1 原子力を生かした新しい文化創造には百年の準備期間が要る。



 今日は、日本原子力界の重鎮と言われている、世界的にも著名な石川迪夫
(みちお)氏と会って、新しい文化の創造について語り合ってきました。
 石川氏とは、『何処へ行く?「生長の家」』の、総裁への公開質問(3)でもご紹介しました、我らがやんちゃな貧乏学生時代の昭和27年から2年間、同じ寮生活で寝食を共にしたポン友です。

 石川迪夫氏いわく。
 「原子力は、人類の未来の生活を左右する、大きな使命を持っている文化である。
 新しい文化の受け入れには、必ず反対者が出てくるのが人間世界の歴史である。
 たとえば日本にとっての具体例は、仏教の伝来と定着。日本に仏教が入ってきてから皇室に認められるまでに百年かかっている。
 原子力平和利用の歴史はまだ50年あまりだ。仏教が定着した時間の半分しかたっていない。いろは歌留多が教えるように、人は「有為の奥山
(ういのおくやま)」をこえてのち「浅き夢」を見なくなる。そんなふうに気長に考えるべき大きな文化変化の力を原子力は持っている。焦らずに着実に進めるべきだ。」 (雑誌『公研』2015年6月号参照)
 と。

 日本は、天照大御神の「天壌無窮の御神勅」から始まった、神の国。
 天照大御神は日の大神、太陽神でもある。
 太陽エネルギーは原子核エネルギー。
 地上の万物は太陽エネルギー、すなわち原子核エネルギーによって生かされている。
 だから、日本人は日子(ひこ=天照大御神の息子)、日女(ひめ=天照大御神の娘)と称した。
 その太陽エネルギー、原子核エネルギーを、神の恩寵により地上で生み出させていただくのが原子力。それは神の愛の賜であるから、拝んで、神に感謝して大切に使わせて頂かねばならぬ。

 そして、憲法問題もまた、急(せ)いて現行「日本国憲法」と称する偽憲法を部分的に手直しすることにより占領憲法の根本精神(歴史・伝統を否定、日本弱体化のための3原則「国民主権」「人権尊重」「平和<軍備抛棄>」)を容認してしまうような中途半端なことをしてはならない。あと30年かかろうとも(今年は戦後70年だから100年まであと30年)、天孫降臨・天壌無窮の御神勅を元とし、天津日嗣スメラミコトを中心とする神の国の正統憲法 「大日本帝国憲法」 復元改正をこそ実現すべきだ。

 ――それこそが、本当に 「神・自然・人間が大調和した新しい文化・文明の創造」 になるのではないか――と、私はそう思いました。

  (2015.7.9)
2 原子力を生かした新しい文化創造のために (1)


 有馬朗人
(ありま あきと) 元文部大臣 元東大総長が、「原子力の安全と利用を促進する会」 会長として、

 「福島を復興しながら、原子力の安全性を確保し再利用を進めたい」

 と題し、次のように言われています。

≪ ……寺田寅彦は 「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、 正当にこわがることはなかなかむつかしい」 と言っている。英知を絞って科学技術を伸ばし、世界と日本のエネルギー事情を克服していくため、「原子力を正しくこわがるように説得していきたい」。≫

 と。

 「原子力を正しくこわがる」 とは、どういうことでしょうか。

 有馬氏に聞いてみたいと思いますが、私は自分なりに、次のように思いました。

 #1 に書きましたように、それは――

 太陽エネルギーは原子力エネルギー。
 地上の万物は太陽エネルギー、すなわち原子力エネルギーによって生かされている。植物は太陽光エネルギーによって二酸化炭素を酸素と炭水化物にする「光合成」を行い、成育する。動物は、人間を含め、基本的にその植物を食して生かされている。

 日本は、「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわ)まりなかるべし。」 という御神勅から始まった国。

  イネ(稲)は、天照大御神から賜った 「命の根」 で、神の賜だとして古来、実った稲穂のお初穂はまず神に捧げて感謝する 「神嘗祭
(かんなめさい)」 を、伊勢神宮および宮中で 「大祭」 として行ってきた。(旧暦では9月17日、明治に新暦になってからは10月17日)

 さらに11月23日には、「新嘗祭
(にいなめさい)」 が行われ、収穫した新穀を天照大御神に捧げてそのお下がりを天皇陛下が召し上がることによって天照大御神の御生命をいただき、天津日嗣(あまつひつぎ)として更新新生される、重大な大祭、大マツリゴトが行われる。

 国民は、新嘗祭が終わるまでは新米を食べないという伝統があったのです。


 さて人間は、太陽エネルギーによて育った植物を食べて命をつなぐだけでなく、産業革命以来、石炭・石油などの化石エネルギーによって驚異的経済発展を遂げてきた。その化石エネルギーも、もとはと言えば太陽エネルギーである。

 その太陽エネルギー、原子核エネルギーを、神の恩寵により直接地上で生み出させ
ていただくのが原子力発電。それはやはり神の愛による賜であるから、神に感謝し、畏れ慎んで拝んで大切に使わせて頂かねばならぬ。イネを神の賜なる命の根として感謝祭をしてから戴いてきたように、原子力もまた神の賜だから、発電に成功したらまず神に感謝の御祭りをして、畏れ謹んで使わせて頂く――それが 「原子力を正しくこわがる」 ことではないか、と思いました。

 絶対善なる愛なる神は、悪を造り給わない。原子核エネルギーも、神の愛の賜である。その核エネルギーに伴う放射線を「絶対悪」のようにこわがるというのは、正しいこわがり方ではなく、神に対する不信・冒涜ではないか。

 <つづく>

  (2015.7.11)
3 原子力を生かした新しい文化創造のために (2)


 東京大学教授の鷲谷いずみ氏が、「イモガイ類の多様性と有用性」 と題して、日経新聞 「明日への話題」 欄に、次のように書かれていたことがありました(2012年)。

 ≪フィールドワークを始めるとき、まず知っておかなければならないことの一つが「野外の危険な生物」だ。海の危険な生物のうち、もっとも恐れられているのがイモガイ類である。

 (中略)イモガイ類の中にはどう猛な肉食で、猛毒をもつモリの如き器官で魚や貝をつき殺して食べるものもいる。しかし、「毒と薬は紙一重」 という諺のとおり、その毒は、医療の現場で役立つものが少なくない。

 モルヒネの1000倍もの痛み止めの効力があるのに習慣性の少ないジコノタイドなど、すでに医療現場で利用されているものもある。イモガイ属だけでも、5万種類もの薬として利用できる可能性のある化学物質が存在するという推定もある。

 有用な薬の宝庫と目されるイモガイ類だが、サンゴ礁の世界的な環境悪化のため、その人類にとっての有用性を確認する間もなく、相当数の未発見種を含む多くの種が絶滅してしまう可能性が懸念されている。≫


 と。

 イモガイは 「危険な生物」 として最も恐れられている、猛毒を持つ貝だが、その毒が、使い方によっては(適量では)貴重な薬になるのだという。

 これは、「ホルミシス効果」 と称ばれているもので、原子核反応から出る放射線も、強すぎれば死に到ることもあるけれども、適量ならば生物の健康にプラスの効果をもたらす、というのが 「放射線ホルミシス効果」 である。「ホルミシス」とは「ホルモン」と語源をおなじくする、「活性化」という意味からきている。

 自然界にはあらゆるところに放射線が存在する。その放射線は、実は地球上の生物、人間にとって不可欠のものである。

 米国のT.D.ラッキー博士
 ――1941年コロラド州立大学(化学)、ウイスコンシン大学で理学修士(生化学)、ノートルダム大学助教授、准教授(1946-1954)、ミズーリ大学生化学主任教授(1954-1968)、退職により名誉教授号を授与される。NASAのアポロ計画に協力し、地上の数百倍の宇宙放射線環境内での安全性を追求する中で、適度の放射線被曝は「人体に恩恵をもたらす」ことを発見し、「放射線ホルミシス効果」と名付けて世界に発表した。――

 ラッキー博士は、2011年の6月1日にアメリカで発行された、“Journal of American Physicians and Surgeons”という医学雑誌に、「電離放射線の生物学的効果-日本に贈る一視点」という論文を寄稿した。その冒頭で博士は「世界のメディアの大半が放射線は全て有害であると思い込んでいる。もし、日本政府が2011年3月の地震と津波がもたらした福島原発事故への対応にあたってこうした思い込みに支配されるなら、既に苦境にあえぐ日本経済が途方もない無用な失費に打ちのめされることになろう」と書いている。

 「高線量放射線は人体に害があることは当然だが、それが少なくなるに従って、害の程度が減ずる」 とわれわれが考えているのとは異なり、或る値(これを閾<しきい>値と言う)以下になると却って人体の健康に良い影響を与える、という事実があるのである。これを博士は 「放射線ホルミシス効果」 と呼んでいる。

 ではどのくらいの線量からよい影響が出るのか、という点に関しては、ラッキー博士は膨大な研究論文、自身の実験などの結果から、100ミリシーベルト/年が最も健康に良い線量レベルであると述べている。

 上記ラッキー博士の論文を中心に紹介した本(2011年8月初版) 『放射能を怖がるな! ラッキー博士の日本への贈り物』 の翻訳解説者 茂木弘道氏は、1970年に岡、矢野弘典などと共に 「東京大学生長の家学生会」 を立ち上げた時の同志、後輩です(東大経済学部卒)。

 <つづく>

  (2015.7.12)
4 原子力を生かした新しい文化創造のために (3)


 『何処へ行く?「生長の家」』の、総裁への公開質問(3)およびこの欄の #1「原子力を生かした新しい文化創造には百年の準備期間が要る」でご紹介しました、日本原子力界の第一人者と言われている石川迪夫
(みちお)氏が、昨日7月13日から茨城県の日立シビックセンター音楽ホールで3日間にわたって開かれている 「日本保全学会 第12回学術講演会」 初日の特別企画 「廃炉への取組―原子力利用と環境―」 で特別講演をするというので、聴きに行きました。

 石川氏は 「福島事故が教える 間違いだらけの原子力常識」 という演題で熱弁をふるっていました。
 石川氏は、『電気新聞』 の 「ウェーブ」 という時評欄に、今年1月以来 「許し難いNHK原子力報道」 という題で3度にわたり書いています。

 まず第1回目に、

       ************

 「知られざる大量放出」。昨年12月21日放映されたNHKスペシャルの題名だ。独自の取材と科学的検証を積み重ねて、これまでの常識を覆す真実と、番組説明で自負した放映だったが。

 結論を先に言えば、「嘘をまぶして、ペテンでこねて、でっち上げたがこの番組」とのチョボクレが、昔の瓦版売りなら出る内容だ。

 この放映に、福島も含め全国に怒りのメールが飛び交い、暮れも迫った30日、急遽集まった人数は、マスコミも含めて約20人。

 番組冒頭のナレーションは、福島事故の放射能放出は、最初の4日間とされてきたが、今回新たなデータを解析したところ、3月15日以降2週間にわたり全体の75%が放出されていた。その原因は原発の構造的欠陥にある、と言う。

 だが、これが嘘の始まりだ。15日以降の大量放出は、早くから東電報告に有り、原子力学会の事故調報告書にも書いてある。知らぬはNHK一人、調査もせずに「知られざる真実」とは、厚顔だ。

 第2の嘘は、この大量放出原因が、15日昼から午後9時頃までの3号機のベントにあるとする下りだ。実際の大量放出時刻は15日午前6時と16日午前0時で、NHKがいう時間帯ではない。

 映像では「3月15日午後4時3号機中央制御室」と表示し、「ベントAO弁開」との音声が続く。さらに「正門付近の放射線量が上昇、23時30分現在、80、80マイクロシーベルト」と本部員に叫ばせる。

 これが正しければ、排気筒からの放出放射能は、半日近くも測定されずに雲隠れしていた事となる。子供でも気付く間違いだ。

 第3の嘘は、この放射能が全体放出の10%を占め、ヨウ素137が主体の3号機からの放出とし、学生実験を絡めて「知られざる新事実」として報道する部分だ。

 …(中略)… だが一般視聴者に、この作為は見破れないから、映像は真実と映る。さらに局の女性アナウンサーが「今頃になって(新たに)分かることがこんなに多いとは、安全をどう考えたら良いのか」と、さも不安げに追従を入れて、視聴者の原子力不信を煽る。

 許し難いのは、15日の現場再現映像の過剰演出だ。「原子炉水位、燃料頂部マイナス2300」と聞いて、燃料が露出したと全員が驚愕、狼狽するシーンが出る。だが、これは間違いだ。3号機の水位は、13日昼頃の炉心溶融以降、変化していない。こんな誤った映像を「真実」の名で放映し、必死で放射線作業を続けた運転員達の心を傷つける。

 不愉快なのは、拙著『考証 福島原子力事故』の内容を無断でつまみ食いしている点だ。「これはぱくり」だとは、多数の見解だ。作品を使用して貰うのは、嬉しいことだが、無断使用や誤用には腹が立つ。世の見解を二分する原子力問題について、公共放送の報道姿勢が、これで良いのであろうか。


       ************

 このNHKの報道に対して、100人を超す専門家たちが署名してNHKに抗議文を提出したが、NHKから来た回答は論旨のすり替えで指摘をはぐらかし、文面こそ丁寧なものだが抗議を全面否定する、許し難いものだったという。

 今日の日経新聞夕刊 「こころの玉手箱」 欄に、音楽プロデューサーの酒井政利氏が 「天井桟敷のLP」 と題して書いていました。

≪ 私は一貫して言葉を大切にしてきた。……寺山さんが作詞した「時には母のない子のように」を天井桟敷にいた17歳のカルメン・マキが歌った。69年にCBS・ソニーから発売したら、会社初のミリオンセラーになった。

 「酒井さん、作り物はだめだ。すぐに見抜かれる」が寺山さんの口癖だった。曲に波の音を入れることになっても、ソニーにある波の効果音は使わない。私たちが湘南の海まで1日がかりで録音に出かけた。

 今もこのLPを手に取ると、寺山さんの声が脳裏に響く。「作り物はだめだ」。私のプロデュースに影響を与えた金言である。≫


 と。

 実は、昨日の講演会には、石川氏の本を出したいという一出版社の社長も一緒に聴きに行ったのでしたが、“作り物”でない、本物をあらわした本を作れば、「至誠天に通ず」できっと本も売れるであろう。私も、まだまだわからないことが多いので、本当のことをしっかりと勉強して行きたいと思います。

 <つづく>

  (2015.7.14)
5 原子力を生かした新しい文化創造のために(4)


 「私は 『次世代への決断 宗教者が“原発活用”を決めた理由』 というような論文を書いてみたいと思っています」 と、昨日私は書いたのでしたが、その日届いた生長の家の普及誌 『いのちの環』 65号(8月号)には、「リレーエッセイ 脱原発」(24)として、矢野俊一本部講師が書かれたページがありました。まずこれを読んで、とても気になったこと、これはいけないと思ったことを書きます。

 まず、国民総幸福量世界一とも言われる 「雷龍の国ブータン」 の話が語られています。(抜粋)

 
≪息子の一人がしきりに、「ブータンに行きたい」と話していた。彼によれば、ブータン国民に、「あなたは幸せですか?」と問いかけると、ほとんどの人が「あなたが幸せなら、私も幸せです」と答えるそうだ。また、ブータン国王の国民に対する誠実さと優しさが、政策にも現れている点が魅力だという。

 ……国王がいかに誠実に国民と向き合っているかが感じられるエピソードがある。それは、即位直後から王は、ブータン全土へ行幸したが、それ以来、「雷龍王の足跡がない村はない」と言われているほどという。

 「海抜200m前後のインド国境を覆う熱帯ジャングルから、7000m級のヒマラヤ巨峰が連なる中国国境まで、直線距離ではわずか200キロを無数の激流が貫き、国土は波打つ急階段の連続。車道に頼れる安易な旅ではない。酸素の薄い大気にあえぎ、雨期には蛭に血を吸われ、蚊や蚤、風に悩みながら、野宿を強いて歩き続けた。

 一人でも多くの民の心を聴こうと訪れる王の謙虚な姿に打たれ、民は胸を開いて語った」(西水美恵子著『あなたの中のリーダーへ』より)

 翻って我が国はどうだろう? 日本政府は国民に対して誠実だろうか。残念ながら現状は違うようである。≫


 ――ブータンを賛美することはよいです。しかし日本には、ブータン国王どころではない、比較にならぬ3000年の歴史と伝統を持つ尊い皇室、天皇陛下のご存在があることを、なぜ言われないのでしょうか。

 戦後日本復興の精神的原動力となった昭和天皇の3万3千キロに及ぶ全国ご巡幸―― 「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」という占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。そうして繰り広げられた感動のエピソードは、枚挙にいとまがない。

 私たちがいま生かされているのは、まさに天皇陛下のご一身をなげうっての大愛のお蔭ではないか。矢野さんはそのことを息子さんに伝えられておられるとは思いますが、日本人としてこういう事実をよく知らない若い人たちにもっともっと伝え、次世代に残すことこそ、「皇恩に感謝せよ」と説く生長の家の生き方で根本的な大切なことではないですか。

 幸福は外にはない。わが内にあるのである。感謝する心にあるのである。ブータンは幸福度世界一の国だというから、ブータンに行けば幸福のお裾分けでももらえるかと、日本青年がブータンを訪ねてみたら、全然ヒドイ国だった、という笑えない笑い話みたいなことも聞いています。

 安部総理は、潰瘍性大腸炎という難病をかかえながら、一身をなげうつ気持で誠実に日本のために働いてくれていると私は思います。そういうことにも感謝せず、自国の悪口ばかり言っていていいのか。それが日時計主義なのですか、と問いたい。

 原発の問題について矢野氏は、次のようにおっしゃる。

 
≪原子力発電の安全神話はすでに崩壊しているにもかかわらず、政府の原発推進派は、未だに「CO2を出さない原発は地球温暖化を防止する」と喧伝する。しかし実際は、原子炉を稼働(原発の建造やウランの製錬・加工など)させるためには、膨大な量の二酸化炭素を排出する化石燃料が必要なのである。≫

 ――「膨大な量の二酸化炭素」 といわれるけれども、それは、太陽光パネル製造やメガソーラー建設に比べたら、出力エネルギー量当りはるかに少ない量の二酸化炭素なのではないか。≪何処へ行く?「生長の家」≫の第二部[質問3]で引用紹介させて頂いた藤沢数希著 『「反原発」の不都合な真実』 にはそのことをデータを明らかにして述べられています。

 矢野氏はさらに、

 
≪また、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏は、著書 『子どもたちに伝えたい 原発が許されない理由』 の中で、原発が海を直接温める問題について言及している。

 原発の仕組みでは、発電器のタービンを回すために高温の水蒸気を発生させるが、その熱エネルギーは、電気エネルギーに変わる段階で3分の1になり、残りは、冷却用に引き込まれた海水を温めて海に捨てられる。しかも、海水は、海に戻される時点で7℃も水温が上がっているという。それが、百万キロワットの原発では、1秒間に約70トンも流される。そうした規模の原発が日本には20基以上あるから、海水温度の上昇が進み、近海の生態系に悪影響を与えるのは推して知るべしだろう。≫


 とおっしゃっていますが、そういうことがあるならば、小出氏は原子炉実験所の助教であれば、エネルギー変換効率を高めて、そんなに海水を温めることなく運転できるよう、技術革新を進めるのが使命なのではないかと私は思うのですが、なぜそれをしないで「原発が許されない理由」などといって使命を放棄されるのでしょうか。わかりません。

≪ 「あなたが幸せなら、私も幸せです」
 自然にも未来を生きる人々にも、そう言える自分でありたいと思う。≫


 と矢野氏はおっしゃる。私も、そう思います。ただ、私は原発をも活用しながら、真理を伝えひろめ、皇恩・国恩に感謝してヒノモトの実相顕現に生きることによって、それはできるのだと思います。原子力エネルギー、原発は、愛深き神の賜です。

 <つづく>

  (2015.7.21)
6 原子力を生かした新しい文化創造のために (5)


 昨日は広島原爆被災の日にあたり、谷口雅春先生の「地下核実験は原爆よりもおそろしい」という警告のご文章を掲載させて頂きました。

 「原爆」 の話が出ましたので、ここでまた 「原発」 の課題を考えましょう。

 「原爆」 と 「原発」 は、(特に福島原発の建屋が爆発してから) 似たもののように思われてしまうところがありますが、「原子爆弾」と「原子力発電」とでは、前者は原子力エネルギーをマイナスの「破壊」のために使うものであり、後者はプラスの「創造」のために使うという、正反対の使い方をするものでありますね。

