の家の教えで「皇軍必勝、必勝生還」を信じて戦い、敵兵を殺すことなく自分も無事に生還することが出来た。しかし――以下は、先輩から聞いた話です。

 谷口雅春先生は、敗戦後、『生長の家』昭和21年2月号の「新生への言葉」に次のように書かれた。

 「8月15日、陛下の玉音で、終戦の詔勅を承ったときに、私は少しも悲しくもなかったし、愕然ともしなかったし、涙もこぼれなかったのであります。私はあの時、『ついに来るべきものが来た、よかった。ニセ物の日本の戦は終った』と感じたのであります。」 と。

 先輩は、谷口雅春先生を囲んでの青年のつどいで、先生に言上した。

 「少年戦車兵として壮絶な戦死を遂げた戦友達が、夜な夜な私の夢枕に現れて、自分たちは聖戦と信じて命を捨てたのに、犬死にだったというのか――と恨み言をいうので、寝られません。先生、どうしたらよろしいでしょうか。」

 と、先輩は谷口雅春先生に質問した。

 そのとき、先生は――ただ涙をひとしずく落とされて、ひと言もお答えにならずに、そのまま去って行かれたそうです。

 その後、先生は、

 ≪日本は「侵略国」と云う汚名の下に侮辱され、戦争犯罪人と称して裁判にかけられ、上衣を奪われて十字架上にのぼったキリストのように領土の10分の4を奪われたけれども、その犠牲によって、東洋民族は自己の内部に、西欧民族と同様に尊ぶべき人権が、尊ぶべき「神性」が、宿っていることを自覚することを得たのである。
(『生長する青年』昭和27年10月号)

 ≪大東亜戦争は日本は形の上では敗戦に終ったけれども、実質の上から言えば、寧ろ勝利ということができるのである。何故なら、日本軍は、あの戦争の発端より約一年間、連戦連勝、破竹の如き勢いをもって南方諸国に殺到して、白人の勢力を東南アジア諸国から一掃したのであった。こうして東南アジアや諸民族に対して、有色民族と難も、決していつまでも白人の桎梏の下に苦しまなければならないことはないぞ、「汝らも亦神の子なり」の自覚を植えつけることに成功したのである。かくして人類進歩の一周期の終りに近づいた時点に於いて、日本は神から与えられた「世界すべての民族よ、有色民族といえども皆"神の子"なり」という真理宣布の役割を果たしたのであった。
(『理想世界』昭和43年8月号)

 ≪日本民族は「白人常勝の400年間の世界の歴史の流れを切り換える」使命を果して来たのであった。あの大東亜戦争は、この白人帝国主義のアジア・アフリカ侵略の流れを換える運動の最後の締めくくりをした戦争であったのであり、この戦争の結末としてアジア、アフリカの殆ど全部の民族が白人支配から脱して自立独立をかちとったのであった。
(『生長の家』昭和47年12月号)

 と書かれた。昭和38年には宇治別格本山に「精霊招魂神社」を建立して、次のような「尽忠の精霊に告ぐる詞」を捧げられた。

≪……過ぐる大東亜戦争に国を護る楯となり国を支ふる柱となり 忠誠義烈尚霊界に逝き給ひし後々までも国を護る精神を棄て給ふことなく まことに靖国の天使とも称ふべき諸霊を この御舎に招ぎまつり 聖経を読誦し真理の聖詞を献げたてまつりて其の精霊を労ひ奉らんとす

 惟ふに 大東亜戦争は外見 日本国の敗戦の形をとりて終結したりとはいへ あの戦争目的たる大東亜民族の解放は実現したるなり 戦争目的を達したる戦争はまことに勝利といふほかはなきなり 今や人類進化の一周期の終りにのぞみ すべての人類は その皮膚の色彩の相異にかかはることなく平等の尊厳を恢復し平等の取扱ひを受け その国土は独立し 万民平等の自由が確保せらるべき理想実現の時期が近づきたりしが この理想実現のためには 何れの国の民族かが尊き犠牲となりて 有色民族に“神の子”の実相を自覚せしめ その独立精神を喚起せしめる天使たるの役割を演ずる必要ありしなり 汝たち日本国民は この人類進化の一周期に方り 選ばれて南方諸民族にすべての人類は平等に神の子なりとの理想を自覚せしめる役割を神より与へられて 大東亜戦争の緒戦に於て連戦連勝南方に殺到して南方諸民族のホープとなり 有色民族も“神の子”なれば決して白色民族の奴隷たる状態に安んずべきに非ずとの精神を自覚せしめ よくこの任務を果して 今や南方アジヤ諸民族は勿論アフリカの諸民族の殆んど全部をしてその独立と自由とを恢復せしめたり まことにこれ汝たちの勇戦奮闘の功績にして 決して大東亜戦争は無駄の戦争に非ず また汝たちの戦死も決して犬死にてはあらざりしなり 貴下たちはよく大東亜民族を解放し 更に進んではすべての人類解放の尊き天使としての任務を果したるなり 今後世界は更に地上人類最後の進化の一大時期を迎へんとして 霊界人界ともに大変動を起さんとする契機を孕みつつあり 庶幾くは茲に吾らが読誦する『甘露の法雨』の真理を傾聴し給ひ 人間神の子一切の罪も業も病も死もなき真理を充分に体得し給ひ 更に大神のみ護りと導きとを受け給ひ霊知神通を愈々増したまひ 天かけり国かけりて 祖国の護りとなり給ふと共に人類全体の平和と幸福とに貢献し給はんことを……≫

(つづく)

(2015.5.4)
13 世界に開け 華厳の花
         ――ネパール大地震に思う――


 “ネパール大地震、死者7000人超す 8日目で男性救出 ・・・・・・

 4月25日に起きたネパール大地震は、死者数7000人超と、すでに阪神大震災を上回る惨状が報道されています。

 私もユニセフを通じて若干の救援募金をさせていただきましたが、被災地で実際に救援を待っている人々のところへはなかなか届かない状況だとも報ぜられています。

 ネパールの首相などが現地へ視察に行っても、被災者の顔も見ずに逃げるように去っていく、と不満を述べる被災者の映像をテレビで見ました。

 日本の天皇さまとは大違いだなと思い、あらためて日本に生まれ日本国に生かされていることがありがたく、皇恩、天皇の御恩に感謝いたしました。そして、こういう日本のすがた、日本の心を世界に広げていくことが、地上天国実現への道であるとの思いを深めました。

