何処へ行く?「生長の家」



     目  次

  は じ め に

 
第一部 谷口雅宣 生長の家総裁への公開質問

 【質問1】 「私は時代錯誤的でしょうか」という質問です。

 【質問2】 「中心帰一」について、質問させていただきます。

 【質問3】 原発は、絶対悪でしょうか?

 【質問4】 「ムスビ(結び)」と「大調和」についての質問です。



 


          は じ め に
                                          岡  正 章

  



















 「生長の家は何処(どこ)にあるか」と問われたら、私は「生長の家は今、ここにあります。私が生長の家です。生長の家は、わたしの生命(いのち)です」と答えたいと思います。

 今が天地(あめつち)の初発(はじめ)の時であり、此処(ここ)が生長の家(たかあまはら)(高天原)である。わが生命(いのち)は天之御中(あめのみなか)の御生命(おんいのち)が鳴りひびいているのである。谷口雅春先生が、「本当の生長の家本部は神界にある」とおっしゃった、神界とは遠くにあるのではなく、「神の国は今此処わが内にあり」ということであると信じます。


 生長の家とは、時間・空間未だ発せざる中(みなか)、一切万象発生の枢機を握る「久遠(くおん)の今」なる本源世界、大宇宙(たかあまはら)である。そして――

≪全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇(はっこういう)の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇の御天職である。此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。全世界は天皇に於て一宇である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。≫(谷口雅春先生『光明道中記』31頁より)

 これが、生長の家の教義の中心部分であり、生長の家出現の目的、使命である。これをなくせば塩に塩気がなくなったと同様、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」(マタイ伝第5章13節)になってしまうのではないか、と私は思います。

 本書に『何処へ行く?「生長の家」』と題を付けたのは、「生長の家は東京原宿から“森の中”へ行く」というような、外形の問題ではありません。魂の問題です。今の生長の家は、

 「われ今実相の世界を去って五官の世界に入る」

 となっているのではないか、ということです。

 谷口雅宣・生長の家総裁が昨年11月に公刊された『宗教はなぜ都会を離れるか?』の「はしがき」に、「宗教の教祖も、その人が生きた環境と時代から完全に自由になることはない」とあり、同年11月22日 総本山に於ける式典での総裁ご挨拶原稿〈「唐松模様」所載〉には

 「『宗教運動は時代の制約下にある』ということを、皆さんはぜひ理解していただきたいのです。……私たちは今日、地球温暖化問題を深刻に捉え、その抑制に向かって真剣に取り組んでいます。生長の家が国際本部を東京から八ヶ岳の南麓に移転したのも、それが最大の理由である……つまり、宗教は時代と環境の要請から生まれるから、その時代と環境が変化すれば、宗教自体も変化を要求されるのである。だから、戦前・戦後に説かれた教えは戦後に修正されることもあるし、冷戦時代の宗教運動の目標や方法が、冷戦後には採用されないこともあるのである。この時代応現の変化の意味が分からないと、宗教は社会に有害な影響をもたらすことになる」

 と書かれていますが、本当の宗教は「時代と環境の要請から生まれ、時代と共に変化する」ものではなく、時代を超越した永遠の真理を説くべきものであると私は信じます。

 (cf. 『新版 叡智の断片』 p.199 「現象を取り扱った言論や人間の頭脳的思索は、やがて時代に適合しなくなるものが出来るのは当然である。しかし神の啓示によるところの真理は超時代的なものである。」)

 生長の家は今、「正念場」を迎えているという気がします。教化部長がいくら頑張ってみても、講習会受講者数も聖使命会員数も減り続け、教勢の下降に歯止めがかかりません。このまま行けば、教団は、つぶれはしなくとも、存続の意味がほとんどないほどになって行くのではないかと思われます。それは、真理がくらまされているからではないのか。「正念場」とは、「正念」すなわち「神は完全であって、神の造り給うた世界には、不調和や不完全はナイ」と実相を観ずる「正念」をもって、適切な処置行動をしなければならないギリギリの時だということでしょう。

 それで、今年(2015年)新年の総裁のご挨拶文や、新刊書『宗教はなぜ都会を離れるか』を拝読して疑問に思うことなどを率直に申し上げ、「私の考えはまちがっていますでしょうか?」というのが、本書「第一部・総裁への公開質問」でございます。総裁が現象面のことを根拠に説かれるのに対しては、現象面の歴史的事実などから出発して申し上げております。憚りながら、「青春記録」の終わりの方に採録させていただきました「張玄素のようでありたい」
(→こちら)というような思いをもって、書かせて頂きました。私も80歳を超え、今年6月で82歳となる今、今生での残る時間は限られています。そこで、「これを言わなければ死ねない。」このままでは、生長の家は消えてしまい、日本の危機、世界の危機は救われない。今起たずして何時(いつ)起つべきか――という思いなのです。

 「第二部」資料編「疾風怒濤のわが青春記録より」は、わが魂の足跡ともいうべきもの。私は昭和26年(1951)、高校生時代に『生命の實相』の御光(みひかり)によって新生し、激動の時代に「自分はこの御教えに人生を賭ける」と決めました。それから60年以上たった今、これまで私が青年時代から書いて生長の家の月刊誌、機関紙誌その他の雑誌、単行本等に掲載された論文・対話録などから、選んで編集したものを、資料として採録させていただきました。これらは前の「第一部」公開質問編の基盤となっております。

 この冊子は、私の「内なる神へのレポート」と言ってもよいものだと感じております。

 はなはだ恐縮ながら、ご一読くださいまして、総裁先生には質問へのご回答を、それ以外の諸先生皆様にも、ご意見・ご感想ないしご指導を賜れれば、まことに有り難き幸せに存じます。

 平成18年(1996)生長の家本部を退職し地方講師とならせていただいてから今まで約9年間に、私は幾たびか総裁に直接お手紙を差し上げました。しかし、何のお返事もいただけませんでしたので、今回は、失礼ながら公開質問の形をとらせていただきます。

 なにとぞよろしくお願い申し上げます。

      平成27年3月吉日

                               岡  正 章 























      第一部 生長の家総裁への公開質問



    【質問1】 「私は時代錯誤的でしょうか」という質問です。

            総裁は、『宗教はなぜ都会を離れるか?』 の 「はしがき」 冒頭で、
            昨年徳島教区の講習会で受講者から受けた質問というのを紹介されています。


                 「敗戦後、なにか日本は負い目を感じ今日まできたように感じます。
                  しかし、戦争にいたる事実を知り、日本人として誇りをとりもどしました。
                  もっと雅春先生の憲法に関する著書を世に出すべきではないのでしょうか。
                  私たち日本人は、もっと世界に自信をもっていいのでは。
                  そういう教育は間違っているのでしょうか。」


           
――この質問者は、果たして「時代錯誤的」でしょうか?
            私はその質問者とほぼ同じ思いを持ち、それが時代錯誤的だとは思えないのですが。



  















 2014年11月22日、「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」での総裁のご挨拶(ブログ「唐松模様」より)では、

『この質問の主は、62歳の主婦の方からで、私と同い歳である。そんな人が、いまだにこんな内容の疑問をもっているということに私は驚きました。この質問者は、昭和の時代の前半に日本が行った戦争を「正しい」と思っていることが明らかだからです。しかし、生長の家の教義では、どんな戦争も「正しい」とか「聖なる戦い」として肯定することはありません。すべての戦争は、「迷いと迷いとが撃ち合って崩壊する過程」だと教わっています。しかし、そのことが戦後一貫してすべての信徒に伝わっていたかというと、必ずしもそう言えない。そこには、この時期の世界史における特殊な事情があったからです。その事情とは「冷戦」というものです。冷戦下では、それに応じた運動の仕方があり、それに応じた教えの説き方があったということです。……』

 とおっしゃっています。私は、昭和の時代の前半に日本が行った戦争を必ずしも「正しい」と思ってはいませんが、この質問をした62歳の主婦の方には共感を覚えます。「敗戦後、日本は負い目を感じて今日まで来た」のは、事実でしょう。過去の戦争を「正しい」とか「聖戦だった」とは思わなくても(「迷いと迷いとが撃ち合って自壊する過程」であると自覚しても)、「戦争にいたる事実を知り」、敗戦・戦後処理――連合軍の占領政策などの事実を正しく学んで理性的に判断すれば、おのずと「日本人として誇りを取り戻せる」と私は感じています。私が歴史的事実を学んで知ったところによると――

          


 東京裁判は、マッカーサーが連合国から全権を受け、国際法にも何にもよらずに行った軍事裁判であり、マッカーサーが敵として戦った日本に極悪の烙印を押し、リンチにかけた、裁判というに値しない茶番だったということが明らかになってきた。その東京裁判は、日本が侵略の大罪を犯したとして、有罪の判決を下した。
 しかし、その張本人であるマッカーサーが、一九五一年(昭和26年)五月、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、その東京裁判の判決を否定する証言をしている。即ち――

「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.(したがって、彼ら=日本人=が戦争を始めた目的は、主として安全保障の必要に迫られたためであった)」と。 ここに、「therefore」(したがって)とあるのは、この証言の前にマッカーサーが述べたことを受けている。彼は、日本人は働くことの尊さを知っている国民であること、だが日本には蚕以外に資源がなく他から求めるほかはないこと、しかしその資源が絶たれ、一千万人を超える人々が働く場を失うおそれがあったこと、しかし資源は東南アジアにあったこと、などを述べた。これを受けたのが「therefore」なのである。

 東京裁判で日本を侵略国と断定した国際法的な根拠は、パリ不戦条約、別名ケロッグ・ブリアン条約である。アメリカの国務長官ケロッグとフランスの外務大臣ブリアンの共同提案による不戦条約が1928年パリで日本を含む主要国15ヵ国の署名により発足し、その後63ヵ国が署名したものである。

 この条約を批准することの是非を巡る議論がアメリカ議会で行われたのであるが、それは日本の真珠湾攻撃の13年前の12月7日(アメリカ時間では真珠湾攻撃は7日)のことであった。条約の説明者は、その共同提案者の一人であったケロッグ国務長官である。東京裁判において、ローガン弁護人はこの議事録を引用しつつ、「日本は挑発挑戦され自衛に起った」という最終弁論を展開している。