 しかも、福島原発の建屋は核分裂による爆発を起こしたのではなく、水素の化学反応による爆発を起こしたのだ。原子力は人間の手に負えないものではなく、完全にコントロールされていた。NHKはウソの報道で国民を欺き、まちがった原子力不信をあおっている。(#4)

 このところ私が注目し、先に紹介させて頂いた馬渕睦夫氏も、「原子力発電はいわば核爆弾でもある」 「原子力発電は、自然との共生を宗とするわが国の国体とは合わない技術である」 と言われています(『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力』)が、これだけは素直に頂けません。反論を書きたいと思います。

 「核分裂反応の結果、地球や生物に有害な放射性物質が作り出される」 とも言われるが、放射線は必ずしも有害ではない、いや低線量の放射線はかえって健康に良いのだということは、#3 で書いた通りです。

 しかも、科学技術は日進月歩するものであり、現在はまだまだ技術革新の途上にあります。

 「原子力はこれからも大きなイノベーションが起こる可能性があります。現在の軽水炉は、核エネルギーの持つ潜在的な力のほんのわずかしか引き出せていないからです。第3世代軽水炉・高速増殖炉・トリウム原子炉・核融合炉など、まだまだイノベーションの余地が多く残されているといえるでしょう。」

 と、私は藤沢数希氏の『「反原発」の不都合な真実』を引いて<何処へ行く? 「生長の家」―総裁への公開質問>の【質問3】に書いていました。

 私は原子力発電の専門家ではありませんが、この中で、「トリウム原子炉」 (トリウム溶融塩炉) というのには格別の関心を持っており、これについて書かれた古川和男氏の 『原発安全革命』 という本(文春新書)を持っています。むずかしい専門的なところは読み飛ばしていましたが――。

 古川和男氏は、「革命的な安全原発」 トリウム溶融塩炉の研究開発に生涯を捧げられた人(1927年大分県生まれ、2011年12月14日 85歳で没)。

 「トリウム溶融塩炉」 は、核燃料にウランを使用せず、トリウムを使う。そうするとプルトニウムが生成されないので、核兵器製造につながることがなく、 (1)安全性 (2)経済性 (3)小型化できる ――の三つの面で、いまの原発に比べ、はるかにすぐれているといわれる。

 私はここで、トリウム原発がウラン原発よりも優れている所以を技術的な面から勉強する前に、古川和男氏の宗教的とも思える「科学精神」に触れたいと思います。

 古川氏は、科学者・技術者・探検家としても有名な西堀榮三郎氏――日本原子力研究所理事や日本生産性本部理事も務めた――を最も大切な先輩として仰いでいた。その西堀氏が書かれた「技士道」15ヵ条というのを『原発安全革命』のあとがきに記されている。それは――

≪一 技術に携わる者は、「大自然」の法則に背いては何もできないことを認識する。
 二 技術に携わる者は、感謝して自然の恵みを受ける。
 三 技術に携わる者は、人倫に背く目的には毅然とした態度で臨み、いかなることがあっても屈してはならない。
 四 技術に携わる者は、「良心」の養育に努める。
 五 技術に携わる者は、常に顧客志向であらねばならない。
 六 技術に携わる者は、常に注意深く、微かな異変、差異をも見逃さない。
 七 技術に携わる者は、創造性、とくに独創性を尊び、科学・技術の全分野に注目する。
 八 技術に携わる者は、論理的、唯物論的になりやすい傾向を戒め、精神的向上に励む。
 九 技術に携わる者は、「仁」の精神で他の技術に携わる者を尊重し、相互援助する。
 十 技術に携わる者は、強い「仕事愛」をもって、骨身を惜しまず、取り越し苦労をせず、困難を克服することを喜びとする。
 十一 技術に携わる者は、責任転嫁を許さない。
 十二 技術に携わる者は、企業の発展において技術がいかに大切であるかを認識し、経済への影響を考える。
 十三 技術に携わる者は、失敗を恐れず、常に楽観的見地で未来を考える。
 十四 技術に携わる者は、技術の結果が未来社会や子々孫々にいかに影響を及ぼすか、公害、安全、資源などから洞察、予見する。
 十五 技術に携わる者は、勇気をもち、常に新しい技術の開発に精進する。≫


 というのでありました。

 <つづく>

  (2015.8.7)
7 原子力を生かした新しい文化創造のために (6)


 「原子力は、人類の未来の生活を左右する、大きな使命を持っている文化である。
 新しい文化の受け入れには、必ず反対者が出てくるのが人間世界の歴史である。
 たとえば日本にとっての具体例は、仏教の伝来と定着。日本に仏教が入ってきてから皇室に認められるまでに百年かかっている。

 原子力平和利用の歴史はまだ50年あまりだ。仏教が定着した時間の半分しかたっていない。原子力は大きな文化変化の力を持っている。焦らずに着実に進めるべきだ。」

 と、原子力界の重鎮と言われる石川迪夫(みちお)氏はいう。(#1

 それにはぜひとも、ウランを使わないトリウム原発による「原発安全革命」の推進を考えて頂きたいと思います。

 「トリウム溶融塩炉」 は、核燃料にウランを使用せず、トリウムを使う。そうするとプルトニウムがほとんど生成されないので、核兵器製造につながることがなく、 (1)安全性 (2)経済性 (3)小型化できる ――の三つの面で、いまの原発に比べ、はるかにすぐれているといわれる。

 2011年3月11日、世界観測史上4番目といわれるマグニチュード9.0の大地震が東日本一帯を襲い、福島第一原発では、遅れて襲来した大津波に冷却のための電源をすべて奪われ、核燃料自体が発する高い崩壊熱で燃料棒が熔融し、水素爆発(化学反応)で建屋の屋根が吹き飛んだ結果、格納容器から漏れ出た大量の放射性物質が、周辺地域を汚染した。

 「トリウム熔融塩炉」 という炉を中心としたシステムであれば、原理的にこんな事故は起こりえない、と 古川和男氏 は言われる。

 以下、古川和男著 『原発安全革命』(文春新書)の「はじめに」より、ポイントを抜粋させて頂きます。

          ○

 これからの原子力発電は、まずなにより安全でなければならない。
 安全である上に、経済性がなければいけない。発電効率が良く、安価で、しかも、今後ますます増大する世界のエネルギー需要に応じられるだけの供給力を持っていなければいけない。
 その二つのハードルをともにクリアするものとして、「トリウム熔融塩炉」 がある。
 これが「原発革命」の「革命」たるゆえんは、次の三点にまとめうる。

   トリウム原発 三つのポイント

 第一に、これまでの固体燃料を液体燃料に代える。今の原発では、被覆管の中に密閉された固体核燃料を燃やしている。これを液体に代えることにより、安全性が飛躍的に高まる。

 第二に、今のウラン燃料をトリウム燃料に代える。現在の原発はウラン235の核分裂により発生する熱を利用しているが、このウラン235に代えて、それより少し質量の軽いトリウムという物質を燃料にする(ウランは原子番号92、トリウムは原子番号90の金属元素)。

 第三に、原発自体を小型にする。今の原発は発電規模100万キロワット以上の大型施設が主流だが、これを20~30万キロワット程度の小型のものに代える。

 この三つの変革がなぜ「革命」なのか、どういうメリットをもたらすのかについての詳しい解説は 『原発安全革命』 本文を読んでいただくとして、ごく大雑把にその意義を、安全性と経済性の両面から素描すると――

 まずは、安全性について。

 福島第一原発の事故以来、一般の人々の原発に向ける目は厳しくなった。
 が、稼働していた原発がすべて、すぐにストップしなければいけないほど危険な状態にあったわけではない。安全性に最大限配慮し、緊張感を持った厳しい危機管理体制を築くことができれば、今回のような過酷な事故は防ぎえよう。

 ただし、それでも潜在的な危険はある。原発の設計思想そのものに無理があるから。
 無理というのは、まず「固体燃料」にある。

 そもそも核エネルギー炉は「化学プラント」であり、したがって燃料の形態は液体であるべきなのである。このことは核化学反応の本質に係わること。ところが、現実の炉の設計は、開発初期のある時点で違った選択が行なわれた。液体ではなく、固体燃料が選ばれたのである。

 火力発電所は石炭や石油を燃やした熱で水を沸かし、その熱水からの水蒸気でタービンを回すことで発電をしているが、今の主流の軽水炉は、その石炭や石油を核燃料に代えたものといえる。つまり「火力発電所の原理」でつくられていて、「核エネルギー発電所の原理」には反している。

 その結果、軽水炉においては核燃料は被覆管に密封され、その周囲を水が循環する方式となったが、この方式では核燃料や被覆管は、核反応や放射線の影響で変質・破損・熔融し事故原因となることが多い。

 また、反応により発生するガスが被覆管内部に密封され高圧となって、管の破損時に外部にガスが噴き出す危険を生む。さらに、水は放射線で分解され、爆発の危険性のある水素を発生する。高温高圧となる水による材料の腐蝕も難問である。こうしたもろもろの不都合を抑えこむために、炉の構造は各種の安全装置やモニター機器類を装着して複雑となり、それだけ保守・点検が大変になる。

 そこに貫かれているのは「合理性をもった技術の原理」ではなく、「多重防護という無理筋対応」である(こうした不都合が極限となって重なったのが福島の事故であった)。

 「化学プラント」は液体が正道なのである。核燃料が液体であれば、今述べた技術的難点のほとんどは解決できる。そして決定的に安全性が向上する。炉の構造もシンプルなものとなり、保守・点検が容易になるだけでなく、ロボットなどを利用した遠隔管理や修理作業も実現でき、作業上の被曝も最小限に避けられる。

 仮に東日本大震災クラスの大地震と大津波が襲ったとしても、トリウム熔融塩炉であれば、充分に対処できる。

 この炉では、核分裂連鎖反応を止めるのは容易なので(反応のコントロールが容易なのが液体燃料の大きな利点のひとつである)、通常の緊急時は、すぐに反応を止め、そのまま炉内で核燃料(核燃料を溶かし込んだ熔融塩)を安全に冷却することができる。

 大地震・大津波などの非常時には、核燃料を炉の下部から地下の冷却水プール内のタンクに落とす。そうすると、連鎖反応は自然にストップする。炉で連鎖反応が起こるのは、そこに中性子を減速させる黒鉛があるからで、核燃料が冷却水。プールに落ちれば、燃料のまわりに黒鉛がなくなり、したがって中性子も減速されず、臨界が起こらないのである。

 核燃料熔融塩は、連鎖反応が終わったあとも崩壊熱を出す(この崩壊熱で福島原発は大変な辛苦を味わっている)が、地下に落ち、冷却水(ホウ酸水)で急速に冷やされると安定したガラス固化体になり、後は自然に冷めてゆく。「崩壊熱による暴走」を心配する必要は原理的にない。

 万一、核燃料の一部が、地下の冷却水プールではなく、なんらかの事故で炉から漏れ出たとしても、炉外に黒鉛がない以上再臨界になることはなく、空気で徐々に冷却され、ガラス固化体となるのみである。

 核反応により発生する放射性ガスは、常時除去されていて、常に炉の中に微量しか存在せず、漏れ出す心配をすることはない。また、核燃料塩は水に溶けないので、燃料塩中の放射性物質が、水に溶けて外部に流出する「汚染水流出」の危険もまずない。

 福島原発では大津波による「非常電源全喪失」が「崩壊熱の暴走」という大惨事を引き起こしたのであるが、この炉では万一「非常電源全喪失」が起こっても、そんな心配はいらない。炉の下部の緊急バルブ(落下弁)が自動的に開き、燃料塩をすべて前述した地下の冷却水プール内のタンクに落とし、ガラス状に固化させる仕組みになっているからである。緊急バルブは、運転時は冷却して凍らせているが、冷却をやめると融けて開くので、電気は不要である。

 このように、「核分裂連鎖反応を止める」「核燃料の崩壊熱を冷ます」「放射性物質を閉じ込める」というすべての面で、原理的にきわめて安全なのである。

 安全面の話を別の方角からすると、燃料をトリウムとする点にある。

 すでに広く知られているように、ウラン235の核分裂により、プルトニウムが生まれる。核爆弾の材料となるきわめて危険な放射性物質だが、現状では世界中がその処分に困っている。原発が稼働すればするだけ、プルトニウムの山ができる。

 トリウムを燃料とすれば、プルトニウムはほとんど生まれない。それどころか、「トリウム熔融塩炉」でなら、プルトニウムも炉内で有効に燃やせる。プルトニウムの消滅に一役買えるのである。

 トリウムは自然界に存在する物質の中でウランに次いで重いもので、中性子を吸収することで核分裂性のウラン233となる。この生成されたウラン233を「火種」にして、連鎖反応を引き起こさせるわけである。

 幸いなことに、トリウムは世界中にある。埋蔵量も充分だ。ウランのように偏在していると、寡占国による政治支配を生むが、トリウムにはそんな心配はない。

 しかも核兵器への利用がとても難しい。難しいから、核冷戦時代にトリウムが不当に無視されてきたともいえる。ウランからトリウムへの変換は、ウランとプルトニウムがもたらしてきた核兵器の脅威からの解放をも意味する。

    世界中にエネルギーを

 今度は経済面に話を向けよう。
 福島第一原発の事故があってから、「原発はすべてやめてしまおう」という声が強まっているようだ。あれだけの災害をもたらしたのだから、そういう声が強まるのも、ある意味、理解できなくはない。

 しかし、冷静に考えていただきたい。平常時で、日本の発電量の約30パーセントは原子力発電に支えられていた。電力需要が最低となる正月に至っては、じつに90パーセントが原発からの電力だった(2001年のデータ)。2011年の春、東京電力が実施した計画停電ですら、市民生活はもちろん、産業界に多大な影響を及ぼした。この現状で原発をすべて止めたままなら、間違いなく日本の社会は立ち行かなくなるであろう。

 これからは太陽光発電や風力発電を活用すべきだ、という声もある。しかし、それらの実力たるや、とても原発と置き換わるほどのものではない。よほどの技術的な大革新がなければ、当面のエネルギーとしては、間に合わないのが現実である。

 一方で、石油・石炭などの化石燃料は、二酸化炭素排出問題や化学汚染で先行きがない。
 結論として、現状の原発を最大限の注意を払って安全に運用し、次の手段を急ぎ準備するほか、現実的な手立てはないのである。

 だからこそ、トリウム熔融塩炉を提案しているのである。急いでトリウム熔融塩炉による発電システムを構築し、既存の原発と置き換えなければならない。

 トリウム熔融塩炉は、経済性においても既存の原発にはるかに勝っている。

 固体の燃料棒は、燃焼効率の面でも不経済なのである。燃料体も被覆管も放射線により損傷を受け、変型・変質してしまうが、それらを修復したり「燃えカス」の核分裂生成物を除去したりするには、一旦燃料棒を取り出し、溶解抽出などの化学処理を加える必要がある。燃料は反応が進むにつれ劣化してゆくので、半分しか燃えていないのに1、2年ごとに燃料棒を引き出し、位置換えや交換をしなければいけない。

 こうしたさまざまな理由から、必然的に反応効率は悪いのである(それでも固体燃料の現方式が普及したのは、液体燃料より効率が悪くとも、石油などに比べれば、桁違いのエネルギーが得られるからである。核燃料の消費量は、発生熱量あたりで化石燃料の100万分の1に過ぎない)。

 トリウム熔融塩炉では、炉が寿命を迎えるときまで燃料は全く取り替えず、トリウムなどを追加するのみで、初めに装荷した火種のウラン233の約5倍量を、連続的に核分裂させ燃焼させることができる。燃焼率は500パーセントといってよい(固体燃料炉では、核燃料を装荷してから取り出すまでの1回の燃焼率は数十パーセントに過ぎない)。

 固体燃料体の製作・検査・輸送・燃焼・化学処理・再製作などの作業量は膨大だが、トリウム熔融塩ではそれらを大幅に簡略化できることも、経済性の改善に大きく寄与する。

 需要に応じて出力を変える(これを負荷追随という)という点で、トリウム熔融塩炉は非常に使いやすい。現状の原発は、負荷に対応して出力を変えると、固体燃料内部の温度分布が激しく変化し、それによって材質が劣化して燃料の耐久寿命が短くなる。

 それで今の原発は、負荷追随させたくなく、また、早い再起動が困難だから極力止めたくなく、投下資本が高額で低出力では利子が高くなるから、なるべく全力運転を続けたいがために、もっぱらペースロード(基本の負荷を請け負う)発電所として使われているのである。つまり、柔軟性に欠けた、あまり使い勝手のよいものではないのである。

 本来、送電ロスを考えれば、発電所は需要地の近くに置くべきものなのだが、安全性を地域住民に納得してもらう困難、高額な資本の投下などから、今の原発は都市を遠く離れた僻地に、大型施設として集中して造られているのである。

 トリウム熔融塩炉は小型にする。そうすれば、需要地である都市や工業地域の近郊に設置でき、送電ロスを大幅に減らせる。需要地ごとに分散するには小型であるほうが便利である。安全性の面でも納得してもらえる。構造・運転保守が単純で、大型化の利益がない。

 そしてなにより、小型化することで、全世界へのエネルギー供給に寄与できるのである。

 今、エネルギーを切実に必要としているのは、多くの発展途上国である。加えて、世界の人口は爆発的に増加している。今後、人類が必要とするであろうエネルギー量は、現在の比ではないと予想される。しかし、先進国はともかく、他のほとんどの国では、大型の原発は割高で、多数の小型炉を必要としている。その需要に、小型のトリウム熔融塩炉は応え得るのである。

    今こそ新しい原発を

 このトリウム熔融塩炉構想は、なにも私(古川和男氏)の独創ではない。1960、70年代におけるアメリカ・オークリッジ国立研究所での実証的研究を初め、先人たちの膨大な研究の積み重ねがあって生まれたものである。オークリッジ研での基礎研究開発は、驚くほどわずかな資金と人員で整えられた。いかにこの原理が単純で優れているかの証拠である。

 しかし、残念なことに、東西核冷戦下、不当にも無視され、忘れ去られ、今に至っている。

 今からでも遅くない。今こそ発想を転換し、新しい原発を造るときだ。21世紀の人類のために――。

 <以上、古川和男 『原発安全革命』(文春新書) 「はじめに」 より抜粋>

 <つづく>

  (2015.8.8)
8 長崎原爆の日に思う


 今日8月9日は、長崎に原爆が投下されてから70年目の日。

 私は、プロフィール(自己紹介)で「興味のあること」として書いていた

 
≪佐々木基之先生(1901-1994)が、神に導かれてふとひらめき実証された「分離唱」という方法により、澄み切った美しいハーモニーでコーラスをすること。……そして、いろいろな宗教宗派が、きれいなハーモニーで合奏するように一つに結ばれ調和した世界を実現すること。≫

 ――今日もその「分離唱」による音感合唱のつどいに参加し、ハーモニーの感動を味わいました。その中で、とりわけありがたく心をこめて歌えたのは、讃美歌531番「こころの緒琴
(おごと)に」です。その歌詞は――

 1.こころの緒琴に み歌のかよえば
   しらべに合わせて いざ ほめ歌わん。
   
(おりかえし)
   
(ああ) 平和よ くしき平和よ
   み神のたまえる くしき平和よ。

 2.天
(あめ)よりくだれる きよけき平和は
   まどえる心の 固きいしずえ。
   (おりかえし)
   
(ああ) 平和よ くしき平和よ
   み神のたまえる くしき平和よ。


 というのであります。 ⇒合唱

 この 「み神のたまえる くしき平和」、「よりくだれる きよけき平和」 というのは、「久遠の今」 なる実相世界にいま座しているのだという心の平和だ、と思って力強く歌わせていただきました。

 そして、「みこころの天に成るがごとく、地にも成らせ給え」 と心に祈りました。

 昭和27~28年、東大駒場寮で2年間寮生活を共にしながらグラウンドホッケーをやっていた同期生仲間が、半年に1回くらい集まって食事会をし、情報交換などしているのですが、その仲間の一人 K君は昭和20年8月6日、広島の爆心地から数キロのところにいたが、今も健在です。そのK君と、同期生で原発の専門家 石川迪夫君とが今日メールでやりとりしたのを私にも転送してくれました。ちょっとご披露します。

