「デンマルク国の話――信仰と樹木とをもって国を救いし話

                              内村鑑三 明治44<1911>年10月の講演録
  

 曠野(あれの)と湿潤(うるおい)なき地とは楽しみ、
 沙漠は歓びて番紅(さふらん)のごとくに咲(はなさ)かん、
 盛(さかん)に咲きて歓ばん、
 喜びかつ歌わん、
 レバノンの栄えはこれに与えられん、
 カルメルとシャロンの美(うるわ)しきとはこれに授けられん、
 彼らはエホバの栄えを見ん、
 我らの神の美しきを視ん。(イザヤ書35章1、2節)

 今日は少しこの世のことについてお話しいたそうとおもいます。
 デンマルクは欧州北部の一小邦であります。その面積は朝鮮と台湾とを除いた日本帝国の10分の1でありまして、わが北海道の半分に当たり、九州の一島に当たらない国であります。その人口は250万でありまして、日本の20分の1であります。実に取るに足りないような小国でありますが、しかしこの国について多くのおもしろい話があります。

(中略)

 今を去る40年前のデンマルクは最も憐れなる国でありました。1864年に独墺(ドイツ<プロイセン王国>とオーストリア)の二強国の圧迫するところとなり、その要求を拒みし結果、ついに開戦の不幸を見、デンマルク人は善く戦いましたが、しかし弱はもって強に勝つ能わず、デッペルの一戦に北軍敗れてふたたび起つ能わざるに至りました。デンマルクは和を乞いました、しかして敗北の賠償として独墺の二国に南部最良の二州スレスウィグとホルスタインを割譲しました。戦争はここに終わりを告げました。しかしデンマルクはこれがために窮困の極に達しました。もとより多くもない領土、しかもその最良の部分を持ち去られたのであります。いかにして国運を回復せんか、いかにして敗戦の大損害を償わんか、これこの時にあたりデンマルクの愛国者がその脳漿を絞って考えし問題でありました。国は小さく、民は少なく、しかして残りし土地に荒漠多しという状態でありました。国民の精力はかかるときに試さるるのであります。

 戦いは敗れ、国は削られ、国民の意気消沈し何事にも手のつかざるときに、かかるときに国民の真の価値は判明するのであります。戦勝国の戦後の経営はどんなつまらない政治家にもできます、国威宣揚にともなう事業の発展はどんなつまらない実業家にもできます、難いのは戦敗国の戦後の経営であります、国運衰退のときにおける事業の発展であります。戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民であります、宗教といい信仰といい、国運隆盛のときにはなんの必要もないものであります。しかしながら国に幽暗の臨みしときに精神の光が必要になるのであります。国の興ると亡ぶるとはこのときに定まるのであります。

 どんな国にもときには暗黒が臨みます。そのとき、これにうち勝つことのできる民が、その民が永久に栄ゆるのであります。あたかも疾病の襲うところとなりて人の健康がわかると同然であります。平常のときには弱い人も強い人と違いません。疾病にかかって弱い人は斃れて強い人は存(のこ)るのであります。そのごとく真に強い国は国難に遭遇して亡びないのであります。その兵は敗れ、その財は尽きてそのときなお起こるの精力を蓄えうるものであります。これはまことに国民の試練の時であります。このときに亡びないで、彼らは運命のいかんにかかわらず、永久に亡びないのであります。

 デンマルク人は戦いに敗れて家に還ってきました。還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。「今やデンマルクにとり悪しき日なり。」と彼らは相互に対して言いました。この挨拶に対して「否」と答えうる者は彼らの中に一人もありませんでした。

 しかるにここに彼らの中に一人の工兵士官がありました。彼の名をダルガス(Enrico Mylius Dalgas)といいまして、フランス種のデンマルク人でありました。彼の祖先は有名なるフーゲノット党(ユグノー=カルヴァン派プロテスタント教徒)の一人でありまして、彼らは1685年信仰自由のゆえをもって故国フランスを逐われ、あるいは英国に、あるいはオランダに、あるいはプロイセンに、またあるいはデンマルクに逃れ来たりし者でありました。フーゲノット党の人はいたるところに自由と熱信と勤勉とを運びました。英国においてはエリザベス女王のもとにその今や世界に冠たる製造業を起こしました。その他、オランダにおいて、ドイツにおいて、多くの有利的事業は彼らによって起こされました。旧き宗教を維持せんとするの結果、フランス国が失いし多くのものの中に、かの国にとり最大の損失と称すべきものはフーゲノット党の外国脱出でありました。しかして19世紀の末にあたって彼らはいまだなおその祖先の精神を失わなかったのであります。