 これをとりまとめたケロッグ自身が、アメリカ議会で「なぜ戦争をしてはいけないのか」と質問されて、次のように答えている。

「不戦条約は、戦争をしてはいけない条約ではない。侵略戦争はしてはいけないが、自衛のための戦争は禁止していない」と。それならば、何が侵略戦争で何が自衛に当たるのか」と聞かれて、「例えば国境を越えて攻め込むとか、経済的に非常に不利益なことを与えるといったことは、侵略とみなしてもよいが、自衛かどうかは各国に決める権利がある。自衛の概念は広範で、経済的脅威に対するものまで含められる」と、不戦条約をまとめた本人がアメリカ議会に対してそう答えている。
 さらに“ケロッグ長官は「国家が攻撃されるのではなくって経済封鎖を受けるとしたら?」という質問をうけた。ケロッグは「戦争しないで封鎖などということはありません」と答えた。その時一上院議員が「そういうことは戦争行為です」と言うと、ケロッグは「断然戦争行為です」と言ってこれに同意した”と議事録にある。ケロッグ長官の言った英語の原文は、“It's an act of war, absolutely!”なので、「それは絶対的に戦争行為である」と訳した方が元の意味に近いであろう。これが、不戦条約提案者でアメリカでこの批准を推進した中心者が持っていた解釈であった。それに対してだれも異論を唱えず、当時の国際常識であったという事である。経済封鎖は、国際法によると「戦争行為」の一つなのである。

 とすると、この「絶対的な戦争行為」を日本に対して仕掛けてきたのはどこか。

 長期化した日中戦争への支援を財政経済援助から軍事援助へと拡大していったのは、米英、とりわけアメリカであった。日本が再三にわたって蒋介石政権に対して和平を呼び掛け、それが現実化しそうになると、妨害して潰(つぶ)してしまったのはアメリカの支援と介入であった。アメリカの軍事支援は武器に止まらず、空軍兵士の派遣にまで拡大していくのである。

 対中支援はABCD包囲網に発展し、「遂に経済断交を敢えてし、わが国の生存に重大なる脅威を加え」「東亜安定に関する我が国の積年の努力は悉く水泡に帰し、我が国の存在まさに危殆に瀕す」(宣戦の詔書)状態となった。アメリカ、イギリス、オランダなどによる経済封鎖は、重要資源をことごとく禁輸するというまさに、国家存続にかかわる所まで徹底して来たのである。貿易により生きるよりほかのない日本という国家を経済封鎖という手段によって絞め殺す挙に出てきたのである。ABCD包囲網を敷き、これに加えて最重要資源である石油の供給までストップした。これらの国こそが戦争を仕掛けた国なのである。アメリカこそ最初に戦争行為を仕掛けた国=侵略者ということになる。戦争行為を仕掛けられた国は、固有の自衛権を発動できる。国際法に基づいて、日本は正当な自衛権を発動したのであり、侵略国はアメリカと言えるのである。

 一九四八年に刊行された元アメリカ歴史学会会長のチャールズ・ビアードの『ルーズベルトの責任――日米戦はなぜ始まったのか』は、最も本格的な研究書で、議会資料に基づき、ルーズベルトが日本に最初の攻撃を仕掛けるように仕向けたことをほぼ立証している。
 また、第31代大統領フーバーが二十数年の歳月をかけて書きあげた著書「Freedom Betrayed」(裏切られた自由)で、フーバーは次のように言っている。
〈日本との戦争の全ては、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であった〉と。
 戦後1946年に来日し、マッカーサー最高司令官とサシで3回、計5時間会って話をした折に、私はこのように思うとマッカーサーにいったところ、マッカーサーは「私もそう思う」と答えた、という。
 マッカーサーは朝鮮戦争を経験して、共産勢力の浸透やアジアの歴史的状況とその中における日本の位置を客観的に認識することができた。それに従ってそれまでの認識を180度転換し、日本が戦争をしたのはセキュリティのためであったと思い知った。

 だから、サンフランシスコ講和条約には日本の侵略を非難するような文言は一言半句も見られない。ただ、東京裁判はすでに判決が下っている。判決をいまさら否定するわけにはいかないので、日本は東京裁判の諸判決(judgements)を受諾し、刑の執行を継続する、という講和条約第11条が置かれた。しかし、この条項には、「ただし各国と話し合って合意を得れば刑の執行を中止することができる」という条項が付け加えられているので、日本は条項にあるような措置をとり、執行中の刑をすべて中止している。つまり、東京裁判は事実上なかったことになった、と理解すべきである。

 ところが、1985(昭和60)年11月7日の衆議院外務委員会で、社会党の土井たか子氏が「日本の侵略戦争をどう思うか」という趣旨の質問を行ったのに対し、当時外務省条約局長だった小(お)和(わ)田(だ)恒(ひさし)氏が政府委員として、「日本は東京裁判で有罪とされたから、そのように理解されたい」と答えた。

 講和条約には日本は東京裁判のjudgements(諸判決)を受諾する旨の第11条があり、これを外務省は裁判を受諾すると誤訳した。諸判決を受諾したが、裁判を受諾したわけではない。それだのに、講和条約よりも東京裁判を上位に置いて押し通している。そうして歴代内閣は謝罪外交を行うことになる。

 例えば、韓国がさわいだ「従軍慰安婦」の問題。これは1983年に吉田清治氏という自称元軍属が虚偽虚構の自虐話を朝日新聞紙上で語り本を出版した。朝日は事実確認もせずに吉田氏を16回も紙面に登場させて大々的に紹介し権威付けした。その事実無根のデタラメ話が韓国に跳ね返って、1992年に宮澤喜一首相が訪韓して8回も謝罪。翌1993年に河野洋平官房長官の名前で「河野談話」が出された。今では「従軍慰安婦」などというものはなかった、虚構であったことが明白になり、朝日新聞も記事を取り消し遂に国民に謝罪したが、虚構をもととした朝日新聞の捏造記事などによって日本は濡れ衣を着せられ国際的に名誉を失った。今でも例えばオバマ米大統領は「従軍慰安婦という性奴隷20万人」などというデタラメな虚偽を真実だと思っているのではないか。

 以上は一例であって、中国がいう「南京大虐殺30万人」などというのも、当時人口20万人ほどだった南京で30万人虐殺というのはあり得ないこと。正しく事実を検証し、日本の歴史を、正しい軌道に戻す必要があると思います。

 (以上は、渡部昇一氏の著書や、「世界に史実を発信する会」事務局長 茂木弘道氏から送って頂いた『戦争を起こしたのはアメリカである』という検証論文などを参考にさせて頂きました。)

 前記質問者が言われるように、劣等感のない、自信と誇りと正しい謙虚さ、使命感を持った人間を育てることこそ、教育の要諦ではないかと私は思います。そして、「八紘(はつこう)を掩(おお)いて宇(いえ)とせん」という神武建国の日本の理想を正しく教えることこそが、真の世界平和への道となるのではないでしょうか。

 約40年前の『理想世界』誌でも、下村満子さん(当時週刊朝日記者)が「大きく世界に目を向けて!!」として、「まず自分の国を愛してこそ他の国へも手を伸ばせるんであって、自分が駄目であったら駄目な人間が他を救えるわけがないわけでしょう。日本の役割って私、とってもこれからあると思う」と言っています。(→こちら)そのとおり、日本の出番が来つつあるように思われます。今、日本は世界の人々に貢献している国とし最も人気がある国の一つになっており、日本の文化が世界中に影響を与えつつあるようです。自然に「日本の時代」がやって来るでしょう。

 ただ、お隣の韓国や中国ではまだ、特に「反日」「嫌日」感情が強いようです。それは――振り返ってみれば、私が小学生だった戦時中、「朝鮮人」「支那人」という言葉には、相手を見下げた、侮蔑の思いを含んでいたように思います。シナ人を“チャンコロ”などと言って、犬ころのように侮蔑していた――そんな雰囲気があった。そうした過去の私たちの心の反映であるかも知れません。それは、私たちが間違っていた、本来の大和魂から外れていた――と、心から反省懺悔する必要がある。

「本来すべて、みんな神の子の兄弟姉妹であったことを忘れ、神の子を侮蔑するような間違った心を起こしていました。申し訳ありませんでした。」と、まず神様に懺悔しなければならない。

 ところで、私は平成4年10月号の機関誌『生長の家相愛会』に掲載された「二川守氏に反論す」の論文(→こちら)で、

「今こそ真の日本救済――小日本ではなく『大日本(ひかりあまねきせかいのくに)』の実相顕現のために起ち上がるべき時である。そのためには、『大懺悔』が必要である。」

 と書きました。

 そこに、「世界に大きな影響力を持つようになった経済大国日本が、さらに世界に受け入れられ尊敬される国として生まれ変わるには『大懺悔』が必要であるからである」と、「大懺悔」にカギ括弧を付けてあるのは、「小懺悔でなく、大懺悔だ<」と強調したかったからであります。

 「大懺悔」は、「神はすべてなるが故に、神は罪を作らざるが故に、神のほかに造り主なきが故に、此の世界に犯されたる罪もなく、報いらるべき罪もなし。」業はないのだ、罪はないのだ、神のいのちに生かされているのだ、ありがとうございます、ありがとうございます――とただ感謝の心になること。前記論文に引用させていただきました谷口雅春先生のご文章に

 「ここに透明なコップがあって澄明(ちょうめい)な純粋の水が入っているとする。この水の中に一つまみの泥を入れると、水は不透明になる。この時、人は“水が濁った”というのである。併し本当は水は濁っていない。水は依然としてH2Oの化学式をもった澄明な純粋の水である。濁っているのは水そのものではなくて、泥が濁っているのである。水は泥の濁りと何の関係もない。それだから漉器(こしき)で泥を漉(こ)し去れば、あとには依然として純粋な水があるのである。それと同じく “人間・神の子”の完全な実相は、どんな汚れた罪人のように見える人に於いても、変ることなく、円満な実相そのままである」

 とある、この純水のような実相の日本国を観じ、泥は水ではない、業(ごう)は「人間」ではないように、真の「日本」は侵略していない、起こるべくして起こった戦争は、人類の業のなせるところであり、実相顕現の過程である――と断じていられる。この境地が「大懺悔」だと思います。

 「懺悔の神示」にも、「暗(やみ)の前に、いたずらに悪評する民衆の前に、罪を暴露しても何の効なし。暗(やみ)に暗を照さしむるとも何の甲斐かあらん。人は一たび真に懺悔するとき、その刹那よりその全存在は洗い浄められたると等しく、本来の神の子たる円相をあらわす。真に懺悔せる後は汝ら心安かれ。汝らは吾が真子(まこ)なればなり。吾れ汝らと一体なり。聖霊(いのちのいき)汝らに交通し、汝らの霊(みたま)殖えて汝ら無限生命を得ん。」とありますように、神の子として新まれかわって生きることだと思います。

 いつまでも必要以上に自己卑下するような人・国は、社会・世界のためにも役立てないと思います。

 もう、「日本だけが悪い国」という迷妄から脱却してもよいのではないでしょうか。本稿冒頭の質問者が言われる「私たち日本人は、もっと世界に自信をもっていいのでは。そういう教育は間違って」はいないと思いますが、いかがでしょうか。