 K君いわく。<今日は長崎の日です。当時の永井隆教授(長崎医大)の著書の一節に放射能の影響の部分があり、ここに動植物が元気良く再生しているくだりがある。石川がチェルノブイリの事故後の廃墟に鼠がたくさん繁殖している例を書いていた記憶があるので、参考迄に。当時も「動物は75年生存不可能」説が流布された。いま日本で、根拠の無い妄想の宣伝で政治的被害が拡大するのはどうか……?>と。

 石川迪夫いわく。<名前を忘れたが、戦後10年くらいの期間広島市長をつとめた人が、広島での原爆からの復興体験記を「原爆市長」の名前で出版している。本人も原爆症で苦しんだ。記憶だが、原爆で死んでいった人達が口からの血が止まらなかった事から、敗血症と判断し、原爆で焼け跡となった汚染地帯を耕して野菜を作って食べるようよう指示した と言う体験まで書き残しておられる。一読すると良い。君の言うことは正しい。僕もそろそろ言うべきことを言って行くつもりだ。>

 ――原発事故による放射能汚染は天文学的と言ってもよいほど誇張して恐怖をあおるように政治的に宣伝され、無用な避難や除染などが行われているきらいがあるのは問題です。

 しかし今後、もっと安全な、核兵器の廃絶にも貢献できる 「トリウム原発」 に切り替えて行くという選択肢があるのなら、これは大いに考慮すべき道ではないかと、私は素人ながら考えます。

  (2015.8.9)
9 原子力を生かした新しい文化創造のために (7)


 私の尊敬する青年会時代の偉大な先輩 木間敬
(きま・けい)<本年5月帰天>が、下記のように 『理想世界』 昭和51年11月号(岡が同誌編集長時代)に書いて下さった珠玉の論文があります。

≪ 日本の心を求めて(三)――生命のふるさと・まつりの原点――
     木間 敬(『理想世界』昭和51年11月号)

    ひのもとは生命のふるさと

 「日の本の国に生を享けた」ということ、このことに思いを致しますと、何とも譬えようもなく有難く、また身の引締まる思いがして参ります。

 「日の本」は「霊
(ひ)の本」でありまして、全ての「もの」、「こと」の根元であり、此の世の知識・信仰・芸術・制度・慣習、科学技術から日常の衣食住に至るまで、全てのものが三次元の世界に現われる以前の形相(ものを物たらしめる本質)は「霊(ひ)の本」から発して世界各地の民族性を反映して固有の文化を形成します。

 よく「日本には固有の文化がない、全て外国からの輸入物で雑居文化である」といった妄論を聞くことがありますが、文化の本質論として次の事が言えます。

 「宗教・哲学等の価値観の異なる文化圏が接触した場合は、互いに反撥して対立するか、一方が他方を征服して抹殺してしまうかのいずれかである、従って文化を輸入することは出来ない」といった一般原則があります。この原則は古今東西の歴史が証明するところですが、この一般原則に当てはまらないのが日本の国であり日本の文化であります。

 日本文化雑居論者はこの一般原則に照らして雑居すること自体の不思議とそれが単に雑居するだけでなく昇華され融合されて行く事実について研究する必要があります。
 近代の宗教一つを取上げて見ましても、仏教やキリスト教が「日本の生命
(いのち)」に触れた時その本来の姿を現わして「生長の家」という国家的に世界的に完成される宗教に変貌致します。

 要するに「霊
(ひ)の本」から発して世界の各地で個別に華開いた思想や文化が、お里帰りをすると新しい生命に生まれ変るのであります。

 このことは個生命としての人間も同様で、例年8月の旧盆になりますと数キロにわたる自動車道路の渋滞や満員列車をものともせずに、大勢の人達が大都会から故郷へ里帰りをします。故郷へ帰った人達は暖かい人情や土地の霊気に浴して生まれ変ったように元気になって戻って来ます。…(後略)…≫


 ――『いま本当に伝えたい 感動的な「日本」の力』 などの著者 馬渕睦夫氏も、同様なことを前書第三章で詳述しておられます。以下、抜粋要約します。

          ○

 わが国が近代化とアイデンティティーの両立に成功した秘訣は何か。それは日本人が古から持っている「造り変える力」である。

 この言葉は芥川龍之介の短編小説「神々の微笑」の中に出てくる。これは安土桃山時代の日本ヘキリスト教の布教にやって来たイタリア人神父オルガンティノ(実在の人物)と日本を古来守ってきた老人の霊との対話の物語。

 キリスト教が、1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられ、その後も多くの宣教師が来日して、キリスト教の布教に努めたが、困難を極めた。

 悩む日々を過ごしていたオルガンティノの前に一人の老人が現れ、キリストも結局日本では勝つことはできないだろうと告げる。ただ帰依するだけならば何人でもキリスト教徒になるだろう、現に日本人は大部分仏陀の教えに帰依している、と言ってこう付け加える。「我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。だから、いずれキリストも日本人に変わってしまうでしょう」と言い残して、老人はオルガンティノの前から消えていく。

 つまり、キリスト教の神と日本の神神との戦いは、「破壊する力」対「造り変える力」だという。

   キリスト教文明の破壊する力

 では、老人が言う「破壊する力」とは、どのような力か。身近な歴史の例を挙げれば、西洋の植民地主義者の弱肉強食の力の論理であり、一神教的な対立世界観に基づく権力政治の論理だ。

 16世紀のスペインによるラテン・アメリカ征服の歴史は、キリスト教文明の「破壊する力」の罪悪を余すところなく私たちに伝えている。彼らスペイン人たちは、遅れた原住民をキリスト教化するという美名の下に次々とラテン・アメリカ諸国に征服戦争を仕掛け、金銀財宝を略奪し、無抵抗な原住民を容赦なく虐殺し、平和に暮らしていた諸王国を破壊しつくした。このおぞましいスペイン人征服者の残虐行為を告発して有名になったのが、スペイン人司教ラス・カサスが書き記した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(染田秀藤訳、岩波文庫)である。

 キリスト教文明の持つ「破壊する力」に当時の日本人はどう対抗したか。幸い日本には宣教師はやって来たが、軍隊は来なかった。しかし、庶民だけでなく大名の中にもキリスト教に改宗するものが出てくる等キリスト教が政治的影響力を持つようになると、伴天連(バテレン=宣教師)追放令が出され、徳川時代になるとキリスト教は禁止される。以後300年近くにわたり、日本はキリスト教と隔絶された。

 この西洋の「破壊する力」は、やがて江戸末期に今度は黒船となって日本に姿を現し、わが国に力ずくで開国を迫ることになった。

   「造り変える力」という智慧

 西洋の「破壊する力」に比較して、日本人の持つ「造り変える力」とは、外国の文物をそのまま導入するのではなく、日本の伝統文化にあった形に造り変えて受け入れ、多くの場合元の物よりも優れたものに改良してしまうという日本人の古来の智慧である。この「造り変える力」こそ、わが国が歴史上幾度となく見舞われた国難の際に、生き延びることを可能にした伝家の宝刀であると言える。

 例えば、紀元四世紀末ごろに儒教が伝来した際は、文字を持たなかったわが国は中国語を訓読し、やがて仮名文字を発明して、あくまで日本語読みを貫きながら、儒教の文献を学んだ。漢字を使って文章を書いても、音だけを借用した。そうして中国語を拒否し、日本語を守った。

 あくまで中国語を拒否したことが、その後の日本の文化的独立及び日本固有の文化の形成にどれほど貢献したか、改めて考える価値があるだろう。

   仏教も造り変えられた

 儒教の次に日本にやってきたのは仏教。6世紀中葉の仏教の導入は、蘇我氏と物部氏の戦いに見られるように、日本国家を文字通り二分する大事件だった。

 その後仏教は、本地垂迹説や神仏習合思想によって、わが国の伝統的な宗教である神道と矛盾するものではない形に造り変えられて、神道と共生することができた。本地垂迹とは、日本の神々は仏教にいう仏や菩薩などが姿を変えて現れたものと見做す考え。例えば、宇宙の真理を体現する密教の教主である大日如来は天照大神となって日本人の前に現れたと見做す。

 さらに、平安時代以降、日本人を開祖とする仏教宗派が生まれ、現在日本人の殆どはこれら日本仏教諸宗派の信徒になっている。老人の霊が言ったように、仏陀は日本に来て日本人に変わってしまった。

   日本「国難」の歴史

 「破壊する力」たる黒船の開国要求に対しては――

 幕末には開国派と攘夷派に国論は二分されたが、明治維新以後「富国強兵」「殖産興業」のスローガンの下で文明開化を成し遂げ、欧米の植民地になるのを免れることができた。明治政府の取ったこれらの政策は、単に欧米の真似をするという「欧米化」ではなかったことに注目すべきだ。

 第二次世界大戦の敗北とGHQによる占領は、明治以来戦争に負けたことがなかった日本人にとって経験したことのない衝撃と屈辱であった。この戦争の荒廃からの復興を支えたのは、日本人の高貴な精神、すなわち「和魂」であった。この「和魂」を基盤として、会社共同体による年功序列、終身雇用、系列方式などの日本独自の会社経営方式と、護送船団方式や傾斜生産方式などと言われる政府の行政指導の下で、世界第二の経済大国にまで上り詰めることができたのである。まさに、アメリカ流の企業経営方式を日本的に造り変えることによって、物つくりの精神を遺憾なく発揮することが出来た。

   生活の一部となる造り変える力

 このように世界を驚嘆せしめた日本の奇跡の復興は、日本人一人一人の高貴な精神と物つくりの精神によって成し遂げられた。

 「和」の精神は、神々も、自然も、人間も、万物が矛盾対立ではなく融合の上に成り立つとするものである。日本国家は「和」の原理から生まれたのだ。

          ○

 佐藤優著 『日本国家の神髄 禁書「国体の本義」を読み解く』 でも、次のように言っています。

 ≪中国から『孟子』を携えて日本にやってくると、なぜ海難に遭うのだろうか? それは『孟子』が易姓革命思想を説く書だからである。日本は神の国であり、皇統が存続している。日本に革命はありえないのだ。それだから、日本人は易姓革命思想を忌避するのである。

 しかし、それは『孟子』の中で展開されている言説を一切受け容れないということではない。『孟子』をわが国体に則って、換骨奪胎して受け容れるのである。これが菅原道真の述べた「和魂漢才」である。それが明治期以降は「和魂洋才」となる。

 ここで重要なことは、「漢才」、「洋才」が、日本民族と日本文化が存続し、発展するために必要だということだ。外来の知や技術に対して門戸を閉ざすという排外主義は、わが国体に反するのである。≫

 と。

          ○

 日本は今、原子力の平和利用文化に対して、門戸を閉ざすのではなく、和魂洋才の 「造りかえる力」 で――換骨奪胎して、ウラン原発をトリウム原発に代えて新しい原子力文明を作り出すのが使命ではないか――と、私は素人の爺ながら、考えております。

 古川和男著 『原発安全革命』(文春新書) の“オビ”では、次のように言っています。

 ≪福島の事故以来、原発を不安視する声は急速に高まっている。とはいえ、すぐに原発をやめるわけにはいかない。現代社会にエネルギーは不可欠だからだ。これ以上石油や石炭を燃やして二酸化炭素の排出を増やすわけにはいかないし、かといって、今の技術レベルの太陽光や風力発電では、とても原発に代替できない。

 しかし、このジレンマは解決できる、と著者は言う。福島やチェルノブイリで起きたような事故を、原理的に起こさない原発がある、というのだ。その原理の要点は、燃料形態を固体から液体に代え、燃料をウランからトリウムに代え、炉を小型化するということ。このトリウム熔融塩炉は発電効率も極めて高く、プルトニウムの消滅にも一役買える。

 この原発なら 福島もチェルノブイリも起きなかった!≫


 <つづく>

  (2015.8.10)
10 原子力を生かした新しい文化創造のために (8)


 西洋の「破壊する力」に比較して、日本人の持つ「造り変える力」とは、外国の文物をそのまま導入するのではなく、日本の伝統文化にあった形に造り変えて受け入れ、多くの場合元の物よりも優れたものに改良してしまうという日本人の古来の智慧である。この「造り変える力」こそ、わが国が歴史上幾度となく見舞われた国難の際に、生き延びることを可能にした伝家の宝刀である。

 外来の知や技術に対して門戸を閉ざすという排外主義は、わが国体に反する。原子力の平和利用に対しても、和魂洋才の 「造りかえる力」 で――ウラン原発をトリウム原発に代えるなど、技術革新をすすめることによって、新しい原子力文明を作り出すのが日本の使命ではないか――私は素人ながらそう考えている、と昨日書きました。

 昨夜は、「一般社団法人 放射線の正しい知識を普及する会」 というのを立ち上げて活躍している友人 茂木弘道氏を訪ね、いろいろ資料の提供を受け、懇談してきました。
 茂木氏は、『放射能を怖がるな! ラッキー博士の日本への贈り物』 の翻訳紹介者で、「史実を世界に発信する会」事務局長も務めています。

 古川和男著 『原発安全革命』(文春新書、トリウム原発推進の書)のことも話題にしました。茂木氏は、トリウム原発には、核燃料に使うトリウム同位元素を分離濃縮する過程にもまだコストのかかる大きな困難があり実用化に至っていないと聞いている、ということでした。今日は、原発専門家の石川迪夫氏にもメールで質問してみました。石川氏からは、次のような返事が来ました。

 
≪トリウム炉のことは――核分裂にはトリウム、ウラン系列とウラン、プルトニウム系列があり、マンハッタン計画で後者が採用されたので今日の原発ができたと考えれば良いでしょう。<註。マンハッタン計画とは、第二次世界大戦中、枢軸国(日独等)の原子爆弾開発情報に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原爆開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画>

 
トリウム炉は、トリウムをスラリー状液体にして核分裂させるもので、今日の原子炉とは全く違います。従ってまだ原子炉の設計すらない(ポンチ絵くらいはあるでしょうが)と言っても良いでしょう。トリウムはインドに多く産出しますので インド政府は力をいれています。このところトリウム炉に興味を抱く人も出てきているようですから、大いに勉強して貰えば良いと思います。

 ただ、実用化以前の科学技術は常に美しいのです。だが実用化はそう簡単なものではありません。原子力がかつてそうでした。宇宙はいまその状態にあります。トリウム炉も同じでしょう。実用化されるまでには多大の費用と勉学が必要な上に、問題が起きる度に修正をしていかねばなりません。大変です。

 古川さんは 私が原研に居た時におられましたが、顔見知り程度で、親交はありませんでした。研究室に閉じこもっていて、原子炉や原発の運転現場には余り縁のなかった方でした。トリウム炉のことは私は勉強していません。≫


 ――ということでした(石川迪夫氏)。

 私は思います。今、LED電球が革命的な省エネ・長寿命の照明具として急速に普及していますが、それができるようになったのは、青色発光ダイオードの発明からだった。これは長年世界中の研究者が開発に努力を重ねてきたができなかった。それを日本の赤崎勇、天野浩、中村修二氏らが遂に効率的な青色発光ダイオードを発明、これを長い歴史をもつ赤色・緑色のダイオードと混合することにより、明るく省エネな白色光源を可能としたのである。(上の3氏は昨年ノーベル賞受賞)

 トリウム原発も、「実用化されるまでには多大の費用と勉学が必要な上に、問題が起きる度に修正をしていかねばならぬ。大変です」 という状況にあることはわかりました。しかし、ねばり強く不撓不屈の精神で研究開発を続けて行けば、やがてきっと可能になる日が来るのではないか。

 石川氏も、前に引用しましたように、「原子力は、人類の未来の生活を左右する、大きな使命を持っている文化である。新しい文化の受け入れには、必ず反対者が出てくるのが人間世界の歴史である。たとえば日本にとっての具体例は、仏教の伝来と定着。日本に仏教が入ってきてから皇室に認められるまでに百年かかっている。
 原子力平和利用の歴史はまだ50年あまりだ。仏教が定着した時間の半分しかたっていない。原子力は大きな文化変化の力を持っている。焦らずに着実に進めるべきだ。」

 と言っている。

 夢をあきらめず、原子力を生かした世界の平和、新しい文化創造のために、日本の使命を果たすよう努力しましょう。

  (2015.8.11)
11 原子力を生かした新しい文化創造のために (9)


 『古事記』 に出てくる神代七代の御神名は、現象世界の根源にある理念の世界――キリスト教でいえば「みこころの天に成る世界」、生命の実相哲学でいえば「実相世界」の特色を神名であらわしたものと言われています。(#89#90参照

 原子力の平和利用――原発は、「みこころの天に成る世界」すなわち「実相世界」にないものなのでしょうか。いや、決してそんなことはない、神の愛の賜であると、私は思います。(#2参照

 『古事記』 神代七代のくだりについて、谷口雅春先生詳しいご解釈を、『古事記と日本国の世界的使命』(光明思想社刊)より抜粋引用させていただきます。

          ○

     唯一絶対本源神

 ◇天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。この三柱の神は並(みな)独神(ひとりがみ)成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまひき。次に国稚(わか)く、浮脂(うきあぶら)の如くして、久羅下那洲多陀用幣琉(くらげなすたたよへる)時に、葦牙(あしかび)の如萌え騰(あが)る物に因りて、成りませる神の名は、宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、次に、天之常立神(あめのとこたちのかみ)。此の二柱の神も独神成り坐して、身を隠したまひき。

 (ご解釈) この『独神
(ひとりがみ)成り坐(ま)して』というのは、独りの神様、唯一絶対の神様であるという意味であります。絶対神であって相対の神様でない。それから『身(みみ)を隠したまいき』即ち身体を隠しておられた、言い換えると五官に触れるような相(すがた)のない神様であった。絶対神にして無相の神様、これが天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、この三柱の神様であったというのであります。

 古代日本には七難
(しちむつ)かしい哲学がない。それだのに古代の日本人はこの『絶対神』というものをちゃんと知っておったということがこの記録に明かに出ているのであります。この点日本人はたいへん勝(すぐ)れた直覚的認識を持っていた国民であるということがわかるわけであります。日本の国は昔から理屈のない国である。言挙(ことあ)げせぬ国で、色々と議論を論(あげつら)わない国であるにも拘らず、その儘素直に、絶対の神様を知っていた、独神成り坐しておられたところの神様を知っていた、相(すがた)の無い神様を知っていた。日本人は偶像崇拝教であって、相(すがた)のない唯一独一神を知らなかったのであって、近世になって基督教によって輸入せられたなどと考えるのは間違であります。

 ところで此の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)といわれる神様は何処におられるかといいますと、高天原におられる、とこういう風に書いてある。高天原は何処であるかといいますと、これは実相の世界であります。『生命の實相』にも高天原の解釈が書いてありますが、『タ』というのはこれは陽の声、高いという言葉、父という言葉、立つ、起つ、龍、勢いよく縦に高く立騰るような内容の言葉でありまして、陰陽で云うと陽の声であります。『カ』というのは隠れる、限りある、幽
(カスカ)という具合に、力が外に余り現れない、幽かな、弱いという風な意味を含んでいるのであります。ですからタカというのは陽と陰とが互いに交叉することであります。これが十字に交叉しますと、これは基督教の標識になる。そうしてこれが少しく回転すると、生長の家のマークにあるように、卍の形になるのであります。卍の形になって回転する、その回転が早くなるとみんな周囲が真ン円くなりまして、それが日章旗になり、真ン円くなるのであります。日本国の標識である日章旗は、十字も卍字も倶に包含したものであって、日本の国に一切宗教包容の万教帰一運動が起るのは当然のことであります。

 天(アマ)の『ア』は現れるという意味であります。これは、言霊
(ことだま)学を講義する時に詳解しようと思いますが、アは『現れる』とか、『頭』であるとか、『赤い』とか、『明るい』とか、みなこのあらわれる意味であります。『マ』は真ン円い、真ン円く現れる、陰陽十字交錯し、卍字に回転し、更に完全に回転して真ン円く現れている。そしてそれが広く拡がっている。ハラというのは広々と続いているので、それが高天原で大宇宙であります。この大宇宙に成り坐せる神が天之御中主神である。

 成りませるというのは鳴り響いているということであります。高天原という或る場所にヒョッコリ生れたのが天之御中主だなどというようなケチな意味ではない。『総てのものコトバによってつくらる』ということが聖書のヨハネ伝の第一章にありますが、その通りでありまして、コトバは神である。大宇宙高天原に鳴り響いているところの神様、それが天之御中主神そのものであるということになるのであります。