 聖武天皇は、旱魃による飢饉や疫病の流行などにも「責めはわれ一人にあり」――自分の責任であるとして逃げずに凡ゆる手を尽くされた。そのことを研究し明らかにされた東大寺長老の森本公誠氏は、『世界に開け 華厳の花』という書物も著されています。その本の帯には


 一瞬と無限、個々と全体。

 此の世界の時空と存在は、

 相互が複雑に関係している、と考える華厳思想。

 深刻な問題が多々浮上する現代、真にもう一度

 立ち戻る場所はどこか。

 華厳の教えから文明を見直し、

 新たな世界観を語る。………

 すべては繋がり、光り輝いている。


――と書かれていました。

 その華厳思想の中心には、具体的にスメラミコト(天皇)まします、というのが生長の家の教えであり実践哲学であると思います。

 この人類最後の最高の教えにふれたありがたさに感泣し、その使命実現に邁進したいと思います。

(2015.5.3)
12 人間は神である―松陰神社に詣でて

 私は、昨日と今日2日連続で、東京世田谷の松陰神社に参拝しました。自宅から片道10km足らずだと思いますが、昨日は一人で自転車で行き、今日は妻と一緒に車で、新宿区落合にある岡家などの墓に参った後、再び参拝しました。

 松陰神社ご神体の丸い鏡は比較的大きく、くもりなくきれいで、その正面に立つと、自分のすがたが鏡のまん中に写るのでした。そこで礼拝すると、鏡に写った自分の姿を礼拝していることになるのでした。

 そこで、思いました。このご神体は松陰先生の御魂であって、同時に自分の魂である。わが魂は、松陰先生の御魂と一つになったのだと。

 それでうれしくなって、昨日に続き今日もまた参拝したのでした。

 聞いたことがあります。カガミのガ(我)を除
(と)り去ると、カミになる。ガ(我)を除り去ると、人間本来の神のすがたがあらわれると。松陰先生は日本のために、我を捨てて行動し、刑場の露と消えながら神となり明治維新の原動力となられた――。

 自分もまたその松陰先生の尊き御魂と一つになり、限りないパワーをいただいて働かせて頂くのである、という思いを持った松陰神社参拝でした。

 昨日は自転車で、そこからほど近い豪徳寺にも行き、そこに葬られている井伊直弼の墓にも詣でました。「お役目ご苦労様でした」と感謝の祈りを捧げました。

 松陰を死罪として安政の大獄を実行した井伊直弼はやがて勤王の水戸浪士に暗殺される。その松陰と直弼が、近い場所で眠っているということも、何かを私たちに教えてくれているように感じました。――つまり、現象界に於いては不倶戴天の敵として殺し合うような役を演じた者同士も、時空を超えた超越界においては仲よく手をつなぎ談笑しながら協力しあっているのが実相ですよ、と。

 豪徳寺には極上の焼き芋を売っている有名な店があり、私も焼き芋は好きなので土産に買って帰って食べたのでした。うまかった!

 バンザーイ!

(2015.5.2)
11 「希望の和解」で 世界をもっとはるかに良い場所に きっとできます! (安倍総理 米議会演説より)


■第2次大戦メモリアル

 先刻私は、第2次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐
(せいひつ)な場所でした。耳朶(じだ)を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。その星一つ、ひとつが、斃(たお)れた兵士100人分の命を表すと聞いたとき、私を戦慄が襲いました。

 金色
(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。

 真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海……、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙とうをささげました。

 親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼をささげます。とこしえの、哀悼をささげます。

■かつての敵、今日の友


 みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、おっしゃっています。

 「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉をたたえることだ」

 もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のおじいさんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。

 熾烈
(しれつ)に戦い合った敵は、心の紐帯(ちゅうたい)が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。ほんとうに、ありがとうございました。(中略)

■未来への希望


 まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。

 「落ち込んだ時、困った時、……目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」

 2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。そして、そのときでした。米軍は、未曽有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子供たちに、支援の手を差し伸べてくれました。

 
私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれた。希望、です。米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。

 米国国民を代表する皆様。
私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。

     * * * * * * *

 ――70年前、激しく戦った敵同士が、今こうして和解し「希望の同盟」を結んで、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうと語った安倍総理の演説に、聴衆らが立ち上がって拍手を送る場面が10回以上あり、終了後首相は米議員から相次いで握手を求められたという。

 
生長の家は実相円満神の子の大調和の家、仲良しの家ですから、今仮に分裂して争いあっているすがたがあるように見えても、必ず一つに結び合い協力し合う時が来るのである。世界平和、みこころの天に成る神の国実現の使命を果たすべく、己れを無にして前進いたしましょう。

(2015.5.1)
10 「世人皆聖人は無欲と思えども然らず、其の実は大欲にして其の大は正大なり。

 ――
賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ。凡夫の如きは、小欲の尤も小なるものなり。夫れ学問は此の小欲を正大に導くの術を云う、大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身に大福を集めんことを欲するなり。」

 と、二宮尊徳は『二宮翁夜話』で述べています。



 マズローの欲求5段階説では、人間の欲求は5段階のピラミッドのように構成されていて、低階層の欲求が充たされると、より高次の階層の欲求を欲するという。

第1階層の「生理的欲求」は、生きていくための基本的・本能的な欲求(食べたい、寝たいなど)で、この欲求を充たせれば、次の階層「安全欲求」を求める。

第2階層の「安全欲求」には、危機を回避したい、安全・安心な暮らしがしたい
(雨風をしのぐ家・健康など)という欲求が含まれる。

「安全欲求」を充たすと第3階層の「社会的欲求」
(集団に属したり、仲間が欲しくなったり)を求めます。この欲求が満たされない時、人は孤独感や社会的不安を感じやすくなる。

ここまでの欲求は、外的に充たされたいという思いから出てくる欲求です。

そして次に第4階層の「尊厳欲求(承認欲求)」(他者から認められたい、尊敬されたい)という欲求が芽生える。ここからは外的なモノではなく、内的な心を充たしたいという欲求に変わる。

そして、最後に第5階層の「自己実現欲求」
(自分の能力を引き出し創造的活動がしたいなど)の欲求が生まれる、という。

 
※ちなみに、マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それは「自己超越」という段階。「見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭する」という領域のようです。