          


 以上は主として現象面の歴史的事実から学んだことでありますが、もっと根源的な実相の真理として、谷口雅春先生は『女の浄土』第十九章に次のようにご教示くだっさっています。(318頁~)

          ○

   日本の本当の建国は何時か


 日本国の建国はいつの時代かという問題は建国記念日制定以前から色々の論があり、建国記念日制定後にも尾を曳(ひ)いている問題でありますが、コトバが神であり、神はコトバと偕(とも)にあり、一切のものはコトバによって生じたという哲学から申しますと、日本の建国は、宇宙の大神にまします天照大御神が「豊葦原の瑞穂(みずほ)の国は世々わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき国なり」とコトバによって宣言された時に日本国は、「神のコトバの世界」即ち「理念の世界」に於て成立したのであります。

   理念とは如何なるものか

 もつとも「理念」というものは、コトバ即ち「神の生命の智的表現としての振動」即ち神の心の中に想い浮べられた“形相”でありますから、それは物質的形相ではありません。従って縦横厚みの三次元的な空間的大小のひろがりをもっていません。すなわち物質的な形や大きさを抽(ぬ)きにした超空間的な純粋な形相であります。だから、その理念が現象面に投映して来る場合には、大にも小にも顕われて来るのであります。

 天照大御神が天孫降臨の神勅に於て仰せられた「豊葦原の瑞穂国」というのも色いろの解釈がありますが、これは大には現象宇宙ぜんたいを表わしており、国家的には日本国を表現しており、極微の世界に於ては物質原子の構成をあらわしていると見ることができます。というのは、瑞穂国というのはこれを哲学的に解釈いたしますと水火国(みずほのくに)ということになります。“水”は陰の象徴であり、“火”は陽の象徴であります。陰陽の組合せによる結合によって出現したものはすべて、大小に拘らず水火国(みずほのくに)であります。大は太陽系統から、小は物質原子に至るまで、すべて水火国であります。国家も家庭もすべて陰陽結合によって成り立つ水火国であります。

   
瑞穂(みずほ)の国の根本構図について

 その水火国(みずほのくに)が如何なる形相をもつべきか、換言すれば如何なる構造であるべきかの、根本構図として示されたのが、「世々わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」というコトバであります。これは「この根本構図は、一切の存在は世々変らざる即ち永久不変の中心をもつべきものである」という意味であります。これが宇宙の大神たる天照大御神の御宣言なのであります。それは宇宙の大神の御宣言でありますから、宇宙の万物すべてのものにあらわれている存在の根本構図の原理であります。

 だから吾々が知っている最も小さな存在たる“原子”も、原子核という永久変らざる中心をもっているのであります。原子が原子としての存在を保っているのは、原子核という「永久変らざる中心」があるからである。原子核を中性子で攻撃して、核を破壊してしまえば、もうその原子は爆発して飛んでしまって存在しなくなります。太陽系統も、太陽というその系統の「永久変らざる中心」があるのでその存在を保っているのであって、何らかの原因で太陽が爆発して飛んでしまったり、消えてしまったら、太陽系をめぐる天体は、中心を失って存在しなくなる。無論、地球は単なる“死天体”として冷却して、一切の生物は存在し得なくなります。家庭も、家長たる父又は良人がその家庭から姿を消すと、従来の安泰平和な状態を失って、家族が四分五裂してしまう。国家も日本天皇の如き万世一系の変わらざる中心が無くなってしまえば四分五裂して、ソ連や中共の革命当時のような混乱状態が起るのは必然であります。そしてその混乱は一時的なものではなく、絶えず強者が弱者を倒して易姓革命が起り、王朝が変り、インドネシアのような状態や、中共の紅衛兵旋風に類するものが起って存在の安定が失われてしまうのであります。このようにすべての存在は、永久変らざる中心を持つことによって、その存在を維持しているのであります。

 ところが現行の憲法では、国家の中心である天皇を象徴と称して半ば破壊し、“家”の制度を根本的に破壊した。家長とか戸主とかいうものはなくて唯夫婦単位に、陰陽がただ集まっているのが家庭であって、中心というものはない。恰度それは分子を滅茶苦茶に集合さしただけであるから、親の言うことをきく必要もなければ、親孝行する義務もない。夫に操(みさお)をつくすという要請もない。ほかに好きな男が出来たら離婚するのは自由だというようにできている。中心のない家族雑居は、もう既に「家」ではないのであって、それはただの下宿人の集りである。太陽を失った遊星のようにみんな冷えつつある。

   速かに明治憲法復元の必要に迫られている

 (中略)今のうちに現行の憲法が本当の憲法ではなく、占領中に日本を弱体化する政策上押しつけられた“占領行政基本法”であることを明かにして、占領終了と同時に失効せるものであり、その失効と同時に、明治憲法はそのまま生きているということを宣言すべきなのであります。

 つまり、国家にも永久かわらざる中心が万世一系の天皇の形によって持続することによって、一切の存在が「永久変らざる中心を持つ」という天意の実現せる唯一の国家が日本国家であって、若(も)し、この日本国家に天皇がなくなれば、すべての存在には永久変らざる中心があるという神の宇宙創造の基本形態が国家だけには当てはまらず破壊されることになります。今こそ吾々は神意を実現せる真理国家こそ日本国家であるという日本国家独特の神聖性を明かにするために明治憲法復元に踏み切るべき時であります。

 こう申しますと、私の言うことは非常にナショナリズム的に他から観られるかも知れませんが、海外の書籍などにも生長の家はナショナリズムにつながるというような紹介記事を書いたものがありますが、世界的に組織をもち生き生きと活動しているアメリカの新しいキリスト教リリジヤス・サイエンスの理事長であるウィリアム・ホルナディ博士が数年前見えたときに、その事について質問せられたことがあります。その時に私はこう答えたのであります。

「イエスの教えた模範的祈りの“主の祈り”に於て“天にまします吾らの父よ、御名(みな)をあがめしめ給え、御国(みくに)を来らしめ給え。御心(みこころ)の天に成るが如く地にも成らしめ給え”と祈るように教えられているのであるが、天には唯一つの永久変らざる神がいらっしゃって、すべてのものがその唯一つの神の御心に帰一しているのでありましょう。そうすれば、天にそのように御心の成るが如く地にも成るとすればその御心が地上に成り、その御心が国家にあらわれるならば、永久変らざる中心が国家にも成就しなければならない。そのような永久変らざる中心である万世一系の天皇をもつ国は日本だけであって、国家としては最も神意にかなう形態をととのえているのが日本国家である」と申上げたのであります。すると、ホルナディ博士は大いに頷(うなず)いて賛成の意を表されたのであります。だから『古事記』『日本書紀』等の示すところの天皇中心国家というものはキリスト教の示す世界観又は国家理想とも完全に一致するものであります。これをナショナリズムだ軍国主義だとキリスト教側から反対されるのは理窟に合わないのであります。

          ○

 と書かれています。そして『光明道中記』31頁には

          ○

     一月二十三日 寒菊競い開く日


 十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするが日本の使命である。(『秘められたる神示―神示講義〈秘の巻〉』「久遠天上理想国実現の神示」)

 全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交叉(こうさ)する万象(ばんしょう)発現の枢機(すうき)を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇の御天職である。此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。全世界は天皇に於て一宇である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用に過ぎない。天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、真理の中には病気不幸は存在しないが故に、病気不幸が消えるのは当然のことである。病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。省みて真理に載るものは幸である。

          ○

 と示されているのであります。

 これは『生命の實相』の真理――唯神実相の実践哲学――と表裏一体をなすところの永遠に変わらざる生長の家教義の中心部分、すなわち“宗教目玉焼き論”から言えば“卵の黄身”にあたるところであって、時代の移り変わりによって変化する“周縁部分”ではないと思います。

 マタイ伝第5章13節に、

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々に前に輝かしなさい。あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 とあります。前記

 「十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするが日本の使命である。」

 「全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。……全世界は天皇に於て一宇である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。」

 というところは生長の家の教義の中心部分であり、生長の家出現の目的、使命である。これをなくせば塩に塩気がなくなったと同様、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」になってしまうのではないか、と私は思います。

 私は、間違っていますでしょうか。


 


    【質問2】 「中心帰一」について、質問させていただきます。

                 「中心帰一」とは、現象界の組織の中心者に、

                    無条件に盲目的に従うことなのでしょうか。


  













          


 私は、【質問一】でも触れました平成4年の論文「二川守氏に反論す」(→こちら)の最後に、

 「神意によって法燈を継承せられた総裁・副総裁に中心帰一し、謙虚に、そして真の誇りと自信を持って、迷うことなく、明るく、人類光明化運動にひたすら勇往邁進したいと思う。」

 と書いております。が、この「総裁・副総裁に中心帰一」という言葉は、間違っていたのではないかと、疑問を感じるようになりました。

 『菩薩は何を為すべきか』に収録されている「人類光明化運動指針 生長の家各員の運動心得十三ヵ条」の第九条には、

「生長の家大神――総裁・副総裁――御教。この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である事を、生長の家人たるものは一瞬たりとも忘れてはならない。」

 とあります。それで、神意は総裁・副総裁を通してのみ天降るのであって、生長の家信徒たるわれわれは、それに盲目的に従わなくてはならない、と思い込んでいたところがあった。しかし、それは少し間違っていたのではないか――と思うのであります。
 私たちは、「神意」 に中心帰一しなくてはならない。前記「光明化運動指針」第九条のつづきに、

「如何にその人が有力者であろうと長年光明化運動に献身して来ようと、素晴らしき体験をもつ指導者であろうと、断じてその人を中心にしてはならない。若(も)しも人を中心とすれば、その人が理解し把握している以上の運動の展開は不可能となり、歪(ゆが)んでいれば運動も歪むほかなく、その人とそりの合わぬ者、反対意見の者は身を引くか、対立して禍根を残すであろうし、若し或る人が情熱的な信仰を持つ場合、その人が真に中心を明らかに自覚している場合はよいが、唯熱心であるだけならば、何時(いつ)かその人に頼り過ぎ、その人が転任或は他界した場合は、忽ち火の消えた様に衰微してしまった如き事例は往々にしてある。すべて皆中心を誤っていることに気がつかなかった為である。光明化運動に於いては人は中心ではない。神意が中心である。」

 と補足説明もあり、「神意の展開が中心」であることを忘れてはならないということであります。

 総裁は『信仰による平和の道』第1章で、「2 生長の家は原理主義ではない」として次のようにご教示下さっています。(同書36頁末~)