 最近発達して来ました新興物理学に於きましては、宇宙は真ン円いという風な新説が現れているのであります。この空間というものは曲っているので、どこどこ迄も一直線にずっと宇宙を貫いて窮極まで走って行ったら終に元へ帰って来るというような新しい宇宙学説が現れておりますが、それが既にこの古事記にちゃんと書いてあるのであります。吾々が眼で見ると穹窿
(あおぞら)が球状に見えるのは単に眼球の構造だけではないらしいので空間そのものが円い、即ち『天(あま)』(顕円(あま))であります。

 その真ン円い大宇宙に張り満ちて鳴り響いておられるところの神様がこれが天之御中主神様であります。大宇宙に張り満ちていると申しますと、大宇宙という容器に天之御中主神という神様が入っていられるように考えられるかも知れませぬが、そうではない、天之御中主神の内容がコトバであり、その広袤
(こうぼう)が大宇宙であって、唯一のものを内から見たらコトバ即ちミコトであり、外から見たら宇宙であります。

 ですから天之御中主神は全ての全てであり、絶対神であって、別に他に神はない、天之御中主神一元であるということになるのであります。その一元の天之御中主神様が、高御産巣日神、神産巣日神とこう二つの働きを現し出されて、三神一体の働きをせられる。

 天地の初発に先ず一如の世界からコトバの展開として陰陽二柱の神様、言い換えると陰陽二つの原理が交錯してそこに回転運動が始まり、至大天球
(たかあまはら)即ち真ン円い宇宙が出来上ったのでありますが、その時葦の芽が萌え出る様にムクムクと出て来た神様の名が宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢの)神、次に天之常立(あめのとこたちの)神。此の二柱の神様もやはり 『独神(ひとりがみ)なりまして身を隠し給うた』 即ち、絶対神であります。

 こう申しますと、絶対神が沢山あるということになりまして、一見変でありますけれども、これは絶対神が幾つもあるという意味ではなく一つの絶対神の多種多様の働きをして、一つ一つ神々として名前が付けてあるのです。来って来る所なく、去って去る所なき本元唯一の毘盧遮那
(びるしゃな)仏が十方の諸仏と現れられたのと同じであります。

 それでこの、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢの)神はどういう働きであるかと申しますと、『宇麻志
(うまし)』といえば、御飯でも喰べるとおいしい、うまいというのと同じで、物を讃歎する言葉、仏教でいえば妙法蓮華経の『妙』であります。何と形容したら良いかわからないので『宇麻志』と讃歎したわけであって、その霊妙な働きを言い現してあるのです。

 『葦牙
(あしかび)の如萌え騰(あが)る』というのは、無限の創造、無限の創造の働きがそこに現れて来たのである。その次に天之常立(あめのとこたちの)神様、これはどういう神であるかというと天之御中主神様のもう一つの働きを現している。『天(あめ)』というとこれは宇宙全体をいうのでありまして、天地の区別が未だ剖(わか)れない前に『天』とあるのは『至大天球(あめ)』即ち宇宙全体を指すのであります。常立というのは、金剛不壊(とこたち=こんごうふえ)である。『至大天球(あめ)』を貫いておる金剛不壊(とこたち)の実相の神様、これが天之常立神であって、いずれも唯一絶対の神から展開した色々の働きを、神様の名前を以て現したということになるのであります。


 ◇次に成りませる神の名は、国之常立
(くにのとこたちの)神、次に豊雲野(とよくもぬの)神。此の二柱の神も独神(ひとりがみ)成り坐して、身を隠したまひき。

 この二柱の神様もやはり絶対神であって、身の無い、無相の神様であります。絶対神は二つあるという訳に行きませぬから、これ又天之御中主神の働きを現している神様であるということの意味が現れているのであります。国之常立神様というのは、天之常立神様と一対に云ったので、国即ち宇宙の金剛不壊の神即ち金剛不壊実相の神様であるという意味であります。

 豊雲野神
(とよくもぬのかみ)というのは、豊、雲、野という字が示しているように、これは無限創造ということを現しているのです。この雲が湧き出るようにムクムクと色々の観念が現れてくる。総てのもの心によって造らる――その心のヒビキが言葉でありますから、言い換えると総てのもの言葉によって造られるのです。此の言葉に展開するまでの『念』がムクムクと豊かに雲の湧くように湧き出て来る神様であるというのが豊雲野神様です。野というのも全てのものが生(お)い出ずる所であります。生長の家の聖経『甘露の法雨』に書いてあるように、創造の神様は槌をもってこの天地を造ったり、鑿(のみ)をもって万物を造ったりするのではないのであって、創造(つく)るといっても創造り方が異うのであって、色々の観念が雲のようにムクムクと湧き出たるところの神様です――この神様も天之御中主神様の働きの一つでありますから、『独神成り坐して身を隠し給いき』とあるのであります。

          ○


 さて、人間は「神の子」であり、神の創造力の噴出口でありますから、人間の心に自然に「葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)り」、「ムクムクと豊かに雲の湧くように湧き出て来る」 ところの思いは、神が人間を通して現象界に無限創造のすがたをあらわし出そうとされている、神の力に基づくものと考えてよろしいでしょう。原子力エネルギーの平和利用も然りです。

 トリウム原発開発推進に命をかけた古川和男氏(故人)は、『原発安全革命』で次のように述べています。

 
≪我々の求めているものは何か。
 第二次世界大戦後、北欧の社会民主主義運動の先導者でもあった科学哲学者カール・ポパーは、哲学は「宇宙論」であるべきだと言ったが、今は「人間学」として考えてみたい。

 まず求めているのは「平和」である。若いときインドの哲学者(駐日大使)が「宗教とは命を大切にすることだ」と教えてくれた。「殺さない」ことである。まず戦争をなくすことである。長崎以後の65年間、1発も実用にできない核兵器が、いまだに存在するなど論外である。

 我々が「命」の次に求めているのは「自由」だろう。我々は本心「気ままに生きたい」のである。自由は底知れず深遠な命題である。孔子の「心の欲する所に従って矩
(のり)を踰(こ)えず」という境地や、老子の「無為自然」には、その深遠な自由がある。しかし、現世の我々は、深遠な自由をつかみ人里離れて暮らす仙人にはとてもなれないし、そんな仙人になれなくても、文明を謳歌満喫しつつ自由に振る舞いたいのである。その人たちの「平和」と「自由」を保障するのは「エネルギー」である。食物も、あらゆる意味での環境も、そして労働が関わる時間もみな「エネルギー」に依存する。

 「エネルギーの供給を充分に!」と言うと、「そんなことをすると、無駄づかいをして地球を壊す」とよく真剣に批判された。一理はあるが、ものは充分あれば必ず無駄づかいするものだろうか。ある面ではそうかもしれないが、たとえば、充分ある空気を無駄づかいするだろうか。空気を吸い過ぎると、過酸化状態になり危険である。電力が充分に得られる状況になったら、きっと何かが起こるだろうが、解決できる、解決に向けて努力するのが楽しみになるはず、と考えたい。少なくとも「エネルギー不足で人が餓え、殺し合い、地球が砂漠化してゆくよりはよい」と信じたい。

 文明は、文化は、飽くなき創造で支えられるものである。支えるのは人間の努力であり、智慧である。智慧とはまさに科学精神である。「科学」とは何か、と否定的に問う人の多い時代だが、私は科学とは、「人間が平和に自由に生きたいと願い、みんなで『共同して努力する』思想態度」と解している。

 「科学精神」を改めて鼓舞するのが、最も大切ではなかろうか。我々の「地球」をより住みよいものにするために。それなしには、我々のエネルギーシステムも絵に画いた餅である。≫


 と。

 <つづく>

  (2015.8.13)
12 原子力を生かした新しい文化創造のために(10)


 原発の問題については、『何処へ行く?「生長の家」』 の[質問3 原発は、絶対悪でしょうか?] に対する反響が予想以上に大きかったので、私もまた少し突っ込んだ勉強をさせて頂いていますが、ここらでいったん「まとめ」をしておきたいと思います。

 結局、[質問3]に書きました(そして誰からも反論はない)ように、原発は火力発電などより桁違いに安全で、人と地球にやさしい。太陽光などの自然エネルギーよりも、はるかに安全である。放射線は低線量であれば人間(他の動植物にとっても)の健康に必要なものであり、これを絶対悪とするのは迷信である。

 したがって、現在停止中の原子力発電所は、厳しすぎるほどの新しい安全基準で審査しているのであるから、それをパスしたならば速やかに再稼働すべきである。なぜなら、停止していても稼働していても危険度に変わりはないのだから。

 そして、トリウム原発など、さらに安全な新しい技術革新の道があれば、努力を惜しまず、そうしたイノベーションに取り組むのがよいと、私は思う。

 「放射線の正しい知識を普及する会」(一般社団法人)を立ち上げている茂木弘道氏は、竹田恒泰氏著 『これが結論!日本人と原発』 をも徹底批判し、竹田氏は反論できなくなっている。(参考

 私はここで、生長の家谷口雅宣総裁の 『次世代への決断 宗教者が“脱原発”を決めた理由』 の 「序章 人類の欲望が生んだ気候変動と原発」 について、疑問を呈したいと思います。同書には、まず次のようにあります。

≪  神・自然・人間の関係が逆転

 私は2007年に、祈りの言葉を集めた 『日々の祈り』(生長の家刊) という単行本を上梓させていただいたが、この本には 「神・自然・人間の大調和を祈る」 という副題をつけた。そして、その理由について次のように書いたことがある――

 < 現象としての現在の地球世界は、この三者が必ずしも調和していないし、場合によっては深刻に対立している。このことは、しかし今に始まったことではない。『創世記』 の第1章には、天地創造をした神が自分の創造物を見て 「はなはだよい」 と讃嘆したことが書いてある。ところがそれ以降の記述を読むと、はなはだよかったはずの被造物のうち、まずヘビと人間が神の言いつけに従わなかったため、神は怒って人間をエデンの楽園から追放する。これ以降も、バベルの塔をつくることも含め、旧約聖書全体を通して、人間は繰り返して神の意思に反する行為をする。これに対し、神は洪水や疫病などの自然の力を使って人間を罰し、正しい道にもどそうとする。>

 この話は、もちろん聖書にある神話を含んでいるから、いわゆる“歴史的事実”ではないかもしれない。しかし、人類が近代化を達成する以前の神・自然・人間の三者の関係を象徴物語として見事に描いていると思う。つまり、神はまず喜びの表現として自然界を創造し、そのうえで自分の“似姿”として人間を造ったが、人間は自然の一部であるヘビとの関係を好み、神の意思に反する行動をする。それに対して神は、自然力を使って人間を罰し、善導しようとする――この物語の中での力関係は明白である。まず「神」がすべてのものの創り主として最大の力をもち、次に「自然」が人間を惑わすとともに滅ぼす力をもち、無力な「人間」は神の意思に従えぬまま、自然の猛威に怯えて、苦しみながら生きてきた。神―自然―人間という順番の力関係である。
 ところが、そういう関係がやがて変化するように見えてくる。私の昔の文章をさらに引用しよう――

 < このような過去の三者の関係が、現代はだいぶ変化してきているようだ。過去において神と自然は人間を圧倒していたが、その関係が逆転しつつある。人間は科学によって自然を研究し、その内部の法則を次々と発見した。そして、自然法則を利用して技術を開発し、それを人間の目的に使ってきた。当初は、生命のない物理科学的な自然の利用を進めていたが、次第に生物の利用を進め、現在は遺伝子操作によって、かつて存在しなかった生物を誕生させたり、人間自身の誕生の時期や可能性さえ操作できる技術を身につけた。また、極微の世界の原子を破壊したり、原子や分子の一つ一つを操作する技術も手に入れただけでなく、これら諸々の技術を駆使した活動によって地球の大気の組成まで変化させ、気候変動を起こしつつある。これらすべては 「神のため」ではなく、「人間のため」 として行われているのだ。

 しかし、こういう人間の活動は、本当に 「人間のために」 なっているのだろうか? 人間は 「神は死んだ」 と宣言し、伝統的な宗教的価値を次々に否定し、生殖医療や、人間と動物が混ざり合ったキメラを開発して自然を“神”に対抗させている。が、これらに反対する人々の一部は、逆に「神のため」と称して大勢の人間の無差別殺戮を行う。これは一種の“神と人との戦い”ではないか? それは 「人間のため」 であるはずなのに、当の人間は一向に幸福に近づいていないように見えるし、“テロとの戦争”の最中に、地球温暖化の進行による被害はどんどん拡大している――こんな見方ができるほど、三者の関係は不調和に見えるのだ。>

 私はここで、「人間」 を頂点として、人間だけのための世界を構築しようとしている 「人間―(神)―自然」 という力関係を見ているのである。「神」 の文字が括弧書きになっているのは、多くの人々にとって、神はもはや利用の対象としてしか存在価値をもたないように見えるからだ。≫


 ――これが、「宗教者」 を自任する生長の家総裁の言葉か――と思うと、なさけなくなります。

 <つづく>

  (2015.8.17)
13 神・自然・人間は相対する三者ではない(1)


 このところ私たちは有志で谷口雅春先生の神示講義 『神ひとに語り給う』 の勉強会をしており、先日は 「万教帰一の神示」 御講義のところを学びました。その中に

≪宇宙の中に神様が生まれたのではなく、神様の生命(いのち)そのものの広がりが宇宙であります。≫

 というご文章があります(p.105)。 これはどういうことか説明してほしいと言われました。

<それは、私たち人間の生命
(いのち)も、宇宙の中に生まれたのではなく、生命(いのち)そのものの広がりが宇宙なんですよ。肉体は宇宙の中、地球上に生まれた、誕生日があって、死ぬ時が来る。しかし、いのちの本体は常に神のいのちと一体であって、その私たちのいのちの広がりが宇宙なんです。>

 と、私は答えました。

 これは、『生命の實相』 第12巻 萬教歸一篇の p.165~166に

≪大宇宙(たかあまはら)に成り坐(ま)せる神が天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)である。成りませるというのは鳴り響いているということであります。高天原というある場所にヒョッコリ生まれたのが天之御中主だなどというようなケチな意味ではない。「すべてのものコトバによってつくらる」ということが聖書の『ヨハネ伝』の第一章にありますが、そのとおりでありまして、コトバは神である。大宇宙高天原に鳴り響いているところの神様、それが天之御中主神そのものである。≫

 とあり、「人間は神の子」というのは、その天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の御いのちがここに出現して、「中
(みなか)」の理念を実現するために生きているということだと、『菩薩は何を為すべきか』にある通りです。

 『新版 真理』第7巻の第1章には、

≪(キリスト教的に)神が子供を生んだというようなのは、譬喩的な擬人的な一種の小乗的な説き方でありまして、人間になぞらえて、そして判り易く、あまり哲学的な思索傾向をもっていない、人間的な愛情関係に於いて神を観たい人に、そういう説き方をするのであります。

 それでも間違いではないんですけれども、神様がこうして万物を生み出すというような考え方は最高の真理ではない。何故ならば、そのような考え方には、何処やらに相対的なあるものがあるからです。創造者と被造物とが対立している。神様というものから別れて人間と云うものが生み出されたということになっているから、神と人間とが対立している。そこから神の審判などと云う思想が出て来る。これには相対的な考え方が何処やらにひそんでおりますから、まだ最高の真理というわけにはゆかないのであります。

 ところが「一個の物体の周囲
(まわり)に百万の鏡を按(お)きてこれに相対(あいたい)せしむれば一個もまた百万の姿を現ぜん」と聖経『天使の言葉』にありますように、鏡と鏡とが相対していると一人の人間でも、あちらへ写った姿がこちらへ写り、又こちらへ写った姿があちらへ写りして、ずーっと無限に反映しますと、一個が無限に現れるのであります。

 ……その無限の個々が実は個々でありながら個々ではなく一つのものである。「一個もまた百万の姿を現ぜん」というわけであります。人類のいのちは、相即相入で、一つのいのちが、ずーっと幾十億の人類となって現じているわけであります。これが唯心所現の世界――心の現すところの世界なのであります。≫


 とあるのでります(p.10~11)。

 ところが谷口雅宣総裁の 『次世代への決断 宗教者が“脱原発”を決めた理由』 の 「序章 人類の欲望が生んだ気候変動と原発」 には

≪ 現象としての現在の地球世界は、この三者(神・自然・人間)が必ずしも調和していないし、場合によっては深刻に対立している。

 ……人間は 「神は死んだ」 と宣言し、伝統的な宗教的価値を次々に否定し、生殖医療や、人間と動物が混ざり合ったキメラを開発して自然を“神”に対抗させている。が、これらに反対する人々の一部は、逆に「神のため」と称して大勢の人間の無差別殺戮を行う。これは一種の“神と人との戦い”ではないか? それは 「人間のため」 であるはずなのに、当の人間は一向に幸福に近づいていないように見えるし、“テロとの戦争”の最中に、地球温暖化の進行による被害はどんどん拡大している――こんな見方ができるほど、三者の関係は不調和に見えるのだ。≫


 と書かれています。

 「人間の生命は常に神の生命と一体であって、私たちのいのちの広がりが宇宙なんだ」 と信じている私は、

 <これが、「宗教者」 を自任する生長の家総裁の言葉か――と思うと、なさけなくなります> と、昨日書きました。

 しかし、総裁のおすがたは信徒のすがたです。自分のすがたです。

 『新版 真理』第7巻第1章には、

≪自分は悟っていながら、悟らない者を救うためには、自分も悟っていない人間に生まれて来て、悟らないような有様を現じて、人を救うのであります。これが維摩の教えであります。悟っていながら、悟っていない人間に伍しながら人を救うのであります。

 人を救おうと思うと、あんまりかけへだたっていると救いようがない。非常に優れたる高級霊にとっては、地上にうようよしている迷っている衆生達を見ると、実にいやらしくって、その中へ降りて行くことだけでも、まことに悩み多きことである。人間の体臭が異臭芬々としていて、普通の人間が豚小舎へ入るよりも尚いやらしく感ずるのであります。

 それにも拘らず、既に悟っており、既に彼岸即ち実相の世界に遊戯
(ゆげ)したまう諸菩薩がこの地上に下りて来て衆生と同じ肉体的生活を営みながら、一緒に泥にまみれて、衆生を救っていられる。これが諸君であり、聖使命菩薩であります。まことに尊いことであります。≫

 とありました。総裁は、「悟っていながら、悟らない者を救うために、自分も悟っていない人間に生まれて来て、悟らないような有様を現じて、人を救う」という尊い菩薩行をして下さっているのだと思います。

 そう思って、私は総裁のおすがたを拝ませて頂きます。

 しかし、真理は、「神・自然・人間」は相即相入一体であって、相対対立などしていない。それを対立的に見るのは西洋的、唯物的な見方であり、東洋的・日本的な見方とは違い、真理からはずれている。

 「唯神実相」 の 「中
(みなか)」、天地(あめつち)の初発(はじめ)の時に帰るべき時だと思います。

 <つづく>

  (2015.8.18)
14 神・自然・人間は相対する三者ではない(2)


 「神・自然・人間」 は、相対する三者ではない。

 神のいのち(コトバ)のひろがりが宇宙であり、地球であり、自然である。

 人間とは肉体ではなく、不生不滅、いや本来生・不滅のいのち、神のいのちである。

 人間のいのちと神のいのちは相即相入、一体であり、人間と自然もまた相即相入、一体である。

 人間の生命(いのち)は、宇宙の中に生まれたのではなく、生命(いのち)そのものの広がりが宇宙である。肉体は宇宙の中、地球上に生まれた、誕生日があって、死ぬ時が来るが、いのちの本体は常に神のいのちと一体であり、そのいのちの広がりが宇宙であって、死ぬことはないのである。肉体は人間ではない。現象は影であって、実在ではない。端的に言えば、肉体はない、現象はないのである。

 総裁が 『次世代への決断 宗教者が“脱原発”を決めた理由』 の 「序章 人類の欲望が生んだ気候変動と原発」 に書かれたご文章(#12)で、「神」は人間と相対する「相対者」とされており、それは本源神ではない。本源神は、一切の対立を超えた絶対者であって、「神の外にあるものなし」であるから、人間と対立することなどあり得ない。