 28日の生長の家相愛会・栄える会合同研鑽会で、総裁は、人間の欲望に発した経済優先の活動が自然破壊をもたらし、貧富の差を広げ、戦争を引き起こしてきた。だから、「欲望を制御して、神性表現の目的に従属させよ」と話された。その「欲望」とは、マズローのいう欲求5段階説では第4階層以下の低い階層の欲求でしょう。それを第5階層以上の高い段階に引き上げて、二宮尊徳のいう「正大なる大欲」を持ち、愛他的使命感に燃えて前進するよう積極的に導いて行けば良いのではないかと思いました。


 「学問の道は、人と禽獣との違いを知ることにある」と、吉田松陰は言った。

 「国家を離れた人間は、人間でなくて動物である。人間と国家とは対立する二者ではない。人間の外に国家はなく、人間を人間たらしめるものは国家である」と、山口悌治・元生長の家基礎文化研究所長は言った。

 生長の家は、単なる机上の哲学ではなく、
「哲学の実践」である。


 「学んで時に之
(これ)を習う、亦説(よろこ)ばしからずや」(人として生きる道を学び、常にそれを実践実修して生きるのは、何とうれしいよろこばしいことだろう)と孔子は言った。「之を知る者は之を好む者に如(し)かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」とも。

 私は残る人生を、この道を楽しんで力いっぱい誠=使命感に生きます。


 「諫言できぬ者は、戦で先駆けもできない」(平時直諌なくんば、戦に臨みて先登なし)と、吉田松陰は言った。徳川家康は「およそ主君を諫める者の志、戦いで先駆けするよりも大いに勝る」と言っている。松陰は諫言することを恐れなかった。命を顧みずにする諫言こそ、武士の至誠の表れだったからである。

 「草莽崛起
(そうもうくっき――草莽はくさむら、民間・在野のことで、草莽崛起は在野から立ち上がること)、豈(あに)他人の力を仮らんや」と吉田松陰は言った。「地方講師」を解任され、フリーになった私は、今こそ「草莽崛起」の先頭に立ち、精一杯楽しんで、この道――「唯神実相哲学の実践」に生きます。皇恩に感謝し、八紘為宇の日本の使命――みこころの天に成る世界、神の国実現のため、生長の家人類光明化運動のお役に立ちたいと思います。

     * * * * * * *

人生は春夏秋冬 30歳には30歳の四季がある
   (吉田松陰『留魂録』より)

松陰は30歳で処刑されることになり、死に臨んで、『留魂録』をしたためました。その中で、人生を春夏秋冬と穀物の収穫になぞらえて、次のように記しています。

「春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実を刈り取り、冬に蓄える。
秋から冬にかけて人々はその収穫を喜び、酒をかもし、甘酒をつくって、村中に歓喜があふれる。
収穫を終えたことを悲しむ者がいることを、私は聞いたことがない。
私は今年で30歳になった。
一事を成すことなく死ぬのは、穀物が実らないことに似ていて惜しまれる。
しかし、私の身について言えば、今が実りの時であり、何も悲しむことはない。
なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い、穀物のように必ずしも四季を経て実るものではないからである。10歳で死ぬ者は10歳のうちに四季があり、20歳なら20歳の四季がある。30歳、50歳、100歳も同様である。
私は30歳ですでに四季が備わっており、私なりに成長して実をつけているはずである。
それが単なるもみ殻なのか、実の入った穂なのかは、私の知るところではない。
もし同志の中で私の真心に共感し、志を継いでくれるものがあるならば、それはのちに蒔くことのできる種が絶えていないということで、収穫があった年に恥じないものである。
同志諸君はこのことをよく考えてほしい。」

 と。

 ――松陰は30歳ですでに四季が備わっており、成長して実をつけているはず、と言っていますが、私、岡は今80歳を超えてなお、まだ四季が備わらず、実をつけているとは言えない状態です。まだまだこれからです。

(2015.4.30)
9 「皇恩に感謝」こそ世界平和への道。

 生長の家は、単なる机上の哲学ではなく、
「哲学の実践」である。(『實相と現象』59頁)

 それは、無我になって宇宙の中心真理に帰一すること。無我を生き、神を生きるというのは抽象概念みたいだけれども、無私絶対愛の宇宙の中心真理の人格的表現を具体的に生ける人格として天皇に於てこれを見出さんとするものである、と谷口雅春先生は『無門關解釋』のはしがきでおっしゃっているのであります。

 昨日その『無門關解釋』のはしがきの一部を引用させて頂きましたが、その前段の部分を拝読させて頂くと、

 「天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は天皇より出でて天皇に帰るなり。天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの天皇より流れ出で天皇に帰るなり。

 「わたくしの『生命』を愛護すること勿れ。『生命』が尊きは天皇の大御いのちの流れであり、岐
(わか)れであるが故に尊きなり。寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道の迷妄の徒となるなり。

 「無道とは、『道』の無きことなり。道は宇宙にミチてあれども、『我』のあるところには、道は遮られてあらはれぬなり。大海原に海水は満ちたれども岩石の固まりたるところには海水は満ちをること能はざるが如きなり。『我』がなくなりて、はじめて『道』は生きるなり。私の『善』、私の『道』、私の『宗教』などと云ふものあるべからざることなり。

 「すべて宗教は天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる徒なり。すべてのもの太陽にて生くるが如く、すべてのもの、天皇の大御いのちにて生くるなり。

 「宗はオホモトなり。天皇なり。すべての教
(のり)も則(のり)も範(のり)も矩(のり)も規(のり)も法(のり)も、悉くスメラミコトより発するなり。……」

 とありました。


  今朝、私は「大日本神国観」の神想観をし、生長の家相愛会・栄える会合同幹部研鑽会に参加しました。自転車で、自宅から飛田給道場まで片道約10km、新緑に囲まれ爽やかな風かおる道を走って……。

 “「結び合う」生き方を進め、地域・社会に貢献しよう”というテーマで開催されたこの研鑽会は、主催者・関係者の懸命な努力が感じられて、それなりに盛り上がったと思いますが、残念ながら、「画竜点睛を欠く」ものだったと思います。それは中心がなかった――開会の最初に国旗に正対して国歌「君が代」を歌ったのはよかったけれども、そのあと一言も「日本」「天皇」ということが語られなかったからです。