 ≪原理主義の特徴は三つあります。
 一つは「聖典の一字一句が真理であって、それを文字通りに解釈すべきである」というのが基本的な立場です。例えば、キリスト教の原理主義では、「聖書に書いてある一言一句がそのまま真実である」とする立場であります。仏教の場合は、「小乗仏教が本物である」と考えるのです。なぜなら、大乗仏教は釈尊が亡くなられてずいぶん時間がたって出てきた教典から生まれたものだから、釈尊の教えではないというわけです。イスラム教の原理主義にも、同じようなところがありまして、ムハンマド――日本ではモハメッドと言っていますが――の言葉が書かれている『コーラン』の一字一句が真実であるから、今日でも、我々はそれを実行しないといけない、という考え方です。こうした考え方が原理主義の特徴の一つです。
 二番目の特徴は、一番目と論理的につながっているのですが、「他の教えはみな間違いである」と考えることです。いろいろな宗派の中で、自分たちだけが正しくて、他は間違いであると考える。もっと極端な場合には、「間違い」どころか「敵」であるという考えになります。≫

 右のご教示に従えば、総裁のおっしゃることや、書かれたご文章も、
 《「一字一句が真理であって、それを文字通りに解釈すべきである」「他の教えはみな間違いである」と考え、「自分たちだけが正しくて、他は間違いである」、極端な場合には、「間違い」どころか「敵」であるというように考えるのは原理主義であって、それではいけない》
 ということになると思います。《総裁がこうおっしゃるのだから信徒一人一人は思考を停止して無条件に総裁の仰るとおりに行動せよ》というのではいけないと。

 人間はみな神の子であって、「神の国は汝らの内にのみあり」ですから、一人一人がしっかりと内なる神の声を聴いて、自己の理性的判断に基づいて「自己責任」で行動すべきである。それが、「生長の家は原理主義ではない」とおっしゃる総裁のお考えにも適うことだと思います。間違っていますでしょうか?

 新選谷口雅春法話集1『親鸞の本心』の「はしがき」には次のように書かれています。

 ≪宗教と云うものは宗祖の教えを受取る人々(にんにん)の心的力量によって、深くもとれれば浅くもとれるものであって、たとえば西本願寺の勧学寮がその教権によって、親鸞の教えはかく解すべきものである、それ以外は異安心(いあんじん)であると封建的に断定を下すべき筋合のものではないのである。本当に人間が救われるか、救われないかと云うような問題は「誰が何といったから、それがたといだまされていても救われる」というように他の人の解釈にまかせて置くべき問題ではないのである。「魂の救われ」の問題は人々(にんにん)各自が真剣に取組んで考えて見なければならぬ生命(いのち)を賭けての問題である筈である。≫

 と。生長の家も、「生長の家の教えはかく解すべきものである、それ以外は異安心であると断定を下すべき筋合のものではない」のではないでしょうか。

 谷口雅春先生監輯『實相研鑽Ⅰ』の最初に掲載されている「妻が夫にハイと言う限界について」というところは、「中心帰一」の生き方について、とても参考になります。

 「妻は、夫から“宿った胎児をおろせ”と言われたら“ハイ”と従うのが中心帰一か?」

 ――それは「否」である、ということですね。
 「夫に素直に従うということは、夫を神として拝み、実相の本当の夫に従うということでなければならない。夫が堕胎せよ、いやなら離婚するという婦人の場合、夫は“堕胎するか離婚するか、どちらか二つのうち一つを選べ”と言っている。どっちが本当に夫の実相が呼びかけているのか。夫の実相は神なんですから、神なら“おろせ”とは言わん。“堕胎いたしません”と言うのも、夫の本当の声に従ったのですよ。妻が夫の実相を喚(よ)び出さなくちゃいかん。迷いを喚び出して迷いに従っていながら、“夫に素直に従っているんだ”と言うのは、根本的に間違っている。神に従うことが即ち夫の実相に従うことに一致するわけであります。」というのが、谷口雅春先生のご指導でした。
 生長の家総裁をはじめ上置者に対する信徒のあり方も、この「夫に対する妻のあり方」と同様に考えてよろしいのではないでしょうか?


          


 このたび、昨年11月には総本山龍宮住吉本宮に、住吉大神に加え、天之御中主大神・高御産巣日神・神産巣日神が勧請される「鎮座の儀」が行われたと承りました。その式典での総裁のご挨拶で、谷口雅春先生のご著書『新版 善と福との実現』のご文章を引用されました。(「唐松模様」より)

 ≪“アメノミナカヌシノカミ”とは宇宙の本源なる“中(みなか)”にして無なる隠身(カミ)である。(中略)その“中無”の世界に超入するを“吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る”と生長の家では云うのである。“中無”の世界は無一物“中”無尽蔵の世界であり、無限知・無限愛・無限生命の七宝充満不老郷であるが故に龍宮海とも云う。(中略)その龍宮海の神を古代の神話では住吉大神と称し奉る。住吉大神とは住ミ吉(ヨ)キ極楽世界の主人公という意味であって、仏教に於ける阿弥陀仏と同体であり、創世記に於てはこれを“エデンの園”と云う。≫(『新版 善と福との実現』188頁) 

 と。同書(『新版 善と福との実現』)のすぐ前のところには、次のように記されています。

 ≪「生長の家」とは「生」は|(たて)に伸びるであり時間を表わし陽の原理を象徴する。「長」は―(よこ)に延びるであり、空間を表わし、陰の原理を象徴する。|(たて)―(よこ)時間空間、陽陰の結びによって生れ出ずる本源たる十(たてよこ)拾字の交叉点(こうさてん)たる一点――一点もなき絶対無の「統(ス)」「巣(ス)」が「生長の家」である。「巣」が家であると云うのは「家」は一切のものが其処より出でて其処に帰る中心本源であるからである。(註、蜘蛛(くも)の巣の形を見よ)乃(すなわ)ち「生長の家」とは時間空間を一つに包み、万物を生み出す本源即ち「真如(しんにょ)」そのものであり、無一物中無尽蔵の「無」にして「空」なる「根本中」である。即ち宇宙全体である。されば生長の家の神とは宇宙本源の大神と云う意味であって固有名詞ではないのである。(中略)旧約聖書に於ける天地の創造主たるエロヒムの神、キリスト教のゴツド、黙示録に於ける七つの燈台の間を歩みたまう久遠無窮を表象せる白髪白髭の生と死との鍵を持ちたまえるキリスト(これを吾々は『七つの燈台の点燈者』と呼び奉っているのである)仏教の大日如来、阿弥陀、観世音菩薩等は、いずれも宇宙の大神の化身又は化現(けげん)又は同一の神の名称のみの相異に過ぎないのであって、是を古事記は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と称しているのである。≫

 『菩薩は何を為すべきか』(32頁~)には次のようにご教示下さっています。

 ≪神の子とは如何なるものかと申しますと、「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神として把握」したのであります。

 日本民族はみずからを「命(みこと)」と呼び、日子(ひこ)、日女(ひめ)と称するけれども、決して一人の有限な肉体を持った神様から誕生したと云う意味での「神の子」ではない。日本書紀或は古事記の神話にあるところの天之御中主神の「中(みなか)」の本源より発したる基本生命の自覚である。

 天之御中主神とは、一個人の人格神の固有名詞ではないのであって、「天(あめ)」の次に「之(の)」という接続の詞(ことば)がついて居る所に注目しなければならないのであって、これが固有名詞ではない証拠であります。「之(の)」がついているのは、固有名詞ではなく、説明のための接続詞としてついているのであります。何を説明しようとしているかと云いますと、「天(あま)」即ち「天球」即ち「大宇宙」の「中(みなか)」にして主なるところの神様と云う意味を説明していたのであります。私たちはその「中(みなか)」の「主」なるところの神様から生まれて来たのであって、その中(みなか)のいのちより出でて中(みなか)に帰る、吾々は中(みなか)に帰一しなければならない。「神の子」とは天之御中主神の生命が此処に出現して、「中(みなか)」の理念を実現する為に此処に生きて居るということであります。

「中(みなか)」と云うのは、『中庸』と云う支那の書物に、「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と云う」とありますが、この「中(ちゅう)」と云う字は、○(宇宙の象徴)に一本貫いた様につくられたのが本来の字形なのであります。四角に一本棒を挿したのじゃなくて、○(うちゅう)を貫く象(かたち)を表した⏀であります。この「○」は宇宙であって、宇宙を貫く処の真理が⏀(みなか)なのであります。真ん中だけを貫いて居るのではないのであって、これはただ「宇宙を貫く」という意味を象形的に書かれているのです。宇宙の一切の物を貫く所の原理に在(まし)ますところの神様が天之御中主神であります。その「中(みなか)」の原理と云うものは何処にでも現れて居る⦿(ス)の原理であって、それは一切のものには一つの中心があると云うことであります。

 つまり太陽系統には太陽と云う中心がある。そして周囲には遊星が廻って居る。存在の最小単位である原子にも原子核と云う中心があって、その周囲に電子が廻っている。人体を形成して居る所の細胞にも真中に細胞核と云うのがあって、そして周囲に原形質がある。鶏卵にもちゃんと黄身と云う中心がある。中心がなくなったら、細胞もなくなり、卵は死んでしまうのであります。白色レグホーンの鶏の卵の白身だけを抜いて、プリムスロック種の鶏の白身と入れ替える実験をソ連でやったら、それを孵化させるとプリムスロックの雛が産まれたという話もあるが、白身は他のものと取替られるけれども「中心」なる黄身を取り替えたらもうその鶏卵は生命を失ってしまうのであります。

 このように中心は一番大切であります。原子でも、原子核を破壊したら、原子は崩壊して飛び散ってしまう、われわれの肉体を構成している細胞も、その中心であるところの細胞核を殺してしまったら、細胞は死んでしまう。植物にも幹という中心がある。幹を殺したら植物は枯れてしまう。太陽系統も真中にある太陽が放射能を出し尽くして冷えてしまうようなことがあったら、太陽系統には生物がなくなる、結局吾々の地球も冷えてしまって人類もその他の生物も死ななければならない。どうしても⦿(ス)をもって表象する「中(みなか)」の理念と云うものに一致したときそこに生命があらわれるのであり、「中(みなか)」の理念によって宇宙の一切のものは生かされて支えられて居るのであります。

 此の一切存在の基本原理なる「中(みなか)」の理念を体現した国家、換言すれば「真理国家」の現成が日本国家なのであります。大和(ヤマト)の国は「大和(だいわ)の国」である共に、単なる集団の国ではない、天津日嗣(あまつひつぎ)の国である。天津日嗣とは、天之御中主神の「中(みなか)」の理念が天降(あまくだ)って来ることを言うのであります。日嗣の「日」は「霊(ひ)」であって「霊的理念」のことであります。「中(みなか)」の理念をさながらに承け継いで、そしてその姿が国家として顕われたのが、「天皇を中心とするところの国家」である。其処にある天皇の権威と云うものは、真理の体現者としての権威であって、決して個人が強いから天皇になって、その権力に依って人民を圧(おさ)えているのではないのであります。そしてその天之御中主神の理念の実現としての真理国家たる日本国の中心核体として其処に天皇が顕われていられるのであります。随って天皇を中心と仰ぐ日本国家の形態は、天皇の人民支配の手段としての国家形態というようなものではないのであります。≫

 と、『菩薩は何を為すべきか』には書かれています。したがって私たち人間は神の子であるということは、「中(みなか)」の子(個性的表現)である、天之御中主神の顕現であるということである。「中(みなか)」より出で来たったものであるから、その本源なる「中(みなか)」に帰る――「中(みなか)」の理念を実現する為に此処に生きて居るということ。それを自覚して日本人としての使命に生きることが根本の「中心帰一」であると思います。

 では、総裁のご使命は?
 「スメラミコト」のご使命と同様、「観世音菩薩」が衆生の音(ひびき)を聴き給うて生かし給うがごとく、すべての信徒、いや信徒のみならずすべての人々の命を「神の子」として拝み、生かしてくださる中心者にまします。信徒は、その総裁を神(生長の家大神、住吉大神)の顕現として拝みまつる。「君は民を拝み、民は君を拝む」スメラミコトと同じ使命を持ち給うのではないかと、私は拝察いたします。

 間違っていますでしょうか。


 


    
【質問3】 原発は、絶対悪でしょうか?

