1 “われらの時代”

                    (平成22年10月 岡正章作成 山口高校卒業58周年記念映像の字幕より)
  

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 77年、夢の如し。「われらの時代」は、戦争と平和の大激動の時代であった。長い日本の歴史の中でも、最も壮絶な時代であったかも知れない。吹き荒れる時代の嵐の中を駆け抜けて、山高卒業以来58年。いま喜寿を迎えるわれら、激動の過ぎ来し方をふり返ると……

 日本が国際的に孤立し戦争へ、戦争へと突っ走っていた不安な闇の時代に、大きな喜びの光、皇太子殿下(現天皇陛下)ご誕生。その昭和8年、現天皇と時代を同じうし同学年生としてわれらは誕生した。

 その頃日本は軍国主義、全体主義の嵐吹き荒れ、満州事変・支那事変から「大東亜戦争」へと突入する(昭和16年、この年われら8歳、小学2年生であった)。小学校は「国民学校」となり、われらは「少国民」として神国日本の愛国教育を受け育った。

 日本軍の真珠湾攻撃で開戦、初戦の勝利に湧いたがたちまち形勢は逆転し苦戦の中、戦争一色となり、大都市は焦土と化し広島・長崎には原爆が投下される。ついに「万世のために太平を開かんと欲す」という昭和天皇の玉音放送が流され、日本は降伏した(昭和20年、この年われらは12歳、小学6年生であった)。

 わが国は連合軍の占領下に置かれ、国民は食糧不足で飢餓に瀕していた。そのような中で、GHQの命により、歴史と地理の教育は禁止され、愛国教育の教科書には墨を塗らされた。“民主主義”が謳歌され、天皇の人間宣言、新憲法、学制改革(六三制、男女共学)……山高が男女共学になったのは昭和25年、われら高2のときであった。

 しかし世界は米ソ(西東)両陣営の対立が鮮明となり、日本は西側の一員として強化が期待されるようになる。昭和25年6月朝鮮戦争勃発、特需景気がわいた。

 昭和26年サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が締結され、翌27年に発効。そうして日本がまがりなりにも独立を回復した節目の時代に、われらは山高を卒業したのだった。

 その年昭和27年4月血のメーデー事件など、国内は左右の激突、流血混乱の時代がつづくが、日本は大きく経済成長を遂げて行った。

 昭和34年4月、皇太子さまご成婚(この年われらは26歳であった)。

 昭和35年、日米安保反対勢力が国会に乱入、国は革命前夜のように大揺れに揺れた。

 昭和39年10月、東京オリンピック開催(この年われら31歳)。日本は経済大国、先進国への道をひた走る。

 昭和48年(1973年)、オイルショック。高度経済成長は終わり、低成長の時代に入る(この頃われら40歳)。

 昭和天皇崩御。64年に及んだ昭和の時代は終わり、平成の時代へと移る。

 東西の二極対立は、平成元年(1989年)にベルリンの壁が崩壊し冷戦の時代は終結、多極化の時代が始まった(この年われら55歳)。

 その間経済は好況・不況の大波小波をくり返し、大変動を経て、低成長からデフレの時代に入った。

 しかしふり返って昭和20年の敗戦の時あるいは昭和27年の山高卒業の時からみれば、まさに信じられない夢のような豊かな社会が実現している。平均寿命は飛躍的に伸び、少子高齢化社会・情報社会となった。しかし地球環境の危機が叫ばれている。

 いろいろなことがあったのう……われらの時代はまさに波瀾万丈の時代であった。その77年も夢の如し。いま喜寿を迎えたわれら。心豊かに生を全うし、死ぬときは笑うて死のうやないか!

 「同期の桜」を、肩を組んでうたわんか……

 「貴様と俺とは同期の桜 同じ山高の庭に咲く……」

 しかし、まだあと20年は日野原重明さんや森光子さんのように元気でがんばれるぞ!

 フレー、フレー、山高!……