【注釈】 画竜点睛を欠く(がりょうてんせいをかく)
「画竜」は竜の絵を画くことで「睛」はひとみ(瞳)。
中国の梁の時代、張僧ヨウという絵師が竜の絵を描き、最後に瞳を入れたところ竜が天に昇ったという故事から、「画竜点睛」は大事な仕上げの意味。「画竜点睛を欠く」とは、物事をりっぱに完成させるための、最後の仕上げを忘れること、全体を引き立たせる最も肝心なところが抜けていること。

 今日の研鑽会では総裁の
 「現代において最も必要なことは、個人が自己主張しながらバラバラに生きることではなく、また似たもの同士が寄り集まってグループの利益を護ることではなく、さらには一国が自国の繁栄のために他国を犠牲にすることでもなく、人類の利益のために自然を破壊することでもありません。私たちにとって“他者”と見えるもの、一見“別物”と見えるものも、それらとムスビ合うことによって、新しい、より大きな価値を創造することができるという真理を多くの人々に伝え、また自ら生活に実践し、名実ともに“自然と共に伸びる”運動を力強く展開していこうではありませんか。」

 ということが、プログラムに掲げられ、またスクリーンにも投影された。そして総裁の講話では、人間の欲望に発した経済優先の活動が自然破壊をもたらし、貧富の差を広げ、戦争を引き起こしてきた。だから、「欲望を制御して、神性表現の目的に従属させよ」ということが、新しい文明を築く元になると話された。

 私はここで、かつて山口悌治先生がおっしゃった言葉を思い出します。

 「現代一般に、人間が国家と対立するものという考え方があるけれども、それは間違いであって、国家を離れた人間は、人間でなくて動物である。人間と国家とは対立する二者ではない。人間の外に国家はなく、人間を人間たらしめるものは国家である」

 ――個を全体への奉仕に捧げるとき、個が真に生かされる。どこにも犠牲はなく、生かし合いばかりである。そうした大和の理念を具現化したのが日本の国である。その日本は、八紘為宇すなわち全世界人類が一つの家族のように仲よく生かし合う「みこころの天に成る」神の国を実現しようという理想をもって建てられた国なのですから、「一国が自国の繁栄のために他国を犠牲にすること」などはなく、「個人は国のために、国は世界のために」貢献することで個人も国も繁栄する、まさにwin-winの道がここにあるのではないか――と思いました。

 「すべて宗教は天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。」
(『無門關解釋』はしがき)

 と谷口雅春先生はおっしゃって、生長の家は天皇信仰であるとも言われました。しかし、その「天皇」を肉体をもって顕現された現象界の天皇陛下とのみ考えると、「偶像崇拝」になるかもしれない。

 ≪天孫降臨(てんそんこうりん)と云うことは天の父のみこころが天降って、天(あめ)が下ことごとくが一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらわれると云う意味の象徴的表現である。 日本民族が世界を治めるのではなく、『天孫』すなわち『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。……天孫とは肉体のことではない。……大日本天津日嗣スメラミコトとは固有名詞ではない。理念の表現である。≫

 と、「大和の国の神示」には示されています。

 しかし、「私は無私絶対愛の宇宙の中心真理の人格的表現を抽象概念ではなく具体的に生ける人格として天皇に於て見出さんとするものである。それが真実であることは終戦時の天皇の絶対無私の愛の行蹟がこの世界を戦火の地獄から救い出した事実によってテスティファイ(立証)せられているのである」と谷口雅春先生はおっしゃっているのであります。

 聖武天皇が「華厳経(けごんきょう)を以て本(もと)と為せ」という勅を渙発され、動植物もともに繁栄することを願う盧舎那(ルシャナ=ビルシャナ)大仏を建立されたことに鑑みても、私は「皇恩に感謝」して生きることこそ、神・自然・人間の大調和をもたらす、世界平和への道であり、それが「唯神実相論」と云う哲学の実践であるという思いを深くいたします。

 (つづく)

(2015.4.28)
8 人間は、自主的に動く、行ずる「大仏」である!

 “奈良の大仏 屁で飛ばす”
 という「デカンショ節」(の替え歌)の一節を一昨日掲げ、昨日は「生長の家は、大仏様を屁で飛ばすというような、とんでもない不敬なことはいたしません」と書きました。

 谷口雅春先生著『無門關解釋』
(昭和39年11月初版)のはしがきは、戦時中に書かれた『無門關の日本的解釋』のはしがきに次のように書かれていると、そのまま紹介して書かれています。

≪ 「東大寺の大仏は、中心帰一の蓮華蔵世界を彫刻にあらはせるなり。中心座にましますは、光明遍照者にましまして、それを守護し奉るために、千葉
(せんよう)の蓮華その御足の下にありて、各々の蓮華に、悉く釈迦牟尼仏ゐまして、光明遍照者の御徳を讃ふるなり。ヴェーローシャナと云ふ梵語をば、大日如来などと、仏教が如来の如く訳したるは誤謬にはあらざれども、人をして外国の仏様の如く誤解せしめたるや久し。

 「ヴェーローシャナとは、単に『光明遍照』の意なり。宇宙の中心座に在
(ましま)す『光明遍照』なり。畏くも天照大御神にましますなり。天皇は天照大御神と一身にましますが故に、釈迦は、天皇信仰を教へたるなり。……」

 派閥や党派で到る処に争いが見られる現代に、この戦中に書いた序文は頂門の一針のような気がするのである。みんな野郎自大、「わしが」「わしが」で争っていて、その争いが終熄しないのは、無我になって宇宙の中心真理に帰一しないからである。しかし「真理」と称する抽象的なものに帰一しようとすると、真理は肉眼には見えないから、自分の主観で勝手な主義を樹て理想を描き、相衝突してまた停止するところを知らない。そこで現実世界に宇宙の真理・実相が地上に天降って顕現する必要があるのである。それがキリストの説いた「神意
(みこころ)の天に成るが如く地に成る」ことである。その時その無私絶対愛の宇宙の中心真理の人格的顕現が地上に顕現しなければならぬのである。そのような人格者を地上に求めるとき、キリスト教ではキリストの再臨という形でそれを表現しようとしているし、仏教では弥勒下生(みろくげしょう)という形でそれを表現しようとする。しかし即今キリスト何処にありや、弥勒いづこにありや、ただ理想として心に描くだけでは抽象概念に過ぎないのである。私は無私絶対愛の宇宙の中心真理の人格的表現を抽象概念ではなく具体的に生ける人格として天皇に於て見出さんとするものである。それが真実であることは終戦時の天皇の絶対無私の愛の行蹟がこの世界を戦火の地獄から救い出した事実によってテスティファイせられているのである。≫