       神様は、悪いもの、無駄なものをお造りになったのでしょうか?



  









 ご著書『宗教はなぜ都会を離れるか?』に、次のような問答が掲載されています。

   地球と人間が共存するために

 Q
 総裁先生は、原子爆弾は“絶対悪”のように仰いましたが、これまでの長年の成果として原子力をようやく平和利用できるようになったことで、原子力発電があると思います。現在の技術として、廃棄物の処理等が不可能で完全に管理できないことは確かであり、教団が脱原発を選んだことは賛成しますが、未来的に考えて放射能と廃棄物の完全な管理と安全な利用ができれば、原子力発電を使ってもよいと思われるのですが……。あるいは、人類はそれを目指すべきではないでしょうか?(50歳・会社員)

 
 原発関連の質問です。最初に「総裁先生は、原子爆弾は“絶対悪”のように仰いましたが、これまでの長年の成果として原子力をようやく平和利用できるようになったことで、原子力発電があると思います」とあります。この方の認識はこういうものですが、私は必ずしも賛成しない。また、「未来的に考えて放射能と廃棄物の完全な管理と安全な利用ができれば、原子力発電を使ってもよい」とおっしゃり、さらに「人類はそれを目指すべきではないか?」と書かれています。
 なぜですか? 私は、「なぜ原子力でなければいけないか?」と聞きたいです。また、ほかにもエネルギー源は多くあるのに、なぜ原子力か? と問いたいです。原子力発電と他のエネルギー利用が違う最大の点は、原子力が生物一般に共通して有害であるということ、つまり、生物の組織の基本設計を定めた「遺伝子」を破壊するという点です。原子力利用は、この一点で、他のエネルギー利用技術と根本的に違うと私は思います。(『宗教はなぜ都会を離れるか?』97~99頁より)


 ――私は、質問者とほぼ同意見で、総裁のお答えを伺っても納得し切れません。

 総裁は、
〈なぜですか? 私は、「なぜ原子力でなければいけないか?」と聞きたいです。ほかにもエネルギー源は多くあるのに、なぜ原子力か? と問いたいです〉
 とおっしゃっています。(前掲書98頁)

 それは、「①原発のエネルギー効率の高さが桁違いに抜群であり、②火力・水力や、風力・太陽光などの“自然エネルギー”などよりもはるかに安全である。しかも放射線は必ずしも生物にとって有害ではなく、線量が低ければ却って有益な効果をもたらすので“絶対悪”ではなく、神の愛の賜だと思われるから」と言えましょう。それについて具体的なことは後述しますが――まず、総裁が

 〈原子力発電と他のエネルギー利用が違う最大の点は、原子力が生物一般に共通して有害であるということ、つまり、生物の組織の基本設計を定めた「遺伝子」を破壊するという点です。原子力利用は、この一点で、他のエネルギー利用技術と根本的に違うと私は思います〉

 とおっしゃっていることへの疑問があります。“原子力が生物一般に共通して有害であるということ、つまり、生物の組織の基本設計を定めた「遺伝子」を破壊する”というのが、まちがっているのではないかということです。

 原子力(放射線)が遺伝子を破壊する、と最初に説いたのは、昭和2年(1927)アメリカのマラーという遺伝子学者です。ショウジョウバエのオスに放射線を浴びせたら大量の奇形が生まれたということが発表されました。しかし、1950年代にDNAの二重らせん構造が発見された後に、ショウジョウバエの特徴が明らかになった。人間のDNAは、放射線や活性酸素などで障害を受けても、「修復酵素」によって修復されることがわかった。ショウジョウバエの雄の精子は「修復酵素」がない例外的なものだということがわかったんです。

 いま世間に罷り通っている放射線の常識は、線量の多少にかかわらず放射線はすべて生物学的に有害であるという「LNT(Linear Non-Threshold)仮説」(しきい値無し直線仮説)の“迷信”に基づいてさまざまなことが行われ、さまざまな事態が起こっている。脱原発の叫び声が高まり、ついに日本の原発発電量はゼロとなったり、電力危機が目前に迫っている。除染などという愚行が行われ、人々は苦しい避難生活をはじめ生活の根本を揺さぶられ、特に女性や子供の不安感、恐怖感は強い。国を損ない、社会を害し、個人を苦しめているこの放射線の常識が間違っていたら、どういうことになるのか。

 その実証データの端的な一例――原爆が爆発した広島・長崎では、生き残った人も多く、その後に多くの人に子供が生まれた。放射線を浴びると遺伝子が傷つき、奇形が発生するとされているが、広島・長崎に奇形が多く発生したか。そんな事実はまったくない。さまざまな調査がなされ、データが蓄積されているが、奇形の発生率が高まったという有意性のある数字はどこにも見当たらない。広島・長崎には奇形が多いという風評さえ聞かれない。理由は簡単。そういう事実がまったくないからである。

 広島、長崎の放射線量率は福島の約一千八百「万」倍だった。しかし、広島や長崎の人のほうが健康状態が良かったのは、低い線量の放射線はむしろ体にいいから。医学には「ホルミシス効果」というものがあって、有害物質でも少量の場合には刺激作用を起こして体に好影響を与えることがある。ラジウム温泉に行って体を癒す人たちがいるのは、放射線を浴びるために温泉に行っているんです。低線量の放射線はまったく困らない、むしろ体にいいのに、除染、除染と騒いでいる。科学的根拠もなく国民の不安をあおっている人たちがいる。放射能というのは、その実際の危険性よりも、まさに天文学的な倍率で誇張されているようです。あれだけの報道にもかかわらず、放射線による死者はひとりも出ていないどころか、福島第一原発の現場作業員で、急性放射線障害になった人もまだひとりもいないのです。
 総裁の『次世代への決断 宗教者が“脱原発”を決めた理由』も読ませて頂きましたが、残念ながら、やはりマスメディアの「放射線は人体に危険以外の何物でもなく、原発は絶対悪」とする論調に大きく影響され、全相を踏まえないで感情が先に立った論のように思えます。それは例えば、「自然界を汚染し続ける放射線」(『次世代への決断』24頁)という小見出しのところにも端的に表れています。

 しかし――「熱」だって危険なものです。100度の熱では生物は死滅しますし、1000度にもなれば住宅も皆焼けて殆どガスになってしまうでしょう。しかし、適度の温熱は健康で快適な生活に必要です。医学上の「ホルミシス効果」というのも、そういうものであるようです。

   「無駄なものは何もない」

 総裁のご著書『日々の祈り』の中の『「無駄なものは何もない」と知る祈り』には

 『「無駄はない」とは、すべての存在が神の愛、仏の慈悲の表れであると観じるときに理解される。(中略)あらゆる存在が「神の愛」「仏の慈悲」の一部を表現していると知ることにより、あらゆる存在の意義を認め、それらの背後にある「愛」や「慈悲」の働きを引き出す努力につながるのである。』(166~167頁)

 と書かれています。原子力エネルギーも、「ホルミシス効果」により低線量の放射線は人体に却って好影響があると知れば、「放射線も神の愛、仏の慈悲の表れである」ということになります。

 チベット仏教のダライ・ラマ法王は「常に物事は全体を見るべきです。原子力が兵器として使われるのであれば決して望ましくありませんが、平和目的であれば別問題です」と言い、自然エネルギーは高価で、世界の多くの貧しい人たちが利用することができない。「先進国にとってだけではなく、これから発展を遂げる国にとっても十分でなければ、貧富の差が広がってしまいます」と。

 また、総裁がご著書『“森の中”へ行く』で紹介され『次世代への決断』の序章(8~9頁)でも引用されている地球環境保護運動のリーダー、ガイア理論で有名な地球物理学者のジェームズ・ラブロックも、原子力を強力に推進しています。化石燃料から排出されるCO2による地球温暖化・気候変動のリスクを非常に深刻に受け止めていて、大量のエネルギーの消費なしで生きていくこともできない人口をすでに地球は抱えている。化石燃料によるエネルギーがなくなれば世界の人口の何割かがすぐに死滅するような問題だ。その中で唯一、気候変動リスクを低減させながら、エネルギーを供給できるのが原子力だと、ラブロックは考えているのです。反原発団体が、よく高レベル放射性廃棄物を理由に原子力を批判していますが、ラブロックは「世界中の高レベル放射性廃棄物を自分の私有地に引き受けてもいい」と宣言しました。彼はイギリスの田舎の、小川が流れ森が茂る広大な土地を購入してそこで暮らしていますから、世界中の高レベル放射性廃棄物を自宅に受け入れることは可能なのだということです。

 私には幸いなことに、原子力問題専門家のよき友人がいます。大学時代の同期生で二年間寮生活を共にしながらグラウンドホッケーに明け暮れた、石川迪夫(みちお)君です。彼は昨年、『考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』というA5判360頁の大著を公刊しました。その冒頭に元東大総長で文部大臣・科学技術庁長官も務めた有馬朗人氏が次のような推薦文を書いています。