 人間とは肉体ではなく、本来生不滅の生命、すなわち神の生命そのものである。

 それ故に、冒頭の言葉の通り、

 ≪「神・自然・人間」 は、相対する三者ではない。≫

 というのが真実、真相である。

 「欲望を制御しなければならぬ」 というとき、その人は人間を 「肉体」 と見、「罪の子」 と見ている。

 真の宗教者の使命は、人間を 「肉体」 と見、「罪の子」 と見ていた迷妄により 「阿鼻地獄のように苦しみもがきあせり、あらゆる苦難を癒やす救いと薬を求めている」 人類を、「人間は肉体ではない。神の子である」 という真理によって解放することにあるのではないでしょうか。

 時あたかも、「ひろば」 に トレモス様が、<「心の指導者」の聖なる使命について> と題して、時宜に適った投稿を下さいました。(「ひろば」#58

 まさにその通りであると思います。

≪現象の心を、「実相独在の心」 に立て替えない限り、人も救えず、自分の心も救えない(自救不了)となってしまう。≫

 ――それでは、塩に塩気がなくなったと同様、生長の家出現の意味はなくなり、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」(マタイ伝第5章13節)になってしまうのではないかと思われます。

 <つづく>

  (2015.8.19)
15 神・自然・人間は相対する三者ではない(3)


 谷口雅宣総裁の御著書 『次世代への決断 宗教者が“脱原発”を決めた理由』 の 「第2章 大震災、原発事故の教訓」 の60ページに、「第一義のものを第一にせよ」 と書かれている。では、「第一義のもの」 とは何か。

 総裁は、谷口清超先生著『歓喜への道』から、次のお言葉を引用しておられる。

 ≪今や日本は金儲けや繁栄を追い求めるか、それとも神の国と神の義を第一に置くところの「真理国家」に“出家する”かの岐路に立っていると言える。

 一体吾々は、果して水ぶくれや金ぶくれの人間をより多く生産する方向に行ってよいものかどうか。人間の本質の自覚がより深まったことを、その人の成功度や財産や、社会的名声で判断するというような、世俗事への迎合姿勢では駄目ではないか。(中略)

 第一義のものを第一にせよということである。そうすれば現象は自然に整うのである。(同書、18頁)≫

 そうして、総裁は

 
≪私たちはよく 「経済成長は善い」 と考えがちだ。しかし、清超先生の右の文では、それを 「水ぶくれや金ぶくれの人間をより多く生産する」 ことだと表現されている。(中略)しかし、今日の経済理論は、人間が水ぶくれや金ぶくれをすることを“善”として奨励しているのである。≫

 と、「経済成長は悪である」 かのような書き方をされている。

 しかし、「第一義のもの」 とは 「神の国と神の義」 であって、「神の国と神の義」 に根ざした経済成長であれば、それは善であって悪ではない、と私は思います。清超先生も、「第一義のものを第一にせよということである。そうすれば現象は自然に整うのである。」 とおっしゃっています。

 「第一義のもの」 「神の国と神の義」 とは何か。

 私は、それは 「久遠の今」 にあると思います。現象の発する元の根源世界にある。

 谷口雅春先生は、『新版 真理』 第4巻の第5章に次のようにご教示くださっています。

 
≪     「神の国」と「未発之中」

 「先ず神の国と神の義
(ただしき)を求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」とキリストは教えています。そして「神の国は汝の内にあり」と追加して説いているのであります。「義(ぎ)」は「宜(ぎ)」であって、時と処と人との宜(よろし)きに従うことなのであります。

 中庸には、「喜怒哀楽
(きどあいらく)未だ発せざるを中(ちゆう)と言う、発して節(せつ)にあたる是を和と言う」 と書かれております。「神の国」 を求めるとは、「未発の中」 すなわち、「現象の未だ発せざる本源の世界」 を求めると云うことであります。

 「神の義」 と云うのは、その 「未発の世界」 が現象の世界にあらわれるための、時と処と人との三条件に適するための 「予定秩序」 であります。すなわち 「本源の世界」 を把握し、それが現象化する場合の 「予定秩序の智慧」 を獲得しますと、それが発して現象化する場合に、ピシリピシリと 「節」 即ち灸所
(きゅうしょ)灸所に適合するのであって、あるべきものがあるべき時にあるべき処にあらしめられるようになるのであります。

 そうすれば現象界は自然に調うて一切のものが都合よく成就するようになるのであります。これを 「その余のものは汝らに加えらるべし」 と教えられたのであります。この点、儒教もキリスト教も同じことであります。≫


 と。

 <つづく>

  (2015.8.20)
16 神・自然・人間は相対する三者ではない(4)


 谷口雅春先生も、清超先生も、経済成長や富・社会的成功が必ずしも悪であるとはおっしゃっていない。ただ、自己の内部理想、良心、使命感というようなものの方が第一義であって、元を培えば自ずから枝葉が栄えるように、第一義のものを第一にすれば現象は自然に整うのであるとお教え下さっているのであります。その 「第一義」 なるものは、「久遠の今」 にある。

 道に迷ったら、出発点に戻れ。問題に直面したら、原点に還れ、とよく言われます。

 「すべての現象の原点」 は何処にあるか。「久遠の今」 にある。「久遠の今」 なる 「唯神実相」 の 「中
(みなか)」、天地(あめつち)の初発(はじめ)の時に立ち帰るべき時だと思います。生命の実相に立ち還ると言ってもよいでしょう。

 「久遠の今」、常に 「神・自然・人間」 は相即相入一体であり、相対対立などしていない。そのことは、雅宣総裁も、 『次世代への決断 宗教者が“脱原発”を決めた理由』 の209ページに、「神・自然・人間は本来一体」 と書かれている。

 しかし、229~230ページには

 
≪私は、これからの人間社会は原子力エネルギーの利用を減らしていき、可及的速やかにその利用を完全にやめるべきだと強く思います。なぜなら、原子力エネルギーは、人と自然との本質的な一体性と対極の関係にあるからです。≫

 とあるのは、納得がいきません。つづいて

 
≪原子力エネルギーは、人を含むあらゆる生物の生存に危険な高濃度の放射性物質を、分厚い金属容器に密閉し、その周りをコンクリートの壁で覆い、そのうえ高熱で爆発しないように常時水で冷やし続けるという、きわめて“不自然”な形で利用されています。これは自然がもつ 「生命を守り育てる」 という本来の機能を、自然自身から奪うようなやり方です。≫

 ――それは、火力発電所だって同じようなものではないでしょうか。燃料に石炭・石油などを使うか、ウランなどの核燃料を使うかの差だけです。核燃料は 「あらゆる生物の生存に危険な高濃度の放射性物質」 といわれるけれども、水蒸気の熱だって、高熱はあらゆる生物の生存に危険です。放射線は低線量であれば生物の健康に必要欠くべからざるものだというのが、真実だとわかってきました。「放射線は生物の生存に害があるだけ」というのは迷信だとわかってきたのです。(【質問3】 原発は、絶対悪でしょうか?

 
≪またその結果、放射性廃棄物が生産されますが、私たちはこれを生物にとって無害化する手段をもっていません。“一見”無害なものにする唯一の方法は、地中深く埋めることです。そうしながら私たちは、未来世代の人たちが何とかそれを無害化して生き延びてくれるだろうと、無責任にも祈るだけなのです。≫(p.230)

 ――そんなことはありません。

 素粒子論の大家で、オックスフォード大学名誉教授のウェード・アリソン博士の『放射能と理性』(徳間書店)(p.202~206)によれば――

 核廃棄物は2つの点で化石燃料廃棄物と大きく異なっている。量が少ないことと、地球環境内に拡散していかないことだ。エネルギー生産量が同じなら、原発が使う燃料は、火力発電所の約100万分の1。さらに原発の廃棄物は、CO2と違って、貯蔵することもできるし、処理して安全に埋めることもできる。

 埋めても半減期の長い廃棄物は危険ではないかということをいう人もいるが、そもそも半減期の長い放射線同位体は、自然にはありふれた存在であり、地球の内部は放射性物資がわんさとあり、その一部になると考えればいいわけである。低レベル放射線でも漏れて危険だという迷信におかされて騒ぐのはもはや問題外である。

 使用済み核燃料の成分は以下の3つに大別できる。

 第1の成分は、未燃焼の燃料を構成するアクチノイドとアクチノイドから生成されるさまざまな放射性同位体。核燃料のこの部分はまだ核分裂を行っていない。プルトニウムとウランを含む同位体は、科学的な再処理を経れば燃料として再使用できるため廃棄物として高い価値をもっている。多くの種類は半減期が極めて長く、環境内に拡散されることはない。

 第2の成分は、核分裂生成物。核分裂生成物質の原子量はウランの約半分である。ほとんどはすぐさま崩壊してもっと安定した同位体となる。崩壊が早いほど崩壊熱は大きくなる。最も深刻な懸念は、半減期の長さだ。ストロンチューム90やセシウム137は、半減期が30年近い。核分裂生成物の活動は、初期に急落した後、30年ごとに半減していく。

 第3の成分は、もっと半減期の短い不安定な核分裂生成物だ。例としては、半減期が1週間ほどのヨウ素131やキセノン133があげられる。これらは崩壊によって数ヵ月で完全に消えてなくなる。通常時に、無害な量が大気中に排出されることもあるが、大部分はフィルターで除去され、フィルターは低レベル廃棄物として埋められる。

 放射性物質はおおむね4つの戦略のいずれかで管理される。①再処理して再利用。②凝縮して密封。③希釈して拡散。④貯蔵して崩壊。低レベル核廃棄物が最も量が多いが、取扱いに危険はなく、普通の廃棄物と混ぜて比較的浅い所に埋めれば安全に処理できる。低放射線に対する人々の態度がやわらげば、すなわち害どころかホルミシス効果のあることが理解されれば、低レベル廃棄物の一部は分別処理が必要なくなるだろう。

 中レベル廃棄物には、樹脂、化学的沈殿物、原子炉部品、廃材が含まれている。コンクリートやアスファルトで固化されることが多い。放射能が短期間で消えるものは埋め立てに回され、長期間残るものはいったん凝縮された後、地下深く埋められる。

 使用済み燃料と燃料棒の部品は、廃棄物の中でも最も汚染度が高い。高レベル核廃棄物には、先の④→①→②の順で戦略が適用される。燃料が炉心から抜き取られた後も、中性子の豊富な核分裂生成物質の原子核は崩壊を続け、かなりのエネルギーが解放される。このような物質は、大型タンクに隔離され、水中で約5年間冷却される。水が放射線を吸収するため、この隔離は100%安全に行われる。冷却後、再処理にかけられてアクチノイドが抽出され、MOX燃料(ウランとプルトニウムの酸化物を混ぜ合わせた燃料)などに再使用される。使用済み燃料の一部は、核分裂を終えておらず、“燃焼度”によってはリサイクルに回せる。

 核分裂エネルギーを吐き出してしまった核分裂生成物は、再利用できない。それらの放射能は、最初の10年間で急減し、その後は半減期30年のストロンチュウム90とセシウム137の放射能が主となる。つまり核分裂生成物質の放射能は、100年後には10分の1に、300年後には1000分の1になるわけだ。

 再処理後の廃棄物は、ガラス固化で化学的に被包される。出来上がったセラミック製ブロックは極めて固く、地上水の浸食にも物理的化学的攻撃にも耐える。ブロックは30年から50年の間地上で貯蔵され空気で冷やされる。それから地下深くの坑道や貯蔵施設に運ばれ、放射能が消え去るずっと後まで、ブロックとしての構造を持つこととなる。数百年もすれば廃棄物いからの放射線は周りの地殻内と同じレベルになるだ。

 このような再処理とガラス固化は、成熟した技術であり、過去数十年間全く事故を起こしていない。ガラス固化された核分裂物質からの放射線はそれほど強くなく、危険を封じ込める安全装置は講じられている。

 さらにいうと、中・低レベル放射性廃棄物を「放射線が部分的に不足している状態で生きている」多くの人々の健康増進に活用する道すらあるのである。放射線ホルミシス効果によってガン死亡率低下、免疫力の増進に活用することができることをラッキー博士は実証している。(『放射能を怖がるな――ラッキー博士の日本への贈り物』(茂木弘道翻訳・解説)

 地下深くの貯蔵設備については、フィンランド、アメリカで建造中である。むしろ現在のところ安全基準が無意味に高く設定されていてコスト増をもたらしているなどの問題があるという。

  原発1基を1年間フル稼働させると約30トンの使用済み核燃料が発生する。これは再処理を経て、最終的には半径20センチメートル、高さ1メートル程度のガラス固化体30本くらいの量になる。先進国に住む人が一生に必要なエネルギーを全て原発で補った場合に、一人が一生で排出する核廃棄物は、なんとゴルフボールー個分なのだ、という。(藤沢数希著 『「反原発の」不都合な事実』 p.165)

 まさしく地球にやさしい原発である。人々はどうしてとんでもない錯覚によって、原発を危険視して、反原発・脱原発と叫ぶのか。目を覚ましていただきたい。

 ガイア理論(地球生命体とする考え方)の提唱者で地球物理学者のジェームズ・ラブロック博士は、廃棄物の観点から原子力を強力に推進しているが、「世界中の高レベル放射性廃棄物を自分の私有地に引き受けてもいい」 と宣言している。

 ――以上は、放射性廃棄物の処理問題についてでした。


 さて、総裁も原子力、原発の問題についてはかなり勉強していらっしゃるようですが、その道の専門家ではないから、偏った表面的な捉え方をしていらっしゃる可能性が高いと私は思います。もちろん私も専門家ではありませんから、私が正しいとはかぎりませんが、私が勉強してきて信じていることと、かなり観点がちがいます。

 現象界には「絶対」というものはない。原発には反対しなければならぬと決め、信徒を束縛し思考停止して従えというようなことはいけないと思います。

 生長の家出現の使命、目的は、「現象なし」 「実相独在」 「神一元」 の真理をひろめ、人々を苦難から救い、神の国を地上に実現することでしょう。その根本真理は――

 すべて、本源の実相から出発する時、結果の現象はおのずから調う。それが、「第一義のものを第一にすれば現象は自然に整う」 ということ。

 現象以前の「久遠の今」なる生命の実相から、原発の問題も、環境の問題も、憲法の問題も、考えて行くべきです。「“新しい文明”の構築」 は、その原点から出発しなければ、砂上の楼閣になってしまうと思うのであります。いや、“砂上の楼閣”すら建てることができないでしょう。「ひろば」#58#59のトレモス様ご投稿の通りだと思います。

  (2015.8.21)
17 原子力を生かした新しい文化創造のために(11)


 石川迪夫氏
#1総裁への質問3 参照。 原子力デコミッショニング研究会会長)は、雑誌 Wedge 9月号に、

 
○福島の教訓に基づく正しい原子力規制とは

 ○原子力規制委は福島事故を学んでいない

 ○遅すぎる再稼働――原子力規制は的外れ


 と、書いています。

 <原子力デコミッショニング研究会というのは、原子力施設の廃止措置に関する研究を行っている任意団体。デコミッショニング(廃止措置)とは、法的には、役割を終えた原子力施設からそこに課せられている安全規制を解除すること。技術的には、施設から放射能を除去し、機器設備や建物の解体撤去、放射性廃棄物の安全な処理・処分等により、施設又は土地を再利用できるようにすることを指します。>

 以下、雑誌 Wedge 9月号に書かれた記事の一部をご紹介しますと――

≪原子力規制委員会による規制基準の強化で、電力会社が追加した安全対策は少なくとも総額約2兆5000億円に上るという。規制委・原子力規制庁と電力会社との長い長いやり取りの末に施された安全対策は、真に原子力発電所の安全性を向上させているのだろうか。

 結論から言えば、世界一厳しければ良いという規制委の思い込みから作成された規制基準はバランスに欠け、全体の安全性を損なう可能性すらある。

 典型的なのは、東京電力福島第一原発事故の後に整備された防潮堤だ。それをも越える高い津波が押し寄せれば、防潮堤は充満した海水を守る貯水池として逆に働く。津波だけなら波が引くまでの時間を耐えれば良いが、防潮堤のせいで排水に余計な時間がかかり、事故対応が阻害される。≫

≪福島事故が教える教訓は何か。それをはっきりさせないで正しい規制基準を導くことはできない。福島事故の原因は、未曽有の大津波によって発電所全体が電力を失う全電源喪失状態に陥り、しかもその状態が想定を超えて長く(約10日間)続いたことだった。まさに想定外が現実のものとなった。

 それなのに、新しい規制基準で議論されていることは、この「想定」を引き上げることばかりだ。防潮堤を築く、活断層の認定を厳しくする、基準地震動を引き上げる……。重要でないとは言わないが、福島事故が教えてくれたのは、自然災害はどれだけ想定しても存在する想定外に対しても、対策を準備しておくことの大切さである。

 それにはまず、自然災害が持つ脅威を検討評価し技術的対策を立てることだ。想定以上の地震に耐えた耐震設計がお手本と言える。その上でさらに、それを超える最悪の事態に対して準備する。つまり、全電源喪失状態が長く続き、炉心溶融が起きてしまっても、周辺地域に深刻な放射能汚染を及ぼさないようにできれば良い。この点についても、福島事故が大切な教訓を与えてくれる。……≫

≪……
(専門的なことは割愛します)……ベント(排出口という意味があり、原子炉格納容器の中の圧力が高くなって、冷却用の注水ができなくなったり格納容器が破損したりするのを避けるため、放射性物質を含む気体の一部を外部に排出させて圧力を下げる緊急措置)さえ開けば、あれだけの事故が起きても水の除染効果で避難の必要はない。(ベントを開きやすくするための簡単な対策があるのに、それをしていない)――これが14日深夜の放射線上昇データが示す第1の教訓だ。≫

≪実は、「炉心から水がなくなれば溶融する」という一般的なイメージは間違った俗論にすぎない。炉心溶融は、ウラン燃料に残る崩壊熱ではなく、燃料を覆う被覆管のジルコニウムと水が化学反応して発生する大量の熱によって起きる。……

 原発事故となれば、何を置いても冷却優先と思われがちだが、これが間違いの元。炉心の温度が高い悪条件で水を入れると化学反応が起きて、かえって炉心溶融を招いてしまう。

 だが防止策はある。化学反応を防ぐには必要条件を外せば良い。水は冷却に不可欠だから、もう一つの条件「炉心の高温状態」をなくせば良い。……福島で起きたような長時間の全電源喪失となっても、安定的な注水ラインを構築した復に炉心減圧を実施し、タイミングを閥違えず注水を行えば、消防ポンプでも炉心漕融を回避できる――これが第2の教訓である。≫

≪既存発電所にある安全設備の多くは、電動のものが多い。ポンプしかり、計測器しかりで、長時間の全電源喪失となれば、ほとんどの安全設備が使えない状態となる。福島第一療発はまさにこの状況下に置かれた。

 電源なしで使える安全設備は、崩壊熱で生じる蒸気を利用して動くいくつかのタービンポンプ、具体的にはRCIC(原子炉隔離時冷却ポンプ)とHPCI(高圧注水ポンプ)だ。

 2号機に備えられたRCICが、設計の8時間を大きく超えて3日間も働き続けたことは特筆すべきことで、駆動蒸気の圧力は下がり、水は混入するという劣悪条件で、ポンプは14日昼頃まで炉心冷却を続けた。3号機は、RCICは稼働1日で手動停止してしまったが、その後HPCIが設計通り作動して13日朝まで働いた。既存の安全設備は設計以上によく働いた――これが第3の教訓である。≫

≪以上の3つの教訓からわかるのは、40年以上前に設計・建設された軽水炉は、最悪の事態に陥っても放射能汚染を抑える潜在能力を持っていたということである。

 問題があったのは、設備ではなく扱う人間の方だ。にもかかわらず、現在適用されている安全規制と規制委は、「世界一の規制」という名のもとに、安全設備を増やすことばかりに傾注しているように見える。

 規制委に必要なのは、緊急時にしか使わないような設備の取扱いや、先述の減圧と注水のタイミングに対する理解など、現場運転員の危機対忘能力の向上を促し、電力会社が果てしない安全向上に対して能動的に取組むよう動機づける姿勢である。

 最大の教訓であるベントの確実な実施のためには、福島事故の轍を踏まないよう、政府などの外野が現場の邪魔をしないフローを整備することも欠かせない。規制委は、こういったことを自らの仕事だと考えているだろうか。≫


 と。

 <つづく>

  (2015.8.22)
18 原子力を生かした新しい文化創造のために(12)