 と。
谷口雅春先生著『無門關解釋』はしがきより。テスティファイ=立証


 ――奈良東大寺の盧舎那
(ルシャナ=ビルシャナ=ヴェーローシャナ)大仏は東大寺の本尊仏とされています。しかし、偶像崇拝をしているわけではないと、森本公誠・東大寺長老は日経新聞の「私の履歴書」欄に書かれていたことがありました。――

 1998年11月、国連は2001年を「文明間の対話年」と決めた。異文化間の対話促進が目的だ。日本の外務省はこれに呼応してイランの要人を日本に招請。まず来日したのはイラン国会副議長で神学者のロウハーニー(ロハニ)博士、現在の大統領だった。森本氏は1999年10月、一行を東大寺に迎え、およそ3時間半に及ぶ問答をしたという。

 そのとき、「仏教ではなぜ形あるものを拝むのか」という質問が出された。偶像崇拝が禁止されているイスラム教徒としては当然の疑問であろう。森本氏は答えた。「我々は何も形そのものを拝んでいるわけではない。形の背後にある大いなるものを拝んでいるのだ」と答え、縷々説明したあと、ロウハーニー氏に質問した。

 「コーランのなかには〈神の顔〉とか〈主のお顔〉という言葉が何カ所か出てくるが、あなた方はこの言葉をどのように理解しているのか」と。森本氏が〈神の顔〉を「ワジュフッラー」とアラビア語で問いかけたこともあってか、ロウハーニー氏はアハハと笑ってしまい、よく答えてくれなかったそうです。

 さて、

≪「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」と「生長の家倫理学」は答えるのであります≫

 と、『生命の實相』第13巻 倫理篇上 第2章「第一の神性隠蔽」に書かれています。

≪キリスト教では形あるものを崇拝することを偶像崇拝といって、非常に軽蔑して忌み嫌うのでありますが、「永遠の神性」を礼拝の対象にせず、二千年前ユダヤに生まれた肉体イエスを通さねば救われないなどと、肉体を礼拝の対象にしているなどは、みずから忌み嫌う偶像崇拝に陥っていることになるのであります。

 こうして「永遠神性」に背を向け顔をそむけて、ある特定の肉体を崇拝の的にすることは神の実相を見ざるもの、本当の神を「自己の迷い」をもって包み隠せるはなはだしき罪なのであります。

   宗教争いは偶像崇拝よリ起こる

 物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分でないというような争いができてくるのであります。

 人間を和合させる働きをせねばならぬ宗教でさえも、肉体キリストという物質的顕現に捉えられていましては、顕現せられましたそれぞれの応身または報身は異なりますから、互いに信者争い、領分争いをしなければならぬようになってくるのは当然であります。
 その宗教が偶像崇拝教である程度は他教を排斥する程度でわかるのであります。

 つまり、すべての争いの第一の萌芽(めばえ)は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるのであります。

 すなわち「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」と「生長の家倫理学」は答えるのであります。≫


 ――“奈良の大仏 屁で飛ばす” という「デカンショ節」の詞は、「偶像崇拝は屁で飛ばす」という意味に考えたらよいのかも知れません。


≪ 生長の家は精
(くわ)しく謂(い)えば「唯神実相論」と云う哲学の実践であります。この哲学は、宇宙にある一切のものは、唯神(ただかみ)によって創造(つく)られているのである。それが実相であり、実相のほかニセモノだからほかには何もない、唯神のみだと言うのです。――その完全な世界が今既にここにある。今既にここにあるのだけれども、「五官はそれを見る事能わず」でありまして、それは「実相覚」と云うものによってのみそれを悟る時に、その悟った人の心の前に、その「既に完全な世界」が現前するのであります。≫

 と、谷口雅春先生は『實相と現象』(59頁)に書かれています。単なる机上の哲学ではなく、
「哲学の実践」である。

 人間は肉体ではない。神の子である。言いかえれば、肉体が小さくとも、「大方広仏」すなわちあらゆる方角に広がっている
大仏である。それも、奈良東大寺の大仏像のように動かない大仏様ではなく、自主的に動く、行ずる大仏様なのです!

 (つづく)

(2015.4.27)
7 人間は、小さくても「大仏」である!

 “奈良の大仏 屁で飛ばす”
 という「デカンショ節」(の替え歌)の一節を昨日、掲げましたが、生長の家は、大仏様を屁で飛ばすというような、とんでもない不敬なことはいたしません。

 奈良東大寺の大仏様は、第45代聖武天皇の願い――「責めはわれ一人にあり。華厳経(けごんきょう)を以て本(もと)と為せ」という詔
(みことのり)によって建立された。
 当時、旱魃
(かんばつ)による不作の連続で飢饉が起こり、飢餓状態に陥った民が罪を犯してしまう。そのような事態に至った責任は朕一人にあるとして、罪人に大赦を与えた。危うさの前から逃げようとする人間は多いが、天皇は逃げなかった。
 それでも災害は天皇に追い討ちを掛けた。天然痘が隔年に大流行し、光明皇后の藤原四兄弟をはじめ、多くの高位高官や庶民が犠牲になった。労働力を失った国土は荒廃し、各地に浮浪人が溢れた。
 律令という国家基本法の定めにこだわることなく、現実を見据えた対策を立てねばならない。たとえば浮浪人は戸籍法では原籍地に送還となるが、天皇はそれをやめさせ、寄住先で登録することを許した。また行政の無駄を省く政策の一環として、官員法に定める地方官人の定員を削減した。
 原野をせっかく開墾しても、孫の代で国家に収用されるとなれば、働く意欲が萎える。元の荒地に戻るところも出てきた。天皇はこれを改め、開墾地の永久私有権を認める法律を出した。
 困難なのは疲弊した民の心の問題だ。解決策として出したのが、天皇による
 「華厳経
(けごんきょう)を以て本(もと)と為せ」という勅。
 そして国分寺・国分尼寺の建立と、すべての人々が一体感を取り戻し動植物もともに繁栄することを願う盧舎那
(ルシャナ=ビルシャナ)大仏の造立であった。
  (東大寺長老 森本公誠著 『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』 による)