          ○

 「本書の著者、石川迪夫氏は、我が国が誇る原子力安全工学の第一人者である。旧日本原子力研究所で世界に貢献する安全研究の成果を上げ、北海道大学の教授として若手を育成、国際原子力機関(IAEA)の国際安全基準作成活動に日本代表として参加、そして日本原子力技術協会の初代理事長など、その名は広く世界の原子力関係者に知られている。……中略……石川氏が福島第一原子力発電所事故の複雑な様相の謎を解く著作を執筆中と聞き、原稿を拝見させて頂いたところ、難解と言われる原子炉内部で起きた事故現象が明快に解明されており、目から鱗が落ちる思いをした。全世界に知らしめるべき大変な分析、考証がなされており、是非ともその出版に当たっては推薦の辞を書かせていただきたいと考えたのである。……中略……原子炉事故に関する石川氏の博学は群を抜いている。……中略……石川氏は、津波来襲前に地震で1号機の配管が破断していたとする国会事故調の軽率な見解を大きな誤りと指摘している。また、福島事故を受けて設置された原子力規制委員会が策定した新規制基準は、全世界の原子炉安全工学者が深い洞察と長年にわたる慎重な検討で完成した安全設計の基本を無視し、ただ世界一厳しければ良いとの思い込みから全体の最適を図らず、例えば、異様に高い防波堤は一度越流すれば内側に貯えられた水の排水に時間を要し有害なものとなり得ること、福島事故の分析からフィルターベントの設置の必要性がないことなどを鋭く指摘している。安全設計強化の要求がバランスを欠き、実体としては安全性の低下をきたしていないか懸念を感ずるとしている。……中略……海外の専門家も、福島事故についてこの種の貢献が日本からあることを心待ちにしていたはず。日本の辛い体験を世界に説明し、原子力の安全性向上に役立てるべきであり、そのためには本書が大いに活用できる。きっと、本書による福島事故の解明は、世界中の専門家を驚かすことであろう。」 と。

          ○

 ――この本を読んだノンフィクション作家の立花隆氏は「文春図書館 私の読書日記 2014・5・29」に、次のように書いています。

          ○

 石川迪夫『考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』(日本電気協会新聞部)を読んではじめて、あの事故の真相にかなり接近したと思った。

 著者は、原子力安全工学の第一人者。日本原子力技術協会の初代理事長、国際原子力機関(IAEA)の日本代表などを歴任。今回の専故でも米国科学アカデミー調査団とのハイレベルの会合に出席して、事実調査と原因究明にあたった。御年80歳だから「事故解明は若い者の仕事と思い、手を付けずに」いた。「これはいかんぞ」と思ってこの本に手を付けたのは、2012年。何が「いかんぞ」なのか。NHKが何度も放送したパネルの事故説明がまちがっていたから。大方の読者が頭に描いている説明も、原子力関係者が頭に描いているストーリーも同じようにまちがっている。

 「炉心溶融と水素爆発」があの事故の核心部分。それがどのようになぜ起きたのか、そこがわからないため「いまだに福島の事故についての明快な説明がなされていない」。あらゆるデータを再解析した上で、福島事故の全貌を書いたのが本書。素人には読みにくいが、実証的論理展開に迫力がある。福島事故の推移があますところなく描かれる(なぜ各原子炉のメルトダウン時間がずれたか。4号機はなぜ爆発したか)。なるほど本当の専門家はここまで解明できるのかと驚く。これまで日本のジャーナリズムに氾濫していたエセ専門家たち(特に原発反対派)の妄言(「現代の迷信」)にあきれる。軽水炉の意外に強固な安全性が、スリーマイル島事故の精密解析とその後の十年間に及ぶ日米独原子炉暴走臨界実験から導かれる。暴走させても「燃料棒がドロドロに溶けて……」という映画「チャイナ・シンドローム」のようにはならないのだ。ところがNHKは、そのような事故が起きたと図解した。事実は、燃料棒の「被覆管ジルコニウム酸化被膜が融点が高く強靱」なため、あのタイプのメルトダウンは起りえないし、事実起らなかった。燃料棒破損による放射能漏出はきわめて少く、放射能による直接死者はゼロのレベルにとどまった。福島事故は原子炉の意外な安全性の証明になったが、日本の政治指導者のダメさかげんもあらわにした。

 菅首相が現地の視祭飛行などに血道をあげず、「落ち着いて後方支援に取り組んでいれば、2・3号機は助かった、というのが私の結論」。あの時、官邸に集合していた政府首脳たちは「何ひとつ役に立たなかった」。

          ○

 ダライ・ラマ法王が「常に物事は全体を見るべきです」と言われるように、いたずらに恐怖をあおるようなマスメディア報道に惑わされず、冷静にエネルギー問題、原発問題の全体を見てまいりましょう。

 そのときに、藤沢数希著『「反原発」の不都合な真実』(新潮新書)は、必読の参考書だと思います。(石川迪夫氏の著書は専門的で素人には難しいかと思いますが)藤沢数希氏はエネルギー産業と直接の利害関係がなく、科学者でありまた経済学やリスク分析の専門家で、大局的立場からエネルギー問題の全貌をわかりやすく説いています。本冊子43頁に私が「①原発のエネルギー効率の高さが桁違いに抜群であり、②火力・水力や、風力・太陽光などの“自然エネルギー”などよりもはるかに安全である」と書きましたのは、同書によるところが大きいのです。そのポイントを以下に列挙させて頂きます。

     * * * * * * * * * * * * * * * * *

   エネルギーなしでは生きられない

 現代社会の人々はエネルギーなしでは数日の間で生存できなくなってしまいます。水も食料も運べませんし、都市ではエネルギーがなければ人間の排泄物の処理さえできないからです。そういう意味では豊富なエネルギーが人間の命をまさに守っている、といえます。

 お金持ちの国ほど国民は健康で、長生きします。同じ国の中でも、金持ちの方がそうでない人よりも健康で長生きなことは、膨大な医学研究で次々と証明されています。3・11の原発事故のあと、原発は経済か命かのトレードオフなどといわれましたが、これは二重、三重に間違っており、経済が強い国だけが、国民の命を守ることができ、国民に安全を提供できる。人類がこれだけ長生きし、これだけ繁栄できたのは、化石燃料による大量エネルギー消費が可能になったからであり、そしてこの50年の間に、地球環境問題を引き起こす化石燃料を少しずつ原子力が代替するようになった。化石燃料と原子力なしに、現代社会は回らないのです。

   原発のエネルギー効率の高さは抜群。日本最大のメガソーラーの年間発電量は、原発一基の一日発電量に負ける

 原発では
e=mc2で、核分裂により質量が減った分厖大なエネルギーとなるから、それは火力発電や、太陽光・風力等によるエネルギーなどとは比べ物にならない。太陽光の年間発電量は原発の一日発電量に負けます。しかも太陽光パネルは製造過程で多量の二酸化炭素を排出しており、今後廃棄処分する時にはまた有害物質を出すので、「自然にやさしいエネルギー」ということには疑問が生じています。

 メディアは世界の自然エネルギーへの取り組みなどを紹介し、あたかも世界のエネルギー供給源のひとつになりつつあるかのように報道しています。特に太陽光発電は人気があるようで、原発をソーラーで置き換えるべきと主張する政治家も出てきました。

 しかし、世界の総エネルギー消費のうち、自然エネルギーの占める割合は現在1.3%ほどです。その自然エネルギーの内訳は、風力が一番多くて、全体の0.7%ほどです。エタノールなどのバイオ燃料は半分近くの約0.5%を占め、ソーラーはエネルギー消費全体の約0.1%ほどになっています。資源エネルギー庁の資料によれば、日本では太陽光発電、太陽熱利用、バイオマス直接利用、風力発電、地熱発電など全てを足しても、これら自然エネルギーは日本のエネルギー消費全体の0.3%ほどにしかなりません。自然エネルギーは将来にわたって、中心エネルギーになることはほとんど期待できず、しかもコストが高い。

   原発は火力発電より桁違いに安全。自然エネルギーよりも遙かに安全である

 ソーラーパネルと原子力発電所の危険性をどうやって比べたらいいか。エネルギーの危険性を比べるには、同じ土俵の上に乗せてあげないといけない。つまり単位エネルギー当たりの事故や公害による犠牲者の数を比べるのです。この場合、リスク管理の専門家は1TWh(テラ・ワット・アワー〈1時間あたりの発電量、テラは兆〉)当たりの犠牲者数を比較します。

 結論をいうと、1TWhの電気エネルギーを生み出すのに、人命という観点からいえば、原子力による発電は、石炭や石油のような化石燃料による発電より1000倍程度安全だとされています。つまり化石燃料を燃やしてエネルギーを得るのに、1000人の人間の命を犠牲にしなければいけないところを、原子力ならたった1人の犠牲でいいというのです。これはチェルノブイリ原発事故のような、あらゆる原子力事故を計算に入れた結果です。さらに驚くことですが、実は原子力は、風力発電や太陽光発電よりも犠牲者の数が少ないという研究結果があります。

 化石燃料のもたらす被害はCO2放出など多々あるが、WHO(世界保健機構)報告によると大気汚染で年間115万人が死亡するという。日本でもWHOの推計によると、毎年3万3000人~5万2000人程度の人が、大気汚染が原因の病気で死亡しています。交通事故の犠牲者数を上回る数です。大気汚染濃度の違う地域を比較したり、同じ地域で時々刻々と変化する大気汚染濃度と死亡率の関係を慎重に研究することにより、大気汚染による犠牲者の数が統計的に推計できる。直接「大気汚染で死ぬ」人はいないけれど、大気汚染は何らかの病気の原因になるわけです。そのうち半分程度は自動車の排ガスが原因で、火力発電所からの大気汚染物質によるものは約3割の30万人ほどになるが、原発では多めに見積もって50年間で4000人ほど。1TWh当たりの死者数は、火力発電は21人なのに対し原発は0.03人、つまり700分の1です。因みに太陽光発電はどうかというとゼロではなく、0.44人、すなわち原発の15倍であるという。自然エネルギーは安全と漠然と考えるのは間違いなのです。

 大気汚染で人が死ぬというと、「そんな大げさな」と思われるかも知れないけれども、これはWHOが言っていることで、この見解は膨大な疫学調査にもとづく多数の医学者のコンセンサスとなっている。それは注意深く各種の大気汚染物質の濃度と様々な病気の発生確率の変化を調査し、その結果、日本では何人ぐらいの人々が大気汚染を原因とした病気で死んでいるという科学的に信頼できる結論が導かれているわけです。

   太陽光や風力でも犠牲者は出る

 オークリッジ国立研究所のインハーバーは、1980年頃までは、まったくもって安全だと思われていた太陽光発電や風力発電でも、ある程度の人命の犠牲が不可避であるということを示しました。これはどういうことかというと、たとえば原子力発電所1基分の発電量を産み出すのに、太陽光発電では山手線の内側ほどの面積が必要になります。そのため火力発電所や原子力発電所ではほとんど無視できた、発電施設を作るのに必要なコンクリートや鉄のような材料の生産に伴う犠牲者や、建設工事の事故による犠牲者などが無視できなくなってしまうからです。太陽光発電や風力発電では、エネルギー密度(同じ土地面積や同じ重量や体積の燃量から取り出せるエネルギー量)が非常に小さい自然のエネルギーを利用しないといけないので、原子力発電と同じだけのエネルギーをかき集めるために圧倒的に多くの建設資材と工事作業が必要になってしまいます。