 ダルガス、齢は今36歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を架し、道路を築き、溝を掘るの際、彼は細かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終わらざるに彼はすでに彼の胸中に故国回復の策を蓄えました。すなわちデンマルク国の欧州大陸に連なる部分にして、その領土の大部分を占むるユットランド(Jutland――ユラン半島北部)の荒漠を化してこれを沃饒の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。ゆえに戦い敗れて彼の同僚が絶望に圧せられてその故国に帰り来たりし時に、ダルガス一人はその面に微笑を湛えその首に希望の春を戴きました。

 「今やデンマルクにとり悪しき日なり。」と彼の同僚は言いました。「まことにしかり。」とダルガスは答えました。「しかしながらわれらは外に失いしところのものを内において取り返すを得べし、君らと余との生存中にわれらはユットランドの曠野を化して薔薇花咲く所となすを得べし。」と彼は続いて答えました。

 この工兵士官に預言者イザヤの精神がありました。彼の血管に流るるフーゲノット党の血はこの時にあたって彼をして平和の天使たらしめました。他人の失望するときに彼は失望しませんでした。彼は彼の国人が剣をもって失ったものを鋤をもって取り返さんとしました。今や敵国に対して復讐戦を計画するに非ず、鋤と鍬とをもって残る領土の曠漠と闘い、これを田園と化して敵に奪われしものを補わんとしました。まことにクリスチャンらしき計画ではありませんか。真正の平和主義者はかかる計画に出でなければなりません。

 しかしダルガスはただに預言者ではありませんでした。彼は単に夢想家ではありませんでした。工兵士官なる彼は、土木学者でありしと同時に、また地質学者であり植物学者でありました。彼はかくのごとくにして詩人でありしと同時にまた実際家でありました。彼は理想を実現するの術を知っておりました。かかる軍人を我々はときどき欧米の軍人の中に見るのであります。軍人といえば人を殺すの術にのみ長じている者であるとの思想は外国においては一般に行われておらないのであります。

 ユットランドはデンマルクの半分以上であります。しかしてその3分の1以上が不毛の地であったのであります。面積1万5千平方マイルのデンマルクにとりましては3千平方マイルの曠野は過大の廃物であります。これを化して良田沃野となして、外に失いしところのものを内にありて償わんとするのがそれがダルガスの夢であったのであります。しかしてこの夢を実現するにあたってダルガスの執るべき武器はただ二つでありました。その第一は水でありました。その第二は樹でありました。荒地に水をそそぐを得、これに樹を植えて植林の実を挙ぐるを得ば、それで事は成るのであります。

 事はいたって簡単でありました。しかし簡単ではあるが容易ではありませんでした。世に御し難いものとて人間の作った沙漠のごときはありません。もしユットランドの荒地がサハラの沙漠のごときものでありましたならば問題ははるかに容易であったのであります。天然の沙漠は水をさえこれにそそぐを得ばそれでじきに沃土となるのであります。しかし入間の無謀と怠慢とに成りし沙漠はこれを回復するにもっとも難いものであります。しかしてユットランドの荒地はこの種の荒地であったのであります。今より800前の昔にはそこに繁茂せる良き林がありました。しかして降って今より200年前まではところどころに樫の林を見ることができました。しかるに文明の進むと同時に人の欲心はますます増進し、彼らは土地より取るに急にしてこれに酬ゆるに緩でありましたゆえに、地は時を追うてますます清せ衰え、ついに40年前の憐むべき状態に立ち至ったのであります。しかし人間の強欲をもってするも地は永久に殺すことのできるものではありません。神と天然とが示すある適当の方法をもってしますれば、この最悪の状態においてある土地をも元始の沃饒に返すことができます。まことに詩人シルレルのいいしがごとく、天然には永久の希望あり、敗壊はこれをただ人の間においてのみ見るのであります。

 まず溝を穿ちて水を注ぎ、ヒースと称する荒野の植物を駆逐し、これに代うるに馬鈴薯ならびに牧草をもってするのであります。このことはさほどの困難ではありませんでした。しかし難中の難事は荒地に樹を植ゆることでありました、このことについてダルガスは非常の苦心をもって研究しました。植物界広しといえどもユットランドの荒地に適しそこに成育してレバノンの栄えを呈わす樹はあるやなしやと彼は研究に研究を重ねました。しかして彼の心に思い当たりましたのはノルウェー産の樅(もみ)でありました、これはユットランドの荒地に成育すべき樹であることはわかりました。しかしながら実際これを試験してみますると、思うとおりにはいきません。樅は生えは生えまするが数年ならずして枯れてしまいます。ユットランドの荒地は今やこの強梗なる樹木をさえ養うに足るの養分を存しませんでした。