 「華厳経」は、詳しく言えば「大方広仏(だいほうこうぶつ)華厳経」というお経。“大方広”というのは、あらゆる方角に広がっているという意味で、大方広仏とは英語で言えばUniversal Buddha 或はUniversal Godである、と谷口雅春先生は「金波羅華実相世界」についての実相研鑽会で説かれています。(→こちら)

 宇宙普遍の神(仏)の生命が華厳――即ち蓮華荘厳
(れんげしょうごん)の蓮華の花のように中心帰一の秩序ある美しき姿に展開している世界が、この宇宙であるという事を、釈尊は悟りをひらかれて最初の説法でお説きになった。それが大方広仏華厳経である。この華厳経を以て本と為せという勅によって建立されたのが東大寺盧舎那大仏の造立であったわけです。大仏は毘盧遮那(ビルシャナ)仏であると言われていますが、それは「大方広仏華厳経」の「大方広仏」そのものであり、あらゆる方角に広がっている、英語で言えばUniversal Buddha 或はUniversal Godであるわけです。

 『新版 真理』第7巻に、次のようなお話が書かれています。

≪私の娘が、まだ小学校の小さい時に、奈良に修学旅行に行った。その時に奈良からおみやげを持って帰って来た。小ちゃいお人形みたいなのを持って来て、
「お父さん、これおみやげ上げます。」
「ホゥ、これ何じゃね。」
「これは小さいけれども大仏です。」と言う。

ほんとうに、それは小さいけれども大仏でありました。大仏と云うのは宇宙に充ち満ちている所の、大いなる毘盧遮那仏、大日如来のその相(すがた)を象徴してそこに現されているものなのです。像の寸法が大きいから大仏と言うんではない。小さくってもそれは宇宙に満ちひろがる所の大日如来の肖像であるから大仏と云うのであります。≫と。

 私たちも神の子である以上は、肉体が小さくとも、「大方広仏」すなわち大仏であるのです。人間は肉体ではない。
 
人間はみんな、大仏なのです! それも、奈良東大寺の大仏像のように動かない大仏様ではなく、自主的に動く、行ずる大仏様なのです!

 (つづく)

(2015.4.26)
6 奈良の大仏 屁で飛ばす

どうせやるなら でっかいこと なっさーれ アヨイヨイ
  奈良の大仏 屁で飛ばす ヨーイ ヨーイ デッカンショ!

「天と地を 団子に丸めて呑む人は 鼻毛の先で 月突き飛ばす」

 ――ショーペンハウエルは、「時間も、空間も、自分を離れて自分の外に存在するものではなく、自分の心象にすぎないのだ。宇宙は、自分の外に存在するのではなく、自分の心象であり、自分の掌中にある」と言っているんだ。これは大変なこと、すごいことだと、びっくりしました。

 しかし、ショーペンハウエルは「この根本真理は決して新しいものではない。インドの賢者たちが疾くに認識したところである」とも言っています。

 その『意志と表象としての世界』は難しくて、考えながら読むとなかなか先へ進めず、その時に思い出したのが、父が読んでいた『生命の實相』という本でありました。『生命の實相』の教えは、ショーペンハウエルをも「屁で飛ばす」ような、壮大で革新・革命的な教えでありました。

 宇宙の根本真理を説いたのが釈迦でありイエス・キリストであり、諸々の善き宗教の開祖たちであった。それらの教えは皆、「一」なる大真理を説いている。すなわち、時間・空間も本来無であり、時間・空間上に映画のように展開され現れて見える一切のものも、本来無である。ただあるものは完全なる神のコトバ、佛如来の無碍光のみである。諸々の善き宗教はみな、この大真理をそれぞれ別の表現で説いているに過ぎない――と喝破し、「一」より出でたるものであるから「一」に帰るべしという「万教帰一」を説いたのが「生長の家」であり『生命の實相』の教えでありました。

 「生長の家は、人類最後の最高の教えをするところであります」

  (『神ひとに語り給ふ』162頁)


 と言われているのでありました。

 神社本庁の葦津珍彦氏は亡くなられる少し前に、生長の家について、「谷口雅春という天才のすべてを継承することは凡人にはできない、したがって、今後、各人が“これが生長の家の本質である”と考えるところをそれぞれが継承して、ゆるやかな連携を結んでいくしかない」と言われたそうです。

 しかし――

 J.クレンショー原著『天と地とを結ぶ電話』という本には、アガシャの予言(アガシャとは、七千年前エジプトに生まれた宗教政治家、霊人)というのが紹介されています。(原著は1950年に書かれたもの)
 それによれば、これから地獄のような暗黒の日々――地上の歴史始まって以来最大のショック、試練の時を経て、輝かしい黄金の時代が来る、ということが予言されています。そのときには

≪宗教や哲学、昔から「霊的価値」と呼んだものが広く評価されるようになり、地上のすべての政治、経済体制は、ガラリと一新される。技術も、社会も、今とは比較にならないほど進歩する。理解がみなぎり、一体となった世界社会が実現する。≫

 と予言されています。
 しかもこのようなすばらしい未来の予言とともに、吾々は逃れることの出来ない嵐の中にいるようなものであって、吾々は心的にも霊的にも強力とならねばならない、と警告されています。

≪ アメリカは未曽有の世界的指導国となるであろうが、「没落期」をも迎えるであろう。共産主義は自己崩壊するであろう。≫

≪ 原子力は、生活の便利のために利用できるようになる。政治面で婦人の役割は、さらに重要になる。指導的立場に立つ婦人がふえてくる。古くから残っていた階級は消滅する。

 最も変るのは教育である。その理論も実際も、根底から改革される。それは、人間観に一大変革が起るからである。

 人間とは何か? 現在では、環境にもみくだかれ、生活にこづき回され、機械や社会体制の部品となって、いつ廃物とされるかわからない、情ない、無力で不安定な存在にすぎない。
人間とは本来、そういうものではなく、宇宙的にかかわりあっている、巨大な存在なのだ。