 スイスのポール・シェーラー研究所が、1969年~2000年の問に世界で起こった膨大な数のプラント事故を調査したところ、プラント事故により直ちに死亡した犠牲者だけで、化石燃料はやはり原子力の数百倍の死亡者が出てしまうことを証明しました。化石燃料は非常に危険なのです。
 その他にも、エネルギーの安全性に関する様々な論文が発表されていますが、どれも化石燃料は、原子力より圧倒的に犠牲者が多いことが示されています。

   自然エネルギーも環境破壊する

 自然エネルギーは環境にやさしい、と思われがちですが、いくつかの環境破壊を引き起こしてしまうのも事実です。風力発電では、低周波による騒音や、風車が周期的に太陽光を遮るストロボ効果による周辺住民への健康被害、野鳥を風車が撲ねてしまうバードストライクなどがよく知られています。

 太陽光発電も環境破壊とは無縁ではありません。有毒物質を多数含む蓄電池を、管理の行き届かない一般家庭に取り付けるというのは、電池の寿命や、故障したときの産業廃棄物処理の観点からいえば、非常にやっかいな問題になるでしょう。ソーラーパネル自体は、現在、シリコン系とカドミウム・テルル系の2種類が主流ですが、いずれにしても寿命が来れば大量の産業廃棄物を生み出します。特にカドミウムは、日本の四大公害のひとつであるイタイイタイ病の原因物質であり、強い毒性があります。

   脱原発で多くの人が犠牲に

 原子力は化石燃料に比べて圧倒的に犠牲者数が少ないし、太陽光や風力と比べても少ない。
 これらの考察から判断すると、脱原発は、どうしても犠牲になってしまう人命が圧倒的に増えてしまうことになるでしょう。現在、日本では脱原発が盛んに議論されていますが、急進的な原発廃止が進み、日本の老朽化した火力発電所がフル稼働して、原発の電力不足分を補う場合、どれぐらいの人が犠牲になってしまうのでしょうか。

 日本は年間1100 TWh程度の電力を生み出します。これの3割が原子力によるものだったので、原子力の発電量は330 TWh程度です。これを火力発電に置き換えた場合、先ほどの数字、1TWhあたりの犠牲者数21人を使うと、約6,900人の人が毎年亡くなる(21×330=6,930人)。一方で原子力の方は、330 TWhでは10人ほどの死者が見込まれます(0.03×330=9.9人)。6,900人の増加に対して、原発を止めることにより潜在的に10人の犠牲者を減らせます。10人は誤差の範囲なので、日本で急進的な脱原発が進んだ場合、年間に6,900人も死者が増えてしまう可能性があるのです。

   原発ゼロによる大気汚染

 世界の電力の7割弱は火力発電所で作られています。化石燃料の問題点はCO2の排出による地球温暖化と、さまざまな大気汚染を引き起こすことです。世界的に見れば、過去のあらゆる核災害よりも、自動車の排ガスや火力発電所の煤煙による大気汚染の方が、圧倒的に多くの人を犠牲にしています。原爆の犠牲者は広島と長崎を合わせて約40万人ですが、毎年100万人の桁で死んでいる大気汚染に比べたら、はるかに少ないといえます。

 反原発運動家は、ことさらに放射線による健康被害の悲惨さを強調しますが、致死的な呼吸器系の病気は、ひどい喘息や肺癌など、大変な苦痛を伴う悲惨な死に方です。そして、その数は放射線に関連する癌患者よりも圧倒的に多いのです。

 多くの人は、原発をなくせば日本はもっと安全になる、と考えているようですが、このように健康被害を冷静に考えると、原発をなくすことで増すリスクも存在します。そしてそのリスクは、原発のリスクよりもはるかに大きいようです。

   電気自動車は原発なしには普及しない

 電気自動車が最近注目されているのは、もちろん世界的に地球温暖化問題への関心が高まっているからです。CO2削減のための主役が原発と電気自動車なのです。なぜならば火力発電所とガソリン自動車がいうまでもなくCO2の最大の排出源だからです。

 しかしここで日本がもし原発を減らすということになると、電気自動車の魅力はほとんどなくなってしまいます。というのも電気自動車のエネルギー源の電気が、化石燃料を燃やす火力発電所で作られることになってしまうからです。この場合、まず火力発電所で大量のCO2を排出しながら作られた電気が、電力をロスしながら送電線を通って、電気自動車までやってきて蓄電池に充電されることになります。火力発電所では化石燃料を燃やし、タービンを高速回転させ発電するわけですが、そこでも当然ロスが出ます。発電ロス、送電ロスをして、蓄電池を充電するときにもまた電力をロスして、最後にモーターを回して電気自動車が動くわけです。これでは直接ガソリンを燃やす自動車と比べてCO2の削減効果はなくなってしまいます。

 原子力発電は出力の調整がむずかしいので、夜間などは電気が余りがちになり、電気代を安くすることが可能です。電気自動車は、この安い夜間の電気を使い、人々が寝ている間に充電し、CO2も大気汚染物質も出さない未来のモータリゼーション・テクノロジーなのです。原子力というのは未来の交通網において、大変重要なエネルギー供給の基軸なのです。

   脱原発のコストは燃料費だけで年間4兆円

 火力発電のコストの内、燃料費は7~8割程度です。つまり火力発電のコストはほとんど化石燃料代なのです。一方で、原子力発電では、ウラン核燃料費が発電コストに占める割合はたったの1割程度です。しかも原発を止めても、核崩壊により燃料は劣化していくので、ほとんどコストのセーブはできません。つまり耐用年数に達していない原発を止めるのは、丸損なのです。菅直人前首相の浜岡原発停止要請から始まった、日本中の原発が再稼働できないという状況は、ローンで買った自宅を空き家にして、賃貸マンションに家賃を丸々払って住んでいるようなものなのです。

 原発を停止させれば安全性が高まるというのも誤解です。福島第一原発の4号機は定期点検中で原子炉の中は空であったにもかかわらず水素爆発を起こし、放射能漏れ事故を起こしていることからわかるように、原発を止めても必ずしも安全性が上がるとはいえないのです。

 政治家やマスコミの反原発パフォーマンスで費やされるかもしれない年間4兆円の請求書は、福島第一原発事故の総賠償金額、日本の総防衛費に匹敵し、日本の生活保護費、民主党の子ども手当て支給額を大きく上回ります。しかも生活保護費や子ども手当ては、国内の富の移転ですが、化石燃料代は中東などにただ富が流出していくだけなのです。

 これらのコストは電気代などに転嫁され、国民が負担することになります。急進的な脱原発は、年間4兆円もの負担が生じ、さらに電力不安で企業の生産が抑制されてしまい、多くの企業の海外流出を推し進めるでしょう。

   エネルギーの未来のために

 日本のように土地が狭く地価が高い国で、莫大な土地を無駄に占有する自然エネルギーを多額の税金を投入して無理して利用しなくてもいいのです。サンシャイン計画など、日本で30年前に失敗し、この10年ほど欧州でも失敗した自然エネルギーに、またこれから多額の税金を投入することは賢明な政策とはいえません。

 マイクロソフトの創業者で世界一の金持ちであるビル・ゲイツは様々な慈善事業に莫大な私財を投じています。世界のエネルギー問題、そして環境問題に、彼は大きな関心を寄せています。実際に莫大な金額を投じて、新しいタイプの原子炉の開発に関わっていますし、大規模なメガソーラー発電施設などにも投資しています。しかし、ビル・ゲイツは太陽光などの自然エネルギーは世界のエネルギー問題の解決策にはならない、という意見を述べています。コストが高すぎて、世界の貧しい層の人たちにはとても手が出せないからです。途上国の国民は安価なエネルギーを切望しているのです。しかし化石燃料にこれ以上依存することは、地球温暖化などの環境問題から避けなければいけません。結局、原子力しか残されていないのです。ソーラーや風力はキュートなテクノロジーであり、豊かな先進国が遊び心で実験的な発電所を作るのはいいのですが、国民生活を支える基幹エネルギーにはなりえないでしょう。ましてや急速に経済成長を続けている途上国が利用することは経済的に困難です。

 原子力はこれからも大きなイノベーションが起こる可能性があります。現在の軽水炉は、核エネルギーの持つ潜在的な力のほんのわずかしか引き出せていないからです。第3世代軽水炉・高速増殖炉・トリウム原子炉・核融合炉など、まだまだイノベーションの余地が多く残されているといえるでしょう。

   日本は福島の原発事故の経験を生かせ

 福島で起こってしまった原発事故と、その被害を軽視することはできません。それ自体は大変悲しむべきことです。避けなければいけなかったし、技術的に避けることができた、というのは事実です。

 しかし福島第一原子力発電所では、いつメルトダウンして致死量を上回る被曝をしてもおかしくないという状況の中、現場の所長や作業員は粛々と自らが行うべき仕事をやり遂げようと作業しました。彼らは世界的にも大変評価され、たとえば、ヨーロッパで最も栄誉ある賞のひとつとして知られる「スペイン皇太子賞」が贈られています。

 その後は、数千人規模の作業員が被曝量を各自コントロールしながら、懸命に作業に当たっています。そして少なくとも現在までに、放射能による犠牲者をひとりも出していないし、急性放射線障害の患者すらひとりも出していません。このことは大変誇らしいことだと思います。事故現場では、何らかの拍子に致死量を超える放射線を浴びてしまう可能性はいつでもあります。だからこそ、現場で日夜作業をしている人たちに、私たちは敬意を払わないといけないでしょう。

 放射性物質を含む冷却水の処理や、致死量を上回る放射線量が測定された原子炉建屋内の調査など、次から次に難題にぶつかっては、東京電力や、東芝、日立、三菱重工のような原発関連メーカーが必死で解決策を見つけ出そうとしています。そして、当初はチェルノブイリのようにコンクリートで埋め固めるというような、粗雑な事故処理をするだろうと思われたものが、現在では水素爆発でボロボロになった原子炉へ冷却水の循環を確立し、ロボット技術などを駆使して内部の核燃料を取り出し、福島第一原子力発電所の1号機から4号機を正常に廃炉にしようという目処が立ちつつあります。日本では全く報道されていませんが、これには世界の原子力関係者が驚いています。