 普及誌 『いのちの環』 No.66(2015/9)にも掲載されている、谷口雅春先生著 『新版 幸福を招く365章』 143ページには、「大自然の浄化力」として次のように書かれています。

≪     大自然の浄化力

 悪しき現象は煙のようなものである。濛々
(もうもう)と立騰(たちのぼ)る煙の中にいる時に、その煙を消そうとして更に燃料を注ぎ込んではならないのである。煙をして煙自身を処置せしめよ。必ず煙は薄くなり、やがて消えてしまうのである。

 宇宙には自浄作用と云うものがある。その自浄作用が神の癒やす働きであり、傷をしたときに中から自然に癒って来る働きであり、大掃除をしたときの空中の埃
(ほこり)が自然に消えて行く働きであり、諸君が病気や不幸に見舞われたとき、それに心を捉えられなければ自然にそれが癒されて行く根源力である。この根源力を吾々は神と云うのである。≫

 と。

 聖経 『甘露の法雨』 「神」 の項には、

≪……絶対の愛。
これらは大生命――
絶対の神の真性にして
神があらわるれば乃
(すなわ)
善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食
(は)むものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし。≫


 とある。その 「絶対の愛」 なる神、完全なる神を信ずるのが本当の宗教である。現象界は不完全で「八苦の娑婆」である。そこから救ってくれる神は、愛が足りなかったり、力が足りなかったりしたのでは救いにならない。安心立命を与えるのが宗教の役目ならば、絶対の愛なる神、完全なる神がなければならない。

 そしてその神は、

≪神こそ渾(すべ)ての渾て、
神は渾てにましまして絶対なるが故に、
神の外にあるものなし。
神は実在のすべてを蔽う。
存在するものにして
神によって造られざるものなし。≫


 でありますから、「原発の核廃棄物の放射能は、神にも浄化できない」 などということは決してないのであります。「神があらわるれば乃ち 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく……」 となることは必定なのであります。

≪ 日本で脱原発が進むにせよ、進まないにせよ、今後は中国やインドなどの新興国を中心に原発の新規建設は進んでいきます。その際に、高度な原子力技術を有し、事故の教訓も得た日本は、世界の原子力政策に貢献すべきではないでしょうか。

 安全性の上に安全性を追求しても、自動車事故で毎年約五千人が死にます。飛行機事故が起これば百人単位で死にます。だが、自動車をやめる、飛行機をやめる、とはなりません。より高い安全性を追求して努力していくのみです。

 原発も同じだと思います。日本の耐震技術は世界一です。そのことは今回のマグニチュード9.0の激震でも女川原発や福島第二原発はきちんと冷温停止したことで証明されました。それでも津波によって福島第一原発の事故は起こりました。

 何がいけなくて、何が足りなくて、何が欠けていたのか。設計をはじめとする技術の問題はもちろん、安全対策のあり方、そのための人的訓練、そして何よりも原発の建設、運用における体制、組織、システムなどに徹底的にメスを入れ、改善を図れば、安全性が飛躍的に向上することは確かです。技術に完全な安全はないが、完全な安全に無限に近づくことはできるはずです。

 日本は世界唯一の原爆被爆国であり、また原発事故もありました。世界は、原発廃炉への処理技術や、今後の技術革新による原発の安全な平和利用について、かたずをのんで日本を見守っています。

 「無駄なものは何もない」。原子力エネルギーも、放射線も神の愛、仏の慈悲の表れであると信じます。福島の事故は、原発の安全性をより高めるための教訓の宝庫です。それを生かすところに日本の使命があり、「失敗したから廃止」では、智慧もないし使命も果たせないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。≫


 と、私は[質問3]の最後に書いておりました。いま、その思いを深めています。

  (2015.8.23)
19 『復興の日本人論 ~誰も書かなかった福島~』を読んで(1)


 
『復興の日本人論 ~誰も書かなかった福島~』 (川口マーン恵美著・グッドブックス 2017.12.1刊) を読んで、思うことを、これから数回にわたって書きたいと思います。

          ○

 著者の川口マーン恵美さんは、ドイツに35年以上住んでいる作家・ピアニスト。著書 『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』(講談社+α新書)はベストセラーになった。
 『ヨーロッパから民主主義が消える』(PHP新書)など著書多数あり、2016年 『ドイツの脱原発がよくわかる本』(草思社)は第36回エネルギーフォーラム賞・普及啓発賞を受賞している。

 このたびの 『復興の日本人論』 の 「序章」 では

≪ 日本は世界で稀に見る優秀な人的資源をもつ素晴らしい国だ。島国だから、日本なりの正義、倫理、不文の掟ができた。争わずに物事を解決する知恵も育まれた。

 なのに今、福島の復興を邪魔しているものは、よりによって、その日本的な思考法のようにさえ感じる。

 ……そんな思いを巡らせているうちに、本稿はしだいに、福島をめぐる 「日本人論」 となった。≫


 と書かれていて、

≪ 外から見ていると、今の日本は、かなり危うい。

  ドイツ在住の作家が、“大切な祖国が没落しないために” 取材を重ねて書いた本≫


 と、カバーの帯に記されている。



 章立ては、

≪序章 ドイツから3・11後の福島ヘ
 第一章 巨額の賠償金が生んだ 「分断」
 第二章 東電は謝罪していないのか
 第三章 風評を作り続けるマスコミ
 第四章 報道よりもずっと先を行く福島
 第五章 ドイツの失敗を繰り返すな
 第六章 日本が原子力を選択した日
 第七章 復興への希望と力≫


 となっている。

   この各章を読むと、著者 川口マーン恵美さんは、ドイツ・シュトゥットガルト在住の方だけれども、遠くドイツに居ながらこの福島のことを書いているのではなく、しばしば日本に来て福島を訪ね、2年以上精力的に福島を取材して、足と目と耳で――もっと言えば全身全心全霊で書かれたのが本書であることがわかる。

 この本を読んで、私の魂に湧き上がる思いを、これから書き綴って行きたいと思います。

  (2017.12.5)


20 『復興の日本人論 ~誰も書かなかった福島~』を読んで(2)


 #19 で、≪『復興の日本人論 ~誰も書かなかった福島~』 (川口マーン恵美著・グッドブックス 2017.12.1刊) を読んで、思うことを、これから数回にわたって書きたいと思います≫ と昨年12月5日に書いておきながら、1ヵ月以上ご無沙汰して失礼してました。これから、それを書きたいと思います。

 表題の本の著者川口マーン恵美さんは、「桜チャンネル」でこの1月5日からはじまった 「エネルギーは現在(いま)」 という新番組のキャスターの1人として、日本のエネルギーと原発の問題について熱っぽく語っておられます。

 「日本は、ドイツの失敗を繰り返してはならない!

 と。YouTubeで見られますから、今後を楽しみに拝見・拝聴いたしましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=5ondbo5Iv5I

https://www.youtube.com/watch?v=yGKAavzA5as

          ○

 その前にちょっと、今朝の日経新聞を読み、自分の生きる姿勢について思いを新たにしたことを、記したいと思います。

 まず、医療・健康のページで、こころの健康学として精神科医の大野裕さんが、

 『自分貫く 「棒」 は何か考える』

 と題して、次のように書いておられました。

≪ 年が改まった。それぞれの人がそれぞれの思いで新年を迎えたことだろう。しかし、年が変わったからといって自分が変わるわけではない。まわりの環境も同じように続いていく。

 私が好きな

 「去年今年
(こぞ・ことし)貫く棒の如きもの」

 という高浜虚子の俳句がある。新年になっても変わりなく続く自然の原理を力強く表現した句だといわれている。しかし、それでも私などは、新年を迎えると、自分が少し変われたような感覚になれる。

 自分がいくらかでも変われたような気持ちになれるのは、変わらない自分を同時に感じているからだろう。本来の自分をしっかり持てていれば、さらに新しいものにチャレンジしながら変わっていける。逆に、本来の自分が揺らげば、先に進んでいくことはできない。

 30年以上前の米国留学時に、……一体自分がなぜこんなところに飛び込んだのか、この先どうなるのかと、不安になったのを思い出す。

 そうした心理状態では新しいことにチャレンジできず、自分の世界に閉じこもりがちになった。何とか抜け出すまでに1年近くかかった。それは家族をはじめ周囲の支えがあったからではあるが、少し格好良くいうと、精神科医としての自分の立ち位置を忘れなかったことも影響していた。

 新年に、自分の 「棒の如きもの」 が何か、少し考えてみてもよいだろう。≫


 ――私にとって、「貫く棒の如きもの」 は、もちろん、

 「久遠の今」

 でなければならない。――と、即座に思いました。


 また、同じページに、「音楽療法」 の話も大きなスペースを使って、書いてありました。

≪   広がる音楽療法 認知症に効果も

 音楽を心身の健康維持や傷害の回復に役立てる音楽療法は全国の医療機関などで普及しつつある。幅広い症状や年齢層を対象とし、免疫機能が向上したり認知症の進行を抑えたりする効果が認められるという。

 米国で第2次世界大戦中、負傷した軍人を音楽家が支援する活動から始まったとされ、1950年に全米音楽療法協会が発足。その後は欧米を中心に発展してきた。

 日本でも2001年4月、音楽関係者や医療従事者らからなる日本音楽療法学会(東京・港)が設立された。専門の講習を受けるなどした同学会認定の「音楽療法士」は16年4月時点で約3千人に上り、病院や介護福祉施設を中心に全国で活躍している。……≫


 私も現在、音楽――無我になってきれいなハーモニーを、神からの贈り物としてよろこび歌わせて頂くコーラスを、やっています。これからも、人々に生きる喜び、やすらぎと感動を与える音楽活動を一所懸命やっていきたいと思います。


 スポーツ欄には、昨日行われたラグビーの全国大学選手権決勝戦の記事に感動した。

≪ ……ラグビーの全国大学選手権は7日、東京・秩父宮ラグビー場で決勝が行われ、帝京大が21―20で明大に逆転勝ちし、史上最多を更新する9連覇を達成した。

 帝京大は前半、明大に押し込まれ、7―17と劣勢で折り返した。後半も最大13点のリードを許した。

 王者と思えぬエラーが続発した。後半半ばで13点差。なおも自陣スクラムというピンチで、帝京大の堀越主将は笑って味方に語りかけた。

 「ここが一番楽しいところだぞ」

 今季の帝京のテーマは 「エンジョイ」

 岩出監督が掲げたのが、試合の各場面を楽しむことだった。練習でもピンチでの粘りを意識的に磨いてきたという。約10分後の逆転劇もそのたまものだった。

 自陣ゴール前で相手が反則。キックで陣地を稼ぐのが定石だが、ボールに駆け寄ったSH小畑は小さく蹴って速攻を仕掛ける。周囲の反応の速さとボールつなぎの巧みさは、大学ではめったに見られぬものだった。約90メートルをつないで一気にトライ。

 狙い通りの逆転劇での戴冠だが、「エンジョイ」 したのは帝京だけではない。明大の選手からも 「楽しかった」 「やりきった」 の声が出た。「見た方に大学ラグビーの魅力を感じてもらえたと思う」 と岩出監督も胸を張るスペクタクルな一戦。9度の優勝の中で 「楽しさ」 の総和は今年が一番だった。≫


 私も、困難な課題やピンチに面しても、明るく 「エンジョイ」 してそれを乗りこえる覚悟を新たにしました。

  <つづく>

  (2018.1.8)


21 『復興の日本人論 ~誰も書かなかった福島~』を読んで(3)


 『復興の日本人論 ~誰も書かなかった
福島~』 (川口マーン恵美著・グッドブックス 2017.12.1刊) を読んで、私の魂に湧き上がる思いを、書き綴って行きたいと思います。

 まず <<第一章 巨額の賠償金が生んだ「分断」>> を読んで。思うことは――

 「復興」 とは何であるか、ということ。


        
「復興」 とは何であるか


 日本経済新聞夕刊の 「明日への話題」 というコラムで、1月から毎週木曜日の執筆者として岡本全勝氏(元東京大学大学院総合文化研究科教授、元復興庁事務次官)が書いていらっしゃる。

 岡本氏は、東日本大震災から1週間後の2011年3月18日、勤務していた自治大学校の校長室に電話がかかってきた。「明日朝10時に総理官邸に出頭するように」 と。

 そして、「膨大な被災者が発生している。その人たちの生活を支援するチームの事務の指揮を執れ」 「何をすればよいのでしょうか」 「それを考えるのが君の仕事だ」。

 ということになった。

 物資配送、避難所の生活改善、インフラ復旧、被災者と国民への情報提供、現場職員の応援、全体を管理調整する担当などの仕事を、走りながら作ったという。

 緊急事態のときの支援には、当然そういうことが必要であろう。

 ところでそれから7年目となり、形の上の復興は進んでいる今――偏って進みすぎているところがある――重要な問題は何処にあるか。いま、本当に何が必要なのか。

 昨年3月10日の日経新聞夕刊 「あすへの話題」 欄に、法隆寺管長の大野玄妙氏が、「仏・法・僧の回復」 と題して書いておられたコラムの切り抜きが印象に残り、保存してあった。



 ――上記で、聖徳太子が篤
(あつ)く敬うよう示された 「三宝」 すなわち 「仏・法・僧」とは、

≪ 「仏」 は仏になること、つまり目的や理想。
   「法」 は計画、指南書のこと。
   「僧」 は仲間だ。≫

 と言われているのは、ユニークで面白い。

 仏は仏像、法は戒律、僧は坊主のことだろうと思っていた人もあるだろうから(私も実はそのように誤解していた)。

 表題の本では、福島県双葉郡川内村の遠藤雄幸 村長が言われた

 「震災の前の状況にならなければ、復興が完成しないなんていうことになったら、復興はないです。百パーセント昔と同じ状況なんてあり得ない。」

 「大切なことは村民が生きる意欲や誇り、目標を見失わないようにすること。夢や生きがいを見出せないところに、いくらお金だけつぎ込んでも、それは本当の復興にはなりません。」

 という言葉に、その通りであろうと思う。

 皮肉なことに、野放図に出された巨額な賠償金(2017年までに総額7兆5千億円が支払われたという)などが、却って被災地域の人々の一体感・仲間意識、生きる意欲を損ねているという実態が、同書では報告されている。

 表題の本 『復興の日本人論 ~誰も書かなかった福島~』 の著者 川口マーン恵美さんは在独三十数年、現在も本拠地はドイツで、シュトゥットガルト在住の方だけれども、しばしば日本に来て福島県を訪ね、2年以上精力的に福島を取材して、足と目と耳で――もっと言えば全身・全心・全霊で書かれたと言えるのが本書である。

 一例として、福島県いわき市の現状が挙げられる。

 いわき市は、水素爆発・炉心溶融などを起こした福島第1~第4原発から約30キロ南の浜通り(太平洋沿岸部)に位置する、人口約35万人、面積1,231.34km²で人口・面積共に福島県最大の都市である。

 原子力発電所の事故では、歴史的・経済的に繋がりの強かった双葉郡の住民を中心に約24,000人が避難しており、いわき市を転出した住民の減少分を上回っているため、結果的に人口が増加している。

 いわき市に臨時の役場機能を置いているのは、楢葉町・富岡町・大熊町(原発1-4号機所在地)、双葉町(原発5-6号機所在地)。浪江町も2,000人以上の避難者がいるため出張所を置いている。 広野町も住民の9割がいわき市居住。

 いわき市は被災者用として、市民に対する仮設住宅の建設は200戸程度であったが、双葉郡の避難者向けの仮設住宅が市内各地に3,300戸以上建設された。

 市内の住宅地価が震災前に比べて平均で15%上昇し、2015年・2016年と2年連続上昇率日本一。人気地点で30~40%上がって、住宅地上昇率全国上位10地点すべてをいわき市が占めた。

        
賠償金格差が“亀裂”を生む

 いわき市の中心から車で15分ほど南に行ったいわき中央台の新興住宅地を、地元では 「賠償御殿」 と呼んでいた。

 ここは元々、いわき市の中では高級住宅地で、お金持ちが家を建てて移り住んだため、「医者村」 と言われていた。3・11のころは、この 「医者村」 にも、まだ売れ残りの区画がたくさんあって、広々とした光景だったという。ところが、今では風景は一変。瀟洒なデザインの豪邸 「賠償御殿」 が、余す区画なく立ち並んでいる。

 それは、事故原発から20キロ圏内の双葉郡から避難してきた、難民ともいうべき人たちの “御殿” なのである。

≪ この 「医者村」 と道一本を隔てた広い区画に、仮設住宅が立ち並んでいる。四角い箱のような住宅群は、世にいうバラック。

 いわき市平豊間
(たいら・とよま)の中峯さんは、3.11のとき家を津波にさらわれて失った。体育館など、避難所を転々として、最後は、友人の持っているアパートに、やはり被災したご主人のお姉さん一家と同居した。津波の被害者には、100万円の見舞金が出た。

 中峯さんの住んでいた豊間では、85人が命を落とし、600軒あった家が、津波の後は50軒しか残っていなかった。なのに、あまりニュースにならなかった。なぜか? いわき市の津波の被害地は原発に近かったため、放射能を恐れてマスコミが入らなかったからだという。

 入らなかったのはマスコミだけではない。支援物資を運ぶ人たちも来なかった。中峯さんが高校の体育館に避難していたある日、1グループにおにぎりが1つと水が1本配られた。1グループの人数は23人。いわきでは、実質、流通が止まってしまった時期があったのだ。

 しかし、そんな話は報道もされず、福島について伝えられるニュースは、とにかく原発一色だった。

 中峯さんが、前記 「医者村」 と道一本を隔てた仮設住宅に移ったのは、震災の年の6月のこと。「ここに入居できたとき、嬉しかったの」

 嬉しかった? 広々とした家に悠々自適で暮らしていた人が、この、見ただけで圧迫感を覚える仮設住宅に入居できて嬉しかった?