 それを自覚せねばならぬ時がまもなく訪れてくる。
激しいショックを受け、大きな試練をのりこえて、いやでも人間は、本当の自分自身に目ざめ、偉大な自覚を抱くようになる。それがつまり地上の浄化だ。この上もなく平和な、輝かしい時代は、人類をゆり動かす大きなショックとともにやってくる≫

 ――と予言されているのです。

 私は、今、その時が近づきつつあるのではないかと考えます。
 (つづく)

(2015.4.25)
5 外にはない。内にある。(その2)

○わが内にすべてがある。わが内に時間があり、空間がある。
○人間は、時間・空間の中に生まれてきたのではない。時間・空間を生み出した者である。

――と、21日にここまで書いたとき、電話で「地方講師解任」との通知を受けたのでした。21日にはその続きをどのように書こうと思っていたか、それをこれから書きたいと思います。

人間には皆誕生日があって、没年月日がある(来る)。生地があって、死地がある。
――というのは、肉体の話。

人間の本質(生命)は、肉体ではないのだ。肉体は人間の仮現
(けげん)であり、本来なきものであって、人間の本質、本性は、神であり仏であるのだ。人間は、生死を超えた、死なないいのちなのだ。

その根本真理を説いたのが釈迦でありイエス・キリストであり、諸々の善き宗教の開祖たちであった。そしてそれらの教えは皆、「一」なる大真理を説いている。すなわち、時間・空間も本来無であり、時間・空間上に映画のように展開され現れて見える一切のものも、本来無である。ただあるものは完全なる神のコトバ、佛如来の無碍光のみである。諸々の善き宗教はみな、この大真理をそれぞれ別の表現で説いているに過ぎない――と喝破し、「一」より出でたるものであるから「一」に帰るべしという「万教帰一」を説いたのが「生長の家」であり『生命の實相』の教えでありました。

          ◆

「デカンショ節」というのが浮かんできました。

デカンショ デカンショーで 半年ゃ暮らす アヨイヨイ
  あとの半年ゃ 寝て暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ!

丹波篠山 山家(やまが)の猿が アヨイヨイ
  花のお江戸で 芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ!

どうせやるなら でっかいこと なっさーれ アヨイヨイ
  奈良の大仏 屁で飛ばす ヨーイ ヨーイ デッカンショ!

 ……この「デカンショ節」は、もとは丹波篠山の盆踊り唄。私は、小学校1年から3年の一学期まで丹波篠山でこれを聞いて育ちました。そしてこの唄はまた、元旧制一高・東大駒場寮のコンパでもよく学生歌として替え歌などで歌っていて、「デカンショ」というのは、近世の大哲学者デカルト・カント・ショーペンハウエルのことだと言われていました。(もとはデッコンショという掛け声だったらしいですが)

 その「デカンショ」哲学者の一人ショーペンハウエルの主著『意志と表象としての世界』を私は駒場寮時代に読んで、びっくりしました。まず冒頭に

≪「世界はわが表象である」("Die Welt ist meine Vorstellung")――これは生き且つ認識する凡てのものに妥当する真理である。人間をとり囲む世界は表象としてのみ存在する、即ち全く他者即ち人間自身であるところの表象者に関係してのみ存在する、ということが明白に且つ、確実になる。――もし何らかの先天的真理なるものが言われるとすれば、これこそその真理である。何となれば、この真理は、時間とか空間とか因果とかいう凡ゆる他の形式より一層普遍的な、凡ゆる可能なそして考えられ得る経験の形式を言い表わしたものだからである。此の真理ほど確実にして、凡ゆる他の真理に依存せず、又証明を要しないものはない。即ち認識に対して定在する一切のもの、即ち此の全世界、は主観との関係に於ける客観にすぎず、直観する者の直観、約言すれば表象に他ならないという真理である。勿論此の真理は現在にも、又過去や未来にも、遠いものにも近いものにも妥当する。何となれば、この真理はこれら凡てのものの区別が生ずる唯一の基たる時間や空間そのものにも妥当するからである。凡そ此の世界に属するもの、又属し得るものはすべて不可避的にこのような主観による制約にとりつかれているのであって、すべてのものは主観に対してのみ定在する。世界は表象である。≫

 とありました。「表象(Vorstellung)」は、「投影したもの」「心象」「心の影」といってもよいものでありましょう。

 ――時間も、空間も、自分を離れて自分の外に存在するものではなく、自分の心象にすぎないのだ。宇宙は、自分の外に存在するのではなく、自分の心象であり、自分の掌中にあると言ってよいものなのだ――。これは大変なこと、すごいことだと、びっくりしました。そして、ショーペンハウエルを尊敬しました。

 しかし、その『意志と表象としての世界』は難しくて、考えながら読むとなかなか先へ進めず、その時に思い出したのが、谷口雅春先生が書かれた『生命の實相』でありました。
(つづく)

(2015.4.24)

4 安倍総理 バンドン会議スピーチは新鮮。

 アジア・アフリカ会議(バンドン会議)の60周年を記念する首脳会議が22日、インドネシアで開幕した。これに出席した安倍晋三首相は、次のように演説した。
(冒頭部分と結びの言葉)

≪共に生きる。スカルノ大統領が語った、この言葉は、60年を経た今でも、バンドンの精神として、私たちが共有するものであります。古来、アジア・アフリカから、多くの思想や宗教が生まれ、世界へと伝播していった。多様性を認め合う、寛容の精神は、私たちが誇るべき共有財産であります。

 その精神の下、戦後、日本の国際社会への復帰を後押ししてくれたのも、アジア、アフリカの友人たちでありました。この場を借りて、心から、感謝します。60年前、そうした国々がこの地に集まり、強い結束を示したのも、歴史の必然であったかもしれません。先人たちは、「平和への願い」を共有していたからです。(中略)

 私たちの国々は、政治体制も、経済発展レベルも、文化や社会のありようも、多様です。しかし、60年前、スカルノ大統領は、各国の代表団に、こう呼び掛けました。私たちが結束している限り、多様性はなんらの障害にもならないはずだ、と。私たちが共有している様々なリスクを再確認すれば、多様性のもとでも、結束することなど簡単でしょう。

 
直面する様々な課題を解決するために、私たち、アジア人、アフリカ人は、結束しなければなりません。この素晴らしい多様性を大切にしながら、私たちの子や孫のために、共に、平和と繁栄を築き上げようではありませんか。

 私は、この安倍総理の演説に、新鮮さ、プラス思考で夢と理想を語る積極的なリーダーシップを感じ、「よくぞ言って下さった」と、うれしく思いました。いつまでも反省とお詫びばかりでは、世界平和に貢献することもできないと思います。

○生長の家とは、建物の名ではない。「和」の名であり、「愛」の名である。
○分裂がない、対立がないのが生長の家であります。
○だから、生長の家は永遠なのであります。


「すべての人類が争うことなく
唯一つの神の生命
(いのち)の岐(わか)れなることを自覚し
互いに手をつないで
み心が既に“実相の世界”に成るが如く
現象の世界にも、至福平和の世界が実現いたしますように
あなたの無限の愛をわれらにそそぎ給え。」

(2015.4.23)
3 地方講師解任は「勲章」?