 しかしダルガスの熱心はこれがためにくじけませんでした。彼は天然はまた彼にこの難問題をも解決してくれることと確信しました。ゆえに彼はさらに研究を続けました。しかして彼の頭脳にフト浮かび出ましたことはアルプス産の小樅(こもみ)でありました。もしこれを移植したらばいかんと彼は思いました。しかしてこれを取りきたりてノルウェー産の樅の間に植えましたときに、奇なるかな、両種の楼は相ならんで生長し、年を経るも枯れなかったのであります。ここにおいて大問題は釈けました。ユットランドの荒野に始めて緑の野を見ることができました。緑は希望の色であります。ダルガスの希望、デンマルクの希望、その民250万の希望は実際に現れました。

 しかし問題はいまだ全く釈けませんでした。緑の野はできましたが、緑の林はできませんでした。ユットランドの荒地より建築用の木林をも伐り得んとのダルガスの野心的欲望は事実となりて現れませんでした。樅(もみ)はある程度まで成長して、それで成長を止めました、その枯死はアルプス産の小樅の併植をもって防ぎ得ましたけれども、その永久の成長はこれによって成就られませんでした。「ダルガスよ、汝の預言せし材木を与えよ。」と言いてデンマルクの農夫らは彼に迫りました。あたかもエジプトより遁れ出でしイスラエルの民が一部の失敗のゆえをもってモーセを責めたと同然でありました。しかし神はモーセの祈願を聴きたまいしがごとくにダルガスの心の叫びをも聴きたまいました。黙示は今度は彼に臨まずして彼の子に臨みました、彼の長男をフレデリック・ダルガスといいました。彼は父の質を受けて善き植物学者でありました。彼は樅の成長について大なる発見をなしました。

 若きダルガスは言いました、大樅(おおもみ)がある程度以上に成長しないのは小樅をいつまでも大樅のそばに生やしておくからである。もしある時期に達して小樅を切り払ってしまうならば大樅は独り土地を占領してその成長を続けるであろうと。しかして若きダルガスのこの言を実際に試してみましたところが実にそのとおりでありました。小樅はある程度まで大樅の成長を促すの能力をもっております。しかしその程度に達すればかえってこれを妨ぐるものである、との奇態なる植物学上の事実が、ダルガス父子によって発見せられたのであります。

 しかもこの発見はデンマルク国の開発にとりては実に絶大なる発見でありました、これによってユットランドの荒地挽回の難問題は解釈されたのであります。これよりして各地に欝蒼たる樅の林を見るに至りました。1960年においてはユットランドの山林はわずかに15万7千工ークル(エーカー)に過ぎませんでしたが、47年後の1907年に至りましては47万6千工ークルの多きに達しました。しかしこれなお全州面積の7分2厘に過ぎません。さらにダルガスの方法にしたがい植林を継続いたしますならば数十年の後にはかの地に数百万エークルの緑林を見るに至るのでありましょう。実に多望と謂(いい)つべしであります。

 しかし植林の効果は単に木材の収穫に止まりません。第一にその善き感化を蒙りたるものはユットランドの気候でありました。樹木のなき土地は熱しやすくして冷めやすくあります。ゆえにダルガスの植林以前においてはユットランドの夏は昼は非常に暑くして、夜はときに霜を見ました。四六時中に熱帯の暑気と初冬の霜を見ることでありますれば、植生は堪ったものでありません。その時にあたってユットランドの農夫が収穫成功の希望をもって種ゆるを得し植物は馬鈴薯、黒麦、その他少数のものに過ぎませんでした。しかし植林成功後のかの地の農業は一変しました。

 夏期の降霜は全く止みました。今や小麦なり、砂糖大根なり、北欧産の穀類または野菜にして、成熟せざるものなきに至りました。ユットランドは大樅の林の繁茂のゆえをもって良き田園と化しました。木材を与えられし上に善き気候を与えられました、植ゆべきはまことに樹であります。

 しかし植林の善き感化はこれに止まりませんでした。樹木の繁茂は海岸より吹き送らるる砂塵の荒廃を止めました。北海沿岸特有の砂丘は海岸近くにくい止められました、樅は根を地に張りて襲いくる砂塵に対していいました、
  ここまでは来るを得べし
  しかしここを越ゆべからず
と(「ヨブ記」38の11)。北海に浜する国にとりては敵国の艦隊よりも恐るべき砂丘は、戦闘艦ならずして緑の樅の林をもって、ここにみごとに撃退されたのであります。