 「なぜですか?」 と思わず聞くと、中峯さんは言った。

 「だって、やっとお父さんと二人になれたもの、ホッとした」

 震災から数ヵ月、ずっとプライバシーはなかった。ホッとできる時間は、避難所でもなかったし、アパートでも、一時さえなかった。でも、ここではようやく誰にも遠慮しないで済む! 中峯さんは、ここで二年半を過ごした。

 振り返れば、この、「夏は暑くて冬は寒いバラック」 での生活も、悲しいことばかりではなかった。今は、団地タイプの復興住宅に移ってドアをピタリと閉ざした生活をしていると、ふと、仮設住宅に住んでいたころを懐かしく思い出すことさえあるという。……≫


 ――そのように本当に苦しい生活を強いられながら健気に生きている人たちがいる一方、東電から一世帯で1億円を超えることもあるという巨額の賠償金をもらい、「賠償御殿」 といわれるような豪邸を建てて優雅に暮らしている人たちがいる。

 津波ですべてを無くした(元々いわき市の住民だった)被害者には、国などから百万円の見舞金が出ただけだが、国の避難命令で自宅を離れさせられた(原発から20キロ圏内の)双葉郡の人たちには東電から莫大な賠償金が出、同じ市内で信じられないほどの貧富の差ができていたのである。

 賠償金は、まず心身の苦痛に対する賠償480万円に加えて、事故のせいで失業した人には、事故前の収入がそのまま賠償金として支給された。

 事業を経営していた人、あるいは、酪農や農業、漁業などを営んでいた人には、その売上額も補償された。これらは事業の規模にもよるが、年間で億を超えることも稀ではない。

 さらに、宅地、建物、田畑、家財、山林などを持っていた人には、その価値に応じて、賠償金が支払われた。これは家や土地の全損扱いの賠償なので、通常なら所有権は東電に移転するはずだが、東電は所有権を放棄した。つまり、家や土地の所有権は元のまま、今住むために新しく購入した家は、やはり東電が支払ってくれる。

 住民の間に、深い亀裂が走っている。あちこちで、「なぜ、うちにも少し放射能が飛んでこなかったか」 と、冗談とも本音ともつかない言葉が飛び交った。津波は天災だから仕方がない。それはわかっていても、不公平感を拭い去ることは難しかった。

 ある人は言う。

 「パチンコやスロットはいつも満員だし、毎週のように子供を連れてディズニーランドへ行く人もいる。郡山では、デパートや不動産屋なんかも、つぶれそうだったのが、皆、見事に生き返りました」

 住民税も健康保険も無料。診療の際の個人負担もなし。NHKの受信料も、子弟の学費、大学の学費も免除。もちろん仮設住宅は無料。損害賠償や慰謝料は所得として計上されない。

 高速道路の料金も、乗降地のどちらかが福島県内であれば、無料になる。「日本国内どこまで乗ってもタダです。だから、免許証は更新したけれど、住所は元の町のまま。」

 「賠償の話は、すれば必ず摩擦が起こるので、もう誰もしません。たまたまそのとき、住民票をほかの場所に移していた人はもらえません。気の毒だとは思うけど、誰も何も言わない。とにかく、皆、疑心暗鬼です。それがために結婚できた人もいれば、結婚できなくなった人もいる。口もきかなくなった親戚もいるわけです」

 避難を指示され移住を余儀なくされた人たちは、他の土地に、元の家に見合った代替の家を買うと、それを東電が支払ってくれる。これは住居確保損害といい、査定は、結構寛大だという。

 損害が発生しているという事実が確認されれば、領収書さえ出せば東電は一週間ぐらいで全額を支払ってくれる。登記簿か何かを提出しなければならないかというと、それも要らない。

 「だから、買った家を、即、売ってもいい。同じ値段で売れば、現金化できます。または小さな家に買い換えて、あとは貯金したりと、自由自在です」


 ――それでも、「あいつに比べて俺は少ない」 とか、金額に不満のある人がいるという。

 その天文学的な金額になる賠償金は、東電だけでまかなえるものではないから、結局は国民の税金から拠出することになっているのだということ。


 「東電宝くじ」 という言葉が流れている。


        宝くじ高額当選者の悲惨な末路

 宝くじで高額当選から一転して破産したり金と幸せを引き換えに悲惨な末路をたどった人たちの話はよく耳にすることである。

 高額の当選金を何に使ったか分からないほど散財し、一度上がった生活の水準を下げられずに消費者金融から借金した結果、自己破産をしたとか、

 夫が外で豪遊するようになり結果として仕事を辞めてしまい、離婚することになったが貯金はゼロで、夫に慰謝料と養育費の請求もできない状態になってしまったとか

 当選者の90%が 「嫉妬」 されて友人たちに嫌われ友人をなくす・・・とか、

 体重が増加して健康を害する――今までは歩いたり公共の乗り物を利用していたのにかかわらず、お金を手に入れて簡単にタクシーを利用するようになった、肉体労働を辞めてしまった、お手伝いさんを雇い、家事で身体を動かすこともなくなった、そして贅沢な料理を頻繁に食べるようになった・・・で、金を手に入れた当選者が太って健康を害するのも無理がない、ということになる。

 それに似たようなことが、東電から高額の賠償金をもらった人たちに起きている、そして地域のコミュニティを破壊している実例が見られるということ。


 表題の本から、もう少しその実例の記述を挙げましょう。

≪ (いわき市の)谷川さんは言う。

 「双葉郡
(著者注・福島原発の立地地域)の人たちには同情しました。放射能のこともあって、気の毒に、皆さん、本当に小さくなって暮らしていらした。娘の高校には双葉の子もいたし、津波で家を流された子もいた。『大変だったわね』 と皆で力を貸したのです」

 ところがそのうち、賠償金の話が伝わってきた。

 「もちろん賠償金をもらうのはいいんです。でも、その額があまりにも桁外れじゃないですか!」

 それ以後は、とにかく不協和音の連続だった。

 「大学受験になった。仲の良かった子供たちのグループでは、私たち母親も付き合いがあって、それまではときどき皆で食事をしたりしていました。でも、受験で明暗がはっきり分かれたのです。

 双葉の子は私立大学に受かったうえ、学費免除で大喜び。片や、家を流され、お父さんが失業しているお宅では、子供が国立に落っこちてしまった。私立の学費なんかとても出せない。お母さんが泣いていましたよ。

 賠償をもらっている人はお金が腐るほどあるだろうに、なぜ、学費免除なのよって、当然、皆が思います」

 いわき市の不動産の値上がりは、2015年、16年と日本一だった。高級車の売り上げも好調で、ゴルフ場も夜の街も満員御礼。不公平感は膨張していたと、谷川さんは言う。

 「スーパーで大きなカート2台分、山積みの買い物をしている人たちがいる。それを見て、皆が 『あ、賠償金だ』 と思うのは仕方ないですよ。今、いわきの新婚さんはマンションも借りられなくなっています。その脇に、土地を2区画も買って豪邸を新築している人たちがいる」

 2012年の12月には、いわき市の市役所の玄関の柱に、「避難者、帰れ」 と落書きされる事件も起きた。≫


 「過ぎたるは猶
(なお)及ばざるがごとし」 で、過ぎた賠償金は結局、もらった人をも不幸にしていることがあるのではないか。

 今日拝読した聖経 『真理の吟唱』 に、次のようにありました。


≪     愛の天国を実現する祈り

 私は神の子である。神は無我の愛である。それゆえに私の内には “神の無我の愛” が宿っているのである。いな “神の無我の愛” こそ私の実相であり、私のいのちであり、私の本体であるのである。

 それゆえに、もし私が “神の愛” を私の生活に実現することができなかったならば、私のいのちは生きていないことになり、私の本体は生きていないことになるのである。たとい懸河の雄弁を揮って真理を説くとも、もし “愛” が私のその弁舌の背後になく、生活に “愛” が実践されていなかったならば、私の生活は死んでいるのである。

 愛は神より出で、世界と人間とのすべての関係をなめらかに潤滑する油となるのである。もし愛が人々の心のうちになくして、人間関係が結ばれるならば、必ずやそこに摩擦が起り、争いが起り、衝突が起り、たがいに傷つき、たがいに破壊し、不幸が続出することになるのである。

 愛はすべての人間の心と行動とを柔らげ、一切の摩擦と衝突と争いとを無くするのである。

 すべての行為の背後に、その奥に愛があるとき、その行為は必ず自分を生かし、また多くの人々を生かす事になるのである。愛は生活に美しき彩りを与え、人生を麗わしきものとし、人生を住みよき場とし、人生に生き甲斐を与えるのである。

 それゆえに私は常に人生を愛をもって彩り、深切をもってモットーとし、ていねいに愛を籠めて何事にても行なうのである。すべての物事を深切丁寧に行なったとき、私の魂には “生活の歓び” が湧いてくるのである。

 愛は、自分の接するすべての人々に歓びを与え、すべての人々に生き甲斐を感ぜしめるだけではなく、自分自身の魂に歓びを与え、自分の魂を生長せしめ、自分の生命を発達せしめ、自己が “神の子” としての完全な実相を現実世界に実現せしめることになるのである。

 それゆえに、愛を生活に表現する人の事業は常に繁栄し、愛を生活に実践する人は常に健康となるのである。愛は人々に幸福を与えるがゆえに与えれば与えられるの法則にしたがって、自分自身にあらゆる幸福をもち来すのである。

 人生に神の無我の愛が潤いを与えるとき、天国から花びらがさんさんと降り来るがごとく、人間の世界は美しく飾られるのである。

 今私の魂には “神の愛” が降りそそぎ、“神の愛” に満たされ、私の魂の内に天国が造られているのである。それゆえにわが向かうところ悉く天国となり、楽園となり、幸福の国となるのである。

 この真理を知らせ給い、愛を実現する力を与えたまいしことを神に感謝いたします。ありがとうございます。≫


 ――こういう愛の心を復興することこそ、真の復興であろう。こういう愛の真理を伝えることにこそ、宗教の出番があるのではないでしょうか。

  (2018.1.12)

   <つづく>


22 「三宝=仏・法・僧を敬え」 ということ


 前項 #21 で、法隆寺管長大野玄妙氏の 「仏・法・僧の回復」 というエッセイを読み印象的で面白いと思ったと書きました。聖徳太子が篤く敬うよう示された「三宝」すなわち仏・法・僧について、

≪ 「仏」 は仏になること、つまり目的や理想。
   「法」 は計画、指南書のこと。
   「僧」 は仲間だ。≫


 と言われている。「仏」 は仏像、「法」 は戒律、「僧」 は坊主のことだろうと思っていた人もあるだろうから(私もそのように誤解していた)、ユニークな説で面白い、と。

 この「あすへの話題」に書かれたエッセイは、聖徳太子の十七条憲法第二条に 「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」 とあるのを取り上げて書かれたものですが、その仏・法・僧の研究について、私は #224 でも書いていました。もう一度復習しましょう。

          ○

 『大般涅槃経
(だいはつねはんぎょう)』 の 「聖行品十九之下」 に、

≪ 善男子(ぜんなんし)、常(じょう)とは即ち是れ如来、如来は即ち是れ信、信は是れ常なり。……善男子、一切の有為(うい)は皆是れ無常なり。虚空は無為なり、是の故に常と為す。仏性は無為なり、是の故に常と為す。虚空とは即ち是れ仏性、仏性とは即ち是れ如来、如来とは是れ無為、無為とは即ち是れ常、常とは是れ法、法とは即ち是れ僧、僧とは即ち是れ無為、無為とは即ち是れ常なり。≫

 とあります。難解な経文ですが、谷口雅春先生は御著書 『大般涅槃経解釈』 で、次のように解釈されています。――

≪ 「常とはすなわちこれ如来、如来はすなわちこれ信、僧はすなわちこれ常なり」

 と仰せられておりますが、「常」 とは 「常住不滅の実在」 ということであります。

 これを見ましても、僧というのはそこらに袈裟ごろもをつけて、お経をとなえて生活している肉体のお坊さんの事ではないことが明かであります。……「常住不滅の実在」 が如来であり、その如来そのものが僧であります。

 聖徳太子の十七条憲法に 「篤く三宝を敬すべし」 とありますが、“三宝” すなわち、“仏法僧” の “僧” というのを、肉体を備えたお寺の坊さんだと思って、「拙衲
(わし)を敬しなさい。聖徳太子が、そう言っていられる」 などと言えば、それは噴飯ものであります。

 「僧」 とは 「如来」 そのものであり、「常」 即ち常住不滅の真理そのものの実現こそ 「僧」 であって、やがて病み老い朽ち果てる肉体のお坊さんのことではないのであります。不滅の真理そのもの 「僧」 なる理念そのものが本当の 「僧」 であって、お寺の坊さんはその本当の 「僧」 なる理念を実現し得るよう充分修行すべきものであります。

 ……「一切の有為は皆是れ無常なり」 であります。「有為」 というのは 「現象にあらわれて有るもの」 であります。これに反して 「無為」 というのは 「現象にあらわれていないもの」 のこと、現象以前のもの、「実相」 のことであります。≫


 ――とすると、法隆寺管長の大野玄妙氏が言われる、“僧” は “仲間” だというのは、実相の “神において一体なる兄弟” という意味において真実であるのである。

 仏・法・僧の三宝は一体である。仏如来は常住であり、それを説く法もまた常住であり、僧もまた常住である。常住とは、時空を超えた 「久遠の今」 にあることである。「久遠の今」 において、三宝に差別は無いのである。

 だから 「篤く三宝を敬え」 というのは、形の仏像や出家した僧侶を敬えということでないのは勿論である。聖徳太子も、その著 『三経義疏』 で維摩経をとりあげ出家を否定し、「出家された僧侶には近づくな」 と書かれている。

 谷口雅春先生は、つづいて次の如く説かれている。

≪ 「虚空は無為なり」 とあります。虚空とは 「何もない」 ということではなく、「現象にあらわれていないもの」 のことであります。現象にあらわれていないものは 「常」 すなわち変化しない恒常的存在であります。

 永遠常住の仏性は現象にはあらわれていない、それは 「無為」 であり、常恒であり、天体と天体との間の 「真空」 みたいに常に変化しない。これが仏性であり、それが如来である。それが人間の本体であり、実相であり、「無為」 すなわち現象以前のものである。

 現象以前に存在するのが 「法
(のり)」 であり、「僧」 である。「僧」 とは肉体ではない。「無為」 すなわち現象以前の理念である。それは如来であり、法身であり、常恒不変不滅の存在である――と釈尊は仰せられたのであります。≫

 と。そして、涅槃経ではつづいて

≪ 諸(もろもろ)の外道(げどう)は、仏性、如来、及び法を見ず。この故に外道の言説する所は、悉く是れ妄語にして真諦(しんたい)有ること無し。≫

 とある。「外道」 とは、ほかの道――仏説以外の他の教え即ちバラモン教などをさします。谷口雅春先生は

≪ この一節は釈尊が如何にその教説においては他教を激しく攻撃していられるかがわかるのであります。

 「生長の家」 は 「天地一切のものと和解せよ」 という教えであります…… 『生命の實相』 の 「倫理篇」 に書かれておりますように、和解するのは、相手の実相の完全さを観じ、その完全さをみつめて、それを観じ引出し、その完全さと和解するのであって、邪宗の間違った教説に和解するのであってはならないのであります。

 教説の間違いは出来るだけハッキリそれを指摘して、正しい真理を宣べ伝えなければ、邪宗がはびこり、真理がくらまされるだけ、人類の不幸は増すのであります。だから、釈尊でも、このように外道をはげしく攻撃しておられますし、キリストはパリサイ人やサドカイ人を激しく攻撃していられるのであります。

 生長の家の信徒も、「これこそが真理である」 と信じられたならば、どんな邪宗が誘惑に来ましても、それを外道であるとして、大胆に説破する勇気をもたなければなりません。これが釈尊の生活態度を学ぶ釈尊の弟子としての行持なのであります。≫


 とおっしゃっているのであります。


  (2018.1.14)


23 「仏・法・僧を敬え」は、「『生命の實相』に還れ」ということ


 前項 #22 を復習しますと――

 聖徳太子が篤く敬うよう示された仏・法・僧の三宝は、一体である。仏如来は常住であり、それを説く法もまた常住であり、僧もまた常住である。「常住」 は、時空を超えた 「久遠の今」 にある。「久遠の今」 において、三宝に差別は無い。

 だから 「篤く三宝を敬え」 というのは、形の仏像や出家した僧侶を敬えということでない。それは――

 谷口雅春著 『生命の實相』 第1巻 「初版のまえ書き」 に、次のように書かれている。

≪ 「生長の家」 の生きる道は私が肇(はじ)めた道ではない。おおよそ、宇宙に生命が発現するかぎり、そこに道があり、法則がある。この道こそ 「生長の家」 の生きる道である。

 「生長の家」 の説く道は机上の空論ではなく生命の法則であるから、道すなわち生活であるのである。この法則を自分自身の生活に生きるとき 「生長の家の生き方」 として展開し、他人の生活におよぼすとき隣人への愛行となる。

 ここに一つの道は展開して生活となりさらに展開して愛行となるのである。愛行のうちに生活があり、生活のうちに道があり、道と生活と愛行とは三位にして一体である。

 道が生活の上に悟られるときそれは救いの相
(すがた)をもって顕われ、メタフィジカル・ヒーリングとなって、健康境遇性格の改善等をおのずから成就する。これは 「心の法則」 の実証であって物質的治療法に対する超物質的治療法である。……≫

 そして、「總説篇」 「七つの光明宣言の解説」 の冒頭に

≪ 生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。≫

 とある。「七つの光明宣言」 の第一ヵ条は、

≪ 吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順(ずいじゅん)して生活せんことを期す。≫

 であり、その解説として

≪ われわれおのおのそのものが一個の 「生命」 であります。何ものを否定しましても、自分が生きているという事実は否定できないのであります。……

 われわれが 「生命」 を礼拝すると申しますれば、自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い 「生命」 であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。≫


 と示されている。

 聖徳太子の 「篤く三宝を敬え」 は、「自分自身を篤く敬え」 ということなのである。――と、私は思う。

 「三宝は一体である」 ということは、「道と生活と愛行とは三位にして一体である」 と 『生命の實相』 の 「初版のまえ書き」 に書かれていることに通じる。

 されば、「仏法僧を敬え」 というのは、「『生命の實相』 に還れ」 ということだ――と、私は思う。

 そして――

≪ 「生長の家」 は 「天地一切のものと和解せよ」 という教えであります。…… 『生命の實相』 の 「倫理篇」 に書かれておりますように、和解するのは、相手の実相の完全さを観じ、その完全さをみつめて、それを観じ引出し、その完全さと和解するのであって、間違った教説に和解するのであってはならないのであります。

 教説の間違いは出来るだけハッキリそれを指摘して、正しい真理を宣べ伝えなければ、真理がくらまされるだけ、人類の不幸は増すのであります。……それを大胆に説破する勇気をもたなければなりません。≫


 と、谷口雅春先生は 『大般涅槃経解釈』 の中でおっしゃっているのであります。

 私は、大野玄妙 法隆寺管長さんの

≪ 「仏」 は仏になること、つまり目的や理想。
   「法」 は計画、指南書のこと。
   「僧」 は仲間だ。≫


 と仰っていることを批判するために言っているのではありません。

 常住なる 「仏・法・僧」 を現象界に具体的に展開するときには、目的や理想を明確にし、計画・指南書を作り、仲間と手をつなぎ合って行くことが必要でありましょう。それを言って下さった大野玄妙氏には感謝します。しかし、その根源の常住なる 「実相独在」 の真理を自覚してこそ、完全な理想・神智による適切な計画、指南書・深い一体感をもった仲間も生まれてくるものだと思います。

  <つづく>

  (2018.1.15)


24 『復興の日本人論 ~誰も書かなかった福島~』を読んで(4)


 『復興の日本人論 ~誰も書かなかった
福島~』 (川口マーン恵美著・グッドブックス 2017.12.1刊) <<第一章 巨額の賠償金が生んだ「分断」>> を読んで、思うこと の 「まとめ」 をしたいと思います。

 「復興」 とは何であるか?

 2011年 3.11の東日本大震災で失ったインフラなどの外なる環境を元に戻すことだけが復興なのか?

≪ 震災の前の状況にならなければ、復興が完成しないなんていうことになったら、復興はないです。百パーセント昔と同じ状況なんてあり得ない。

 大切なことは村民が生きる意欲や誇り、目標を見失わないようにすること。夢や生きがいを見出せないところに、いくらお金だけつぎ込んでも、それは本当の復興にはなりません。≫


 と、福島県双葉郡川内村の村長 遠藤雄幸氏は言う。

 原発立地地域の人たちを強制退去させ、その人たちに桁はずれの巨額賠償金を出した結果、「賠償金格差」、大きな貧富の差を生み、それが地域の人たちの一体感を破壊し亀裂を招いていることは、#21 にくわしく紹介しました。


   「復興」 は、「人間復興」を目的とすべし。

 結論的に言えば、「復興」 は、「人間復興」 でなければならぬ――と、私は思う。

 つまり、本来の人間の幸福を取り戻す。災害以前よりもなおなお大きな幸福、本来の根元的幸福を、今、花開かせることが可能なのではないか――ということです。

 前記川内村の遠藤村長は、

 「一瞬にしていろいろなものを失いましたが、その失ったものの大切さに気づかされたのが、今回の事故なのかなと思います。たとえば、村を離れることによって、日本の原風景が残っている田舎の環境がどれだけ大切だったかとか、日々の何気ない生活がどれだけ愛おしく貴重なものだったかとか。人と人との関係もそうですし、そういったものを気づかせてくれたのが3・11だったと思います」

 とも言っている。それは貴重な震災の賜である。そこで村民が一層生きる意欲や誇り、夢や生き甲斐を見いだせたら、災害以前よりも大きな幸福をかちとることが出来る。

 「人間復興」 は、お金を出すことだけでは出来ない。お金を出し過ぎることは、むしろ復興の妨げになることもある。

≪ 福島のある地方銀行のホームページに載っている数字によれば、震災のあった2011年の3月、3兆4756億円であった預け入れ資産残高が、2017年3月の決算では6兆894億円と空前の額になっている。このお金が 「損害賠償」 の一部だとしたら、国民が拠出したお金が福島の銀行で眠っていることになる。復興の役にも立っていない。≫ 

≪福島には、今、発展の可能性が山ほどある。……日本中の人々が応援しようとも思っている。失敗に学び、立ち上がり、前進するにはもってこいの条件がそろっているのだ。なのに、なぜか考え方が前向きにならない。風評も消えない。災いを福にしようという考えがあたかも不謹慎なことのように、前進が妨害され続けている。≫

≪私は、福島の人たち自身に、もっと声を上げてもらいたいと願っている。福島には、原発事故の教訓をこれからの発展につなげたいと思っている人が、少なからずいるはずだ。災いを福にしようと堂々と提唱できるのは、今、彼らだけなのだ。≫

≪   日本再生の一歩を福島から

 福島県民が声を上げれば、日本人は勇気が出る。再生への第一歩を踏み出すために、今、福島の人たちがもつ力は、限りなく大きい。≫


   (川口マーン恵美著 『復興の日本人論~誰も書かなかった福島~』 より)


 ここに、宗教の出番がある。『生命の實相』 の出番がある、と思う。

 谷口雅春先生は、『維摩経解釈』 の 「法供養品」 解釈のところで、次のように書かれている。

≪……物質的な施設だけを与えて、それだけで 「わが施しは足れり」 と考えていると間違いであります。

 児童福祉施設をゆたかに造って児童に物質的なものを施すのは結構でありますけれども、児童がその恩に狎
(な)れてしまって感謝の念を忘れてしまうようなことでは、法施すなわち真理の供養を忘れているのだということになります。

 近ごろのように権利権利といって、子供は豊かにに養われる権利があるということだけを主張して、子供が豊かに養われるのは神の恩、父母の恩、衆生の恩というような恩によって養われるのだということを知って感謝する面を忘れさせていては、真理の供養になっていないのであります。六波羅蜜即ち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の六つの徳を積ましめ成就するように教えるのが本当の法施であります。≫


 と。

     世界が驚いた日本人のモラル

 2011.3.11 大震災の直後、日本人の行動に世界中から驚嘆――感嘆、賞讃の声が上がったことを思い出す。

 観測史上最大といわれる大地震津波が東日本を襲い、国難といわれるような大災害に面して、日本人は冷静さを失わなかった。整然と譲り合い・助け合いをする映像・報道が世界中に伝わると、それを見た世界中の人たちが、ツイッターなどに投稿する感動・讃嘆の声であふれかえった。

 本当に感動。泣けてくる。⇒ BBC めっちゃ誉めてる。地球最悪の地震が世界で一番準備され訓練された国を襲った。その力や政府が試される。犠牲は出たが他の国ではこんなに正しい行動はとれないだろう。日本人は文化的に感情を抑制する力がある。

 中国の国際問題専門紙 『環境時報』 も、「多くの中国人が、地震発生後の日本人の秩序ある行動に敬服している」 「日本人の冷静さが世界を感動させた」 などと伝えた。

 日本人はすごい!