 ある掲示板で管理人トキさんが、次のようなコメントを掲載しています。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1421300062/67

≪本部が岡先生を解任した事は、かえって岡先生には「勲章」になります。正々堂々と本部の方針に異議申し立てをして本部は返事ができず、一方的に解任をしたのですから。

 その意味では、今後、岡先生は自由に動けるので、ある意味、活躍をされると思います。また、本部は岡先生の公開質問状に返答をするべきであります。

 その上で感想を申し上げます。

 地方講師が本部の方針に反したという事ですが、現在の本部の方針は、議論の末に決まった事ではありません。ある日突然、重大な事が密室の会合で決まり、それに異議を言う機会を信徒はもちろん、職員にも幹部にも与えられていません。その内容も、谷口雅春先生の教えにも、社会常識にも反するものが散見されます。

 こういう状態で、異論を述べた講師を罷免するのは、その正当性に強い疑問があります。 ≫

 と。

 私は、「みすまる宣言」で述べていますように、

○生長の家とは、建物の名ではない。「和」の名であり、「愛」の名である。
○分裂がない、対立がないのが生長の家であります。
○だから、生長の家は永遠なのであります。


――これが本当の生長の家であると信じています。

その生長の家の実相が顕現したら、分裂はなくなる。

「みすまる宣言」 の下の方に引用した、南北アイルランドの和解の話(ブレア元英国首相の「履歴書」より)のように、教団幹部と社会事業団や「学ぶ会」の幹部が手を取り合って、冗談を言い合いながら協力し合って、『生命の實相』その他聖典の出版活動、人類光明化運動に邁進する――そのような時が現実に来ることを信じます。なぜなら、「みこころの天に成る」神の国は、すでに実相において出来上がっているのですから。それを顕現させるために、今できることを力いっぱいやって行く。

地方講師を解任されたことは、分裂解消、和解の仲立ちの働きをするような時がもし来たら、「勲章」となり得るものかも知れないと思いました。すべては神のお導きによるものだと信じます。ありがとうございます。

(2015.4.22)
2 外にはない。内にある。

○わが内にすべてがある。わが内に時間があり、空間がある。

○人間は、時間・空間の中に生まれてきたのではない。時間・空間を生み出した者である。


――と、ここまで書いてから昼食をとり、12日に放映されたNHKの大河ドラマ 「花燃ゆ」 を録画で見ていたときに、電話が鳴り、教化部からでした。

国際本部の理事長(講師部長兼務)から、岡は 「地方講師解任」 と決定した旨の通知があったという連絡でした。公開質問に対しては何のお答えもないままです。

「地方講師とは、自ら教えに救われたものが、講師試験に合格したうえ、参議長よりこれを任命され、この団体の教化方針を遵法してその教化組織の一員として布教するものをいう。」

と 「生長の家教規」 にあり、私は 「この団体の教化方針を遵法して……」 という条項に反する行動をとっているから、ということのようです。

○ われら“誠”を生きる

「花燃ゆ」 のドラマで、吉田松陰が
至誠而不動者未之有也
(至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり)
という言葉を松下村塾で最初に獅子吼した。

この 「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」 の 「誠」 とは何でしょうか。

聖経 『続 真理の吟唱』 161頁 「われら“誠”を生きるための祈り」 に、次のように教えられています。

 ≪“誠” とは 「成る言
(ことば)」 と書くのである。自己に宿る神の至上命令たる “言(ことば)” を生きることを “誠を尽くす” というのである。「言(ことば)は肉体となりて我らの中(うち)に宿り給えり」 われら即ちすべての人間に言(ことば)は宿っていて、それが仮に肉体の姿をあらわしているのである。この実相を知っても知らないでも本来人間は “神の子” であるけれども、それを知らない間は “神の子” たる権を行使することはできない、一種の放浪者であり、迷い児であるのである。彼は虚仮(こけ)不実の仮存在であって 「誠あることなし」 である。(中略)

 人が誠実に生きるとは “単に真剣に生きる” ということではなく、人間の本質であるところの実相すなわち “神の子” の自覚に基づいて生きることなのである。われらこの真理を悟り得たるは神の導きにほかならず、神に感謝し奉る。ありがとうございます。≫

 ――前記 『続 真理の吟唱』 のお言葉 「自己に宿る神の至上命令たる “言
(ことば)” を生きる」 とは、自分に神から与えられた使命と感ずるところに従って生きるということだと思います。私はそのように生きたいと思います。

(2015.4.21)
 
(1) プロフィール


岡 正章(おか・まさあき)

1933年6月 東京生まれ、86歳。 (先祖・両親の出は愛媛県)
妻1人、子供が4人、孫も4人あり。

趣味――音楽、特にコーラス・アコーディオン。
八十の手習いでピアノの練習も始めた。
パソコンによる映像編集も特技の一つ。

好きな言葉――バンザイ!

山口在住の1950年頃 父親が生長の家入信。その影響か、1951年春 霊的体験を得て人生観が一変。1952年 山口高校卒、同年 東京大学入学。1953年 生長の家青年会入会、谷口雅春師ご自宅での青年会「お山のつどい」でご指導を受ける。1959年 青年会中央執行委員学生部長。1960年 東京大学教育学部卒。1964年 日本教文社勤務、聖典・書籍の編集に従事。1975年、生長の家本部青年局に転じ『理想世界』編集長。1976年、同誌100万部突破。1984年~2006年、茨城・福島・山形の各教区教化部長歴任。2006年 東京第一教区地方講師。2015年4月21日、地方講師解任の通知を受ける。現在、聖使命会費取扱者、聖使命会員。