 霜は消え砂は去り、その上に第三に洪水の害は除かれたのであります。これいずこの国においても植林の結果としてじきに現るるものであります。もちろん海抜六百尺をもって最高点となすユットランドにおいてはわが邦のごとき山国におけるごとく洪水の害を見ることはありません。しかしその比較的に少なきこの害すらダルガスの事業によって除かれたのであります。

 かくのごとくにしてユットランドの全州は一変しました。廃りし市邑は再び起こりました。新たに町村は設けられました。地価は非常に騰貴しました、ある所においては四十年前の百五十倍に達しました。道路と鉄道とは樅横に築かれました。わが四国全島にさらに一千方マイルを加えたるユットランドは復活しました、戦争によって失いしスレスウィグとホルスタインとは今日すでに償われてなお余りあるとのことであります。

 しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、畜類よりも、さらに貴きものは国民の精神であります。デンマルク人の精神はダルガス植林成功の結果としてここに一変したのであります。失望せる彼らはここに希望を回復しました、彼らは国を削られてさらに新たに良き国を得たのであります。しかも他人の国を奪ったのではありません。己の国を改造したのであります。自由宗教より来る熱誠と忍耐と、これに加うるに大樅、小樅の不思議なる能力とによりて、彼らの荒れたる国を挽回したのであります。

 ダルガスの他の事業について私は今ここに語るの時をもちません。彼はいかにして砂地を田園に化せしか、いかにして沼地の水を排いしか、いかにして磽地(いしぢ)を拓いて果園を作りしか、これ植林に劣らぬおもしろき物語であります。これらの問題に興味を有せらるる諸君はじかに私についてお尋ねを願います。
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 今、ここにお話しいたしましたデンマルクの話は私どもに何を教えますか。

 第一に戦敗必ずしも不幸にあらざることを教えます。国は戦争に負けても亡びません。実に戦争に勝って亡びた国は歴史上決して少なくないのであります。国の興亡は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません。否、その正反対が事実であります。牢固たる精神ありて戦敗はかえって善き刺激となりて不幸の民を興します。デンマルクは実にその善き実例であります。

 第二は天然の無限的生産力を示します。富は大陸にもあります、島嗅にもあります。沃野にもあります、沙漠にもあります。大陸の主必ずしも富者ではありません。小島の所有者必ずしも貧者ではありません。善くこれを開発すれば小島も能く大陸に勝るの産を産するのであります。ゆえに国の小なるは決して嘆くに足りません。これに対して国の大なるは決して誇るに足りません。富は有利化されたるエネルギー(力)であります。しかしてエネルギーは太陽の光線にもあります。海の波濤にもあります。吹く風にもあります。噴火する火山にもあります。もしこれを利用するを得ますれば、これらはみなことごとく富源であります。必ずしも英国のごとく世界の陸面六分の一の持ち主となるの必要はありません。デンマルクで足ります。しかり、それよりも小なる国で足ります。外に拡がらんとするよりは内を開発すべきであります。

 第三に信仰の実力を示します。国の実力は軍隊ではありません、軍艦ではありません。はたまた金ではありません、銀ではありません、信仰であります。このことに関しましてはマハン大佐もいまだ真理を語りません、アダム・スミス、J・S・ミルもいまだ真理を語りません。このことに関して真理を語ったものはやはり旧い『聖書』であります。

  もし芥種のごとき信仰あらば、この山に移りてここよりかしこに移れと
  命(い)うとも、必ず移らん、また汝らに能わざることなかるべし

とイエスはいいたまいました(「マタイ伝」17の20)。また

  おおよそ神によりて生まるる者は世に勝つ、
  我らをして世に勝たしむるものは我らの信なり

 と聖ヨハネはいいました(「ヨハネ第一書」5の4)。世に勝つの力、地を征服する力はやはり信仰であります。フーゲノット党の信仰はその一人をもって鋤(すき)と樅樹(もみのき)とをもってデンマルク国を救いました。

 よしまたダルガス一人に信仰がありましてもデンマルク人全体に信仰がありませんでしたならば、彼の事業も無効に終わったのであります。この人あり、この民あり、フランスより輸入されたる自由信仰あり、デンマルク自生の自由信仰ありて、この偉業が成ったのであります。

 宗教、信仰、経済に関係なしと唱うる者は誰でありますか。宗教は詩人と愚人とに佳くして実際家と智者に要なしなどと唱うる人は、歴史も哲学も経済も何にも知らない人であります。国にもしかかる「愚かなる智者」のみありて、ダルガスのごとき「智(さと)き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の非運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。国家の大危険にして信仰を嘲り、これを無用視するがごときことはありません。私が今日ここにお話しいたしましたデンマルクとダルガスとに関する事柄は大いに軽佻浮薄の経世家を警(いまし)むべきであります。