 国内でも。普段は冷たいと思っていた他人の優しさに触れ、感動して泣きそうになった。日本人のいざという時の団結力を再認識しました。まだまだ日本も捨てたものではない――などなどの声が、ツイッターにあふれた。

 日本人には、「禍を転じて福となす」 不屈不撓の魂が厳存する。

 この魂をしっかと把持、復興させなければならない。それが 「人間復興」 であり、法供養、法施になるのだと思う。


 『生命の實相』 第20巻 「聖詩篇」 に、「生きた生命」 という谷口雅春先生の詩がある。

 →「生きた生命」

 真の復興は、「人間復興」 でなければならない。

 「人間復興」 は、『生命の實相』 にヒントがある。

 今こそ、『生命の實相』 を弘めるべき時であると思います。

  (2018.1.16)

   <つづく>


25 放射線は、神の愛の顕現である。放射線を怖がるな(1)


 福島の原発立地地域の人たちを強制退去させ、その人たちに桁はずれの巨額賠償金を出した結果、「賠償金格差」、大きな貧富の差を生み、それが近隣の人たちの一体感を破壊し亀裂を招いて、復興に支障を来していることもあるのを、#21 に詳しく紹介しました。

 では、お金は魔物だからと怖がって、出さない方がよいのか?と言えば、「そうだ」 と言う人はいないでしょう。

 「放射線」 についても、同じことが言えるのではないでしょうか。

 地球上の人類は、そしてあらゆる生きものは、太陽がなかったら生きていることはできない。太陽は核融合による文字通り天文学的な厖大なエネルギーを光や熱や放射線として発散し、それによって地球上の生物は生かされている。宇宙空間には、厖大な放射線が飛び交っている。放射線は神の愛の顕現である。

 温熱は神の愛の顕現である。しかし、熱は高すぎれば生物は死滅する。低すぎても同様であろう。適度な温熱が、生物には必要なのである。

 放射線も、同様ではないのか。

 神は、悪を作り給わない。実相世界に、悪は無いのである。キリスト教では「創世記」 で、「神その創造り給いしすべてのものを見給いけるに甚だ善かりき」 と書かれているし、仏教では釈迦が悟りを開かれたら 「山川草木国土悉皆成仏」 と仰せられたのである。

 生長の家では、神示講義 『神ひとに語り給ふ』 の 「新天新地の神示」 御講義の中で、谷口雅春先生は次のような体験実話を取りあげて書いておられる。


≪ 山下長三郎という人は、昭和五年頃、神戸の湊川公園の広場で 「衛生博覧会」 というのが開かれた事があって、そこへ往ったことがあったのです。そこに、「梅毒患者というのはこんなにグジャグジャとみぐるしい顔になるんだ」 とか、「子宮癌はこんな状態だ」 とか、「ブドー状鬼胎というのは斯ういう塊である」 とか、色々ないやらしい病気の肉体の腐爛したような姿のものをアルコール漬けにした実物や、実物そっくりの蝋細工でまるで本当の人間の病患部みたいにつくったものなどが、沢山並べてあるのであります。

 山下さんが、そんなものをズーッと見て行きますと、ガラス張りの陳列棚の中に、蝿の六百倍に拡大した模型が陳列してあったのです。蝿の六百倍というと、腹の直径が一尺五寸位の長さがあり、身長が二尺五寸もある位の大きさの蝿であります。それに黴菌が附いている有様を標本に拵
(こしら)えてある。その蝿の脚の一つ一つに一面に黴菌が胡麻ほどの大ききに拡大されて付着したように造ってあるのです。

 それは、菊を栽培していると油虫とか「ありまき」とかいう小さな胡麻みたいな虫がつきますね。まるであれが一杯付いている様に、蝿の脚全体に、見ても気持が悪くなるような具合に黴菌の付いている有様が巧妙に拵えてあるのであります。

 そしてその隣りには普通の茶碗に御飯を盛った標本が拵えてありまして、それに本当の大きさの蝿が五、六匹止っている有様をこしらえてある。これを肉眼で見るとわからないが、六百倍にこれを拡大したらこういうようにバイキンだらけになっている、ということを示す標本であります。

 山下長三郎さんはそれを見て、ゾーッとしたのです。「あーッ、いやらしいなあ」 と思った。

 それ以来、長三郎さんには食べものに対する恐怖心が起ったのであります。肉眼で見たら黴菌は見えぬけれども、この御飯にもどれだけ黴菌がおるかわからないと思うようになったのです。

 それでも御飯は食べておられたのですけれども、恐怖心が起ると、自律神経に過剰反応が起って、胃腸の働きに影響を起し胃粘膜に充血を起し、胃液の分泌に異常を来す。正しい成分でない胃酸がでて来て胃壁に潰瘍を起すということが、最近の精神身体医学でわかって来たのですが、実際そうなって来ましたのです。

 長三郎さんは胃潰瘍を起したのです。それから、兵庫県立神戸病院というのに二ヵ月程入院してやっと治った。だけどもそこから退院して来た長三郎さんは、もう御飯が恐しくてたべられないのです。御飯にはあんな黴菌が附いているという観念が消えないので、胃潰瘍が治ってからも、御飯が少しも食べられないのであります。

 お菜
(かず)も勿論、固いものを食べたら又胃潰瘍になって胃袋に孔があくかと思うと、恐しいので食べられなかったのです。

 そこで何を食べておられたかというと、蜂蜜を五貫目、これが一ヵ月に食べる主食物です。その主成分は果糖のような含水炭素でありますが、あれには単に糖分だけではなく色々の成分が含まれている。蜂はあれを食べるだけで、蜂の皮膚も羽根も、筋肉も出来るのですから、人間にとっても大変よい食品であります。

 その蜂蜜を一ヵ月に五貫目も食べる。併しそれだけでは足らんというのでいろいろの栄養素を薬店から買って来るんです。ビタミン剤は無論のこと、ポリタミンとかサナトーゲンとか色々の既に消化済の必須アミノ酸などを買って来まして、此れらの栄養剤がお菜であります。

 蜂蜜を主食物に此れらをお菜にしていると、それらははじめから消化しているから、胃腸に負担をかけないで、大丈夫だという訳であります。ところがそれではどうも元気が出ないのです。

 山下長三郎さんは、まだ私が住吉にいました時に、訪問して来られましたが、顔を見ると緑色の顔をして居られる。普通の人間の血色がないのです。自然食でないから、まだ何かの成分が足りないのでしょうね。身体は割合肥えて目方は十六貫程あると言って居られましたが、妙な血色で異常に緑色みたいな皮膚の色をしておられたのであります。

 それで私は

 「あんた、そんなものを食べておったら駄目ですよ。恐れるから胃潰瘍になるのであって、恐れなかったら何を食べても胃潰瘍にはならない。食物が自分を害すると思うから、思う通りに人間はなるのですから、“固い食物を食べると胃潰瘍になる” という観念を捨てなさいよ。あんたは蝿にバイキンの附いた標本を見てから恐怖心を起して自分で胃潰瘍を起したんだ。

 蝿なんて何が恐しいか。支那へ行くと、蝿が胡麻をふりかけたみたいにいっぱい御飯にとまっていても、平気で食べるのですよ。“そんなに蝿がたかっているものを食べたら衛生に悪いじゃないか” と言ってやると、“いや、蝿が喜んで食べる様なものは毒にならんから蝿が来るので大丈夫だ” と言って平気でたべる。

 なあに蝿なんて恐しい事があるものか、蝿がとまった食物をたべて病気になるのだったら、支那人は皆病気になって今時分は絶滅している筈だ。それが支那は五億の人口(当時)があって世界で一番人口が多いじゃないか。」

 こういう話をして、私は山下長三郎さんの恐怖心を除
(と)ったのであります。

 そして、私は山下さんに

 「君は一体何が好きだ」

 と言うと、

 「酢蛸
(すだこ)が一番好きだ」

 と言うのです。蛸のうでたのを二杯酢でたべるやつですね。

 「そんなら今日、家に帰って、白米の銀飯を炊いて、そして君の一番好きな蛸のウデたのに二杯酢をかけて食べなさい。なあに恐しいことはない。蛸は固い様だけれどもね、君が蛸が一番好きだったら、好きな物は一番よく消化するんだからそれを食べ給え」

 と言ったのです。

 そしたら山下長三郎さんは家に帰って、病気になってから始めて白米の御飯を食べた。それも一番好きな酢蛸をお菜
(かず)にして食べたのです。

 あとできくと、それはもう何とも言えん、極楽浄土で御馳走食べるより、まだ美味しかったということです。

 それっきり山下さんの胃潰瘍の恐怖というものが無くなった。そして大変喜ばれまして、それ以来生長の家に通って来られる様になったのであります。≫



 ――以上は、黴菌を恐怖してものが食べられなくなり胃潰瘍を起こした人の体験でしたが、これを読んで私は、いま日本で、あるいは世界で、放射線を悪い黴菌のように恐れるように多くの科学者やジャーナリズムがあおって、おかしなことになっているのではないかと思いました。

  (2018.1.18)


26 放射線は、神の愛の顕現である。放射線を怖がるな(2)


≪ 神はすべてのすべてであり給う。天地一切のものは、神の愛と智慧と生命との顕現であり、私たち人間も神の愛と智慧と生命との鎮現であるから、天地一切のものと、私たち人間とは、同根であり、兄弟姉妹であるのである。それゆえに、天地間の一切のもの悉くみな私たちの味方であって、私たちを害する者など何一つないのが実相であるのである。

 もし私たちが何者かに害されたり傷ついたりすることがあるならば、天地と同根であり一切の存在と兄弟姉妹である自分の実相をわすれて、天地一切のものと自分の心とが不調和になったことの反映であるから、神は 「省みて和解せよ」 と教えられているのである。≫


 と、聖経 『真理の吟唱』 の第一 「新生を感謝する祈り」 にある。

 「天地一切のもの」 が神の愛と智慧と生命との顕現であるから、当然、放射線も神の愛と智慧と生命との顕現であり、私たちの味方であって、私たちを害するものなど何一つないのが実相であるのである。放射線を敵視したり恐怖したりするのは間違いである。

≪ すべて真実の実在は、神と神より出でたる物のみなり。神は完全にして、神の造り給いし全ての物も完全なり。……汝ら神の造り給わざるものを実在となすなかれ。在らざるものを悪夢に描きて恐怖すること勿れ。≫

  (聖経 『甘露の法雨』)

 である。恐怖すれば、枯尾花も幽霊の姿を現ずるのである。

 放射線は、簡単に言えば、光の仲間である。放射線を出す能力を 「放射能」 と言い、放射線を出す物質を 「放射性物質」 と言う。電灯にたとえれば、懐中電灯は「放射性物質」、「放射能」 は懐中電灯の光を出す能力、「放射線」 は懐中電灯の光ということになる。


 人類が 「放射線」 を発見した歴史を振り返り、放射線とは何かを、素人ながら、できるだけきちんと学び直そうと思います。

          ○

 かつては物質の究極の構成単位は原子(atom)であって、これは決して変化したり消えて無くなったりすることのないものだと考えられていた。

 しかし、19世紀末の1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルが放射能・放射線を発見し、ピエール・キュリー、マリ・キュリー夫妻がこれの研究に生涯を捧げたことによって、上記の固定観念は破られ、放射性元素(放射能を持つ元素)は核分裂を起こしエネルギーを持つ放射線を出しながら崩壊してより安定した別の元素に変化して行くことがわかった。

 マリ・キュリー(1867~1934、享年66歳。1903年ノーベル物理学賞、1911年ノーベル化学賞受賞)の苦難と栄光の生涯については、ウィキペディアの 「マリ・キュリー」 の項目に詳しく書かれている。私はこれを読んで幾度か涙を禁じ得ませんでした。


 1896年、アンリ・ベクレルはウラン化合物に日光を当てるとX線が発生することを証明するために、毎日実験を繰り返していた。あるとき、曇り空のため実験を中止し、ウラン鉱石を写真乾板と一緒に机の引き出しにしまう。数日後、引き出しを開けて見たら、日光に当てないのに乾板は黒く感光しており、乾板とウラン鉱石との間にあった金属製マルタ十字シンボルが偶然写り込んでいるのが見て取れた。ウランが発する放射線による感光だった。世紀の大発見はこんな偶然から生まれた。

 しかしその正体や原理は謎のまま、ベクレルは研究を放棄していた。これに目をつけたのがマリ・キュリーである。当時新しい論文のテーマを探していた彼女は、ベクレルの研究を論文のテーマに選んだ。

 1897年から1902年の間、マリは夫の物理学者ピエールと、パリの学校から与えられたボロボロの物置小屋で実験に明け暮れる。それは倉庫兼機械室を流用した暖房もない粗末なもので、訪問したある学者は 「ジャガイモ倉庫と家畜小屋を足して2で割ったようなもの」 といった。ここで、ウランを含むクズ鉱石を手作業で砕き、運び、さまざまな化学薬品を使って不純物を取り除く作業に2人で没頭した。

 それは放射性物質を含む大量の粉塵と有毒ガスにまみれての作業だったが、のちにマリーは当時を 「研究に没頭できてとても幸福だった」 と振り返っているという。

 放射能にまみれながら、マリ・キュリーはポロニウムとラジウムという新たな放射性元素を発見するが、ラジウムの発見は一筋縄ではいかなかった。劣悪な環境、経済的困窮、健康障害、度重なる不幸にもめげず、1トンのピッチブレンドという鉱石からわずか0.1グラムのラジウム塩化物が精製できるに過ぎない過酷な作業を続けた。

 有意な純粋ラジウム塩を得るまでに11トンものピッチブレンド鉱石を処理したという。

 1902年、キュリー夫妻は純粋ラジウム塩の発する青い光に感動した。

 当時の概念であった「元素は不変」という考え方に変革を迫り、原子物理学に一足飛びの進歩をもたらした。1903年、ノーベル物理学賞受賞。

 1900年にドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼルが、放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。早速ピエールはラジウムを腕に貼り付け、火傷のような損傷を確認した。医学教授らとの協同研究の結果、細胞を破壊する効果が確認され、皮膚疾患や悪性腫瘍を治療する可能性が示唆された。これは後にキュリー療法と呼ばれる。こうしてラジウムは 「妙薬」 として知られるようになった。

 当時のメディアはこぞって 「世紀の大発見」 ともてはやし、彼女の研究室には報道陣が殺到したという。


    放射能は 「夢の新薬」 だった


 光り輝く放射性物質は、人類に幸せをもたらす魔法の物質、夢の新薬のように喧伝され、さまざまな商品がつくられることになる。

 その狂騒ぶりを記す 『被曝の世紀』 (キャサリン・コーフィールド著、友清氏訳) には、数々の実例が挙がっている。コロンビア大学の薬学部長は、ラジウムを肥料にすれば 『味の良い穀物を大量につくれる』 と主張。薬剤師はウラン薬やラジウム薬を薬局の棚に並べ、また医師たちもラジウム注射のような放射性物質を使った治療法を次々と開発、糖尿病、胃潰瘍、結核、がんなど、あらゆる病に活用しようとした。

 ほかにも、膨大なラジウム関連商品が欧米で販売された。放射性歯磨き、放射性クリーム、放射性ヘアトニック、ラジウム・ウォーター、ラジウム入りチョコバーなどなど。「ラジウムはまったく毒性を持たない。天体が太陽光と調和するように、ラジウムは人体組織によく調和する」 ――これは当時の医学雑誌 『ラジウム』 (1916年) の一節。放射性物質の危険性に対する意識は、まったくのゼロだったのである。

 放射能を恐れていなかったという点では、キュリー夫妻やベクレルも同じだった。

 「ベクレルはマリからもらった塩化ラジウム入りのガラス管をいつもポケットに入れて持ち歩き、人に見せびらかしていた。彼はノーベル賞受賞から5年後に、被曝が原因といわれる心疾患により55歳で亡くなっている。キュリー夫妻も、発見当初はそれが人体に害をなすなど、思ってもいなかった。」

  (2018.1.24)


27 放射線は、神の愛の顕現である。放射線を怖がるな(3)


   
宇 宙 荘 厳 の 歌

        谷口雅春作詞
        栗林正晴作曲・編曲指揮

    
⇒合唱演奏


一、〈荘厳〉

   荘厳きわまりなき自然
   悠久きわまりなき宇宙
   立ちて仰げばあおぞらに
   銀河ながれて星無限

二、〈叡智〉

   かみの叡智はきわみなし
   かみのちからは限りなし
   星と星との空間を
   ひく糸もなくひく不思議

三、〈引力〉

   不可思議 不可知 科学者も
   なにゆえ万有引力が
   あるかをしらずただ神秘
   万有むすぶは神のあい

四、〈愛〉

   ああかみの愛かみの愛
   宇宙にみちて万有を
   むすびあわせて荘厳の
   宇宙いまここ顕現す

五、〈むすび〉

   もし愛なくば荘厳の
   宇宙げんぜず美しき
   人と人とのむつまじき
   むすびの世界あらわれず

六、〈いのち〉

   われらいのちの本源を
   神にみいだし神の子の
   愛のいのちを生きんかな
   神のいのちを生きんかな



          ○


 さて、私は今まで随分この 「放射線」 「原子力エネルギー」〈原発〉 の問題について書いてきました。それをここでちょっと振り返ってみたいと思います。

 まず、3年前の平成27年春、私は 『何処へ行く?「生長の家」――谷口雅宣総裁への公開質問と、わが魂の記録――』 というのを書いて本の形にしました。その 【質問3】 として、「原発は、絶対悪でしょうか?」 というのを書いています。青字のタイトルをクリックすれば、お読み頂けます。この質問に対しては、何のお返事も頂いていません。

 同年4月21日から、このウェブサイト 「みすまるの珠」 を開始しました。

 
(それからまもなく、生長の家理事長から <総裁へ 「岡は地方講師解任」 の提案をして承認された> という電話連絡が東京第一教区教化部長にあったと、私は教化部長から電話連絡を受けました。その後、文書での通知などは、何もありません。)

 それからこのウェブサイト 「みすまるの珠」 <近況心境> のページに、今までに原発の問題について書いたものを、まとめて(古い方を上に)並べ直してみました。ご覧ください。

 ⇒ 原子力を生かした新しい文化創造のために


  (2018.2.3)