 日本のマスコミはいったん叩いてもいい存在だと認識すると、いつものように全社横並びでいっせいに日本の原子力産業にかかわる組織や人たちのバッシングをはじめました。しかし、そのような中でも見ている人はしっかりと見ているものです。現場ではこのような危機的な状況でも、誰ひとり逃げ出すことなく、それぞれの叡智を振り絞って粛々と事故処理を続けています。こういった放射能漏れ事故を処理する技術や除染作業のノウハウの蓄積は、日本の原子力産業の将来にとって大きな強みになるでしょう。

 日本と同じく地震があるトルコなどは、菅直人前首相が人気取りで将来的な輸出見直しを示唆してからも、日本のメーカーから原発を買いたいと言いました。冷静に考えれば、事故により日本のメーカーにさらに貴重なノウハウが蓄積されているからです。

 この事故は日本にとってピンチでしたが、逆に、日本の技術の高さ、現場のエンジニアや作業員のモラルの高さや有能さを世界に示せるチャンスでもあったのです。

 2011年12月現在、世界で500基弱の原発が稼働していますが、中国だけで60基の原発が建設中、または計画中です。中国は今後、年間6基程度のペースで原発を新規に建設していきます。大気汚染のひどい中国で、石炭依存の脱却が進むことは、人々の健康にとっては好ましいことでしょう。

 日本で脱原発が進むにせよ、進まないにせよ、今後は中国やインドなどの新興国を中心に原発の新規建設は進んでいきます。その際に、高度な原子力技術を有し、事故の教訓も得た日本は、世界の原子力政策に貢献すべきではないでしょうか。

 安全性の上に安全性を追求しても、自動車事故で毎年約五千人が死にます。飛行機事故が起これば百人単位で死にます。だが、自動車をやめる、飛行機をやめる、とはなりません。より高い安全性を追求して努力していくのみです。原発も同じだと思います。日本の耐震技術は世界一です。そのことは今回のマグニチュード9.0の激震でも女川原発や福島第二原発はきちんと冷温停止したことで証明されました。それでも津波によって福島第一原発の事故は起こりました。何がいけなくて、何が足りなくて、何が欠けていたのか。設計をはじめとする技術の問題はもちろん、安全対策のあり方、そのための人的訓練、そして何よりも原発の建設、運用における体制、組織、システムなどに徹底的にメスを入れ、改善を図れば、安全性が飛躍的に向上することは確かです。技術に完全な安全はないが、完全な安全に無限に近づくことはできるはずです。

 日本は世界唯一の原爆被爆国であり、また原発事故もありました。世界は、原発廃炉への処理技術や、今後の技術革新による原発の安全な平和利用について、かたずをのんで日本を見守っています。

 「無駄なものは何もない」。原子力エネルギーも、放射線も神の愛、仏の慈悲の表れであると信じます。福島の事故は、原発の安全性をより高めるための教訓の宝庫です。それを生かすところに日本の使命があり、「失敗したから廃止」では、智慧もないし使命も果たせないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。




    
【質問4】 「ムスビ(結び)」と「大調和」についての質問です。

           総裁は、本年(2015年)1月1日のメッセージとして、
           『「結び合う」生き方を進めよう』と呼びかけられました。
           では――「本来一つ」であった元々生長の家の熱心な同志たちで
           今は離れて対立的になっている人たちと、
           「互いに結びあって、一緒に協力して前進する」
           ようになることは、できないのでしょうか?



  




「生長の家教規」に
「第2条 この宗教の設立の目的は次の通りである。(1)谷口雅春創始の、生長の家の教義に基き、その主著『生命の實相』を鍵として、万教共通の宗教真理を開示し、これを宣布することによって、人類光明化につくすこと。」とあります。
『生命の實相』こそ“宗教目玉焼き論”における「生長の家の“目玉”」ではないでしょうか。
 その中心をしっかと確立すれば、社会事業団等とも一つに結び合い、協力し合うことができるようになるではないでしょうか。

          ○

 総裁は、本年(2015年)1月1日のメッセージとして、『「結び合う」生き方を進めよう』と呼びかけられました。

 そのことは、新著『宗教はなぜ都会を離れるか?』の第二部 第四章「『ムスビ』の働きで新価値を創造しよう」にも、「2013年11月22日、谷口雅春大聖師御生誕日記念式典での挨拶」を収録された文章として、詳しく述べられています。

 『宗教はなぜ都会を離れるか?』303~305頁から引用させて頂きます。

 ≪……「一見分かれているように見えるものが本来一つである」というのが実相の自覚であり、これを最も顕著に体現しているのが自然界の「ムスビ」の営みであるわけです。
 ところが、人間界では本来一体であるものを細かく分けて、あそことあそこは利害が対立するのであるといって争っている。そういう意味でも、大調和の世界を実現するためには、ぜひこの「ムスビ」という考え方を強く意識して――今日の私たちの運動でも、相愛会と白鳩会が講習会の受講券を奪い合うことなく(笑い)、一緒に協力して前進する。それだけでなく、政治の対立とか国家間の「対立」の方を意識するのではなく、協力と協働の「ムスビ」を意識し、それらを通して自然と人間の本来一体の姿を実現していかねばなりません。≫ と。

 昨年(2014年)11月22日の同じ式典でのご挨拶(「唐松模様」所載)でも

 ≪私たちにとって“他者”と見えるもの、一見“別物”と見えるものも、それらとムスビ合うことによって、新しい、より大きな価値を創造することができるという真理を多くの人々に伝え、また自ら生活に実践し、名実ともに“自然と共に伸びる”運動を力強く展開していこうではありませんか。≫

 とおっしゃっています。素晴らしいお言葉だと思います。

 そこで、切に思うところの「質問」が、前記[質問4]となりました。

 「“他者”と見えるもの、一見“別物”と見えるものも、それらとムスビ合うことによって、新しい、より大きな価値を創造することができるという真理を多くの人々に伝え、また自ら生活に実践し……」ということを、元生長の家の熱心な幹部であった同志たちとの間で実現し『生命の實相』を取り戻すことこそが、『大調和の世界を実現する』ための第一歩であり、それなしには生長の家の未来――持続可能性――はないのではないか、という思いが湧き上がって来るのです。「そんなこと、できるわけがない」と言う方が多いです。しかし、「人間にはできないことでも、神ならできる」というのが生長の家の御教えではなかったかと思うのです。

 根本的には、生長の家の大神と谷口雅春大聖師に対して大懺悔し、和解・大調和する必要があるでしょう。いろいろな考えをもつ団体については、その点で一つになれるのではないかと思います。

 それは簡単なことではないだろうということは、わかります。今までの業(ごう)の力が強力だからで、総裁のご著書『宗教はなぜ都会を離れるか?』の66頁以下に、次のように書かれている通りでしょう。

 ≪ 現状の「改善」でなく「転換」のために


 (前略)今は世界中で物質主義的なライフスタイルを新しい方向に転換していくことが求められているけれども、身体を使って、口(発声音)を使って、心(意)を使ってそれを実行することは、コトバの力の活用です。多くの人々はしかし、生活の転換の必要性は分かっていても、それを具体的にどの方向へ進めていくべきかがよく分からない。また、従来の生活の仕方から逃れられない。先ほども質問がありましたが、何十年も同じ仕事をしてきたのに、今さら転職なんてとんでもないと考える。その気持は十分に分かります。業(ごう)の力はそれだけ強力です。
 我々は実相に於いて皆、神の子でありますが、現象的には業の力に動かされていることも事実です。(…中略…)そうでない生き方は大変やりにくい。そのことはよく分かります。しかし、生長の家はそれをやろうとしているのです。≫

 ――時あたかも、「イスラム国」が日本を標的にしたテロのニュースが報じられました。

 《……国際社会による「イスラム国」掃討で日本は軍事作戦には加わらないものの、難民対策などの周辺国支援を積極的に進めてきた。安倍晋三首相は中東政策を変更しない考えを示したが、今回の殺害警告は日本への報復行為ともいえ、安倍政権のテロとの戦いは難題を突きつけられた。》 (日経新聞1月20日)

 《フランス・パリでの「シャルリエブド」紙襲撃事件やシリアとイラクでの過激派武装組織「イスラム国」の伸長、そして邦人の人質略取と殺害通告・脅迫が続き、イスラム世界と理念にどう向き合うかが、国や社会、個人に逃れられない課題となっている。イスラム国の地理的拡大は空爆などで食い止められるが、イデオロギーの拡散は軍事力では阻止できない。(池内恵 東京大学准教授)》 (同紙1月27日)

 ――日本にとって、いや、世界にとって、大変な試練の時です。軍事力によってテロを根絶することはできない。イデオロギー拡散による「個別ジハード」が拡がっているからです。

 前記の課題「元生長の家の幹部であった熱心な同志たちと、「『本来一つ』であるから、互いに結ばれて一つになること」はできないのか?『一緒に協力して前進する』ことは、できないのか?」という課題は、ひいてはこの「イスラム国」過激派のテロという世界的な試練につながるものだと思われます。生長の家が「大調和」を至上命令として掲げ、「万教包容」の「世界平和」をめざすのであるならば、その課題から逃げることはできないのではないでしょうか。

 逆境、困難こそ実相顕現のチャンスでしょう。総裁のご著書『日々の祈り』にありました。

 ≪一見「困難」と見えているものは、「我は肉体なり」との観念から生じた幻想に過ぎません。肉体を「我」と見れば、「自」と「他」とが分離しているとの差別感が生まれ、そこから「損得」の狭い考えが生まれます。しかし、実相において神さまの創造と一体である神の子・人間には、本当は「他」など存在せず、損も得もありません。すべてと一体であり、すべてと調和しているのです。神さまの創造は完全であり、神さまの創造されない世界は実在しません。この神さまの創造世界の実相に心を振り向けるとき、現象の困難は氷解します。

 だから神さま、私はあなたの御前で次のように高らかに唱えます――

 「私は神さまの創られたすべてのものと一体であり、大調和しています。」

 「私は神さまの創られたすべてのものと一体であり、大調和しています。」

 この「自他一体」の自覚を深め、その本来の姿を現象世界に表すことが私の使命であり、喜びです。その過程が人生であり、また神生です。≫

        (「困難に戯れて明るく生きる祈り」221~222頁)

 総裁は、このようにお書き下さっています。そのほかにも「こういう祈りを真剣に続けて行けばきっと大調和は実現するに違いない」と思われるような、すばらしい祈りの言葉が随所に書かれています。

 この祈りの言葉は、総裁が真剣に元生長の家の幹部であった熱心な同志たちと、「本来一つ」であって、実相においてはすでに大調和し協力し合って人類光明化運動に邁進していることをお祈りくださって書かれたものであると信じ、それが現実世界にも実現する日がくることを祈らせて頂きます。

 合掌 ありがとうございます。

          (平成27年3月)